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Wednesday, July 14, 2021

嫁いだ妹の死

優子の死から始めて、父親、そして母親と、ここで私のmourning workを進めてきた。
まさか二歳下の妹の死まで語る羽目になるとは思いもしなかった。。。

優子の時は3日後から(だっけ?)ここで語り始めた。
亮子は今日ボストンで亡くなった。家族の喪失は相当経験を積んだからね。今日から始めよう。

Grief workに限らず、トラウマのexposure therapy、いやpsychotherapy自体が、感情体験を表出し、言語化することにより乗り越えるという発想だ。
Differentiation of self. 主観性の中にある、圧倒される感情体験を、、、

ここまで書いてきて、のんびり喪の仕事にふけっている場合ではなくなった。
私も急遽ボストンに飛んで、亮子を見届けよう!
一晩、ネットで調べてPCR検査や航空券の算段は付きそうだが、日本に戻った後に2週間、自宅で誰にも会わず自己隔離が必要なことがわかった。
渡米期間を含め、急に3週間診療を休むことは困難だ。
渡米は諦め、また喪の仕事に戻ることにする。

私の知っている三田高や女子美時代の親友たちに知らせたり。

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以上が死後の1−2日に書いたこと。
「下書き」に保存して置いたまま、1ヶ月が経ってしまった。
ここからは1ヶ月後の7月14日に書いている。
自立したきょうだいの愛着なんて、こんなもんなんだね。

急逝の知らせを受け動揺し、
何をしたらよいのか、アタフタして、知っている人に連絡を回すくらいで、何もできず、
信彦さんは急遽ボストンに飛び、
私はオンラインの葬儀をサポートして(と言ったって、自分が何かをしなければ、、、と勝手にサポートしたつもりになっていて)
そんな一週間が過ぎたら、また元の日常に戻ってしまった。
あとできることは、来週に弔問に行って、納骨するんだったらその時に立ち会って、、、

優子は両親の喪失に比べると、亮子の喪失感はあまりにもあっけない。
その程度で良いのかよ!?
まあ、そういうもんなんでしょう。

欧米的家族観では大人の愛着は夫婦(パートナー)ですからね。
今ここで(here and now)の愛着対象。
優子と僕と、亮子と信彦さんと、
ごく普通に、夫婦の愛着はしっかり形成されていた(はず)。
それを突然失うというのは、まさに身の半分を失った喪失体験。
12年前に僕が体験したことを、今、信彦さんが体験している。
そりゃ、筆舌に尽くせない、悲しみ、生きがいの喪失。
突然の愛着危機に陥り、精神の平衡を失い、狂ってもおかしくはない。
いま信彦さんがどれほど苦しいか。私の12年前の気持ちを投影してしまいます。

アジア的家族観では、親子の愛着は一生続きます。
そういう意味で、父親の、そして母親の喪失はそれなりの痛手だった。
優子の喪失が100だとしたら、父親は60、母親は50くらいかな。
それに比べると、亮子の喪失は30もいってないかもしれない。なんか、薄情だよね。
両親とは二世帯同居で、生活をほぼ共有していたから?
それもあるでしょう。
しかし、父と母の末期には、離れて生活していた亮子もせっせと通い、
母の最期を病棟で付き添ったのも亮子だった。
嫁いで、別々の生活をしていても、亮子にとって親との愛着の絆は強かったんだ。
病んでいる親を置き去りにして私が海外出張に出かけたら、亮子からこっぴどく叱られたもんな!

