Send your message to lettertoyuko@gmail.com


Thursday, December 31, 2009

大晦日。

今年がもうすぐ終わってしまう。
優子のこととは別に、「終わり」には感傷的になってしまう。
息子たちはお笑いバカ番組を、娘は紅白を観ている。

僕も小学生のころは家族と一緒に紅白を観ていた。
中学か高校くらいになり、その構図に収まるのが何となくイヤになり、自室でひとり過ごすか、友だちと年越し山手線一周歩きなんかやったこともあったよな。
この一年は何だったんだろう?
若い頃は、よくそんな事も考えた。
ここ何年かは、大晦日の夕食としてなぜか手巻きずしが定着していた。
優子とスパークリング・ワインを傾け、「今年もお疲れさまでした!!」
紅白を見ながらワインをちびちび飲んでいるうちに、番組が終わる前にダウンして、優子が用意した年越しソバを食べそこなったり。

今年の夕食は、年越しソバだけで軽く済ませたので、まだワインは飲んでいない。
この一年は何だったんだろう?
それを考えようかな?
それとも、酒飲んで寝ちゃおうかな?

Tikiさん、もう十分考えたでしょう。もう、今日は寝たら?
あまり無理しないでよ。

そうだよな。この一年、そのことしか考えていなかったもの。
でも、どれほどこのブログに救われたことか!
今まで読み返す気がしなかった初期の記事を拾い読みしてみた。
優子の死後3日後から、よくこんなに書けたよな。
迫りくる圧倒的な感情を、ブログにぶつけ、言語化・外在化した。
気持ちを書き出し、掻き出していた。
それだけなら日記と同じだが、読んでくれる人が共感し、言葉を返してくれる。ブログへ直接コメントしてくれたり、手紙やメール、あるいは会ったときに「Tikiさん、読んだよ!」と何げない一言をくれる。
その言葉をタイプして、大事に持ち歩いているんですよ。電車の中とか、スタバとか、気持ちが詰まってきたら、その紙を見て、返事をメモするんです。帰って来てから、それを清書してブログにアップします。11月に喪中の挨拶を送ってから、さらに沢山の方々に支えられています。
深い感情を表現し、それを信頼できる他者が受け止めてくれる。これはまさにtherapyの基本なんだ。Blog Therapy。新たな分野を開拓できたかもしれない!
みなさんのおかげで、何とかこの一年、生きながらえることができました。
みなさんがいなかったら、多分ツブれていたでしょう!

さあ、これで今年はお仕舞いにしよう。あとは風呂に入って、酒飲んで寝よう。
明日の元日は、子どもたちとお墓参りに行くからな。待ってろよ、優子!

Wednesday, December 30, 2009

Genuine SADNESS

Dear Tiki,

I'm not sure whether you have Xmas holiday in Japan but the holiday seasons let me think constantly about you and the children. How you all are doing? Do you still write about your loss in your blog? What did you write recently? Which kind of emotions do you carry now as a result of the loss?

Dear Khawla,

Thank you for remembering me and my children. We are all fine. We do have Christmas holiday, but it is rather commercial than religious. New Year’s Day is the main holiday of the year here. Our works/schools are all off for a week, so it is a holiday season anyway.

Yes, I am still actively writing my blog. A few of the article in English, but most of them in Japanese. In fact, I will put this one on the blog as well. I am recently writing more in winter than the previous summer time. We had our wedding anniversary in October, Yuko’s birthday in November, national holidays in December/January and the deceased anniversary very soon. I have more emotions to write in the last couple of months.

I feel my sadness stays basically the same over the year, but its quality has changed a lot. It was like fresh blood bleeding, and I was afraid of being depressed or out of control last time I saw you in February. But now the scar seems to be covered with new skin on the surface. It looks superficially OK, but is still covertly bleeding inside.

I suppose I have done a pretty good job managing my emotions and our daily lives. My parents who live downstairs gave us an instrumental support of laundry and cooking. I gave enough sense of security to my three children, who are doing fine at home and their schools. My professional life is functioning as well. I reduced the amount of workload to concentrate the most important ones, but still some new projects came, which are very rewarding and satisfying. I got a new book published in November too. So my EMOTION is the only aspect of life that I still need to work through. I do not self blame like regretting I should have done this and that for Yuko. I do not have anger to Yuko or anybody.

It is a genuine SADNESS that I am still struggling. In a way it should be easier to handle only one kind of emotion than the complex of many emotions like sadness, regret, self-blaming, and anger. I still keep Yuko alive in mind. I am not ready to release her to at all. Yesterday I was waiting at a foyer with my children for the movie to start. I felt like I was waiting for Yuko to come back from the restroom. They are this kind of tiny daily moments that I realize the loss and feel the pain of sadness.

I will have an anniversary ceremony on this coming Sunday, Jan 3rd. Hundreds of people came for her funeral in last January. But this time I have only invited less than 20 people who were really close to Yuko in schools, workplaces and neighborhood. We will have a solid and calm moment together by each of us talk about Yuko in our minds. I hope this event gives us a chance to move forward and soon be ready to release her into the sky.

Do I answer your questions? It gives me a good chance to reflect my emotions. Look forward to seeing you in Buenos Aires in March.

Dear Tiki,

Thanks for sharing your emotions and things going in your life.

I believe that you used your tacit knowledge from the profession in a good way from the first moment to face Yuko's death. Yes morning is a painful process, never ending regardless time and therapy. Years show that it is possible to live the life without the deceased but everything after that trauma will be different. We enter into the morning process with the notion of reliving the memory of the died not to forget and omit the presence from the daily life.

Sadness is the most "normal" feeling coming after lose. Don't try to fight it! I guess that when you feel sad you feel connected to Yuko where ever she is now. I wish that the anniversary celebration will give comfort to you as well as to her soul.

らいほうさんの場所

優子
去年も今年も、ぜんぜん変わってないよ。
28日に仕事を終え、29日は子どもたちの分担も決め、家族みんなで大掃除。
今年は優子がサボった分、居間のワックスがけはできなかったけど。
今日は、午前中に僕だけ大掃除の続き。午後はさすがに疲れたね。ちょっと気分転換しよう。
「楽しくやれそうな気がするサイクリングで多摩川土手をかっこよく走りたい!」
「じゃあ、都内をちょっと走るか!?」
2人で品川駅港南口のアトレまでやってきた。旧東海道の街並みを30分ほどポタリング。僕のいつものペースよりはちょっと落としたけど、優子もちゃんと付いてこれたじゃん!

4階のニューヨーク風にアレンジされた気分の良いopen cafe。
去年の今日、優子とふたりで来た同じ場所にいるよ。
以来、何度か大切な友だちとのmeeting pointに使っているんだ。交通の便も良いし、家からも近いし。
でも、今日はひとりで来たよ。
軽く運動した後の温かいカプチーノは美味しい。
こうして優子と向き合うと、気持ちが落ち着くんだ。
去年は、現物の優子と向き合えた。そんなに話すこともなかったけどね。でも、子どもたちを家に残し、2人でサイクリング・デートできたじゃん!
今年は、モンブランの万年筆を手に、心の中の優子に向き合っているよ。
僕にとって、ここは大切ならいほうさんの場所になっちゃった。

勇気の源

二十年くらい前、タクシーでご一緒した時、Tikiが私に
「僕には夢があるんだ。優子と子どもたちに囲まれて暮らす夢が。でもそれは無理な叶わない夢なんだ。」と。
その時に、優子さんに心臓の病があると初めてお聞きしました。
その後、毎年の年賀状に三人のお子さんに囲まれ幸せなTikiの暮らしに、よもやそんな出来事が起ころうとは夢にも思っていませんでした。

そんなこと言ったっけ?
よく覚えているね。僕はぜんぜん覚えてないけど。
言ったとすれば、心臓の手術の前後だったんじゃないかな。
心冠状動脈のバイパス術。心臓を一時止め、人工心肺を回す、そりゃあ大がかりな手術だったよ。その時は優子の健康をとりもどすことが精いっぱいで、とても出産を考える余裕なんてなかった。でも、不思議と危機感や不安はなかった。意味もなく、現代医学を信頼していた。僕がしっかりしないと、優子を不安がらせてはいけない。あえて、不安を除外視していたのかもしれない。
その後、優子は驚異的に回復した。といっても、それが驚異とは思わず、当然と思っていたのだけど。退院した翌月に僕が渡英し、2ヶ月遅れて優子もロンドンに来た。
病気のことを考えている余裕もないほど、僕らはexcitingな結婚生活をスタートさせたんだ。

東京での1回目の手術の翌年、渡英したロンドンで二度目の手術をした。今度は、胸を開かず、足の動脈からカテーテルを入れ、狭くなった動脈に補強壁を埋め込むステント手術だった。当時、この手術はまだ始まったばかりの最先端医療で、日本ではまだ受けられなかったんじゃないかな。英国の医療制度NHS(National Health Service)は、税金を払っていない外国人でも受けられる全額無料のシステム。通常、とても待たされるのだけど、なぜか優子は待たずに迅速に手術を受けられた。結果は良好。その後、健康を取り戻した。とてもラッキーだった、、、ことさえ気がつかなかった。
その後、亡くなるまで20年間、優子は薬を服用し、定期的に心臓内科の検診は受けていたが、2-3ヶ月に一度、主治医とお茶飲み話をする雰囲気で、私は全く優子の健康を心配していなかった。

3人もの子どもたちと優子に囲まれた暮らし。夢は叶ったんだよ!
毎年書いていた年賀状のとおりね。
でも、それが突然終わっちゃったんだ。まだ完結していない、乳幼児期という前半は終えたけど、思春期という後半に入ったばかりだった。
子どもという夢の他にも、優子は自分自身の夢もあっただろうに。

私は療育という現場で、1歳から6歳までの母と子と共に日々過ごしています。重度の障害を抱えながら生き、死にも出会います。日常の普通に笑顔でいられることや家族の存在が本当に宝であること。その宝を大切にし感謝して生きられること。それらが現世に姿はなくとも、それらを支え守っている人々の存在。そんなことを感じながら生きています。

私は5年前、乳がんの手術をしてから、死を身近に感じるようになりました。毎日生きている喜び、仕事ができる喜び、人と交流できる喜びを味わっています。生がいつ終わっても自然に受け入れられるような気がします。お若い時に心臓の手術をされたということで、奥様の心境もこれに近いものだったかと想像してしまいました。素晴らしい生を送られたと思います。

僕にとって、優子の死は遠かった。
でも優子はいつも自分の死と向き合っていたのかもしれない。手術の後も、何度か心臓の調子がおかしくなり、救急車で運ばれたり、検査で短い期間入院したことがあった。じんの妊娠中も、多分微小な梗塞が起きたと思うんだ。妊娠の継続は危ぶまれたけど、主治医のサポートで見事出産したんだよね。僕にとって、優子の病気は乗り越えられるものと勝手に思い込んでいた。でも優子はそうは思っていなかったんだろ!?
お母さんには、ふと弱気になる自分を見せたみたい。でも、僕や子どもたちには決してそんなそぶりを見せなかった。
「Tikiと一緒になって、本当に良かったと思ってるのよ」
亡くなる1か月前、何の脈絡もなく出てきた優子の言葉。僕にしてみれば、とっさに何も答えられず後悔する瞬間だ。優子にしてみれば、自分のいのちをいつも意識していたのかもしれない。ねえ、そうなんだろ、空の優子?
だから、優子はがんばれたのかな。ずいぶん、がんばっていたもんね。

僕だってそうなのかもしれない。祖母の死に向き合った原体験が、いつもどこかで自己の死に向き合わせている。
いのちの有限性という恐怖を乗り越えるには、生を思いっきり全うするしかないもんなあ。

子どもたちも、母親の死と強烈に向き合った。そのことは、彼らの生に、多大な影響を与えているはずだよね。当初は、トラウマ症状というnegativeな影響を心配したけど、それは大丈夫そうだ。とすれば、優子や僕がそうだったように、自己と向き合い、がんばる原動力になれるかな?
子どもたちに聞いても、まだ答えられないだろうな。大きくなったら聞いてみよう。

Tikiのブログからはすごいpowerを感じます。それはきっと優子さんという支えがあるからなのでしょうね。時々ブログをのぞいて私の勇気とパワーの源にさせてください。

けっこう、多くの人がそう言ってくれるんだよね。
なぜかなあ?
悲しみを乗り越えるには、避けずに、向き合うしかないんだと思う。
僕の悲しみが、みんなの勇気になり、そういうみんなの存在が、僕の勇気になる。
Negativeからスタートしたのに、positiveなスパイラルを協働できるのは素晴らしいことかもしれないね。

追伸
TIkiのブログに何となく気になる一言がありました。
「今までの2人分の愛情を、これから私一人ががんばって与えなくては・・・」
私は、仕事がら人の死に出会うのは多い方です。そこでいつも思うのは、実体は現世になくても、魂は永遠に愛する人のそばにあるということ。本当に感じます。そしてこの世の私たちを守ってくれていると。だから「Tikiひとりでがんばる」なんて言わず、肩の力を抜いて、今までどおりのTikiでいてくださいね。

そうだよねえ。もっとリラックスしていても構わないんだよね。
不安だと、つい肩に力が入っちゃうんだ。スピードを恐れるドライバーやスキーヤーみたいにね。
子どもたちへ、愛情の押し付け・関わり過ぎに注意するよ。

Tuesday, December 29, 2009

カールじいさん


昨日で年内の仕事を終え、今日から1週間のオフ。土日もお盆休みもないちゅけの班活も1月3日までお休み。今回は恒例の家族旅行もせず、家でたっぷり子どもたちと過ごそう!

午前中はみんなで大掃除。ちゅけがお風呂、祐馬が窓ガラス、じんが玄関、僕が台所を担当。見違えるようになったよ。カビキラーで、黒ずんでいたタイルの目地も真っ白。お風呂が気持ちいいぞ、ちゅけ!

午後は、祐馬と友だち、3人でカールじいさんを観た。
息子たちは、既にアバターを2人で観に行ったんだ。
上映までロビーで待っていると、ふと優子がトイレから戻って来そうな気がする。
「パパったら、あんなシーンでも泣くんだから!」
祐馬に叱られた。
「だって、パパもカールじいさんと同じだもん!」
優子と暮らした家に子どもたちを載せて、やっと多くの風船の力で冒険に旅立とうとしているんだ。
優子と約束した冒険とは、、、?
退職後の世界一周客船旅行?
そんなことより、3人の子どもたちだよ。彼らが無事に成長し、大人になること。それが、僕らの共同作業だったんだ。伝説の滝にたどり着くまでは、優子の面影は捨てられそうにない。

夜は、一日遅れの、じんの誕生日。チョコレート・ケーキに11本のキャンドルを立て、6人でにぎやかに祝った。

Thursday, December 24, 2009

大家さん、語り過ぎ!


大家さん、やりすぎ。語り過ぎ。
初めの頃なんか辛すぎて、ブログ読めなかったわよ!!

癒しMLの仲間2人と会ってきた。
1997年に、インターネット上に癒しのメーリングリストを立ち上げた。
「癒されたい」人が自由に参加して、ネット上で何でも話し合い、交流します。最盛期には300人ほどが参加し、活発な交流がありました。その一部を本にもしました。
でも、共感し合う自助グループ的なプラス効果の一方で、傷つけあうマイナス面もあり、活動自体は挫折し、本もとっくに絶版になりました。
しかし、ネット上での心理支援という考え方はその後、ひきこもりサポートネットや、若ナビという形で私の中で発展しつづけています。
ネットで集った仲間たちの何人かは、解散した後も交流を続けています。
彼らの共通点は、
  1. 癒したい、癒されたいという動機を持ち、
  2. インターネットを闊達に利用しているということ。
mixiなどで交流が続いているみたい。
優子を亡くした時もいち早く連絡が回り、お葬式にも来てくれた。

大家さん、何かできる事があったら言って!

