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Tuesday, March 31, 2009

ピラミッド優子


優子を作ってきたよ。

今週は年度末の端境期で、わりと時間が自由になるんだ。
昨晩、ようやく原稿の一番大きなひとつを仕上げて、寝たのが明け方の4時。
6時に起きて、ちゅけと一緒に大阪に日帰りで飛んだんだ。
大宰府に続く、sentimental journeyの第二弾。割と最近のトレンドで、東京には作ってくれるところがないんだ。ちゅけと一緒に行ったよ。祐馬も行くはずだったんだけど、友だちとお泊り合宿に行っちゃった。じんも誘ったけど、興味ないって。ちゅけは、父への配慮というよりは、本当に興味があったみたい。ちゅけなりの喪の作業だったんだろう。もちろん僕にとっても。

昨夜、子どもたちと一緒に骨壷から優子の骨を拾い、タッパに入れたんだ。頭の骨と、背骨と、歯ぐきの骨と。ああ、これが優子だったんだなと思うと、涙が止まらなかった。今は、白いきれいな無機質になっちゃって。科学的にみれば、炭化どころか、炭素さえ抜けてしまったリン酸カルシウムの白い物体。でも、確かにこれは優子だったんだよな。それを素敵な石にしてくれるんだ。宅急便で送れば作ってくれるんだけど、それじゃあ意味がない。優子が変身するそばに一緒にいたいんだよ。

レイセキは小さな町工場風。社長さんが駅まで迎えに来てくれて、とても丁寧に対応してくれたよ。たくさん泣いちゃって、話せなくなった僕を、社長さんとちゅけはゆっくり見守ってくれた。ほんのちょっとした出来事だけど、どれほど心が安らいだことか。

まず、指先くらい、少量のお骨を乳鉢に入れ、きれいな白い粉にするんだ。それを、石の材料と混ぜ合わせ、1200℃の炉で真っ赤に溶かし、型に流し込みピラミッド形を作るんだ。これが結構難しくて、温度が下がるときに割れちゃうんだ。僕らが見ている前で一度割れちゃったよ。僕らが社長さんとおしゃべりしていたから、ちゃんとこっち見てよと優子が怒ったんだろうってね(笑)。温度が下がるとガラスになって、それをまた800℃くらいで何日も寝かせると、石になるんだって。

出来上がったら、居間の仏壇に置こう。これで、優子本体が三浦半島に行っちゃっても安心だ。あと、少し骨が残ったから、これもきれいな粉にしてもらってきたよ。草津に行ったとき、BBQのお庭に散骨しよう。そうしたら、どこに行っても優子と一緒だよ。
だって、風の優子は有機質・無機質を超越した存在なんだろ!?
僕のそばに居てくれよな。

Monday, March 30, 2009

Open House and Monica

優子

原稿書いていたけど、今晩中には終わりそうにないのであきらめてこっちに来たよ。

昨日は楽しかったよね。
保育園仲間のOpen House。午後から夜中の2時過ぎまで、たくさんの人が来てくれた。母さん・父さんたちが27人、それにくっついて子どもたちも同じくらいの人数。よく狭い家に入ったもんだ。座る場所どころか、立つ場所さえなかったもんね。ときどき、うちでこんなパーティやってたけど、これほどたくさんの人が来てくれたのは初めて。
この写真は10年前だけど、今回もほぼこんな雰囲気だったよね。ずっと混んでいたけど。

でも、僕はこういうのが楽しいんだ。なにしろ、僕はExtrovertだから。
優子は卒倒しちゃうでしょ。やりすぎ?
でも、すごく癒されるんだ。優子のことも、たくさんしゃべれたぞ。詳しくは別の機会に書くけど。
学校を卒業して、社会人になってから、またこんな仲間を作れるなんて思わなかったよ。
保育園+子育ては、学生時代の部活みたいなものかね。そうとう苦労した体験を持つし、対園長という意味では結束つよまるからね。
さらに、優子を亡くした体験が、我々を結びつけたみたい。
ホント、こういうのいいよな。
これからも、お坊さんを呼んで○周忌ってのはやらないから、その代わりに、こういう感じで、優子の命日には毎年やろうかな。みんな来てくれると良いのだけど。

By the way,  Monica McGoldrick gave me a consolation mail. I don't know how she got to know the news of your death. I thought I would let my overseas friends know in due coures, but I have not ready for that yet. Monica is one of my admiring master therapists. She remembers very well about our workshop two years ago and your marvelous translation work. I feel very hornored, Yuko, your news are actually circulating worldwide. 

So I changed the layout of our blog to be international. I can write both in 日本語 and English. This is what I like to 英語と日本語をちゃんぽんにしちゃうの、楽しいからね。そうすれば、our overseas friends can also join in to our conversation. I did not use so much English to talk with you, Yuko. But we know sometimes it's easier to say in English, specially in your case. So we will have our conversation in 日本語とEnghishね。いいだろ!?

Thursday, March 26, 2009

ロンドン時代(5) Regents Park


優子

ここは、僕らのお気に入りの公園だったよね。ロンドン市内には、ハイド・パークと、リージェント・パークというふたつのでかい公園があるのだけど、僕らは後者の方が好きだった。綺麗なバラ園があるんだ。よく手入れが行き届いたEnglish Gardenに、春になると、いろんな種類のバラが咲き乱れる。ひろい公園を一回り散歩して、園内のカフェでスコーンか、アイスクリームを食べて。至福の時だったよ。夏になると、野外劇場もやっていたよね。シェークスピアの真夏の夜の夢とかやっていて、僕もちょっとは理解できたかな。優子は英語の聞き取り楽勝で楽しんでいたようだけど。

You should be over it by now.

優子

どう?元気出てきた?

なんて、みんなから時々聞かれるんだ。

うん、おかげさまで、だいぶ、、、

なんてごまかしているんだけどね。もうちょっと正確に言えば、

日常生活的には8割くらい戻ったけど、
気持ち的には、まだ3-4割かな、、、

昨晩、夜更かししちゃったので、今日は一日中寝不足であまり調子良くなかったんだ。
そういう日は、どうしても気分が後ろ向きになる。
すると、まだ僕の頭蓋骨の壁にへばりついている優子の影が出てくるんだ。
何かに集中している時は忘れているのだけど、ちょっと心を緩めてポケッとすると、すぐに優子が入り込んでくる。この状況は、3ヶ月近くたってもあまり変わらないよ。そういう時に、無理に優子の影を押し込めようとすると、苦しくなるんだ。しばらく、気ままに優子を心の中で散歩させるしかない。

今日も、会議で誰かから「年末には、、、、」というフレーズが出てきて、
そうだよなあ、年末は優子もまだ生きて居たんだよなあ、、、
と思うと、会議中なのに優子が出てきてしまう。

原稿がヤバいよ。ブログなんか書いている場合じゃないんだ、ホントは。
もともと、僕は締切破りの常習犯というか、期限内に仕上げたことはまずないのだけど(威張るな!)、僕のせいで雑誌の出版が遅れているんだ。
だいたい、原稿を書くときって、ちょっと集中して書き進めたら、少し手を休めて、自由に思いを馳せて、発想を膨らませてから、また原稿用紙(じゃなくてキーボード)に向かうという作業の繰り返しなんだ。
自由に思いを馳せると、必ず、優子が邪魔してくれるからね。原稿書けないよ。困ったなあ。仕事している時は、優子、ちょっと引っこんでいてくれない?


graduation & transformation

優子

だめだ。
昨日の祐馬の卒業式の、この合唱にはまってしまって。
のぞ&まなママが前の方の良い席をとってくれたので、ICレコーダで録音したんだ。以来、何度も繰り返して聴いているよ。遊馬に言わせれば、定番じゃん、というんだけど、なぜか気に行ってしまった。

卒業。進学、、、、

子どもたちは、どんどん前に進んで行っているよ。

Graduation...

僕も、優子から卒業した方がいいのだろうか。卒業できるのだろうか?
まだ、単位が足りなくて、卒業できないけど。

Transformation...

そのためには、僕のidentityを変えないとダメだ。
今までの僕の人生のtransformationは、
卒業⇒社会人へ
結婚⇒夫婦生活へ
出産⇒父親へ
などがあったけど。
今回のtransformationはいったい何になるんだろう?
妻との死別⇒???

よくわからないが、わかるのは、とにかく今のままじゃ卒業できないということ。
自分自身、何かが変わらないと...

この歌を聴いていたら、何かが変われるのか?

まずい。もう寝ないと明日が辛くなる。
ヤバイよ、原稿の締め切りに、もう後がない。編集者から怒りのメールが来た...

