Send your message to lettertoyuko@gmail.com


Tuesday, June 30, 2009

Salyuと学生と肉屋

祐馬のおかげで、すっかりSalyuにはまっちまったよ。
通勤の車の中で彼女のスローバラードを聴いていると、訳もなく涙があふれてくる。歌詞は関係ないのだけど、メロディー旋律に弱いみたい。この半年間、涙の元栓が壊れてしまったようだ。

昼間、研究室の学生たちとの会話:
お葬式にも来てくれた学生A)先生、こんどワンちゃん飼うんだよね!
事情を知らない学生B)えっ本当ですか?なに犬?
私)ビーグルだよ。えっ、誰から聞いたの?
A)先生のブログ読んでるから。
私)えっ、Aさん読んでくれてるの!?
A)ええ。でも時々、英語になって焦るけど。
B)先生、ブログ書いているんですか?私も読みたいな。
私)URL教えてあげるよ。でも、読むと悲しくなっちゃうよ。
B)え~。じゃあ止めようかなあ。

帰宅後立ち寄った近所の八百屋で、今季はじめて桃を見かけた。
白桃、スモモ、プラム、ソルダム、、、桃類は優子の大好物。いつも食後のデザートに食べていた。
八百屋のおばさん、桃っていつ頃まで出回るの?
8月いっぱいかな。最後の方は黄桃なのよ。
それまでは楽しめるね。さっそく食後に子どもたち剥いたら、ピラニアのごとくあっという間に平らげた。

隣の肉屋も優子は懇意にしていた。
肉屋)奥さん、どうしたの?最近見かけないけど。
私)死んじゃったんだよ、半年前に
肉屋)なに冗談言ってんの、ハハハ、、、
私)冗談じゃないよ、ねえ、八百屋さん!?
八百屋のおっさんは黙ってうなづく。八百屋さんは、優子が自宅に戻った次の日、夫婦で見送りに来てくれていた。
肉屋)それは、、、、(絶句)、、、、
最近、見かけないので体調でも悪くしているのかなとは思っていたんだけど、、、、
帽子をとって、黙礼してくれた。

身近な人たちが、僕らを見てくれているだけで、何となく安心するよ。


Sunday, June 28, 2009

SLOW DOWN

... is the lesson I learned from my Witch of the West yesterday.

I told her I am a kind of person who would chose diving into the water to explore what’s inside than hesitating at the top of the cliff. It first happened in my high school days that I chose to go abroad for an international exchange student. My high school teacher said you would fail the university exam afterword, and my father supported my intention. I was not sure which was right, but I felt I had to try out, otherwise I never know whether it was a paradise or a hell covered deep in the water. I would go for a possibility of finding a treasure, at a risk of end up with a bunch of trash.

It came out to be right in my high school days, but not this time. Being in the biggest crisis in my life, I unintentionally speed up this process without really knowing what is going on. I am an extroverted type who wants to be healed in the intimate relationship with lots of people rather than being alone in solitude. Intimacy requires very delicate process in the long run. It falls into a blind pit and ends up in hurting people if you hurry up this process.

I have to learn to slow down my emotional speed. We tend to drive faster in distress. I know grieving is a long term process. I cannot hurry up myself. Take your TIME, Tiki.

bank band

期末がおわったーーーーーー!これで一安心。。。

久しぶりに書きますね~。祐馬ですけどぉ~。
今まで期末勉強してたから、三日坊主じゃないよぉ?(てゆうか祐馬のブログじゃないしね。)大変でしたよぉぉーー。自分なりに頑張ったからね。
祐馬の大好きな大親友ちゃん達(ヒント:中学校はバラバラの)は今週から。
土日で勉強、見てたけど二人とも結構ヤバイね・・・。
期末が終わったお気楽な人には分からないでしょうけど^=^;
そして、、私は金曜日に「期末ががおわったから!!!」と言う理由でCDを買いました!!
bank band の 沿志奏逢2 だぁあ!
(そーしそーあい)
今、すっごい癒されております。。。
櫻井さんがミスチル以外の歌をうたうなんて。。。とても興味深い。
しかも私の好きな選曲ばかり。  内容は、、、

