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Saturday, April 20, 2024

子ども達の結婚

 優子、久しぶりだな。

普段は優子のことすっかり忘れちゃっているけど、今回は報告しなくちゃ。

ちゅけと祐馬が結婚したよ。
優子が我々から去った時、ちゅけは15歳、祐馬は12歳だった。
それから15年経った今、それぞれ30歳と27歳だ。
小・中学生だった姿しか知らない優子からすれば信じられないだろ!
俺だって信じられないよ。

二人が巣立ってくれた。
別に、結婚する前から巣立ってはいた(=親としての責任は果たした)し、これからだって親子関係(=親子の愛着)は続くのだけど、やっぱホッとするよな。優子は子ども達だけじゃなくて俺も褒めないとダメだぞ。
祐馬はよくわかっているんだよ。

パパが子ども達が結婚して親の代わりかそれ以上に私のことを大切に想ってくれる人ができて良かったと言っていた時に何となく意味が分かりました。

そんなこと言ったか??
正にそうなんだよ。パパは大切なママを失ったけど、今は、子ども達以上にパパのことを大切に想ってくれる人ができた。由美のことね。
パパは子ども達のことを今までみたいに第一に大切に思わなくても大丈夫になったんだ。そりゃあ気が楽になったよ。

二人の結婚式は対照的だよな。
ちゅけはどちらかといえば伝統的な結婚スタイル。何とおばあちゃんと同じ四国から上京してきた可南子さんと婚活アプリで出会い、友達・親族80人(くらいか?)を呼んで、都内のレストランで大きな結婚式。最近の結婚式は進化したよな。昔はあんなにたくさんの係員がコーディネートすることはなかったよ。おかげでパパも父親の挨拶をして、定番の涙を流して想いを伝えることができたよ。ちゅけが生まれ初めて父親になった体験や、ママを失った後、ちゅけの高校合格発表の話もできた。

そもそも、結婚や結婚式は、親は主役じゃないんだ、どうでも良いんだ。35年前にパパが結婚した時も、親の思いなんか想像もしなかったしどうでも良かった。でも、親の立場になってみて、子どもの結婚がどれほど大きな意味を持つのか実感したよ。子ども達はそのことをまだ分からなくて良いからな。自分とパートナーのことを必死に考えていれば良いんだよ。

ちゅけに比べれば祐馬の結婚は革新的かな。結婚式をやらず、ウェディングドレスの写真だけ撮るってのは、今は結構流行って新宿のスタジオにはたくさん若いカップルがいたけど、昔はそんなのはなかったよ。プスカルはネパール人。普通の親世代からすればびっくりするだろうけど、パパは経済格差やmarrying up/marrying downってなことはまあ問題にはしない。
昨日の写真撮影にはきょうだいも友達も呼ばず、パパと由美はわかるけど、涼子さんとだいちゃんを呼んだのも革新的だよな。祐馬にとって涼子さんとだいちゃんがどれほど大切な人かということもよくわかる。これもママが去った功名というか、ママ代わりを果たしてくれたからな。
盛大な結婚式は1−2年してネパールでやるんだろ。パパと由美は初ネパールでトレッキングだな。だから結婚式に父親が泣くパフォーマンスができなかったぞ。でも、まあその分、祐馬の手紙は良かったよ。祐馬の承諾なしでメッセージを優子に届けよう。

ママがいなくなって、それ自体はすごく悲しかったけれど、今までの生活の中でうちの家は片親家庭なんだと実感させられる瞬間は無い程、不自由なく自由に育ててもらいました。

経済的な不自由さがなかったというのはパパの職業柄まあ想定できることだが、情緒的・心理的な不自由を与えなかったというのは、パパも努力したんだぞ。それはわかってほしいな。

大人になって理解できたけど、最愛のママが亡くなってしまって、その中でも子ども3人を育てあげてくれたパパは立派で尊敬します。

別に、子どもからそんなに尊敬されなくても良いんだけど、まあ祐馬の気持ちは嬉しいよ。むしろそれは次の世代に繋げてくれ。祐馬も尊敬される母親になるんだ!