MLを主催した時、私が大家(=癒す側)で、「癒されたい」店子のために場所を提供していたつもり。
今回それが逆転し、僕が癒される側。みんな強力にサポートしてくれる。

それじゃあ、お願いしちゃおうかな。
二日間の会葬者名簿をエクセルに落としてもらった。600名以上の名簿を、すごい作業効率で打ち込んでくれた。まだ、そのお礼がちゃんと済んでなかったんだよね。ブルターニュ地方の美味しいクレープで、やっと少しお礼できた。
ネット上の癒し活動が得意な彼らは、僕のブログもきっちりフォローしてくれている。

大家さん、やりすぎ。語り過ぎ。
初めの頃なんか辛すぎて、ブログ読めなかったわよ!!

そうだよねえ。
この一年間、それしかできなかったもん。
授業や講演・研修、診療、原稿書きなど仕事面でも、子どもたちと関わる家庭生活も、僕の根底に生き続ける優子への面影の上に乗っかっていることをちゃんと意識していないと、ずれ落ちちゃうんだよな。

しぶといぞ、優子!いいかげんに僕を放してくれよ!!
テニスするのも、悲哀のため。
仲間と酒を飲むのも悲哀のため。
だからといって、パフォーマンスが落ちているわけでもなかったよ。ちゃんと仕事も、父親役割もこなしてきたつもりだけど。

そういえば、1月に職場の同僚(私と同様、10年前に妻を亡くした心理学者)がこんなメールをくれたよ。

ブログから受けた第一の印象は、Tikiさんの強さです。
私からすると強すぎます。「精神科医として」立派に今回の事態に対処しようとしすぎているのではないかと、心配です。どうぞ、無理をなさらないでください。

そう。
やりすぎ、痛々しい、無理してるように見えるよね。
僕も始めは自分自身そう思いました。うつに突入するのが怖いから、強迫的に喪の作業を進めようとしてセーブできなくなっているって。
でも、1年間過ごしてみて、結局これが僕のスタイルだったとわかったよ。
今だってやり過ぎているもの。
涙がたまりそうになると、すぐに遠心分離器にかけて、絞り出してまわりにまき散らしているみたい。悲しみのツイッターでも始めてみようかな。

yumiさん、ワッカさん、ありがとう!
ブログネタがなくなるまで、見守っていてね。

Monday, December 21, 2009

小学1年生

想起すれば40年近くなりますでしょうか。
優子さんとは、小学校へ入学した1年生の時、学級担任として1年間過ごさせて頂きました。優子さんのお兄さんの学級担任もして、家庭訪問時にお目にかかったように記憶しております。お二人とも1年間という短い期間でしたが、学力優秀で大変活発で、クラスのリーダーとして、大いに活躍してくれました。
立派なご主人、そして個性豊かで、これから活躍されるでしょう3人のお子様に恵まれた優子さんは、ほんとうに幸せでしたでしょう。
毎年の賀状に、いつもご家族のことをとても楽しく語られておられました。足速にこの世を去ったことが、残念でたまりません。これから実践したいことなど多くあったでしょうに・・・・
かし

40年前に1年間担任をして頂いた優子の事を、これほど鮮明に記憶に残していらっしゃることに感銘しました。教師と子どもとの絆はとても強いのですね。大学では、そこまでの絆を学生と結ぶことはありません。私自身も小・中・高校を振り返ると、卒業と同時に忘れ去る教師がいる一方で、いまだに何人かの先生と交流を続けています。そのような方々は、遠くから見守っていてくれる人生の宝です。ふだんはその存在を意識せずとも、賀状であったり、今回のような悲しみ・喜びなどの人生の節目に大切な役割を果たします。
 ご丁寧なお手紙を拝見しながら、私の心の中に居続ける優子を安らかによみがえらせることができます。優子は先生にお世話になった後、小学2年生から3年半、家族とともにSan Fransiscoに滞在しました。当初は学校で全くしゃべりませんでしたが、数ヵ月後に突然しゃべり始めた時は、完璧なnatural Englishだったそうです。子どもの言語能力の発達は面白いですね。年齢が早すぎれば、すぐに覚えて、すぐに忘れる。遅いと、もう完全には獲得できません。私は1年間の高校留学を通して、それなりに習得できたものの、とても優子の卓越した英語力にはかないません。優子はちょうど良い時期に英語環境で過ごしました。
 優子は兄ととても仲良く、いつも後をくっついていたそうです。それは子ども時代のみならず、青年期も続いていたようです。お兄さんの才能は素晴らしく、高校も大学も仕事も常にNo. 1の道を選ぶ能力をお持ちでした。優子は兄を追っても同じ道は叶わず、高校・大学・就職と、No.2に甘んじてきました。私からみれば十分すぎるほどの能力を持ちながらも、自分を受け入れられず、悩んでいたように思います。
でも、結婚6年目に母親になってから、ずいぶんと変わり、家庭でも社会でも、胸を張って生きるようになりました。

幸せな人生?

告別式でピンクを基調としたお花に囲まれた優子さんを、信じられない混乱した気持ちでお見送りをしてから、春、夏、秋。季節が巡り11ヶ月経った今でも心のどこかで事実を受け入れられない自分がいます。
大学での4年間、優子さんはいつも穏やかな微笑みを浮かべ、ソフトなお顔でいながら、芯の通った頼もしい存在でした。流暢なアメリカ英語を話し、参加なさっていた日米学生会議のお話も聞かせていただきました。豪華な結婚式にもご招待いただき、感動的な美しい花嫁姿の優子さんの笑顔はとびっきり輝いて見えました。
3人のお子さんに恵まれ、そのたびに産休後お仕事に復帰なさってすごいなーと思っていました。ランチにお誘いしたところ、お手製のおいしいフルーツケーキを焼いて持ってきて下さいました。いろいろおしゃべりして楽しいお昼を過ごしました。
その時、勤務がフル5日ではないので、通訳の勉強を始めたと聞いて、主婦業、3人のお子さんの育児、お仕事それに加えて勉強とはなんというsuper lady!!と常に前を向いて進むパワーに圧倒されました。
その後、お宅にお招きいただき、ご主人手作りのベーコンとpizzaをごちそうになった際(すごくおいしかったです!!)、優しいご主人とかわいいお子さんたちに囲まれ、にぎやかで楽しいご家庭で、優子さんはほんとうに幸せな結婚をなさっていたことがよくわかりました。甘えてぺたっと抱きついたじんちゃんを優しく抱っこしていた優子さんはそれは穏やかな表情でした。
優子さんのそのふんわりした穏やかな笑顔とソフトな声を見たり聞けないのは本当に悲しいですが、優子さんは他の人より何倍も密度の濃い充実した幸せな人生を送って来られて、美しい雪山で最愛のご主人の腕の中で苦しむことなく旅立って風になられたのですね。

確かに優子はふんわり、ポッチャリしてましたね(笑)。
それでいて考えていることは結構鋭かったり。私もその雰囲気に惹かれたのだと思います。
日米学生会議は兄に続いて優子が大学2年生の時に参加しました。夏の4週間の会議に向けて、春ころから準備をします。その後、参加した数名が実行委員として残り、翌年の会議を企画・運営します。私が参加したのは優子が実行委員をしていた2年目の会議でした。日本側4名、アメリカ側4名、計8名の学生でグループとなり、4週間、ひとつのテーマを追います。我々のテーマはComparative Culture(比較文化)。学部3年の優子にとって、私のような6歳年上の院生メンバーは、さぞかしやりにくかったでしょう。

私から見ると、結婚当初の優子は、ぜんぜんsuper ladyではありませんでした。まだ実家の母親や兄から十分自立していない部分を抱え、自分のことや人との関係に悩んでいました。
20代の優子、30代前半の私は、まだまだ発達途上で、いろいろ試して、あちこちにぶつかりながら成長を続けていたと思います。優子も私も、3人の子どもたちの親になり、だいぶ変わったと思います。優子は母親として、自信を持って子どもたちに愛情を注いでいました。成熟した大人としての本当の自分に目覚めたように見えました。
それとともに、仕事もずいぶんがんばっていたと思います。子育てに専念する間は、仕事を辞めるという選択肢もあったのですが、勤務時間を短縮できる職場だったので、あえて続ける道を選びました。私も賛成でした。
優子がお世話になった3つの職場は、色々な意味で恵まれていました。しかし、組織の中のひとりに過ぎず、本当にやりたい仕事なのか、優子もいろいろ考えていたようです。結局、優子の原点は幼い頃のアメリカ生活だったようです(それは私自身にとっても同様です)。好きで、得意な英語を使うことが一番やりがいを感じ、自分の能力を発揮できたのだと思います。子どもたちが小学校に入り、子育てに余裕ができ始めた頃から、通訳の勉強を始めました。プロの通訳になるためには、いくつものハードルがあるようです。優子はずいぶん勉強熱心でした。受験生じゃないんだからそんなに几帳面にやらなくてもよいのにと、いい加減な私は傍で見ていましたが、単語ノートを作り、自分の訳を録音テープ吹き込み、を何度も繰り返し聞いていました。その成果が形となって現れ、ハードルを越えてゆくのが楽しかったのでしょう。エージェントの専属通訳者となり、さまざまな会議やミーティングに出かけていました。多忙な生活、家の中は散らかり放題でしたが、優子はやり甲斐を得ていたようでした。
通訳者の世界は能力主義、とても厳しいようです。優子はBクラス。そこまで達成しただけでも、私から見ればきっとものすごいことなのでしょう。でも、よく仕事の愚痴をこぼしていました。
私、また失敗しちゃった。ペアになった相方のAクラスの通訳者はすごい!どうやったらあんな風になれるんだろう?
そりゃあ、5年、10年選手と比較しては大変だよ。経験がものを言うんじゃない?
もう何年かしたら、私もAクラスになりたい。
そんな目指す夢を優子は抱いていたし、そこまで登る自信を密かに抱いていたのでしょう。
心臓が悪い優子は、家族と仲間で行く山登りではいつもへたっていました。
でも、へたららずにグイグイ登ってゆける得意な山を、ここ3-4年で、ようやく見つけたようでした。

人生登山

私は登山が好きなんですよ。高校時代、山岳部だったから。

何のために、山に登るんでしょう?そんなこと分からないまま、気がついたら山登りを始めています。歩き始めから稜線までのアプローチが一番辛いんですよ。樹林で見通しがきかず、黙々と少しずつ高度を上げてゆきます。樹林帯を抜け稜線に乗れば、急に見通しが開けます。目指す頂を先に眺めれば、やっと登山の楽しみが見えてきます。風も強くなるけど。
登山の醍醐味は頂に到達した後なんですよね。ひとつの山頂を極めると、それまで見えなかった向こうにさらに高い峰が見えてきます。一旦下ってまた登る。それを何度も繰り返し、高い峰々を制覇していきます。
でも、ずっとは続きません。やがて下山する時がやってきます。せっかく苦労して登った山々から高度を下げるのは、もったいないんですよね。
その点、八ヶ岳はいいんですよ。南から入っていくと前半の南八ヶ岳が高く険しくアルペン気分が味わえ、北八ヶ岳まで足を延ばすと高度は下がり、森と湖が点在するなだらかな山歩きになります。ゆっくりと来し方を振り返ることができます。

Prime of Life
優子はちょうど高い峰々を制覇中でした。結婚、出産そして子育ての前半まで進み、次は子どもの巣立ち、そして通訳という天職を見つけ、社会での役割という峰を登りつつありました。
でも、いずれは下山するんですよね。済んでみれば、登山なんてあっという間でしょう。でも、まだ終えるには早すぎました。ひと通り縦走した後、高度の変化にゆっくり順応しながら下山路を下ります。優子は我々同行者を残し、ひとり勝手に滑り台で一気に麓に滑り降りてしまいました。同行者を失った私は、いまだに稜線の上で立ち尽くしています。幸い、子どもたちは予想に反し、親がひとり欠けても自分たちの足でしっかり歩いています。むしろ私の戸惑いの方が大きいのかもしれません。
ふつう、まだ振り返る段階じゃないんですよ。南八ヶ岳の主要部を過ぎ、北に入ればまだしも、まだ南の急峻な稜線の上で、前を進む事が精いっぱい。来し方を振り返って総括するには早すぎます。
でも、突然のアクシデントに立ち止まらなくてはなりません。
優子は、密度の濃い充実した幸せな人生を送ったのでしょうか?
たとえそうだったとしても、優子自身がそれに気づいたのは、ごく最近だったように思います。
結婚。出産。その部分だけを切り出せば、十分幸せな峰のはずでした。でも、自分がそこを通過しているときは、それが頂上であるということはあまり実感しないものです。急峻な登りを進むことに精いっぱいでした。
でも、あえて振り返れば、みんなが声援してくれるように、優子の軌跡は輝いていたのでしょう。優子はそんなこに気づきもせず、次の山に取り掛かることに必至でした。

誰でも同じですよ。上手に登ってもバテてへたっても、快晴の中を景色を楽しみながら進んでも霧の中で道を間違えても、結局、山を下りてしまえば皆同じ。今の足元を一歩ずつ踏みしめるだけですね。

私は優子の軌跡を振り返る事が出来ても、自分自身の軌跡はまだ振り返ることができません。振り返れば、終わってしまいそうな気がします。
まだ私は山を降りることはできません。母親がいない子どもたちの成長を見守り、仕事もまだ途中です。精神科医として、道に迷った登山者たちをガイドしなければ。最近は、迷う人がたくさんいるから、ガイドも大忙しです。でも、私がすべての迷う人を救えるはずがないし、私がいなくても大勢に大差はないはず。それでも、ガイドし続けるのは、そのことが、私自身の生きがいでもあるからだと思います。

Monday, December 14, 2009

Releasing Yuko at 古着ショップ

亮子さんたちが仕分けてくれた衣類を今日、古着ショップに持っていったよ。お店でも、さらに仕分けしていく。お店で売れるものは150円/kg、それ以外は1円/kgで買い取られ、海外に輸出したり加工リサイクルされる。ほとんどは後者の箱に投げ入れられる。そりゃそうだよな。母・妹・娘が3人がかりで丁寧にひとつずつ仕分けしてくれたんだから。大きなビニール袋4つに詰まった衣類が600円也。値段なんかどうでもいいんだ、タダでもいい。世界のどこかで誰かが使ってくれれば、優子はまだ生きている。

僕の家と心の中から、これから優子を少しずつ放していかないといけない。
靴も、文房具も、お宝の日記帳や手紙類、古い写真も整理できずに山積みのままだ。
優子の希望で作った僕らの寝室のウォークイン・クローゼット。ふたりで使って狭くなっていたよね。衣類が入りきらずあふれていた。優子の衣類を出して、僕がひとり占めしているよ。余裕ができた。
心の中も同じだよ。いつまでも優子が僕の心を占領していたら、僕はこの先、生きてゆけないんだ。早くどいてくれよ!

帰り道、カーステレオから流れる徳永英明がよくなかったみたい。
祐馬は歌詞派なんだよね、パパはメロディー派だから。
流れる涙が止まらなかったよ。

古着やさんへ持っていったのですね。
良かった、、、忙しいのにがんばったね。
ゴミにするより気持ちはずっと楽ですね。

でも放したって心配しないで下さい。包んで整理したものの中には形見分け用の、あまり使っていない新しいもの以外にも思い出のありそうな服を残してあります。
例えば写真で笑っている優子さんが着ているいる服ひとそろい。
そばで見ていたじんが、あ、それママが1月1日に着てたと言った服。
何度も着た風なお気に入りだったと思われるポロシャツなどです。

何十年か先に余裕が出来た時、子どもたちと、またはひとりでそんな時があったなと他の思い出と一緒に整理できたらいいなと思っています。

亮子

Looking back the year 2009

I looked back for this year with my therapist today.