1、何の変哲もないLove Song  KAN
2、ひとつだけ        矢野顕子
3、昨日のNO,明日のYES  GAKU-MC
4、to U        作詞:櫻井和寿 作曲:小林武
5、スローバラード      忌野清志郎&みかん
6、遠い叫び         仲井戸麗市
7、休みの日      作詞:宮田和弥作曲;寺岡呼人
8、イロドリノセカイ     TAKUYA
9、煙突のある街       真島昌利 
10、はるまついぶき  作詞:櫻井和寿 作曲:小林武
11、MR.LONELY    玉置浩二
12、evergreen    作詞・作曲:小林武
13、歌うたいのバラッド    斉藤和義
14、よく来たね    作詞・作曲:櫻井和寿

とっても良いですよ♪
ちなみに12番のevergreenはパパが好きになっちゃうような曲です(笑)
祐馬も大好きですけど^^

fesのDVDと本、あまり長い間借りるのも申し訳ないので近いうち会いましょう!
あ・・・傘もだ!CDもその時貸すね。

以上。おしまい。

あ、ワンちゃんは結構ー夏休み間近になりそうですわぁ。。。
来たら、写真搭載しまくっちゃいますから!!

あーー!髪切りたいなぁー。   

弁当男子


最近、男性の弁当がちょっと流行りみたい。
本屋にもその手の本が結構並んでいるんで、いくつか買って、疲れた帰路の電車の中とかでちらちら見ている。

中村メイコだったかな、昔、テレビのトーク番組かなんかで、「女優業と母親どうやってきましたか?」と質問され、「どんなに忙しく、夜遅くても、子どもたちの弁当作りは欠かしませんでした。」みたいなことを言っていたのを妙に記憶している。確かに、手作り弁当って、愛情の携帯持ち運び版みたいなところあるよね。園長から保育園弁当をチェックされるって、優子ぼやいていたよね。

僕の場合、洗濯、掃除、家の整理なんかは苦手な家事だけど、料理は前々から好きというか、ストレス解消に楽しんだりしている。ちゅけの高校入学で毎朝の弁当作りがどうなるか心配だったけど、朝、早めに起きるのは大変だけど、習慣になればそれなりに楽しめている。左がちゅけの、右がついでに僕自身のお弁当。トンカツの卵とじ+野菜炒めでした。要するにかつ丼の上に乗っけるやつ。男の弁当は豪快にいかなくちゃ!幼稚園のお子様ランチ弁当や、駅弁の幕の内みたいにおかずの品数は多くしない。ひとつか、せいぜいふたつの料理を大量にドカンと置き、量で勝負する。

よく、(ハワイ、グアムなんかも含めた)アメリカにあるChinese Take-outみたいな感じかな。でかい紙皿にご飯(チャーハン)か焼きそばを入れ、その上に2-3品中華おかずをひしゃくですくって乗っける。その量が半端でなく、山盛りプレートという感じ。中華料理が大量消費文化的アメリカの労働者階級風にアレンジされた、決して上品ではないが、妙に旨かったりする。もっとも、合成調味料と油を大量に使ってるから、あまり健康的ではないが。

ちゅけ曰く、他の連中のお弁当はもっときれいなんだけど、、、
済みませんねえ。仕分け用銀紙とか使わずに、お汁が混じっちゃうけど、それも融合の味なんだよ。
父親の愛情弁当をたっぷり味わってくれ!

Saturday, June 27, 2009

映画『精神』


今週は忙しかった!!
連日、昼の部、夜の部の仕事があり、子どもたちとも十分時間を共にできなかった。
今日明日の週末はひと段落。これから子どもたちと一緒に、久しぶりに華鳳へ定番食を食いに行こう!