Tuesday, March 24, 2009

西魔女と日本男児

優子

西魔女のところに行ってきたよ。月1回のペースで、今回が3回目。回を重ねるごとに回復してるよ。一回目は泣きっぱなし、二回目は泣かないつもりが話しているうちに感極まってしまい、今回は泣かずに済んだよ。別に、泣く・泣かないで回復を判断するわけじゃないけど。
西魔女はなかなか良いことを言っていたよ。(そりゃそうだ、悪いことは言わないだろう)
西魔女は、本当に西洋の魔女なんだけど、彼女から見ると、日本のお葬式は喪の作業を進めるのにうまくできているんだって。まず、火葬して骨上げするでしょ。とても辛い瞬間だけど、遺体が焼かれることにより、その人の死を受け入れやすくなるんだって。西洋では、昔は焼かずに埋めちゃったり、火葬する場合でも火葬場に遺体を預け、あとで遺骨入れにおさめた状態で引き取るので、骨上げという習慣がないんだって。
焼かなかったら、また生き返るんじゃないかって、いつまでも心の片隅で思ったりするみたいよ。そりゃそうだよな。科学的に考えても、DNAがまだ残っていたら、将来、遺伝子を再生してクローンを作れるかもしれないなんて考えることもあるでしょう。
優子がお釜に入っていくシーンは子どもたちには見せなかったよ。僕自身、45年前、祖母のお葬式でそのシーンを見たのがトラウマになっちゃったからね。身体がこれから燃えてなくなっちゃうんだというのは心情的にきついよ。
でも、焼きあがったお骨を拾うのは、子どもたちにも参加させたよ。ママがお骨になっちゃった。つらいけど、そうやってママとさよならしなくちゃいけないんだ。
あと、四十九日とか、一回忌、三回忌と、定期的に法事を行うでしょ。こういう習慣も西洋にはないんじゃないかな。ときどき集まって喪を進めることができるからね。

僕も、ようやく優子の死を認めつつあるみたい。夢の質が変わってきたんだよね。最近、夢の中に優子が出てきても「また、甦ってくれる?」「次は、いつ頃、甦るの?」って聞いていたんだ。つまり、やっと夢の中でも優子は死んで、仮の姿として出てくるようになったんだ。以前だったら、夢の中の優子はリアルな現実で、生き生きと甦らせていたんだよ。

それに、西魔女はブログのことも、すごく良いって言ってくれた。
書くことの効果、そしてそれを支えてくれる人たちと共有する効果は大きいよね。
それだけじゃなく、にして出すべきだって。
後から振り返る記述じゃなくて、リアルタイムで今、体験していることを書いているでしょ。その臨場感は確かにあるよな。
それに、日本人であること、男性であることにも価値があるって。
英語で出せと言われたよ。確かに、欧米人から見たら日本人のことはわからないからね。
それに、この手の本は洋の東西を問わず、女性がほとんどだし。
男性も、これだけ感情を深めることができるんだってことは、口下手な男性というイメージを乗り越えるからね。西洋人にとって、日本人の男性は、過労死、モーレツサラリーマン、特攻隊、ハラキリとかろくなイメージはないからね。あるいは、川端とか三島とか、耽美的で結局は自殺しちゃうイメージ?

いくつか、日本の男の本も読んでみたよ。
●城山三郎「そうか、もう君はいないのか」新潮社、2008年 ★★☆☆☆
妻との出会いから、ガンを宣告され、闘病の末、亡くなるまでの手記。巻末の娘のあとがきによると、城山は妻を失った後も、妻の死を拒絶し続け、その7年後に病死するんだ。

●江藤淳「妻と私・幼年時代」文春文庫、2001年。 ★★☆☆☆
妻の病気が発覚し、亡くなるまでの半年間のプロセスが描かれた「妻と私」。その後の「幼年時代」では4歳で亡くなった母親のイメージを甦らせようとするが絶筆となり、妻の死から9ヶ月後に自殺している。彼は重症の愛着障害だったのかも。そのトラウマが原動力となり、才能を開花させたのかもしれない。母親への愛着の代替であった妻を失ったのは致命的な打撃だったのでしょう。必死に、母親を呼び戻そうとしたのが、途中で挫折した「幼年時代」だったのでしょう。巻末に石原慎太郎が「痛ましくも、美しい」なんて。自殺を美化する日本的なパターンはダメじゃない!!

このふたつに共通しているのは、妻が死に至るまでのプロセスは詳細に記述されているのに、死後、本人に起きた心情の移り変わりはほとんど記載されていないということ。そっちのほうが大切なのに。評論あるいは歴史小説という分野では一流だけど、喪の仕事は中途半端。自身の心情は記述できなかったみたい。能力の有無とは関係なく、とても難しいんだよな。ナイーブだからこそ、文学者になれたんだよね。僕はナイーブじゃないから、書けちゃうのだろうか。もっとも、亡くなる前のプロセスは皆無だったから、亡くなった後から始めるしかなかったわけだけど。

Saturday, March 21, 2009

家族の温かさ

優子

昨日、研究室の卒業生ふたりを家に呼んだんだ。
毎年恒例のやつで、いつも優子はよく知らない人を家に招くのを嫌がってたよね。そういう意味じゃ、優子がいないから、僕は気軽に人を呼べるぞ(笑)。
学生たちも、お葬式に来てくれたくらい僕の事情はよく知ってるけど、先生の心情までは察することはしないみたい。察したとしても、言えないよね。だから、そのことは何も触れず、普段と同じように、子どもたちと一緒に手巻きずしパーティーをしたんだ。
「学生たちの卒業と、ちゅけと祐馬の卒業と、じんの進級に、かんぱ~い!」
という感じでね。

帰った後、学生のひとりがメールくれたよ。
...先生の温かな家族を見て、私も実家に帰りたくなりました...
ってね。
ふ~。
ちょっと安心したかな。
何の配慮もしない素直な学生が、家族の温かさを感じてくれたことに。

優子がいなくても、温かい家族を作れるのかなあ??

Friday, March 20, 2009

焦りまくり

優子のメッセージ読んで、はっと気がついたよ。
僕は焦りまくっているんだ。

今日のゴルフの練習も、ぜんぜん球がうまくあたらないんだ。一生懸命になればなるほど、変な方向に飛び出してしまう。コーチに見てもらって気がついたよ。焦っているんだって。スウィングのとき、前に行こう、行こうとして、身体が前の方に開いてしまうんだ。それは、僕の癖でずっと前からわかっていることなんだけど、つい無意識のうちにやってしまうんだ。

それとちょうど同じことが、僕の心にも起きているんだよ。
心の余裕がなくなっている。弱気になっている。

優子を失い、僕も、家族もバランスを失ってしまった。
ヤバい!
このままじゃ、絶対ダメだ。どうにかしなくちゃ
早く、生活と、気持ちと、子どもたちの世話と、すべてを立て直さなくちゃ。
このままでは不幸になってしまう。時間がない。
早く、次のパートナーを見つけなくちゃ。
このままじゃ、僕がうつか、何かの依存症か、神経症か、なにかわからないけど、ダメだ。
どうにかしなくちゃ。

そんな感じに、焦っているみたい。
そう、頭で理解したってダメなんだ。
ゴルフのスイングも、理屈でわかっても、ぜんぜん身体がついてこない。同じ動作をしてしまうんだ。コーチに指摘されているのに。

心も同様みたい。理屈じゃ、もっとゆっくり、焦らずにと言い聞かせているんだけど、身体がついてこないんだ。余裕がないよ。

考えてみれば、同じことが僕の患者さんにおも起こっているんだよな。
うつ病でも、不登校の子でも、ひきこもりの親でも、焦りまくっている。
危機感、自信のなさ、負い目の上に乗っかった焦りだ。
はたから見れば、そのことはよくわかるから、焦りを緩和しようと支援するんだけど、当事者としては、その枠組みに気づかないし、気づいたとしても、それをずらすことが困難なんだ。
今、自分がそういう立場になって、よくわかったよ。

Thursday, March 19, 2009

本当は自信なかったの

Tikiさん。

私、本当は自信なかったの。
Tikiがプロポーズしてくれたのは嬉しかったのだけど、本当にこの人でいいのかなって。
いえ、Tikiがどうのこうのということではなく、自分自身の判断に自信がなかったの。
実は、Tikiの他にも私のことを愛してくれて、結婚してと言ってくれた人がいたのよ。Tikiにもその人のことはちょっと話したけど、ちゃんとは話せなかったわ。
スコットランド旅行も、その人と回ったことがあったの。だから、この写真撮った時も、内心はいろいろ悩んでいたわ。Tikiにもそこまで言えなかったの。

