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Thursday, March 31, 2011

Amsterdam父子三人珍道中 (4)

今日は朝食は仲間たちと一緒だが、昼間はずっと子どもたちと3人で過ごした。
午前中は車で15分ほどの郊外にあるKeukenhofキューケンホフ公園へ。こういう公園、パパ好きなんだ。バンクーバーでも市内の大きな植物園にママやおばあちゃんとも一緒に行ったよね。国内でも、兼六園とか岡山の後楽園とか素敵だし、ヨーロッパの庭園も和むよね。ほんの1週間前に開園したばかりだけどずいぶん人が来ていた。まだ露地ものは早いね。でも温室のチューリップはみごとに咲き乱れていたよ。こんなにたくさん色鮮やかなチューリップ、見たことないよね。

午後は、日本でも大学町として有名なライデンへ。昼食のクレープ、湧仁は食べたけど、祐馬やっぱり残したでしょ。Kids Menuはイヤとか言っても、こっちの量は日本とは違うんだよ。まあ、祐馬の言うとおりすごく美味しいってわけでもないけどね。ヨーロッパの北側、イギリス、オランダ、ドイツとかゲルマン系はダメなんだよ。南のスペイン・フランス・イタリアあたりのラテン系の食事はとても美味しいけどね。シーボルト・ハウスとかの観光スポットは省略し、ショッピング三昧。祐馬は夢中で、じんは退屈。パパもあまり乗り気じゃないけど、キミたちと一緒に過ごすこと自体が楽しいんだ。

夕方から学会が始まった。学会の方は今回はどうでもいいのだけど、地震のことはみなが心配してくれる。日本人はパパだけでしょ。知らない人でも日本人とわかると寄ってきていろいろ話しかけてくるでしょ。日本の被災はこれだけ世界中の人々が注目していることを改めて実感するね。今は、のんびり海外にいるけど、日本に戻り、どうこれから復興していくのか、そのプロセスにパパが専門性をどう生かせるのか。海外の人たちとも話して、いろいろ考えている最中なんだ。

Wednesday, March 30, 2011

Amsterdam父子三人珍道中(3)

今日はまる一日、子どもたちと過ごした。
アムステルダムの街まで車で30分ほどの距離にある。ホテルの人に聞いた道がわからず、迷いっぱなし。オランダの首都といっても日本でいえば地方の中核都市くらいの規模だから、カーナビを頼りにどうにか目的地に着く。
ねえ、パパ、道わかってんの?
ううん、ぜんぜんわかってないけど、、、
助手席のじんは不安そうだが、結果的にはどうにかなったでしょ?まあ、そうならない場合だってあるのが人生なんだけどね。
機内誌にあった、Iamsterdamのオブジェ、国立美術館がある公園に見つけたね。よじ登って写真を撮ろう。
国立美術館とゴッホ美術館を見て回る。
パパも美術はよくわかんないんだけどね。
レンブラントの「夜警」、フェルメールの「牛乳を注ぐ女」とか、美術の教科書に出てくる絵がふつうにあるでしょ!
ゴッホ美術館では、「自画像」「ひまわり」「黄色い家」とかあるんだけど、ひとつ見つからない。
「寝室」の絵はどこにありますか?
警備の人に尋ねたら、"It's in Tokyo now."
"Ahha!"
"Where are you from?"
"Tokyo."
"Ha!"
冗談のような会話でした。
祐馬、ゴッホ美術館よかったなあ。ゴッホって精神病だったからあんな絵が描けたんでしょ?
そうだね、録音された解説を聞きながら、まる一日かけてひとつひとつ丁寧に見て回りたいね。それだけ価値がある文化だよ。
オレ、美術館とかヒマでしょうがなかったよ。オレ、まだこういうのがわかる年齢じゃないもん!
年齢は関係ないんだよ。パパだってわからないし!

運河のクルーズも1時間半かけて楽しんだね。
江戸時代は鎖国してたけど、オランダとは出島に来てたでしょ。その頃って、こうやって船で物流をやってたんだよね。みんな煉瓦でできてるでしょ。日本みたいに地震があったら一発で全滅だね。
夜は、パパの友だちと一緒に近くの海辺のリゾート町にあるレストランでディナーだよ。浜に沈む夕焼けが綺麗だね。じんは眠くてしょうがない。時差ボケだからしかたないよ。食事が来るまでテーブルに突っ伏して寝てたけど、デカいステーキが来たらちゃんと食べたじゃん。
食後、ホテルに戻って、祐馬は大丈夫?、まだ起きていられるんだ。
ロビーで話に興じているパパ達の隣で、PCを使ってFacebookやってたね。KhawlaもIsoldeも言ってたよ、2年前に母親を亡くした子どもたちには見えない。ちゃんと成長してるねって!