そういえば、忙中、映画「精神」を見てきた。
一地方都市の精神科医院にカメラが入り、精神病者たちの日常を、彼らの目線から映した、こういうの、ドキュメント映画というのかな。目線の低さという意味では、北海道のベテルの家に似ているが、それほど彼らをエンパワーしようとするわけではなく、自然体で現実を淡々と映し出されている。

やっぱり、「異常」なんだよね、こうやって健常人から映し出されると。でも、この異常さって、このような明確な形ではないにせよ、誰でも持っているものなんじゃないかな。それを、あえてカーテンの向こうに押しやり、自分はこちら側に居るつもりになることで、安心しているのかも。でも、本当は、だれもそんなに安心できないものだし、逆にいえば、その不安定さを自分の日常として受け入れれば、あえてカーテンを引いて区別する必要もなくなると思うんだけど。

残念がら、実際は、まだまだ精神医療がタブー視されている現状は否めないですな。
僕がいるクリニックの世界は、もっともっと、普通の人たちなんだけどなあ、、、

Tuesday, June 23, 2009

父の日

父の日の週末はカウンセラー相談員の研修指導で土日とも一日中出っぱなしだった。
感受性訓練の一環として、自分の子ども時代を振り返るワークを展開した。
見本を示すために、まず僕がやったのだけど、父親との関係について話した。
僕の妹が生まれてから、小学校に上がる前後まで、パパのおっぱいを触りながら寝ていた話。
これは、著書にも書いた話で、僕としては、止めたくても止められなかった恥ずかしい子ども心という文脈でしゃべったのだけど、グループメンバーからは僕の思惑とは全く違い、子どもにずっと付き添っていた父親の愛情というフィードバックをもらった。
確かにそうだよな。でも、僕は今まで気がつかなかった視点だ。

父親不在、希薄な父子関係が巷に氾濫する中で、僕はしっかりとした父との愛着関係を築けたのだろう。
優子というかけがえのない愛着対象を喪失した逆境になんとか耐え忍げている根底には、両親との確固とした対象関係が土台にあるからだろう。

それは、過去の体験ばかりでなく、現在でも続いている。
土曜日は、仕事の僕に替わり、ちゅけの高校の保護者会に80歳になろうとしている父親が出席してくれた。週末なのに、出席したのは父親が一人だけで、あとは母親ばかりだったんだって!
父親さえ出にくいところへ、祖父が出てくれるなんて!!
仕事を抜けられない僕に替わり、小中高、いずれの保護者会や学校行事にも参加してくれている。
子どもと孫たちに向けられた、この深い愛情が、僕らを支えてくれているよ。

日曜日、父の好物のスイートポテトを買って帰宅した。
子どもたちが父の日を祝ってくれるのはもう少し先だろうなんて両親と話していたら、3人の子どもたちが突然まとめてやってきて、子どもたちの手作りカードと、祐馬の手作りケーキと、ちゅけが通信添削の賞でもらったシャープペンを恥ずかしそうに手渡してくれた。
僕がカードを読んでいると、ちゅけは恥ずかしそうに席をはずしちゃった。
祐馬:「パパ、また泣いたら!?」
僕:「もう、泣いてるよ!」・・・とうっすら感動の涙。

僕が受けた愛情が、子どもたちにもしっかり伝わっていることを確認できた、ほっと安堵の父の日でした。


Friday, June 19, 2009

Dear Young-Ju and Ping-Chuan

Thank you for your e-mail. I enjoyed the text conversation on Skype with you.

My kids and I are fine as usual. Zen and Yuma are well adjusted to their new school environment which started in April. We are all busy engaging in each sport activities; volley ball for Zen, swimming for Yuma, gymnastics for Eugene, and cycling and golf for me. It has been almost a half year since we lost Yuko. The concept of family resilience by Froma Walsh is highly relevant to us, how we can thrive in time of the adversity. Flexibility and stability, connectedness through mutual support, mobilizing kin, social and community networks, seeking a mentor, open emotional expression are some of the key processes which I found very useful (Walsh, Family Process 42(1)1-18, 2003).

I think I am slowly learning how to secure good enough environment for kids in a single parent family. They lost the most important attachment figure, but I realize it does not have to be a mother. Father can also be a good one, and we can look for good alternative figures outside of the nuclear family. Eugene is attached to his grandfather. Yuma found one of Yuko's friend who has children of the same age group to be somewhere between a surrogate mother and a friend. Kids can be happy if their father is happy. I try to provide them with a safe and loving family life, which seems to be not too bad so far. A girl is more sensitive than boys. I decided to take up Yuma's strong request to have a beagle dog in our family. Our family welcome a new member soon.