It was by far the SADDEST year of my whole life. I felt like every action and conversation I took during this year related to my long and difficult mourning process.

But I would not say it was the WORST year.

I managed to survive.

But I had been worrying two things; my own depression and my three kids. I was rather hyper-active to compensate my pain at the beginning. So every time I felt a bit down I suspected I finally got into the depressive phase. But then I realized I was either tired of doing something too much, hang over or getting not enough sleep. I have been full of energy all through the year in both sadness and joy.

My children are doing fine in spite of the big loss. I saw Yuma’s school teacher last week who gave us very positive comments on her performance at school. I knew she was functioning at home, so I felt relieved to know that she was fine at school as well. All of us engaged well in sports; volleyball for Zen, swimming for Yuma, gymnastics for Eugene, and tennis/golf/cycling for me. We also have a new pappy dog Kai in our family.

I recovered well enough to think of positive aspects of the big loss.

I feel like I finally became a full professional therapist who really understands people’s pain. I thrived through the biggest any men can think of, so that means I do not afraid of any kind of pain for the rest of my life (except for the death of my children).

I also found out the good quality of my support system. I managed to use every kind of people around. I do not particularly meet new people, but I found so many people that I knew are very supportive and empathize my pain.

一番心配したのはふたつ;僕自身のうつと、子どもたちのこと。始めから異様にハイだったので、ちょっと気分が落ちると、ヤバい、ついにうつが来たかも、、、と恐れていた。でも、翌日には元に戻り、振り返ってみれば、動きすぎか寝不足、あるいは二日酔いだったみたい。どうにか気持ち的にもここまでやってこれたので、逆の意味で、今後、どんなことが起きても大丈夫、みたいな自信がついたかもしれない。

Sunday, December 13, 2009

自分の生き方を見直す時

卒業生の○○エリです。
突然の訃報から、もうすぐ一年になるのですね。
奥様が旅立たれた告別式は、私にとって衝撃であり自分の生き方を見直す時となりました。
「いつか迎えるこの時に、私はこの様に見送ってもらえる様な人生を歩んでいるだろうか?」
「本当に精一杯毎日を生きていただろうか?」
そんな自問自答を繰り返したこの一年、いつもより少しだけ頑張っている自分がいました。今は見つけた夢に向かって、毎日予備校の自習室に通う日々です。相変わらずモンモンと悩む時もありますが、奥様が背中を押してくれている気がします。

近況追伸:AとBは7月に結婚しました。Cも入籍済。Dは子育てに追われているらしいです。Eと私は相変わらず同志で飲み友だちです。

お便りありがとう。
エリさんも告別式に来てくれていたんだよね。僕は心が爆発していたからよく覚えていないけど。
そうか、優子はエリのところにも来ているんだ!
私も子どもの頃、祖母を亡くして同じような経験をしたよ。

三人称の死が、一人称の死(自分が死ぬこと)に対するリアリティとして迫ってくる。
他人ではない、自分と身近な人の死を経験して、自分のいのちの有限性に気づくんだよね。毎日の生活に追われているとそんなことに思いを馳せる時間はないけど。
死を見つめれば、必然的に自分が生きているいのちの意味を問うことになる。そうすれば、自然と頑張れるよね。
そういう意味じゃ、心の隅にいつも死(=いのちの終末)を留めていると、良い生き方を見つけることができるのかもしれないね。ちょっと辛いけど。

僕の場合は、二人称の死だから、対岸の死として自分を見つめられるほど余裕はないよ。
子どもの頃、いのちの有限性に気づき、一所懸命模索してきた僕の生き方のかなり大きな部分が優子だったんだ。だから、今までと同じようには生きていくことができなくなっちゃった。改めて、僕のいのちの意味を見つけ直し、再構築しなくちゃならない。それが出来ずに、伴侶の喪失とともに自分が生きている意味を失い、死んじゃう人も結構いるからね。
二人称の死は、一人称の生(自分が生きていること)に対するリアリティとして直に迫ってくるよ。

Thursday, December 10, 2009

記憶の財産

拝復
貴方様からのお便りを拝見して、優子様がまだお若いのに何故、どうしてと思わず声に出てしまう程に驚きました。
何よりも三番目のじん君が四年生であったことも知り、又、又、驚きました。というのは、私が母を亡くしました時も同じ四年生でしたので七十一年前のことが昨日、今日のように甦り他人事とは思えずお便りさせて頂きました。私の母も心臓麻痺であっという間に彼岸の人となってしまいました。
優子様も心筋梗塞で四十六歳のお若さでになられてしまわれたとか。優子様ご自身も彼岸でどんなにか驚かれ、戸惑いし、此岸に心を残されておいでではないかと思いました。何とも胸の痛む思いで一杯でございます。お便りによりますと、ご長男と大阪でお骨を麗石にされたとか、又、霊園は優子様が好きな海の見える三浦霊園とか。そして八月の休みは草津の別荘に優子様を偲んでお子様方の家族の方とにぎやかに過ごされ、草津白根のあの白い山肌に立ってお骨の一部を散骨なさった由、優子様もお子様方も心に残る仏事の数々に私迄心を打たれました。
貴方様には二世帯住宅ですぐ傍に御両親様がおいでになりどんなにか心強かったことでしょう。二つの核家族拡大家族となってとありましたが、こんなに有難いことはございませんね。今は失いかけていますが、日本古来の拡大家族のよさを十分に噛みしめて下さいませ。

私は今、八十一歳になりましたが、今の私の財産は、幼い時の記憶は勿論、父・母の元で育った家庭でのあらゆる想い出と思うようになりました。その沢山の想い出があるということはお金には替え難い財産である事がこの年齢になって分かり始めたのです
貴方様も優子様と共にお子様方と歩まれ遺された数々の想い出がやがて三人のお子様にとって素晴らしい心の財産になることと思います。長々と綴りご免なさいね。
貴方様には余計な事と思いつつも書かずにはいられなかったことをお許しくださいませ。
ご健康をお祈りつつペンを置かせて頂きます。 
かしこ


大変ご無沙汰しております。
先生が、子ども時代にお母さまを亡くされたとは存じ上げませんでした。もしかしたら小学生の頃お話しいただいたのかもしれませんが、そうであったとしてもとうに忘れていました。当時から40年後、五十代になった私に、また先生から教えをいただけるとは思いもよりませんでした。先生ご自身の体験から、改めて親はなくとも子は立派に育つことを知り、少し安心しました。
私も、子ども時代の想い出がたくさんあります。これから3人の子どもたちが成長し、今の事をどう振り返るのか。それを、どう財産として残せるのか、父親として責任を感じています。今までは、優子と私の2人で彼らにそれなりの想い出を作ってこれたと思います。これから私一人で、子どもたちが貴重と思える財産を積み重ねることができるか自信はありません。
今回、母親を失ったことがとても大きな悲しみの財産になることは確かでしょう。でも、その後、良い思い出を作れるか。守られていること、大切にされていること、愛されていること。これらを伝えてやりたいと思います。物質的に豊かでなくとも、たっぷりの愛情を与えたい。しかし、今までの2人分の愛情を、これから私一人ががんばって与えなくては…と焦ってしまうとよくないのかもしれません。私以外にも、祖父母をはじめ、学校や塾の先生、友人など多くの人たちから愛情を受けています。そのチャンスをうまく作ってあげなくては。遠慮のあまり、我々が孤立してはいけないと思います。
幸い、幼く手のかかる時期は過ぎました。幼い子どもへの愛情が安全に保護し、思い切り抱きしめてあげることだとすれば、自立してゆく思春期の子どもたちには、幼いころとはまた別な愛情が必要な気がします。干渉したり、保護しすぎてもいけません。帰ってこれる居場所としての安心感とともに、社会の試練を乗り越えるための力や、彼らの行動基準になる価値や社会の規範も伝えなければなりません。
私も以前から多少は台所に立っていたものの、今年はその頻度が増えました。理屈ではなく、私の素の生きざまを見せるしかありません。母親を失った3人の子どもたちの父親としての役割を全うすることが、私自身の悲しみを乗り越えるすべにもなるような気がします。
長くなりましたが、先生もどうぞ寒さの折り、お体に御自愛ください。

Wednesday, December 9, 2009

札幌ミスチル旅行1

祐馬。この1年でずいぶん成長したよね。身長も、内面も。
優子の黒のショートコートを着て、指には優子に贈った小さなルビーのリングをはめている。こうやって並んで歩いたら、優子といるような錯覚を味わわせてくれる。

仕事が全く絡んでいない旅行は、この1年で3回目だ。
3月には優子の親友リカちゃんに会いに、ひとりで福岡へ日帰り。
4月には優子石を作りに、ちゅけと2人で大阪へ日帰り。
今回は祐馬と一緒に札幌へ。父と娘、2人だけの旅行は後にも先にも今回だけかもしれない。

夏ごろの会話。
娘)ねえ、12月にミスチルのコンサートがあるの。東京じゃ絶対チケットとれないよ。地方だったらまだとれるかもしれない。
父)札幌のuさんが前からぜひ子どもたちと遊びにおいでと言ってくれているから、いつか行こうとは思っていたんだ!

息子たちに持ちかけても興味を示さない。Uさんがツテにチケットを頼んでくれたが、ミスチルの人気はすごい。ゲットできなかった。

でも、祐馬はあきらめないんだ~。飛行機に乗って、北海道とか行ってみたいし。
一応、最後の望み、当日券をネットで申し込んでいた。
抽選に当たるはずないよ!
ところが、前日に、当選のメールが来た!

やったー! 信じられない!
きっと、ママが空から手をまわしてくれたんだよ。
はいはい、わかった、わかった!

Uさんはロンドンで知り合った。
優子より一足先に向ったロンドンで右も左もわからない時、毎週末、自宅に招いてくれて、テニスをやって、奥さんの温かい手料理をごちそうになった。留学生活のアドバイスもたくさんくれた。2ヶ月遅れて優子が到着し、半年もしないうちにuさんは留学生活を終え帰国した。以来、家族ぐるみの付き合いが20年近く続いている。2年に1度くらいに北海道へスキーに行き、一緒に滑ったり。奥さんが上京して優子とふたりで観劇したり。
優子の告別式には、ご夫妻で札幌から駆け付けてくれた。

僕にとって、こういう付き合いの人、もう一人いるんだ。
共通点がたくさんある。
2人とも、僕より4-5歳年上。
精神科or小児科の医者で、専門分野が近い。留学生活か、学会活動で知り合った。しかし出身大学や職場は違う。直接の上司・先輩ではない。
若い頃、病院や学会で活躍した後、現在ではユニークな開業で成功している。公職を退いた後も学会活動や後進の指導には熱心だ。
キャラが僕と共通している。外向的で人付き合いがよい。身体を動かすことが好きで、ゴルフ、テニス、スキーなどを一緒に楽しむ。体型も何となく似ているかなあ。
奥さんたちも活発で優子とも親しくしてくれた。何となく奥さんの尻に敷かれているポーズをとりつつ、夫婦とても仲がいい。
男同士、口数は少ないが、優子を失った僕をのことをそれとなく気にかけてくれる。

札幌ミスチル旅行2


Uご夫妻さま
今回はスキーや仕事抜きで伺い、祐馬とふたり、ゆったりと心安らぐことができました。
思えば、私がご夫妻と知り合ったのは30代の前半、結婚1年目で、これからの家族生活や専門知識の習得に夢を描いていました。
以来20年弱、そう頻繁にお会いせずとも、ずっと優子と私、それに子どもたちの成長を見守っていただいたように感じます。
優子を失い、今まで得てきたものを少しずつ手放していく年代になったことを実感しました。失う痛みに耐えつつ、残りの人生をどう深めてゆけるだろうか。uさんとお話ししながら、そんなことを考えていました。

最近、上梓した本を謹呈いたします。
虐待という厳しい環境に置かれた家族をどう支援するか、7年間の経験をまとめました。私は父親グループを担当し、妻や子どもにどう接したらよいかわからない男性たちの心をほぐしてきました。虐待に限らずとも、親子支援、男性支援の例として医院のスタッフの方がにもご紹介いただければと思います。

これからも私たちを見守って頂けるようお願いします。

Saturday, December 5, 2009

濃い夫婦

学生からの質問:
子供ができてから夫婦関係は変わっていくものなのか聞きたいです。
結婚して、子どもができると、それまで全て自分に向いていた愛情が、自分と子どもに二分されちゃうのでしょうか?それとも、2分の1ずつに分散されるのではなく、2倍愛せるようになるのかな?

そうねえ。授業では「愛の質が変わるよ」とか答えたけど。もう少し突っ込めば、
恋夫婦濃い夫婦に変わるんですよ(オヤジギャグ)。

恋愛中とか結婚当初は、根拠ない情熱というか、そりゃあ、優しさとか、ルックスとか、お金とか、それなりの根拠はあるんだけど、今から振り返ればそんなもの大したことなく、とにかくラブラブ・ドキドキ的に向き合えちゃえるんですよ。お互い相手だけを見ているexclusiveな関係として。
そういう時期が過ぎて、子どもが生まれたりすると、日常の生活でたくさん2人が向き合うことになります。良い時はラブラブでいられるけど、たいへんなときはお互いすごくムカつくわけですよ。ムカつく理由なんていくらでもあるからね。

ストレス(危機)は両刃の剣。関係を破壊するか、強めるかのどちらか。

夫婦が海外赴任すると、離婚しちゃうか、より親密になるか、どっちかなんですよ。
でも、海外に行かなくたって、ストレスなんて日常たくさんあるからね。生活、仕事、子育て、いろんな人間関係とか。

質問)お互いに意見が合わず、ムカつくネタができたらどうするか?
  1. 避ける。壁を作る
  2. どちらか片一方が折れる。相補的(complementary)な関係。上下関係というか。下の人が折れて、上の意見が通るみたいな。
  3. それでも向き合って、ふたりが対等に(symmetrical)感情をぶつけ合う。

選択肢(3)葛藤を回避せず、ぶつけ合うとどうなるか?
  • お互いに言いたいことを伝える。相手はそれを受け取って、伝え返す。お互いに主張し合い、ますますムカつく。
  • でも、キレてはいけない。逃げもしない。
  • 言い合っているうちに、譲歩し、妥協する。でも、どちらか片一方がそうするわけじゃないんですよね。双方がお互いに譲歩し合うんです。折り合うというか。そうやって、お互いが納得できるmeeting pointを見つけるんです。
ことばで説明すれば簡単だけど、実際は難しいよ。なかなかうまくいかない時の方が多いでしょう。

それをうまく達成するためには柔軟性が必要です。
相手が折れれば、自分も折れることができる。ちょっとずつ折れ合うわけ。
どちらが先に折れるのはとても勇気がいるんです。冷戦時代の米ソ核軍縮会議みたいなもんで、譲歩したら相手に攻め込まれるリスクを伴います。それをするためには、相手に対する深い信頼が必要なんです。
あと、自分をちゃんと主張する勇気も必要ですね。
自分がバンと前に出て攻めちゃうと、相手が壊れる、もしくは関係が壊れるリスクを伴います。相手に配慮して、やさしく(相手のためなんだよという隠喩も含めつつ)、しかししっかりと伝えるわけ。
こういうのを濃い関係と言います。

