Send your message to lettertoyuko@gmail.com


Monday, June 25, 2012

病い・死・喪失

アーサー・フランク「からだの知恵に聴く:人間尊重の医療を求めて」より抜粋。

あとがき
  • 病いとは、本来からだが送ってくるシグナルであり、人が生活を振り返り、自分にとってなにが大切なのかを知ることができるプロセス。人はそこから学び、それを乗り越えていくプロセスである。つまり病いとはからだとのコミュニケーションにほかならず、自分の生を高めてくれるポジティブなものなのである。
否定
  • 「否定的」な感情はすべて不適当なものとされる。
  • 抑うつは病人の最も自然な反応だと認める人は少ない。
  • 不安と抑うつは人生の一部である。病いには「否定的な感情」など存在しない。必要なのは否定ではなく認識である。病人の苦痛は、治療できるできないにかかわらず肯定されなければならない。私が必要としたのは「きみの痛みも、不安も私にはわかるよ」という言葉だった。
語り
  • 処理しきれないほどの不安や挫折感
  • ただ書かずにはいられないから書いたにすぎない。
  • 自分に何が起きているのかと、問い続けざるを得ないからだに変わっていくストーリーを語るのが、病いの言葉なのである。
  • 問題はその表現を受け止めてくれる人が見つけられるかどうかである。
  • 話し合うことを通じて、私は自分に起こった変化とともに生きる道を考え続けた。
  • 我々は、「痛みを生きる」ということがどういうことかを表現する言葉を持っていない。
病い
  • 病いは闘い(fight)ではなく、長い苦闘(struggle)なのである。
  • 病いの体験は生を豊かにするための認識の機会である。
  • すべては病いが不可避だということを受け入れることに始まる。
  • ふたつの事実を変えることはできない。つまり人間はやがて死ぬということ、そしてほとんどの死にはその期間は異なるが病いが先行するということである。
  • 私のがんはいま再発しつつあるのかもしれないし、あるいは私はあと40年も生きて他の原因で死ぬのかもしれない。いずれにしてもがんが治癒することはない。退縮したがんを抱えて生きるしかないのだ。
喪失
  • 悲しみを通してのみ、喪失の向こう側に生を見出すことができる。
  • 恐怖や挫折や喪失と対面し、病気であることの意味を見出そうとする。
ケア
  • 治療できるかどうかに関係なく、患者の苦しみをそのまま認めることが、ケアなのである。
  • 病人にとって必要なのは、彼らが気にかけているということがわかるということである。
  • 一般の人にとってがんと向き合うことが辛いことは知っている。しかし「遠くからそっと気遣う」ことは、なにもしていないとの同じである。彼らが私との間に置いた距離は、もうひとつの病いの「否定」のかたちのように思える。
  • 人間の苦しみは分かち合うことで耐えられるものになる。
  • 病人にとってなによりもつらいのは、自分を拒否する人を無視することよりも、自分を肯定してくれる人に頼らなければならないという事実なのである。
  • なにより幸福だったのは、私が面と向かって人生を直視できるようになったことだ。
  • 苦痛は、からだが思考を生み出す力をもっていることを教えてくれた。痛みによって思考が生みだされ、思考がまた苦痛を生み出しもした。
  • 人間の最も基本的な権利は、自分に起こりつつあることを体験するという権利である。
  • 病いの究極の価値は、それが生きることの価値を教えてくれるということである。病い、そして死は、我々に生命というものを強く思い起こさせる。
  • 死は生の敵ではない。死は生の価値を回復してくれる。病いは、生をあたりまえのものと思っているときに失われる平衡感覚を回復してくれる。
一体感
  • 自分が「より大きな自分」の一部であるという感覚も生まれていった。
  • 病いを得て、人間であることの苦しみを分かち合うことは、全体の中の自分の位置を、他人とのつながりを知ることである。
  • 私は自分のからだを超えてこの世と一体となって存在した。そして私は死ぬことが怖くなくなった。私が死んでも愛する人が微笑むのをみることができるのなら、死ぬことにも喜びを見いだせよう。
一人称の病いは、死の恐怖につながる。
二人称の病いは、喪失の悲しみにつながる。

そんなこと考えたくもない、忌み嫌うものだけど。
私は一人称の方は、ずっと考えてはきたけど未だ多くは語っていない。
まだ語る必要がないから?