I also realize an attachment is crucial not just in childhood but also in adulthood. I realize by loosing Yuko, how much I had been attached to her for the last 20 years. The pain of attachment deprivation stays deep in my mind, and I cannot do anything to alleviate it. The only thing I can deal with my pain is to keep telling to the people and writing on my blog.
I am getting better enough to leave my kids behind with their grandparents for my trip to Okinawa in August and Taipei in September.

Tiki.

Sunday, June 14, 2009

お祖母ちゃんのきんぴら

昨夜は子どもたちと一緒に、優子のお母さんを訪ねた。
前回訪ねたのが連休前のお墓参りの時だから、1ヶ月ちょっとぶりの再会。スープは冷めてしまう距離だから、優子がいた時も、会うのは年に数えるほどだったね。

近くのファミレスでにぎやかに会食。子どもたちもお祖母ちゃんの前では取り繕うことなく、無邪気に騒がしく振る舞っているから、気が置けない。お祖母ちゃんも、ひところは心配したけど、だいぶ元気になり、親類・知人にも娘の逝去を伝える気持ちにようやくなれたって。よかった。
僕とお義母さん二人だけだと、すぐ優子の話に戻ってしまうが、子どもたちがいると、そんなこと言っていられない。「たくさん、食べなさい!」と次から次に運ばれてくる料理が、気持ちよく彼らのお腹に収まっていく。
前回の会食で、子どもたちの好物がきんぴらごぼうとわかり、朝から大量のきんぴらを作り、子どもたちのお弁当用にと持たせてくれた。
優子が亡くなり、これからはお義母さんとも縁遠くなるかなと思ったけど、そうでもないみたい。義理関係は解消できても、お祖母ちゃんと孫は血がつながっている。僕もお祖母ちゃんも、子どもたちから元気をたくさんもらっている。

別れ際、お祖母ちゃんは祐馬に「ねえ、ハグしよう!」って優しくしっかり抱いていたよ。この温かさは祐馬にも大切だよ。ママじゃなくても、温かみをくれる人がいっぱいいると良いね!!

Saturday, June 13, 2009

市民講座

昨日は市民講座で「思春期と家族」について話してきました。参加者は、理論よりも、実際の問題に直面して、具体的にどうしたらいいの?みたいなことを求めるので、できるだけ、具体例を挙げているんですよ。専門家としてより、自分自身の家族体験も交え、3人の子どもたちのことをネタにしたりね。僕の話は早々に切り上げ、後半は、時間をたっぷりとって、参加者に質問を紙に書いてもらって、それに答えるという形で話を進めます。その方が、参加者の個々のニーズに寄り添うことができるから。

すると
「片親の場合は?」
という質問が出たんですよ。僕としては、
「う~ん、この話はするつもりはなかったのだけど、実は私もひとり親家族なんですよ。」
と切り出しちゃったよ。半年前に妻を突然亡くして、、、なんてね。講師が理屈ばかりでなく、自分の体験を話した方がより身近に感じるから、勢いに任せてしゃべっちゃったんだけど、、、どれくらいまで自己開示するかは、悩むところだね。何しろ、優子を亡くした2週間後から、授業で話したりしていたから。

その後、チャリで多摩サイを通って大学へ。ちょうどお昼時だったんで、多摩川土手のベンチでお弁当を広げたんだ。今まで、ベンチで休んでエネルギー食(羊羹とかバナナとか)を補給するのはたびたびあるのだけど、お弁当は初めてだよ。梅雨の晴れ間の柔らかい陽射しとそよ風の中、河川敷の広々とした草原と水面を眺めながら、気持ちよかった。

