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Friday, February 27, 2009

嬉しいニュース

チュケ!

本当におめでとう!!
よっぽどパパ自身が高校に受かったときより嬉しかったよ。
ママが死んでから初めて、心から嬉しい!と思ったよ。
ちゅけが一番行きたいと願っていた高校だね。中2の三者面談で、チュケがこの学校のことを言うと、担任の先生はちょっと首を傾げていたけど、3年生になってから、本当によくがんばった。君の15年間の人生の中で、一番の快挙だよ。これから試練の階段はいくつも出てくるけど、初めの一段を見事クリアできて、パパは感無量だよ。ママも天国から、とても喜んでいるよ!!

すでにパパの身長を追い越した君が、15年前どうやって生まれてきたか、話してあげよう。そんな覚えてもいない昔話をされるのは、君にとって迷惑だろうが、パパにとっては、今の君も15年前の君も、一緒なんだ。今でも、パパが初めてパパになった記念すべき瞬間は、はっきりと覚えているよ。

それは、君が生まれる2日前だったよ。朝、ママの身体からおしるしが出て、いよいよかなと期待していたら、夕方になってママはかすかな痛みを感じ始めたんだ。君が出たいと、ママのおなかを押し始めたんだね。夜半過ぎに痛みが10分間隔くらいになってきたので、病院に電話して、このまま待って朝になって病院に来てもいいけど、どうせ眠れそうもないからと、午前3時くらいにパパが車を運転して、ママを病院に連れて行ったんだ。先生に診察してもらったけど、まだだいぶかかりますね、と言われたので、パパはいったん家に戻って、翌朝、仕事場にちょっと顔を出して、落ち着かないから、お昼過ぎに病院に駆け付けたよ。それが、誕生の前日なんだ。
 ママは痛くて眠れず、ずっと起きていたけど、君はなかなか出てこない。夜12時の診察でも、まだですねえ、、、という先生の言葉。パパは、君が生まれるまでずっとママのそばにいたかったのだけど、看護師さんが、ご主人がいてもしかたがないから、どうぞお帰りくださいと言われちゃった。パパは、イヤ、妻と一緒にいます、とも言えず、しぶしぶ家に帰って、次の日の朝、また病院に駆けつけたよ。パパもあまり眠れなかったけど、ママは痛みで眠れるどころではなく、憔悴しきっていたよ。パパはママのそばに居ても、背中をさすってやるくらいしかできないんだ。痛みが強まると、「もう、殺して~」なんて叫んだり、他の妊婦さんはママより後に病院に入ってきて、お先にお産しちゃったりするので、看護師さんは私の所に来てくれないなんてひがんだり、とにかく苦しそうだった。もう二度とお産なんかしないから、とママは言っていたよ(笑)。先生も、しかたがないからお産を早めましょうと、子宮口を開く治療をしてくれて、陣痛が始まってからまる二日間かかって、ようやく陣痛室から分娩室に入れたよ。
 となりの分娩室に入った後は早かったね。陣痛がいよいよ強くなってきて、いきみたいのを我慢しなさいって言われ、ヒッヒッ、ハーという呼吸を、パパもママの横で一緒にヒッヒッ、ハーとやって、ひっしに逃した。君の頭の黒い髪がママのおなかからようやく見え始め、最後の2-3回、はーい、いきんで、いきんで~と言われ、ママが思いっきりいきむと、君がするっと出てきたよ。さあ、早く息をしてくれと、かたずをのむ5-6秒が2-3分のように感じられ、ようやくオギャーと泣いたときは、ママもパパも泣いたよ。ホント、よかった!!ママも、それまでの痛みと苦しみを忘れちゃって、とてもうれしそうだった。ママは本当によくがんばったよ。君も必至に出てこようと、がんばったのだよね。
 夜の10時だった。分娩室の外で待っていたママのご両親も、飛び上がって喜び、病棟の電話でパパの両親に「いや~、男の子ですよ~!」と大声で話すものだから、看護師さんが静かにしてください!って飛んできたりしてね。
 君が出てきて、ママは後産とか、処置とかあるから、ご主人は、となりの赤ちゃんの所に居てあげてください。退院するまで、赤ちゃんと一緒に居れるのは今だけですから、と言われ、隣の部屋に行ったら、暖かいベビーウォーマーの中に、ちぢこまって裸の君がいたよ。まだ名前を付けてないから、何とも呼べなかったけど、ほら、君のお父さんだからね。君をしっかり育てていくよ、って心の中で誓ったのを覚えているよ。パパが初めてパパになった瞬間。ママに感謝して、出てきてくれた君を見つめていたほんの2-3分の時間は、15年たった今でも、これからもずっと、パパの心に焼き付いているよ。

 手のひらに収まるくらいのサイズだったそんな君が、今はパパの背丈を追い抜かし、高校生になるんだね!
 3人の子どもたちが、こうして成長していく喜びを、ママと一緒に楽しもうと思っていたのだけどね。しかたがないから、パパがしっかり見守っていくよ。

Wednesday, February 25, 2009

優子の心臓は永遠に!

X-ファイルからまた優子のお宝を見つけちゃった。

主治医の先生が優子の心臓の病気のことを書いた論文が出てきたんだ。当時、見せてもらったけどね。
ふたつあって、

Ishiwata, S., Nishiyama, S., et al. Coronary artery disease and internal mammary artery aneurysms in a young woman: A possible sequelae of Kawasaki disease. American Heart Journal 120 (2); 213-217, 1990.
これは、優子の一例報告。優子の心臓のボコボコの写真、つまり冠動脈がブドウの房状に動脈瘤が連発している写真がついてるよ。

Ishiwata, S., Fuse, K., et al, Adult coronary artery disease secondary to Kawasaki disease in childhood. American Journal of Cardionogly vol. 69: pp692-694, March 1, 1992.
こっちは、子どもの頃の川崎病によって、大人になってから冠動脈の病気を引き起こした5例の紹介。優子もそのひとつだね。

学術論文は、世界のどこからでも引っ張り出すことができるし、永久保存だ。
これで、優子の心臓は永久に生き続けるぞ!

木山さんin夫婦子育てサロン

優子、

木山さんが新しいアルバムを送ってくれたよ。
このブログにも来てくれてるって。

僕の研究グループが、子育て支援活動の一環として、大学の近所の人を集めてやっている夫婦子育てサロンに、木山夫妻もずっと前から参加してくれるよね。優子も一度、参加したし。子育て中の夫婦が10人前後カップルで集まって、子育てとか家族のことを話し合うんだ。母親どうしで子育てのことを話し合うってのは、よくやってるけど、そこにお父さんも参加するのが、このグループのミソだよね。はじめは、熱心な妻が、気乗りしない夫をひっぱってくるパターンが多いけど、参加していくうちにお父さんたちがだんだんと変っていくのがよくわかるんだ。4人の子どもを連れて、たいてい遅刻して、夫婦でやってきた木山さんたちはどうだったんだろうか?奥さん、けっこう熱心だからなあ。

だから木山さんが、我が家のビックニュース!歌スタに出るんだと話し始めた時は、
まあ、がんばってください。今のうちにサインもらったら、将来高く売れるかな
なんて、全く冗談で言っていたことが、Dream comes true!
あっというまに紅白に出て、メジャーになっちゃった。

木山さんの歌は、家族の愛がいっぱい。友だちとして、家族みんなをよく知っているだけに、アルバムを聴けば、情景がストンと心に入っていくよ。
ヒット曲homeは、優子の葬式中流していたので、僕らにとって悲しい曲になっちゃった。
あと、アルバムに入っていた二つの曲
ふたりでお茶して、帰ってきたら子どもたちが出迎える情景
心が震えながらプロポーズする情景。
どうしても、優子と僕の情景とクロスさせてしまい、自然に涙があふれてくるよ。
木山さんが歌で、僕がブログで、表現しようとしているのは、家族の深い愛情・かけがえのなさだよね。
こう言ってしまったら、あたりまえのお題目のようで迫力なくなるけど、
歌にしたり、家族を亡くしてみると、そのことがすごく実感として迫ってくる。
本当に切なくなるなあ。