Tikiみたいに楽天的で、前向きな人には、私の本当の気持ちはわからないだろうと思っていたわ。ママとの関係にも悩んでいたし。でも、Tikiが、それは私だけでなく、よくあることだと言ってくれたから、少し安心はしたけれど。
やっぱり、私はしっかりした自分を持てなかったと思うわ。どうしても、まわりの人たちの意向に左右されてしまい、人の思惑に振り回されていたと思う。未熟だったのかしら。そんなことを言う歳でもないのだけど。

でも、Tikiは、そんな私でも、心の底から認めてくれたわね。
身体に自信なかったけど、子どもを3人産み育てることができたのも、
子育てしながら仕事を続けられたのも、
Tikiが認めてくれたからなのよ。
若いころからの夢だった通訳の仕事も、Tikiが応援してくれたから成就できたわ。
英語は好きだったし、唯一、自分でもある程度は自信を持てる部分だったのかもしれない。
でも、通訳の先輩や仲間たちを見ていると、私なんかまだまだ未熟なんだっていうこと、思い知らされたわ。
確かに、やりがいを持てる仕事だったけど、こんなに苦労してまで追求するほどの仕事なのかなって、ずっと悩んでいたのよ。
家庭や子どものことだって。Tikiは協力するとか口では言っておきながら、帰りは遅いし。週末は、ゴルフとか出張とか、私のことはお構いなしに、すぐ出かけちゃうし。本当は、あまり家族のことは考えていないんだなって。


でも、こうやって、天に昇って振り返ってみれば、私も実は欲しいものをちゃんと持てたのかもしれないって思えてきたの。
子どもがひとりからふたり、そして三人と増えるたびに、物理的にはめまぐるしく大変なんだけど、苦労感は少しずつ減っていったように感じるの。子どもたちの存在が自分を認めてくれるというか...
いろんなハプニングがあっても少々のことでは動揺しなくなり、ありのままの自分で行くしかないかなって、腹をくくり、開き直れるようになったわ。
この写真の頃の私に比べれば、だんだんとTikiや仕事の仲間たちに振り回されることも少なくなってきたのかもしれない。私も、ずいぶん成長したのね。
子どもたちが大きくなり、しっかりしてくる結果が目に見えるし、保育園の子育て仲間の層が厚くなり、ずいぶん助けられたわ。Tikiは私を失ったことで、今頃やっと気づいたようね。

愛しい3人の子どもたち。成長していく姿は私の生きがいだったわ。
私を育ててくれた家族。わがままで不満ばかりの私を支えてくれたわ。
やりがいのある仕事。難しいし、ストレスが大きいけど、私の個性を生かせることができたわ。
私を支えてくれた仲間たち。職場の仲間、学生時代の仲間、保育園や学校の仲間。あんなにたくさん私を見送りに来てくれて、ああ、私のことを思ってくれる仲間がこんなにいたんだなって。実は、ここまで言えるのも、保育園仲間のnamiさんが天国の私にささやいてくれたからなの。
そして、Tiki。こんなに悲しんでくれてありがとう。Tikiと結婚できて、本当によかったわ。もう一度、生まれてきたら、またTikiのパートナーにしてね。でも、Tikiにはきっと他にもっと素敵な人がいるから、私のことは選んでくれないかもしれないわね。

45年というのは、私としてもちょっと短かったのだけど、こうふりかえれば、欲しいものをちゃんと持てたのね。

10個さん、ちょっとがんばりすぎてない?
あなたも実は欲しいものをちゃんと持っているのだから!!


優子がつないだ仲間

優子も、なかなかやるじゃん!!
そっちから風を送ったんだって?

仲間の結婚相手を探していたよね。僕も釣り書きをもらって、協力しようかなと思ってたけど...
ひとり、優子の知っている仲間どうしでいい感じの人がいるのねえ。でも、いま一つ、煮えきらなくて、、、なんて言ってたよね。
優子が万座温泉から空に旅立った日に、妙な胸騒ぎを覚えて、どうしても気になり、わざわざ連絡して、ふたりで会ったんだって。僕が、訃報を届ける前のことだよ。結局、そのことがきっかけでふたりの仲が急速に深まったんだって。

優子の思いを、みんな感じてくれているよ。


僕の時も、よろしくね。
優子から見て、僕の新しいパートナーになれそうな人が見つかったら、しっかり吹いてくれよ。
、、、まだ、いいからね。まだ僕も、子どもたちも準備できてないから。

卒業式

優子

今日は大学と、ちゅけの中学校の卒業式。
大学は教員として、ちゅけのは保護者として。もちろん前者をサボって、ちゅけのに行ってきたよ。

僕の研究室から巣立った卒業生からメールもらったんだ。
ブログから元気をもらえるって。
別に、僕は元気を書いているわけじゃないんだけどなあ??
むしろ、押しつぶされそうになる気持ちを引きずり、必死に書いてみんなに読んでもらうことで、どうにかギリギリ動かしているという感じなんだけど...

彼女は、草津のゼミ合宿で、優子に教えてもらって、初めてオムツ替えを体験したんだって。
そのちゅけも中学卒業。彼女は二児の母親と高校教諭を見事にこなしているよ。

卒業式では、3回くらい涙がほほを伝わったかな。
1回目は卒業生入場の行進の中に、ちゅけの姿を発見したとき。
2回目は卒業証書授与。ひとりずつ授与されるのだけど、ちゅけがもらうときのことを考えて泣いていて、実際に、ちゅけの番になったら大丈夫だったよ。
3回目は卒業生の合唱。
決意旅立ちの日にの二曲。
合唱コンクールで鍛えだけあって、三部合唱、四部合唱、きれいにハモっていたよ。女声が涙でかすれていたけど。
僕らの頃は仰げば尊しが定番だったけど、今の旅立ちの日には、なかなか良いね。

優子とこの感動を共にしたかったよ。
でも、優子は風になって見ていただろ?

勇気を翼にこめて 希望の風に乗り
この広い大空に 夢を託して

優子、子どもたちにたくさん希望の風を載せてくれよ!!




家族の喪の作業を支援する

優子

死別の悲しみを超えてという本を読んだよ(右側の文献リスト参照)。
子どもを失った人たちの会(自助グループ)をずっとやってる経験を書いた本なんだ。
参加するのはお母さんたちが中心で、お父さんは少なかったけど、最近増えてきたんだって。

この発想は良いかもしれない。
死を一緒に悼むという自助グループは以前からあって、最近さかんになってきた自殺予防活動の一環として自死遺族のグループだけ、なぜか結構盛んになりつつあるんだよ。
自殺(自死)により遺された家族というのが、最もtraumaticだと思うけど、そこまでいかなくても、家族を喪うというのはとてもきついからね。僕も、友だちや、ブログや、西魔女を利用してどうにか心の均衡を保とうとしているけど、心のケアに、良質なグループワークがとても効果があるというのは、僕も経験からよくわかっているんだ。
子どもを喪った母親たちのグループは比較的作りやすいだろうな。
配偶者を失ったグループはどうだろう?
僕は比較的若いけど、ふつう配偶者を失うのは、もっと高齢になってからだからね。高齢者の自助グループは別の意味で難しいね。
あと、男性の参加もちょっと難しいかな。パートナーであれ、子どもであれ、男がそういう場に参加するということ自体、ひいちゃうでしょ。
でも、パートナーを失ったグループみたいなのが、あるのかなあ?
ちょっと探してみよう。
アメリカあたりだったらありそうかもね。

自助グループ(self-help group)というのは、専門家は関わらず、同じ立場の人たちが相互ヨコの関係で助け合うということだけど、専門家が、この分野にもっと関わっても良いはずだよね。
専門家がリードするグループ療法とか。
西魔女みたいに、個人ベースでのグリーフ・カウンセリングとかね。
あるいは、僕の分野では、家族の喪の作業を支援する夫婦・家族カウンセリングとか。
こういうのを、日本でやってるひとは、ごくわずかだと思う。
この本にも書いてあったけど、子どもを亡くした夫婦が、いっしょにうまく喪の作業を進めるって、とても難しいんだって。そのはずだよね、喪の作業自体とても困難だし、そのやり方・ペースは個人差や男女差が大きいから、夫婦の足並みも当然乱れるでしょう。そのことが、きっかけになって夫婦関係が悪化したり、離婚しちゃうということも、当然起こりうるでしょう。
メンバーを失った家族へのfamily therapyね。
これは、新しい分野だ。日本中さがしても、僕しかできないぞ、きっと(笑)。
それに、日本じゃまだまだカウンセリングの敷居は高いけど、家族を失うというのは、カウンセリングを受ける動機づけとしては入りやすいんじゃないかってね。うつ病とか心の病とかは、まわりに隠すけど、家族の死は、自分たちも、周りの人からみても、大きなストレスが加わっているということは明らかでしょ。それに、自分のせいじゃないから。精神病は、自分の弱さ・失敗みたいな感覚を持つ人が多いから、それを乗り越えてカウンセリングの敷居をまたぐって、結構むずかしいと思うんだよ。それに比べれば、家族の死は、自分は全く悪くない(してあげられなかったと罪悪感を抱く場合も多いけど)はずなのに、明らかに心が痛いから、専門家の支援も求めやすいんじゃないかなってね。