だから今は由美さんとパパが幸せに暮らしていてくれれば、それが私たちが一番欲しいものです。

それは言われなくても大丈夫だよ。由美とパパの幸せは自分たちで確保できるから。とは言え、子ども達が幸せでいることがパパの幸せにも直結するから、おまえらも関係するんだぞ。

パパが昔から自分の気持ちを話して共有するようにトレーニングしてくれたおかげで気持ちが落ち込む時も周りに助けを求めて心の健康を保つことができています。

それは一番大切なことだな。パパ自身がそれを実践してきたし、それを子ども達にも伝えることができたのであれば、それはパパの大成功さ。

ということなんだよ、優子。
優子は勝手に途中で天国に逝きやがったけど、子ども達はここまで成長したよ。それはぜひ優子に伝えたいことだよ。

あとはじんだな。末っ子のじんは兄ちゃん姉ちゃんのことをよくみているだろう。彼もよくわかっている、というかもしかしたら彼が一番わかっているかもしれない。
そのうちじんについても報告するから楽しみにしてな!!

Tuesday, January 23, 2024

何年目だっけ?

わりい、わりい。
すっかり忘れてたよ。何年目だっけ?
2日経ってから思い出したよ。
今年の正月は大変だよ
元日に能登で大きな地震があって
2日には羽田で飛行機が衝突して💥
300人近くが全員避難できたってすごいよね
高山村には息子たち3人が来て、薪割りして、温泉はいって♨️
なぜか娘たち(義娘も含め)3人は来なかった。忙しいみたい。

4日からは家族療法を教えに上海に来ているんだよ
3日間のワークショップ。
気持ちは1月3日の優子をすっ飛ばしてとっくに次に進んじゃうんだ。まあそれで良いわけなんだけど
由美は母ちゃんのお墓参り行ったんだって
オレ優子んとこにしばらく行ってなくてごめんね
今度、由美と一緒に行くからね 

これを書いたのが1月10日で
ブログにアップしたのが1月23日でした⇘

Tuesday, December 26, 2023

愛する人を失い、得るプロセス

 久しぶりに書いてみるかな!

ニュースでやっていた。「ハチ公」がインバウンドに人気なんだって!

愛する人に会いたい気持ちは世界共通。。。

このブログは、愛する人を失うプロセスを綴ってきた。

それと重なり、愛する人を得るプロセスも進行していた。そっちはあまり書く必要がなかった。その対象が目の前にいるのだから、心的エネルギーはそちらに向かう。失ったときは対象がいないわけだから、悲しみの向かう先を求めたわけだ。

今となっては、失うプロセスも、得るプロセスも落ち着いちゃった。だから書く必要もないのだけど。主観的な感情体験を表出するというよりは、客観的な立場になっちゃった。あまり面白くないよね。今となってこの二つのプロセスを振り返ると、いやぁドラマでしたねぇ。。。

その経験から得られたものは「愛着」がどういうものなのか、どれほどメンタルの維持に大きな役割を果たしているのか気づけたということか。

愛着って、空気みたいなものだからふつうは気づかない。親との愛着も、それが肯定的・否定的どちらにせよ、気づいたら当然のようにそこにあったわけで気づくものでもない。優子という愛着を得たのは20代の後半。それまで何人かの彼女を作ったり別れたりしていたが、それが「愛着」だなんて気づく余裕はなかった。一生懸命、気持ちの赴くままに頑張っていただけだ。それが20-30代までの話。

優子という愛着を失う:失ったのは一瞬だったが、優子への愛着を手放すのは相当苦労した。気づくもなにも、こうやって必死に言語化してきたし、心理学的理論も得たので、感情を整理しつつ、理性的にも自分の愛着について考えることができた。

由美という愛着を得るのも相当苦労した。今だからそれも振り返ることができるが、その最中には必死だったし、何度も失敗も痛みも経験してきた。そこまでして愛着が必要なの?他の人はよくわからないけど、少なくとも私にとって、それはもうとても大切だった。

今は、もう落ち着いてしまったので自分の愛着うんぬんについて言語化したり考えたりする必要もない。ただ静かに由美との愛着をメンテナンスしていくだけだ。そこに大きな苦労は伴わない。

むしろ、その体験を心の臨床に活かしている。Wounded Healer(傷ついた治療者)というわけですな。Attachment Focused Familiy Therapy。あるいはEmotionally Focused Family Therapy。自分の愛着が落ち着いてしまった今、このブログで表出するニーズは消え、別の場所で、こっちの記述を進めていきたい。とはいえ、今までのように書かねばどうしようもない必然性が低いので、うまく書き進めることができるか、自信はない。

Tuesday, April 18, 2023

優子は今もここにいるのだろうか??