こんなことするより、選択肢(1)適当に離れていた方が楽だと思いますよ。
取り繕うことができますから。
生活(経済)や子どものために必要な協力はするけど、あまりお互いに突っ込みすぎず、離れすぎず、適度な距離を保つわけ。近づきすぎるとお互いにストレスが高くなって疲れるし、イヤになるからね。
こういうのを薄い関係と言います。

濃いのと薄いの、どっちが良いとか悪いという問題でもないんですよ。
それぞれ夫婦の好みの問題かな。
優子と僕は濃い関係だったと思います。
ふたりとも子育てのこと、自分のやりたいこと、譲れなかった。でも譲るしかなかった。
選択肢(2)一方だけが割を食う上下関係もイヤだった。だから、戦うしかなかったんですね。

始めの頃は、僕の方が濃くて、優子は比較的薄かったよな。
(空の優子は反論するかもしれないけど、ほっておけ!)
いろんな夫婦見ると、こういうのは珍しいみたい。
女性が濃くて、男が薄いパターンをよく見かけます。
うちは、逆だったから良かったのかも。
結局、優子もだんだん濃くなってきて、濃い目の濃度で調整できた感じだった。
去年の年末は、ちゅけの受験をめぐり、寿司屋でバトルしたからね。お互いに譲れなかった。

なぜ、僕が濃いのが好きかって?
生まれながらのキャラもあるだろうし、両親の影響もあるかも。
子どもの頃、よく食卓でケンカしていた。山育ちの父親は海産物が嫌い。海育ちの母親は大好き。それを出しては、バトルしていた。子どもながらにどうでもいいことだったんだけど。
一見、母親が引きさがるようだったけど、懲りずにまた出してたから、母親なりにずいぶん主張していたんだと思う。そりゃ両親がバトルすれば子どもはびっくり、ドキドキしますよ。でも、大切なのは、その後、譲歩・和解するプロセスも子どもに見せていたことね。自己主張しても平気なんだ、それくらいやっても壊れないほど夫婦の絆はしっかりしているんだとわかれば、子どもは安心できる。

仕事にcommitして、家庭不在の父親が多いけど、僕はそれは避けたかった。
それも、僕のふたりの父親がモデルになったな。(後でもう少し説明する)
でも、優子から言わせれば、僕は十分不在だったんだよな>なあ、優子!?
それも、定番のバトルネタ。今となっては懐かしいよ。

もっと薄い夫婦だったら、優子がいなくなっても、多少は楽だったろうか?
濃い分、喪失の痛みも大きい。

そういう意味じゃあ、子どもたちとも濃い関係を僕は好む。
男の子たちはそれほどでもないけど、娘とは濃い。特に母親がいなくなり、唯一の親になり、濃縮してきた。

パパはそういうのが良いんだよ、祐馬ちゃん。濃い親子でいようね。
明日から、ふたりで札幌だ!

Friday, December 4, 2009

11ヶ月

優子

やっと11ヶ月の道標までたどり着いたよ。
11ヶ月目というよりは、一周忌まであとひと月という感じかな。
マラソンでいえば、折り返し中間点まであと2kmの地点みたいな。
ロンドンに先に行った時は、優子が来るまでというゴールがあった。
今の持久走にはゴールがない。
でも、中間点までくれば、折り返した後は多少気持ちが楽になるといいんだけど!?
喪中はがきを出して、幸い沿道からの声援も大きくなってきているんだ。
声に励まされ、淡々と走るしかないな。
ランナーズ・ハイ。苦しい走りに慣れ、それが目的(楽しみ)になってきているかも。

Tuesday, December 1, 2009

父娘の絆

祐馬との会話。

中学の○○さんって知ってる?学年は違うと思うけど。
知らない。
つい先日、お母さんが亡くなったらしいよ。

普段ならこれで話は終わるのだが、この話題は違った。

え、パパどうして知ってるの?
ゴルフ仲間の娘さんだから。
じゃあ、パパもその場にいたの?
ううん、話に聞いただけ。

かわいそうだね...。
うん、そうだね。でも、そういうなら祐馬だって同じだよ。
それはわかってるけど。

どうして亡くなったの?
ガンだったらしいよ。
じゃあ、死ぬ前からわかってたのかな?
そうだと思うよ。
祐馬、そういうの耐えられない。じわじわそういうのがわかっていくのって。
そうだね。でも死ぬ前にそういうのがあれば時間をかけて気持ちを準備できるけど、うちのママは突然だったから、その分、すごい大変だったじゃん。
でも、同じ死んじゃうのだったら、そっちの方がまだいいの。すごく辛すぎて、何が何だか分からなくて。
そうね、しばらくしてからじゃないと辛いのってわからないんだよ。結構、尾を引くかも。
でも、訳が分かんないまま、過ぎて終わっちゃうよ、きっと。
いやー、わからないけどね、それは。

そんな会話ができるのも祐馬だけ。
じんとはできる年齢ではない。
ちゅけと交わそうと思えばできるけど、本人にその気がない。
その点、女の子は共感できる。
共有してる悲しみを率直に語りあえれば、父娘の絆はとても深まると思うんだけど。

先生の結婚・子育て話

家族関係学しんぶん 12月1日号(抜粋)

【先週の授業のまとめ】
オーケストラ形式に椅子を配置して私たちが注目している中、先生は学生時代の恋愛遍歴、結婚した時の状況や気持ち、子どもが生まれた時の気持ち、そして今現在のことも赤裸々に語り、結婚、子育ての経験者として私たちにアドバイスをしてくださいました。先生の、包み隠しのないリアルなお話に、聞いている私たちは笑ったり感心したり、時には羨ましがったりしました。また、先生は恋愛に対する男女の価値観の違いにも言及し、男性の恋愛観をなかなか聞く機会のない女性陣が「なるほど」と頷く姿も見受けられました。結婚や子育てを経験したことのない私たちにとって、今回のお話は知らなかったことばかりだったと思います。先生のお話は、私たちに将来訪れるであろう結婚や子育てについてのイメージをより明確にしてくれるものであったと思います。

【授業の感想】
  • ちょっと照れながらも、すごく幸せそうに笑う先生を見て、結婚とか家族って自分が思っている以上にいいものだなぁと思えました。
  • 私は、あまり結婚願望も理想もあまり持っていなかったのですが、先生の話を聞いて「あ、結婚でいいかもしれない!」と思いました。
  • 子どもが生まれたときの先生の、「父親になった、俺が父親だぞ!」という喜びの言葉が印象的でした。
  • 「出産後、愛は自分と子どもに2分されるのか、それとも2倍愛せるようになるのか?」という質問に対して「愛の質が変わる」と答えて下さり、目からウロコでした。
  • 結婚生活においては、喧嘩を避けてお互いに我慢をするよりも、相手に真正面から向き合うことが大切だと思いました。
  • 先生の奥さんは、赤ちゃんのために母乳をわざわざとって届けていたということで、なかなか出来ることではないと思ったし、先生の出産に立ちあっていたという話などを聞いて、子育てにとても一生懸命な夫婦だなあと思いました。
  • 生まれ変わっても絶対奥さんと結婚したいと言っていたのが印象的でした。いいなーって思いました!!!

【教員からのフィードバック】
そうか、みんなそんな風に受け取ったわけね!?話したほうの私にとっても「目からウロコ」でしたよ。バラの花束、そんなに素敵と受け取ったんだ!妻にとってもそうだったのかな?今となっては確認できませんけど。
私としては、結婚や夫婦、子育ての素晴らしさを意図してみんなに伝えたつもりではなく、自分としてはごく普通のこととして話しました。でも、みんなが「すごーく魅力的」、「結婚っていいかもしれない!」と感じてくれたのは嬉しかった。私自身の気持ちが伝わったんですね。
たしかに、「全力で好きになり」、「お互いの関係や子育てに一生懸命」な夫婦だったと思います。でも、これは突然終わってしまったから総決算として振り返ることができるんですよ。まだ現在進行(闘争)中の関係だったら、ここまできれいごととしてまとめることはできないでしょう。
この話は、これほど深く愛した妻との死別の話(年明けの授業)に続きます。

Monday, November 30, 2009

大学のクラス会

に行ってきた。
同じ学科の同期100人中、半分弱が集まった。学部の6年間、ほとんど必修科目で選択の余地はなく、みんな同じ授業や実習をとったから、お互いによく知っている。
卒業以来クラス会は3回目らしいが、僕が参加したのは初めて。小学校から高校まで、僕自身いろんな意味で何となくクラスの中心の方にいた(と思っている)から、クラス会に出ることは何の苦もないが、大学はねえ。
中心というよりは辺縁のほうにいた(と思っている)から、何となく顔を出しにくかった。でも、集まってみれば杞憂は吹っ飛び、懐かしさであっという間に30年前にタイムスリップする。
少なくとも集まった連中は、皆元気そうだった。メタボ体型もそれほど多くはなかった。ホントに25年も経ったのかねえ。
Tikiは特に全然変わってないよ、
という皆の声。
在学中に交通事故で亡くなった二人を含め、物故者は5名。
優子が亡くなった翌月に、やはり心臓発作で亡くなった奴がひとりいる。
連絡が同期のみんなに流れ、休止していた連絡が復活する。その流れで今回のクラス会が成立した。
優子の大学のクラスメートからも、訃報をきっかけにみんなが集まるようになったとの便りをいただいた。
吉報ではそんなわけにはいかないかも。悲しみは人々を凝集させるんだ、きっと。

明日から12月。さすがに、忘年会の誘いはないのだけど、なぜかクラス会が結構ある。高校のプチ・クラス会に、高校山岳部のOB会。
クラス会は良いよ。
昔に戻り、今を忘れさせてくれるから。

悲しみに降りてゆく

男おひとりさま道
上野千鶴子著。法研、2009年。

流行ってるし、おひとりさまになっちゃったから読んだ。
元本の「おひとりさまの老後」は読んでないけど、これから老後を迎えるおひとりさま女性向けに、
それで大丈夫、安心して老後を迎えられるよ、
というトーンなのだろう。
一方、この男バージョンは、
まず男のビョーキを直しなさい、ちゃんと自分を反省して見つめ直しなさい。そうすれば、男にも道は開けるから、
みたいな、一発ジャブを食わせて、謝らせてから、元気を出させるようなトーンだ。

この本を批判するつもりはない。ベストセラー作家だし、文章はうまいから、ついつい真実であるかのように受け取ってしまうけど、ひとりの人間(否定的な両親体験を持つ、団塊世代の女性)の考えた物語だから、すべての男たちにあてはまるわけないと気づけば、そこまで固執する必要もなくなる。

でも、あえて共感した部分を挙げれば、男たちは老後の生活に必要な坂を下りるスキル(=弱さの情報公開)がとても苦手なこと。それは僕自身も、まわりの男たちを見ていてもそう。弱さを認められない弱さを我々は抱えている。

僕は、喪失の悲しみという弱さを体験しつくして、それを乗り越えようとしている。

でも、こういうの、本当の弱さじゃないんだよね。
強さが根底にあるから、弱い自分を演じることができるんだ。
上野さんだって、僕だってそうでしょ。
基本的に自分の強い部分を自覚している。それは、学歴社会の中での偏差値的強さ、社会的成功体験に裏付けられた強さが根底にある。そこに弱さが後から部分的につけ加われば、その部分だけ取り出して語ることができる。でも、本当に負けちゃいないんだ。
上野さんにとっては、女性であるということの弱さを使える。一方、男たちは、男であることが弱さになりえないから、なかなか自然に弱さへ降りて負けることができない。それができれば、とても楽だし、人生の本当の豊かさに気づけると思うんだけど。

Saturday, November 28, 2009

続・幸せな最後?

私たち夫婦も、子供達がスキー教室に参加した時など二人でスキーに出かけます。
友人達からは、熱々ね~などと冷やかされますが、合宿そのもの(笑)

内股を意識して!
板の間ん中に垂直に体重掛けて!
上下の運動をもっと大げさに!

などなど、先に滑って待っている主人から厳しい~アドバイスを受けつつのスキー。
内心は、もうこの歳だし、上達する気もないし放っといて~とも思うのですが、反面楽しんでいることも事実です。
恋愛期間中なら、無理して付き合うこともあると思いますが、優子さんはご主人が大好きだったんですね。
本当に辛いのであれば、一人で滑ってくれば?と言うはずですのも。
お二人の時間をたっぷり楽しんで幸せだったと思います。
----

体重はむしろ真ん中より前の方、思い切り前傾した方がいいぞ、特に急斜面では!

なんて、うちと全く同じですねえ(笑)。
お返事を戴いて、あの日のことをさらに思い出しました。
お昼すぎに一旦ホテルの部屋へ子どもたちを連れてゆき、
「さあ、僕はもうちょっと滑ってこようかな。優子どうする?」
内心、「ひとりで滑ってくれば。子どもたちと温泉でも入ってるから」
という返答を期待していたんですよ。でも、僕の方からそれを言うと、
「子どもたちを押しつけて、自分だけ!」というパターンになるのを恐れてました。
そしたら、「私も行くわ」とついてきたんです。
その時点では、体調も悪くなく、無理したわけでもなかったんですよね。

そういえば、亡くなる5日前、年末の大掃除の合間にふたりで街中サイクリングに出かけたんですよ。自宅から品川まで8kmほど、ゆっくり40分ほどかけて走り、品川駅港南口のアトレでお茶して帰ってきたんです。後からついてくる優子の体調は、全然問題ありませんでした。

こんなことが起こらなければ、普段と変わらない何気なく通り過ぎるふたりの時間。
でも、こうやってよ~く振り返ってみると、それは幸せだったんでしょうか?
少なくとも、僕は幸せだったと、今は言える。

なんか、お産と似てますねえ。
ものすごい痛みの直後に、誕生のものすごい幸せが来る。
でも、その順序が逆だな。
何気ない幸せの直後に、喪失のものすごい痛みが来た。

-----------
昨年末の年賀状に書いた優子の言葉です。
今年は経済がどうなるのか心配だけれど、状況を悲観せずに、今、自分ができることは何かを考えてやるつもりです。スキルアップ、(仕事関係・外の)読書、音楽の練習、家の掃除・整理整頓(!)。メタボの予防もそのひとつ。基本は運動嫌いなので楽しくやれそうな気がするサイクリングを中心に。多摩川土手をかっこよく走りたい!釣りも始めたいのだけれど、きっかけがつかめなくて、、、。

Friday, November 27, 2009

幸せな最後?