Tuesday, March 29, 2011

Amsterdam父子三人珍道中(2)

成田⇒アムステルダム直行便のはずだったKLM機は急きょ関空経由となった。
駐機場に繋げて客が降りるわけではない。給油のためのstop overで、乗客は機内にいたまま。これも、震災の影響かなあ?スキポール空港でも、日本からの飛行機は荷物の放射能の検査をしてから乗客も降ろすんだって。おかげで30分以上待たされたよ。緩いはずのECの入国検査もいつもと違ってやけにいろいろ聞かれた。子連れだったからだろうなあ。なに、子どもと日本を抜け出してこっちに避難してきたとでも思ってるわけ?なんか難民扱いだなあ。

空港でレンタカーを借りてホテルまで30分ほど。
パパはねえ、20年前にロンドンに住んでいたころ、ママと一緒に車で大陸を2週間かけて一周ドライブしたんだよ。だから、慣れているんだ!
とは言え、まったく初めての道。幸いカーナビがあるからなんとかたどり着いたけど、右も左もわからない。祐馬は後部座席で不安そう。
だって、バンクーバーでも車運転したじゃない。大丈夫だよ。
NoordvijkerhourtはAmsterdam郊外にあるConference site。日本で想像するよりずっと田舎だねえ。まわりは広々としたopen spaceが広がっている。チューリップ畑かなあ?僕は運転に夢中で、まわりを見渡す余裕なんかない。でも、こうやってunknown placeがknown placeに変わっていくのは愉快だ。新たなadventure!

ホテルに入ると、ロビーでKhawla, Isolde, Davidと再開。ずっと我々を待ち受けてくれたんだって。KhawlaとDavidは11月に東京で会ったから4ヶ月ぶり、Isoldeとは3年ぶりくらいかなあ。
まずい機内食を詰め込まれたけど、またお腹が減ってきた。みんなでホテルで軽い食事。でも、日本時間じゃ夜中の2時くらいだよ。じんはトロトロ、食事が出てくるまで居眠りしていたが、大きなクラブハウスサンドが出てきたらぜんぶ平らげた。よく食うねえ!
僕はビールと祐馬の残したスパゲッティを食べて、さあ、やっと眠れるね。
3人でじゃんけんして負けた人がextra bedに寝るんだよ。みんな疲れ切ってシャワーも浴びずに寝ちゃった。
でも、時差ボケで明朝は早く起きちゃうことはわかってるんだ。

Monday, March 28, 2011

Amsterdam父子三人珍道中(1)

成田空港のロビーは春休み中だけどさすがにガラ空きだ。震災から2週間が過ぎ、海外脱出の在日外国人の波も落ち着き、この時期わざわざ海外旅行する日本人も少ないだろう。
今回参加するIFTA (International Family Therapy Association)は久しぶりだ。2年前の3月はオレの受傷の2か月後。とても行ける状態ではなかった。去年もまだ無理だった。香港や韓国程度の距離なら行けたんだけど、アルゼンチンは遠すぎた。
今回はアムステルダム。優子を亡くして初めての欧米行きだ。
いい加減、もう優子のコンテクストで語らなくても良いんだけどね。まあ、ブログだから、、、
人はnegative(トラウマ)であれpositiveであれ、過去の強烈な体験を繰り返す法則がある。
オレも高校留学以来、海外旅行は強烈にpositiveな体験、しかもハイになる体験だ。のんびりビーチでボケッとできればいいんだけど、どうしても国際交流してしまう。でも、今回は初めての発表なしの国際学会参加だ。今まで何十回と参加した国際学会には、わざわざ遠くまで行くんだからと必ず発表してたんだけどね。初めての体験だ。
子連れの家族旅行兼仕事の旅行。その割合は7:3くらいにしたいな。だって、こっちに滞在中に大学教授の年季が明けるんだよ。自由人にさせてくれ!定年退職の65歳の方々は31日に学長に会う慣例らしいが、自己都合退職のオレはそれもパスだ。

