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Saturday, December 31, 2011

投稿数の分析

数字がたくさん出てくると、ついつい研究者根性を出して集計したくなっちゃう。自分の行動を分析したってしょうがないんだけど。
2009年 227件
2010年 130件
2011年 93件
漸減傾向にあるが、月によりデコボコがあります。
冬(1-3月) 164件(36%)
春(4-6月) 101件(22%)
夏(7-9月)  74件(16%)
秋(10-12月)111件(25%)
冬が多いのは1月の命日効果のせいか、物悲しくなる季節なのか。逆に夏は悲しみを忘れて飛んでいっちゃうみたい。

満たされつつ満たされていない状態

この10日間、ずっと書けなかった。
旅行に行っていたし、帰ってからは2日間診療で大忙し。そして昨日は大掃除。
ブログを書けるためには微妙な塩梅が必要なんだ。

人で満たされ、仕事(やること)で満たされ、幸せで満たされると書く必要がなくなる。読む必要もなくなる。痛みを感じなくなるから。
適度に孤独で、幸せに陰りがある状況で痛みが見えてくる。適度に時間があると、それを整理して書くことが出来る、というか書きたくなる。
この塩梅をキープしておくことが、作家にとっても、Wounded Healerにとっても重要なんだ。

逆にその痛みが大きすぎると書けない。
書くこと(表現すること)って結局その部分を手放すことだから。自分がしがみつき、手放すことが出来ない部分は書けない。
それに替わるアイデンティティを持っていないと書けない。

父との往復書簡が書けたのは、僕が40歳を過ぎ、父親との関係を手放すことが出来るようになったからだ。あるいは、書くことで最終的に手放す作業を完了したかったのかもしれない。自分に必要な大切な父親役割はもう父親から得る必要はなくなった。父親はいる。でも父親はもういらない。
その本のまえがきにも書いたが、生きている優子との往復書簡は書けなかった。父親との関係は卒業したが、優子とは夫婦という関係が現在進行中だった。書くと、つまりふたりの関係を相対化すると、本音を語っちゃうと、その関係が変わっちゃうでしょ。隠しておきたいこともあった。夫婦関係は微妙な戦略バランスの上に成り立っていたから、情報を開示してしまうと関係性が変わってしまう。例えば浮気してたこと(してないけど)、昔の彼女と密かに会ったこと(会ってないけど)なんか伝えられないじゃん。伝えたら間違いなくケンカになるし、優子を失うかもしれない、少なくとも平穏な夫婦関係は一時的にせよ失うだろう。優子を失いたくないから、優子のことについて何も書けなかった。

優子を亡くしてからは、逆に一生懸命優子のことを、そして優子を失った自分の気持ちを書いてきた。物理的な優子を失ったからには、心の中の優子も空に放ち、追い出してゆかねばならない。「Tikiさん、やり過ぎ!」とまわりから心配されながらも、亡くなった直後から書き始めちゃったのは、優子なしでもやっていける自分があったからだろう。子どもたちも、両親も、多くの友人たちも、仕事も、収入もあった。心の中の優子を失っても、自分が成り立たなくなるわけではない。というか、成り立たせていかねばならない。〜ねばならない、の背後には、〜できるはず、という確信みたいなのがあったのだろう。

優子と過ごした自分のアイデンティティを手放していくために書いている。
その前提には、優子がいなくてもやっていける基底のアイデンティティをしっかり確保しているから書けるんだ。

思春期の子どもは、自立した大人の部分と、依存した子どもの部分が共存している。臨床では、際限なく子どものことを心配する親によく出会う。彼らは「子ども」を手放すことが出来ない。「子どもの親」としてのアイデンティティを再構成することができない。なぜ出来ないのか、再構成するリスクは何なのか。親自身が崩壊してしまうのか、孤立するのか。そのあたりを解き明かしながら、子どもへの不安を取り除き、自立しつつある子どもを放す手助けをしなければ。

基底のアイデンティティは子ども時代に作られる。しかし、大きくなってからでも育成できる。過去の子ども時代にミスっても、後から十分回復できる。そういう意味で、人はいつまでたっても成長し続けるんでしょうね。

さて、こんなことしていられないんだ。
ぼちぼち子どもたちが起きてくるし。
祐馬の小論文の添削もしてやらないと。
お節は何を作り、何を買おうか?
今年は年賀状さえまだ書けてないんだ!

Friday, December 23, 2011

愛されている実感

祐馬からメールが来た。

パパ早く帰ってきてね~

えっ!
、、、、そうだよな。明日はディズニーランド。お金とかいろいろあげなくちゃね。
パパは明日から海外にお出かけだから、

ズルい、パパだけ行くなんて!
だってキミたちは受験生でしょ!
だからクリスマス過ぎまでしばらく会えないね。元気でね。メリー・クリスマス!

ねえ、パパ!

普段はちょっと触れただけで大声で嫌がるのに、両手を広げてハグしてくれた。


君たちは、愛されているよ。
パパも、愛されている。
愛があれば、十分に生きていける。

愛を失うと、生き続けることがとても苦しくなる。

Wednesday, December 21, 2011

気持ちのコントロール

人間がもっともエクスタティックな、永続的で充実した生の喜びを見出すのは、自己放棄においてである。生をあらゆる意味で満たすのは、死にほかならない。
The Road Less Traveled: A New Psychology of Love, Traditional Values and Spiritual Growth by Scott Peck, 1978.

先生とゆっくりお話しできて、本当に良かったです。お話ししながらいろいろ考えました。というか、お話しした後でもいろいろ考えています。人にはコントロールできる感情の範囲があるんですね。
In Control状態か、Out of Control状態か。

大切なもの(人、健康、お金、時間、地位、、、)を獲得したよろこび
大切なものを喪失した悲しみ
大切なものを失う恐怖(かなり確実な予測)。
大切なものを失うかもしれない不安(あいまいな予測)。

喜びはいくらあっても構わないのですが、その他のnegativeな感情がある範囲を超えてしまうとコントロールが効かないOut of Control状態になってしまいます。先生も、私も体験しました。そうなるとそれを隠そうとしていろんなことが起きるんですね。
感情を抑圧する抑うつ。その反動としてのmanic状態
ドキドキ動悸がしたり、苦しくなるパニック症状。
反動としての怒り・攻撃性。
身体症状。精神症状、問題行動。
身近かな人に投影して、子どもへの不安になったり。
フロイドの防衛機制理論に近いのか。

でも、それを乗り越えられるんですよね。試練を与えられ、ハードルを乗り越えることにより、精神的な成長を達成することが出来るって、それはすばらしいのかもしれません。でもひとりっきりじゃあ難しいんじゃないかな。それを語り合える相手がいること。生の気持ちを隠すことなく生のまままな板にのせて、それをジャンプする体験。汚いものも見るのを怖がっていたら汚いままだけど、それをまな板に載せちゃえば、もう避ける必要はなくなる。向き合えるんですよ。それができるようになるってのは、精神的な成長なんですね。語る人も、聞く人も、それを達成する可能性があるってのは、素晴らしいことなんだと思います。

15年前に自分がどのような動機で、またどれほどの理解を持って精神医学の領域に入っていたのか、今思い出そうとしても難しい。(中略)ただ、精神科医には患者と心を通わせる魔法の言葉と魔法の杖があって、それで心のもつれを解きほぐすのだろう、くらいに思っていた。魔法使いになりたかったのかもしれない。その仕事に患者の精神的成長が絡んでくるとは、ましてや自分自身の精神的成長が関係してくるとは、思いもよらなかった。(Scott Peck)

精神安定剤とか抗うつ剤って薬理的に押さえ込むだけ。心の鎮痛剤。それを使っちゃうと、痛いところがどこだか分からなくから、あまり使いたくないんですよ。もちろん対症療法としてとりあえず痛みを除くためには必要だけど、根本的な解決にはならない。

恋に落ちる現象の本質は、個人の自我境界の一部が突然崩壊して、自分のアイデンティティが他者のそれと融けあうことである。突然自分が自分自身から解き放たれて愛する人めがけて激しく流れこみ、自我境界が崩壊するとともに孤独が劇的に終わりを告げる体験は、ほとんどの人にとって天にも昇るような気持ちである。自分と愛する人はひとつである!もう孤独ではない!(Scott Peck)

Thursday, December 15, 2011

腰痛

昨日の午後から腰が何となく重く痛かったのだけど、今朝起き上がろうとすると激痛が!
起き上がれない!力を入れようとすると痛い!
何とかごまかして朝食と弁当を作り、子どもたちを送り出して、老親には「ちょっと腰が痛いから整形外科に行ってくるよ!」
心配かけないつもりでも、心配する。しかたがないね。

4年前だったかな、同じようなことがあった。
学会の大会長として盛り上がり、極度に忙しかった時も同じような腰痛になったけど、大会が終わったら自然に治った。過労とストレスによる腰椎靭帯の炎症だろう。

町の医者は早い。初診だったけど、あっという間に診察、レントゲン、処方しておしまい。ご職業はと尋ねられ、
「はぁ、精神科医です。」と言うのが恥ずかしかった。
「では座ったお仕事ですね?」
「はい、身体の負担はありません」
レントゲンで骨に異常なし。椎間板ヘルニアでもなし。医学的には問題なし。いわゆる非特異性腰痛。自然に2-3日で治るでしょう。とりあえず痛み止めと湿布薬を出しておきます。
仕事前の1時間で済んでしまい、薬代も含めて3千円もかからない。日本の医療はたいしたもんだ。どこに3万円もとる医者がいるんだ!?

それじゃあ今朝の痛みは何だったんだわけ?!
医学的にいえば不定愁訴。身体に異常なければ精神的な問題でしょう。
オレの精神的問題は何だ?
やっぱ、精神科医がいちばん精神的な問題を抱えているんでしょうか?

不定愁訴じゃなくて、うろうろうろうろうろうろうろうろし過ぎやろ!
人間なんぼ何かしてる方が気持ちがリフレッシュする言っても、身体は疲れるんやで!!
釈迦に説法、医者に説法や!
ちょっと、じっとしときなさい!!

はい。すんません。

Wednesday, December 14, 2011

エンディングノート

私は上手に死ねるだろうか?

というのがこの映画のキャッチコピーだ。
「死は恐れ、忌み嫌うもの。」
という普通の感覚を乗り越え、死に向き合おうとしている人に勇気を与えてくれる。
そういう作品はけっこうあるんじゃない?河邉さんの「ホスピス絵日記」もそうだし。

勤め上げた会社を無事に退職して癌が見つかった。営業マンにとって、死=恐れ、という感情の過程以前の問題として、段取りをつけて目的を達成するものであり、人生の最後を締めくくる一大プロジェクトだった。
そんなプライバシーをすべてビデオに撮り、映画にしたのは3人の子どもの末娘。自分は果たせなかったが、冥途の土産に孫たちをプレゼントした長男家族と父親の交流を丁寧に描いている。
結局、生も、死も、生き甲斐も、「家族」なんだよな。

監督、まだ若いのです。この映画の宣伝とかやるのは、辛かっただろうと思います。監督である前に遺族ですから。

さすが、監督目線(笑)。
でも私はそうでもないと思いますよ。子どもたちを育て上げ、定年までしっかり働き上げ、やるべきことはやった幸せな人生であれば、子どもが親を見送るのはそれほど辛くないはずです。それに、喪失の哀しみは共有してくれる人が多いほど癒されます。映画をつくるプロセス自体が彼女にとって良い喪の仕事になっていたと思います。

むしろ気になるのはお母さん。娘の仕事のためだから了承したものの、自分と夫の姿が公衆にexposeされるのは相当きつかったんじゃないかな。父からオフレコにしてくれと言われても、臨終の床で母が夫婦だけにしてくれと言われてもビデオを回し続ける娘の根性に負けた感じなのかね。これも家族愛として括ってしまえばまとまりがよい。
子どもたちを外に出し、夫婦だけの会話にもカメラは残された。「いっしょにいきたい」という妻の言葉はとても感動的だし、とても官能的だったよね。済みません、変態オヤジのつっこみでした。

俺は妻を亡くした悲しみの後片付けをやっている最中だけど、オレ自身のEnding Noteも書かなくちゃ。
というか、子どもの頃に「死を発見」してからずっと向き合い、書き続けているのかもしれない。
私が向き合って来たのは死への恐怖という感性の段取りであり、営業マンの段取りとは種類が異なる。
死って一番身近なことだよね!別に避けることないよ。いつも話題にすれば良いこと。恐れないで。というか恐れてもよい、その感情と向き合うこと。
Negativeな感情と向き合うのは、精神科医(心の支援者)の得意分野だから。その素地があったから、優子を失ったnegative emotion(悲しみ)にも、バカみたいに必死に向き合ってきたんだ。

蛇足)End Noteという論文の巻末に載せる文献リストを作成するデータベース・ソフトがずっと前からあったっけ。

Sunday, December 11, 2011

ひとり温泉(まただな!)

ふう。落ち着くなあ。
松村屋の大風呂に入った瞬間、思わずため息が出た。
今日は日曜日。まる一日、仕事を終えて、新幹線の自由席に飛び乗った。東京駅で買った駅弁を食べたらもう高崎着。レンタカーで、通い慣れた道を2時間弱。9時過ぎに草津に着いた。
なんかな〜。
ここんとこ、よう気張りはりますなあ。
自分でもそう思うで!
今週は、
月曜に研修。
火曜、木曜、金曜に講演が入った。
そのまま福岡に飛び、土曜は福岡いのちの電話でまる一日研修。
今日も九時五時で相談員さんたちの感受性訓練。
みんな、疲れたでしょう〜!
体力を使うわけではない。
普段の大学でのお勉強みたいに知力を使うわけでもない。
感性を使うんですよ。ふだん使い慣れていないと、今はテンション上げているから感じなくても、おうちに帰ると、どっと疲れるよ。おつかれさま。自分にご褒美を上げてください。私は、これから温泉に行ってきます。

なあんだ、先生、研修終わって脱兎するって温泉だったんですね。
そうだよ。一番大切なことじゃん、自分の時間を確保するって。

先生、どなたといらっしゃるんですか?
なんか、かまかけてない? ひとり温泉って気持ちいいんですよ。
自分のご褒美は草津温泉です。

いろんなご褒美があるだろう。
大切なひとと一緒に過ごす。
美味しいものを食べる。
気に入った買い物。
ひとりで読書、映画。
明日はオフの日。家を奇麗にしてのんびり過ごすという手もあるだろうけど、僕には合わない。すぐに飛び出してしまう。放浪癖があるのかな。檀一雄でも読むかな。

四万温泉は父親の、そして僕の子ども時代のふるさと。
その隣の草津温泉は、我が家のふるさと。
子どもたちのふるさとを作るために、じんが生まれた年に別荘を買ったんだよね。
松村屋は、優子の友だちの有広くんのおばさんちだ。
兄の後を追ったけど東大に落ち、滑り止めの上智に行った優子は東大コンプレックスだった。
有広くんは、優子が出入りしていた東大国政研の仲間だ。我々のイギリス時代、彼はOxfordに留学して一緒にフランスにスキーに行ったり、20代後半、青春時代の延長戦を楽しんでいた。その彼に紹介してもらい、草津の家を買う前も、買った後も時々息抜きで、ここ松村屋にはよく来ていた。
その、有広くんも東大助教授時代、道なかばで他界した。
優子も他界した。
ふたりとも40代。ふざけんじゃあねえよ!!