ターニング・ポイント

優子

先日、西の魔女と二回目のカウンセリング、それにMKPの男連中とも会ってきたんだ。
英語でしゃべると、伝えにくい部分もあるけど、かえって客観的に自分のことを表現できたりするよ。
前回、西魔女に会った時はまだホント悲しくてボロボロだったけど、今回はだいぶ良くなったと言ったら、まだまだ僕はナマrawだって。
そりゃあそうだよな、優子が消えて、まだ2ヵ月経っていないもん。良くなったつもりでも、まだまだ傷は深いんだろうなあ。気長にやっていくしかないみたい。

彼女と話していて、ふたりの自分がいることに気づいたよ。
・前に進もうとする自分と、
・留まろうとする自分。
それを、魔女はextrovert(外向性)/introvert(内向性)と呼んでいた。
僕は、よっぽど外向きな人間なんだと思う。50年間、ずっとそうやって生きてきた。
だから、優子を失っても、落ち込むことはせずに、必死に悲しんで、喪の作業を進めているってかんじ。
心の危機に直面して、普段の性向がますます顕在化したように思うよ。

つくづく自分でも思うよ。こんな時に、なぜこんなに動いちゃうんだろうって。
悲報直後から保育園のみんなに部屋いっぱいに来てもらって、
その後も、たくさんの人が来てくれて、
お葬式の長い挨拶の文章を作って、
二週間後の授業で泣きながら妻の死をしゃべって、
できる限りの機会を作っては、悲しみ、泣きまくっている。
動かずにいられないんだ。落ち込むのが怖いのかもしれない。
喪の作業を進めるという心理学の定石からすれば、それは望ましいことなのかもしれないけど、
やみくもに外向性が強ければ良いというわけでもなさそうだ。

外向きと内向きのバランスが大切だって西の魔女は言ってたよ。
エクストロは広く、外に向かい、
ントロは深く、内に向かう。
家族療法はエクストロで、個人精神分析はイントロなんだって。なるほどね。これで、僕が家族療法にはまったわけがわかったよ。

優子と僕は両極に位置して、ふたりでバランスを取っていたと思う。
僕は大人数のパーティーを、優子は少人数の深い友を好み、
僕はアウトドア、優子はインドア、
僕はオーケストラ、優子は室内楽、
僕は海外に出て国際会議で発表し、優子は箱入り娘(会議通訳のブースだって)で、じっくり通訳。
結婚する前から、その差はあったけど、ふたりで生活し始めると、遠心力が働いて両者の差異が大きくなってきたみたい。僕が外向きを引き受けて、優子が内向きを引き受けるような。

優子がいなくなり、バランスが崩れたから、イントロな自分自身を開発しなくっちゃ!!
対人関係では、広げるばかりではなく、深めることを新しく会得する時期が来たみたい。
エクストロな自分は、優子を失った穴を埋めるために、新しいパートナーを求めたい、なんて実は考えていたんだ。でも、魔女にもMKPにも言われたよ。あまりに早すぎるって。ナマの傷口がふさがっていないのに、新しいグラフトを移植できるはずがない。埋めようとしたって拒絶反応が起きると、理屈ではわかっているはずなのにね。

優子が2-3年前、冗談っぽく言っていたよね。「私が先に死んだら、祐馬ちゃんが許したなら、再婚してもいいよ」って。優子も自分の命の限界を何となく感じていたの?でも、こんなに早くそれが来るとは思いもしなかったよ。でも、確かにそれは当たってるかも。子どもたちが成長し、それを受け入れられるようになる時期まで待つくらいが、ちょうど良い潮時なのかも。

それにしても、今、急に打ち抜かれた風穴はスースーさびしすぎて、身に沁みるよ。どうにか手当てをしたい。じゃあ、外に向けて新しい関係を作るのではなく、今の関係を深めたらいいかも。
今、いる友だちと、ゆっくり、じっくり、深く語りたい。そのひとつがMKPの仲間なんだ。

それと、残された家族との関係を深めよう。
祐馬は難しいよ。
僕の気持ちがちょっと離れると、父親を求めてくる。それを受けて近づこうとすると反発してくる。
まあ、それは多感な思春期の特徴でもあるのだが。怒らず、あきらめず、彼女が心地よい距離から、温かくそばに居てあげたい。

仕事もそうだな。
前から思っていたんだ。50歳は人生のターニング・ポイントだって。
今までの右肩上がりの上昇志向的ライフスタイルから、山を降りてクールダウンしていくライフスタイルへ。
前者の僕は、
仕事をいっぱい詰め込み、
たくさんの人々に会い、
学会で発表して業績を積み上げ、
自分の領土を広げていくような仕事の仕方だった。

後者を選ぶなら、
仕事を選び、
今までの仕事を文章に落としていく作業。研究業績を上げるための専門誌への論文ではなく、広く一般向けの本を著わすとか。
前者の価値観だと、一般書より専門書を目指せみたいな感じだけど、後者なら、質の高い一般書を目指すのも良いかも。

前者なら、新しい知識を求め、それを人々に広げていくような研究活動。
後者なら、少数の人とじっくり向き合い、深めてゆく中で、私が何かのお役にたてるような臨床活動。

優子の死で、僕の生き方もこれから大きく変わるよ。

Monday, February 23, 2009

子どもたちの愛着対象

優子

今日は、子どもたちのことを考えてみよう。
3人とも、とりあえず元気にはやっているんだ。
ちゅけは今日が最後の高校入試。電車の事故で2時間遅れの開始だったけど、元気に受けてきたよ。
祐馬は水泳も行っているし、学校でも元気そうだ。ピアノの方はあまりやる気がしないとか言ってたけど。
じんは、半分以上じじばばのところが生活の場になって、それなりに安定しているとは思う。最近、体操を始めたいというので、池上スポーツクラブに体験入学させたら、やりたいとか言っている。まあ、新しいことを始めるだけの元気があると考えていいだろう。
このように、祖父母やまわりの友だちに支えられ、日常生活的にはなんとかなってはいるけど、ホントに大丈夫なのかな?

もし僕が、子どもたちの年齢で親を失ったら、、、と想像したら、恐ろしくなるよ。まだまだ、子どもたちにとって、親は絶対的な存在で、親がいるから、この世で生活できるんだ。もし、親を失ったら、自分が生きていけなくなるくらい、不安で恐ろしくなると思う。
そんな状況に、突然突き落された子どもたちの心中は、ホントのところ大混乱しているのだと思う。息子ふたりは、そぶりに見せないけど、娘は時々、サインを出してくる。それを見逃さずに、キャッチしてやることが大切だな。

子どもにとって、一番身近で大切な存在である母親。
失う時期が、もう5年早かったら、もっと大変だっただろう。今なら大丈夫というわけでは決してないけど。

Pecking order、あるいは歌のベストテンでもいいんだけど、第一位がいなくなったら、第二位が自動的に第一位になるんだよね。子どもたちが小さい頃そうだった。寝付かせる時など、子どもがママにひっついている時に、僕がやってくると、子どもに蹴飛ばされ、母子一体のexclusiveな関係が維持され、第二の親である父親はカヤの外に置かれていたわけだ。しかし、優子が仕事で遅くなったりして、いない晩は、僕が一時的に愛着対象第一位に繰り上がり、僕にひっついて寝たりしていたよ。

子どもにとって、無条件の愛情と安全が得られる心の基地としての愛着対象が必要であることは確かだよね。その役を担うのは母親でなければいけないのか、あるいは、他の人でもどうにかなるのか。
一昔前は、それは絶対的に母親であるべきで、代役じゃあいま一つ落ちるという考え方でした。昔の保育園とかひどかったし、夫婦の性役割分業が固定されていたから、外部の保育者や父親はあまり考えられなかったのでしょう。でも、今は、愛着対象の代替性が平気で言われてきているように思います。
うちの子どもたちはお誕生前から保育園に預けているからね。祐馬は園長とかつんちゃんにベタベタ甘えていたし。ふたりの息子たちはドライというか、それほどベタベタしなかったけど、保育園の先生たちが十分愛着対象として機能していたのだと思う。