発表しなくたって、十分国際交流の旅になってしまう。KhawlaやDavidら、international friendsに会うのが目的だし、それに今回の大震災。海外の人たちはすごく関心を持っていてくれる。多くの友人が海外からボクの安否を気遣いメールをくれた。ホテル予約がネットでうまくいかなかったので、現地に電話した。予約係のねーちゃんまでオレが日本人とわかると「たいへんねえ~」と励ましてくれる。
新たな目的ができた。震災からの緊急アピール"Urgent Appeal to family therapists worldwide"を昨日即席で作った。どうせ学会で人に会うたびにこのことを言われるだろうからね。

しかも、今回は祐馬とじんを連れてきた。
子連れの学会旅行は初めて。アメリカ人なんか、学会会場まで子供を連れて来たりよくやってるけどね。優子がいたらこんなシチュエーションはありえなかっただろう。学会はそこそこ顔を出す程度にして、あとは子どもたちとたっぷり時間を過ごそう。父と子どもの距離が縮まる!?
海外では、みんなと違う自分でいることができる。しっかり自分と向き合える孤独なひとり旅もいいのだが、子供たちと向き合える親子の旅もいいな。
ちゅけは既に親子の親密性から離脱した。祐馬ももうすぐだろう。一緒に行ける旅も今回が最後かもしれない。

エコノミーの狭い座席は知らない人が隣だと窮屈でしかたがない。キミたちが隣だと広く感じるよ。
そっと子どもたちの身体に手のひらをあててみる。
ちゅけ⇒静かに「ねえ、暑いからやめてくんない!
祐馬⇒「なにすんのよ!」と無言でバシッ!
じん⇒何も言わず、そのままやらせている。

Thursday, March 24, 2011

最後の小学校卒業式

じん、ごめんね。
中学の制服と卒業式の貸衣装を注文すること、すっかり忘れていたよ。
12月に新1年生の説明会が中学であったんだよね。仕事があったし、もう3回目だから行かなくても大丈夫、後で書類が送られてくると思っていたんだ。でも、送られず、そのまま忘れていたよ。
祐馬のときは、12月にママが説明会に行ったんだよね。
その後、ママは死んじゃったけど、祐馬が気にして、友だちのお母さんといっしょにイトーヨーカドーに買い物に行ったよ。
祐馬もママも女の人は友だちネットワークが得意だけど、じんもパパも男はダメだね。保育園のパパママネットワークはあったけど、小学校のママ友ネットワークには入れないし。結局、そういう情報から切り離されちゃうんだ。
パパも子どもたちの弁当作りとか目の前に見える部分はできるけど、それ以上はなかなか手が回らないよ。

じんの卒業文集、読んだよ。
6年間を振り返って。
そうだよな、入院のことはパパもよく覚えているよ。2年生だったことは覚えてないけど。
冬に風邪をこじらせマイコプラズマ肺炎になり、日赤病院に入院したね。パパも小2の時に肺炎になって学校をずいぶん休んだんだよ。だから、その辛さよくわかる。でも、パパの時は家で寝ていて、お医者さんが家まで往診してくれたんだ。
じんは入院したよね。その方がいつも看護師さんがついているから病気を治すにはずっと良いんだ。でも、ひとりで病院のベッドにいたのは寂しかっただろう!昼間はじじばばが来てくれて、兄・姉も来て、ちゅけはマンガ、祐馬はおもちゃを持ってきて、、、そのこと、じんはよく覚えているんだね。もちろん、ママとパパも仕事が終わって、交代で駆けつけ、就寝の時間までいたよ。
予想よりも早く退院できるって知らせを受けたとき、パパは嬉しくて思わず泣いちゃったよ。結局、一週間くらいだったっけ。
家族が危機の時、家族の愛を確認できるんだ。(もし愛がなかったら、そのことも顕在化してしまう)
ママが死んだことは文集には書かなかったね。そう。書きたくないよな。

そして今日は、おまえの卒業式。冷える体育館で卒業生の入場を待っている。
パパは入場シーンに弱いんだよ。ちゅけと祐馬の時もそうだった。始まる前が一番感傷的になるんだ。なぜか涙が止まらない。

さあ、入ってきたぞ。5年生がリコーダーで演奏するPomp and Circumstanceに乗せて、威風堂々と入場してくる君。通路の脇の席だから手を延ばせば届くのに、届かないところに離れていく。
すごく淋しいけど、すごく嬉しいよ。