冬なら見えることが多い富士山の遠景は、温かい空気に霞んで見えなかったなあ。
優子は?、、、優子も出て来なかったなあ。

Friday, June 12, 2009

抑うつと肩こり

昔、同じクリニックで同僚だった精神科医のmさんが東京に戻ってきたので、10年ぶりに会ってランチしたよ。彼女も優子のことは知っていて、
たいへんですね~
と言ってくれるんだ。
t) いやあ、2ヶ月を過ぎたくらいから、表面上はもう大丈夫だけど、その後はプラトー状態というか、心の中は相変わらず重いものを引きずっていますよ。
m) きっと何年もかかりますよね~。でも、とても元気そうなので良かった!
t) そう。表面はいくらでも元気にできるんですよ。むしろ、逆に元気すぎるというか、hypo-manicな状態(pseudo-activeというか)が続いていて、心の痛みとの解離に苦しんでるんですよ。こういうのは、いつか落ち込むんでしょうね、きっと。

mさんも小学生と中学生の母親、僕と同じ年代だ。彼女は、そのうちいつか落ち込むだろうというんだ。子どもが巣立った後の空の巣(empty nest)症候群か、あるいは更年期の時期になるか、別に今そうなる要因を秘めているわけではなく、だれでもが経験する通常のライフサイクルの一部として、落ち込む時期が必ず来るだろうって。

確かに精神科医ってそういう考え方するよね。僕もそう思う。うつは特殊な、一部の心の弱い人がかかる病気ではなく、だれでもがごく普通に経験すること。その大きさが人によって違い、ある程度大きくなった人が生活上の支障を来し、臨床的な問題になり病院を訪ねるだけという。

そういう意味じゃあ、僕が置かれた状況は、うつになって当然。落ち込まない方がおかしいんだよ。今はどうにか保てていても、delayed reaction(遅延反応)として、そのうちきっとやってくるよ、みたいな。

そうだよ、今までの僕は過剰適応というか、反動形成的にhyper-activeに走り続けている。
仕事して、父親役をやって、毎朝お弁当作って。
1月以降、かなり仕事を整理して辞めたりしたんだけど、年度が変わり、新しいプロジェクトにも手を出してしまったし。
それに、こうやってブログを書き続けて。

過剰適応は、いつか必ず破たんするバブル経済みたいなもんだ。精神科医的には、そんなもの早めに破たんさせて、一旦落ち込んでからでないと、治療はその先に進まないんだ。等身大のサイズに縮めてから、本当の適応へ、時間をかけて歩んでいく。いつまでも突っ張っていたら、現実に戻れない。

でも、突っ張らずにはいられない。一度、走るのをやめてしまったら、もう動けなくなってしまうのではという恐怖感があるのかな。無理せず、自分の気持ちに正直に行動出来たらどんなに楽だろう!?
抑うつ=悲嘆に暮れて意欲が低下する。夜、眠れず、朝起きれなくなり、仕事に行けず、何もやる気がしない。食欲も低下し、痩せてしまう。
仕事もサボって家に閉じこもり、周りからは一見楽そうに見えても、本人にとってどんなに辛いかということは、多くの患者さんたちが体験している。そうなるくらいなら、今みたいに心のサイドブレーキを焼き切らせながら無理やり走っていた方がまだマシと考えてしまう。

t) でもね。僕はこれからも抑うつ状態にはならないんじゃないかと思うんですよ。mさん、肩が凝ったりします?
m) よく凝りますよ。
t) 僕は、肩こりってどういう感覚なのかよくわからないんですよ。優子はよく肩が凝っていたからどんな感じなの、と尋ねたりしてね。肩のあたりが重く疲れた感じ?運動した後、手や足の筋肉が重く疲れるのは経験するけど、特に肩の部分がそうなるってわからないんですよ。温泉旅館なんかでマッサージを頼むと、営業的に「お客さん、凝ってますね」とか言われるんだけど、それでもよくわからない。
m) ガイジンみたいですねえ。
t) もしかしたら、僕にとって抑うつも肩こりみたいなんじゃないかなと思って。今でも、凝っているけど、それに気づいていないだけ。でもまあ、気づかなくて、生活に支障がなければ問題ないのかな。

あるいは、そのうち問題が出てくるのかな?