それでも、子どもが小さいほど、母親の柔らかい肌のスキンシップの必要度は高いのだと思う。ゴツゴツの父親ではどうしてもかなわない面もあったと思う。
幼児期から思春期へと、直接の肌のふれあいを介した身体的な愛着から、段々と、言葉やコミュニケーションを介した心理的・精神的な愛着に変わっていくんだろうね。後者なら何とか父親でも何とか代役が務まりそうだ。それに、思春期以降親から離れ、精神的な絆を外部の友だちとか恋人に求めるようになってゆく。そういう意味で、愛着対象としての母親のニーズは、徐々に後退しつつある時期ではあったんだろう。

じんは、もう半年くらい前から、母親へのスキンシップを脱しようとしていたよね。代替として、父親には来ないで、なぜかじじのところにゆき、おじいちゃんに体の一部をひっつけて寝ている。じじの体調が悪ければ、ばばのところに行くし、夜遅くまでテレビを見たいときには、しかたなく、パパにひっついているから、彼の身体的愛着のニーズはかなり低下し、また代替的なのだと思う。あと、兄貴におんぶしたり、とびかかったり、じゃれあう触れ合いの中で愛着欲求を満たしているところもあるみたい。そういう意味では、家族の中に何人も対象となりうる人が揃っているので、どうにかなるのかもしれない。

それより、これから大切になってくるのが、精神的な愛着対象としての役割だね。幸か不幸か、祐馬は、いつもの調子で結構demandingにそれを父親にも求めてくるよ。そういうサインを出してくれるから、それにうまく答えていくことができればいいのだけど。
息子たちはそういうそぶりをあまり見せないからね。かといってそのニーズがないはずはないので、どこまでやってあげたらよいのか、いま一つわからないよ。

優子と祐馬はケンカしつつも、母親に愛着対象の役割を求めていたよね。というか、母親を差し置いて、父親を子どもたちが選んでくれるかというとそうでもなかったから、父親の僕は手を出せなかった、出しても受け入れてもらえなかったという面もあったんだ。
でも、子どもたちが愛着対象第一位を失った今は、僕のやり方によっては、うまくその役割を引き受けられるかもしれない。というか、引き受けなくちゃいけないんだ。
そのためには、子どもたちが物理的にも、心情的にも、アクセス可能な近い距離に居てあげないといけないんだ。愛着を押し付けるわけにはいかない。こちらからベタベタ寄ってきても、蹴飛ばされるか、逃げられるだけだ。

ただでさえ、不安定で、自立と依存の葛藤に悩む思春期に、チュケと祐馬はすでに入ってるし、じんも2-3年後にはそうなるだろう。感情がとても豊かというか煽情的な祐馬は結構手ごわそうだな。手こづるかもしれない。チュケとじんは、同性の強みで何となく気持ちがわかる部分もあるし、あまり入り込まず、しかししっかりと外側から見ていてやろう。

僕が、しっかり安全基地を果たせれば、そこから巣立つのもそう遠くはないだろう。僕自身の場合、親から精神的に巣立ったのは二十歳前後だったと思う。それを過ぎれば、あとは経済的な支援と、結婚式のエスコート役くらいなものだろう。
(祐馬のエスコート、オレぜったいできないよ~。きっとグショグショに泣いちゃうよ~)

Sunday, February 22, 2009

海からの風

優子

今日(昨日)は、新幹線のこだまで三河まで研修に行ってきたよ。
リゾートホテルで講演して、夕食によばれるまで時間があったので、海の眺めがきれいな露天風呂に入ったよ。すごく気持ちよかった。
高台からのすごく雄大な海の景色は感動もの。でもダメなんだよなあ、こういう場所に来ると優子が出てきちゃう。
海が好きだった優子。水平線のかなたから優子が吹いてくるんじゃないかって。目を凝らして探してしまったよ。でもはっきりは肌に感じられなかった。
ダメだよね、他のお客さんがいるような露天風呂じゃあ。

Friday, February 20, 2009

カナダのジャグジー事件


優子

明日は年休取ったんだ。だから、今晩はちょっと夜更かししようかな。

昨日、直子さんがメールをくれたよ。
数日前、親戚の人が優子のお葬式のことが新聞に載ってるよ、とコピーを送ってきてくれたんだ。
直子さんがコラムに優子のことを書いてくれて、とても嬉しかったから手紙を出したんだ。そしたら、返事をくれて、彼女のブログにも優子のこと書いてくれてるって、教えてくれたよ。このブログにも来てくれているんだって。東直子さんのことは歌集も何冊か送ってくれるし、優子から話を聞いていたけど、お会いしたのはお葬式が初めてだったんだ。ほんのちょっとの会話だったけど、会えてよかった。

それに、今日はいつもブログで応援してくれているMikiちゃんに会ってきたよ。
Mikiは、ブログを読んでると、安心するって言ってくれた。
それは、僕の心情が見えるから。その内容はとても辛いものだけど、親友としてそれが見えないととても心配になるよね。いちいち尋ねるわけにいかないし。
もう一つの安心は、Mikiなりに優子を失った喪失感を、ブログで共有できるってことなのかなと思ったよ。
ひとりぼっちで進める喪の作業は辛いからね。共有する中で進めるのは、まだ心強いんじゃないかって。
そんな話をして、僕もとても救われた気持になれたよ。
別に、僕の気持ちをわかってくれなくてもいい。そりゃ無理なことだと思う。僕自身もわからないもの。
でも、僕を見ていてくれている人がいることが、僕にとっての大きな安心につながるんだ。

そのことは、夫婦でも親子でも通じるんじゃないかな。
夫婦だったら愛情、親子だったら愛着とかいうけど。
要するに、そばに居て、自分のことを見ていてくれる、認めていてくれる。
何でもわかっている、、、。
好きとか、嫌いとかいう次元とはまた違うんだよね。一緒にいれば、当然イラついたりムカついたりもするのだけど、その根底には、一緒に居ることが大きな安心につながるというかね。
その人がいるから、自分が成り立っているみたいな。
絶対、裏切らない、どんなヘンなことがあっても逃げ出さないという信頼感なのかな。
裏切らないといったって、浮気したり、3組にひと組は離婚する時代だから、そういう可能性は十分あるはずだけど、心臓マヒで突然死んじゃうのと同じくらい、ありえない可能性として、頭の隅に置く必要もないくらいな。

少なくとも、僕は優子をそう思っていたし、子どもたちもきっと母親のことをそう思っていたんじゃないかな。だとすれば、子どもたちが失った母親への愛着を、父親である僕が十分に補ってあげなくちゃいけないんだ。そのことは、また改めてじっくり考えるとして、

4年前のカナダ旅行で起きた例のあのヘンな出来事というか、面白い話をバラしちゃうね。これは、まだバンクーバーのさっちゃんにしか話していないんだ。
とても美しいリゾート地オカナガンに川上山荘という日本人の老夫婦が経営している民宿があり、家族で2泊したとき、ある家族と一緒になったんだ。すごく陽気で社交的なカナダ人のダンナと、ちょっと暗そうな日本人の奥さん。子どもたちも同じくらいの年齢だったので、仲良くなり、一緒に遊んだり夕食を食べたりしていたんだ。そこには、日本の露天風呂的雰囲気を出すためか、大きめのジャグジーがあって、自由に入れるようになっていて、みんなで交代で入っていたんだ(もちろん水着を着て)。僕は一日中車を運転して疲れていて、美味しいワインがすぐに回ってきて早めに寝ちゃったら、夜中12時すぎだったろうか、とつぜん、その奥さんが部屋にやってきて「私のダンナがあなたの奥さんのお尻を触ってます!」と怒鳴りこんできたんだ。よく状況を飲み込めなかったのだけど、要するに、優子とそのダンナが夜遅くまでふたりでジャグジーに入っていて、お酒も入ってだんだん良い(怪しい)雰囲気になってきて、盛り上がっちゃったらしいんだ。その様子をどうやら先に寝ていた奥さんが部屋の中からこっそり観察していて、さあ、いよいよニアミス、というところで踏み込んだらしいんだ。
そんなことを知って、僕はムカつき、眠れなくなっちゃって、明け方、外に出て散歩してたら優子も同じように眠れなかったらしく、ふたりで外で話したよね。