Saturday, March 19, 2011

山中温泉

1年半前、優子を失った年の夏に、保育園仲間エドヒさんの別荘へ子どもたちと行った。
その帰り道、伊東の駅前で、ばったり大学の同僚と出会った。彼は10年前に奥さんを亡くし、自分自身が喪失から回復していくプロセスを本にして出版した心理学者だ。私のこともずいぶん応援してくれた。

出くわした時、彼は女性の友だちを連れていた。紹介してくれたものの、恥ずかしそうにあまり言葉も交わさず、足早に過ぎ去っていった。

私はその時、とてもホッとして気持ちが安らいだことを覚えている。
当時、まだ悲しみの最中にいた私にとって、彼はそれを乗り越えた先輩格だ。
悲しみのトンネルの中から、出口の灯りが見えたような気がした。
でも、それはまだはるか遠い先の光の点でしかなかった。

Friday, March 18, 2011

祝辞

卒業生のみなさん、ご家族のみなさん、本日は本当におめでとうございます。
今年は私が主任でして、慣例に従い、教室の先生方を代表してひとことお祝いの言葉を述べさせていただきます。
授業でみんなにしゃべるときはこんなことしないんだけど、ほら、今日は原稿まで作っちゃったよ(笑)
今年の卒業式は、全体の式も、夕方の謝恩パーティーも中止という変則的な卒業式になり、とても残念ですね。
我々は未曽有の大災害に直面して、今、日本中が危機状態にありますね。
今日は、危機について話そうと思います。
危機は英語でいうとCrisisです。漢字をバラバラにしてみると危険dangerのと、機会chanceのが組み合わされていますね。危機とは危険という代償を払って、新たなチャンスが生まれる可能性を秘めているんです。

十数年前に、阪神淡路大震災が起きた時、私も現場に行き、一週間ほどでしたが心のケアのお手伝いをボランティアでやってきました。復興のお手伝いをしようと、全国から多くのボランティアたちが集まり、新たな人と人との繋がりが生まれましたた。

今回は、津波が収まった後も、今だに原発の危険が続いています。今後どうなるのかとても不安ですが、それを乗り越えて、きっとこれからすごい勢いで復興していくでしょう。日本国中の人たちが心配し、みんなが力を合わせて危機を乗り越えようとしています。
私はいつもメールやツイッターを活用しているのですが、震災の後は、安否を確認したり、震災関係の情報がたくさん流れてくるようになりました。

みなさんにも話したと思いますが、私も2年前に個人的な危機に直面しました。21年間つれそった妻を突然の心臓まひで失ったんです。
それから、私の心の復興が始まりました。どうやって復興したかというと、多くの人たちとつながって、悲しい気持ちを出しまくりました。カウンセリング、普段は私がカウンセリングをする立場なんですが、逆に受ける立場になり、また子どもたちや同居している両親にも助けてもらいました。
ああ、この話ね(苦笑)。原稿に書いちゃったから、恥ずかしいけど話しますけど、、、
私が君たちくらいの大学生の頃、付き合っていた人がいて、その人と別れたんですよ。ふられちゃったんですけど。その元カノとは、なぜかその後もずっと年賀状だけはやりとりしていて、私の妻が亡くなったことを知ったら、すぐに「がんばってね~!応援してるから」とメールをくれたんです。いえ、別に会ったり復活したわけじゃないですよ(笑)。でも、私のブログなんかも読みに来てくれて、遠くから強力なサポーターになってくれているんです。

そして、二年経ち、新たな旅立ちの決心をしました。大学を辞めて、もともとやっていた精神科医の仕事に戻るんです。大学の先生というのは、みんなとも出会えたし、とても魅力的な仕事です。でも、私が本当にやりたいのはなんだろう、私が持っている専門性を生かせるのはやはり精神科の臨床だろうと、実はずっと前から何となくそう思っていました。そして、妻を失い、自分の残りの人生のことを考え、ようやく決心がついたんです。
だから、私もみんなと一緒に大学を卒業するんですよ。みんなは4年間、あるいは2年間。私は19年間です。でも、みんなの4年と私の19年は密度的にいえばだいたい同じくらいかもしれませんね。