Monday, June 8, 2009

癒しの学会

金・土・日と、家族療法学会で広島に行ってきたよ。
2月と3月の学会出張は、僕が子どもと離れることができず、キャンセルした。
今回は、子どもたちをじじばばに預け、2泊3日、家を空けることができた。

この学会に行き始めて、もう26年になる、僕にとって一番メインの学会。
25年前、一番初めに学会発表したときは、大学院在学中だった。心臓が飛び出すほど、緊張したよ。たった20分の発表だけど、聞いているのは僕より年上の、偉い人ばかり。とちらずちゃんとしゃべれるだろうか、手ごわい質問で立ち往生しないだろうか。2回目からはだいぶ楽になったけど、若い頃の学会発表なんて、子どもの頃のピアノ発表会くらい緊張したよ。懇親会に出たって、偉い先生方が談笑している中、しゃべる相手もなく、緊張のしっぱなしで、何も面白くなかった。

でも、年1回の学会に、毎年参加しているうちに、同じ興味・専門性を持った仲間同士、いつしか自然と知り合いになり、職場も地域も異なり、普段はほとんど会うこともないけど、年1回だけ集まる仲間とだんだん親しくなっていった。

そして25年。毎回参加している常連の研究者たちとは、職場仲間以上に仲良くなり、優子の急逝の知らせも評議員を中心に流れ、お葬式にも多くの人が来てくれたよ。優子も2回ほど国際会議の通訳たのんで、結構学会に貢献したもんね。昼はマジメに最先端の研究を発表し合い、夜は懇親の飲み会。久しぶりに会う仲間と、夜遅くまで親交をを深めた。職場仲間と飲んでも、優子の話題は決して出ないけど、この学会では、昼も、夜も、声をかけてくる人は、自然に優子の喪失を言及してくれるよ。なにしろみんな、心理のプロだからね。触れるべきでない話題にする必要はないんだ。むしろ、積極的に聞き出してくれる。昼は、研究発表も、司会も、コメンテータもしたけど、もう余裕で、この分野で俺より詳しいヤツはいないぞと厚顔でいられるから、大学での普段の授業と同じように、緊張もせず、楽しめる。夜は、飲みながら、優子のことに触れ、仲間たちが共感してくれるよ。

僕にとって、この学会は、若い頃はガチガチ緊張の場。今は、ゆるゆる癒しの場。この違いは何なのだ!

来年3月には、ブエノスアイレスで国際家族療法学会、6月にはデンバーでアメリカ家族療法学会、そして11月には東京でアジア家族療法学会がある。どれも、国内外に親しい人たちがいる。今年のはパスしたからなあ。来年はどうしよう?

ついでに、学会の合間を縫い、宿ちかくにある平和記念館と原爆ドームを見てきたよ。この歳で初めてだったんだ。遠足か、社会科見学の小中学生に交じり、展示自体は、沖縄の平和祈念資料館の方が良かったかな。でも、ところどころに説明してくれるボランティアが立ち、直接語ってくれるのは良かった。被爆3時間後の悲惨な写真の中に居る人を知っている人の語りは迫力があった。涙しながら聞いていたよ。一瞬に14万人が亡くなった、そう昔でもない、まだ歴史にはなりきっていない悲しみと、僕が一瞬に優子ひとりを亡くした悲しみが微妙にシンクロして、ひとり静かに訪ねることができた。

Wednesday, June 3, 2009

5ヶ月目

優子、、、

という具合に、ここで優子に呼び掛けるの5ヶ月の間、続けてきたけど、どうしたものか考えちゃうよ。
いやね、まだまだ僕の中に優子は満ちているから、優子のことを書き出し(掻きだし)たいのだけど、別に優子と対話しているふりしなくてもいいじゃん。
もうそろそろ、ゆっくり優子を離していってもいいかなと思えてきた。
それほど、優子を呼び込み、しがみつかなくてもいいじゃない。

---------------
というわけで、
読んでくれているみなさん

タイトルを変えます。
今まで⇒妻との往復書簡 Letter to Wife in the Wind
これから⇒優子とみんなの往復書簡 Letter to Yuko in the Wind
これからも、優子にまつわる僕の気持ちは書くけど、みんなもね。
祐馬(ユウマと読むそうです)も時々乱入してきそうだし。