ボク)いったいどういうつもりだったんだ!?
優子)ワインも入り、話しているうちに意気投合しちゃって、彼が私を膝の上に乗せようとしたの。
ボク)どこまでなら良いと思ったの?
優子)キスぐらいまでなら。。。。
ボク)・・・・・・
優子)でも、Tikiを裏切るとかそういうことじゃ絶対ないから。許して!
みたいに、最後は懺悔調だったよね。

翌朝、4人で話し合い、僕と奥さんが糾弾し、優子とダンナは平謝り。
奥さんは、日本が恋しくなるとここ川上山荘にきていたのに、もうここにも来れなくなっちゃった、と泣きだすし。どういう経緯か忘れちゃったけど、僕が精神科医で夫婦カウンセリングなんかもやっていると言ったら、ダンナが、我々も相談に行こう、いろいろ問題を抱えているし、という話になり、奥さんは、絶対そんなことやらない、私を気狂い扱いしないで!と怒りだしたんだ。
そのあたりから、はは~ん、そういうわけねと少し見えてきて、僕のムカつきも収まってきて。帰る頃には、ダンナと連絡先を交換して、また会おうねみたいなノリだったんだけど、さすがにそれはできずに帰っちゃったよね。あの夫婦、今頃どうしているんだろう?

その後は、何事もなかったように、また家族旅行の楽しみを継続して。次の日は祐馬のリクエストで乗馬したんだけど(上の写真)、優子は寝不足でフラフラだったよね。お疲れさまでした。
そして、その二日後が右上の写真です。

Tuesday, February 17, 2009

優子を失った痛みの一考察

優子

なんか、ここのところようやく痛みが少し和らいできたみたい。
今までは、痛くて、痛くて、どうやって痛みを逃がそうかと必死だったんだけど、ここ2-3日はそうでもなくなったよ。そしたら、疑問がわいてきたんだ。

前からちょっと考えていたんだけど、優子を失った痛みって、どれくらいの大きさなんだろうってこと。
人ごとだとわかるんだけどね。
たとえば、僕の祖父は、若くして祖母(妻)と死別して、その後、90歳まで長生きしたんだ。でも、まわりから「おじいちゃんは、とても寂しかったんだよ」とよく聞かされ、子どもなりに、そりゃそうだろうなとは想像していたよ。といっても、祖母は享年55歳だったんだ。優子はそれよ10歳若いのだから、僕は祖父よりもっと寂しいわけ?まわりからそう見られているわけ?

優子 「あなた、精神科医でしょ。それくらいわからないの?」

わからないねえ、さっぱり。
人のことはわかったつもりで医者やってるけど、自分のことはさっぱりわからないんだ。

でも、専門家だし、ちょっと考えてみるね。
夫婦は空気みたいな存在とかよく言うし、優子を失って、身体の一部を失った感じ、身体を引き裂かれる思い、みたいな言い方がしっくりくるんだ。
じゃあ、その存在している時は意識する必要がないほど深くひっついているモノって、いったい何なの?

★生活面での依存?
優子がいないと、生活が成り立たない=つまりメシを作ってくれる人がいないとか、家事が成り立たないとかいう夫婦もいると思うんだけど、僕の場合はそれは大丈夫かな。僕自身ある程度はできるし、おばあちゃんとか、周りの人がたくさんサポートしてくれているから、生活はどうにか回っているんだ。

★子どもを産み育てること?
子どもを作らないカップルも多いけど、我々は作ったわけで、僕にとって子どもたちは正に生きがいだからね。優子のおかげで3人も作ることができたんだよね。その体験は最高に大きいはずだ。まだ子育ては途中なので、急に母親に消えられてしまってはとても困る。
でも、ちゅけが15歳、じんが10歳だから、まだ何とかなる可能性もあるかな。もし、優子に5年くらい前に死なれちゃったら、もっと大変だったと思う。
だからといって、今、これから僕が父親としてがんばったとしても、母親なしで子どもたちをうまく育てられるかというと、そう簡単ではない。この問題はとても重要だから、後でまたじっくり考えてみるよ。

★スキンシップ?
Sexualityってのは、やはり理屈抜きで深く結びつけるものだよね。特に若い頃、それが子ども作りと結びついていた頃は、とても重要だったし、身体レベルで深く深く結びついていたと思う。そうやってお互い身体の一部になっていったんだ。
でも、子どもたちが成長した今は、前に比べればそれほど重要ではなくなったよね。欲求がなくなったわけではないけど、若い時ほどではないし。
でも、こうやって優子を失ってみると、改めてスキンシップがとても懐かしく、それを失ったことがたまらなく寂しくなったりするんだけどね。

★心理的な愛着
やっぱりこれが一番大きいよ。
20年間、心も身体も生活も何もかも共有して、さらけ出してきたわけじゃない!子育てして、ケンカもたくさんして、いろんな苦楽を共にして、その結果、僕のことは優子が一番(いい意味でも、悪い意味でも)理解してくれている。僕のことをずっと見ていてくれる人であったし、僕の存在を支えてくれる人だったんだ。
人は、ひとりでは生きられないでしょ!?だれか、見ていて、認めてくれる人が必要なんだ。それは、親であったり、家族であったり、神様であったり、友だちだったり、同僚であったり、授業の学生たちだったり、いろんなケースがあるけど、やはり、優子が圧倒的に大きな存在だった。
その優子を急に失っちゃったわけだから、僕の存在自体が危機にひんしているといっても大げさではない。このことが、やはり一番痛いのだと思うよ。



じゃあ、僕はどれくらい痛いわけ?
パートナーを失うなんて、ありふれたことでしょ。ずっと連れ添えば、確率二分の一で経験するわけだからね。みんな、僕と同じように痛みを経験するのかなあ?

痛みは主観的な体験だから、比較できないとエニオは言っていたし、確かにそうだと思う。
痛みの大きさを、それが引き起こす結果によって推し量ることができるの?
身体が傷ついたら、血が出たり、腫れたり、骨が折れたりするでしょ。たくさん血が出たら、それだけ傷を与えた外力も大きかったということ?
でも、同じ外力でも、人によって感じる痛みは違うから、話は単純じゃないはずだ。
僕はお葬式で、テンション高く、みんなと談笑してたよね。ちょっとだけ泣いたけど。
参列した人は、それがとても痛々しかった、僕がもっと暗く、沈んでいたほうが気が楽だったと言っていたよ。
僕もそう思う。再起不能なほど落ち込み、仕事もなにもできなくなれば、それだけ僕の痛みが大きいんだということを証明できるからね。
ところが、あいにく、食欲もあるし、夜は眠れるようになったし、仕事もちゃんと(表面的であるにせよ)できちゃっているんだ。ということは、優子を失った影響はそれほど大きくなかったってことなの?
そんなはずないし...
だから、自分でもよくわからなくなるんだ。

僕自身の痛みって、どう推し量ればいいの?
・優子が死ぬにはまだ若かったから?
もし、優子との別れが30年後だったら、この痛みは違っていたのだろうか。
80歳になり、子どもたちが巣立ち、人生をやり終えたら、もっと楽に優子を見送れたのだろうか?
80歳なら、優子の死はもっと自然なこととして受け入れられたのだろうか?
でも、50年も連れ添ったら、優子は今以上にもっと深く僕の身体の一部になっていたんじゃないかな?