卒業・修了するみんなに向けて、旅立ちのはなむけの言葉を用意しました。
それは、
失敗や苦悩を避けてはいけない。しっかり向き合いましょう。
ということです。
これからみんなは、人生の船出。社会人となり、長い人生が待っています。ずっと成功して幸せでい続けるなんてことはまず絶対ありえません。必ず失敗したり、苦悩したり、挫折を経験するでしょう。
よく、学生は失敗が許されるけど、社会人は失敗が許されない、なんて言いますね。
失敗しないはずないですよ。みんな、たくさん失敗しています。もしみんなが失敗していなければ、世の中は矛盾なく平和のはずでしょ。みんながたくさん失敗してるから、そうしないように努力して、お互いに補い合っているのが社会です。
もちろん、社会人になれば、失敗に対して責任が伴います。たとえば、みんなが教師になって失敗すれば、子どもたちに直に影響が出ます。その責任をとらねばなりません。
失敗・苦悩・挫折に直面したら、人とつながってください。自分ひとりでがんばろうなんて思ってはダメです。人に助けを求めてください。そのこと自体が、新しい力を生むんです。

君たちが一緒に卒業するこの仲間、大学時代の仲間は一生涯の貴重な資源になります。私も、大学時代の友人たちにたくさん助けられています。
それに、先生たちのことも忘れずにいてくださいね。
順風満帆の時は忘れていて良いです。目の前の現実を進んでください。
でも、逆風になったとき、古巣に戻っておいで。先生たちはいつでも待っていますよ。
私の教え子たちも、普段は音沙汰がないのに、私が辞めると聞きつけると、みんな連絡してきます。タム研という自分のふるさとはずっとあると思っていたのに、なくなっちゃうのはさびしくなるみたいです。
卒業しても、ここはみんなにとっての故郷です。いつでも、必要なときは戻ってきてください。

以上、卒業するみなさんへの言葉を述べさせていただきました。
本日は、本当におめでとうございます。

Monday, March 14, 2011

二年ぶりの非常事態宣言

なんかヘンだよ。東京はぜんぜん被災にあったわけじゃないのに雰囲気が異様だよ。
金曜日は地震発生時、幸い家の近くにいたので帰宅難民にならずに済んだ。
今日は計画停電の予告で電車の本数が極端に少ないんだ。クリニックの患者さんの予約も、その後の夜の仕事もキャンセルとなり、10時過ぎのはずだった帰宅が4時前に帰って来れたよ。ラッキーなんだか??
スーパーに行くとパン、米、水、卵、肉類、牛乳、トイペに紙おむつの棚がすべて空っぽ。そんなに買い占めなくたって大丈夫だと思うんだけど集団心理は怖いね。

それに、オレの気持ちもヘンだよ。非常事態スイッチが入っちゃったみたい。二年前もそうだったからよくわかるんだ。やっと抜けてきたと思ったら、ブレーカーが落ちるみたいに自動的に入っちゃったよ。
楽しんではいけない、被災地へ行け!
幸せになってはいけない、被災者の人々のことを考えろ!
浮いた気持ちが抑え込まれてしまった。

悲惨なニュースに暴露されると、だれでも二次的にトラウマを受ける。
特に医療・福祉・心理などの支援職はその使命感に駆られるようだ。
二次受傷を軽減するために必要なことは、1)自分が受傷していることに気づき、2)バランス:仕事に燃えつけるのではなく、プライベートな生活の中で休養や気分転換のレジャーを尊重して、3)大切な人たち(同僚、家族、友人など)と交流する。

今の急性期の段階で被災地に必要なことは安全とライフラインの確保だ。それが落ち着いた頃から心のケアが始まる。4月以降、どうせ私も現地におもむくことになるだろう。
必要とされる時期が来るまで、十分英気を養っておこう。

二次受傷 Secondary Trauma

テレビからは刻々と明らかになっていく想像を絶する被害が伝えられ、メールやツイッターではお互いの安否を伝え合い、Facebookでは海外の友人から応援メッセージが届く。

医者仲間いわく: 
テレビの惨状を見ていると、すぐにでも救援活動に向かいたい衝動に駆られますが、仕事もあってそうもいかず、やきもきしております。まずは、医療支援に出かける医師のバックアップをすることでつながっていたいと思います。状況が許すようになれば、被災地の病院に向かい不眠不休で疲弊している、ドクターの交代要員としてお手伝いをしにいこうとも考えています。