二人称の方はこの3年間、必死に語ってきた。
それは痛みに耐えるため、、、このままでは壊れちゃう、潰れて鬱になっちゃう、うまく子どもたちの父親をできなくなっちゃう、、、多分、そういう不安に駆られて始めた語りも、実はもっと深い意味があるのだろう。
不安や恐怖を回避するため、機能不全を取り除くためだけに語るわけではない。
語ることで不安・恐怖を超越すれば、その先に今まで見えなかった光が見えてくるのかもしれない。それは「生きる意味=人とのつながりの回復」なのだろうか。
人とつながることで、死や喪失の痛みを超えた、深い生の意味を見いだせるのかもしれない。

帰路

またメソメソしながら帰路についてるん?

メソメソなんかしてへんで!!
これも慣れやな。
もうあいつは手放してしまったんだ。
普段、成長した子どもを手放せない親と、自立できずに途中でポシャる子たちとたくさん会っているから心配になるけど、私は違います。
まあ、なんとかやっているよ。
部屋がきたない、、、と言ったって、ウチも人のことは言えないし。私自身の大学下宿時代と比べれば上出来だよ。
でもキッチンはきたないな。流しと洗面所の汚れを洗ってピカピカにしたら、あとは何もできないよ。おばあちゃんが留守中にウチの流しを磨き、俺はちゅけのアパートの流しを磨く。人の台所ってきたなく見えるもんだよね。
授業もけっこう大変みたいだな。レポートを徹夜して。もうちょっと要領よくできないのか?
まあ、パパの大学時代もレポートは徹夜してたからなあ。慣れてくればだんだん効率よくなるよ。というか、そうやってダラダラ時間をかけて取り組むプロセス自体が修行なんだ。
でも、なんだか頼りないんだよなあ。
おまえホントに大丈夫か?
オマエだって心細いだろ?
いや、それは確認していない。親の心細さを子どもに投影しているだけなのかもしれない。
おまえは心細さなんて感じているヒマなんかないよな。
若い頃はスピードが速すぎて、痛みは見えてこない。年をとってペースがダウンして、余裕ができてようやく見えてくるものなんだよ、きっと。
こんなことをおまえに言ったって仕方ないよな。親の勝手なエゴだからね。
じっと見ている親の方が悪いんだよ。

Sunday, June 24, 2012

札幌

僕が大学に受かった春休みにひとりで四国の田舎へ行った時、おじさんが近所の居酒屋へ連れて行ってくれた。寡黙なおじさんは話題なんかない。お酒を飲みながら「たけしくん、よーきたね〜や!」を繰り返すだけだけど、懐かしい30数年前の記憶だ。

子どもたちは保育園に通う道すがら、Kさんのおうちを通るのが楽しみだった。家の周囲に植木を山のように置き、お花に水をやっているおしゃべりなおばちゃんと自然に親しくなった。始めはベビーカーで、少し大きくなると親と手をつないで歩く三人の子どもたちが順々に成長していく姿をおばさんはずっと見ていた。子どもたちを見ると「ちょっと待ってて!」」と家の中から駄菓子をくれる。子どもたちが大好きなおばさんだった。
先日、カイ君を散歩に連れ出し、久しぶりにKさんのおばさんに出合った。
あら、お久しぶり!お子さんたちは大きくなったでしょう!
はい、上のちゅけは大学生、お姉ちゃんが高校生、下のぼうずも中2なんですよ。
あらまあ、早いわねえ。
そうだよね、親とおばちゃんの時間は停滞し、子どもたちの時間はびゅんびゅん飛んでいく。
あら、ワンちゃんもいるのね。
はい、3年前からなんですよ。
そうね、お子さんがほしがったんでしょ。寂しいですもんねえ。
おばちゃんは優子のことも知っている。
でも、お父さんが元気だから良いわね!
そんなこと、犬の散歩してる姿だけでわかるの?