では、逆に、結婚後3年間で優子を失ったら?
一緒にいた年月が短ければ、痛みも軽くてすむのかな?
でも、その頃はもっと若い情熱で優子を求めていたはずだし....

・子どもがいたから?
10年前に夫を失ったはっちゃんは、子どもがいなかったから、Tikiの痛みとはまた違うだろうと言っていたよ。
確かに、母親なしで子どもたちをどう養っていくのだろう...という不安と重圧はある。
でも、逆に、子どもたちが僕を癒してくれる面もあるんだ。
今、遊馬がソファの座り、ぴったり僕に身体をひっつけてテレビを見ているんだ(笑)。
ママちゃんがいたら、絶対こんなことはなかったしね。

・死に方は?
僕は、何の予期も、心の準備もなく、突然優子を失ったよ。そういう失い方は、傷が深いの?
河辺さんは、辛い闘病生活の末、夫をガンで失ったんだ。
それは、とても辛かったけど、時間をかけて喪の仕事を始めることができたみたい。
そういう意味では、僕は、突然、何の前触れもなく喪の仕事を始めなければならい。ツケを後回しにした感じだよ。
あるいは、もし自殺だったらどうなんだろう?あるいは、交通事故だったら?
かっしーは父親を自殺で失ったんだ。その痛みは凄いと思う。もし優子が自殺だったら、なぜ僕がそれを食い止められなかったか、罪悪感で押しつぶされると思う。
もし、交通事故だったら、加害者への怒りがものすごくなるだろう。そういう意味で、だれにも怒りを向ける必要がない分だけ、まだマシなんだろうか?よくわからない。

・失恋や離婚とどう違うの?
愛する人を失うという意味では、似ているはずだよね。
振られる立場は、相手が関係を断ち切ろうとするわけだから、自分の思い込みは一人芝居だったとバカバカしくなり、相手に怒りをぶつけることもできる。
振る立場は、自らの意思で相手を切るわけだから、悲しみは少ない?
僕の経験では決してそんなことないし。
関係を切る場合でも、愛着がなくなるわけではない。愛と憎しみのアンビバレンスの中での決断だから、別れを告げるのも辛い。それに、相手に与えた辛さを考えると、もっと辛くなる。
ひろし君も、離婚だって辛いぞ!とさかんに言っていたしね。

・パートナーではなく、他の家族や親友を失う場合と違うの?
老いた親を失うのは自然の摂理とよく言うが、そう単純ではないだろう。
済んだ関係だとしても、以前は身体の一部だったはずだ。身体の一部を失う喪失感はきっとあるんだろうな。幸か不幸か僕はまだ親を失っていないから体験していないけど。

じゃあ、友だちの場合は?
こんど、りかちゃんと会うことにしたんだ。そりゃあ、一緒にいた時間の長さは違っても、家族とはまた違う、深い結びつきだってあるはずだ。特に若い頃は。
分量は違っても、優子を失った痛みは共通しているんじゃないかなと思ってね。

とまあ、こんな風にいろいろ考えてみたところで、結局、自分の痛みの深さはわからないままなんだ。

こんなこと書いているから、仕事の原稿書く時間がなくなっちゃったよ。

Sunday, February 15, 2009

ロンドン時代

優子

今日も休日チャリ通勤。
優子多摩サイは小春日和。人もたくさん出ていて、風がすごく気持ち良かったよ。

今朝は、夢の中に出てきてくれてありがとう。
優子と二人だけで会話しているんだ。
「僕さあ、恥ずかしいんだけど、2週間くらいずっと優子が死んだ夢を見ていてさ。すっごくつらかったよ。」
優子は「あら、なに言ってるのよ。」と、何か嬉しそうだったよね。

夢から覚めたら、辛かった(涙)。
はやく、この『夢』から覚めて、あの「夢」に戻りたい。

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子どもたち。

それで、昨日の話の続きだけどね、
パパとママの新婚生活は、今みんなで住んでるお家の場所だけど、前の古いお家で始まったんだ。それは、おじいちゃんが若い頃、田舎から出てきたときに建てて、パパが生まれ育ったうちなんだ。だから、パパは全然違和感なかったけど、ママにしてみれば、パパの実家に間借りしているようで、落ちつかなったんじゃないかな。でも、そこにいたのはわずか1年足らずで、翌年の秋から3年間のロンドン生活が始まったんだ。

パパは、高校時代のアメリカ留学がすっごく楽しかったものだから、また海外で生活したくて、いろいろ虎視眈眈とその機会をうかがっていたんだ。JASC青年の船に参加したのもそういう流れがあったんだ。結婚したとき、パパは医者になって5年目だったから、だいたい一通りのことはできるようになって、もっと勉強したいなと思ったの。ちょうど日本でも家族療法というのが始まったばかりで、これは面白そうだ、でも日本では本格的な勉強はできないので、どうしようかたと思っていた時、イギリスからRobin Skynnerさんという有名な家族療法家が来日したので、懇親会の時、思い切って、パパの希望を伝えたんだ。そしたら、スキナーさんは、私の所に来て勉強したらいいよと言ってくれたんだ。結婚して、2ヶ月後、British Councilから奨学金をもらえる知らせが来て、ママもパパも喜んだよ。ママは、半分英語人みたいなもんだから、イギリスに行くことは大賛成で、それまで勤めていた銀行を2年半で退職して、ロンドンに行くことになったんだ。

パパがひとりで先に行って、住むところとか見つけてから、ママは2ヵ月遅れでロンドンに行ったんだよ。ママが来るまで、パパはとても大変だったんだ。まだ、来たばかりだから知り合いもほとんどいないし、イギリスの英語はチンプンカンプンだし、ひとりぼっちで辛くてね。時間が余ったら近くの市民プールに行って、ひとり泳いでいたんだ。ママへの手紙に、
最近、潜水で50m泳げるようになったんだ。最後の方は苦しくなって、ゴールの壁めがけて必至に泳いでいる。優子が来るまで、水中に潜っている感じ。優子がやってくるゴールまであと○日。それまで頑張るしかないよ。
というようなことを書いたら、ママは喜んでいたよ。

結婚した翌年からの三年間をふたりで海外で過ごしたのは、その後の家族の基礎を作る上で、とても大切だったと思う。よくケンカしてね。その原因は何だか忘れちゃったけど。もう離婚するしかないかななんて、マジで考えたことも一時的にあったかもしれない。でも、親や友達など、まわりに相談できる人もいなくて、どうにかしてふたりで解決しなくちゃならなかったからね。小さなフラット(アパートのこと)で過ごしたママとパパの生活は、今から思えばとても懐かしいよ。

パパがBritish Councilからもらっていた奨学金は1年間限りだったんだ。でも、1年ってすぐ経っちゃって、やっとイギリスの英語に慣れたくらいだったから、パパが当初目標にしていた勉強はまだまだ達成できてない、今、帰ったら中途半端に終わっちゃうと思ったんだ。そしたら、ママが助けてくれてね。当時、まだバブル経済が絶好調だったから、日本企業のロンドン支店とかが、結構現地社員を募集していたんだ。それで、ママが金融関係の会社に就職してくれたんだ。パパもトヨタ財団から研究助成を受けたりしたけど、基本的にはママが稼ぎ手で、パパが大学院生。後半の2年間、パパはママのヒモだったんだよ。

パパは勉強、ママは仕事で忙しく、苦労も多かったけど、基本的にはとても楽しい生活だったよ。
友だちも、少しずつ出来てきたんだ。パパが一番初めに友だちになったのは、北海道のタケシ先生だよ。まだママが来る前、パパがひとりで寂しかったころ、タケシ先生がお家に呼んでくれたり、一緒にテニスしたりしてね。先生はすでに3年間くらいイギリスに留学していたからいろんなことを教えてもらったりして。知り合ってから4ヵ月くらいで先に帰国しちゃったんだけど、現在に至るまでずっと付き合いが続いているのは、スキーとか一緒に行ってるから、子どもたちもよく知っているよね。ここ数年は、タケシ先生とパパより、むしろ奥さん同士が仲良くなっちゃったみたいだったね。ママのお葬式の時は、北海道からわざわざご夫婦で駆け付けてくれてね。パパはとても悲しく、嬉しかったよ。