医療学者の友人いわく:
ニュースを見ていると、東北の地方局のアナウンサーがだんだんとPTSDっぽくなっているのが気になります。直接には被害のなかった方達も、これだけ悲惨な映像や情報に「曝露」し続けていると、心身に影響があるかも知れません。

臨床心理士の友人いわく:
被害が時間を追うごとに更新されていっており、ニュースで見る地震被害と、今こうしてパソコンに向かっている自分と、現実が2つあるような感覚に襲われています。

なんかオレもsecondary traumaに罹患しているみたい。テレビのニュースから目を話すことができない。こうしていられない、何かをしなければ、すぐにでも被災地に飛んでいかねばという焦燥感。自分だけ楽しみを持ってはいけないという罪悪感など。なんかすでに燃え尽きちゃっているみたい。
今日は計画停電もあるし、仕事の予定がどんどんキャンセルになっている。電車は本数を減らし、めちゃ混みだろうから、チャリでゆっくり通勤しよう。

<参考>
二次受傷とは、「代理受傷」「共感性疲弊」「外傷性逆転移」と呼ばれている現象の総称であり、
「外傷体験を負った人の話に耳を傾けることで生じる被害者と同様の外傷性ストレス反応」
を指す。例えば、犯罪被害者をクライエントに持つ臨床家、子どもが自動車事故に巻き込まれたという知らせを受けた両親、戦争体験の取材をしているジャーナリスト、被災者の調査をしている研究者、職業上、悲惨な場面に曝される救急隊員や消防士などが二次受傷を負うと示唆されている。


二次受傷の症状としては、いわゆるPTSD症状(再体験、回避、覚醒亢進)、燃え尽き、世界観の変容などが挙げられている。つまり、被害者の語りが繰り返し頭の中で再生される;クライエントが描写した外傷体験がフラッシュバックや悪夢として体験される;夜道を歩くのが怖くなり、小さな物音に敏感になる;家族の安全を極度に心配する;配偶者や恋人と親密な関係を維持できなくなる;支援者としての適性を疑うようになる;などが含まれる。
二次受傷を受けやすい人は、「過去にトラウマ体験」があり、「既存のストレスレベルが高い」「若い」「女性」など。

Sunday, March 13, 2011

卒業生のお祝い会

昨日は、震災後の落ち着かないときだったのに集まってくれてありがとう。
いろんな送別会とかしてくれるんだけど、これが一番楽しみにしていたよ。
大学に赴任したのは19年前。まだ私が35歳だったんだ。一番初めのゼミ生の卒論発表会が、長男の出産予定日と重なって。もし陣痛が始まったら君たちの発表はほったらかして病院に行くからと宣言したけど大丈夫だったことを思い出す。そのちゅけもこの春から高校3年生になる。
実は前々から、臨床に戻りたいとは思っていたんだ。どうも、大学の授業とか会議には最後まで適応できなくてね。
私は人と交わることでエネルギーというか生きがいをもらえるみたい。
患者さんとの一対一の対話。
家族との対話。
でも、授業はダメなんだ。
ゼミは例外だよ。みんなとの卒論・修論指導の個人的な対話は、とても面白かった。何年たってもこうやって親しみを感じることができるからね。
みんなは卒業して、生活も仕事も別になり、普段は年賀状くらいで普段は音沙汰ないけど、僕が辞めるとなると、結構みんなにとってショックだよね。みんなにとっては、大学に行けばタム研がある、自分の古巣がそこにあるんだということが安心感につながるでしょ。別に、普段は古巣に戻る必要なんてない。でも、何か困ったことが出来たり、気弱になると、ふと古巣のことを考えたり、ちょっと戻ってみたりするんだよね。でも、大丈夫。タム研は不滅なんだ。
前々から、開業したいなという思いは持っていたんだ。教育よりは臨床の方が性に合っている。
教育は、教える人と教わる人の年齢が近い方がよいと思う。赴任し始めた30代の頃は、よくカラオケにも一緒に行ったし、教え子のことを、マナミ、ソーコ、とか、友達ため口で呼んで、となりの教授から「センセ、そういう言い方はあまりよくないですよ」と注意されたりしてね。でも、最近はそう呼ばなくなったし、カラオケにも行かなくなったし、もうみんなのお父さんの年だから、距離を感じるよね。
一方、精神科医は年の功で結構うまくいったりする。外科は手が震えてくるからダメだけど、精神科医は年をとるほど味が出てきたりする。ボケさえ起こらなければね。
だから、年をとってもずっとやっていきたい。よく80歳、90歳を過ぎても現役の医者でいる人がいるじゃない。ああなりたいな。新しく開業するなら65歳の定年退職を待たずに、まだ元気のある50代に切り替えたいと思っていたんだ。
でも、積極的に切り替えるだけの動機付けもなかった。
そこで、妻が亡くなったでしょ。みんなも、草津のゼミ合宿や、卒業後に家に呼んだときなんか、妻にもあったよね。
僕にとっては、人生のリセットをかける必要ができたんだ。父親役はリセットできないけど、仕事ではリセットをかけることにしたんだ。妻を亡くしてすぐそう思っていたけど、大きなショックの後には大きな判断はしてはいけないという原則があるんだ。時々お疲れモードになると、ああいよいよ僕にもうつがやってくるのかなあと感じたりして。でも、もう一晩寝ると治るから、週末に遊び過ぎただけということがわかったりする。
2年経って、うつにもならないことと自分の判断にも自信を持てるようになり、こうやって大転換することにしたんだ。