 1月3日のことだった。突然優子さんの旦那様から電話をいただいた。優子さんは、広島の中学校のクラスメートである。旦那様は、年賀状に記載していた電話番号に電話をしてくれたのだった。この電話で、優子さんがスキー場で突然倒れ、帰らぬ人になったことを知った。45歳。信じられなかった。悲しかった。

優子さんは、中学1年生のときに転校生として途中からクラスに入ってきた。私も広島には2
年前に引っ越してきたばかり。お互い転勤の多い家の子どもだったのだ。なんとなく仲良くなって、交換日記をした。日記はいつの間にか小説の連載になった。私の最初の小説の最初の読者は、優子さんなのである。

優子さんが体調をくずして2週間ほど学校を休んだことがあった。復帰してすぐに行われたテストで、誰よりも成績がよくてびっくりした。優子さんは頭がよくて努力家で、だけど、いつもふんわりとおだやかだった。優子さんのお弁当のおかずに、なぜかよくバカ貝の佃煮(つくだに)が入っていて、また~、と言いながら一緒に爆笑した。

優子さんも私もほどなく広島を去ったけれど、文通などで交流は続き、大学生のときは、東京の優子さんの家に遊びにいった。大学でイスパニア語を学んでいた優子さんは、神保町のロシア料理店で壺(つぼ)焼きを食べながら、勉強がたいへんで、と穏やかに笑った。

24歳のとき、私も東京で暮らすようになってからは、ときどき、ご飯を食べた。やがて私は2児の母になり、優子さんは3児の母になった。優子さんの心臓が弱いということは聞いていたので、出産の度に心配だったけれど、優子さんは語学を生かした仕事をしながら子育てをして、たくましく生きていた。

優子さんの葬儀で、旦那様とお子様たちに初めてお会いした。旦那様は精神科のお医者様で、優子は今もここにいるんです、としずかに話された

優子さんが亡くなって数カ月経(た)ったころ、その旦那様から荷物が届いた。優子さんの遺品を送ってくれたのだ。尾崎翠(みどり)全集と金子みすゞの詩集と、このフェラガモのバッグである。バッグは旦那様から優子さんへのプレゼントだったそうだ。革がやわらかくて、とても使いやすい。いつも優子さんと心で話をしながら一緒にあちこち出かけているのである。

ひがし・なおこ 1963年広島県生まれ。歌人、作家。歌集に「春原さんのリコーダー」「十階」など、小説に「いとの森の家」(坪田譲治文学賞)など、書評・エッセー集に「レモン石鹸泡立てる」など。自著の装画も手掛ける。

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東さん、14年経った今でもバッグを使ってくれてありがとうございます。私は日経新聞をとっていないのですが、友だち二人が電子版と写メを転送してくれました。

一つだけ訂正させていただければ、あの時はしずかには話してませんでした。そう聞こえたかもしれないけど、心の中では叫んでいましたから(笑)。

私はもう優子とは心で話していませんよ。由美とは話しているけど。先日、由美の90歳ちかい父親の話になってね。14歳年下の由美は「あなたが年取ってボケたら私のことを『優子』とか言い出すでしょ、きっと!」と言うんですよ。そんなことないからと否定したんですけど。でも、時々、年に1ー2回くらいかな、由美のことを優子って言い間違えることがあって、これはヤバいなと思います。ふたりとも「ゆ」で始まるから混同しやすいでしょ!