あとは、留学生仲間と結構親しくなったんだ。パパたちも、イギリスではガイジンだったからね。出身国は違っても、ガイジン同士の人が何故か親しくなるんだよ。特に南米からの人なんか陽気で、ママもひっくるめて良い友達になったよ。
一方のイギリス人って、何かマジメというか、とっつきにくいところがあってね。本当はきっとシャイな人が多いんだろうけど。始めのころはなかなか親しい人ができなくてね。

でも、時間が経るにつれて段々と親しくなっていったんだ。
パパは日本のいのちの電話で活動してるでしょ。ロンドンでもいのちの電話があって、サマリタンズ(Samaritans)というのだけど、外国に住んでいる日本人で、心の悩みとかで苦しんでいる人たちのために何かできないかなと思って、日本語ラインを作ったんだ。初めはパパだけが活動してたんだけど、そのうちママもやってみようかなと参加するようになってね。夫婦で仲良くボランティア相談員として活動していたんだよ。そうすると、ボランティア仲間が結構親しくなって、イギリスの人とも仲良くなったんだ。ソーホーっていうロンドンの中心の劇場なんかがたくさんあるところで活動していたから、役者さんなんかも結構仲間でいてね。そのひとりがゲイだったんだ。ふつう、ゲイとかホモとか、少し引いちゃうけど、イギリスではそんな人たくさんいたし、とてもいいヤツだったから、パパもママも、偏見なく友達になれたんだよ。

あと、イギリスで良かったのは、世代の差があまりないんだ。チャッド・バラさんというチョー有名な人がいて、世界中で初めていのちの電話を考えて作った人なんだ。つい先日90歳で亡くなったんだけど、パパやママよりずっと年上だし、偉い人だから、日本だったらそんな人と親しくなれないでしょ。でも、チャッドはとても気さくで、日本から来た若造のパパやママにもとても親しくしてくれて、時間をとっていろいろ話したり、一緒にご飯を食べたりしたんだ。
そういう雰囲気は、他にもあって、パパの留学のきっかけを作ってくれたRobin Skynnerさんとも親しくなったんだよ。何度もお家に呼んでくれて、会食したんだ。
一番初め、お家に行った時は、奥さんがいて、ふつうにしていたけど、ガンに侵されてるんだって平気な顔で言うんだよ。その後、奥さんは亡くなられて、しばらくしてから(2年後くらいかな)、新しいお家にママと一緒に訪ねたら、若い、新しい彼女が一緒にいたんだ。えっ、もう新しいパートナーがいるの!?って、ちょっとびっくりしたけど、とても幸せそうだったよ。そのあたり、とても自由な生き方をしているんだろうね。パパもそうなってもいい?
イギリスの人はあまりお魚を食べないのだけど、日本人だからお魚好きだろうって、美味しいサーモンをご馳走してくれたのを、今でもよく覚えているよ。

明日は、ママとパパが過ごしたロンドンのお気に入りの場所を紹介するね。なんか、観光案内みたいになっちゃうかもしれないけど。

Friday, February 13, 2009

ママの病気のこと

子どもたち。

昨日、書いたようにして、ママとパパはめでたく、幸せに結婚したんだよ。
シンデレラみたいなおとぎ話では、結婚するまでに困難とか戦いとかいろんなことがあって、最後は、
ふたりはついに結ばれ、ずっと幸せに暮らしました(happily ever after)!ちゃん、ちゃん。
で終わるでしょ。
でも、本当の結婚というのは、そうじゃなくて、結婚してからの方が大変なんだよ。
ママとパパも3年くらい付き合っている間にも、辛いこととかあったし、それに負けないくらいお互いに好きだったけど、結婚した後で振り返ってみると、それはごく表面的なことだったと思うよ。
結婚したら、ずっといっしょに生活を共にするし、お互いの親戚や友だちとの付き合いもたくさんでてきて、もっともっと、辛いことや大変なことが出てくるんだ。そうすると、もうイヤになっちゃって、離婚しちゃう人たちもたくさんいるし、離婚までいかなくても、もう家族のことは大変だからあまり深く関わらないで、お金だけ稼いでいようというような男の人もけっこういるんだ。表面的な結婚というのかな、それでもなんとなく生活できちゃう場合もあるんだよ。
でも、パパはそんな家族をたくさん見てきたので、そういうのはイヤだ、夫婦の間に辛いことがあっても真剣に向き合っていこうと思ったんだ。そうやって、ママとパパは、辛いことを乗り越えながら、本当の絆を深めていったんだよ。そうすれば、楽しいこともたくさん出てきて、本当に幸せになるんだ。
よく、結婚する前の人は、結婚したら自動的に幸せになれると勘違いしちゃうんだけど、そうじゃなくて、結婚してから、たくさん努力して、幸せをつかんでいくんだ。

そういう意味で、ママとパパが結婚してから直面した最初の大変な出来事は、ママの心臓の病気だったんだ。
振り返ってみれば、まだ付き合い始める前、JASCでアメリカに行ったとき、たしか、プリンストン大学の構内をみんなで歩いてご飯食べに行こうという時だったかな。友だちのみんなが歩いていくペースに、ママだけついていけなくて、ゆっくり歩いていたんだよ。パパは、あれどうしたの?と心配したのだけど、ママは「うん、最近ちょっと疲れていて....」というから、「ふ~ん、そうなんだ。一度、病院でちゃんと診てもらった方がいいよ。」なんて言ったことがあったんだ。
でも、その後、付き合っているときは特に疲れてもいないし、結婚前なのに、泊りがけでスキーやサイパンの海にも行ったりしたんだけどね。(ヘンなことはしてないよ!)

それで、新婚旅行でハワイに行ったんだ。本当は、ハワイなんかより、みんながあまり行かないところにしようと、フィジーを予約していたんだけど、急に内乱が始まっちゃって、間際になってハワイに行き先変更したんだ。ママは、子どもの頃行ったことあったけど、パパはハワイ初めてだったから、それでもいいかなと思って。
ワイキキに泊まり、新婚カップルっぽく屋根がないオープンのレンタカーを借りて、ドライブして、ハナウマ湾という有名な観光スポットに行ったんだ。駐車場に停めて、海岸までかなり階段を降りて、散歩したあと、また階段をたくさん昇ったんだけど、ママは途中で止まっちゃうんだよね。「あれ、どうしたの?」とパパは心配したのだけど、ママは、大丈夫とか言ってあまり気にしていなかったみたい。
新婚旅行から帰って来て、生活が始まり、ふだんは元気なんだけど、時々調子が悪くなっちゃうので、パパの大学時代の友だちに相談して、虎の門病院で精密検査してもらったんだ。はじめは、どこに異常があるのかよくわからなかったんだけど、よ~く調べてもらったら、心臓の周りの血管(冠状動脈)がブドウの房のようにボコボコに膨らんでいたり狭まっているのがわかったんだ(動脈瘤)。えっ、これなに!!って病院の先生もびっくりして、ママとパパもとてもびっくり仰天。こうなる原因として、川崎病というのが考えられると先生は言っていたよ。それは、まだ原因がよくわかっていない、小さい子どもに熱や発疹が出る病気なんだ。ふつうは大したことのない病気なんだけど、時々、心臓の血管に動脈瘤という合併症がでてくるんだ。どうも、それなんじゃないかって、先生がママのご両親に尋ねたんだけど、さあ、そんなこと覚えていませんけど、とおばあちゃんは困っていたよ。たぶん、川崎病にかかったとしても、はしかやみずぼうそうなんかと区別つきにくいから、よくわからなかったのだと思う。ママが中学生の頃、肝臓病で、2-3週間学校を休んで寝込んだことがあったんだって。それも、後から考えてたら、心臓の筋肉に小さな梗塞が起きて、肝臓病と間違えたという可能性もあったのかもしれない。
そんな話を先生から聞いて、ママのご両親は、親の責任なんでしょうか??と、とても心を痛めたけど、別に親のせいじゃなくて、防ぎようのない病気だったんだ。