それで、新しいクリニックの屋号を考えていて、○○クリニックは何となくいやかな。病気を治療するということではなく、カウンセリングや診療もやるけど、もっと講座とかセミナーとか、スーパービジョン、コンサルテーションなんかもやろうと思っているんだ。どいうことは、今やっている仕事と似ているというか、その発想は20年間大学でやってきたことだったりする。そんなわけで、新しい屋号は「○○○研究室」としたんだ。大学のタム研はなくなるけど、広尾に引っ越すだけで、タム研は今後も存続するよ。自由診療だから高いんだけど、教え子割引も作ろうかな。というか診療じゃなくて、遊びにおいでよ。

先生はいつでもお変わりなく、笑顔がステキで安心します。新しいタム研楽しみですね。

先生にお会いするだけで本当に安心し、不安が自信になることが多く感謝しています。

大学にたむけんがなくなってしまうのはとてもさみしいですが、新しいたむけんも楽しみです。

人生の転機を迎えたとき何故か先生に会いたくなって話がしたくなってメールをしたりたむ研におじゃましたりしました。

この歳になってようやく先生の話すことの一つ一つが胸にスッと吸収されます。

アウトドアが好きで、いつも穏やかな先生はどこか父親と似ていて安心します(笑)。

先生の指導の中で自分と向き合うことで、何を大切に生活しているか、ということを自分の中に明確に持つことができるようになりました。
先生の別荘で食べる食事は格別で本当においしかったです。
家族のことを大切にしながら新しい道を歩んでいく先生のことを応援しています。

Thursday, March 3, 2011

2年2ヶ月

優子、はっきりいってキミに構っているヒマがないんだよ。
どんどん前に進んじゃっているんだ。
ついに3月。最後の月だ。今日も、大学で退職の事務手続きをする。退職金の振込先、どうしよう?ペイオフ対策で、新しい口座も作らなくちゃならないかなあ。最近はやりのネット銀行なんてどうなの?
開業も進んでるよ。やっと事務所の契約まで漕ぎつけた。
じんの卒業式に着る服も考えなくちゃ。
日光も楽しみだ!

だからといって、優子を忘れたわけじゃないよ。
いつまでも変わらぬ愛を 君に届けてあげたい
どんなに季節が過ぎても終わらない day dream.
(織田哲郎)
そうなんだよ。変わりようがないんだよ。
関係が続いていたら、膨らむとか、しぼんじゃうとか移り変わるものだけど、急にいなくなったから、終わらないんだ。いつまでも。

仕方ない、大英博物館のロゼッタ・ストーンの隣にガラスケースに入れて陳列しておいてあげるから。永久保存だよ。
いつでも見学できるようにね。

Tuesday, March 1, 2011

せんせい! 面接受かりました!!

4月からは小学校の教員になります。
辛いことがあったら先生のblogを見て頑張ります!!

良かった!!おめでとう!!
いつでも見においで!
てか、元気なときはひとりで大丈夫だよね。
元気が足りなくなったとき、誰かを求めたくなるよね。
子どもたちもそうだよ。元気なときは外で遊んでるけど、辛くなると先生に寄ってくるよね。
その先生が辛くなったら、私のところにおいで!
じゃあ、私が辛くなったら?
みんなのところに戻るから。というか、みんながここに来てくれる期待が私を元気にしてくれるよ。