でも、松村屋はいいねえ。落ち着くねえ〜。
大阪屋やホテル桜井や中沢ヴィレッジみたいな派手な高級旅館ではない。しっとりこじんまりと落ち着いた老舗の和風旅館。
24時間掛け流しの温泉は湯畑から直に引いている。こんなにふんだんにお湯を流して良いのかと思うくらい豊富だ。この匂いをかぐと、ホント落ち着くんだよねえ。
明日は月曜日。診療は休みだけど、夜からまたいのちの電話の研修なんだ。
でも、今日くらいしか時間が取れない。
こっちにおいてあるスキーを持ってくるという口実で、短い時間だけど、「ふるさと」にやってきた。
パパ、ずる〜い。
じゃあ、祐馬も来るか?
無理。
だよな。追い込みだからしっかり勉強しな。あとで小論文みてやるからね。
さて、もう一回、お風呂に行ってくるかな。空いてるよ。だれもいないみたい。
そして、コンビニで買ったナッツをかじって(おまえはリスか?)、ワインを飲んで、早く寝ちゃおう。
明日の朝、起きれたら、原稿書かなくちゃね。
今晩、優子と有広くんの亡霊が降りて来れば良いんだけど!

Wednesday, December 7, 2011

Soul Mate 友人の痛み

久々に心のバランスが崩れた。
仕事帰りの電車の中で涙が止まらなかった。
と思ったら、3時間後には、もう立ち直ってしまった。
そんなんで良いのか?
なんか、立ち直ってしまうことが悔しい。

友人、というか先輩格の医者仲間からメールが来た。
突然ですが、癌で入院しました。化学療法と放射線療法で2ヶ月ほどの入院になります。

U先生は何度もこのブログにも登場している。
22年前のロンドン留学時代で知って以来、家族ぐるみの付き合いをさせてもらっている。
新婚1年後、優子をおいてひとりロンドンに乗り込み、右も左もわからず戸惑っていたときに出会ったU先生は、3年か4年の留学を終える間際だった。Sohoのパブで紹介され、お宅に招いてくれたり、一緒にテニスしたり、心細い異国の生活のスタートを救ってくれた。小児科・児童精神科だから僕とかぶっている。ロンドンの情報をたくさんくれて、どんなに助かったことか。
3ヶ月後に優子を呼び寄せてからほんの2-3ヶ月後だっただろうか、U一家は留学を終え帰国した。だから、一緒にいたのはほんのわずかな時間だったのに、我々も帰国してから付き合いがずっと続いていた。家族でほぼ1年おきくらいに札幌を訪ね、新築した素敵なお宅に泊めてもらい、北海道のグルメを楽しんだり、スキーに出かけたり。子どもたちが歩きはじめる前から連れて行き、奥さんに子守をお願いして、優子とU先生と、スキーしたことも2度や3度ではない。新婚だった我々の夫婦や3人の子どもたちの成長をずっと見守ってくれた。多分、U先生と私は専門分野だけでなく、趣味や性格がかなり似ているんですよ。スポーツ好きで外向的。人と付き合うことがエネルギーの源となるタイプ。先に開業していたU先生から、開業についてもたくさんのアドバイスをもらった。
奥さんは優子より10近く上なんだよな。でも意気投合して、上京されたときには一緒にお茶したりオペラを見に行ったり。季節ごとに北海道のグルメの品を送ってもらったり。

優子の葬儀には、札幌からご夫婦で駆けつけてきてくれた。
無言で抱き合い、泣いてくれたことを昨日のことのように思い出す。
その1年後、お礼を兼ねて祐馬と一緒に訪札し、祐麻とU先生の娘さんはミスチルのコンサートへ、大人たちはグルメのお店で乾杯した。
年に1度会えれば良いくらいの頻度しか直接の交流はない。そういう付き合いが20年以上続いた。

Stage IVの進行癌。それがどういう意味か、臨床医であるU先生ご自身がよく知っている。強い治療が始まる前だから病院の個室に持ち込んだPCからメールしてきたけど、今後、副作用がどれほどになるかはわからない。「必ず無事生還しますので、どうぞご心配なく」という言葉を信じるしかない。さっそく返事が来て、お見舞いOKとのこと。日帰りでも、一泊でも、とにかく行ってこよう。


そんな詰まる思いも、帰宅してから明るい奥さんと電話で話し、子どもたちと話しているうちに和らいでしまう。そんなことで良いの?Stage IVはStage IVなんだよ!!厳しい現実は変わらないんだ。それなのに、気持ちが変わってしまうのは許せない。
妻の死は3年。
友人の病は一晩。
そんな区切りがあって良いわけ?
区切りはないでしょ!

Sunday, December 4, 2011

2年11ヶ月

来月で、まる3年になるんだ!!
早いよなあ。
三周年の記念日はどうしよう?
1年目は(まあまあ)盛大にやって、2年目は家族だけこじんまりとやったから、3年目もそんな感じだろうな。派手にやる必要はない。お墓に参って、おばあちゃんと会食して、、、、

でも、心の居間の神棚に鎮座させた優子を下してきて、一緒に遊んでいるヒマが最近とれないんだ。お墓参りは時々行くけど、もっと頻繁に行きたいほど行けないし。ふだんの生活の中で、寂しさを甦らせる孤独の空間を作りにくい。すぐに、人で埋まってしまう。
優子を失ったからこそ、得たものがたくさんありすぎる。人との関わりが広くなり、深くなったよ。それはそれで嬉しいのだけど、もっと孤独になりたい。悲しみの中に浸かっていたい。でも、悲しみを感じるのは辛い。まるで、心の自傷行為だね。表面的な痛みを求めて、根源的な痛みとすり替えようとしている。人を求め、得られたから、今度は孤独を求めようとしているんだろう。

来週の九州出張は前の晩から入るから、やっと孤独の空間を得られるかな?
なんて言いながら、またふらふら人を求めちゃうんじゃないの?

Thursday, November 24, 2011

ラビット・ホール

祐馬に勧められて観たけど、、、、う~ん、微妙だな、、、!
いや、すごく良い映画だし、子どもを亡くした親なんか絶対みるべきだと思う。
でもなあ、なんかちょっと違うんだよな~。
アメリカ映画にありがちな、ハッピーエンド。喪失をくぐりぬけ、再生しました!ジャーン!
というのではないのはホッとした。
かといって、お涙ちょうだいもの的にたくさん涙を流して癒してくださいみたいな雰囲気でもない。

悲しみはずっと消えない。でも重さが変わるの。
のしかかっていた重い大きな石が、ポケットの小石に変わる。

っていうフレーズは全くそのとおりなんだけど、それをわざわざ伝えたいための映画なわけ?
そんなこと自明でしょ!?
批評家でもないのに、なにかひねくれてるね>自分。素人は素人らしく、素直に受け止めればいいじゃん!?
いや、家族の喪失に関しては素人とは思っていないんでしょうね。自分の経験第一主義。

家族自助グループを風刺してるのはまだ良い。それだけ、アメリカでは一般的になっているからなんでしょう。日本ではもっとやるべきだと思うから。
でも、あれほど悲しみと向き合うことを拒絶している妻が、なぜ加害青年にするするっと近づけるわけ?
子どもの喪失・悲しみは、夫婦関係の喪失にも繋がるところは、とてもよく描けている。でも、それがなぜ最後に手を握れちゃうの?そこに至るまでには、もっと何かがあるはずでしょ!?
再生なんかしていない。
Come to term with it.
ってとこかな。
そういうもんなんだよね。
下手に自分が経験しちゃってるものだから、それと比べてあーだこーだ批判したくなるんでしょう。喪の仕事は人それぞれ、みんな異なる、なんて言ってしまえばそうなんだけど。でも、もう一歩、何かが欲しい。
決してヘンな映画ではないけど、いまひとつしっくりこない感が残った。それは映画のせいではなく、私自身のせい?
もう一度、観た方が良いかもしれない。

Saturday, November 19, 2011

「あまりにも早すぎる」死

訃報が続けて入ってきた。
学会の評議員仲間のAさん。47歳。
大学クラブ後輩のBさん。43歳。
Aさんは学会で長く知っていて、一緒に議論したりもしたが、それほど個人的に親しいわけではない。
BさんはMLで流れてきて、顔も知らない。
亡くなりました、葬儀はどこそこですという事実だけ伝えられ、死因は明かされない。
ひょっとして自死???と心配になる。
Aさんはどうもガンだったらしいね。Bさんはわからない。数年前に同じ大学クラブの後輩が急死した時はくも膜下出血だった。自死でなければ安心するというわけではないのだけど。

、、、あまりにも早すぎる。40代ならそういう形容詞がつく。
50代でも十分早すぎる。
40年前に亡くなった祖母はたしか享年55歳だった。そのときは、「早すぎ」たけど、「あまりにも早すぎ」ではなかったような印象だ。でも、オレ、あと1年でその歳なんですけど。
60代もまだ早すぎる?
大学の同僚は、定年退職数ヶ月を残して64歳で亡くなった。退職金をもらえなかったのは早すぎたわけ?
優子の父親は69歳だった。退職後なら、まだ許されるわけ?
70代に入れば、「早すぎる」という形容詞はいらなくなるのかな。亡くなることが許容される歳なの?
80代以降は天寿を全うしたというか、まわりのひとも落ち着いて悲しみを受け入れられるのだろうか。
90代は、もうおめでたい死?
30代より前は問題外。あってはならない死なのか。想像できない、不条理な死。それを受け入れるという方程式に解が立たない特殊な出来事。
それに比べたら40代はまだ受け入れられる?いや、受け入れられない?
10代のあっぴは、絶対にあってはならない死だった。
40代の優子やAさんやBさんは、あまりにも早すぎるけど、受け入れるしかない死なんだろうか。

でも、何歳だって、死は死だろ!?

Wednesday, November 16, 2011

金子みすずと尾崎翠

先ほど金子みすずと尾崎翠を送らせていただきました。

優子は日米学生会議でも精神病について発表したり、心の世界に興味を持っている点では私と共通していました。しかし、その方向性が異なり、これらの本は二人の間で共有できませんでした。優子は自分の内面に深く掘り下げ、私は外向きに他者(患者さん)と広く交流することでその興味を満たしてきたように思います。

でも、こうやって優子の魂のかけらをみなさんにお分けして、優子を心の中に生かしておかなくても良いのかな、しがみ付かなくても天に戻ってもらっていいのかなとも半分思うようになりました。かといって、この本を自炊してクラウドに上げても、たぶん優子は天からPDFにアクセスできないと思います。優子の魂は別にしても、少しでもご参考になればと思いつつ、そうなるかどうかわからないまま送らせていただきます。ご迷惑でないことを願っております。

Tuesday, November 15, 2011

死んだ人のことは思い出してあげないといけない

「死んだ人のことは思い出してあげないといけない」と言われた。
普段は思い起こすことなどしない。
死んだ人のことを語っても意味ないじゃないか。
そんなことをしても生き返らないし。半身が千切れたような痛みが消える訳じゃない。
「死んだ子の年を数える」という諺だってあるじゃないか…。
だから、どうして先生はあんなにも亡くした人を饒舌に語るんだろうと不思議だった。
まるでそこに居るかのように会話をして、月命日を数えたり、もういない人の誕生日を祝ったり。いつも居ないことを実感するだけの悲しい作業ではないのかと思うけれど違うのかな。



違うよ。だから、これが心のマッサージなんですよ。
痛みは一生消えません。というか、消えては絶対いけない。自分のidentityだから。
触れただけで「半身が千切れるような痛み」から、「あっ、そこそこ凝ってるの。痛~いけど、気持ちいい!!痛み」に変わっていくんですよ。
安全な場所で、信頼できるマッサージ屋さんにゆっくり揉みほぐしてもらうわけ。自分でセルフマッサージやってもいいよ。筋肉に蓄積された乳酸の痛みを、血流に流して代謝して無毒化します。


確かに、普通とは逆のことをやってるよね。普通、それほど語らずに封印して隠します。
治療には二種類あるんですよ。急性期の救急治療と、それが落ち着いてからの根治治療と。
急性期には救命が先決です。患部に包帯を巻き、倒れて死にそうになる痛みを感じないよう麻酔します。それが落ち着いて、生命に異常がないことを確認してから、ゆっくり包帯をほどいて痛みの膿を出します。私の場合、救命処置が優先されるべき急性期から、膿を開いちゃったからね。かなり危ない治療だった。周りの人が「おいおい、やりすぎだよ」とびっくりするのも無理はない。


先生はそれができて良いですね~!


