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Tuesday, April 24, 2018

心配する人がいなくなっちゃった

良く考えたら、「ヒマになっちゃった」というより、心配する人がいなくなっちゃったんだ。

半年前までは両親のことを心配していた。
気にする・心配するパートナーだっていない。
子どもたちは(ほぼ)巣立って心配しなくていい。

心配する人が居るということは、自分が居なくちゃダメだということなんだ。
親のために自分が居なくちゃいけない。
子どものために、自分がいなくちゃいけない。
自分の存在の必然性が生じる。
そういう人との関連性の中に、自分の生きる意味(いきがい)が生まれる。

母は夫を見送り、子どもたちも孫も心配しなくて済んでるから、生きがいを失った。
そういう意味では、僕も生きがいの喪失?
子どもたちへの心配について言えば、喪失しつつあるのかもしれない。

心配する対象は家族だな。自分の親と、自分の子どもしかいない。
きょうだいはそこに含まれていない。別の愛着システムがあるから。もしなかったら、きょうだいも責任の範囲に含まれるのかもしれない。
クライエント・患者さんは、失礼ながら、僕の心配する人(愛着対象)ではない。
もちろん、プロとして心配するけど、たとえば患者さんがお亡くなりになっても、僕の人生は変わらない。
心配する僕の家族が亡くなったら、僕の人生は大きく変わる。
優子を亡くして、僕の人生はガラリと変わってしまった。10年ちかくになるのに、まだこんなことを言ってるからね。
そしてここにきて、両親と子どもたちがはずれて、またオレの人生は大きく変わるんだよ、きっと。

心配し過ぎてはいけない。
不肖の娘を心配する母親とのカウンセリング。
娘)私の面倒をみてくれなくていいから!
母)お母さんは何のためにいるの!?
娘)お母さんの存在理由を私にしないでくれる!
娘さん、よく言ったよね。
際限なく心配されたら迷惑なんだよ。自立できないし。
親は自分自身の生きる不安を愛着対象に投影しているに過ぎないんだ。

心配がなくなっちゃった。
ーーーすごく良いじゃん。楽しめるね!
しかし、
心配する人がいなくなっちゃった。
ーーーーと書けば、話はまた変わってくる。
要するに、対象喪失ね。それがイヤだから、母親はいつまでも娘に不安を投影して、心配しつづけるんだよ。
ちゃんと自分自身のことを心配しなさい!

ところが、
自分自身を心配しても、それが生きる根拠にはなり得ない。
自分の健康(メタボ)や、自分の仕事(収入)や、、、
そりゃあちゃんと心配しなくちゃダメだよ。
でもそれは自分が存在するための必要条件であって、自分の生きる価値は生み出さない。
自分がいなくなったらそれでおしまいだから、自分がいなくてはいけない根拠にはならないんだ。

対象喪失。
優子と親はとっと去って行ったから、どうすることもできない。
子どもたちは去ったような、まだ去らないような。
だから繋ぎ止めちゃうんだよ。
そこをしっかり整理して。
心配する対象としての子どもたちを喪失したことは、ちゃんと自分で受け入れなければならない。
そうやって、新たな愛着対象を見つける準備をするんだ。

Tuesday, April 17, 2018

ヒマになっちゃった

なんか時間が余っちゃうんだよね。
余裕が出来たといえば聞こえは良いが、人生もう終わっちゃったんじゃないかってね。

去年の今頃は、ばあちゃんの世話で大変だったよ。どんどん知性と生命力を失っていくばあちゃんを病院に連れて行って、ケアマネさんと相談して、デイケアから老健施設に入れて、毎日面会に行って、肺炎になって、大学病院に移して、そのまま見送ったのが半年前だった。

その前の年はじいちゃんだったよ。在宅ホスピスを整えてあげて、無事に天国に帰って行った。

去年までは、おちおち海外旅行もスキーも行けなかった。無理に行って家を空けたら誰かから文句が入っていた。優子が生きていたときは、いつも文句言われてた。

それが、今年はスキーに行き放題。だれも文句を言う人がいない。毎週末に行って、今シーズンは合計30日くらいになるだろう。そんなこと、僕の人生になかったよ。いつもそうしたかったけど、やっとそれが叶ったかって。この文章だって富山で書いている。明日は室堂に入り、立山BCだもんね!!