家族LINEでもシェアしました。

息子からは「良い文。母には歌人のお友達もいたのね」

娘からは「素敵な文章。とても有難い。おじさんとおばあちゃんにも共有しちゃった🤩」(優子の家族(母・兄)と私はすっかりご無沙汰しているのですが、子どもたちはよく連絡取り合っているんです)

由美からは「立派なお母さんで、子ども達も誇らしいでしょう。ずいぶん良いバッグ買ってあげたのね!」(由美にはまだ買ってあげてないもので、、、💦)

Tuesday, January 3, 2023

優子を失い由美を得た歴史年表

1年ぶりの投稿だな。

14年目、、、と指折り数えるのもしんどくなった。
でも、時々どれくらいたったんだっけって考えたりするもんな

新しいブログに年表を作っているので、その拡張版を作ってみよう。

2009年1月3日)優子昇天

2015年10月3日)由美がひきこもり講座に申し込み、広尾で初めて出会う

2016年1月23日)父が亡くなる

2016年9月11日)由美の診察の後、下のカフェで告白する

2016年10月9日)横浜シェラトンに泊まったが、お付き合いを断念する

2017年10月7日)母が亡くなる 2018年6月)有楽町の『ふるさと回帰支援センター』へ群馬への移住を相談に行った

2018年9月6日)移住のことを伝えた後、由美と2年ぶりに再会する

2018年10月8日)高尾山ハイキング。由美が受け入れてくれて付き合い始める

2019年1月)生活の拠点を移すために、榛名病院に非常勤で勤め始めた

2019年10月)古民家「お片づけ隊」の協力で改修を開始する 2020年5月)古民家の改修が竣工し、高山村に住み始める

2020年11月22日)中之条町役場に婚姻を届ける

2021年6月15日)亮子がBostonで亡くなる

2023年1月3日)14回目の優子の命日ブログを榛名当直で書いている


つまり、優子を失ってから、紆余曲折の後、

9年半後に由美と安定した愛着を形成し、

11年後に由美との生活を始めたわけだ。


書き始めはこんな風に歴史を振り返るつもりはなかったんだけど、

結局、僕にとって優子のことはもう歴史になっちゃったんだ。

おめでとう!

優子の仏壇は高山村の古民家にも持ってきて、お正月に由美が花をあげていたよ。

俺はほとんど見てもいない、、、

いや別に忘れているわけじゃなくて、そういう儀式的なものがピンとこないんだ

そんなの神棚を作らなくたって、ちゃんと心の中にいるから

優子を失ってから、由美を得るまでの歴史だもんな

あと、両親と亮子の喪失も入れておかねば。。。


大切なものを失い、、、

大切なものを得る。

失ったから得られるんだよな、由美は。

別に両親や妹のreplacementはいらないけど、妻はそういうわけにはいかなかった

いやぁ、喪失というのは痛いものですなぁ。

52歳になるまでは、そういうのほとんどなかったんだけど、それ以降たくさん喪失して。

それでも生きてこれたのは、3人の子どもたちと由美がいたからだよ。

いや、それまでの途中経過でお付き合いいただいた女性の方々にもお世話になりましたよ。

どうもありがとうございました。


これからは獲得のニュースを得られるかなぁ

子どもたちのパートナーや

孫たちや、、、

Tuesday, January 4, 2022

再婚

 11月22日に入籍しました!!

いつだって良かったんだけど、たけは忘れるでしょ!?
別に忘れはしないけど、この日にしておけば覚えやすいからね。
高山村は休日の宿直がいないから、中之条町で届けを出してきましたよ。
そしたら「新婚夫婦向け各種サービス案内」という封筒をもらいました。
「妊娠を考えるなら、麻しん風しんワクチンを。」
、、、いやあ、考えても良いけどちょっと無理でしょ!
「新婚さんの新生活を支援します:住居費・引っ越し費用の援助」
というパンフを町役場でもらったけど、我々は関係ないし。

俺が62歳で由美が49歳。
還暦過ぎのじいさんが40代の嫁さんをもらえるわけだからね。ギリギリだけど。
俺、ラッキーだよ。
優子、亡くなってくれてありがとう!

13年目

13回目の命日も、スキーに行ったよ。
元旦と二日は双方の子どもたち4人が集まりガヤガヤにぎやかに。
三日はちゅけだけ残り、奥利根スノーパークへ行ってきた。
ちゅけはスノボ。私はスキー。
由美も一緒についてきた。
レストハウスがリフトで一段上ったところにあるんだよね。
そこまでキャーキャー言いながらリフトに乗って。
僕らが滑っている間は、レストハウスでケイタイいじって待っている。
いじらしいよね、そこまでして僕にくっついてきてくれるんだよ。