このあたりも、臨床に生かせないか、すこし考えてみようかな。
優子を失った体験を、こうやって僕が生かせれば優子の供養になるし、それによって救われる人がいれば、嬉しいしね。
とりあえず、まだ具体的に動くには早すぎるから、喪の作業を進めるね。

Wednesday, March 18, 2009

ロンドン時代(4)スコットランド旅行

子どもたち

また、パパとママの歴史の話だ。ロンドン時代に戻るよ。子どもたちが出てくる前の話。この先、君たちを迎えるために、ママとパパは基礎を作っていたんだ。
 パパは、慣れないイギリス英語でがんばってたよ。ママは2年目からはお仕事したけど、初めの1年間は割と自由にのんびりできたみたい。
 パパは学生の身分だから、ぜんぜんぜいたくはできなかったのだけど、それでもずいぶん、いろんなところに旅行して楽しんだんだよ。これは、ママが到着して半年後にイギリスを車で一周したんだ。日本人でもう帰国するという人からポンコツのブルーバードを安くもらいうけて。途中でエンスト起こすんじゃないかとちょっと心配だったけど9日間かけて、ロンドンから北上し、ヨークを経由してスコットランドに入りエジンバラへ。そして、ネス湖のあるインバネス。ふつう、観光というとそれくらいまでなんだけど、ママとパパは冒険してさらに北の最果ての地まで行ってきたんだ。すごかったよ。荒涼とした、まだ手つかずの大自然。何もないんだ。もの悲しく、澄み切った風景。この写真がそうだよ。行き当たりばったりの旅でね。車でどれくらいまで行けるか。だいたい夕方になって到着した町のinfo(観光案内所)へ行き、どこか安い宿(B&B)はないですか、って探すんだ。夕食は、たいていパブでビールと軽食。
日本で旅行といえば、美味しい土地の名産とか食べて、お風呂に入ってのんびりして、という感じでしょ。だけど、イギリスにはどっちもなかったよ。イギリス人は、あまり美味しいものを食べる習慣がないのかなあというくらい、レストランとかがないんだ。それに、宿もお風呂はなくて、簡単なシャワーだけ。もっとも、貧乏旅行だったからかもしれないけどね。
でも、ママとパパとふたりで楽しかったよ。一日中車に乗っていた思い出だけど、運転も楽しかったし、ママと一緒にいろんな風景を楽しめるのがよかったよ。

Tuesday, March 17, 2009

読者のみんなへ!!

優子、、、、じゃなくて、読んでくれているみなさん、

こんなメッセージをもらったんですよ。

Tikiさん、ブログをたまに読んでますが、本当に、私の心を打ちます。
思いのこもった文は私自身が読んて、自分の過去を整理できているようにも思います。
何度かはお礼がてら書き込もうとしたものの、中々、場には思い出を共有している方々の大切な場のように思い、書き込めず。
せめてメールで気持ちのみ、有難うございます。


こちらこそ、どうもありがとう!!
そういうのも、私にとってすごく励みになるんですよ。
「悼む人」読んで思ったんだけど、大切なのは、acknowledge(認める??)するってことじゃないかなと思って。
共感とも言いますよね。
僕の文章から、僕や優子のことに思いをはせてくれたり。
あるいは、そこから波及して、読んでいるみなさん自身のことに思いをはせたり。
どっちでも、僕にとっては同等だと思う。
要するに、僕の文章を読んで、思ってくれた、考えてくれた、理解してくれた、というプロセス自体が大切。
それを、どんな形でも伝えてくれれば、僕にとって悼みになるんです。
「読みました」だけでも、「○○と感じました」でも、「読んで思ったんだけど、自分自身の~ことで、、、」でも、何でもいいんです。
昨晩、いのちの電話の研修をやっていて、同じようなことを思ったよ。

ここは、僕にとって大切な場だけど、みなさんが参加してくれたら、もっと大切な場になれると思う。
別に、僕の家族のことじゃなくてもいいんですよ。関連して、別の話題でもいいし。
右側にある「読者になる」から登録すると書き込めるようになるので、どうぞ気軽に!
僕も、だいぶ落ち着いてきたので、いろんな乱入歓迎。輪を広げましょう!!

Monday, March 16, 2009

父の短歌

優子

父が優子の短歌を作ってくれたよ。
歌会52首中第三位の佳作で、学士会報にも載るんだって。

黒き服の人影次々花を捧ぐ夢まぼろしか娘(こ)の通夜に坐す

ほんと、次々、たくさんの人が来てくれたね。
夢であってほしいよ。

Sunday, March 15, 2009

夜の往復書簡

優子

グールディングのさようならを告げるときという本を読んだんだ。最近、この手の本ばかりなんだけど。
彼女は有名な心理療法家で、翻訳本もいくつかあるし、国際的にいろんなところで講演やワークショップをやっていた、いわばマスターセラピストの一人なんだ。僕と同業者というわけ。
彼女が夫を亡くし、どれほど落ち込み、どうやって立ち直っていくかという主観的な体験を、心理専門家の視点から客観的に語っているんだ。このブログに似ているけど。
亡くした初めの頃は、彼女も異様に元気というか、ひとりで旅行したり、飛び回るんだよね。
でも、しばらくしてから、自分が深刻なうつに陥っていることに気づき、長く、辛い喪の作業が続くんだ。
2-3年かけ、セラピーを自ら受けたり、たくさんのプロセスを経て、やっとさようならを言える準備ができるんだ。まだ僕はぜんぜんそこまで至っていないけど、将来、いつかはそういう時が来るんだろうなあ。そのために知識として準備しておくと、メアリーさんはこう言うんだ。

1)愛した人と過ごした歳月を振り返り、自分が未解決だと感じた場面で止まる。空想の中でその場面に身を置き、それを完結する。

これは、今、僕がブログや西の魔女と一生懸命やろうとしていることかも。まだ、イギリス留学時代編の途中だし、その次は帰国してからのこと、つまり子どもができて、本格的な優子との家族の話になるんだ。まだなかなかそこまで進まないのだけど。まあ、ゆっくりやろう。急がずに。

2)最後の場面を空想の中で創造する。自分の中にまだ残っている恨みや否定的な根性に加えて、満たされなかった願いや希望を口に出し、それを手放す。感謝の気持ちを表現する。

これは、まだまだできないなあ。(1)がある程度すすめられたら、(2)に行けるんだろうね、将来的に。

もうひとつ、彼女の本を読んで気がついたのは、sexualityの重要さだね。
性に奔放なアメリカ文化での話だから、ここまで語られちゃうと日本的にっはちょっとひくけど、メアリーさんは、よく自分の気持ちを隠さず見つめているよ。
彼女と比べても、僕は男性だし、パートナーを亡くした年齢が10歳以上は若いんだ。僕にとって重要なファクターでないはずがない。でも、このことを考えたり感じるのは、無意識のうちに避けてきたような気がする。Sexualityは、優子がいるときには、ふたりのプライベートなテーマだったから他の人に伝える必要もなかったけど、優子がいなくなったら、僕が直面する個人的なテーマになっちゃったんだよね。僕の気持ちを乗り越える中で、このテーマはどうしても避けられないと気づいたよ。

でも、sexualityを安全に、マジメに語るって難しいんだよね。
優子とも、マジで語ることはあまりなかったよね。本当はもっと語りたかった。
人間にとって、とても奥深い大切な部分だと思うんだ。
ブログでも語ってみようかな。
でも、18禁だし、おいそれに誰にでもは語りたくない。

ということで、もうひとつ、別のブログを作りました。
ここは、だれでも入れるけど、こっちの方は、パスワードつきにしました。

パスワードは、
〇〇〇〇〇〇〇〇△△△△

よかったら見に来てください。
ヒント:
〇⇒僕が小1のときの世界的な大運動会。夢の超特急や首都高が作られたり。アベベとか、日本人選手も第3位に入ってがんばってました。この競技種目を英語で言うと?(8文字。すべて小文字で)
△⇒ぼくの携帯の下4桁の数字。ちなみに優子の携帯の下4桁も同じ数字でした。

