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Sunday, December 13, 2009

自分の生き方を見直す時

卒業生の○○エリです。
突然の訃報から、もうすぐ一年になるのですね。
奥様が旅立たれた告別式は、私にとって衝撃であり自分の生き方を見直す時となりました。
「いつか迎えるこの時に、私はこの様に見送ってもらえる様な人生を歩んでいるだろうか?」
「本当に精一杯毎日を生きていただろうか?」
そんな自問自答を繰り返したこの一年、いつもより少しだけ頑張っている自分がいました。今は見つけた夢に向かって、毎日予備校の自習室に通う日々です。相変わらずモンモンと悩む時もありますが、奥様が背中を押してくれている気がします。

近況追伸:AとBは7月に結婚しました。Cも入籍済。Dは子育てに追われているらしいです。Eと私は相変わらず同志で飲み友だちです。

お便りありがとう。
エリさんも告別式に来てくれていたんだよね。僕は心が爆発していたからよく覚えていないけど。
そうか、優子はエリのところにも来ているんだ!
私も子どもの頃、祖母を亡くして同じような経験をしたよ。

三人称の死が、一人称の死(自分が死ぬこと)に対するリアリティとして迫ってくる。
他人ではない、自分と身近な人の死を経験して、自分のいのちの有限性に気づくんだよね。毎日の生活に追われているとそんなことに思いを馳せる時間はないけど。
死を見つめれば、必然的に自分が生きているいのちの意味を問うことになる。そうすれば、自然と頑張れるよね。
そういう意味じゃ、心の隅にいつも死(=いのちの終末)を留めていると、良い生き方を見つけることができるのかもしれないね。ちょっと辛いけど。

僕の場合は、二人称の死だから、対岸の死として自分を見つめられるほど余裕はないよ。
子どもの頃、いのちの有限性に気づき、一所懸命模索してきた僕の生き方のかなり大きな部分が優子だったんだ。だから、今までと同じようには生きていくことができなくなっちゃった。改めて、僕のいのちの意味を見つけ直し、再構築しなくちゃならない。それが出来ずに、伴侶の喪失とともに自分が生きている意味を失い、死んじゃう人も結構いるからね。
二人称の死は、一人称の生(自分が生きていること)に対するリアリティとして直に迫ってくるよ。

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