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Tuesday, January 24, 2017

父の一周忌

おばあちゃんは、この1年間で相当老け込んでしまった。
半年前にお墓まいりに行った時は、電車とバスを乗り継ぎ、お墓まで階段を上り、歩いていくことができた。
今回は、とても、とても。
お墓の横まで車をつけ、杖をついて数メートル歩くのが精一杯。
それでも、近所のスーパーまで買い物に行っているんだよな。
洗濯機を回したり、洗濯物を干すことはできる。

ごく簡単な一周忌。
というか、お墓まいりだけ。
無宗教だから法要も何もないし。
妻と子供二人と孫一人だけが集まって、お線香をあげて、それでおしまい。

優子の一周忌は工夫したよな。
僕がプロデュースした。
東京会館の部屋を借りて、優子に近しい人に30人くらいだったっけ、集まってもらって、みんなにマイクを回し、まるでグループ・セラピーだった。
みんなが声を出して、気持ちを出して。
親族もいたよな。
そして、みんなで立食の会食。

今回も、みんなで会食したよ。4人で。
三浦海岸駅の近くの街道沿いにある清楚なレストラン。リニューアルしたみたいで、とても綺麗だった。月曜日の昼間、客は我々しかいない。
地魚が美味しかったね。
この場はおばあちゃんが払うからと言い出したら聞かない。
そのあたりの理性はまだまだしっかりしているんだ。
食欲もある。うな重をぺろっと一人前食べてたし。

こんな感じで良いんだよね。メモリアルって。
おじいちゃんのこと、みんなで悼んだか、、、
もうあまり会話にも出て来ない。
ばあちゃんは、すっかり山から下りてこれた感じだね。何も悔いることはない。
優子は、まだ頂上付近で急に滑落して一気に下ってしまった。
ばあちゃんは、ちゃんと下りもゆっくりこなして、じいちゃんを見送り、やるべきことはすべてやったんだ。
ひ孫の顔を見たければ見ればいい。
人生の楽しみ。ばあちゃんにとって、何だったんだろうか?
十分に楽しんだのだろうか?
それは、ばあちゃん自身の問題ではなく、ばあちゃんがケアした家族の問題なんだろうか。

Thursday, January 5, 2017

8年目

ブログを読み返したら、なんだやってることは、去年の今日とほとんど同じじゃないか!
2日から2泊3日で草津に来ている。
しかも、ちゅけと祐馬という組み合わせも昨年と同じだ。
じんは大学受験生で留守番。

8年前は、ちゅけが高校受験生だった。
つまり、この8年間が、「3人の子ども達の高校&大学の受験時代」だったんだ。
じんが今年、なんとかカタをつけてくれれば、それも今年で終わる。
優子は親として何もやらなかった。俺ひとりでやったんだぞ!

去年はスキーはしなかったが、今年はしたぞ。
3日に万座温泉で。
祐馬は行かなかった。命日にそのスキー場に行くほど神経ずぶとくないって。
そりゃそうだろう。トラウマだもんな。
パパにとってもトラウマといえばトラウマだが、十分振り返って解毒化してしまったんだ。こういうのを暴露療法(Exposure Therapy)っていうんだよ。
ちゅけは8年前は家に留守番で、現場にはいなかったから、別にトラウマでもなんでもない。二人で万座山ゲレンデを散々滑ってきたぞ。
ここは空いていて、適度な中斜面が続くいいゲレンデなんだ。一応、red runだが、blackに近いredだな。8年ぶりに滑ったが、結構な滑りがいがあったよ。優子の腕前ならさぞ息が上がっただろう。心臓に負担かけたな。
もし、あの一本を滑っていなければ、、、、
僕が優子を誘わなければ、、、、と、8年前の「たられば」でした。
だいたい、優子が行きたいって言ったんだからな!
子ども達と一緒に先に上がって、温泉でも浸かってレバ良かったのに!
年末にはチャリで一緒に品川までボタリングした時は全然平気だったじゃないか!!
万座山ゲレンデを何度も何度も滑りながら、優子に話しかけていた。

4日は草津国際で、祐馬も加わり3人で滑ったぞ。
雪は少なめで振り子沢は閉じていたが、清水沢コースを滑ってきた。
ちゅけはスノボで、祐馬と僕はスキー。
祐馬のスキーの早いこと、早いこと!
祐馬は優子の板で滑ったぞ。靴は古くなっちゃってレンタルしたけど、板は優子のをまだそのまま使えるんだ。

幸せって何?
どうやったら幸せになれるの?
人ひとりでは、幸せ感は成り立たない。そりゃ、美味しいものを食べたり、チャリやスキーそれ自体も楽しくはあるが、それを共に楽しむ人がいて、幸せは成り立つ。大切な人が幸せだと、自分も幸せになれる。幸せ感を具現化してくれる対象が必要なんだ。

これは、ちょうど1年前、ブログに書いたこと。

幸せって何?

このことを、今回も考えていた。

幸せはひとりだけでは成り立たない。
この部分では去年と変わらない。

(ここから先は、去年は考えていなかったこと、、、)
大切な人がいて、その人の幸せに、自分が多少とも寄与できた時が、僕の考える「幸せ」なんだ。
じゃあ、その人はどうやって幸せを感じるの?
相手が幸せを感じた時?
それじゃあ、堂々巡り、イタチごっこだろ。
相手に準拠しない、自分の中で完結する幸せってないのか?
ないね。
そういう大切な人が存在してるということが、幸せなんだよ。
一言で言ってしまえば「」になるわけか。
あるいは、「人との繋がり」か。

繋がりを失って悲しみ、繋がりを獲得して喜ぶ。

幸せってのは、「喜び」だけじゃない。
悲しみと喜びの両方をひっくるめて、幸せっていうんだよ。