そりゃ、痛みに向き合うガッツはあるよ。でも、なぜガッツがあるかって、それは私が強い人間とか家族に恵まれてるとかじゃない。安全な環境さえあれば誰でもできることをやってるだけなんだ。確かに、この方面の専門知識を持ち、多くの人を治療してきた経験を自分自身に当てはめているという点では得をしているのかもしれない。


それに、なぜこんなに必死かと言うと、自分のidentityを再構成してるんですよ。親と過ごした子ども時代(第Ⅰ期)⇒優子と過ごした第Ⅱ期から、次の第Ⅲ期に向かわねばならないんです。優子はもういないから第Ⅱ期はcloseしなければならない。そのためには、前の期を捨てるとか、蓋をかぶせるとかじゃなくて、しっかり整理して卒業しなければならない。そうしないと砂上の楼閣の上には新しい建物は建てられないんです。無理して進んでも、結局地震によって地盤が液状化し、上の建物が崩れてしまうから。前の期の未解決の感情体験が、次の新しい期にも持ちこされてしまって、思わぬ時にひょこひょこ顔を出してきます。そんなんじゃあ、落ち着いて新しいidentityは獲得できないでしょ。


p/s 別にあなたにサービスしてるわけじゃなく、自分のために書いてるだけなんですけど(笑)。

Saturday, November 12, 2011

48回目の誕生日

優子、おめでとう!
ときどき、「お子さんたちはお元気ですか?」なんて周りの人が心配を装い聞いてくるんだ。やっぱり、お母さんがいない子どもって心配されるのかな、可哀そうなのかななんて思うけど、3人を見てる限りそんなことないよ。

じんは中学生になり、なんだかずいぶん身体がしっかりしてきたよ。子どもから、青年っぽくなりはじめているね。ただし自分の腕力をコントロールことも覚えなくちゃな。友だちが迷惑するぞ。
相変わらず体操はがんばっているし、数学が得意になってきたみたい。授業参観行ってきたけど、学校でも家でも勉強がんばっているよ。

祐馬とちゅけは受験生。今が一番大切な時期だけど、祐馬は志望校目指して安定してがんばっているよ。
ちゅけは目標をずいぶん高く設定したもんだからちょっと空回り気味かな。自分の人生について考えているみたい。目指したい自分と、現実の自分をどうすり合わせ、折り合わせるのかという困難な作業にこれから向かわねばならない。まあ、もう少し時間をかけて自分を作っていくのだろう。

優子だったらきっとあれこれうるさく言うだろうけど、天国からそんなにプレッシャーかけるなよ。まあ父親としてはあまり言わないで全を信頼しようと思ってるよ。だから、3人とも大丈夫だよ。天国から地上を心配しなくて良いから、そっちでのんびりしてな。

今日はこれから九州出張だ。今晩は祝えないけど、明日、福岡空港で空弁とケーキを買ってきて、子どもたちと歌うからな。そっちからキャンドルを吹き消せよ!

Saturday, November 5, 2011

2年10ヶ月

今日、祐馬に怒られちゃったよ。
ママの場所、ホコリが積もってるよって。
まあ、ママの場所に限らず、部屋中ホコリだらけなんだけどね。
日常の生活から優子がだんだん遠ざかっているのは確かだ。まあ、それが全うな道だと思うけど、まだ子どもたちが成長するまではママの面影は必要だからね。
今日、丸善でBirthday Cardを買ってきたよ。子どもたちと一緒に来週、祝うから。俺はもうどうでもいいのだけど、子どもたちにとっては大切な年中行事だから、まだまだ外せないな。

そうそう。あっぴの母さんから丁寧な欠礼の葉書をもらったよ。
「ぼくたちはまだ負けていない。」
「哀しみを忘れないで幸せになろう」
すっごくpositiveな、すごい悲しみのお手紙。
何をしても、どこにいても、悲しみから逃れられない辛さばかりでなく、そんな状況なのに前向きになっちゃう自分へのもどかしさみたいな部分に共感するなぁ。
そんなに前向きになっている場合じゃないでしょ、あなた!
いえ、好き好んで前向きになっているわけじゃない。
プラス指向が(心理学的に)好ましいから、そうなろうと努力しているわけでもない。
辛いから、前向きにならざるを得ないんだよね。
人間、誰でも危機に直面すると、元来持っているcoping mechanism(対処機能)を強めることによって、困難を乗り越えようとする。性格傾向もそのひとつだね。落ち込みやすい人はたくさん落ち込み、怒りっぽい人はたくさん怒り、暗い人はますます暗くなって、どうにか危機を耐え忍ぶ。前向きな人は、ますます前向きになるしか手がないんだよ。安心して、楽しんで前向きになっているわけじゃない。でも、前向きって安心して、楽しむことでしょ?別に無理して前向きになろうと意図しているわけでもない。何にも考えていないと、なぜだかわかんないうちに前向きになっちゃうんだ。前向きになりたくてもなれない人から見れば、うらやましい・贅沢な話なのかもしれないけど、前向きを止めたくても止められないってのも、別の意味で辛いかも。
もっとも、こんな風に前向きさを持て余しつつも、それによって救われているのも確かだから、別に止めるつもりもないんだけどね。
ほら、やっぱり止められないでしょ。

堂々巡りだね。
何を言ってんだか、わかんなくなっちゃった。

Wednesday, November 2, 2011

妻を亡くしたおかげで、、、

 先生には真っ先にご連絡すべきのところ、遅くなり、大変失礼いたしました。
大学は申し分ない職場でした。学科はこじんまりちょうど良いサイズで、細かい点ではいろいろあるのはどこでも同じですが、研究も授業も自由にさせてもらいました。
研究室の学生たちと親しく人生経験を伝授し、教師を目指す大勢の学生たちに知識を伝えていくのもやりがいがあるのですが、私がこだわり、一番の専門性を発揮できるのは、精神科医の専門性、とくに思春期、家族、男性性などの分野です。大学で多くの人々でなくとも、少数の本当に必要としている人への支援活動が、私の本当にやりたいこと、という気持ちはかなり以前から抱いていました。妻を亡くす二ヶ月ほど前にも、二人で開業フェア、これから開業しようとする医師への支援企業のPR展示会へ行き、そろそろ具体的に考えようかという時期でした。しかし特に不満のない安定した職場に区切りをつける積極的な理由もありませんでした。
妻を亡くし、喪失に対する耐性が出来てしまいました。もう、失うものは何もない(子どもたち以外は) 。本当に得たいものを素直に求めることにしました。
都内では自由診療で開業している精神科医もちらほら見聞きしますが、果たして経営的に成り立つのか、確信しているわけではありません。しかし、躊躇する理由もなくなりました。じっくり時間をかけて丁寧にお話を伺い、それほど多くの方々とは関われないかもしれませんが、クライエントにとっても、セラピストにとっても納得できる仕事をしたいと思っています。

 宛名まで全部手書きのお手紙は、どなたからもこの何年も目にしたことはありませんでした。先生のお気持ちが伝わってくる思いでした。
 外の人々の多くは、どうして安定した職に見切りをつけられたのかと思うでしょうが、お手紙を読んで、それは亡き奥さまのお気持ちでもあり、それを引き継がれた思いで決断さえたのだと思いました。改めて、優子奥さまのご冥福をお祈りしております。

な~んちゃってね!
要するにオレのidentity(自分を表すコトバ)になっちゃったんだ。

Q1) 私は誰でしょう?
ハイ、私は3年前に妻を亡くした人間です!

Q2) 「私は、、、」で始まる文章を20個作りなさい(SCT)。
・私は男です。
・私は50代です。
・私は日本人です。
・私は精神科医です。
・私は開業しました。
・私は3人の子どもがいます。
。。。
・私は、妻を亡くしました。

Q3) ねえ、Tikiさんってどんな人だっけ?
ほら、いたじゃない!しばらく前に奥さんが亡くなって、、、
ああ、あの人ね。思い出した!

オレがやることなすこと、「妻を亡くした、、、」という枕詞がくっつくわけ。
もちろん、普段はそんなこと言わないよ。でもちょっと深く掘り下げればそうなっちゃうんだ。
大学を辞めて開業した理由だっていろいろあるんだけど、一応「妻を亡くして、、、」と結んでおけば、なんとなく落ち着くというか、納得されちゃうわけ。便利だよね、これって!
うまくいっても、失敗しても、「妻を亡くしたおかげで、、、」なんてね。
いい加減なもんだよ。

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解説)そろそろ「妻を亡くした自分」から脱皮したいと思い始めたようです。

Sunday, October 30, 2011

コロキウム・テニス・クラブ

始まったのは、もう10年くらい前になるかね。たしかちゅけがまだ小学生になるかならないかくらいの齢だったから。
大学時代の勉強会仲間とのテニス合宿。医師国家試験は内科・外科・産婦人科などなど全科をカバーするのでやたら範囲が広く、難しいというよりは覚える量が膨大で、ひとりではやってられない。医学部5年生くらいになると、みんな5-6人でグループを作って勉強し合う。週1か、試験が近づくと連日のように集まりお互いを励まし合う。その前後に息抜きで飲んだり遊んだり。「コロキウム」という午後ぶっとうしの授業(臨床講義ってのかな)をよくサボってテニスをしていたので、コロキウム・テニス・クラブ。Tシャツまで作ったりして。

若い頃は余裕がなかったが、40歳を過ぎて年1回集まり始めた気の置けない仲間たち。お互い、まだ青かった頃の失敗談を語り始めたらきりがない。始めの頃は持ち回りでいろんな場所に行ったが、ここ4-5年は場所もパターンも固定した。茅野まで特急で行き、車で山に上がる途中スーパーで食材を買い出し。午後、2時間ほどテニスをした後、温泉に浸かり、僕はフルコース60分の全身マッサージ。筋肉と疲れをほぐした後、キッチン付きの部屋でみんなは飲みはじめ、僕が食事を作る。ホテルのレストランでも良いのだけど、高い割にはたいしたことない。部屋でワインをたくさん持ち込み、思う存分飲み、食べ、語り合う。といっても女性グループのようにペラペラしゃべるわけでもないが、酒が回るにつれて饒舌になる。女性には、たとえ(特に)奥さんにも言えないような話がポンポン出てくる。話が尽きる前に意識が尽きて、朝までぐっすり。
2日目は午前中テニスをして温泉に入り、茅野の駅前のそば屋で生ビール。帰りの電車は爆睡状態。

家に戻れば、それぞれの日常生活が待っている。束の間のタイムスリップ、昔の自分に出会える。はじめの頃は奥さんや子どもたちも一緒に来たけど、もう子どもたちも大きくなり、奥さんたちからは見放され、男だけの合宿になっちゃったね。それはそれで良いんだけど。
優子の葬儀にもみんな駆けつけてくれた。優子を亡くした年にも集まった。連中に会うことが大切だった。
あと何年ぐらい、テニスを続けられるだろう?
俺はずっと夕メシ作ってやるからな!

Tuesday, October 25, 2011

喪失の耐性

だんだんと紅葉が美しい季節になって来ております。
パンフレットを御郵送いただきまして、どうもありがとうございました。ホームページを拝読させていただきまして、御開業までいろいろご苦労なさりながら、今日までに至っていらしたことがよくわかりました。
研究室のパンフレットを頂戴いたしました時から、ずっと優子ちゃんのことを思い出させていただいておりました。
OB・OG会のとき、ボーイズをそっちのけで、二人でお話していたこと。
優子ちゃんからの同時通訳者の御相談を電話でいたしたこと。
でもTiki様は優子ちゃんの深いお悲しみからは、前向きに歩んでいらっしゃったのですね。

心温まるメールありがとうございます。
開業できたのも、優子のおかげと思っております。
数年前から、いずれは開業したいと思っていたのですが、前の大学の職もそれなりに居心地がよく、リスクを冒してまで転職する動機づけは持ちえませんでした。それでも、優子が亡くなる2ヶ月ほど前にふたりで開業フェア(これから開業を目指す医者向けの関連企業展示会のようなもの)を覗きに行ったりしていました。

そして優子を失ったことに向き合う中で、喪失に対する耐性のようなものができてしまったように思います。もう失うものは(子どもたちを除いて)何もないといった開き直りでしょうか。現状維持に躊躇する理由もなくなりました。優子が小さい頃からの夢だった通訳者に転身したことを見習い、思い切って自分自身を前に進めることにしました。心が平穏であればもっと落ち着いて現状を自然に受け入れ、留まっていたのかもしれません。普通にしていたらバランスを失ってしまいそうな不安感から、一生懸命前に漕ぎ出してバランスを保とうとしているのでしょう。

優子を失った深い悲しみを体験したことは、私の仕事にはプラスになったかもしれません。患者さんたちはとても深いマイナスな気持ち(悲しみばかりでなく、不安、恐怖、怒り、自信喪失など)を抱えています。正直、私は今までの人生でそれほどの辛さを体験してきませんでしたので、患者さんたちの話を伺って客観的に理解・共感するしかありませんでした。優子を亡くしたおかげで深い悲しみはどういうものであるか、言葉では言い表せないものを、自分自身で体験することが出来ました。そして、それをどうにか乗り越えることが可能なんだということも、何となく体験している最中です。人を失った悲しみは、人によって救われるのだということを身近な家族や友人などと交流する中で体験することができました。
今までは理論と他者と関わる体験からしか得られなかった本当の癒しのすべを、自分自身が体験することで、精神科医としての深い自信につなげられるのではないかと漠然と感じています。

Monday, October 24, 2011

親子三代珍道中

良かったよね、三人で行けて。
もともとはおじいちゃんがお墓参りにひとりで行くはずだったんだけど、月曜日ならクリニックも休みだからパパも来れることになり。
そしたら三中も学芸会の振替休日だったんだよね。じんも来るとかはじめは言ってたけど体操教室があるからやっぱ行かないって。
祐馬は受験生。そんなことしてられないって言うけど、まあイイじゃん。勉強道具持って来なよ。
祐馬がしゃべったことのないはとこが言ってたよ、中学生の時なんて絶対お父さんと旅行なんて来なかったって。

ゆま、パパと来たんじゃないもん!
おじいちゃんと来たんだもん!

おじいちゃんも良かったと思うよう。息子と孫娘がお伴したんだからね。
別にわざわざお墓参りに行かなくったって、、、と前は思ってたけど、子どもたちやパパがママのお墓参りするみたいなもんだから、おじいちゃんが時々行かないと落ち着かないって気持ち、分かるよね。
おじいちゃんはもう祐馬の歳にはお家から離れて前橋で学校とか行ってたんだよ。時代が違うって言えばまあそうだけど、偉いよね。祐馬でもできるか?
でも実家が温泉旅館ってかなり良いよね。パパが子どもの頃は毎年来てたよ。 パパやおじいちゃんにとっての四万温泉は祐馬たちの草津みたいなもんなんだ。

また来年も一緒に行くか?
高校生になっても、それくらいの時間、きっと取れるよね!?