で、とにかく、このままじゃまずいからと、バイパス手術をすることになったんだ。それが、結婚してから8ヶ月後のことだったよ。今から考えれば、それもすごい大手術だったと思う。何しろ、心臓をいったん止めて、太ももから取ってきた血管をつなぎ合わせるんだから。入院して手術して退院するまで1ヶ月半くらいかかったよ。術後はCCUという集中治療室にもけっこういたし。ママ死んじゃった今から振り返れば、すごい大変な病気だったんだと改めて思うけど、当時はママもパパもそんな風には考えていなくて、大変だけどどうにかなるだろうと楽観的に考えていたんだ。
手術はうまく成功して、ママは元気を取り戻したよ。要するに、血管が細くても、血液がうまく流れれば全く問題ないからね。

その後も、何度かあれっと思うときはあったんだ。イギリスに行ってからも、またちょっとおかしくなって、再手術をしたんだ。1回目のときのような胸を開く手術じゃなくて、足の動脈から細い管を入れ、コイル状の金属を細くして心臓まで送り、血管が狭まり細くなっている部分でパカッと開く、ステントという手術だったよ。今では結構さかんに行われているらしいけど、当時はまだ珍しい最新式の方法だったみたい。その時は確か一週間も入院しなかったかな。それも、うまくいって。
しかも、治療費がタダだったんだよ!イギリスにはNHS (National Health Service)といって、医療費を全部税金でまかなってくれていたんだ。しかも、ママのような外国人でも、イギリスに住んでいればその恩恵を受けられたんだ。そのシステムはタダなんだけど、ふつうすごく待たされたりしてあまり評判良くなかったんだけど、ママの場合は、特殊な病気で、お医者さんも興味があったんじゃないかな。あまり待たず、すぐにやってくれて。その点ではイギリスにすごく感謝してます。
その後も、薬はずっと飲んでいたものの、元気になっちゃえばぜんぜん問題なく、スキーやダイビング(シュノーケルだけだけど)とか、パパがアウトドア派だから、登山や自転車とかいろいろつき合わせちゃって、それでもちゃんとふつうに運動も楽しんでいたよ。子どもたちからみても、ママが病気っぽいなんてぜんぜん思わなかったでしょ!?

でも、こうやって死んじゃってから振り返れば、ママの心臓は、常に危険と隣り合わせだったのかもしれない。そんなこと、今から言ったって遅いけどね。
でも、逆に考えれば、ときどき病院に駆けつけたりしたけど、病気のせいでずっと寝込むこともなかったし、仕事もがんばっていたし。何より、君たち3人の子どもをちゃんと産んで、育てたんだから、すごく偉かったよね。ママちゃんはとてもがんばったんだ!!

これが、ママとパパが直面した辛かったことのひとつ。
でも、その時はあんまり辛いという感覚なかったけどね。

でも、そんなことばかりじゃないよ。
とても楽しく、幸せだったこともたくさんあったんだ。
次は、そんな楽しい話をしてあげるね。

結婚式

優子、おはよう。
昨日は、チャリ通勤で身体が疲れたので、10時過ぎに寝ちゃったよ。途中1回起きたけど、また寝て、起きたのが5時だから7時間の睡眠。まあ、これで十分だろう。
なんか、前と比べて優子にアクセスする頻度が減ってきたみたい。今までは、いつも心の中は優子で満ちていた。集中力とかじゃなくて、自然とそうなっちゃっていたんだ。でも、ここんところは、他のことに気が行くことが増えてきてしまったんだ。
たまっている原稿3つも、そろそろとりかからないとホントにやばいし。でも、仕事に集中できるかというと、そうでもない。まだ心が宙ぶらりんの感じだ。
その一方で、まだまだ、優子のことは忘れたくない、しっかり心の中に留めておきたい気持ちもある。まだ、優子を手放したくない。もうすこし、一緒にいたいんだ。
分裂しそうだ。困ったなあ。


子どもたち。
ママとパパがどうつきあって、結婚したか、昔の手帳を引っ張り出して整理したので教えてあげるね。後で、表を見せてあげるけど、ざっと言うと...

パパが26歳で大学院生の頃、初めて友達の結婚式に出たんだ。結婚するってことがパパの気持ちで現実的に見えてきたんだと思う。その2週間後に、初めてママと出会っているんだよね。
ママはその時二十歳の大学3年生だったんだ。その3ヶ月後の夏にJASCで4週間ママと一緒にいて、「お友達」として仲良しになって。でも、ちゃんと告白して付き合うようになったのはその1年後の夏からだよ。
その後、誕生日ディナーのデートで盛り上がったりして、付き合い始めてから4か月後に「結婚してください」ってパパがプロポーズしている。ママが大学4年生の時だね。
パパは28歳で、もういつでも結婚したいみたいな歳だったんだけど、ママはこれから就職を控える大学生で、まわりの友だちに結婚話なんてなかったし、ママちゃんにアタックしてくる男の人たちを整理したりと、いろいろあったみたいで、待たされたんだけど、約半年後に「はい、申込みをお受けします」って、結婚に同意してくれたんだ。とても嬉しかったよ。
そして、ご両家がご対面して、結婚式の会場を申し込み、結婚8か月前くらいに結納をして、、、、
結婚したのが1987年の体育の日。ママが23歳で就職2年目。パパは30歳になったばかりで、大学院を修了し、病院で働き始めて1年目の秋だったんだ。初めて出会ってから3年半だけど、ラブラブでお付き合いを始めてから2年3ヶ月後だった。

結婚式のやり方は、時代とともにとても変わるんだ。ママとパパがどうやったかというと、結婚を決めたら、パパの上司、といっても大学院の指導教授のご夫妻に挨拶に行って仲人をお願いして、神式の結婚式だったんだ。その後、同じ会場で披露宴。竹橋会館といって、結構人気のある場所だったので、1年前の申込受付開始日に、パパが朝の5時から並んで予約したんだよ。
披露宴は100人くらいの人に来てもらったかな。その人たちの多くはママのお葬式にも来てくれた。
いろいろハプニングがあってね。仲人をしてくれた教授の趣味で、前もって伝えてあったパパとママの経歴、いつどこで生まれて、どういう家族がいて、どう育って、、、ということを全部暗記して、メモを見ないで披露してくれるんだ。それは良いんだけど、とても長くて30分以上喋っていたかな。その次に挨拶をお願いしていた主賓の教授は仲人の教授と仲が悪かったので大幅遅刻したんだけど、結局、挨拶する時間には間に合っちゃったりして。なんか、あわただしい披露宴だったけど、パパの親友夫婦に司会してもらって、とても良い結婚式だった。ママのウェディングドレスは、ママのお兄さんの奥さんが使ったものだったんだ。とてもきれいだったよ。友だちが撮ってくれた写真があるでしょ。
子どもたちも、結婚式のビデオみたいでしょ。探しているんだけど、どこにあるか、まだ見つからないんだよねえ。

Wednesday, February 11, 2009

griefとmourning

優子、おはよう。

これから優子多摩サイを通って大学に出勤だ。祝日だけど卒論発表会があるんでね。
終わったら学生たちの打ち上げには参加せず、すぐ帰ってくるよ。

今、遊馬がミスチルを部屋中に流している。最近、ミスチルばっかりだよ。
優子のiPodに入っていたラフマニノフのピアノ協奏曲、いいねえ。今まであまり知らなかったけど。
なんか、音楽がビンビン僕の感性の中に入っていくよ。曲を聴くだけで泣けちゃうんだ。