優子さんと中学校の時、同級でした。卒業以来お会いしていませんでしたが、数年前から年賀状をやり取りしていました。

我が家も、毎年恒例、年末年始のスキーをしています。そんな日常の行事の最中に、何の前触れも無くそのような悲劇が起こるとは、、。優子さんとの思い出を大切にされ、そして、ずっと繋がっていこうとされているお姿に感動致しました。

中学生の優子ちゃんは、ぽっちゃりしていて、笑顔が可愛い、そして、もの静かで、お勉強ができて、誰からも好かれるあったかい女の子でした。でも、ときどきズバッと的を得た発言をして周囲を驚かせる一面もありました。(観察力が鋭かったのかな?)ちょっと大人っぽくて、一目置かれる存在でもありました。
年賀状を頂く度、素敵なご主人と出会って幸せな生活を送ってらっしゃるんだなぁ、また随分とアクティイブになったんだなぁと驚いたものです。

私も、優子ちゃん同様インドア派でしたが、体育会系の主人に振り回されキャンプ、スキー、etcに付き合っています。
それはそれで、楽しいものですよ

私の知らない優子の少女時代をお知らせいただき、ありがとうございます。
当時の写真を見ると、ずいぶんぽっちゃり、というか太ってましたね。
大人になっても、基本的にはポッチャリでしたが。

優子の心臓の病気がはっきりしたのは結婚した後でしたが、中学時代、原因不明の「肝臓の病気」でしばらく学校を休んで寝込んだと聞きました。その後、肝臓疾患の気配はなく、今から思えば、それは肝臓ではなく心臓の病気であった可能性もあります。スキー場での突然の発作の背後には、昔から徐々に病気は進行していたのかもしれません。今となっては推測にすぎませんが。

うちも、インドア派の優子がアウトドア派の私に引きだされて、というパターンだったと思います。付き合い始めた当初は、スキーも下手で一番下の初心者コースしか滑れなかったんですよ。でも、私が無理やり毎シーズン何度か連れだして、最近では上級者コースも十分滑れるようになっていました。
でも結果的には、そのために心臓発作を誘発してしまいました。

優子の内心はどうだったのかな?
楽しんでいたのでしょうか?
もしそうだったとしたら、最高の最後だったのかもしれません。

その日、疲れた子どもたちをホテルに残し、ふたりだけで白銀の世界を楽しんでいました。
午後3時を過ぎ、そろそろ上がろうかという最後の一本でした。
疲れたからか、あるいは既に前兆があったのか、「ゆっくり行くから、先に行って」という優子の先を一気に滑り降りました。
下で待っていると、優子が私のすぐ横までスムーズに滑り降りてきました。シャープに静止し、さあ、上がろうとリフト乗り場に進もうとした時、「あっ!」と短い声を上げ、そのまま倒れ込みました。駆け寄った時はすでに意識もなく、痛みで苦しむ間さえなかったと思います。
私は、夢中で人工呼吸を繰り返しましたが、息を吹き返すことはありませんでした。しかし、運ばれた病院の救急治療室で死亡診断を受けるまでは、まさかこれが優子の死だったとは全く考えが及びませんでした。これが私にとっての悲しみの始まりでした。

その直前までは、夫婦ふたりだけの幸せな時間でした。
優子もそのように感じて楽しんでいてくれていたとしたら、最高の亡くなり方だったのかもしれません。ただ、それが子どもたちが成長し、人生の仕事をやり遂げた後のことだったら申し分なかったのですが。

Thursday, November 26, 2009

古着の山どうしよう?

いのちの電話に相談がありました。

「もしもし、、、古着がたくさんあって、寄付したいのですが、どこか受け取ってくれるところないでしょうか?」
新人相談員「お調べしますね。少々お待ち下さい。
、、、、はい、お待たせしました。○○に送れば、海外の貧しい人たちが活用してくれますよ。」
「どうもありがとう。」
電話は5分で終わりました。

「もしもし、、、古着がたくさんあって、寄付したいのですが、どこか受け取ってくれるところないでしょうか?」
ベテラン相談員「お調べしますね。少々お待ち下さい。
、、、、その間、ちょっとお話ししましょう。古着をたくさんとは、どうされたんですか?」
「実は、最近、妻が亡くなったんです、、、」
その後、30分ほど妻を亡くした切実な思いが語られました。
「聴いてくれて、どうもありがとう。」
でも、古着の話はどこかに行ってしまいました。

よく、相談員の研修に使う挿話でした。



Monday, November 23, 2009

昔の教え子

先生、ご無沙汰しています。
昨日、先生からの葉書を読んで言葉を失ってしまいました。
先生の悲しみを想像すると耐え難いものがあり、メールするのもためらっていたのですが、ブログを読み、いっぱい泣いて、でもなぜか暖かい気持ちになって、私の思い出をお伝えしても良いのかな。と思い、メールさせていただいています。

私にとって、先生の家族は学生の頃からずっとあこがれであり、背伸びして少しでも近づきたい…と思う存在です。家庭思いで知的な夫と優しくて控えめだけどデキル妻。自由にのびのびと個性豊かに成長している子ども達。
結婚前に夫を連れてお宅にお邪魔したのも、Tiki家の雰囲気を夫に伝えたかったからなんですね。優子さんは本当にかわいらしくて素敵な方でしたね。お宅にお邪魔した時は、ゆまちゃんが生まれたばかりの頃で、優子さんが話の流れの中で
「この子がギャルみたいになったらどうしよう?」
みたいなことを言っていてどう考えてもそれはあり得ないでしょ!、と私は思っていたのに(多分、先生も)結構、真面目に心配している様子がおかしかったです。(そのゆまちゃんも中学生なんですね~!)

私が大学3年か4年の時、学生との夕食会に優子さんを連れてこられたことがありました。先生が本当にうれしそうに「私の愛する妻です」というオーラで私たち学生に優子さんを紹介していたのを思い出します。優子さんは少し恥ずかしそうでしたよ。でも、
想像していたよりもみなさんが落ち着いていたからホッとしたわー
とおっしゃっていました。私たちはいっぺんに優子さんを好きになっていました。

また、ブログを拝見させていただきます。身を切られるような悲しみを乗り越えてゆくことができますように。3人のお子さんが幸せな人生のシナリオを描けますように。

Qさん、こういうの、とても嬉しいんですよ。
真正面からは見えない、斜め横からの優子の姿を知ることで、優子が立体的に浮かび上がってくるんです。
学生からは、「先生」の家族ってすごく素敵に見えるよね。Qさんも、教えている子どもたちに家族を見せたりする?イケメンのダンナさんを見せたら、一発でファンになっちゃうよ、きっと。
私は「家族関係学」の講義を持ってるけど、家族関係って、別に理屈を教え込むものじゃないからね。教師の家族を見せるのが一番の勉強になるんじゃないかな。1回だけ、ナマの優子を授業にゲスト出演させたこともあったんですよ!
私も小学生の頃、先生に子どもができた話は今でも覚えているし。
毎年、卒論・修論を終えた研究室の学生たちを家に招いているんですよ。私の手料理でご馳走したりしてね。正直言えば、うちの家族を見せたいなという気持ちもあります。
でも、恥ずかしがりの優子は嫌がっていたんですよ。
「あなたは親しいだろうけど、私は初対面なんだから!」
「いいじゃん、初対面で会って、親しくなれば。」
という感じでケンカしてました。
人前では、仲の良い夫婦を演じていたけど、ふだん家ではケンカばかり。
だいたい、優子は真面目すぎるんですよ。固いというかね。
まあ、ズボラでいい加減なボクと2人で、ちょうど良いバランスだったのかもしれません。
その点、祐馬は父親に似て不真面目だけど、なぜかケンカは優子と同じ調子です。

昔の友だち

お久しぶりです。
お葉書受け取りました。ものすごいショックを受けてます。こんな悲しいことが起こっていたなんて、それも1年近く知らなかったなんて…
優子さんにはお会いしたことはありませんが、毎年、年賀状で頂く家族通信を楽しみにしていました。文面のスタイルですぐわかったので、何で今ごろ来たのかな、と思って読み始めて呆然としてしまいました。
ブログも読ませていただきました。これからものぞかせてください。

若く、多感だった頃の親しい友人からの言葉は、とても心に沁みるんです。
現在が確固たる現実で満ちている時は、昔の現実は不要だけど。
今を失い、前に向かう元気がないと、後に戻るしかなくなる。
昔、若い頃の現実を共にして、今はかろうじて年賀状だけの関係だよね。
毎年、年賀状を誰に送るか迷うんだ。もう10年以上も連絡が途絶えた人はだいぶ整理した。でも、中には切れずに繋がっていたい人がいる。
中学・高校・大学時代、未熟なボクが親しかった人が、今の僕によみがえってくる。

じゃあ、昔に戻りたいかって!?
思春期によく見られるのが退行現象(赤ちゃん返り)だ。この時期の葛藤に耐えられず、前に進めなくなると、親への甘えの世界に戻っちゃうんだ。その気持ち、よくわかるよ。

でも、僕の現実は優子だけではない。子どもたちや、友人や、仕事仲間がいる。
もし、これらも失われたら、完全に逆戻りしちゃうだろうけど。

ぜひ、ブログ見に来て下さい!!
ブログで繋がっている安心感で、前に進めそうな気がします。

衣類の整理


連休に、横浜から妹と大学生の姪が来て、優子の衣類を整理してくれた。
前から気にはなりつつ、とてもひとりでややる気になれない。今まで何も手をつけられなかった。

タンスから引っ張り出すと、居間に衣類の山。よくこんなにあったもんだなあ。
祐馬とおばあちゃんも加わり、女性軍4人総出で、
・祐馬の将来にとっておくもの、
・形見分けするもの、
・捨てるもの
に仕分けしていく。
仕分け会議でワイワイ、袖を通したりしながら、さながらバーゲン会場みたいだ。
おばあちゃん「Tikiはこういう品々を見ていると懐かしくなって、涙が出るでしょ!?」
と言いながら自分で泣いている。
特に肌着を見ると辛くなる、、、なんて良く言うけど、そうでもなかったよ。
心配しなくても、僕は下着フェチではなかったようだ。
妹「捨てる服も、写真撮っておくと良いらしいよ。」
ふ~ん、そうなんだ。
とっておいても仕方がない普段着を、一枚ずつ僕が手に取り、祐馬がデジカメで写していく。
そうねえ、やっぱり普段、よく着ていた馴染みの服が出てくると、ちょっと辛かったかな。
でも、大胆に処分していくしかない!
本体が消滅したのだから、付属品を持っていたって仕方がないもんなあ。
まる一日かかって、すっかり整理できたよ!!

夜は、おじいちゃん・おばあちゃんも交え、みんなでお疲れさまの手巻きずしパーティ。
ちょっと飲みすぎちゃったかな。

Saturday, November 21, 2009

祐馬とバトル

なんか、懐かしかったなあ。
優子とのバトルを思い出す。

夕食後の祐馬との会話。
カイ君を動物病院に祐馬が連れていくか、パパが連れていくか、どちらでもいい単純なこと。でも、お互いに譲れない。
父)それは、祐馬の仕事でしょ!
娘)パパは口だけで、ぜんぜん家のことをしないじゃない!ゴルフとかテニスとか、自分で勝手に予定を入れちゃって!

言い方まで優子そっくり。
しかも、絶対に引かない。あくまで主張する。
これは、祐馬のキャラなのか、両親のバトルを見て学習したのか?
ちゅけは、こういう場合、口答えせずすぐに引く。
いつの間にか食卓から静かに身を引き、後でテレビを黙って見ている。

祐馬も涙を流しながら、一生懸命応戦する。
表現は稚拙だが、論旨はそれなりに通っている。
僕が第三の対案を出したりしているうちに、結局、僕が引き、祐馬の主張が通る形で落ち着いた。
僕が引けば、祐馬も引く。
僕が押せば、祐馬も押す。

妹)ねえちゅけ、テレビの音うるさいんだけど!
兄)もう(バトルは)終わった?
妹)うん。

その後、祐馬はひとり親のベッドにもぐり込んでテレビを見ている。
ほとぼりが冷めてから、
父)祐馬は口ゲンカ、上手だね!
祐馬はニッコリ、ホッとした表情を見せる。

優子も、始めの頃はちゅけタイプだった。
夫婦対立しても、ムカついたまま引っ込め、ブスっとしていた。
それが、子育てが始まった頃からか、祐馬のようにしっかり主張するようになった。
初期は僕の連勝、最近の4-5年は優子の連勝だった。

歯に衣着せず自分の言いたいことを思いっきり言い放す。
その後の、譲歩と和解。
Positive/negative入り混じった濃密な関係。
それを何度も繰り返し、優子との濃密な関係を築いてきた。

優子がいなくても、祐馬がいる。
思春期を卒業するまでは、僕のバトル相手になってくれるかな。

Wednesday, November 18, 2009

このブログの使い方

喪中はがきをご覧になって訪ねて来られた方、優子とみんなの往復書簡へようこそ!
このブログの使い方を簡単に説明します。

始めは、妻への往復書簡というタイトルでした。Tiki個人が妻を失った悲しみの語りからスタートしたのですが、4月ごろ(だっけ?)からこのタイトルに変更し、みんなの往復書簡として開放しました。
まず、祐馬が興味を示して、ときどき乱入してきます。息子たちは興味を示しませんが。
また、読者の方々がコメントしてくれたり、私に個人的にメールをくれます。それも載せちゃいます!
優子は風になり、地上に残った私たちが優子をキーにして繋がっていきます。
優子の話題や、それ以外の話題でも、何でもOKです。
ブログを読んで思いついたこと・感じたこと。夫婦や親子など家族のこと。いろんな人間関係。
フルートや自転車、お弁当にお仕事。。。。

ギリシャ悲劇のコロス(合唱隊)のように、俳優に代わって代弁したり、劇のテーマを注釈します。おなじテーマのもとで複数の俳優が、並行してそれぞれの物語を語り、言葉にできなかったみんなの気持ちが統合され、ひとつの大きな物語に成長します。

参加方法
1.記事に直接コメントしてください。各記事の末尾のコメントをクリックします。
2.あるいは、私へ直接メールをお送りください。プライバシーを配慮して、つまり誰が書いたのか、近しい人が見てもわからないようにして載せさせていただきます。

ここは、モノローグではなく、優子とみんなが会話できる場所です。

喪中はがき


まだ喪中はがきの印刷が終わらない。

一週間くらい前から考え始め、Microsoft Publisherで文面はすぐにできたのだけど、プリンターの調子が悪くて!
普段、ふつうのA4コピー用紙を印刷するのは全然問題ないのだけど、はがきを大量に印刷すると、とたんにトラブル続発。もうムカつくよ。
来年からは印刷業者に出そうかな。でも、うちの年賀状は特殊だし、結構、料金もかさむみたい。

全部で650枚。
優子のお葬式に来てくれた人たちの住所録に、例年の優子の住所録と僕の住所録を加えると1000人超!
そこから重複を削って、650名になった。
多ければ良いと思ってんだろ⇒自分!?
それだけ多くの方々が僕らの周りにいるんだという安心感を求めようとしてるわけね。全く、誇大妄想的なんだから。

何、これ!!?
びっくりされた方もいるんじゃないかと思いますけど、うちでは数年前からこういう騒々しい年賀状を作ってたんですよ。
ちなみに、これが去年のやつ

「年末年始のご挨拶を遠慮しません」
とか、済みませんねえ。
それじゃあ、喪中の挨拶の意味がないじゃないの!

昔から、型にはまるのが大嫌いだったんです。
型破りといえば聞こえはいいが、要するに理屈っぽくって、扱いにくいんですよ。
型にハマることで安心する人も、きっといるでしょう。(introvert)
僕は、型を破ることで安心するんです。(extrovert)

人が型に合わせるんじゃなくて、
型が、時代の流れに変わっていく人々の習慣に合わせるんだ。
そんな勝手なこと言ってたら、社会が混乱しますよね。

服喪中は年末年始の挨拶をしない。
だれが、そんなこと決めたんだ!?
聖書にも、コーランにも、民法にも、そんなこと規定されてないでしょ。
世間の目ですよね。みんながそうするから、自動的に自分もそうする、という。

みんながそうしても、俺はそうしないんだ。
既製の型にハマるほど、俺の喪は甘くないぞ。
型を破るくらい、激しいんだ!
ほとんど、怒りモードだね。

こういう人、扱いにくいんだよね、ホントに。

Tuesday, November 17, 2009

長崎での講演

突然にお手紙を差し上げます。
私は11月7日、長崎での先生の講演をお聞きしたものです。長崎新聞で講演の記事を見つけ興味があり参加しました。
どうして、お手紙を差し上げたかというと、先生の講演を聞いてというか、奥さまのことをお話になったことで感動したからです。講演会であんな風に自分の家族の写真を見せるなんて今までありませんでした。
「愛妻家、またはマイホームパパなんだなあ」
という印象を受けましたが、奥さまの死のことを語られびっくりしました。精神科医である前に、ひとりの人間として、自分の悲しみ、苦しみ、どうしようもない気持ちを聴衆にぶつけられたことに、ひどく感銘を受け、心が熱くなりました。まだまだ、奥さまの死を受け入れることができないでおられることでしょうね....