Saturday, October 22, 2011

手帳に予定が埋まる人生

往復書簡のほうは時々楽しんでいたんですけど、最近、あんまり書かれないな~と思って・・・。


そうなんですよね~。
書きたいといつも思っているんですけど、モチベーション、、、というより書かなければならない気持ちの必然性が下がってきているのかもしれません。
最近、優子はもうあまり来なくなったんですよ。いや、来てくれればそれに越したことはないんだけど。
まあ来なくても、それはそれで構わないんだけど。


手帳に予定が埋まる人生を、今までベストな生き方にしてました。
多種多様な人々と交われば、それだけ自己効力感や生き甲斐が増すような。
そういうのを辞めたんですよ。
身近な家族との交わりは手帳には書かない。そっちの方が大切かなって。


祐馬、じん、三中の合唱コン、良かったよ。
中学生なんてそんなマジで歌わないってのはパパ自身の経験からそう思ってたし、テニスの予定があったからあまり行きたくなかったんだけど、来て良かったよ。
パパは音派の人間なんだ。音に感動するタイプかな。中1なんて、そんなに上手くないけど、一生懸命歌ってるし、合唱曲も結構いいじゃん! パパの中学生の頃に比べると、ずっと良い曲が多いね。
何だか知らないけど、何も考えていないんだけど、合唱を聴いてると涙がツーッと流れて来ちゃうんだ。そこに君たちが登場すると、もうダメだね。普段@homeで近くに繋がっている君たちが、社会の中の遠くで切り離されてる姿を見てしまうことに感動するんだ。


身近な、親しい人とゆっくり過ごす一日が最高だね。
あるいは、ひとりぼっちで過ごす一日も良いんだ。寂しくないかって?その寂しさが良いんじゃん。優子と出会えるし。
もちろん、それオンリーじゃ煮詰まってしまう。違う世界があるからこそ、広い世界に行くからこそ、またここに帰って来れるんだ。
広い世界も捨てたわけじゃない。というか、捨てさせてくれない。イヤそうなフリしてるけど、ホントはそれがあるから充実してるんだけどね。
クリニックの手帳(というかGoogleカレンダー)も、なんだか書き込みが多くなってきななあ。
そりゃ、おばあちゃん的には安心するのだろうけど、僕としては、もう半年後くらいでも構わないのだけど。
と言いつつも、じっくり、ゆっくり救いを求める患者さんと深い話をできるのは、それはそれで充実してるんだ。


祐馬、『ラビット・ホール』は一緒に観に行くか?11月5日に封切だってよ。
テーマ的に、パパとしては見逃すわけにはいかないんだけどね。
べつに祐馬と一緒じゃなくたって良いんだけどさ。

Tuesday, October 11, 2011

結婚記念日

10月10日は晴れの特異日だよ。今日も晴れたね。
そもそも、なぜ10月10日が体育の日だか知ってる?
1964年に東京オリンピックが開催されたんだ。
あなたはまだ生まれてなかったけどね。
私は小学校1年生だったから、よく覚えているよ、開会式とかアベベとか円谷とか、東洋の魔女とか。
夢の超特急ひかり号ができて、首都高速ができて、日本は前に進んでいた。
そう、10月10日はボクにとって新幹線の特異日なんですよ。
去年も今年も新幹線。1年経ったんだよなあ~!
連休は充実してた。体重増加を1.2kgに抑えられたのは良しとせななぁ。

でも、オレはどこに行くんだろう?
去年の同じ日のブログにそう書いてある。
まだ、同じ様に迷っているなあ。進歩してない。でも進歩してる。

夜はちゅけとモーツアルトのレクイエムを聴いた。9.11と3.11のチャリティー・コンサート。
良かったね~。はるこさんもよく見えましたよ。
今まで、なぜレクイエム(鎮魂歌)があんなに盛り上がるのか理解できなかったけど、なんとなくわかってきた。悲しみはひとり静かに弱く、寂しく落ち込むものじゃないんだよね。悲しみのエネルギーは、喜びのエネルギーよりずっと大きいものなんだ。
悲しみと喜びは交互にあらわれてくる。喜びがあったから、悲しみが大きい。悲しみがあるから、次に喜ぶチャンスもやってくる。悲しみを天に向かって力強く放出した後に、喜びがやってくる。人を失った悲しみの向こうには、人と出会う喜びがある。chanceとchangeは一文字ちがうだけだね。
10.10は悲しみと喜びのmemorial dayなんだ。

帰り道、ちゅけとふたり駅前でラーメンを食べた。パパは生ビールも。
ちゅけ、歩きながら参考書読むなよ。おまえは二宮金次郎か!?
次はラフマニノフのピアノコンチェルト聴きに行きたいね。

Friday, October 7, 2011

すごい勢いで語ってた2年前

もちろん、Tikiも周りに、同居しているご自身のご両親も含めて、亡くなった優子さんについて語り合える相手はいらしたと思う。でも、人生で最大・最愛のパートナーにして語り相手の奥様を亡くされたんだ。お子さんはまだ小さかったし、語り相手にはなっても、「完全に対等な対話相手」にはなりにくい。
だから、きっとTikiは、ブログに全面的に(近いほどに)思いをぶつけていらしたのだと思う。本当にすごい勢いで、当初から3か月を経た後も、ブログを書いておられた。

確かにすごかったですかね(笑)?
私自身はすごいなんて思わず、必要に迫られて書いてただけでしたけど。

う~ん、でも振り返ってみると、優子について語っていたんじゃなくて、優子に向かって語っていたんですよ。お父さんだってそうでしょ!?
なにしろ、ひょこひょこボクの心の中に優子が出てくるもんだから、お相手してやらないと「無視しないで!」って怒られそうで恐かったからね(笑)。
ブログを読みに来てくれる人には語っていなかったですねえ。読んでくれるのはすごく支えになっていたんだけど、横で聞いていてくれるだけで十分だった。

それが、今はこうやってブログ読んでくれてるお父さんに語ってるでしょ。2年前と、だいぶ違うよね。
つまり、あまり優子が出てこなくなったんだ。
それは、ホッとする反面、すこし寂しいんだけど、まあそれで良いとは思ってる。
優子が生きてるときは、そんなにたくさん意図して語り合わなかったもんなあ。死んでからの方がたくさん語り合った、というか一方的に語りかけていたと思う。

(ここで、また家族療法家根性を出せば)家族の危機って夫婦関係にとって両刃の剣なんですよ。たとえば子どもを失い、気持ちに余裕がなくなり、それぞれ別のペースで喪の仕事をやってると、辛い気持ちを夫婦間でぶつけ合って、仲がすごく悪くなっちゃう場合もあります。離婚の危機なんかもよくありますよ。悲しみが家族を壊しちゃう。
逆に、普段以上に語り合うことが増えて、辛い時期を乗り越えるためにふたりが近づく場合もあります。悲しみが家族を強くするんですよね。お父さんの場合なんかまさにそれでしょ。素晴らしい!!

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おい、優子、聞いてるか?
優子が生きているときはそれほど語る必要もなかったけど、亡くなってからずいぶんたくさん話しかけたんだぞ。一方的だったから、かえって話しやすかったのかもしれないけどね。ヘンに返されると話しにくかったりするし。
、、、な~んて、優子に語りかけても、今となってはわざとらしくなっちゃった。もう、優子はそんなに出てこないし。
逆に言えば、2年前は、こうやってブログを通して優子に語りかけることがぜんぜんわざとらしくなかったんだよね。確かに当時は尋常じゃない、すごかったんだよ。今から振り返れば。

Wednesday, October 5, 2011

2年9ヶ月:人と関わる喜び vs. 不安

土曜日は大学時代の悪友ふたりが夫婦同伴で広尾を訪ねてきてくれ、近くの隠れ家すし屋に繰り出した。こいつらと飲むと、必ず後半には前後不覚に陥るんだよね。なんとか覚えてはいるけど。
日曜日は保育園のパパママたちが無理せず適当に作った料理を持ち寄りプチ・パーティー。子どもたちは高校生・中学生だもんなあ。子どもはどんどん成長して、大人はどんどん老けていく。
人と関わる喜び。久しぶりの仲間たちと交流して安心する。

人と関わる不安
昼間はカウンセリングしてた。クライエントさんたちは、不安と緊張感を抱えてやってくる。
うまく話せるだろうか。ちゃんとわかってくれるだろうか。言いたいことが伝わるだろうか。
先生は怒らないだろうか、叱らないだろうか。良いアドバイスくれるだろうか。
初対面だったら、そんなことわからないもんなぁ。
クライエントは、普段の生活の中で人と関わる不安を抱えて、カウンセリングにやってくる。そして、カウンセラーと関わる不安を抱く。
それじゃあ悪循環なんだよなあ。
子どもがうまく人と関われず、ひきこもってしまう。
親は、そういう子どもとどう関わってよいかわからない。親子関係に自信を持てない。
子どもの将来に不安を抱く。
子どもの問題をどうしよう?夫婦で意見が合わない。うまく話し合えない。それ以上つっこむとキレるから突っ込まない。パートナーに関わる不安、自信を持てない
子どもにどう接したら良いのだろう?子どもの頃の親の記憶が蘇ってくる。近くに、あるいは天国にいる親とうまく向き合えない。老親に関わる不安
これらはすべて連関している。ひとつの関係性の中で生まれた不安が、他の人に関わる不安に波及してしまう。それじゃあ辛いよ。

このセットをどこかでひっくり返すことはできないだろうか。
人と関わる不安・辛さから、安心・喜びへの転換。
まず、カウンセラーとの関係の中で、それをやってみよう。
たくさんの不安を持ち込んできたクライエントさんとの関わりの中に安心・喜びを生み出す。
えっ、そんな体験は初めてなの?
そうかもしれない。今まで関わってきた人たちとの関係性を振り返ってみると、そのことが改めて見えてくる。ショックだった?でも、みんなそうなんだよね。あなただけではない。

そうじゃないよ。人と関わるのは安心するよ、楽しいよ。
まず、カウンセリングの中でそれを産み出し、徐々にまわりの世界に広げていく。
それがバケツリレーでパートナーや子どもに伝わっていく。
人と関わるって、簡単そうで難しい
喜びと苦しみが混在している。
でも、ホントは難しそうで簡単なのかもしれない。

じゃあ、カウンセラーさんはどうなのよ?
結局、カウンセラー自身の体験が、クライエントさんにも伝わっちゃうんだよね。

Monday, September 26, 2011

未来予測図

先日、夕食時に、2年前に妻を亡くした友人から突然電話がかかってきた。
今から飲みませんか?
えっ、そりゃ今と言っても食事中だし、、、
わかりました。済みません。

結局、その翌日ふたりで焼き鳥屋で飲んだ。
昨晩は済みませんでした。あの後、〇〇さんにも電話して誘ったけどダメだったんですよ。
そりゃぁそうだろう。
彼は、寂しさをどう克服するか目下の課題みたい。
ある女性の方を紹介してもらったんですけど、心配でしょうがないんですよ、、、
えっ、何が心配なの?
その人にだまされちゃうんじゃないかとか、お金目当てなんじゃないかとか、、、
ふつう、そういうのは女の人が心配するパターンが多いんじゃない?
どれくらいお付き合いしてるの?
今月に入ってから。
えっ、じゃあまだひと月もたってないのね。
いや、それだけじゃなくて子どものこともあるし、仕事のこともあるし、経済的なこともあるし、〇〇もあるし、△△もあるし、、、
正直、いま焦りまくっているんですよ。
いや、オレも同じシチュエーションだからよくわかるけど。
でもこうやってTikiさんに話を聞いてもらえるってホント助かるというか、、、
そうね。私の場合は以前は〇〇だったけど、今は××で、△△で、、、、
だからのぶちゃんも□□という風に考えて、◇◇したら良いんじゃない?

というような経験談やアドバイスはどうでも良かったみたい。
ひとしきり自分のことを話したら、後は世間話というか他の話題に移っていった。

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否定的な体験(悲しみや心的外傷体験)が心のコップに入りこみ、現在が否定的な感情で満たされると、将来のイメージも否定的になってしまう。

希望とは、根拠のない肯定的な未来予測図
絶望とは、根拠がないのに確信する否定的な未来図

未来なんて、天気予報と同じ。スパコンを使ったってぜったい確定できないんですよ。できることは、どういう展望の方向性を持つかということ。
希望と絶望の中間が不安。
不安とは、根拠のない否定的な未来予測図

絶望は、動けなくなってしまう。仕事や学校に行けず、家事もできず、さらに追い込まれれば、うつ病か、死に至ることさえ。

不安状態は希望と絶望の中間状態。そのはざまでもがき、焦りまくっている。
焦りの状態だと、有効打が見つからず、無効な技と知りながらやたらにかけまくって消耗する。それが突拍子もない逸脱行動としてまわりに迷惑をかけたり、自分を追い込んだりする。
怒り、暴力、対人依存(共依存、過保護・過干渉)、依存症(アルコール、薬物、買い物、ギャンブル、セックス)、セクハラ、ストーカー、摂食障害、自傷(リスカ、OD)、、、

じゃあ、どうすればいいの?
抗うつ剤や抗不安薬もある程度は効くが、体内の生化学レベルでの付け焼刃にすぎず、生活体験と思考回路の関連を断ち切ることはできない。

私がこの2年半やってきたこと、そしてそれ以前からプロとしてやってきたことは、体験を語り尽くすこと。
不安・悲しみ・恐怖・焦りなどの感情は、本人の体験に基づく絶対的な信念である。自己にべったり張り付いた信念は、言語を与えていくことによって主観的自己から離れ、お団子状態にまとまって相対化される。そうすれば、不安は選択肢のない未来予測図から、複数の未来予測図のうちのひとつの可能性にすぎないことが見えてくる。否定的な選択肢の他に、もしかしたら肯定的な選択肢も存在するのかもしれないということに気がつく。
少しでも肯定的な未来予測図(=希望)が見え隠れすれば、どんな悲しみにも耐えることができるんですよ。

もっともお団子状態、つまり関連性をキープした筋道のある物語にまとめ上げるのはプロの仕事だったりするのかな。それがなくて、とっちらかったままでしゃべりまくると、そこらじゅう水びたし状態で収拾がつかなくなる場合もあるか。
私も、収拾なく飛び出してくる悲しみをブログに吐き出して、ペタペタお団子状態に丸めてたんだと思う。

のぶちゃん、また飲もうぜ!

Monday, September 12, 2011

Primary Attachment Figure

ねえ、祐馬「ライフ いのちをつなぐ物語 」っていう映画みたいからネットで切符とってよ。

ふ~ん、日曜日ならパパも一緒に行ってやってもいいよ。

土曜日に行きたいの!祐馬ひとりで行けるもん。パパほんとは祐馬と一緒に行きたいんでしょ!そう言えばいいのに。素直じゃないんだから!