わからなければ、メールください。
僕のニックネーム(小文字4文字)+3282@ジーメール.コム
です。





Saturday, March 14, 2009

Soul Mate

優子

このところ、ブログで優子に話しかけるmotivationが低くなっているんだ。
いよいよ、抑うつ状態に入ったか?
というわけでも、なさそうなんだけどね。

一昨日は、大学の米田が仕事帰りにひとりで家に来てくれたよ。
お葬式のときを抜かせば、あいつと話すのも、何年ぶりかなあ。2-3年は経っているか。
でも、若い頃のことを昨日のことのように話せるんだ。
父との往復書簡の冒頭に書いた父との反抗期の確執について、米田はよく覚えているって。
父親はそんな出来事すっかり忘れていたことは本に書いたし、僕が米田に話したかもあまり覚えていない。でも、米田によると、僕はそのころオヤジのことをさかんに愚痴ってたらしいんだ。そうだったかもしれない。
僕らの結婚式にも来てくれたし、米田の結婚式にも行ったし、結婚前に奥さんが米田に隠れてこっそりタバコを吸っていたことも見ちゃってるし(笑)。
昔の仲間の話でも盛り上がったよ。学生時代の出来事を反芻して、あーだこーだと懐かしがったり、
卒業後のみんなの様子について確かめあったり。
みんな、山あり谷あり、いろいろあるんだよね。離婚やリストラ、子どもの問題とかね。別に話したところで、何が解決するわけじゃないんだけど。
優子にとってのリカちゃんが、僕にとっての米田や前川なんだろう。普段の接点はないけど、安心して語り合えるというか、お互いの存在を確かめあえるんだよね。こういうの、soul mateっていうの>優子?
考えてみれば、そういう連中が中学・高校・大学・大学院、それぞれいるんだ、ってことに今気がついたよ。職場ではそういうのはない。
中学や高校の連中は、その時はまあ仲が良いといった程度だったけど、その後、同窓会とか飲み会とかで会っていくうちに、だんだん深まっていくみたいね。
そういうやつらと会うと、なんとなく気持ちが落ち着くというか。
だから、優子に語りかけなくても気持ちが済んでしまうみたい。

優子、しのぶさんから素敵な手紙もらったよ。ロンドン時代、優子が勤めた職場の仲間で、その後もしのぶさんが帰国するたびにランチしてたりしたんだってね。僕も名前は聞いていたけど、お会いしたかどうか...
しのぶさんは、優子のsoul mateだったの?

今週末も忙しいよ。これから祐馬の水泳大会に付き添いだ。今日は自由形で、明日は平泳ぎ。予選通過するわけないよって言ってたけど、祐馬もがんばっているよ。じんは体操教室だ。
今晩は、保育園ママパパのうちにお呼ばれ。持ち寄りpartyで、僕はスティック・サラダでも作ろうかな。
日曜日は奈良まで日帰り巡業だ。優子がいれば一緒に行って一泊したんだけどね。でも、実際は子どもたちのこともあるし、難しかったかね。

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そういえば、1月3日に優子を担ぎこんだ西吾妻福祉病院の院長が急逝したってHPに書いてあったよ。
気になって、優子の死亡診断書を確認したら、署名してくれたの、田子院長じゃない!!
優子が心停止状態でERに到着したのに、最善を尽くしてくれて、どうにもならないことを、思考停止状態の僕に丁寧に伝えてくれて、寝台車で病院を後にする時は深夜にも関わらず、見送ってくれ、「どうぞ、お気を落とさずに」と優しく肩に手を掛けてくれた。
急逝した優子を看取った先生が、その一か月後に急逝するなんて。
しかも、HPで確認したら、僕と同じ51歳。くも膜下出血で、全くの突然。朝、出勤してこないので、病院の職員が宿舎に行ったら心肺停止状態だったんだって。自治医大卒のラグビー部。僕も自治医大にも受かっていたから、もしかしたら一緒にラグビーをやっていたかもしれない。
何か、人ごとではない、すごく身近に感じるよ。先生の奥さんに「大変お世話になった一患者の遺族」から弔電出しておくね。
優子もそっちで田子先生を見かけたら、よくお礼を言っておいてよ。

Wednesday, March 11, 2009

とりつくしま

優子

僕の夢に出て来てくれてありがとう。
最近、よく出てくるようになったジャン。
初めの頃はあまり来なくて、じんじんの方に出ていたみたいね。優子が亡くなって3-4日ごろだったかな、じんがポツリと、ママの夢みた、って言っていた。あいつは、あまり言わないんだけど、言う時は鋭いことを言うから。
でも、最近は僕の方に来るようになったね。
初めて来た時は、本当にびっくりしたよ。
というか、どっちが夢でどっちが現実だかわからなくなっちゃって、ひょっとしたら今のこっちが夢なんじゃないかと、本当に思えたもの。夢から覚めた後も、しばらくわけがわからなくなっていたよ。
でも、やっと現実世界の方に戻ってきたら、すごく悲しかった。夢の世界の方がよっぽど良いよ、そっちに行きたいよと思ったね。

次に出てきたときからは、初回ほどびっくりはしなかった。
夢を見るのも短時間、断片的になってきたし。
でも、その中では、優子はしっかり生きていることを主張するんだ。
それはそれでとても嬉しいんだけど。
ほんのわずかな時間だし、夜中に目が覚めて、隣に優子が寝ていないことを確認して、現実をリセットして、トイレに起きて、また寝入る時の悲しさは耐えがたいよ。夢を見るのが怖くなってきた。

かといって、もう夢には出てきてくれるなとはまだ言えないしねえ。
それはそれで、寂しくなっちゃうし。まだ、しばらくは出てきてほしい。
まあ、ずっといる必要はないけど、サヨナラできるまでは、僕のまわりに居てほしい。
映画ゴーストみたいにね。

直子さんが本に書いてるけど、死んだらとりつくしまを選べるんだって。
優子は何にとりついてくれるの?
これは、死んだ人が選ぶことらしいので、とりつかれる側の僕は何も言えないのだけど、一応希望を出しておくと、
1.結婚指輪。しばらくは、ずっと身に付けてるから。
2.自転車。優子にまたいで乗れるってのは、魅力的だね(笑)。2台とも両方にね。
3.カンポマルツィオのネックレス・ペン。最近よく付けているんだ。趣味と実用と兼ねられるしね。優子にも贈ったでしょ。今は、みやこさんやゆみさん、わっかさんが使ってくれていると思うけど。

直子さんがこの本を贈ってくれたとき、僕は読まなかったのだけど、祐馬は優子から勧められて読んでいだんだって。祐馬は何にとりついてもらいたいかと僕が聞いたら、
そういう空想物語はやめてもらえますか。
と却下されました(泣笑)。

悼む人も読んだよ。
天童荒太がいつもテーマにする親子の確執・虐待は、職業的にとても近い話題なんだけど、今まではあまり読む気がせず避けてきた。でも、今回は、表題があまりに僕の状況に近いし、ベストセラーになっているから手にとってみたよ。

その人は、誰を愛したか。
誰に愛されたか。
どんなことで人に感謝されたことがあったか。

結局、人が生きている根拠って、こういうことなんだよね。
生きている最中は気づかなくても、死に直面すると、そのことが自ずからクローズアップされてくる。
優子との生活と喜怒哀楽を共にする現在と、優子と語り合える未来を失った僕にできることは、優子の過去をかき集めること。

僕が優子をどう愛したか。
優子は誰に愛されたのか。
優子は誰を愛したのか。

過去をかき集めて何になるんだ?と言いたくなるけど。
ちょうど、子どもが親の愛を胸に取り込んで、はじめて親から離れてゆけるように、
僕も、優子との過去をしっかり抱かないと、優子から離れられないような気がするんだ。

もう、いい加減、くたびれた。早く、この作業は終わりにしたいんだけど、、、、できない。

Monday, March 9, 2009

傷心の旅路


優子
昨日、福岡に飛んで、リカちゃんとヨリちゃんに会ってきたよ。

福岡には何度も仕事で日帰り出張もしているけど、今回のような旅は僕にとって初めてだったと思う。
いつも、優子や家族と一緒か、仕事のひとり旅か、どちらかだからね。
大学入試のとき、もし落ちて留年が決まったらひとりで北海道に流氷を見に行こうと思っていたんだ。でも、受かっちゃったので、行き先を変更して、高校の部活の合宿にOBとしてついて行ったから果たせなかった。

短かったけど、とても落ち着ける時間を持てた。リカが、ゆっくり大宰府を案内してくれたよ。
僕にとって、リカちゃんは、優子そのもの。優子と付き合い始めて、一番初めに紹介してくれた優子の友だちがリカちゃんだったよね。優子にとって、リカちゃんがどれほど大切な友だちか、優子の話から何度も聞いていたし、日記にもそう書いてあった。リカちゃんとふたりで歩いていると、まるで優子と歩いているような錯覚に陥るよ。