お手紙、拝見しました。
私の話に共感していただき、ありがとうございます。
このようなフィードバックを頂けることがとても嬉しいです。
私も、授業や講演で、よく亡くした妻のことを話しちゃうのですが、今回ほどしっかり率直に私の気持ちを話したのは初めてでした。

どうしてあそこまで話しちゃったのかな??
自分でも不思議です。でも今から振り返ると、いくつか目的があったんだなと思います。これも、今だから考えられることで、講演を準備しているときは、こんなに整理して考えてはいなかったんですよ。

第一に、自分の心のため。
あの日、話し終わった後、疲れたけどとてもすっきりした気持ちになれました。私が表現した感情を、多くの聴衆が受け止めてくれたという実感がありました。一方的に話していても、聞いている人たちの気持ちはけっこうわかるもんなんですよ。私が話しているとき、すすり泣く声が聞こえたりして。それに、最後の20分ほどの質問タイムには多くの人が質問してくれましたよね。中には、ご自身の喪失体験を話してくれた人もいました。うまくいかない講演だと、ぜんぜん質問が出ないんですよ。
ずるいですよね、みんなのためではなく、自分自身のために話して、それで講演料ももらっちゃって。

第二に、「気持ちの使い方」をみんなに体験してほしかったんです。
ふつう、大学教授とか医者の『講演』って、むずかしく、堅苦しいですよね。
理屈ばかり話しているから。

左脳が論理をつかさどり、右脳がイメージをつかさどる。
こういった、よく聞く右脳と左脳の機能局在論はいわゆる通俗心理学というやつで、ぜんぜん科学的根拠はないのですが、比喩として便利だから、あえて使っちゃいますね。
堅苦しい話は、すべて左脳(理屈)を使っているからなんです。
心の問題って、いくら理屈で理解したところで、ぜんぜん解決しません。
いかに右脳(感性)を使えるかということが大事です。
でも、それをこうやって文字で解説しちゃうと、すでに左脳(理屈)なんですよね。
言葉では説明できない。感情は、感情でしか説明(体験)できないんです。
それで、私の感情をみなさんにお見せしたわけです。
妻を喪失しなければ、みなさんに見せるほどの感情はありませんからね。
パートナーを亡くした感情は、だれでもわかりやすいですから。
左脳(理屈)の話をちゃんと受け取ってくれたら、「よく理解できました。よい知識を得ました。」という反応になるでしょう。
右脳(感性)の話をちゃんと受け取ってくれたら、「感銘を受けました。心が熱くなりました。」という反応になるのだと思います。
そういう意味で、私の伝えたいことがにちゃんと伝わったわけで、とても嬉しいです。

第三に、いつでも辛くなったら心の支援を受けても良いんだよ、ということをみんなに伝えたかったのかなと思います。
「いのちの電話」の講演でしたからね。こころを支援すること、支援を受けることがテーマです。
ふつう、心の支援を受けるなんて恥ずかしいし、そんなことするべきじゃない、と感じている人は多いと思います。特に日本では。
だから、あえて私がカウンセリングを受けてますということも伝えたんですよ。
その話をすると、家族も心配するし、ある友人に伝えると、
「おまえ、そんなに具合が悪いのかよ!」
とかなり心配されました。
いえ、そんなに具合が悪いわけじゃありません。別に、カウンセリングを受けなくても、普通の生活はちゃんとやってゆけ(ると思い)ます。でも、よりベターな生活のためには、カウンセリングがとても役立つんです。
北杜夫が昔、自分は「うつ病」だと言いまくり、こころの病を持っても構わないんだという社会認知に貢献してましたけど、そんな気持ちかな。

お返事ありがとうございました。
私の所属する団体のブログに先生の講演の事を取り上げさせて頂きました。すみません、事後承諾になってしまいました。
また、メールさせて頂いてもよろしいですか?

どうぞどうぞ!
また、こうやってブログネタに使わせてもらうかもしれませんけど。

追伸
ふつう、大学教授は理屈(左脳)を表現してメシ食ってますよね。
芸術家・作家・アーティストたちは感性(右脳)をうまく表現してメシ食ってる。
じゃあ、精神科医・心理カウンセラーはどっちなんだ?
ホントは両方使えなくちゃダメなんだけど。

Thursday, November 12, 2009

Happy Birthday!!

優子

46回目の誕生日、おめでとう!
ハッピーバースデーの歌、聞こえた?
ケーキは優子の分も子どもたちが食べちゃったよ。
去年までは「一緒にがんばろう」とか「これからも、よろしく」とかカードに書いていたけど、今年からは僕の心の中の優子に語るしかないよな。

正直、まだ優子を心のどの辺に置いたらよいか、よくわからないんだ。
3月くらいまでは、そうとう暴れていたよな。
圧倒的な悲しみに加え、後悔とか、怒りとかが洪水のように溜まってきて、一生懸命あふれる気持ちを掻き出していたよ。いろんな人に気持ちを話して、たくさん泣いて。
4月に納骨を済ませた頃から、少しずつ水位は下がってきたけど、まだ水浸しだったかな。後悔や怒りは静まり、悲しみに収束してきた。
これで、優子の誕生日や一周忌が過ぎて、自然に引いていってくれるといいのだけど。

優子は愛着という、心の一番大切な席にいたんだよね。
生きていた時は気がつかなかったよ。
急に空席になり、僕はどうしたらいいんだ!?
代理の人を立てようかとも思ったけど、とても無理だね。
残りの人生、このまま一番大切な席を空席にしておけっていうの?

優子を消そうかとも思ったんだよ。
たくさん悲しみを吐き出したら消えてくれるかなって試してみたけど、それも難しそう。
なぜなら僕自身、優子を消したくないから。

じゃあ、どうすればいいの?
横っちょの上の方に、新たな特別席を設けて、そこに鎮座してもらうとか。
でも、そういうのもイヤだなあ。なんかいつも斜め上の方から監視されているみたいだよ。

少なくとも、子どもたちの心にはずっと居てほしいからね。
親ってそうだよね。子ども時代は、一番大切な席にいた。でも成長していく中で、自然にその席から離れていった。
(今は、別の意味で、大切な席に居るけど。)

そうか!
執着しなければ、ふつうに居てもいいんだ。それほど気にしないで。急に出て来ても、急にいなくなっても、いちいちびっくりしなくても済む。
優子もそうなってくれないかなあ。
僕の心にもずっと居てほしいんだ。
でも、ヘンな時に出てきて、僕の人生のじゃましないでくれよ。
わかってるよ、優子はそんなつもりは毛頭ないってことも。
僕の勝手な思い込みだからね。

じゃあ、こうしよう。
僕と子どもたちの心をくっつけて広くしておくから、その中を自由に吹き渡っていてよ。そうたびたび出て来なくてもいいと思うから。
でも必要な時は呼ぶから、すぐに出てきてね。

Tuesday, November 10, 2009

優子が離れない

まだ、優子が離れない。
今まで、一生懸命優子を失った悲しみを表現して、優子のことを客体化しようとしてきたんだ。でも、まだ駄目だなあ。
優子は、ぴったり僕の心にひっついていて離れないよ。
よっぽど優子が生きているときのほうが楽だった。ちがう物体として存在していたから、ムカついてケンカしたり、忘れていることもできた。
でも、物体としての優子がいなくなっちゃったから、優子は僕の心の中にしかいなくなった。(もちろん、子どもたちや他の人たちの心の中にもいるけど⇒それを、一周忌で出し合おう!)
理論的に考えれば、優子ぐらい素敵で、関わっていく中で素敵なパートナーになれる人は、この世の中にたくさんいるはずなんだ。でも、そうは思えない。

もともと、付き合う前は優子と他人だったんだから、いなくなった今、また優子が他人になってくれればいいんだ。そうしたら、「ああ、そういう人がいたね」、って過去の人のこととして懐かしく思い出せるのに。

別の人ができれば、自然に離れてくれるのか。
それとも、優子が離れてくれないと、別の人はできないのか。
わからんね。

他人=愛着対象ではない人

(多摩サイを走っていて思いついたメモより)

Tuesday, November 3, 2009

優子の会

仏式は一周忌、神式は一年祭、カトリックは追悼ミサ、プロテスタントは記念式...
じゃあ、優子の場合は何と呼べばいいのかね。
偲ぶ会というのも、イマイチだなあ。とりあえず、優子の会にしておこう。

その日取りと場所を決めた。
そんなに派手にやるわけじゃない、親族と、優子と近しかった少しの友だちと、、、
だから、三が日でもいいか。
命日の3日にしよう。その方が、みんなの都合もつけやすいだろう。
場所は、都内の会館かホテルかな。
方々あたっても、まだ年始休業中だったり、新年会なんかですでに満員だったり。
いくつか当たった末に、都心の便利なところが見つかった。

だれに来てもらおうか?
どんな風にやろうか?
コンセプトは?
いろいろ、アイデアが湧いてくる。
優子を悼む気持ちは僕だけじゃない。
子どもたちだって、お義母さんだって、友だちだって。。。
みんなが無理なく、深い気持ちを分かち合えるにはどうしようか?
そういうのは、オマエの専門分野だろ!?
チャリ通勤しながら、こんなことを考えていたら、涙で顔がくしゃくしゃになってくる。

同じことが葬式の時にも起きたなあ。
毎日、葬儀屋さんが自宅に来てくれて、葬儀の打合せ。
無宗教だから、やり方も自由だ。
話しあっているうちに、涙が留めなくあふれてくる僕を、両親や、保育園の友だちが支えてくれた。

今日がちょうど10ヶ月目。
これから2ヶ月間、このことばかり考えているんだろうなあ、きっと。

Friday, October 30, 2009

Fear of no intimacy

それと、人を愛して、甘えられて、関わっていける、人にエンゲージしていける能力って実は当たり前なのではなく、ありがたいこと、すばらしいことではないのでしょうか。

同感。
自然にそうできる人にとっては当たり前のことで、わざわざ詮索することもないのだけど、「なぜうまくいかないんだろう?」と悩んでいる人って結構いるみたい。

Fear of intimacy
というか、普通のお友だちのうちは良いのだけど、ある距離より内側に入ってきて自分に近づいてくると、怖くなって逃げたくなっちゃうパターンや、steadyな関係になって始めの頃は良いのだけど、お互いに深くエンゲージしていくうちに、自信なくして関われなくなっちゃうパターン。そういう男性多いんですよ。先日も、友だちとそんな話をしてました。
 よくよく彼に聞いてみると、親の姿が影響しているんだって。子どもの頃、表面的には普通の、問題ない夫婦なんだけど、実はうまくいっていない冷めた関係ということが子どもの目からもよくわかっていたんだって。そういうのが反面教師みたいになって、誰かと親密になることにすごい違和感を感じるそうです。
 そういう意味では僕はラッキーだったのでしょう。子どもの頃、両親はくだらないことでケンカもしてたけど、基本的にはしっかり親密だったから、僕も優子との親密性を違和感なく獲得していったのでしょう。優子の親もそうだったみたい。
すごいケンカしても、その後仲良くなれる姿を見せるって大切じゃないかな。ケンカするってのも、すごいエンゲージだし。
ケンカできない夫婦もたくさんいますよ。

だから、僕の場合は、逆で、
Fear of not having intimacy
つまり、親密な関係が欠如していることが辛い、要するに寂しがり屋なんですね。
精神的に自立していない甘えん坊と似ているけど、ちょっと違うんですよ。
ひとりでも、生きていくことは可能です。
堪えようと思えば堪えられるかもしれないけど、ただ、辛いだけかな。

Thursday, October 29, 2009

ひとりの時間

電車の中でブログネタを書くことが多い(今も、そうだが)。
ひとりになれる時間
家の居間の隅にある書斎コーナーで、PCに向う。子どもたちが寝静まった深夜か、起き出す前の早朝なら可能なんだけど、ついつい、他の用事を思い出したり、集中しにくいんだよな。
大学の研究室は個室で、机とPCと本棚に囲まれ、研究に没頭する環境にあるはずなんだけど、そうでもない。
人が押し寄せてくる。寂しがり屋の僕は、ひとりよりも人といる方が落ち着くので、秘書に学生、相談員さん達。常時5-6人は居るかな。
仕事が押し寄せてくる。授業に学生指導。それに雑用の多さ。自分の好きでない仕事=雑用、と呼ぶのだが、会議類が多いのには閉口する。
だから、結局、家や職場ではなかなかひとり自分と向き合う時間を作れない。

むしろ移動中の電車の中が良い。
時間が短くても、まわりに人が居ても、ひとりになれる。他の用事もできないので案外集中できる。
JR中央線(東京駅-職場の国分寺)往復は通勤ラッシュと逆方向なので必ず座れる。本を読むか、睡眠か。でも最近はノートを取り出しモノを書くことが多い。車内でブログの下書きをして、後でPCに打ち込む。そういう時は、結構アイデアが出てくるんだよね。家や職場よりも文章がスラスラ出てきて、後で読み返しても、結構文章が走っている。iPodで好きな音楽を聞きながら、モンブランの万年筆を使えば最高だね。

もう少し長い時間ならノートPCを持ち込む。
新幹線は良い感じかな。大阪や仙台くらいまでなら集中力も途切れない。
特に、東海道新幹線の新型車両にはACコンセントや無線LANを使えるから、移動オフィス感覚だ。
もっとも、自分と向き合うためにはネットはない方がよいかも。ついついメールをチェックして、より集中力の要らない雑用に走っちゃうから。

飛行機も良いのだけど、座席が狭いからちょっと厄介だ。それに離着陸は使えないし、途中で食事が回ってくるから、案外落ち着かない。
欧州やアメリカなどのLong Haul Flightは、時間がたっぷりあるのだけど、ずっと集中するのは難しい。まずい食事をごまかすためにワインなんか飲んじゃうと、結局寝ちゃうし。
どうしても集中したければ、ワインを絶ち、あらかじめローカロリーメニューを注文しておけば、一番初めにスッチーが持ってきてくれて、(思いっきりまずいけど)満腹にならないから、仕事に集中できる。

チャリで通勤している時も、大切なひとりの時間だ。頭は自由なので、おっ、これブログに書けるじゃん!、研究に使えるじゃん!、というアイデアが結構浮かんでくる。覚えて置いて、後でノートにメモする。だから、チャリ用バックの中にはいつも小さなメモ帳とペンを入れている。
でも、時々忘れちゃうんだよな。2-3個アイデアが続けて出てきた時など、頭の中で漠然と浮かんだだけなので、始めの方のやつを思い出せない。なんか、もったいないと悔やむのだけど、また別の瞬間に出てきたりして。

人によっては、寝床の中で発想が出てきたりするらしいが、僕は寝床に入るとすぐに寝ちゃうからダメだ。でも、優子を亡くした直後しばらくは、夜なかなか寝付けず、早朝覚醒してしまい、どうしようもなかったので、よくブログを書いてたりしたよな。

Wednesday, October 28, 2009

精神科医に求められるもの

Pさんが我々の年代になって、今までなさってきた○○科から精神科に転科するのは、ある意味、とても賢い選択だと思います。○○科が体力や的確な判断力、技術力などを使うとすれば、精神科は習得すべき知識や技能ははるかに少ないし、体力もそれほど要求されないから、一見とっつきやすいです。しかし、実は奥がとても深い分野です。他の分野ではそれほど要求されない医師自身の人生経験や感性を主に使うからです。