子どもたちを保育園送り迎えしていた頃、いったいこの子たちと赤ちょうちんで酒を酌み交わすときが来るのだろうか。遠い先をぼんやり想像していた。
それが現実になるかな。
別に今回が初めてではない。3月には函館で、4月には札幌のホテルで父子ふたりメシを食ったよな。また今回、おまえと二人で酒を飲める。おまえはどの程度思っているかは知らんが、パパにとってこれがどれほど待ち望んだ至福のときか想像つかないだろ!? だって、ただ飯を食うだけだもんな。
ちゅけ、いつも夕メシは何時頃食うんだ?今晩、千歳に7時過ぎに着くから、待てるなら駅前かどこかに食いにいくか!?
uさんのお見舞いを口実に、ちゅけの様子を偵察に行く。
だって4月に行って、連休は帰省したし、また会いにいくわけ?
マイレージと別宅があるからお金かからないしね。週末ふらっと行ってくるよ。今回は寝袋持参で。
四国のおじさんに連れて行ったときパパは確か18歳で酒をふつうに飲んでたけどなあ。ちゅけも18歳。飲まないんだろ?最近の連中はマジメだねえ!パパもママも飲めたから、おまえたちも飲めるぞ、きっと。

愛着ってなんだろう?
空気みたいに当たり前にあるから、その存在に気づかない。
ボウルビィとかウィニコットとかが愛着の欠如した施設の子どもたちを観察して「発見」した。
もともとは子どもが親に向ける感情を指していた。
愛着関係を成就して、子どもはこの世に生きていても良いんだよという基本的・絶対的信頼関係を獲得する。
その後、愛着研究も発展した。
子➡親への感情だけじゃないでしょ。夫婦間だって、親➡子どもだってある。
愛着がうまくいかなければ、
子どもは人との関係を築けなくなり、
夫婦は関係を維持できなくなり、
は思春期の子どもを離せなくなる。
始めの頃の愛着は子どもの頃に獲得すればそれで済むものだった。でも、そうじゃないでしょ。獲得して手放すものではなく、一生を通じて必要なもの、キープするものでしょ。
愛着関係は、人として生きるための根拠を与えます。
子どもは親に愛着を向け、この世に居ても良いんだ、他人は敵ではなく、自分の味方なんだという大前提を得る。
パートナー間の愛着は今を生きる目的・根拠を与える。お金を儲けたって、美味しいものを食べたって、対象と共にその喜びを分かち合ってはじめて幸せと認知できる。だれもいなかったら、お金もご馳走も確認できないでしょ。壁や鏡に向かってもダメなんだ。
別にパートナーがいなくたって生きてゆけるよ。友だちとか家族とか、だれかがいるでしょ。
パートナー間の愛着をふつうに形成できる人にとっては何てことはない自然のことだけど、できない人は苦労するんですよね。自分では誠心誠意、一生懸命やっているのになぜうまくいかないの? そんなカップルがよく相談に来ます。
ゴルフみたいなもんですよ。出来る人はふつうにクラブを振ればできちゃうし、出来ない人はいくらレッスンに通っても出来ない。何かが根本的に違うんだよね。プロから見れば、どうしてできないの?力を抜くだけなのに!? 当事者としてはいくら同じことを言われても、理屈ではわかっていても、どうしても力が入っちゃう。というか力を入れていることに気づかない。逆に焦りまくって、力いっぱい固くなっちゃうんですよ。
親が子どもに向ける愛着は、未来の意味を与えてくれるのかな。自分のいのちの延長線上に子どもがいる。