リカちゃんとヨリちゃんと3人で、ゆっくり昼ごはんを食べながら、優子のことを思う存分語り合うことができた。僕の悲しみをやさしく受け止めてくれ、とても安心できた。今もブログを書きながら泣けちゃうよ。
僕だけじゃない。親友たちにとっても、優子の喪失は大きいんだってことを改めて感じたよ。

優子は、少数精鋭の友だちをとても大切にしてきたんだね。
そういう付き合い方が優子らしいのか、女性らしいのか、よくわからない。少なくとも僕はその逆というか、グループの中で枠を確保して、そいつらと集団的に付き合ってきたような気がする。

優子にとっても、僕にとっても、そういう友だちってとても大切だよね。
学生時代、部活とかでintensiveな4年間なりの時間を共有するでしょ。多感な時期だったからね。
卒業して共に過ごす時間にピリオドを打ち、別の世界に進んでいくけど、時々会って、お互い、どうしてる?なんて確認しあって。時間的にはわずかの点の付き合いだけなんだけど、その点をつなぎ合わせると、自分を遠くからずっと見ていてくれる人だってことがよくわかるよ。特に、山あり・谷あり、人生に大きな変化が起きた時にね。だから、冠婚葬祭にそう言う人たちが来てくれるって、意味があるんだね。
直接、毎日の生活に関わらないけど、遠くから自分を支えてくれていた人。優子を失ったというのは、自分の存在を支えていた土台の一部が抜けてしまったような不安定さを感じてるんじゃないかな。リカちゃんと話していて、そんな風に感じたよ。

僕も同じだよ。
僕らは夫婦だから、終わった関係ではない。まだ日常のintensiveな生活の最中だったわけだから、その部分での喪失は計り知れないほど大きいよ。
でも、子どもたちをどうにか世話して、毎日の衣食住を回すことができれば、その部分での喪失は何とかなりそうな気もしてきた。
むしろ一番痛いのは、リカちゃんたちとも共通している部分かな。自分の一番近くにいて、ずっと自分の存在を見ててくれていた優子、支えてくれていた優子。
日常生活は、他の人でも補ってくれることは可能だけど、この部分では、他の人ではダメなんだ。

家族関係学の授業で、よく学生たちから出てくる素朴な疑問⇒付き合っている時の恋愛感情って、結婚してもずっと続くんですか?
二十歳前後の彼女たちには、結婚さえ経験していないので、そのあと、夫婦ふたりがどうなるかなんて、全く想像がつかないみたい。せいぜい子どもの立場から両親がケンカしてるか否かを観察するくらいだからね。恋愛時代のラブラブ関係が、そのままずっと続けばいいなあと淡い期待を抱いているみたいだよ。実際は、ぜんぜん違うのにね。

僕らはどうだったかね?
〇結婚前後は、学生たちのイメージとそれほど差異はないとしましょう。
〇結婚後1年後に渡った3年間のロンドン生活は、ふたりだけのexclusiveな生活だったから、ラブラブ的ハネムーンの延長生活に加えて、共同生活が始まって、えっそんなこと違うの?と驚きながらたくさんケンカして、ふたりのペースを合わせようとしていた時期。
〇帰国後の1年間は就職・新しい職場に適応する時期で、いよいよ子どもを持つ決心をしたね。
〇その翌年(94年)にチュケが生まれてから、現在に至る15年プラスは子育て期。妻vs.夫の関係から、親として協力する関係に変っていった。新婚時代みたいな、胸ドキドキのラブラブ関係なんて、ごくたまに。ホッと一息いれるときに、ちょっとあったくらいかな。むしろ、子育て+仕事で目の回るような毎日の生活を必死にきりもりする同志としての関係かね。それをこなすためには、どんなにケンカしても、結局はついてきてくれるはずだという全面的な信頼関係がお互いにあったんじゃないかな。まあ、優子死んじゃったから、こうやって美化しているけど、時にはムカつき、イライラしながらも、結局はお互いに一緒にやっていくしかないと覚悟はしていたよね。
まだ、子育て期は終わっていない!今後10年は続くぞ。それを、僕一人でやらなくちゃならないのは、たいへんだよ。どうしてくれるんだ>優子!?
〇子育て期とオーバーラップして、僕らの場合には、自分のキャリアも追い求めていたよね。優子が通訳学校に通い始めたのは、子どもたちが小学校に上がり、ひと段落した頃からだっけ?通訳は、優子が子どもの頃からやりたかった職業だよね。たいへんそうだったけど、仕事で頑張っている優子はキラキラしていたよ。よくばった生活は、家の中ちらかしっぱなしで、よくケンカもしたけど、休みには家族旅行したり、充実した生活だった。ふたりのラブラブではないけど、家族として、社会人として、幸せだったよね。
〇もし優子が死なずにいて、10年くらいしたら、リカちゃんみたいな、昔の親友的夫婦関係にもなれたと思うんだ。子育てと仕事という大きな役目から荷を下ろし、ほっと人生に一息して、これまでを振り返り、ゆっくり語れるような。豪華客船世界一周のニュースや広告が来るたびに、いつか僕らもできたらいいね、、、なんて夢を描いていたんだけどね。
それも、できなくなっちゃったじゃないか!!

Sunday, March 8, 2009

心の健康さと精神科医

Tiki、優子です。

ブログ読んでいるわ。
私のせいで、Tikiにこれほど辛い思いさせてしまって、本当にごめんなさい。
Tikiと出会う前は、精神科のお医者さんって、みんな自分もメンタル面での問題を持っているから精神科を選ぶのだと想像していたけど、Tikiは全然違うのね。私も、Tikiと出会う頃は、ずいぶん自分や家族のことで悩んでいたの。でも、ブログ読んでいると、Tikiが心身ともに健康に過ごしてきたことがよくわかるわ。精神科医の見方がずいぶん変ったのよ。

なにをいまさら(笑)。
それとも、優子も僕と同じように、離れたから僕の見えなかった側面が見えてきたの?

確かに優子の言うことは当たっているよ。
問題アリの精神科医はずいぶん多いんだ。臨床心理士なんかも、そうだろうね。
医学部時代、こいつだけには診てもらいたくないというようなヤツが精神科医になったり。
昔、勤めていた病院には、統合失調症の医者もいたし。(でも、だれもそのことを指摘できないんだ)
自殺した精神科医もずいぶん知っているよ。
県の指導的立場にいる先生が言っていたよ。一番やっかいな患者は、人格障害の精神科医だって。
いや、精神科医すべてを否定しているわけじゃないよ。人間的にも尊敬できる、素晴らしい精神科医もたくさんいるんだ。良い医者と、問題アリの医者の落差が大きいね。

自分がメンタルな問題を抱えていること自体は、悪くないんだ。
大切なのは、それを自分で避けずにキチンと見つめ、他人の力を借りながら、ちゃんと相対化して整理した経験を持っているか否かということなんだ。それができている人はとても強いよ。悩んでいる人の苦しみもちゃんと共感できるし、患者さんがうまくそれを乗り越えられるよう、上手に支援できるんだ。
逆に、それができていない医者は最悪だね。自分の心を開いた経験がないから、相手の心も開けない。患者さんや病気のことを理屈でしか理解できず、その背後の気持ちに触れられないんだ。
6年間の医学教育って、要するに理屈のかたまりだからね。卒業して医師免許を持っても、本当の精神科医としてのトレーニングはそこから始まるんだよ。難しい理論や薬の使い方だけではなく、自分の気持ちや悩みを他者に語り、それまで避けてきた自分の気持ちの奥底にちゃんと向き合うんだ。
私はそんなメンタルの問題はないから、必要ありません、という人が一番あやしいね。自分の心をわかっていないんだ。だいたい、心の問題がないなんてことはありえないからね。誰だって、そういうのを持っている。僕自身、トレーニングを受ける前は、自分は心身ともに健康だから、、、なんて思っていたよ。でも、いざ試してみると、今まで気づかなかったことが出るわ、出るわ、たくさん出てくる。なんだ、自分ってそうだったんだという具合に、新しい発見だらけなんだ。家族療法やるなら、自分の家族についても、深く掘り下げなくちゃダメなんだ。
優子は、私はアダルトチルドレンかも、とか日記に書いてあったね。それくらいのことは、ACの本を読めば誰でも感じることだけど、大切なのは、その先だよね。自分がACだと思うんだったら、親のことを責めるだけじゃなくて、なぜそうなったのか、親の親のこととか、両親の夫婦関係とかも含め、それらが自分の悩みとどう結びついてるのか、冷静に考えるんだ。ひとりで考えてもどうしても限界があって、信頼できる誰かに手伝ってもらうことになる。それが、教育分析とか、スーパービジョンにあたるんだ。要するに、自分が疑似患者体験をすることで、どうやったら患者さんを救えるのかを身をもって体験するわけ。そういう経験を経て、本当の意味で患者さんの気持ちを理解できる治療者になれるんだ。