私の経験からアドバイスさせていただくとすれば、まず自分さがしを十分に整理したらよいということです。

私も含め、精神科を志す人は多かれ少なかれそういう動機を持っています。
自分が何者で、どうやってここまでたどり着いたか。そこを十分にクリアしておかないと、自分が秘めた精神構造と患者のそれがごっちゃになってしまうんですよ。
そのためにも、個人的なsupervisionを受けられたらよいと思います。医局や病院では、そこまでは難しいでしょう。僕もいろんな機会を利用して受けてきました。今も継続して受けています。ご希望でしたら、具体的にご紹介しますよ。

精神科は診断・治療に関する理屈や知識ではないんですよ。本を読めば、さまざまな○○理論があるけど、それを深く理解したところで患者さんを治せるわけではありません。自分の心情や自己理解をどれだけ深めているか、ということが最も大切だと思います。

患者さんを診断するために、身体医学のような客観的データは一切なく、治療者の主観的観察のみがデータとなります。そこには、観察力の正確さよりは、豊かさが求められます。患者が語り、表現する内的体験をどう受け取り、どう意味づけするか。その際には、必ず自分自身の体験を基準枠として、そこからのズレを有意な情報、あるいは異常として感知しているのだと思います。
自分自身の体験自体が曇っていたら、いくら診断学を学んだってダメです。自分という主体が相手を知る時には、必ず自分独自のレンズを通します。まったく曇りがないレンズはありえませんね。多少、色がついていたり、歪んで見えます。自分のレンズは無色透明で、正確に対象を映し出しているんだなんて考えている人ほど危ないわけですね。病識がないというか。
自分の持っているレンズの色の付き具合、ゆがみ具合をちゃんと自分自身で把握できているか。つまり、自分の感情の動きをモニターできており、それが自分の人生体験のどの部分と、どう関連しているのかということを理解してなくてはなりません。そこまで自分自身を見つめ、深めることができれば、クライエントの体験も、無理なく深めることができます。逆にいえば、自己の体験を深められなければ、クライエントの気持ちを深めることもできません。誰でも心のふたを開け、その中の気持ちを深めようとすると抵抗しますからね。その違和感・不快感をどう乗り越えるかということは、治療者自身がそれを体験していないと、わからないことだと思います。

あえて整理しなくても、こういうことは自分自身わかっていらっしゃるかもしれません。普通の人は、それで十分なんですよ。でも、患者さんの心を支援する専門家は、さらにその一歩先まで深めなくてはなりません。自己の体験に言葉を与え、信頼する他者に向かって言語化する体験が大切だと思います。その困難さ、表現した時の、自己が崩壊する感覚、そしてそれが他者に受け止められ、カタルシスとともに再生する体験なんです。けっこう難しいですよ。ひとりじゃできませんから。協働してくれる人を見つけなくてはなりません。

表面的な症状を記載すること自体は簡単だから、短時間の研修でも、操作的診断マニュアルに当てはめて診断し、適当な薬を処方することはできます。でも、それを人間的に理解できないんですね。
こういうことは、いくら偏差値が高くて頭脳明晰なお医者でも、若い頃は無理だと思います。僕もこんなことを考えるようになったのは40歳を過ぎて、いろんなスーパービジョンやグループワークを体験してから考えたことなんです。だから、20代の医学教育に含めるのは無理で、自己努力でやらなきゃいけないんですよ。日本ではそういう体勢もほとんどできてませんからね。僕の体験の多くの部分は海外での研修やワークだったりするんです。

そういう意味でも、この歳から心機一転、精神科を始めるPさんには、ぜひ、このあたりのトレーニングも含めて考えられるとよいと思います。

Sunday, October 25, 2009

この顔はオレだ!


「いとしい女房」を失った長門裕之の表情を新聞で見て、そう思った。
始めの1-2ヶ月は、泣いたらホントにこんな顔してたんじゃないかな。
さすがに、今はもうこんな姿は見せないよ...いや、わかんないよ。一周忌ではまたこうなっちゃうかもしれない。

でも、心の中は、まだ変わっていない。
全然、忘れられないよ。

気持ちが詰まってくる

だんだんと、気持ちが詰まってくるんだ。

毎年、秋は週末がほとんど仕事関連で埋まってしまう。
大学の入試監督や講演、研修、出張などなど。
秋は祝日も多いから、すべての休日がつぶれるわけではないが、何だかいつも仕事をしている感じ。
いくら忙しくても、身体はぜんぜん疲れない。
精神的にも「疲れた!」という疲労感ではないんだ。何かで心の中がパンパンに詰まってきてしまうような感覚だ。
子どもたちと過ごす時間が少ないからかな。
昨日の土曜は祐馬の学芸会。
合唱でクラスが優勝したんだって!
でも、父親は参加できなかった。
じんは体操教室。
ちゅけはバレーの班活。祐馬は水泳。
3人とも週末も元気に運動しているよ。

昨日の土曜日は、子どもたちが起きる前に仕事に出かけた。
ちゅけが冬の洋服欲しいんだって。
じゃあ、パパが仕事を終えたら電話するから駅で待ち合わせよう。3人で、バスに乗って来れるだろ!?
駅ビルのユニクロで待ち合わせて、セーターとジャケットを買った。
その後、どこかで美味しいものを食べようか。
駅近のタパスタパスにしよう。
ママともよく行ったよね。
じんはいつものマルガリータピザ。ちゅけはスパゲッティの大盛だ。
美味しいけど、なんかまわりがうるさくて落ち着かないね。隣の人たちはタバコ吸ってるし。

今日は、これから西魔女に会いに行く。
夜は、また子どもたちみんなで食べよう!
じんはすき焼きをリクエストしたけど、もう一度、イタリアンにしようか。今日はパパが作るから。
家でゆっくり。昨晩のリベンジだ!

そうすれば、パパもきっと気持ちがすっきりするよ。

Wednesday, October 21, 2009

韓流プルコギ弁当


焼き肉用に、韓国で買ってきたプルコギ・タレ(日本でも売ってるよね?)と本場のキムチ、それに冷蔵庫に残っていた野菜(ピーマン、玉ねぎ、ナス)を加えて炒めただけ。刺激が強くて美味しそうでしょ!

祐馬曰く
パパ、毎日お弁当にお肉ばかり食べていたら身体に悪いよ!

Tuesday, October 20, 2009

house warming

Ryoko夫妻がオーストラリアから帰省して、週末に家に来てくれたよ。
ついでに、昔一緒に過ごしたJASC仲間にも声をかけ、4人くらい集まってくれてね。

でも、仕事で忙しく部屋を片づける暇がない。仕方がないか、散らかったままでも、これが現状だから
、、、と思っていたら、頼みもしなかったのに、ちゅけが掃除をしてくれた。
「これじゃあ、きたなくて、どうしようもないでしょ!」
そうだよな、ちゅけの言うとおりだよ。ありがとう!!助かった。

持ち寄りで買ってきたお寿司やチーズとワインを広げて、小さなhouse warming。
思えば、この家を新築した15年前にもみんなhouse warming partyに来てくれたよな。集まるのはその時以来だよ。優子の話をネタに楽しい晩を過ごした。

子どもたちは食べるだけ食べ早々に子ども部屋に引き揚げるかなと思ったら、そうでもない。居間に残りみんなと案外楽しそうに話している。日本語ペラペラのだいちゃん(オージーはDavidをダイビッドと読む)とも、日英チャンポンでよくしゃべっている。

僕)パパのお友だちが来るよと言ったら、子どもたち『え~、また~?』とかイヤがっていたんだよね。
ゲスト)親のお客さんなんてそうだよね。なのに、こうやってこの場に一緒にいるだけで、えらいよ!」
祐馬)えー、でも...
だいちゃんの子どもたちは、パパのことを恐いけど、本当は好きなんだって。
ゲスト)パパのことどう思う?
祐馬)しまりがない!
みんなで大笑い。
ニュアンスをダイちゃんに説明するの、苦労したよ。
じんは、9時前に早々に寝ちゃったけど、ちゅけと祐馬は結局、最後までお客さんたちと付き合った。

みんなを送った後、
僕)たくさんおしゃべりできて楽しかったね!
祐馬)うん。でもねえパパ、祐馬が言ったことみんなに全部バラさないでよ。イヤとか言ったら失礼じゃない。恥ずかしいんだから!
僕)いいじゃん、子どもはみんなそんなもんだって言っていたし、話してみたら楽しかったでしょ。だからイヤな気持は変わったんだし。
祐馬)そういうの、イヤなの!!もう人の気持ちがわからないんだから。ママもそうやってパパが人にすぐ言っちゃうことを怒っていたでしょ。祐馬、知ってるんだから。
僕)へぇ~、よくパパとママのこと観察していたんだね。

祐馬)でもさ~、ね~、オーストラリアに行きたくなっちゃった!
僕)そうだね、いつでもおいでと言ってくれたよね。
祐馬)とか言って、そのうちごまかして、忘れちゃうんでしょ。

みんな、後片付けどころか、散らかっていた台所まわりを、ピカピカにしてくれちゃったよ。こんなの、優子がいなくなった直後の保育園ママさんたち以来だ。

またこういう集い、やりたいね!
ぜひやりましょう。
ママもきっと僕らの姿を見て、微笑んでいるよ。

Sunday, October 18, 2009

寂しさの恩恵

Tikiは、ブログで寂しがりやだから人に囲まれていたい、って書いてるけど、呼んでもらっている私たちもTikiの寂しがりやの恩恵いっぱい受けている、っていうわけです。

そう言ってくれるのは嬉しいのですけど。
僕としてはドキドキ・ハラハラの綱渡り状態なんですよ。
確かにこうやって、寂しさのエネルギーをうまく利用してプラスに持っていくことは可能だと思うんです。
でも、ひとつ間違えたら恩恵迷惑になっちゃうからね。
寂しさの出し方の問題かな。
出しすぎす、ひっこめすぎず、蛇口を調整して、ちょうどよい分量を出すって難しいんですよ。

ひっこめすぎると、寂しさのエネルギーが自分の中にこもっちゃって、身体の中がパンパンになっちゃうんですよ。すると身体症状や精神症状(うつ状態とか)、あるいは逸脱行動に走ったり。

逆に、出しすぎると、人に迷惑をかけちゃうんですよね。期待しすぎたり、依存したり。だから、十兵衛さんみたいに、普段は遠くにいて、ネットだけとか、たまに会うだけくらいのほうが安全かもしれないよ。

Tikiは、ブログで寂しがりやだから人に囲まれていたい、って書いてるけど、呼んでもらっている私たちもTikiの寂しがりやの恩恵いっぱい受けている、っていうわけです。その証拠か、ブログを読んで大泣きした後、しばらくすると何故か安心感があります。人って本当に素晴らしい...ってじんわりします。これって何なのかしら、やっぱり、人だから・・ですね。

泣くって感情表出でしょ。
そのときは辛いけど、出しちゃった後は気持ちが楽になりますよね。
ゲロと似てるな。
子どもたちが小さい頃、マクドナルドのハンバーガーを食べて長距離ドライブしたら、ちゅけが車の中で吐いちゃったんですよ。それを見ていた祐馬が泣き出し、連鎖的に吐いちゃって。以来、子どもたちはマックが嫌いになりました。

詰まっているモノ(感情)が解放されるって感じでしょうかね。カタルシスcatharsis(感情浄化)とも言います。
ひとりでも泣けるよね。小説とか。
映画だとストーリー展開に加え、音とビジュアルが入ってくるから強烈だよね。
音楽でもあるかな。僕はミス・サイゴンのテーマを聞くとミュージカルで見たシーンを思い出して泣いたり。
祐馬はミスチルを聞いて、歌詞で感じてるって。
僕は歌詞よりも音そのものかな。20年以上前に青年の船に参加して、フィリピン沖を通過した時、大戦戦没者の洋上慰霊祭をやったんですよ。花束とお酒を海に捧げたところまではよかったのだけど、ボ~~~っという低く長い汽笛には参った。なぜか意味なくボロボロ涙が出てきたのを覚えている。

散歩していたり、チャリ通勤していたり、ブログを書いていても、時々ひとりで泣けてくるんですよ。
それなりにカタルシス効果はあるんだけど、誰か見守ってくれる人がいると効果倍増だよね。
さらけ出しちゃった自分の本性を受け入れてくれる、認められた、自分が肯定されたという感覚かな。

以前、映画館でクイールを見終わり、祐馬と顔を見合わせたら、お互い涙でボロボロだったね。
祐馬は「パパ、きもい!!」とかブーブー言ってたけど、パパはすごく何かを感じたよ。

クリニックでも、よく患者さんを泣かしているもんね。べつにイジメてるわけじゃなく、その反対のこと。
泣いてくれた時は、マッサージ屋じゃないけど、感情のツボをうまい具合に探し当てたな、シメシメという感じ。そのあとは、たいてい治療効果が上がるんですよ。

ケイさんとは現実でも接点があるから、よけい共感しやすいよね。これがもし知らない人のブログだったら、そう大泣きはしないんじゃない?
ケイさんが僕のブログで大泣きして、安心して、そのことを僕が知って、また安心するんですよ。
見守られているという安心感。

そうやって、ひとつひとつ、繋げていくことなんでしょうね。我々ができることは。

Friday, October 16, 2009

濃密な時間

韓国まで2泊3日の研究会に行ってきた。
僕が主催したのだが、日本・韓国・台湾から4名のeperienced family therapistsが集まり、各国で社会問題になりつつある「ひきこもり」の事例を紹介し合う。昼間、息抜きに観光もちょっとしたけど、基本的には朝から夜遅くまでホテルの広めの部屋に缶詰めになり、議論し合う。ひきこもりは日本特有の問題なんですよ。他の国にも同じような現象は見られるけど、日本ほど大きな問題になっている社会はない。そこに、最近、韓国や中国文化圏でも問題になってきている。国内の研究者だけが集まって、同じ文化の枠組みの中で話し合っていると気がつかない文化的前提も、違う立場stand pointsから話し合えるので、なぜひきこもりが日本に多いの、という文化的前提まで掘り下げることができる。
 また、以前(構造主義)は、科学者(セラピスト)が中立で客観的な立場が必要とされたが、最近(ポスト構造主義)では、そのような立場をとらず、セラピスト自身の物語も必然的に関与しながら語る中で、対象(たとえば「ひきこもり」)の(真実ではなく)物語が見いだされていく。
 したがって、研究対象の事例を話す前に、我々の個人的(文化的・ジェンダー的)体験を話し合う。今回集まったメンバーはすでにこの1年間ほどの間に3回集まっており、十分に親しい。特に優子が亡くなった翌月に集まったーメンバーと同じだ(2月3日「やっとひと月」参照)。今から読み返しても、ひと月後に、よくこんなこと出来たなあ!!その後の僕の経過なんかも話して、お互いに安心して話し合える信頼関係をしっかりと作る。
 ふつうの学会だと、自分のやってきたことを短い時間にまとめてさらっと紹介するだけだが、この研究会は、話し合うプロセス自体が研究対象となる。じっくり深めた会話を録音、テープ起こしして、さらに分析するんだ。

 帰ってきた翌日はクリニックで患者さんと向き合う。
 ある、うつ病の20代女性は、自分が親から見捨てられるかもしれないという不安を僕に話してくれたのだけど、その気持ちを怖くて親に伝えることができずにいた。
「大丈夫、私がついているから、話してごらん。きっとわかってくれるよ」
付き添いで来ていた母親を診察室に呼び入れ、女性は打ち明けることができた。

 こんなことばかりやってるからなあ。これは職業病ですな。
 あいまいな部分を深く突き詰め、言語化してはっきり浮き出すことによって問題を解決しようとしてるわけですよ、結局。

新婚旅行


済州島は韓国国内や日本からの観光客がいっぱい。
息抜きに済州民俗村博物館を訪れた。新婚旅行風の若いカップルが花壇の前に三脚を立て、自分たちの姿を仲睦ましく撮影している。
そう。この思い出は一生ものだからね。大切に心に刻んでおきな!!

