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Friday, September 29, 2017

母の終焉日記

人の死は、理性的プロセスであり、感性的プロセスでもある。

もう嚥下できないだろ。
まだつば呑み込んでたもん。
いや、医者はみんな無理と言ってるし、廃用症候群ってのがあるから
でも、それはお兄ちゃんの意見でしょ?
いや、僕の主観的な意見ではなく、医学・生物学的な客観的事実なんだけど。

お兄ちゃんはおばあちゃんのところにいない。
15分いるよ。
それじゃあ短い。
じゃあ、2時間いれば十分なのか?
看護師さんは優しくて、よく来てくれるからわかってくれている。
先生はあまり来ないからわかってくれていない。
そりゃ、医者はベッドサイドに来なくても、スタッフから申し送りを受けて、検査データも踏まえてちゃんと理解しているんだよ。
教授回診なんて、ちょっと見るだけで、意味がない。それに、この前はおばあちゃんの前を素通りしたし。
それは、違う診療科の先生なんだよ、きっと。

呼びかけて、身体をさすって、そばに居てあげて。
Doingではなく、Beingが大切なんだよね。

結局、親族が、どう終焉を受け入れるかってことなんだよね。それは感性的・主観的なプロセス。
どう選択しても、結果はunhappyな可能性が大きいわけで、ああすればよかった、別の選択肢を取っておけばよかったのかもしれないって、後悔する。
選択する判断は理性的なプロセス
後悔するのは感性的なプロセス。

この両者をバランスよく働かせるって難しい。

感性に圧倒されると、理性が働かなくなる。
優子の喪失(感性)を整理するのに、えらく大変だった。
そのなかで、葬式の判断とか意思決定をするのって辛かった。
センター試験の試験監督は免除してもらった。そりゃそうでしょ!
子宮で考えているんじゃないかっていう女性。理性が働かず、不安に操られてしまう。不安が怒りとなり、スケベになってしまったり。僕だって、理性がぶっ飛んだこともあったし。

理性が強すぎると、感性が働かなくなる。ってことはないか。
感性を抑圧すると、理性しか使えなくなる。ということか。Alexythimiaの男性たち。