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昨日の日曜日は楽しかったね。忙しかったけど。
パパは午前中と午後に分かれてお仕事があって。お昼をはさんで4時間くらいヒマだから、買い物に行こう!
みんなで広尾から都バスで渋谷へ。ランチはファーストフードで軽く済ませ、
センター街でみんなの靴を買って。子どもたちはすぐサイズが合わなくなるからなあ。
その後、ユニクロとGAPへ洋服を買いに。じんは大人のSサイズだと思ったら、うで周りはきつかったね。腕っぷしはずいぶんたくましくなったよ。ちゅけはパパのトランクスと間違えないようにしないとね。パパは共用でも良いんだけど、ちゅけは拒否するよなあ。
帰りには西麻布交差点のHobson'sに寄ったね。ここは、君たちが生まれる前、ママと一緒によく来たんだよ。当時はいろんなもの載せてかき混ぜるヤツが珍しくて、ずいぶん流行っていたんだ。
子どもたちはいったん広尾で留守番ね。もってきた勉強しっかりやりなさい!
6時過ぎに仕事を終えて、さあみんなで帰ろう。夕ご飯は途中でどこか寄るかね。
マル金ラーメンでもいいけど、チャリ通勤の途中で見つけた白金台のカフェ・レストランにしよう。なんか外国みたいな雰囲気でしょ!?
パパは仕事もしたけど、ずっと子どもたちと一緒に居れたね!

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キミたちがまだ赤ちゃんの頃の話。
ママのおっぱいを吸っているところにパパが近づいてくると、あっち行けと足で蹴飛ばそうとしてたよね。

もうちょっと大きくなってから、パパがママの肩に手をまわして仲良くひっつくと、祐馬は突進して間に分け入り、パパをママから剥がそうとしてたよね。息子たちは知らんぷりしてたけど。

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娘ははっきり態度で示し、息子たちはそうでもなかったけど、子どもたちにとってママはprimary attachment figureだったんだよな。自分の一番近くにいる絶対的・必然的な存在で、相対化されちゃいけないんだ。たとえパパでも祐馬以上にママに近づいちゃいけなかったんだよな。

でも、子どもたちは適応力がある。ママがお泊り出張でいないときなんか、いつもは蹴飛ばしていたsecondaryのパパがprimaryに格上げされて、パパにひっついて寝ていたよね。

ママが死んでからも、パパをprimaryに格上げしてくれたんだよね。まあ、パパしかいないし(じんにとってはじじばばもいるか?)。
子どもたちにとって、パパの親密さのベクトルは100%子どもたちとママに向けられてないといけないんだよな。

パパが子どもの頃だってそうだっと思うよ。でも、しっかり愛されているという安心感があればだんだんと離れていけたんだ。アメリカに1年間留学した時は、host parentsに意図的に向けられたし、恋人を作って相互的にexclusiveな関係を体験し、ママと結婚して、キミたちが出現して、、、

だから、君たちもそのうちそうなるんだよ。べつに早くそうなれって追い出そうとしているわけじゃないけど。
成長していく中で、自然にprimaryを進化させていくんだ。親から親密なパートナーへ。

パパだって君たちと同じだよ。一番大切なprimary attachment figureを失ったんだ。
じゃあ、パパの場合はどうすればいいの?
キミたちと同じ風に考えれば、ママがいたんだという安心感を抱きつつ、進化させていくのかなあ。
子どもたちはいつまでも親にひっついていたら、自立して大人になれないよね。
パパだっていつまでも死んじゃったママにひっついていたら、成長できないんだよね。
もう十分成長して中年オヂサンになっちゃったからこれ以上は伸びないのかな、それともまだ成長するのかな?

Sunday, September 4, 2011

2年8ヵ月 & Amazing B'day

すごいね、Facebookって。
18人のinternational friends
19人のdomestic friends
からおめでとうのメッセージをもらったよ。
まあ、FBからnoticeが行くからね。

そんなの、普通だよ。もっとたくさんやってるひとは、もっとすごい人数からメッセージをもらうんだから

そりゃそうだろうけどね、祐馬。でもまあ単純に嬉しいじゃない!

夜はJASCの連中と、優子以来年中行事になりつつあるreunionだ。僕のオフィスに集まってビールとワインを飲んでから、下のもつ鍋屋で盛り上がった。
みんなには誕生日だってこと言ってないから知らないと思ってたのに。
幹事のTedがいきなり「罰ゲームやろう!」とか意味不明のことを言いだして。
目をつぶったら僕の前にケーキが置かれ、surpriseとわかっても、なんかピンとこなかったほど。けっこう飲んでたからね。後からジワジワ驚きがやってきたよ。いやー、びっくり、嬉しかったよ。

Tedがアイマスクをかぶせたり、Tikiがヘリウムガスを使って声色をかえたりしている時に、お二人の中間点の頭上で静かに笑っている下優の存在を感じました


そうだよなあ。優子はよく知ってる仲間みんなを見下ろしていたんだろうね。
僕は優子に気づかない程、みんなとの旧交に夢中だったよ。


そして、一日遅れの今晩、じいちゃんがチョコレート・ケーキを買ってきて、みんなでいつものBirthday Song。
子どもたち、カードありがとう。
みんな、文章うまくなったなぁ!


最高の誕生日だったよ!!

Thursday, September 1, 2011

シュラスコ

新学期だね。
ちゅけは月曜からもう始まってるけど、祐馬とじんは今日から新学期だね。

行く気しねーなー。
でも夏休みヒマだったから行っても良いかな。久しぶりに仲間に会えるし。

そうだよ、じん、ヒマで苦労するのは今のうちくらいだからな。

昨晩は、子どもたちとシュラスコのお店に行ってきた。夏休みの最後、一応受験生のちゅけと祐馬はがんばったしね。それにパパの誕生日はお仕事(というか友だちと飲み会)でダメだから、一緒にやっちゃおう!

ずっと前、確か君たちが生まれる前にママと一緒に東京駅のお店に入ったから、今回は広尾から歩いて表参道のお店まで行こう。ブラジルのバーベキュー。カッコいいお兄さんたちがいろんな種類のお肉をテーブルまで持ってきて、よく切れるナイフで切ってくれるんだよね。てんこ盛りのサラダバーに、お肉食べ放題!!さすがのちゅけも途中でリタイア!パパもお腹パンパン、もうお肉は見たくないくらいのレベルまで行ったね。


もう、ママがいなくたって平気じゃん!
こうやって子どもたちとパパで楽しめるよね。
ママがいたら4人テーブルに別の椅子をくっつけたり、6人テーブルが空くまで待ったり面倒だけど、4人だったらちょうど良いし。
そりゃあ、ママがいた方がもっと良いに決まってるけど。
パパは君たちがいてさえくれたら、十分生きていけるぞ!

Friday, August 26, 2011

それぞれの草津♨


なんだかんだ言って、この夏もう3回目なんだよね。
今回は、おじいちゃんとちゅけとじんとカイを連れてきた。東京に残したおばあちゃんにもたまにはbreakがないとね。逆ショート・ステイみたいなもんだ。
車に一切を積んで、いつものお決まりのコース。
高坂SAのdog runでカイを散歩させ、
お城の湯(我々の通称。岩櫃城温泉のこと)でついでに夕ご飯も食べて、
大津のスーパーで明日の食材を買ってくる。

ちゅけは4年ぶりだよな!前回来たときは中2。ママもいたもんな!
懐かしいだろ!そう、ノスタルジーだよな!

じいちゃんは早々に床を延べている。
ちゅけ、湯畑に行きたいの?行こう、行こう!
でも、白旗の湯には入らないの?
じんとパパは熱い方の湯船に挑戦だ。
すっかり暖まったね。半ズボンじゃあちょっと寒いから、長ズボンに着替えたよ。
ナッツ&ビールしながらブログを書いている。
じいちゃんとカイはすでに寝て、子どもたちは6月に買い替えた地デジテレビを見ている。

ボクにとって、草津は非日常であり、日常の世界でもあるんだよな。
ここで優子も失った。そのことは日常なんだろうか、非日常なんだろうか?

益成屋はゴージャスだったなぁ!あれは、完全にハレの世界。
ハレとケの世界って、重ね合わせることできるの?

大森のハナマサでお肉の塊を買ってきたから、明日はBBQやろうね。
午後は、パパひとりで国際音楽フェスティヴァルに行って、チャイコフスキーを聴いてくるよ。そのあと大滝の湯に行こうね。じいちゃんはパスするかもしれないけど。

Tuesday, August 9, 2011

男の涙


暑さが燃えたぎる8月は、日本人にとって原爆投下の日・終戦記念日、そして死者の魂が戻ってくるお盆homecomingの時期だ。

先日、被災した陸前高田の夏祭りがテレビで紹介されていた。失った家族の魂を神輿に乗せ、練り歩く勇壮な兄ちゃんたちが海に向かって一斉に黙祷を捧げる。うつむいた顔から雫がポタポタ。汗かと思ったら大粒の涙じゃん!

これを見て、今まで体験した男の涙が蘇ってきた。

小学校1年生の時、おばあちゃんの亡骸を運ぶ父親はしかめっ面してたけど、ホントは泣いていたんだって。びっくりした。
子どもは弱虫だから泣く。
母親が朝のNHK連ドラで、お祖母ちゃんは夏の帰省から帰京するときいつも泣いていたから、女の人は泣くものだと思っていた。でも、大人の男の人は泣くものではないと思っていたから。

大学4年生のアメフト最終戦で宿敵を倒したとき流した涙は喜び・感動の涙だから、カウントしない。

40代。ローマの著名な家族療法家Maurizio Andorfiの元に15人ほどの家族療法家たちが集まり、2週間のグループ・セッションを行った。その最終日のclosing sessionで、当時離婚の危機にあったマウリッツォが突然泣き出した。
えっ、メンターが泣いちゃっていいの?
もしかして彼、壊れちゃったの?
びっくりして不安だったが、その後のパーティーでは普通に元気に振舞っている。そうか、あれは崩れ落ちる涙ではなく、意図した感情表出だっんだ。

アメリカの男性グループのメンターEd Burtonと男性に対するセラピーのビデオを見た。父親への怒りと憎しみが語りつくされた後に、彼が生まれたとき祝福していた父親の思い出にたどり着いたとき、Edも私も涙した。

優子が亡くなった時、子どもたちはパパの涙をどうみてたんだろう?
愛することの素晴らしさを伝えたかったんだよ。人を愛すれば、いつか別れが来る。こんなに突然やってくるとは思わなかったけど。心の中の圧倒的な感情の塊(悲しみ)の勢いで自分が壊れちゃいそうで怖いよね。
思わず溢れちゃいそうになる涙を必死に堪えるのが強いんだと思ってるかもしれないけど、ホントはそうじゃないんだよ。
溜め込んだ気持ちの塊のために卒倒したり、爆発する前に、うまい具合に悲しみのエネルギーを外部に逃してやるのは相当難しいんだ。女の子の祐馬は自然にできるけど、男の子のちゅけやじんはもうちょっと成長してからかもしれないね。
でも、そうやって悲しみを手放してしまうって、寂しいんだよね。その体験から決別することになるから。そう簡単には放したくないって思うんだろうね。

Sunday, August 7, 2011

酷暑の中の墓参り

優子、久しぶり。
前回、いつ来たっけ?、、、お正月だったか春休みだったか、忘れちゃったよ。
今回は子どもたちに加えてお義母さんもお義兄さんも来てくれたぞ。
いや~、暑いね。でも、その後みんなで三浦漁港の美味しいマグロを食べたよ。

子どもたちもママのところに来て満足したみたい。
上のふたりは、それぞれ未来に続く道を何となく見据えてがんばってるよ。祐馬は塾の夏期講座の中休みで明日から久米島ダイビングだ。ちゅけは草津に誘っても、もう来ないよ。
親子の愛情が深いほど、そこから抜け出すのに苦労してる思春期の子どもたちをよく診てるけど、その点うちの子どもたちは大丈夫だな。ママがいきなり消えちゃったのはかなり辛かったけど、ママに近づくためには天に向かって伸びるしかないからね。特に祐馬は英語を使って国際的に活躍していたママを目指しているみたいだよ。

でも、足元が不安定のまま背伸びすると倒れちゃうからね。そのあたり根元を支えるのは地上に残されたボクがやるしかないってのは、優子に言われなくてもわかってるよ。ふだん、おばあちゃんに「いない、いない」と言われても、子どもたちの気持ちはしっかり支えているから大丈夫。

先日来てくれたきみえちゃんとはgirl's talk堪能したか?
亡くなる2週間前きみえちゃんに会った時も「Tikiと一緒になれてホントに良かった」なんて言ったんだって?なぜ?
日常の一コマとして過ぎ去るはずだった一言が、応えられないままずっと残っちゃったじゃないか!

Wednesday, August 3, 2011

2年7ヶ月

優子の居場所、なくなったよ。
子ども部屋と勉強部屋に設計士さんと大工さんを入れて、大幅リフォームしたんだ。
子ども部屋にあった机と二段ベッドを全部処分し、新しく作り付けのベッドを作った。祐馬は女の子だからパーティションも入れて。
そして、子どもたちの机は思い切って僕らの寝室に移動したんだ。優子と二人で過ごした大きなベッドを処分して、僕ひとりの寝室を大幅に縮小した。そのスペースを子どもたちとボクと4人のための広い勉強部屋を作ったんだ。すごく使い良くなったよ。

子どもたちは前に進んでいる。
上の二人は受験の夏だ。
ちゅけはいくつかオープンキャンパスを回り、気に入った大学を見つけたようだ。毎日、高校の補習に通い、僕の広尾のオフィスを勉強部屋として使っている。あそこなら、ひとりで集中できるよな。
祐馬は張り切って進学塾の夏期講座を申し込んだものの、すごくハードでびっくりしたよね。初日は「もう、辞める!」とか泣いてたけど、前半の2週間をなんとか乗り切り、がんばったじゃないか!すごい適応力だね。お盆過ぎから後半の2週間また絞られるから、その間、久米島で思いっきり楽しんできな。どっさり出た塾の宿題も大変だね。パパからは何も言わないから、自分のペースで進めなさい。
じん、パパとふたりでカイを連れて草津に行こうか?兄と姉は忙しくて来るヒマなさそうだから、じんと二人で楽しもう。英語の勉強したいんだよね。パパが良い問題集みつくろってやるから、パパと勉強しよう。

オレも前に進んでるぞ。
出版社と、次の本の話が進んでいるんだ。このあたりで、今まで積んできた経験をしっかりまとめたい。新しいクリニックはまだそれほど忙しくないので執筆の時間も確保できるし、本を出して顧客を確保しなくちゃというincentiveも得られるから、ちょうど良いチャンスだ。
夏の休暇はしっかり確保して、思いっきり楽しむぞ。新たな旅立ちだ!