ところが、残念ながら、日本には教育分析やスーパービジョンを受ける機会がとても少ないんだ。それをやらないと、治療者として、患者さんの感性を扱うことができない。結局、それまで詰め込まれてきた偏差値教育の延長で、人の気持ちを理屈でしか理解できず、観察された症状を操作的な診断基準に当てはめ、薬を処方するだけの精神科医になっちゃうんだ。

僕も、そういうトレーニングは、日本では部分的にしかできず、イギリス留学時代や、その後の海外研修なんかでずいぶんとやったよ。若いと限界があるね。30歳過ぎないと見えてこない部分もけっこうあるから。40歳になり、50歳になりと、人生経験を重ねていく中で、見えてくるものはさらに増えていくみたい。

実は、僕自身が持っている心の健康さが、心の専門家としてはコンプレックスであったりもするんだ。いくらトレーニングしたって、基本的に自分が健康だと思っている人は、そうでない人の本当の気持ちはわからないし、患者さんも健康なお医者さんよりは、悩みを持ったお医者さんの方が性に合うんじゃないかってね。
でも、今回、優子を失って、そのコンプレックスも見事に解消したよ。
まわりの人たちや、西の魔女の手助けも借りて、改めて50歳になった自分を振り返る良い機会かも。今まで気づかなかったことが、また見えてくるかな?

Friday, March 6, 2009

愛情の深さ

優子

優子のiPod用にBoseのスピーカー買ったぞ。
もっと安いヤツにしようかとも思ったけど、これにして良かった。すごく音がいいんだ。
優子の音楽セレクションは、まだ入れ替えることができない。繰り返し聴いているよ。
おかげで、ラフマニノフのピアノ協奏曲とヴァンゲリスは、ずっと後に聞いても、今の悲哀がフラッシュバックするだろうなあ。

大学時代の米川(仮名)からメールもらったよ。
優子さんへの往復書簡も、よくこれだけ書けるものだと思うくらい新しい発見に感心させられます。
それだけ愛情が深かったとういことでしょうか。
だってさ。
だれでも逆境の時や、非日常的な時に創作意欲って高まるでしょ。
旅行に出かけたり、特別なことがあると、急に記録をつけたりしない?
そういう意味じゃあ、僕にとって今は、チョー逆境の時だからね。
でも、時間がたつ中で、シームレスに段々と日常に移行していくんだろうね。そしたら、ブログもきっとネタ切れで書けなくなるんだろう、きっと。ブログを書いているうちは、まだ辛い気持ちに押しつぶされないよう必死にもがいているんでしょう。

愛情が深かったと言われれば否定はしないが、米川だって奥さんとの愛情ホントは深いんだろ?
人と比べて、どっちの愛情が深いとか浅いとか言えないでしょ。
僕だって、優子が生きていれば、「僕ら、お互いに愛情が深いね!」なんて絶対言わないよ。
普段、暮していれば、衝突するし、忙しくてお互いに構っていられないし、ムカついたりしてたよ。でも、突然消えて優子との日常がなくなっちゃえば、残ったのは愛情だろうね。
米川も、僕みたいに突然、奥さんが死んじゃったら、そう思うだろ、きっと?
そんなこと、想像したくないって?
考えてみろよ。今、俺はそれをやってんだから。
ただし、離婚で消えるのはダメだよ。離婚はまた、別の話だ。

あとは、僕の職業病みたいなところもあるかも。
臨床心理学とかカウンセリングって、煎じつめると、口に出せない複雑な思いを、言語化して整理する作業なんだ。それを、家族関係の中で言語化しようというのが家族療法なんだよね。
だから、患者さんにやる前に、自分自身も試してみようと、ずいぶん言葉に出そうと努力してきたよ。
優子との結婚初期のケンカは、それがテーマだったよ。
特に優子はムカついたり、意見が衝突すると、黙っちゃうことが多かったからね。すると、オリジナルのケンカネタは置いておいて、なぜ黙るんだ、言わなくちゃダメだぞ、というテーマに変ってケンカしてたからね。
それに、男はふつう口べただし、あまり言わないじゃん。
うちは違ってたけど(?)、多くの夫婦は、口論すれば、たいてい女性側に分があるからね。
そしたら、男は面倒になって、もう言うのやめちゃうというパターンがずいぶんと多いよ。

だから、いつも優しくて、ラブラブでという夫婦が愛情深いみたいに見えるけど、実は、ケンカばかりしてる夫婦だって、ほとんど会話がない夫婦だって、本当は愛情深ったりするよ。ただ、口べただったり、要求が多すぎるだけだったりなんだ。でも、そうやってると時間が経つうちにお互い愛情は冷めた、信頼できない、と勘違いして、お互いに話し合うのを避けたり、ゴルフや酒場で時間を過ごしたり、浮気したりと悪循環にはまって、結局はダメになったりするみたいだよ。

だから、米川も、車ばかりでなく、家族もちゃんとメンテしなくちゃダメだぞ。
どんなに仲良い夫婦だって、メンテナンスフリーということはありえないから。

優子の短歌

本屋で優子の歌を見つけたよ。

短歌研究の3月号に、直子さんが書いてくれたんだ。
僕が優子のことを知るずっと前、中学生の同級生だった直子さんとはお互いの孤独で結びつけられたんだってね。
直子さんのことは、歌人として有名になる前から、優子から聞いてたよね。本を出すたびに送られてきて、僕は一度も手にとって読んだことなかったけど、優子はときどき会ったりしていたんだよね。
直子さんとは直接会ったことも話したこともなかったけど、優子の訃報はなぜか直接伝えたかった。

優子と僕を結びつけたのは孤独ではなかったよね。もっとにぎやかな、人がいっぱいいる世界だった。僕がそっちに無理やり持って行ってしまったのかもしれないけど、少なくとも子どもたちができてからは、優子は僕の好きな世界も楽しんでいたよね。

優子はいろんな人といろんな接点でつながっていたんだね。
直子さんの語る優子は、僕の知らない優子の世界。
僕は優子を失いブログに書いてたくさんの人と繋がろうとしている。
もし仮に優子が先に僕を失っていたら、優子は直子さんと二人でじっくり話し合ってたかもね、
そうやって、優子がいなくなっても、僕の中で優子の世界が広がっていくのは嬉しいなあ。
優子が生きてるときは、僕は僕×優子との接点でしかつながり得なかった。他の接点を知ると、僕との接点を維持しにくくなったかもしれない。でも維持する必要がなくなつた今は、他の接点を知ってもぜんぜん構わない。ヤバくてもいいから知ったほうが優子のことをより深く理解することができる。

ホントはこれから優子と離れていかなくちゃいけないのに、今やってることはその逆じゃん。
いいんだ、今は開き直るしかない。それしかできないんだから。
だから、今度の日曜日も楽しみ。

Thursday, March 5, 2009

はばたきの会

優子

余分な仕事を極力そぎ落とした結果、昨日は年休がとれたよ。
すこしゆっくりして、確定申告を済ませて、たまっている原稿を仕上げられるかと思ったらとんでもない!

午前中銀行に行き優子の銀行口座を整理しようと思ったら、相続の手続きが必要で、子どもたちは未成年だから特別代理人の選定を家庭裁判所に申請しないといけないんだって。なかなか繋がらない家裁に電話して問い合わせて、、、といううちに午前中は終了。

午後は、小学校のはばたきの会(謝恩会)に行ってきたよ。PTAが6年間お世話になった先生を招き、子どもたちの工夫したアトラクションはなかなか見ごたえがあった。保育園時代は、こういう行事にお父さんたちも結構参加していたけど、小学校に上がってからは、父親たちはほとんど撤退し、母親の世界だね。楽しく歓談しましょうと言ったって、ほとんど知らないお母さんたちの中にポツンとはめ込まれ、居心地はあまり良くなかった。
あなたは、子どもたちの学校のことなんか全然関心ないんでしょ!という優子の売り言葉はこういうことを指していたんだね。はばたきの会という存在すら、今まで知らなかったもの。
4月からは小中高、3人がバラバラだから、学校行事も3倍だ。こりゃあまさに優子からのリベンジだな!ひとりでどこまでやれっていうんだよ!!