いつまでこうやって祈念日の記事を書いているんだろう?
第一、ブログだってほぼ書いていないし。
父親と母親の場合、命日の日取りさえ覚えていないし(Googleカレンダー見ればわかるけど)。
仏教式なら十三回忌。
でもこれは12年目にやるわけだ。
このブログって僕が死んだ後も残っているんだろうか?
亮子のFacebookも誰も何もしないから残っているもんな。
それは、それですごいね。
紙の本は当分は残るけど、そのうち紙が焼けて無くなっちゃうし
電子媒体なら、残そうと思えばいくらでも残るか?
ま、そこまで残す意味もないんだけど何となく安心だったりして。
このブログも、そんな感じで過去の遺産になってもいいのかね、もう。
他に書いているブログがいろいろあるし。
子どもたちは成長してるし、ここに留まる人は誰もいないんだよ。
そうやって前に進んじゃうのね。
それで良いのでしょう。。。

Wednesday, July 14, 2021

嫁いだ妹の死

優子の死から始めて、父親、そして母親と、ここで私のmourning workを進めてきた。
まさか二歳下の妹の死まで語る羽目になるとは思いもしなかった。。。

優子の時は3日後から(だっけ?)ここで語り始めた。
亮子は今日ボストンで亡くなった。家族の喪失は相当経験を積んだからね。今日から始めよう。

Grief workに限らず、トラウマのexposure therapy、いやpsychotherapy自体が、感情体験を表出し、言語化することにより乗り越えるという発想だ。
Differentiation of self. 主観性の中にある、圧倒される感情体験を、、、

ここまで書いてきて、のんびり喪の仕事にふけっている場合ではなくなった。
私も急遽ボストンに飛んで、亮子を見届けよう!
一晩、ネットで調べてPCR検査や航空券の算段は付きそうだが、日本に戻った後に2週間、自宅で誰にも会わず自己隔離が必要なことがわかった。
渡米期間を含め、急に3週間診療を休むことは困難だ。
渡米は諦め、また喪の仕事に戻ることにする。

私の知っている三田高や女子美時代の親友たちに知らせたり。

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以上が死後の1−2日に書いたこと。
「下書き」に保存して置いたまま、1ヶ月が経ってしまった。
ここからは1ヶ月後の7月14日に書いている。
自立したきょうだいの愛着なんて、こんなもんなんだね。

急逝の知らせを受け動揺し、
何をしたらよいのか、アタフタして、知っている人に連絡を回すくらいで、何もできず、
信彦さんは急遽ボストンに飛び、
私はオンラインの葬儀をサポートして(と言ったって、自分が何かをしなければ、、、と勝手にサポートしたつもりになっていて)
そんな一週間が過ぎたら、また元の日常に戻ってしまった。
あとできることは、来週に弔問に行って、納骨するんだったらその時に立ち会って、、、

優子は両親の喪失に比べると、亮子の喪失感はあまりにもあっけない。
その程度で良いのかよ!?
まあ、そういうもんなんでしょう。

欧米的家族観では大人の愛着は夫婦(パートナー)ですからね。
今ここで(here and now)の愛着対象。
優子と僕と、亮子と信彦さんと、
ごく普通に、夫婦の愛着はしっかり形成されていた(はず)。
それを突然失うというのは、まさに身の半分を失った喪失体験。
12年前に僕が体験したことを、今、信彦さんが体験している。
そりゃ、筆舌に尽くせない、悲しみ、生きがいの喪失。
突然の愛着危機に陥り、精神の平衡を失い、狂ってもおかしくはない。
いま信彦さんがどれほど苦しいか。私の12年前の気持ちを投影してしまいます。

アジア的家族観では、親子の愛着は一生続きます。
そういう意味で、父親の、そして母親の喪失はそれなりの痛手だった。
優子の喪失が100だとしたら、父親は60、母親は50くらいかな。
それに比べると、亮子の喪失は30もいってないかもしれない。なんか、薄情だよね。
両親とは二世帯同居で、生活をほぼ共有していたから?
それもあるでしょう。
しかし、父と母の末期には、離れて生活していた亮子もせっせと通い、
母の最期を病棟で付き添ったのも亮子だった。
嫁いで、別々の生活をしていても、亮子にとって親との愛着の絆は強かったんだ。
病んでいる親を置き去りにして私が海外出張に出かけたら、亮子からこっぴどく叱られたもんな!