そういえばしばらく優子のところには行ってないな。先日、きみえちゃんが来てくれたんだってね。
お義母さんともご無沙汰だから、夏に一度は行くから、そうすねるなよ。
別に優子のことは忘れてはいないけど、子どもたちも僕も、2年7か月前の定点に優子を残し、ずいぶん成長しちゃったんだよ。残念ながら。

Thursday, July 28, 2011

喪の仕事を数式で表すと、、、

『あっぴのお父さん』です。
褒めて頂いてありがとうございます。
なんとかもがきながらやっていっています。


今日、分野は違いますが、遺伝カウンセラーの人から、『mourning work(喪の作業)は2~3年はかかる。自分の中に、何らかの今まで隠れていた“こだわり”を見つけたとしても、それと戦うのではなく、それを自分の中にきちんとおいておける場所を作ってあげると良い』というアドバイスをもらいました。


なるほど、と思いました。
そんなもんですかね?

そうねえ、だとすると、2年半の私はまだ作業中だよね。
喪の仕事に何年って区切りはないように思います。
その気持ちを表すちょうど良い曲線を見つけたんですよ(済みません、数学系なもので)。
失った時は、何がなんだか把握できず、お葬式の1週間から2-3ヶ月くらいが極値だったでしょうかね。それから、だんだんと下がっていったけど、決してゼロにはならないという。
たとえば、この図でいえばf(x)=0.1以下が一応落ち着くレベルと考えれば、x軸(期間)は3かかりますよね。だからといって喪の仕事は終了したわけではなく、いつまでもいつまでも悲しみは続くと思います。でも、それに付随した痛みはだんだんと軽くなっていきます。

そう、確かにきちんと置ける場所さがしだったかもしれない。
当初は、私の心の中で優子が暴れまくっているという感じでしたね。だからマトモに日常生活が送れたものではなく、普段の生活をこなすためには、如何に暴れまくる優子を落ち着かせるかということにすごくエネルギーを使いました。
でも、無理に抑えつけようとはせず、適当に暴れさせていたら優子も疲れたんでしょうね。少しずつ落ち着いてきました。ちょうど家の中に放し飼いにしている愛犬が、やがて自分の居場所を見つけるように、優子も神棚だか床の間だか知らないけど、私の心の中に居場所を見つけてそこに落ち着いて佇んでくれるようになりました。時々面倒みてあげないと怒るんだけど、さすがに突然出てきて日常生活をかき乱すことはしなくなりました。
でも、私のidentityの一部だから消すわけにはいきませんからね。私の心の中の安全な場所をしっかり確保して、そこに居てくれれば、本体はお墓の中でもどこでも構わないんですよ。そうなるまで4ヶ月くらいかかったかなあ。納骨したのはそれくらいの時期でした。

話を対数正規曲線に戻すと、Extrovert(とりあえず話し合うタイプ)の私は、喪の仕事をひとりでは進められず、誰かと一緒に進める相手がいないとなかなかうまくいかないんですよ。私の悲しみの値が、たとえばf(x)>0.4くらいでとても大きかった当初、優子の友人やまわりの多くの人たちもf(x)=0.1以上でけっこう大きかったから、一緒に進められました。でも、みんなは私より早く0.1以下に下がるから、だんだんと相手をしてくれなくなります。でも私はまだf(x)=0.1以上だった頃、けっこう寂しかったかな。それが半年~1年半くらいの時期だったかな。その後は、私の値もかなり下がってくるので、それほど気にならなくなりました。その間もブログや西魔女はかなり喪の仕事の相手役としてかなり役立ってました。

でも、自分で言うのもなんだけど、Extrovert(とりあえず話し合うタイプ)の人は、適切な相手さえ見つかれば、かなり喪の仕事はサクサクと進められるから良いですよ。むしろ、Introvert「とりあえず考えてみます」タイプの人の方が心配です。気持ちを外に出さなくても、ひとり自分と向き合ってサクサクと進めることができれば良いのだけど、ひとりで喪のスパイラルループにはまってしまったら、そこから抜け出すのにちょっと大変かもしれません。

Wednesday, July 27, 2011

産業医の研修と孤独な一週間

朝の8時から夜の7時まで缶詰状態。
600人の受講生。年一回だけの集中講義に全国から集まる。

大ホールに埋め尽くされた人たちは全員医者なんだよなあ。ふだんの生活や私の職場では、医者ひとりあたりの人口○人という世界だったから、自分が医者のくせにまわりみんんな医者という集団には違和感がある。春に日本医師会でやった講演会でも同じ感覚だったかな。
学会でも同じようだが、私の所属する学会は学際的、つまり多職種の人たちがまじっている。それに、学会なら誰かしら知り合いがいる。今回は600人中ひとりも知り合いがいない。大講堂で一方的に話を聞いているだけで、下手すると一日ひとこともしゃべらないかもしれない。講義をする側をずっとやってきたが、講義を受ける側をこれだけぶっとおしで体験するのは大学時代以来30年ぶりかもしれない。

話の内容は、、、面白くない。
もともと私は一方的に聞く形式の講義が嫌いだ。
資格取得が目的だから、講義内容は多岐にわたる概念を押さえておくというような感じだ。この歳になって、自分の専門性は確立しちゃってるから、今さら他の分野を熱心に学び直す気にはならない。明日のメンタルヘルスの話はきっと興味を持てるだろうけど、今日の話は一日すわったままの苦行だった。

普通の仕事や学会での地方出張は、楽しい「現実からの逃避」だ。仲間と連れだって現地の名産を食べに夜の街に繰り出す。
しかし、今回は付き合ってくれる仲間もいない。ひとりで美味しいものを食べても美味しくない。ならば、がらりと方針を変えて、修行の一週間にしよう。
村上春樹の作品には、よくひとりでトレーニングする描写が出てくる。村上自身、時々テレビで垣間見る体型を見るとトレーニング・マニアなんだろう。1Q84の青豆も、海辺のカフカの田村カフカ君も、ひとりでジムに通い、淡々と「全身の筋肉のひとつひとつを丁寧に伸ばして、鍛え上げていく」みたいな表現だったと記憶している。

ストレッチをして筋肉をほぐしているうちに、少しずつ落ち着きを取り戻してくる。僕は僕という入れ物の中にいる。僕という存在の輪郭が、かちんという小さな音をたててうまくひとつにかさなり、ロックされる。これでいい、僕はいつもの場所にいる。(村上春樹「海辺のカフカ」)

今回のホテルは豪華バージョンをやめて質素なウイークリーマンションタイプ。レストランはなく、部屋に冷蔵庫、レンジ、調理器具、洗濯機などが揃っている。近くのコンビニでひととおりの食材を買ってきた。朝はトーストとシリアルにベーコンエッグ。ちゃんと食べる。昼は会場で日替わり弁当が配給される。夜はアルコールも外食も避け、ホテルの部屋で自炊。夏野菜のカポナータにクラッカーとチーズのみ。低カロリーだが満足できる食事をつくる。
研修を終えた夕方、近くの市民プールでひと泳ぎ。部屋に戻って体幹トレーニングとストレッチング:村上春樹みたいに筋肉に十分な刺激を与える。

 今から百年後には、ここにいる人々はおそらくみんな(僕もふくめて)地上から消えて、塵か灰になってしまっているはずだ。そう考えると不思議な気持ちになる。そこにあるすべてのものごとがはかない幻みたいに見えてくる。...
僕はいったいなんのためにあくせくとこんなことをしているのだろう?どうしてこんなに必死に生きていかなくてはならないんだろう?(村上春樹「海辺のカフカ」)

家族も友人も誰もいない一週間なんて、とてもレアで貴重な体験だ。ひとり飲んだくれる一週間はもったいない。
ちゅけも勉強に集中する休日は、よく昼食を抜くよな。お腹がすごく減っても、減っていることに慣れてしまえば、それはそれで大丈夫になると、食べざかりのおまえの年代で考えるなんて大したもんだよ。
ひとりきりの孤独さに合わせて、食事も不足させる。それに適応できれば、それはそれで居心地がよくなるよな。
まだ始まったばかり。残りの4日間、どれほど孤独をエンジョイできるかな。でも「4日間」という期間限定だからこそ、そうしたいと思うし、できることなんだろう。

Sunday, July 24, 2011

Emotional Emergency(心の危機)

これはパラドックスなんですけど、自分が今、Emergency(危機状態)にあることを認知できたら、もうemergencyじゃなくなるんですよ。何らかの対処行動をとれますからね。
一番危険なのは、自分がemergencyにいることに気づいていない時。津波だって、身体の病気だってそうでしょ!

心(emotional)の状態って、自分でわかっているようで、なかなかわからないものなんです。 でも、喪失体験による危機状態ってのは、誰でも比較的わかりやすい部類だと思います。今のあっぴの父さんだって、2年半前の私だって、誰が見たってそれは明らかでしょ。急性の危機状態だし、その原因が明らかですもの。これが、もっと慢性の、原因がはっきりしないような危機状態だと、本人やまわりの目からもよくわからないし、心の専門家が一生懸命解き明かそうとします。たとえば、うつ病、幼少時の原体験、長年にわたる近い人との葛藤などです。

喪失による心の危機に対する対処行動とは?
私の場合、あらゆる手段を用いて、失ったものを再現させることでした。
優子の写真やモノを集め、優子をたくさん語り、たくさん書き、心の中に優子を再現させます。
さらに、そうしている自分の姿を語り、たくさん書きました。かなりナルシスティックだったけど、仕方ないでしょ。
優子を語り、自分を語る。当然たくさんの辛い悲しみが噴き出してしまう。卒倒するほど辛いので、ひとりではやらない。誰かに助けてもらうのが原則。助ける人も大変だと思うので、いろんな人に変わりばんこで助けてもらったり、プロの人に依頼したり。(まあ、私自身がプロなんですけど、自分のことは自分じゃ無理ですから)
そうやっていく中で、少しずつ、優子と、優子を失った悲しみを手放していくことができたように思います。
まだ終わってませんよ。まだ終わりたくないというか。
実際には終わっていたとしても、まだ終息宣言は出したくないような。

要するに、長い、長い、「さよなら」の挨拶なんですよね。辛いんだけど。
日常の友だちとの「さよなら」は、手を振って一言いえば十分なんだけど、大切な人との永遠のさよならはそう簡単ではない。ずいぶんと時間をかけて、念入りで周到な「さよなら」なんです。
この「さよなら」の儀式には終わりがないんじゃないかと思ったりするけど、結果的には残念ながら終わりがあるようです。というか、徐々に漸近線のように収束して限りなくゼロに近づくというような感じかな。でも、ゼロにはならない(したくない)。

あっぴの父さん、よくやってるよ!!

Monday, July 18, 2011

優子からの伝言

Tikiさん
今日、三浦霊園に行ってきました。
優子さんは、シンプルなデザインの美しいお墓で休んでいらっしゃいました。
高台にある墓苑の遠方に広がる三浦海岸は水面がキラキラ輝いていました。

お会いした2週間後に亡くなられた時は、一緒に年齢を重ねていけないと思うと悲しくてなりませんでしたが、今日は少し違いました。私がいつもの調子で話すと、優子さんはこれまで同様、優しい表情で微笑み、同じ言葉で反応してくれました。これはきっとこの先いつ会いにいっても同じだろうなあと思いました。そして、これまで優子さんとの交流から得たことを、いろいろなかたちで人との交流のなかで還元していくことで、今後も一緒に生きていけると確信しました。

2年半前、優子さんからは二人で韓国に旅行されたこと、Tikiさんと結婚してよかったと思うことなど伺っていましたが、今日もTikiさんは最近開業され、また三人のお子様方も順調に成長されていて幸せだと優子さんは優しく微笑んで話してくれました。

猛暑の中、優子を訪ねて下さり、またメッセージもいただきどうもありがとうございます。
私と子どもたちが、2年前はしょっちゅう来てたのに、最近はほったらかしでちっとも来ないとか文句言ってませんでした?
韓国週末旅行は子どもたちができてから初めて、十数年ぶりの二人だけの海外旅行で、楽しい時を過ごしたことを懐かしく思い出します。ブログの肖像もその時の写真です。

こうして、繰り返し何度も何度も優子の思い出を語る中で、少しずつ悲しみを放してゆけるように思います。
どうもありがとうございます。

Sunday, July 17, 2011

コクリコ坂とけやき坂

休日は図書館に詰めて勉強するちゅけ、パパの研究室を使っていいぞ。鍵を貸して、朝から広尾へ。
祐馬と親友さえが六本木ヒルズでコクリコ坂から観るんだって。
その前か後にパパのとこ行っていい?
良いよ。
じゃあパパも昼間、研究室で仕事してるかな。

お昼ごはん、ちゅけはとらないの?
じゃあ、祐馬とさえと3人で行こうか!
ヒルズにあるけやき坂ベーカリーは休日ランチで大賑わい。女の人と赤ちゃん連れが多いね。

こんな時こそ、イケてる服着てる?
いや、まあ、そこまでいかないけど。

このあたり、美味しいお店多いんだもん!
ホントそうだね。キミたちは二人の会話で夢中。パパとは何を話すわけじゃないけど、一緒にいるだけで楽しいよね。
友だち父娘ってほどじゃないけど、パパにとってはとても大切なひと時なんだよ。

Saturday, July 16, 2011

留学記念日

36年前の今日。
まだ、成田空港もジャンボ機もない時代に、羽田空港からDC-8機で、約100名の高校留学仲間と共にアンカレッジ経由サンフランシスコに旅立ちました。知人から留学を記念してモンブランの万年筆を名前・日付入りでいただきました。留学中は日記や手紙を書くために活用してましたが、帰国後はほとんど使うこともありませんでした。

2009年8月2日に書いたように、東直子さんに触発され、長い間引き出しの奥に眠っていた万年筆をオーバーホールして生き返らせました。
新しいクリニックができ、新しい部屋で、新しい文具を使い、新しいクールビズの服も揃え、モンブランも活用しています。

今までは過去から抜け出し、将来を見通して必死にを生きていた。
今でも、を生きている。将来もある。
しかし、過去は抜け出すものではなく振り返り、自分と一緒にいるものになった。
失われた過去を取り戻すことで、fullな自分の実感を得られる。

36年前の留学仲間との交流が、最近Facebookを通して活発なんだよな~!