パートナーや子どもなんて、始めからいなければ別に困らないんですよ。でも一旦愛着を作っちゃうと手放すのが大変だよ。喪失の痛みはものすごい。
その中では子どもが親を離していくのが一番楽なのかな。ただし、愛着がsecureな場合ね。十二分に引っ付いてニーズが満願されたらポロリと自然に離れていける。Insecureな場合はそううまくもいかないみたいだけど。事例がたくさん教えてくれる。
自然にポロリという意味では老親を見送るとか、老いてからパートナーを見送るとか、成長した子どもが巣立つとかも自然の摂理・life courseでしょ!
それなのに、なぜオレは成長した息子をreleaseするのにこんなに苦労してるわけ?
夏休みにも下の子たちを連れて行くとか、毎月会おうとしているじゃん!
苦労するのがふつうなのかな?
Launching kidsって、実は高等テクニックなのかな? AAMFT journalでも特集が組まれるくらいだし、アメリカ人にしてみればHikikomoriも「巣立ち障害」と位置づけられるわけね。
それともオレは分離不安なのかな?優子の喪失を未だに乗り越えられず、まだ宙ぶらりんで満たされていない愛着ニーズを子どもたちに向けているわけ?
そうでもないと思うんだけどなあ、、、
普段は問題ないんですよ。北海道のことなんか忘れてしまっているよ。でも、会いに行こうとするとダメになるんだ。
まあそういうものなのかね。
子どもの頃、四国に帰省すると、帰り際におばあちゃんが儀式のようにメソメソ泣くのがお決まりのコースだった。
それで良いのかもしれない。
というより、子ども時代のシーンに条件づけられてしまっているのかな。
だとすると、子どもたちは妻を失い悲しみまくっている父親の姿を見てどれほど影響を受けているのだろうか?
少なくとも私がおばあちゃんから受けた条件づけはnegativeではない。どのようにして別れを悲しみ、どう表現するのか、感性の使い方を教えてもらったように思う。

こんなこと、獲得している時はぜんぜん気づかないというか考えもしないんだよね。
失った時に初めて気づくことができるんだ。
要するに、寂しがりやなだけなんだよ。

Monday, June 18, 2012

父の日

子どもたち、
パパはチョー嬉しいんだ!(涙・涙)
パパの愛が君たちにちゃんと届いて、君たちも愛で返してくれてるね。
これほど嬉しいことはないぞ。パパの最も大切な生きがいだぞ。
ママがいないから、パパは君たちの愛を独占できるし、
君たちもママを失って、親からの愛も、親への愛も、どういうものだかよ~く意識化できるもんな。
君たちにとっても、パパにとっても、ママを失った痛みの中で生きるadvantageだね。

-----
先生は、二言目には愛、愛と、あんなに愛に溢れている50代なんて希少過ぎる。でも、あんなに愛が溢れてたらば、今はさぞかしsadなのかもしれないな。埋まらない分のエネルギーってどこに流してるんだろう。


いや、そんなことないよ。普遍的なことじゃない!?
愛(love)とか言えばロマンチックに聞こえるけど、愛着(attachment)といえば生きていくために必要不可欠な要素。それを商売根性を出して言語化してるだけのことで、みんなは言わなくても、持っていることでしょ。


西魔女に前から勧められている"Fatal Attraction(危険な情事)"のDVDを観た。
たしかに彼女はBPD (borderline personality disorder)の典型例だよね。自傷するし、攻撃するし。だからといって特別稀有なことではない。誰だって持っている愛への希求が極端化したらホラー映画になっちゃうんだ。誰だってそうでしょ!?
背景までは描かれていなかったけど、彼女は心がからっぽ。愛は得られないもの、愛を受けるに値しない自分と決め込んでいる。I cannot deserve love.
愛を受け取った記憶がなくなっちゃっている。
だから、愛を与えることも、愛を受け取ることもできない。
その機会が巡ってきても、ダメにして、パニックになっちゃう。どうしてもうまくいかないんだ。


でも、愛って必ずどこかに潜んでいるはずなんだ。
それを見つけ出すことができれば、愛をうまく扱えるようになる。
そういう意味では、確かに私は愛がよく見える形で溢れているのかもしれないね。
だから、愛を失っても、どんなに痛くても、パニックにはならないで済むのかもしれないよ。

Thursday, June 7, 2012

3年5ヶ月

あれっ、気がついたら普通に忘れてたよ。
先週末は忙しかったんだ。前半は学会で、後半は少しリラックスして。
学会の公開supervisionも我ながら上出来だった。
ENFPな私は、いろんな人たちと会って話し合っているうちに、どんどんimaginationが膨らみ、発想が湧き出してしまう。それをEvernoteにメモ書きしてはおくものの、しっかりまとめ上げる集中力と時間がない。帰ってきたら日常の忙しさに即逆戻りだからな。
やっとホントの原稿の前に立ちはだかっていた雑原稿にけりをつけることができた。さあ、これから本原稿に取り組むぞ。
という感じでon/offを問わず忙しいんです。それは良いことなのか、良くないことなのか。よくわからない。