亮子とは2歳違いのふたりきょうだい。仲は良かった。
うちの四人家族は仲が良かったんですよ。
両親は親密性(安心の愛着)をちゃんと形成していたし。
母が夕食に生魚を出して、父が怒ってしょーもない夫婦けんかはしていたけど、1時間もすれば仲直りしていた。
亮子が中高の頃は家庭内の喧嘩も比較的多かったように思う。
父と亮子が言い争い、兄妹もケンカしたりしたかな。
兄に比べて妹の成績が親の期待に添えなかったんじゃないだろうか。
妹のself-esteemが下がっていたように思う。
兄がAFSとか行っちゃって英語ができたもんだから、妹はそれに比べられて。
優子と優子の兄との関係に似ていた。

それも大学に入ったら逆転した。
美大進学という道を選べたのも、父親の教育力だと思う。何しろ父の専門は「進路指導」だったからね。
大学生になるときょうだいの立場が逆転した。
美大の同級生の中では、亮子は英語ができた方だった
好きな絵を描いて、亮子は生き生きとしていたように思う。
女子美の学園祭に行った僕が同級生を好きになっちゃって、アタックしたけど惨敗したり。
先に就職した亮子が、医学部6年間でまだ学生をしていた僕に「お年玉」を一回だけくれたこともあったと思う。
僕の大学のアメフトの試合に亮子の友人たち(ななこやじゅんこ)と来たり、友だちも誘ってスキーや海水浴に行ったり。
俺の友達が「夫婦のきょうだいだな!」というほど仲は良かった。

それも結婚するまでの話。
お互い、ほぼ同時期に伴侶を見つけ、飯野夫妻が学士会館で、私と優子が竹橋会館で結婚式を挙げた。飯野夫妻の方が1年早かったかな。
飯野夫妻はすぐに出産・子育てをスタートし、
我々はロンドン留学とかあったので、結婚してから子供を作るまで6年かかった。
その間、よちよち歩きの慧子ちゃんを連れて、飯野一家がロンドンにも遊びに来た。
ロンドンにいた頃、亮子と優子が内容も忘れてしまったが、手紙でバトルしていた。
いわゆる嫁・小姑の関係だから。結婚により生じた義理関係を含む新しい拡大家族を作っていく過程だったのだろう。
湧仁が生まれた頃、中古で買った草津の別荘に飯野一家が遊びに来た写真がある。
私の両親が来て、兄家族と妹家族が集まり、シュラスコバーベキューをして楽しい夏を何回か過ごした。
亮子にとっての(あるいは私にとっても)家族とは自分の伴侶と、子供と、親と、親にとっての子どもと孫とが含まれ、その先の関係性は含まれなかったように思う。
私の再婚に亮子は反対だった。その理由が象徴している。
「毅さん(子どもの頃は「おにいちゃん」と呼んでいたが)が誰と付き合い、一緒になるかは勝手だけど、法的に結婚しちゃうと、もし毅さんが早く死んだら、財産が再婚相手に取られちゃうかもしれないのよ。うちの親や毅さんの子どもたちが困るでしょう!」

優子が亡くなった後、亮子は私をとても助けてくれた。
もう失うものはない!と、優子の喪失後2−3年(だったか?)に開業したクリニックの事務と会計を引き受けてくれた。近くに飯野のマンションがあり、亮子の娘たちやとも君もよく遊びに来ていた。

亮子と由美は会っていない。
広尾のオフィスを引き払ったのが2年前の夏だったか。
広尾の荷物を片付けるのは亮子が手伝ってくれて、
残った荷物を大森と高山村に持って帰るのは由美が手伝ってくれた。
私のサポートが亮子から由美にバトンタッチされた。

高山村に遊びにおいで!
私が誘っても、亮子は「行く気持ちになれないのよねぇ。。。」
と私の子どもたちにこぼしていた。
まあ、それで良いのだろう。
私も由美のきょうだいにはまだ会っていない。お正月に由美の実家に挨拶に行く話もあったがコロナでポシャった。
だから亮子と最後に会ったのは2年ほど前になる。
それを補うかのように、うちの子ども達はよく亮子おばさんと会っていた。
亮子は子ども達を介して私の様子を伺い、
私も子ども達の話から亮子の様子を伺っていた。
娘の出産手伝いでボストンに飛ぶ話も子どもから知り、
私)おめでとう㊗️🎊🎈 男の子?女の子?
亮子)リボンつけてるでしょ?女の子!
というのがLINEでの最後の会話だった。