仕事だって全然忙しくない。
大学教授時代はとても忙しかった。
開業してからは自分のペースで、自分のやりたい仕事だけをやる。
べつに、事業を拡大したいなんて思ってはいない。

子どもたちも巣立っちゃった。
てか、まだ完全には巣立っていないけど、手間ヒマはかからない。息子二人は同居しているが、ちゅけはもう社会人。じんは毎晩、深夜までバイト。一緒に夕飯を食ことさえまれだし。息子たちとは気持ちさえ巣立って行った。
祐馬とが一番気持ちが繋がり、LINEでしょっちゅう連絡してくるけど、なんせ南半球にいるからねえ。

20数年前、子どもたちが生まれてからは、子育てに必死だったよ。ちゃんと子どもたちを育てる責任があるってね。優子がいる時は二人であーだこーだと喧嘩しながら。優子がいなくなってからはシングル・ファーザーとして責任重大だったよ。

優子と知り合い結婚するまでも必死だった。
優子以外にも何人かいたけどね。この人にしようかな、この人でいいのかなぁ。
パートナーをゲットするために必死だった。

勉強だって必死だったよ。中学・高校・大学、さらには大学院に留学。一生懸命勉強して、学歴つけて、良い仕事に就いて、、、まあ僕の場合、満足できる仕事に就けたから良かったけど、そこに至るまではやたら長かったなあ。アメリカから始まって、ロンドンまで行っちゃって。まあ、それも楽しかったけどね。必死だったよ。
いま、同じことを娘と姪がやっている。ふたりとも女子だな。

、、、てな人生を今までずっと送ってきた。
もの心ついた子ども時代から、つい半年前まで、一生懸命に生きてきたんだよ。

人にはやらなくちゃいけないことがある。
  1. 成長して、自立して、自分の力で生きていけること。そのための学校であり、しごとであり。
  2. 家族を作り、子どもを育て、自立させること。(このふたつができないのがひきこもりだからねえ。そりゃあ本人にとっても、家族にとっても深刻だよ)
  3. 弱っていく親を見守り、無事に人生を終えること。無から有を作るのが子育て(up bringing)だとすれば、有から無へ還元するのが親の見送り(down bringing)っていうのかね。これはアジアの家族主義に規定された責任なんだ。欧米では家族ではなく社会がその責任を果たすことになっている。
と考えると、これ全部済ませちゃったんだ。
  1. 仕事も安定しちゃってるからねぇ。開業の営業戦略的にはもっと宣伝して、本を書いて、顧客を増やして、収入を増やして、ということもありうるけど、別に必死にやらなくても良いでしょ。そんなにお金持ちになりたいとは思わないし、子どもの教育費を終えればそんなに金を使うこともない。豪華客船で世界一周しなくたって、海外にはしょっちゅう行っているし。トランプのフロリダ別荘みたいじゃないけど、草津には小さなのがあるし、十分でしょ。
  2. 子どもたち三人とも、もう成長の仕上げ段階。親として心配したり手をかけたりしたら、彼らの自立力を妨げてしまうからやることないんだ。多少の金と安心だけを用意しておけば良い。多少の責任は残っているけど、たいした責任じゃない。
  3. これがこの2年間で一気に済ませたのが大きいね。両親を喪失した悲しみはない。むしろ無事に終えた安堵感が大きい。
もちろん、まだやりたいこと、やりがいがあることはたくさんあるよ。
スキーだって自転車だって、熱中しているとすごい快感が襲ってくる。脳内エンドルフィンが出ているのかね。
子どもたちの成長する姿を見るのは楽しい(うまくいっていればの話だけど)。孫の顔を見れるかな?

家族以外の、社会の人々にも貢献できるよ。(1)と(2)が達成できず「不幸」な人は世の中にいっぱいいる。ぼくはそういう人たちの力になれる。技を持っている。人の幸せは自分の幸せになる。他者を少しでも幸せに近づけることが、僕自身の幸せに繋がる。
これからも僕が活躍するスペースはたくさんあるんだ。開業して、自分の根城を作っちゃったからね。定年もなく、体力と気力が続く限り人のために存在できるよ。

自分一人だけで、「幸せ」というのはありえない。美味しいものを食べれば幸せだけど、人と食べた方がもっと幸せだ。関係性の中で幸せは(不幸も)生まれる。

だから、まだやることはいっぱいある。生きがいはたくさん作れるんだ。生き続ける意味は十分にある。でも、それはオプションなんだ。それをしなければならない「責任」はない。(1), (2), (3)は僕の責任だった。家族を作った以上は。

これからは自由になる。
やらなくたって許される。やればもっと喜ばれるし、僕自身もうれしい。それは必要条件ではなく、十分条件なんだ。
だから、今までみたいに必死こいてやらなくてもいい。焦らなくても、ゆっくりやればいいんだ。

あっ、いけね。。。。もうひとつ大切なことを忘れていた、、、