出かける時、成田空港の出発ロビーで、偶然教え子に会った。優子の葬式にも来てくれた子だ。
「センセー、びっくり!」
「えー、奇遇だねえ!」
「今、新婚旅行から帰ってきたんです!紹介します、ケンタロウです。」
「え、ホント?おめでとう。よかったじゃん!でも、これからが本番だからね。がんばってね!」
「ハイ!!」

良いなあ、こういうの。
優子がいなくても、僕らのその時代は、しっかり心に残っているよ。
(というか、いなくなっちゃったから、過去を振り返るしかないんですけど...)

Sunday, October 11, 2009

Wedding Banquet

Tiki,
1日遅れ。気の利いた言葉はみつからないけど、ただ読んでますよ、二人のこと考えてますよ、と伝えようと思って。

竹橋会館だったけ?
皇居のお堀を臨む綺麗な会館だったよね。

そう。よく覚えてくれてるね。今は、KKRホテル東京と呼ばれているんだけど。
開宴の乾杯とともに、それまで締まっていたカーテンが一斉に上がり、皇居の東御苑を一望に見渡せるという演出でした。

赤地に金の刺繍を施した内掛けの優子ちゃんも可愛かったけど、ウエディングベールにつけられた生花にうまっちゃいそうだった優子ちゃんの姿が今でも目に浮かびます。なんかすごく可愛かったんだよね。お花の重みを小さい身体で必死で受け止めてるような、少女みたいな。その隣にいるTikiも、いつになく目がくりくりっとしてどこか少年のような初々しさが!

この写真、高校山岳部の仲間が撮ってくれたんです。まだ、23歳だったもんね!
僕は30歳になり、すでに友だちの結婚式もたくさん知っていたけど、優子にとっては友だちの中で一番早かったのかな。
でも、仲人は自分の趣味で、暗記した二人のプロフィールを延々と1時間くらいしゃべるし、仲人と仲が悪かった主賓の教授は大幅遅刻するし、内心は演台の上で気が気じゃなかったです。

一緒にいたJASCの男性陣からちょっとヤキモチに似た発言を聞いてしまった。まあ、しょうがないよね。Tikiが勝っちゃったんだもんね。タキシードのTikiが誇らしげだったのが印象に残っています。

ハハハ。
今だから言えるけど、その頃はお互いにいろいろドラマがあったみたいね(特に優子は)。
映画「卒業」みたいにならなくてよかったよ。

 二次会のお開きに、「え~、ホテルニューオータニにスイートをとってありますので、皆さんどうぞ来てください!」とTikiが挨拶。お値段のはるスイートって二人きりになるためにとったんじゃないの?そこへ人を招待しちゃう新郎なんて、未だTikiしか知らないです!
 ウェディング・バンケットっていう映画で、宴会直後の中国カップルの部屋にマージャンもって仲間が押しかけるシーンを観た時、そういえばTikiは自ら仲間を招待していたな~と思い出しました。

 そう、みんなを招くためにスイートとったんですよ。そういうノリで、朝までみんなと騒いでいたいなって。どうせ、その後、ハワイの新婚旅行でたっぷりふたりっきりになれるからね。
でも、みんな気をきかせて終電前に帰っちゃったんですよ。
残念、、、ってつぶやいたのが、結婚後、一番初めのケンカでした。
そりゃ、そうだよね。花嫁にしてみれば朝早くから衣装を着せられ緊張して、たくさんの人たちの視線を浴びて、疲れ切っていたでしょう。早く休みたかったはずです。

ハワイではその分、のんびり、ゆっくりできたんですよ。
でも、ドライブで寄ったハナウマ・ベイの長い階段を優子が登り切れず途中で止まっちゃってね。この当時から心臓には問題アリだったんです。
帰って来てから精密検査とバイパス手術をして、翌年から3年間ロンドンへ行き。
ロンドン滞在中にもちょっとおかしくなって、ステント手術を追加したんですよ。
帰国してから子どもを3人作って、育てて、仕事もして、、、、
優子もよく頑張ったよね。
淡々と過ごした21年間だったけど、振り返ればずいぶんドラマチックでした。

Tikiは、ブログで寂しがりやだから人に囲まれていたい、って書いてるけど、呼んでもらっている私たちもTikiの寂しがりやの恩恵いっぱい受けている、っていうわけです。

そう言ってくれると嬉しいのですけど、僕としては恩恵のつもりが、いつか被害に変わりやしないかと、心配なんですよ(笑)。

Saturday, October 10, 2009

結婚記念日

Pさん、メールどうもありがとう。
今日は、22回目の結婚記念日だったんですよ。
体育の日。

こういう日は、どうしても思い出してしまいますね。
仕方がないので、メールに気持ちを書かせてもらいます。

たしかに、ご指摘の通り、僕は今まで、比較的効率よく人生を進めてきたかもしれません。
そりゃ、曲がっているよりは、真っ直ぐの方が良いですし、好き好んで曲がる人はいないでしょう。でも、結局、どっちの筋道を進むのかってのは途中経過であって、大切なのはどこに行き着くかってことなんですよね。僕は、今までが真っ直ぐだった分だけ、この歳になって、それが失われることをとても恐れているんだと思います。いまさら不幸になるなんて、ありえない!ってね。精神科医をやっていれば、幸せが簡単にひっくり返ってしまう例なんか、たくさん見てきているはずなんだけど、いざ自分のことになると、ダメですね。全く冷静でなんかいられません。

確かに、僕は基本的にすごく寂しがり屋なんだと思います。
外向的で、人と一緒に居るのが好きな僕は、それが崩れるとパニックになるんですね。
もともと、ひとりが好きな人だったら、そんなに寂しがることもないのかなって思います。
いまさら僕が内向的性格に変われるわけないし、こうやって、寂しがって、人を求めようとジタバタするしかないんですね、きっと。

そうですか、心の中で共存させることは可能ですか。
それを聞いてホッとしました。
まだ無理だけど、もうしばらくして(どれくらい待つかわからないけど)、就職活動を始めたら、ふつうにしてればいいんですよね。無理に優子を消さなくても、そっと心に置いておけばいいんだ。
まあ、今からそんなことをグジャグジャ考えてもしかたがないし、実際はそう理屈どおりにはいかないのでしょうけど。

ホント、人生がこういう展開になるなんて、想像の域を越えてましたよ。
客観的に振り返れば、優子の心臓は問題アリだったのだから、こういう状況も十分想定できたはずなんですけど(医者のくせして)。考えたくないことは、完全に意識の外に置けちゃうみたいです。

Wedding Anniversary

MKP brothers,

I need your help.
This is nothing urgent nor emergency, but something bugging me all the time.

Data
Today is my 22nd wedding anniversary with 優子.
I am writing this in 新幹線on my way back from 仙台. I had to work all day today (Saturday).
Eugene got a fever yesterday, and he was still sick when I left this morning. I got a phone call from my parents, and found him to be a swine flu. I excused from my work commitment, and hurry back to home.
All the three kids got fever sometime during the week. I did not have enough time to stay with them and take them to a doctor. I have to depend on my parents to look after them. Zen is old enough to take care of himself, but Eugene is not.
I will be off to Korea for three days next week for my research meeting. It is a kind work I would enjoy, but I will be away from my family.
I have been away from our i-group quite some time. I've got too many works to be involved to come to the meetings.

Judgment
I still cannot achieve my long standing intention to cut my workload and to stop being in the middle of a washing machine. I did manage to cut out some of my work assignments since I lost 優子, but still many new projects to come.
Having said it, I have improved the quality of my work. I used to accept every kind of offers, but now I have learned to say NO and only choose the ones which deserve. But I still do not have enough time to spend with my kids. I also want more time to be in touch with my deep feeling. I am always occupied with either my work or my family, which I enjoy both. I can be left alone to reflect myself only when I am in the long ride train or at the group with you.

Feeling
優子is still very alive inside of me. I think about her a lot with the great pain. She is like air I breathe. I do not think about it when it is there. I become very aware of the lack of it when it's gone. I mourn its loss, and feel like choking. I wanted to celebrate our 22nd anniversary of our marriage, but she is gone in the wind. I feel it is no use to think about her, and want to release her from my memory, which I cannot. I cannot breathe if I hide this feeling. The only thing I can do is to talk to you like this and place it at the top of my sword.

Wants
For myself, I want to share this feeling with you.
I want to spend more time with children.
I want control my work load and stop being in the washing machine which never stops.

For the warrior brothers, I want you to be connected with me. I feel sad that I cannot meet you as much as I want, but still your spirits means a lot to me.
I am thinking about how I may organize the one year memorial ceremony. I am not sure yet when and how. Should it be on January the 3rd? It is during the New Year holiday, and many people may come, but I don't know it is the proper time to mourn during a happy holiday season. Could it be before the date (e.g. last week of December), or after the holiday season (like second week of Jan.)
I want her memorial to be non-religious like the funeral. One possibility may be to make the circle with my family to draw her spirit into the circle so that we can directly talk to her. I want you to be present and help us for the ritual just like we did at the funeral. This is just one possibility, and I have not decided yet. At this moment, I just wanted to share with you what I have on my mind.

Thank you for being with me.

Thursday, October 8, 2009

放出系

ケイさん、メールありがとう。
そうやって、こっそりブログ読んでくれていて、メールくれるのが一番ホッとするんですよ。
お返事を書くことで、溜まった気持ちのドブさらいができるから。

無理して頑張っているわけでも、してるわけでもないんです。
みんなの前で、心の痛みをしゃべっちゃうことも、
普段、能天気に明るくしていることも、
ブログに悲しみを乗せていることも、
自然に出てくるものを出しちゃっているだけなんですよ。

僕は放出系なんですね、きっと。
悲しんで、感情を表出することも、
明るく振舞うことも、
感情を身体(筋肉)に乗せて、(暴力ではなく)チャリやスポーツに放出することも。
それらのプロセスを経て、悲しみのエネルギーが消化されていくんですよ。

ただ、条件があって、出しっぱなしではダメなんですね。カラの空間に出しちゃうと、自己が崩壊してしまうんです。それをしっかり受け止めてくれる人がいないと。
それは、テニスの相手だったり、ゴルフコースのホール(穴)だったり、
僕のオヤジギャグを受け止めて、シラケてくれる人だったり、
ブログを読んで泣いてくれる人なんです。

放出しないと溜まっちゃうんです。
それを抑え込もうとすると、全部のチャンネルを締めなければならない。
悲しみというチャンネルひとつだけを締めて、他のチャンネルを開けておくのは無理です。
開いた方のチャンネルから、抑え込んでる気持ちが漏れてきちゃいますから。
もし、すべてのチャンネルを閉じると、喜びも、意欲も、運動するエネルギーも、すべて締まります。それが、抑うつ反応(うつ状態)なんですよ。しまいには、いのちそのものさえ締めなくちゃならなくなります。そういう人たちに、たくさん会ってきましたから。

僕の場合、それはあり得ないんです。
Extrovertな僕は、
内へのひきこもり系ではなく、
外への垂れ流し系なんです。
ひとりでいるのを好む人は前者。
僕は、誰かといるのを好む人なんです。
前者は、内へ貯め込むので、自分が困ります。
後者は、外へ垂れ流すので、まわりの人が困ります。
まわりの人、気をつけて下さいね(笑)!

p/s これが、僕が考える相談活動の基本でもあるんですけど。

Monday, October 5, 2009

The Perfect Day??

日曜日
07:00 起床。ちゅけのお弁当づくりと朝食。
09:00 近所のゴルフ練習場で二箱(100球)打つ。うまく飛ばず、コーチに指導を受ける。
11:00 友人が申し込んでくれた区営のコートで友人4人で2時間ぶっ続けのテニス。足がつる寸前。
13:30 保育園のバザーに子どもたちと行く。保育園時代のお父さん・お母さんたちと交流。ビールと、板前のお父さんが作った本格沖縄そばの昼食。
15:00 またゴルフ練習場で100球打つ。全身くたくたの方が、力が抜けてうまく飛ぶ。
16:00 近所の床屋でさっぱり散髪。
17:30 風呂に入り、念入りにストレッチを2ラウンド。固くなった筋肉をひとつひとつほぐす(村上春樹風)。
18:30 子どもたちの食事をおばあちゃんに頼み、大学の親友夫婦とその友だち夫婦、計5人でイタリア料理の会食。閉店時刻までおしゃべりに花が咲く。
22:30 11時まで営業している駅近くのスーパーで、明日のお弁当用に3割引きのお惣菜を買う。
23:00 帰宅すると、上の子ふたりはまだ起きていた。
23:30 さらにストレッチを1ラウンドして、就寝。

--------

人は、困難に直面すると、元来持っていた傾向を強めることによって、それを回避しようとする。

本人は、それで救われると考えるが、そのことが必ずしも良い結果を生むとは限らない。
たとえば、思春期の子どもが困難に直面すると、母親は保護を強め、父親は厳しさを強める。その結果、母子密着と父親疎遠がさらに強まり、子どもは余計自立が難しくなる。

僕の元来の傾向は、身体を動かすこと(身体的なカタルシス)と、人と交流すること。
それが良い結果を生むか否か、本人は客観的に判断することができない。

------------
下記は、友人がネットで見つけ、転送してくれたジョーク。なんか、似てるなあ。
ブラック・ユーモアの中にも、ジェンダー差が見えておもしろい。

The Perfect Day for a woman:
08:15 Wake up to hugs and kisses
08:30 Weigh in 5 lbs lighter than yesterday
08:45 Breakfast in bed, freshly squeezed orange juice and croissants
09:15 Soothing hot bath with fragrant lilac bath oil
10:00 Light work-out at club with handsome, funny personal trainer
10:30 Facial, manicure, shampoo and blow dry
12:00 Lunch with best friend at outdoor cafe
12:45 Notice boyfriend's ex-wife, she has gained 30lbs
13:00 Shopping with friends, unlimited credit
15:00 Nap
16:00 3 dozen roses delivered by florist, card is from secret admirer
16:15 Gentle game of Tennis, followed by a soothing massage
17:30 Pick out outfit for dinner, primp before the mirror
19:30 Candlelight dinner for two followed by dancing
22:00 Hot shower (alone)
22:30 Make love
23:00 Pillow talk, light touching and cuddling
23:15 Fall asleep in his big strong arms

The Perfect Day for a man:
06:00 Alarm
06:15 Blow-job
06:30 Massive dump while reading sports section of The Sun
07:00 Breakfast, bacon, sausage and eggs, toast and coffee
07:30 Limo arrives
07:45 Bloody Mary en-route to airport
08:15 Private G4 to St Andrews, Scotland
09:30 Limo to St Andrews Golf Club
09:45 Golf
11:45 Lunch, burger, chips and ketchup, 3 Beers
12:15 Blow-job
12.30 More golf
14:15 Limo back to airport (more beer & en-route Blow-job)
14:30 Private G4, to Glasgow (nap)
15:30 Late afternoon Guinness drinking with all female (topless) crowd
17:00 G4 back home, massage & hand job en-route by naked girls
18:45 Shit, shower and shave
19:30 Dinner, even more beer, 20 oz. Steak
21:00 Brandy and Cuban Partagas cigar
21:30 Sex with three women
23:00 Massage and Jacuzzi
23:45 Bed (alone)
23:50 12 second, 4 octave fart, dog leaves the room
23:55 Giggle self to sleep.