ずっと会っはいなかった。でもどこかで気持ちは繋がっていた。
だから、悲しい。
でも、日常生活では何の支障がないのも、悲しい。

Thursday, November 12, 2020

最後の誕生日のお祝い

優子、57回目の誕生日おめでとう!
子どもたちは順調に成長してるよ!
じんは大学4年。コロナの中で最後の学生生活と就活してるよ。就活は人事を尽くして結果待ち。あいつが自ら進める道を見つけられればいいのだが、親はそばで見てるしかできないよ。
祐馬はオーストラリアから戻り都内で働き始めてもうすぐ1年か。あいつのことだからどんどん前に進んで行っている。高山村にもどんどん来てるし、おまえ少し来すぎだろくらいで、由美の小姑みたいになっちゃってるよ。おまえもそろそろbest partnerを見つけろよ!
ちゅけは社会人4年目くらいか?そろそろ次の決断の時じゃないか!?
おまえが先鞭をつければ妹・弟もフォローするよ。
その道はパパとママがしっかり見本を見せたはずだぞ!
俺も前に進んでるぞ!高山村に住み始めてまだ半年なんだよな。なんかもう3-4年は住んでるような気もしたりするよ。住み心地はイイぞ!これからはかなり寒くなるけどね。由美がいればリア充だし。。。
ってなことを毎年カードに書いて、子どもたちにも書かせてシェアしてたけど、もう今年で最後だな。
子どもたちは自立し(つつあり)、父親がinitiativeを取らなくても勝手にお墓参りに行ったり生田のばあちゃんと交流してるし、父親が取り持つ役目は終わったよ。
俺自身も、もう優子をいちいち思い出すニーズもなくなったし。
父と母の誕生日みたいなもんだな。一応、〇月〇日が来れば、そういえば今日は、、、って思い出すくらいで、お祝いとかカードとかしないからね。
11月12日も同じ風さ、もう俺にとっては!
命日には、一応、定期的に思い出してあげるよ。
ってか、いちいち記祈日に何かしなくたって、優子のことは俺と子どもたちの中にしっかり納まっているから、安心しな!
、、、俺は、前に進むし!!!

Saturday, October 10, 2020

結婚記念日を移動します

 ブログを読み返しても、10月10日の結婚記念日の記事は4年前が最後でそれほど書いてないんだね。
しかし、自分の書いたのを読み返すのは恥ずかしいね。
ああ、俺はやっぱアホだったんだ、、、
なんて自虐的になることもないけど、自分の心の軌跡。。。
大切なんだけど、やっぱ振り返るのは恥ずかしいよ。
で、結婚記念日を移動します。
由美との入籍は、いつでも良いんだけど、多分11月22日:良い夫婦の日にします。
なんと陳腐な!!
そうしないとタケが忘れちゃうでしょ!と言う由美の配慮から。
確かに忘れるかもしれない、、、
優子との結婚記念日も、忘れないように体育の日の祝日にしたくらいだからね。
優子の誕生日も忘れた大失態も経験してるし、覚えてるの面倒じゃん!

入籍の日を10月10日にしようかって言ったら、流石に却下されたよ。
まあ、そうだよな。
元妻の影は払拭して、新しく始めたいものね。
俺もそうだよ。
でもさ、俺の中では優子も由美も一緒なんだよね!
なんて言うと女性たちからひんしゅくを買うこともわかってるけど。
そうじゃなくて、俺の気持ち(=愛する・大切な人に向ける気持ち)は同じなんだよ。
別に二人を比較するとかという概念は俺の中にはない。
だから、10月10日でも覚えやすくて良いんだけど、由美の気持ちを尊重して引っ越そう!
で、多分、今のところの予定では、11月22日になります。

で、結婚記念日の引っ越しは解決したんだけど、
優子の誕生日と命日はどうしよう、、、
もう祝わなくて・覚えておかなくて良いのかなぁ。。。
まあ、命日は祈念するとしても、
誕生日は放念するかね!
でも子どもたちにとってはママの誕生日はそのまま生きているからなぁ。。。

ま、そんなことグズグズ言わなくたって、そのうち忘れるでしょう。