Monday, July 11, 2011

真夏のサイクリング

関東地方も、2-3日前に梅雨明けしてたんだ。知らなかったけど、真夏の天気だよね。
今日は広尾ではなく、大学だったので、久々の多摩サイ。片道1時間40分のサイクリングは、ずっしり全身の筋肉に効くよ。

センセ、茹タコみたいに真っ赤ですよ!

いやぁ(笑)、、、
でもみんなが想像するほどきつくはないんですよ。エアロビクス(有酸素)運動ですもの。ジムでエアロビやったらすぐ2時間くらい経っちゃうでしょ。それと同じですよ。冷房がなくたって、強制空冷システムが効いてるもの、地熱を歩いているより熱は感じないものですよ。

お父さん、あっぴブログへの書き込みは、自分自身のためでもあるんですよ。
人のふんどしを借りて、自分の喪の相撲をとっちゃうみたいな。
いや、オレはお父さんと同じタイプだから、気持ち(悲しみ)を他者に伝えることが一番効率的なんです。どんどんやった方が良いよ。

私にとって、もうひとつ向いてたのはphysical exerciseによる喪の作業かな。
これは、始めから狙っていたわけではない。結果的に、そうだったのかなと振り返る感じ。
心と身体は密接に関連している。
心身症は、心の葛藤が身体の症状として現れる現象だ。
意識されない葛藤が根底にあり、さまざまな異常・問題行動があらわれることもある。たとえば、摂食障害、暴力・攻撃性、反社会的行動、嗜癖行動、性的逸脱行動などなど。
心⇒身体化の方向だけでなく、
身体⇒心の状況を変えることもあるんだろうね。
その端的な例がEMDR。
眼球のまわりの筋肉を動かすことにより、深層の記憶がよみがえってくる。そのメカニズムは不可解だが、眼球筋がそうなら、体幹・四肢の筋肉も同様に脳内の感情システムに直接影響するという仮説があったっていいじゃない!
オレの体験が、少なくともこの仮説を実証している。テニスやゴルフなどのスポーツだと、ゲームに熱中するからそういうわけにいかないけど、多摩サイだと何も考えなくていいから、優子の記憶がバンバン出てきた。筋肉活動中の記憶の再現って、なんかEMDR的じゃない!

さすがに真夏の多摩サイは全身の筋肉がヘトヘトだ。
熱いシャワーで身体を温め、念入りにストレッチしたら、四肢の筋肉中の乳酸がしぼり出されてくるようで、気持ちが良い。と共に眠くなる。
今晩は早いけど寝ちゃおうかな。
もう、優子は出てこなくなったよ。

Monday, July 4, 2011

2年6ヶ月

どうしてこんなことになってしまったんでしょう!?

お別れの会でのお母さまの言葉は、2年半前の私の言葉でもあった。
全く突然に襲ってくる家族の死。

でも、優子には心臓病の既往という伏線はあった。理性の上でも、ある程度ストーリーを組み立てることはできた。

しかし、生命力がみなぎる10代、1ヶ月前は病気の片りんさえなかったあっぴが突然の死を迎えるなんて、青天の霹靂。理性の上でさえ、とても受け入れることはできない。

優子の死を理性で受け入れたとしても、心情レベルで受け入れるまで、時間がかかった。夢に出てきた優子は本当に生きていた。ああ、やっと現実に戻って来たとホッとして、目が覚めるとまた現実が入れ替わる。その落差がとても悲しかった。
そういう体験を何度も繰り返した。
最近でも夢に優子は出てくる。でも、その悲しみは色あせ、セピア色になった。

お葬式は、絶好の喪の仕事場だった。
お葬式の前は、優子を考えるエネルギーをお葬式のことを考えるエネルギーに転換できた。葬儀屋さんや保育園仲間たちと打合せ、たくさん話した。自分の悲しみを多くの人に伝え、多くの人の悲しみを受け取ることができた。
お葬式が終わると、喪の仕事場を失ってしまった。父親として、職業人として、日常の仕事が戻ってくる。そこで喪の仕事の内職はできない(いや、実は一度授業中に内職しちゃったんですけど=学生たちに語り、悲しみを受け取ってもらいました)。

仕方がないので、意図的に仕事場を作った。
優子石を作りに、ちゅけと大阪に行った。
リカちゃんに会いに、九州へ行った。
西魔女。それにブログ。
読書もそうだった。小説や手記、一般書から専門書まで、喪の仕事に関する本を買いまくった。
悲しみ、流した涙の分だけ、少しずつ、心の中の喪失を受け入れていったと思う。
語ること、表出すること。それが優子を失った僕のサバイバル術だった。

喪の仕事は、人によりみな異なる。それぞれに合ったユニークな方法を見出してほしい。
ただ言えることは、喪失の痛みをマヒさせ、感じなくさせるために無理やり補てん物を詰め込んではいけない。感情麻痺、代償としての怒り、アルコール、仕事中毒、、、
まず、しっかり痛みを治療しなくちゃ。
といっても何をするわけではない。自然治癒力に期待して、自然に乾くまで待たなければならない。

傷口が乾いてくれば、自然に次の希望が生えてくる。
補てん物を詰め込んじゃったら、自然に生えてこなくなっちゃうから。

あっぴの遺影に、隣にたたずむ祐馬を重ねてみたら、涙があふれてきた。

Wednesday, June 29, 2011

友人と、二年半前の私

学生時代からの友人の娘さんが、急性の心臓病で亡くなった。一ヶ月足らずの闘病生活。その前には全然元気なふつうの高校生だったのに。
友人とは長年の家族ぐるみの付き合い。娘さんが幼い頃、一緒に泊り、BBQをしたこともあった。優子の葬儀にもいち早く駆けつけ、このブログも熱心にフォローしてくれた。そして今、彼自身のブログに悲しみを綴っている。
あの時と、立場が逆じゃないか!

二年半前を昨日のことのように思い出す。
優子を亡くした3日後からブログを書き始めた。そうせざるを得なかった。
まだ、悲しみが大きすぎて、自分の悲しみを、悲しみとして実感することができなかった。
自分の人生・存在にとって、とてつもない出来事が起きたらしいということは理解できた。
弔問客が来れば泣き、葬儀屋と打ち合わせをすれば泣き、それが終われば普通の顔をして子どもたちや応援に来てくれた友人たちと対応し、歯が痛くなったので歯医者に行ったり。
悲しいことは悲しいのだが、その時点で感じることができた悲しみは、大きな感情のかたまりから漏れ出してくるごく一部であり、じっさい、悲しみの全体がどれくらいの大きさなのかすらわからなかった。それがわかりはじめたのは1-2ヶ月くらい経ってからだったと思う。

気持ちが落ち込むのが怖くて、ぐいぐい、半ば強制的に気持ちを前に進めていた。
経済的に貧窮するわけではない。生活は前と同じように進んでいく。ちゅけの受験ももうすぐだ。祐馬の中学の制服も注文しなくてはいけない。たくさんの人たちに応援を頼み、支えてもらい、ブログを書きまくり、、、そういう姿を痛々しく見ていた人もいた。その人は10年前に奥さんを亡くした同僚だ。
今、友人を見ていて、同じように感じる。
津波のように押し寄せてくるであろう悲しみの塊に対抗するために、何が何だかわからないけど、今できることを必死にやるしかない。普段の活動性が先鋭化し、hyper-activeになっていた。
Tikiさん、大丈夫?ちょっと休んだら?
そんなまわりの声に耳を傾ける余裕もなく前に進んでいた。
そうするしかないんだよね。そうしないと、自転車が失速して倒れてしまうのが不安だった。

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追伸⇒あの頃の気持ちを蘇らせてみた。
とにかく、未分化な、圧倒されるような感情の塊が胸の上に重くのしかかって苦しかった。
気持ちが重く詰まっていて、寝ようとしてもザワザワ心の中で何かがなびいて眠れない。
それをどうにかしたかった。絞れ出せばよいというのがセオリー。
少しでも楽になりたかったから、必死に絞り出していた。今から思えば、そんな危なっかしく焦らなくても良かったのに。でも焦るしかなかった。
気持ちを絞り出してみれば、それは誰にでも共感できる、純粋で、深く、大きな悲しみだった。泣きじゃくりながら、ブログや仲間や西魔女に受け取ってもらった。出してみれば、恐くも苦しくもない。単純に悲しいだけ。私にとっては、気持ちを感じるという出口を通過させる方が、溜め込んで抑え込むより楽だった。感情の便秘症。出してしまえば、なんのことはない。
でも、溜め込んでいたら、心がパンクしてしまう。それが怖かった。

Saturday, June 18, 2011

広尾のゴハン

おかしいなあ。
もう少し、危機感を持って時間の余裕を作れると想像していたのに。
クリニック開始後4日目。保健所に診療所開設の申請、ウェブ制作とインテリアの相談、そしてクライエントがふたり!
なんか十分に忙しかったぞ。
開設当初のbegginer's luckで、もう少し落ち着いてきたら凹むのか、このまま突っ走ってしまうのか。

子どもたち、よく来たね。パパのところ、居心地いいでしょ。電車の乗り継ぎがちょっと面倒だけど、慣れれば案外ちかいよ。サブのお部屋は空いてることがおおいから、勉強道具持って来ればいいじゃん。周りがそういうい雰囲気だから、けっこう集中できるでしょ。
まわりにはオシャレなお店がたくさんあるし。昨日は祐馬と広尾プラザ、今日はちゅけと六本木ヒルズのちょっと高級っぽい回転ずしへ。これからも、美味しいゴハンに連れて行ってやるよ。
パパは頑張るから、子どもたちも頑張れ!

Wednesday, June 15, 2011

クリニック初日

研究室開室おめでとうございます!
とても充実していて、すばらしいです。私もセラピーやワークショップ受けたいくらいです!
カウンセラーや学校の先生がたへの生涯教育みたいなワークショップがあるのもいいですね。

ありがとうございます。
昨日が初日。
先週は、内覧週間。みんなが来てくれてワイワイ騒いだけど、今日は予約もまだ入っていないので、事務員も呼ばず、私ひとりで仕事をしながら電話番。
2-3年前に開業した外科医の友人は、

そうそう、はじめは 負債がどんどん膨らみ、結構、辛いよ。みんな我慢が必要で、2~3年はダメなのが普通だときいています。窓辺を見ることばかりになるよ。

ともアドバイスしてくれたので、まあ気長に、焦らず、腹をくくるしかないかなと思っていたら、電話で2件の予約が入りました。さっそく、明日から患者さんが来ます。

でも、ふと弱気になるんだよね。
いつもは、その片鱗を隠し、強気でバンバン前に進むんだけど、本当にこれで良いの?
こんなに高額に設定して、患者さん来てくれるの?

もう始めちゃったから後には戻れないし、戻るつもりもないんだけど。
診察室の窓辺には立派な胡蝶蘭が5鉢も並んでいる。
「お祝いの物品は固くご辞退させていただきます。」って言ったのに、、、
みんな、どうもありがとう。。。

Sunday, June 12, 2011

ついに開業まで漕ぎつけた

開業、おめでとう。
だいぶ前から、ずっと言い続けてたよね。



そうなんだよな。
クラス会とか飲み会とか、昔の友人たちにはもう10年くらい前から言ってたかなあ。


私としては、数限りある目の前の患者さんだけを相手にしているより、大学にいて(新しい治療法を開発するなどで)その研究成果を社会に還元する方が、より社会に貢献できるのでは?と考えて大学にいます。なので、開業したがっていたオマエのことがちょっと不思議でした。


確かに、ふつうそう思うよな。
せっかく訊いてくれたから、少し整理して考えると、、、

★僕がやりたいことをできる大学じゃなかったから。
精神科の臨床、特にカウンセリング(心理療法)ってのが私のやりたいことなんだけど、務めていた大学とはちょっとミスマッチというか。医学部とか◎◎学部の心理学科で、臨床的な研究とか授業をやれれば結構マッチすると思うんだけど、教育学部でしょ。臨床とか治療とかはできないし、教える授業も教員養成系だから、臨床系とはちょっと違うんです。それに、会議とか委員会とか、いわゆる「雑務」が年々多くなってきて、やりたいことができない!みたいな閉塞感を感じてたんでしょうね。
そりゃ、贅沢だ!と言われればそうなんで、研究内容・授業内容は任されているし、自由に使える時間はたくさんあるから、ミスマッチなんか気にせず、努力すれば、自分のやりたいこともできるし、今まで、
ある程度はそうやってきたんだけどね。でも、やっぱり限界かな。
もっとやりたいことに集中したい!
やりたくないことはやりたくない!
本を読んだり、原稿を書く時間がほしい!
というあたりでしょうか。

★大学でなくてもできる。
じゃあ、医学部や心理学科の大学なら辞めずにずっといたかというと、
どうかなあ??
僕の研究は、いろんな患者さんの話を聞いて、いろいろ心理療法を試してみて、経験的に成果をまとめるみたいな感じだから、実験器具もいらないし、若い頃やっていたアンケート調査みたいな基礎的研究もやめたし、要するに患者さんと会う場所と、多少の文献と、落ち着いて執筆する場所があればこと足りるんですよ。科研費もずっともらってたけどPCとか出張旅費くらいで、あまり使わないんですよ。
日本じゃ少ないけど、欧米では個人開業して、学会に出て、臨床の本を書いている人もけっこういるからね。
5分診療で、たくさんの患者さんを診て、たくさんのスタッフを雇って、病院を広げて、ガッポガッポ儲けてみたいな消耗する拡大路線ではなく、少数の患者さんをじっくり時間をかけて診て、本を読んだり執筆する時間の余裕があって、たくさん儲けなくても、今の生活レベルが下がらなければ満足みたいなイメージなんですよ。だから、保険は一切使わず、自由診療で1時間3万円なんですよ!
強気でやってるけど、大丈夫かね?ホントに患者さん、来てくれるの?これから子どもたちが大学だよ。
まあ、そういう危機感があれば一般向けの啓発書とか書けるかもしれないし。

★職人芸
私のやってることは、新しい発見をするとか新薬を開発するみたいなことではなく、心理療法だから職人芸なんですよ。外科の医者みたいに、新しい治療手技に関する本や論文書いてみんなが救われるというよりは、「腕の良い先生」を頼って患者さんがやってきて、弟子たちに直接伝授してみたいな感じかな。そういう意味では開業したって弟子はとれるんですよ。だから、HPにあるように、いろいろ専門家向けセミナーとかスーパービジョンとかも考えているんです。だから屋号も「◎◎クリニック」ではなく、「◎◎研究室」にしたんですよね。

★社会に貢献する。
なんてことをだいぶ前から考えつつもダラダラ大学人をやっていて、やっと転身する腰を上げたのは優子を亡くしたことですね、やっぱし。

社会に貢献するって、自分のやっていることが社会の人々の役に立つ、つまり自分の存在意義を他者の存在を通して証明するみたいなことじゃないですか。
私の分野は、精神的な危機を救うみたいなことですから、私自身が精神的な危機から立ち直れた(役立った)のは、薬を飲んだり、本を読んだりしたことではなく、家族とか友人とか、カウンセラー(グリーフ・カウンセリングを受けてるんです)の存在だったんですね。
うつ病とか統合失調症とか医学的病気としての精神的危機は薬で治すけど、
喪失とかトラウマとか不登校・ひきこもりとか夫婦不仲とか、私が関わる精神的危機は、身近な人との関係の中で生れ、身近な人との関係の中で癒されるんだなと実感したんですよ。
私が本や論文を書いて、数多くの人がフンフンと読んでくれて役立ててくれるのも良いなあとは思うんだけど、
数限りある患者さんしか関われなくても、「苦しいのが治りました!ありがとう!」みたいな方が私にとっては「社会に役立ってる」という実感を得ることができるんじゃないかなってね。

★定年後の見通し
65歳の定年後は、
体力の続く限り臨床に戻りたいなと思ってるんですよ。
65歳すぎてからよりは、今のうちに基盤を作っておいた方が良いでしょ。

これで答えになってる?