6月14日(日)に、お墓参りに行こうと思います。ちゅけは部活で忙しいから、祐馬とじんと一緒に。
来て下さる方がいたら、ご連絡ください。

--------------
マリちゃん
とても心温まるお手紙、ありがとう。
2か月前にこのお手紙を戴いたら、ポロポロ泣きながら読んでいたと思います。でもその悲しみも、ようやく最近落ち着いてきました。
 マリちゃんは、僕が優子と付き合い始めて、一番はじめに紹介してくれた親友のひとりでした。私にとって、マリちゃんや理香ちゃんは、若かったころの優子の思い出そのものです。覚えていますよ、たしか、渋谷でしたっけ。マリちゃんと始めてお会いたのは。その後も優子からはたくさんマリちゃんのことを聞かされていたので、お目にかかった時間以上に、私の中でマリちゃんのイメージは大きかったように思います。

臨床で、危機に直面している人たちと多く接していると、誰でもその人が元来持っている性格傾向を無意識のうちに尖鋭化させることによって、危機に対処しようとするみたいです。落ち込み気味だった人はますます落ち込み、怒りっぽい人はますます怒りだし、依存的な人はますます依存するという具合に。僕の場合、優子の突然の死に直面し、もともとactiveな性格がますますひどくなり、hyper-activeになり、その状態が今でも続いているように思います。たくさんの人に救いを求めました。最もきつかったお葬式までの1週間は、子どもの保育園仲間の親たちに毎日来てもらい、優子の親友だった理香ちゃんに九州まで会いに行ったりもしました。仕事は結局、忌引きで1週間休んだだけで、すぐに職場に復帰しました。さすがに辛かったけど。

多分、僕はまわりの人から相変わらず元気に見えると思います。事実、そのようにふるまっていますので。しかし優子を失った深い悲しみは、hyper-activeな表層の振る舞いとは別の次元で、僕の心の中にずっと潜んでいます。よく、ニュースなどで、災害や犯罪にまきこまれた遺族たちの、「あの日から、時間が止まったままです」というようなコメントを耳にしますね。今まで、理屈でしかわからなかったその気持ちがよくわかるようになりました。5ヶ月経った今でも、誰かと一緒にいたり、仕事などの作業をしている時以外は、好むと好まざるとにかかわらず、優子のことを自然と思い出してしまいます。変ですよね、結婚して優子とふたりの生活が安定している時はぜんぜんそんなことはなかったのに。いつも優子を思っているというこの状況は、付き合い始めた頃以来のことです。その当時は楽しい思いでした。しかし、今思い出すのは悲しい思いばかりです。1月3日、スキー場で優子が突然倒れ、必死で人工呼吸を続けているあのシーンが繰り返し想起されます。自分自身、思い出すことを禁じていないので、意図せず突然襲ってくるようなflashbackではないのですが、そのシーンが心の中に留まり、流れていってくれません。結局、そうやって優子のことに気持ちが戻っていくと、あの日、もしくはそれよりも前の過去に戻っていってしまいます。あの日以降、優子は存在しなくなっちゃったので。

確かに、客観的に考えれば、優子は幸せな人生を全うしたのだと思います。僕は自己の死を恐れる人間です。優子はその点、淡泊というか心臓の病以降、自分の死をすごく身近に感じていたし、そのことに執着も恐怖もあまりないようでした。自分の命はそんなに長くはないということは、時々発する言葉の端々にも表れていました。残された家族の悲しみを別にすれば、優子は幸せだったと思います。逝き方も最高ですよね。スキーを最後まで楽しみ、痛みも苦しみもないままに天国へ瞬間移動しましたから。僕にとっても、ふたりだけの時間に、必死にキスする中で最後の時間を過ごせたのは、最高に幸せなことなのかもしれません。ようやく、こんな風に考えることもできるようになりました。