夜は、のぞお勧めのサンマルクへ行き、4人でお祝いのお食事。今までは5人だったから、テーブルをくっつけてもらっていたりしたけど、これからは普通のテーブルで済むね。僕が子どもの会話に入るか、子どもたちがパパの会話に付き合ってくれるか、どちらかだよ。子どもたちはデザートが終わっても、次々に出てくる焼きたてパンを食いまくっていたよ。あれだけ食えば満足だろう。

おかげで、確定申告さえ手をつけられなかった。
いわんや原稿執筆においてをや(涙)。

Tuesday, March 3, 2009

二ヶ月目


優子

二ヵ月たったよ、優子を突然失ってから。
まわりのみんなから、すごく支えられている気がする。
何人かの友人が、2ヵ月たってどう?なんてメールくれるし。
子どもの友だちママに明日のはばたきの会のこと聞いたら、とても丁寧に教えてくれたよ。
北海道の友人から毛ガニが、教え子たちからはアイスクリームが宅急便で届くし。

何もしてくれなくていいんです。みんなが僕のことを考えてくれているということ自体がとても救いになる。どうもありがとう!!

一応、元気でやってるよ。
ちゃんと食べて、寝ているし、笑えるし。仕事もどうにかこなしている。(ブログなんか書いているヒマがあったら原稿書かねばならないのだけど)
みんなの助けを借りて、表面の皮はきれいにふさがっちゃったみたい。一見、なんともないように見えるんだけど。

でも、その奥は致し方ないという感じ。悲しみのかたまりが奥に入り込んじゃって、出てこないよ。
こうやって、優子のことを思い出そうとしているんだけど、無理して引っ張り出そうとしてもダメだね。
北海道の毛ガニを食べて、白ワイン飲んで。味覚的にはすごく美味しかった。
でも、心の底から美味しくはない。子どもたちといっしょに「おいしいね!!」と言えるんだけど、そこにもうひとりいないんだ。毛ガニはじんの大好物だし、優子の大好物でもあったよね。

今から振り返れば、はじめの二週間の混乱ぶりはかなりひどかったと自分でも思う。
でも、それが落ち着いた後は、ずっと変わらないというか、前にも後ろにも進めない状態かな。
前に進んではいけないと考えている自分もいるみたい。

ロンドン時代(3)散歩道


子どもたち、続けていこう。

ここは、ハムステッド・ヒース(Hampstead Heath)といってね。パパとママがよく散歩に行った場所なんだ。ロンドン北部の高級住宅街の中にある広い空地というか丘陵というか。公園と呼ぶには広すぎるかな。
東京のイメージとしては、世田谷区とか武蔵野市とかの都心からちょっと離れた所に、バカでかい空地、たとえば、横浜の子どもの国とか、埼玉嵐山の森林公園とか、あるいは小金井公園と小金井CCを合わせたくらいの広い空間を持ってきたという感じかな。芝生があったり、森林があったり、一回り散歩するとまる半日ゆうにつぶれるくらいだよ。パパがスタスタ歩いていると、ママがいつもTiki歩くの早すぎる!って文句を言ってね。冬は寒くて地面がぬかるんでいてぜんぜん入れないんだけど、夏になるととても良い散歩コースだったよ。
中に、ゼンマイが自生していてね。イギリス人たちは興味ないらしく、ラッキーという感じで、パパとママがたくさん収穫していたら、通り過ぎる人たちが、おまえら何を採ってるんだって不思議そうな顔をしてね。大量に採ってきて、家のバスタブにお湯を張ってあく抜きをして、お浸しにして食べたよ。

ママとパパがロンドンに居る間に、日本の友だちもずいぶんたくさん来たよ。ちなみにこの写真はママとシマコさんで、彼女が一番たくさん来たかなあ。3年間のあいだに、3回来たよ。何しに来たのかよく知らなかったけど。ハムステッドヒーズの中に、野外コンサートホールもあるんだ。夏になると、クラッシック音楽のコンサートがあって、みんなお弁当を食べながら聴いているんだよ。日本でいえば夏の花火みたいだね。それにも日本からナオコさんが来たよ。


Monday, March 2, 2009

ロンドン時代(2)小さなフラット


子どもたち

ママとパパのロンドン時代のことを教えてあげるねと言いながら間があいちゃったけど、写真も出てきたので、いよいよ話してあげよう。

この写真は1990年だから、ロンドンも2年目、ママが27歳になった誕生日だよ。可愛いでしょ。初めはパパの研究所に近くて家賃も高いフラット(アパートのこと)に住んでいたけど、半年くらいして、Ealingというところに引っ越してきてね。1階に大家さんが住んでいて、3階の屋根裏部屋みたいなところで、寝室ひとつ、居間がひとつの小さなフラットだったよ。こんな小さなテーブルで、ふたり食事してね。お誕生日だから、ちょっとご馳走して、スパークリング・ワインを開けているところだね。食器はウェッジウッドの二級品だよ。ウェッジウッドは日本人が好きで結構高いのだけど、地元にいると年に1回セールとかやっていて、さらにお店の奥の方に行くと、図柄が微妙にずれていたりとか、いわゆる規格外品ということで、とても安く手に入ったんだ。そう言われてもほとんど素人には分からないくらいだから、全然かまわないんだけどね。

ママは結構エスニック料理が好きで、テーブルの上に赤いcook bookがあるでしょ。いろいろ試して、美味しい料理を作ってくれたよ。パパとママは貧乏だったから、ロンドンといってもそんなに高級なレストランとかは縁がなかったのだけど、よくふたりで、あるいは友だちと一緒に外食したよ。イギリス料理ってのは、フィッシュ&チップスか、せいぜいローストビーフくらいでたいしたことないんだ。(イギリスの家庭料理は美味しいらしいけど)。だから外で美味しいものを安く食べようとしたら、チャイニーズかインド料理だったんだ。ロンドンの中心部に行くと、Sohoというところに大きな中華街があってね。そこによく食べに行ったよ。インド料理屋はロンドン到る所にあってね。インドからの移民が多いから。中でも、うちの近くにMonty'sというネパール料理屋さんがあったんだ。ネパールといったって、パパ達にはインドと区別はつかなかったけど。パパとママの友だちに、マリコ&ロジャーという夫婦がいてね。マリコさんは、日本のけっこういいとこのお嬢さんなんだけど、イギリスに留学してロジャーにつかまっちゃって。ロジャーは、一見変わった風来坊というか、世界をずっと旅していてい、やっと落ち着いてマリコと結婚したという感じで、職場もヒースロー空港の旅客案内人なんだ(いつでも飛び立てるように?)。妙な組み合わせの夫婦なんだけど、結構ママとパパと意気投合してね。よく、Monty'sで4人で会食したよ。

時間があってゆっくり楽しみたい時は、食事の前にパブに行くんだ。イギリスのパブは良いよ。パブってどういう意味だか知ってる?Public Houseの略でパブ(Pub)というんだ。つまり、もともとは、近所の人たちが集まる公共の場所という意味なんだけど、今では居酒屋という意味みたいに使われているけどね。みんな、立ち飲みなんだよ。日本みたいにいろんなつまみとか料理があるわけでもなく、たいていママはハーフパイント(250ccくらい)のビールか、グラスワインだったかな。パパはパイント(500cc)のビールだったね。ビールと言っても3種類あって、日本と同じようなラガーと、エール、それに黒ビール(ギネス)だね。どれも美味しかったけど、ラガーにライムジュースを入れるやつとか、ギネスは最高だよ。ビールを片手にお話ししながら立ち飲みして、ほろ酔い加減になったら、場所を変えて食事をするという風だね。

Sunday, March 1, 2009

スペシャル仏壇

優子

浅草の仏具屋さんに行ってきたよ。こんな店に足を踏み入れたのは初めてだ。
仏壇がこんなで、位牌がこんなで、リンがこんなだよ。
素敵だろ!
優子の葬式はスペシャルにしたから、仏壇もスペシャルにしたぞ。
優子はどうでもいいだろうけど、僕の気が済まないもので。
仏壇といっても、『仏』ではないので、線香は使わず、アロマ関係とかお香とか、素敵なのにしたいのだけど、さすがに仏具屋にはなかったね。どこで求めればいいのだろう?

夕方は、写真の整理をしたよ。押入れの奥から乱雑なまま出るわ出るわ。ずいぶん写真を撮りためたものだね。ここの5-6年はほとんどデジカメになったからPCで扱えるけど、それまでのやつはどう整理しよう?

こういうのも、正に喪の作業だよな。
焦らず少しずつ進めているものの、いろいろあって大変だよ。納骨に、銀行口座や遺産の整理など。衣類は全く手をつけていない。
以前に比べれば、だいぶ平常心でいられるようになったけど、辛いね。
なんで、位牌や墓石の年齢が「四十五歳」なんだよ!
七十や八十ならまだ許せるけど...
仏具屋の帰り道、ひとり涙が伝わってきた。