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優子さんと一緒にオフィス探しを始められ、良い物件にめぐり合えてよかったですね。


そうなんだよね~。
記録を振り返ってみると、具体的に動き出したのは、優子が亡くなるほんのひと月ちょっと前だったんですよ。自分でも気が付かなかった。
・2008年11月23日に優子と一緒に開業フェアみたいなのに行ったんですよ。
東京国際フォーラムの会場に、医院開業関連企業みたいなのがたくさんブースを出し、
これから開業しようとしてる医者が集まり打合せするわけ。
家を持とうとする人の住宅展示場みたいなもんだね。
開業とか僕はぜんぜんわからないから優子にもついて来てもらって、ふたりで見て回ったんだけど、いまいちピンとこなかったんだよね。医療器具とか、他の医院と重ならなくて人が集まる立地調査とか、看護師さん募集要領とか、僕の場合にはあまり関係ないことばかり。
今日、来ても収穫はあまりなかったね。これからどうしようかねえ。
なんて優子と昼ご飯を有楽町で食べながら相談していたことを覚えている。
その時点では、いつ開業しようかなんていう具体的なプランはなかった。


その2か月後に優子が亡くなり、開業どころじゃなくなった。
でも、記憶があいまいだけど、優子を失って3ヶ月後くらいには、具体的な時期を決心していたと思う。たしかリカちゃんにも話してたよね。
2009年度の新学期が始まり、まず学部長に話したんだ。人事関連はとても大変なことはよくわかってるから、早めに伝えとかないと大学に迷惑をかける。今年度、そして来年度の末に辞めさせてもらいますと、2年間弱の余裕をもってお伝えしたんだ。でも、その時点では学部長、どうせ妻を亡くしたショックで変なこと言ってんだろうみたいに思ってたんじゃないかな。


その秋には、一番近くで仕事をしている同じ分野の准教授に意向を伝えたら、とてもびっくりして、そんな~、絶対やめないでくださいと懇願されました。確かに僕の抜けた穴によって一番影響を受けるのは彼女でしょう。どうも済みません。


で、2010年度の新学期になり、学科会議で「辞めま~す!」とオープンにしたんだ。
さあ、具体的に動き出そう、と思ったけど、何から始めていいかよくわからない。
オフィス引っ越しのコンサルタント会社3つくらいと相談し、学生時代の友人の税理士さんとも相談したけど、そんなに急ぐ必要もないことがわかった。


忙しくなったのは2010年の暮から。
物件探しを始めた。不動産屋が見つけてきた物件を見て回り、20件くらい見た段階で、今の物件に決めて。
それから、契約(これも結構面倒で時間がかかる)、内装のプランニング、設計、そして工事。
仕上がったのが5月末で、今週が内覧会。来週から開院!
なんか、長いようで短い道のりだったなあ。


ついにやっちゃったよ、優子。
優子がいなくたって、できたぞ。
でもまあ、よりによって優子の喪失で人生一番つらい時期に、人生一番大きな転換期をぶつけなくたって良かったのに。
開業プランはもう少し塩漬けにして、2-3年引き延ばしても良かったのに。
そう、そうしても全然かまわなかったんですよ。
でも、心情的には、優子を失ったからこそ、今、動かざるを得なかった。動きたかったんでしょうね、きっと。

Saturday, June 11, 2011

弱い部分を見せる

Tiki, 復学おめでとうございます。

> じゃあ、陰の部分、弱い部分はこっちの優子ブログ。
> 偉そうな、強そうな、生意気な部分は表のブログ。
> という風に使い分けます。
> 表のブログにも、こっちにリンクを貼ろうと思ってるから、私のことをディープに
> 知りたいクライエントさんも、やがては知ると思うんですけどね。

この部分読んで思ったんだけど、優子ちゃんのブログってTikiにとって優子ちゃんなんだよね。だって、男性って弱い部分を奥さんにしか見せられないじゃない?外ではクールで強い部分を見せるように社会的に期待されちゃってるし。
でも、人間だれしも弱い部分を誰かものすごく信用できる人に見せて楽にならなくちゃやっていけないし。弱い部分ってTikiはいうけれど、弱い部分を見せられるTikiはやっぱり精神的にものすごくバランスの取れている人だ、っていつも感心して読んでいるし、自分もそれでいいんだ、と励まされています。

それにそんなに弱いこと書いているって言う印象は、私にはないんだけれど。むしろ、柔軟な考えができる芯がしっかりしている人が書いている印象があります。きっと私Tikiのこと少し知っているから、Tikiが弱いはずがない、と思って読んでいるのかもね。Tikiは自分で書いて自分で消化しているんだから偉いな、って思います。

だから、Tikiのブログって私にとって無料セラピーなのよ♪。

アンジョリーナ デラックス 

いやあ、このあたり種を明かせば良い意味での職業病でもあるんですよ。
精神科医になってから、自分の内面を見つめ、自分が思い込んでいる「弱さ」の部分を表出するトレーニングをスーパーバイザーとの一対一、あるいは数名のグループの中でさんざんやってきたんですよ。まず安全な場で自分を見せて楽になる体験をしたら、心理的便秘症で悩んでいるクライエントさんへの治療に応用しているわけ。
誰だって、ダメな部分&マトモな部分の両方を持ち合わせているんだけど、ダメな部分は辛いから隠して、自分はマトモなふりをします。でも、本当は違うんだウソなんだってわかっているから、かりそめのマトモさに何となく自信を持てず、不安を抱えつつ生きています。
アンジョリーナさんのおっしゃるように、自分でそう思っているだけで、人から見れば対して弱くもない普通のことなんですよ。あくまで自分の中での主観的な弱さ。しかしそのパラドックスは、それを思い切って表出できたら、弱さを見つめることができる強さに変換されちゃうんですね。
でも、こうやって言葉で説明してもぼんやりとしかわからないでしょ。このあたりが、私のセラピーにおける基本的な考え方なんです。実際に体験してみたら、ああ、Tikiはこのことを言っていたのね、と目からウロコになりますよ(笑)。
私も一番初めに体験した時は、「愚痴ばかりこぼして、ビービー泣いて、バカじゃねえの!?」なんて思いましたもんね。

でも、こう言うのもナンですが、日本の精神科医やカウンセラーで、ここまで掘り下げる人は少ないのかもしれません。いえ、日本人がダメというのではなく、日本の臨床トレーニングでは、こういうことをできる機会がとても限られているんですよ。私の受けてきたトレーニングの大部分は欧米なんです。Judeo-Christian系文化では、「神に対峙する個」という背景があって、教会で懺悔したり、教育分析で自己分析したり、自分を見つめ突き詰める習慣があるんですね。それがうまくいけば、「アメリカ人って個人主義が徹底していて、芯が強いわよね」ということになります。そういう習慣のない我々の間では、なんか感心されちゃうけど、欧米風の文化でマトモに生きていくために必要なことなんだと思います。

日本の集団性は崩壊し、集団の中で自分を守るイワシ的社会から、ひとりひとりがバラで生きていくサメ的社会に転換しつつあるように見えるけど、実はイワシがバラバラになっただけに過ぎないのかもしれません。傷ついたイワシを救うには、
集団に戻してやる⇒家族関係の復活、サポートネットワークの強化、保護された環境(病院とか)の整備
というのが、日本的な解決策だけど、私としては、
イワシ⇒サメに成長させる
というあたりも大切だと思うんです。それは、硬い鎧を着せ、外側から守るのではなく、身体の内部から骨や筋肉を強化する。そのためには多少きつい筋トレが必要になります。それが男のメンタル・トレーニングなんですよ。いや、女性でも良いけど(笑)。

なんか、比較文化にまで話が発展しちゃって、JASCやってるみたいですねえ(笑)。
つまり、僕にとって優子に向き合い、自分に向き合う作業は、悲しみが色あせても決して終わることのできない、自分にとって必要なことで、それを見てくれているアンジョリーナさんなんかに支えられているってことなんですよ。

Wednesday, June 8, 2011

当たり前の人生と内覧会スタート

28年前の創設以来、イギリス留学中の3年間を除いてほぼ毎年欠かさず参加しているこの学会には、長年の知り合いが多い。昨晩は懇親会と、その後の二次会で旧交を温めた。
「大学辞めて、開業するんですよ!来週から!」
新しい名刺と挨拶状を手渡すと、みな一様に驚く。
「えっ、それはすごい決心だったでしょう!!」
そう言われれば、そうなんだけど、私自身としては、そう大層な「決心」のつもりではないのですが。

Q) じゃあ、なぜ転職したの?アブラの乗りきっている50代でしょ。まだまだ若いのに?
別に、若いつもりでもないし、かと言って、年とったつもりでもないし。

・職場で不祥事を起こしたとか、上司とケンカしたとか、うつ病になって仕事に出て来れなくなったとか、今の職場に居られない事情があるの?
⇒というわけでもないし。

・最近、一部で流行っているdown shifter?
⇒人生=up gradingという高度成長時代に対するアンチテーゼというほど大げさではないが、確かに、大学教授⇒開業医は一般的に見ればダウンシフトなのかもしれない。働き過ぎ・もうけ過ぎを回避し、余裕ある本来の生活を取り戻す。そういう面もあるかもしれないけど、ちょっと違うんですよね。
もう、10年くらい前から、なんとなく精神科の臨床に戻りたいとは漠然と思っていた。研究や若い学生に教えるのは楽しいし、決してストレスが大きな仕事ではない。このまま65歳の定年まで勤め上げても、全然構わないが、本当に満足できる仕事かとは言えない。今まで、週1回、クリニックで診療していた。私の専門性を本当に生かせるのは大学での教育・研究ではなく、精神科の臨床なんだ。それは、前々からわかっていた。65歳で転身するよりは、50代で新しい道のルートは切り開いていた方がいいだろう。そんな風にも思いつつ、あえて転職するincentiveは持ち得なかった。

やはり、直接の誘因は妻を亡くしたことでしょうね。
この2年半、悲しみに直面し、乗り越えてきた作業の一部、、、という意味ではない。
妻を失うまでは、自分の人生は「当たり前」に過去・現在・未来と繋がっていた。
やがては仕事も人生も終末を迎えることはわかっていても、そのことは先延ばしにして、今は考えなくても良いことだった。
妻を失った体験は、被災地の体験と似ている。
当たり前に存在し、その存在に疑問の余地を挟む必要もない自分の一部が、突然、いとも簡単に失われてしまう。それを実感してから、自分の人生が当たり前ではなくなってしまった。


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これ、二日前に下書きして、表のタム研ブログの方に投稿しようと思ってたんだけど。。。

昨日から内覧会が始まった。
いよいよだ~~!
火曜日から土曜日までの5日間。
初日は19人が来てくれた。
ずっと前の知り合い、ちょっと前の知り合い、そして現在の知り合い。
僕は、人との交流によってエネルギーがもらえるんだよね。
夜は学生時代の悪友としこたま飲んで、二日酔い状態。
肝臓には悪いが、気持ち的にはエネルギーをたくさんもらった。

あのさぁ。先生のブログだけどね。
読む人の立場からすれば、先生は尊敬する人でいてほしいと思うよ。
自分のことを相談するんだから、ちゃんとわかって聞いていてくれてい、しっかりした人じゃないと。
失敗とか、弱い部分とかは、会った時、話の中で語ればいいんだし。
表向きには偉そうにしていた方が良いかも。

う~ん、なるほど。そうかもね。
人間、強い部分と弱い部分があって、弱い部分を隠しているから心がおかしくなっちゃう。弱い部分も語って良いんですよ。ほら、私だって弱い部分はあるんだから。
ということを伝えたくて、自分の弱い部分もさらけだしてるんだけど、ちょっとやりすぎかね。
初めて私に会う人が、弱い部分から先に知っちゃったら良くないか。そんな人に、自分の話なんかしたくないよね。
じゃあ、陰の部分、弱い部分はこっちの優子ブログ。
偉そうな、強そうな、生意気な部分は表のブログ。
という風に使い分けます。
表のブログにも、こっちにリンクを貼ろうと思ってるから、私のことをディープに知りたいクライエントさんも、やがては知ると思うんですけどね。
それとも、あまりリンクしない方が良いかなぁ??
偉そうな部分だけで澄ましてる?
どうでしょうかねぇ?
いちいち、悩んでます。