 45歳で逝くなんて、ちょっと早すぎるよなあ
、、、とよく言われるし、僕自身もそう思います。でも、本当にそうだったんでしょうか?ずっと幸せだったとしても、45歳では早すぎて、90歳だったら十分に全うしたと言えるのでしょうか?それは、平均寿命と照らし合わせただけの基準であって、相対的なものなのじゃないでしょうか。
 まだ、子育ての途中だった?
 子どもたちは、14,12,10歳でした。あと5年早かったら、9,7,5歳。母親の喪失によるダメージは大きかったでしょう。あと5年遅かったら19,17,15歳。母親の喪失にも十分に耐えらえる年齢でしょう。そういう意味では、この年齢は微妙です。10歳は、子ども時代から思春期へ差しかかる入り口です。母親との愛着を緩め、分離・自立しはじめる時期です。第一の親(母)から、第二の親(父)へ、そして社会へとシフトしていく時期です。母親でなければダメだという時期は過ぎたはずです。母親不在で、父親ひとりの子育ても、父親さえ逃げずにしっかり親役割を担えば、問題ないはず。理論的にはそう言えます。
 優子自身の仕事、つまり個としての優子は、まだ途中だった?
 確かに、もっとやりたいこともあったでしょう。通訳として、あと20年は社会に貢献できたはずです。経験を積めば、さらに高いところに登れたかもしれないし、途中でコケたかもしれません。60歳を過ぎれば、だれでもゆっくり山を下り始めるのでしょう。そこまで全うした方が幸せで、途中で死んで全うしなかったら不幸だったんでしょうか。達成した結果にこだわるのではなく、活動するプロセスを重視するとすれば、優子は通訳の仕事や趣味の活動など、たいへんだ、たいへんだと苦労しながら成功と失敗を繰り返し、そのプロセスを楽しみ、また苦しんでいました。もしあと20年続けたとしても、それは変わらなかったでしょう。
 こんな風に考えれば、家庭生活の面でも、社会生活の面でも、45歳は早すぎるぞ、というのは残された僕らの悲しみの都合であって、優子本人にとってみれば、早いとか遅いとかは、あまり関係ないことなのかもしれません。
 優子と僕の関係が幸せであったのなら、もっとその幸せを長く続けたかった、、、なんてことも、今だから言えることです。優子が居る時には、幸せを感じたり、ケンカしたり、幸せかどうかなんて達観して考える余裕はなく、楽しみ、そして苦しみながら毎日の生活をやりくりしてました。

 幸せって、それを失ったときにに初めて気がつくものですね。僕は優子を喪失したことについては不幸だけど、他の面での幸せに気づいていないだけなのかもしれません。
ちゃんと普通に食事を楽しめる幸せは、健康な歯や消化器を失ったら気づくのでしょう。
ちゃんと普通に排尿できる幸せは、前立腺肥大症や尿閉になったら気づくのでしょう。
金持ちでなくても、普通にお金がある幸せも、お金がなくなったら気づくのでしょう。
子どもがいる幸せは、子どもを失ったら気づくのでしょう。(これは、今でも気づいているけど)

 しかし、いくらこんな風に考えても、自責の念が全くないわけではありません。なぜスキーに行ったのだろう、行かなければよかった。もう一本滑ってから上がろうと欲張らず、疲れた子どもたちと一緒に上がっていれば、、、あるいは、心臓の病をもっとちゃんとケアしていたら、、、など、考え始めたら尽きません。そう考えても仕方がないと理屈では理解しても、気持ちをなかなか切り換えられるものでもありません。

その一方で、日常生活はどんどん前に進んでいきます。3人の子どもたちは、新しい学校・学年に進みました。僕の仕事も相変わらずの忙しさです。家族と過ごす時間を確保するために、いくつもの仕事を昨年度末で切りましたが、別の新しい仕事が入ってきたり、なかなか思うようにいきません。元気にふるまい、どんどん前に進む自分と、優子に留まりちっとも前に進めない自分のふたつの間で引き裂かれる思いです。

 この5ヶ月間、もし仕事を休んでひとり落ち込んでいたとしても、現に行っているように元気なふりをして沢山の人に救いを求めたとしても、優子を失った悲しみの大きさは変わらなかったような気がします。ただ、時間の経過が救ってくれるように思います。

 喪失からの1ヶ月後、3ヶ月後、そして今5ヶ月後の自分を振り返っても、だいぶ回復してきたように思います。なにより力になったのは家族です。子どもたちの世話は大変ですが、祖父母にも手伝ってもらい、なんとかやってます。むしろ、子どもたちの存在が私の生きがいを支えてくれています。子どもたちはいろいろ要求してきて、決して僕をひとりにさせてくれません。優子が抜けた孤独を感じる余裕を与えてくれません。子どもたちの存在が、ある程度、優子の穴をカバーしてくれているように思います。

長くなってしまいましたが、これが喪失5か月後の気持ちです。
読んでくれてありがとう。