亮子とは2歳違いのふたりきょうだい。仲は良かった。
うちの四人家族は仲が良かったんですよ。
両親は親密性(安心の愛着)をちゃんと形成していたし。
母が夕食に生魚を出して、父が怒ってしょーもない夫婦けんかはしていたけど、1時間もすれば仲直りしていた。
亮子が中高の頃は家庭内の喧嘩も比較的多かったように思う。
父と亮子が言い争い、兄妹もケンカしたりしたかな。
兄に比べて妹の成績が親の期待に添えなかったんじゃないだろうか。
妹のself-esteemが下がっていたように思う。
兄がAFSとか行っちゃって英語ができたもんだから、妹はそれに比べられて。
優子と優子の兄との関係に似ていた。

それも大学に入ったら逆転した。
美大進学という道を選べたのも、父親の教育力だと思う。何しろ父の専門は「進路指導」だったからね。
大学生になるときょうだいの立場が逆転した。
美大の同級生の中では、亮子は英語ができた方だった
好きな絵を描いて、亮子は生き生きとしていたように思う。
女子美の学園祭に行った僕が同級生を好きになっちゃって、アタックしたけど惨敗したり。
先に就職した亮子が、医学部6年間でまだ学生をしていた僕に「お年玉」を一回だけくれたこともあったと思う。
僕の大学のアメフトの試合に亮子の友人たち(ななこやじゅんこ)と来たり、友だちも誘ってスキーや海水浴に行ったり。
俺の友達が「夫婦のきょうだいだな!」というほど仲は良かった。

それも結婚するまでの話。
お互い、ほぼ同時期に伴侶を見つけ、飯野夫妻が学士会館で、私と優子が竹橋会館で結婚式を挙げた。飯野夫妻の方が1年早かったかな。
飯野夫妻はすぐに出産・子育てをスタートし、
我々はロンドン留学とかあったので、結婚してから子供を作るまで6年かかった。
その間、よちよち歩きの慧子ちゃんを連れて、飯野一家がロンドンにも遊びに来た。
ロンドンにいた頃、亮子と優子が内容も忘れてしまったが、手紙でバトルしていた。
いわゆる嫁・小姑の関係だから。結婚により生じた義理関係を含む新しい拡大家族を作っていく過程だったのだろう。
湧仁が生まれた頃、中古で買った草津の別荘に飯野一家が遊びに来た写真がある。
私の両親が来て、兄家族と妹家族が集まり、シュラスコバーベキューをして楽しい夏を何回か過ごした。
亮子にとっての(あるいは私にとっても)家族とは自分の伴侶と、子供と、親と、親にとっての子どもと孫とが含まれ、その先の関係性は含まれなかったように思う。
私の再婚に亮子は反対だった。その理由が象徴している。
「毅さん(子どもの頃は「おにいちゃん」と呼んでいたが)が誰と付き合い、一緒になるかは勝手だけど、法的に結婚しちゃうと、もし毅さんが早く死んだら、財産が再婚相手に取られちゃうかもしれないのよ。うちの親や毅さんの子どもたちが困るでしょう!」

優子が亡くなった後、亮子は私をとても助けてくれた。
もう失うものはない!と、優子の喪失後2−3年(だったか?)に開業したクリニックの事務と会計を引き受けてくれた。近くに飯野のマンションがあり、亮子の娘たちやとも君もよく遊びに来ていた。

亮子と由美は会っていない。
広尾のオフィスを引き払ったのが2年前の夏だったか。
広尾の荷物を片付けるのは亮子が手伝ってくれて、
残った荷物を大森と高山村に持って帰るのは由美が手伝ってくれた。
私のサポートが亮子から由美にバトンタッチされた。

高山村に遊びにおいで!
私が誘っても、亮子は「行く気持ちになれないのよねぇ。。。」
と私の子どもたちにこぼしていた。
まあ、それで良いのだろう。
私も由美のきょうだいにはまだ会っていない。お正月に由美の実家に挨拶に行く話もあったがコロナでポシャった。
だから亮子と最後に会ったのは2年ほど前になる。
それを補うかのように、うちの子ども達はよく亮子おばさんと会っていた。
亮子は子ども達を介して私の様子を伺い、
私も子ども達の話から亮子の様子を伺っていた。
娘の出産手伝いでボストンに飛ぶ話も子どもから知り、
私)おめでとう㊗️🎊🎈 男の子?女の子?
亮子)リボンつけてるでしょ?女の子!
というのがLINEでの最後の会話だった。

ずっと会っはいなかった。でもどこかで気持ちは繋がっていた。
だから、悲しい。
でも、日常生活では何の支障がないのも、悲しい。