優子、僕はさ~、自分で言うのも変だけど、かなり適応力はあると思うんだ。
海外に住んでも、なんとなく適応できちゃうし、今だって、抑うつ状態に陥ることなく、仕事したり、子どもたちの前で笑顔を見せながら家事をこなしたり、たくさんの人に助けを求めたりできちゃう。
でも、それがかえって良くないみたい。
表面のつじつまを合わせてしまうので、その奥にある問題が見えにくくなってしまう。
心の中が、すごく重いんだ。なんだかよくわからない塊が詰まっている感じ。
それが、悲しみなのか、喪失感か、不安か、恐れか、怒りか、よくわからない。
それをどうにかして吐き出そうとするんだけど、うまく出てこないよ。
こういう関係の本って、たくさんあるんだね。こんなにあるとは知らなかった。
何冊か買って読んでみたけど、最後まで読み進められないんだ。
体験者の話を聞いても、何か自分とは違うような気がするし。
たいていそういう本は二部構成になっていて、前半は悲しみや喪失感の様子が、後半になると、そこから立ち直っていくプロセスが書いてあったりする。前半は読めても、後半の部分まで読み進められない。

はっちゃんがくれた本、読んでみたよ。その中に書いてあったんだ。griefとmourningは違うんだって。
両方とも日本語に訳せば悲嘆・悲しみだし、英語でも同じように混同されて使われているらしい。
でも、本当の意味は、違うんだって。

Griefは、たとえば愛する人の喪失を経験した人の中に起こる反応なんだ。行動面では仕事に行けなくなるとか、家事ができなくなるとか、眠れなくなるとか。また心理面では、やる気がなくなるとか、悲しくなって涙が止まらないとか、いろいろあって。
一方、Mourningとは、その悲嘆反応(grief)を表す行動すべてなんだ。喪に服すとか、お葬式や仏壇をつくるとか、亡くなった人の話を誰かとするとか。
このふたつの何が決定的に違うかというと、griefはその人の心と体の中に詰まっているもの、つまり内側の出来事で、mourningとは、それを表現する、つまりその人から出ていく過程を表し、外側の出来事なんだ。

そういう意味じゃあ、僕はかなり重症な心の便秘症だよ。
心にでかい塊がどっさり詰まっているのに、それを出せないまま、馬力で無理やり動いちゃっている。だから、ますます出せなくなり、思い塊を引きずって毎日を過ごしているみたい。
なんか、苦しくて....

僕の昔の手帳を引っ張り出して来て、年譜を作り始めたんだ。
優子と初めて知り合ってからの出来事を時系列で並べていく。
幸い、僕も昔の手帳だけは取っておいたので、それを眺めなおしているよ。いろんなことが見えてくる。
そして、優子と僕の軌跡を子どもたちに伝えなくっちゃ。
それは、僕自身のmourning workでもある。

Monday, February 9, 2009

嫉妬妄想

優子

今日からroutine workに戻り、一週間ぶりに多摩サイ走ったよ。すると、さっそく優子が入り込んできた。
電車通勤は本か音楽、車はラジオか音楽。だけど、チャリは何もできないし、多摩サイは通い慣れ、道の穴ぼこの位置までわかってるから、道路のことを考える必要もないし、僕にとって唯一ボケっと何も考えない時間なんだ。すると、当然の如く、優子が入ってくるよ。じゃあ、優子に命名権を売ろうか。多摩サイの大田区ー府中の区間は優子多摩サイと名付けますって。春になったら優子多摩サイツーリング大会を開こう!参加エントリーを受け付けます。

でも、優子の入り方が以前と変わってきたんだ。前は、優子が死んだ時やお葬式の悲しい場面ばかりだったけど、今は、ブログネタを考えるようになったんだ。だから、優子多摩サイを走った後は、ブログの筆(指)も走ったりして。

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子どもたち。

また、パパとママのことを話してあげるね。
ユクーテさんが、昨日のブログ記事読んで「昔の出来事でも、ちょっと妬いてしまったり?」だって。
実は、ママのお葬式には、パパの知っているだけでも三人の元カレが来てくれていたんだよ!といっても、ママの片思いだったり、短い間だけの付き合いだったりいろいろだけど。
その人たちは、毎年年賀状を交換していて、いつだったか、ママが何となく、この人、前ちょっと付き合っていたんだ!なんて、ボソっと言うものだから、パパも毎年気にはなってはいたんだ。
ママが死んで、お正月に来たばかりの年賀状を見ながら、いろんな人に訃報を伝えたんだけど、なにしろパパの心は爆発していたから、家に来てくれた保育園ママ・パパたちに連絡をお願いしたんだ。でも、元カレだけは、パパが電話して、直接告げたかったんだ。その時は、どうしてそうしたか自分でもよくわからなかったけど、今から思えば、パパのライバルだけど、優子に深くかかわってくれた人には、ぜひ、お葬式に来てさよならしてほしいって思ったのかな。ママはとても多感で、可愛かったから、たくさんの人から愛され、そしてまた、ママもたくさんの人を愛したんだよ、きっと。
10代後半から20前半って、そんな時期なんだ。

なんか、こんなこと言うと、パパは心の広い人みたいに思われちゃうかもしれないけど、初めのころはぜんぜんそんなことなかったんだよ。ひとつ、面白いエピソードを紹介してあげよう。というか、パパの恥ずかしい一面なんだけど。

ママは、高校の音楽の部活の、ある先輩をすごく尊敬して、あこがれて、恋心を抱いていたんだ。仮に、和田さんとでもしておこうか。たしか、パパとママの披露宴か、そのあとのパーティーにも来てくれたんだ。その時は、パパはあまり話しできなかったけど、ママはぜひ呼びたいって。

それで、新婚生活が始まり、ある晩、さあ、これからふたりで夕食食べようと思ったら、電話がかかってきて、優子が出たら「あ~ら、和田さん、お電話ありがとう!」って、とっても嬉しそうに長電話しているんだ。パパは、先に一人でご飯を食べられず、いいかげんムカついて、ママに怒っても、あら、先に食べてればいいのに、って、あまりパパの気持ちわかってなくて。

その後、何日かして、病院の当直で泊まりの日があったんだ。パパはなぜか留守中に和田さんをうちに呼んでふたりで楽しくしてるんじゃないだろうかって、思い始めちゃったんだよ。こういうのを嫉妬妄想っていうのだけど。
思い始めたら止まらなくなり、どんどん心配になっちゃって、院長に「すみません、急に体調が悪くなって...」とウソ言って、当直をやめて夜、家に帰ってきたんだ。院長はすごくイヤな顔をしていたけど。
そ~っと家のドアを開けて、男の靴がないかチェックして...
ママはびっくりして、あら、今日は泊まりじゃなかったの?
パパは、ほっとするやら、恥ずかしいやら、「いや、...まあ、...その別に。...ちょっと疲れちゃって...
とか言って。
その後、パパのこの心境をママに伝えたと思うんだけど、ママは、あら、何言ってんの、バカねえ、みたいな感じだったかな。ママは、和田さんとの関係をパパに説明してくれて、高校時代はあこがれていたけど、Tikiが心配するような関係じゃないから安心してって。その後も、和田さんとは時々連絡してたりしてたみたいだったんだ。パパも優子の言うことは信じようと思ってたけど、なんとなく妬けたりして、心中はいまいちだったね。

そして、結婚の翌年から始まったロンドン留学時代、たまたま和田さんが出張でロンドンに来るという知らせを受け、ママは、Tikiも一緒に来てよ、と言って、三人で会うことになったんだ。パパとしては和田さんとちゃんと話すのは初めてだからね。さあ、これから対決だ!とかちょっと緊張して、ソーホーのインドだか中華だかのレストランで会食したんだ。会ってみれば、ふつうのやさしそうな人だし、パパの疑心暗鬼も溶け、ママ・パパの共通の友だちになったんだ。

その後も和田さんのコンサートをママが見に行ったり、ママのフルートの発表会のときには和田さんが伴奏してくれたり、ママと和田さんの付き合いはずっと続いていたんだよ。パパも何度か一緒に行って、「やあ、和田さん久しぶりです」なんて話したりもしたけど、最近はパパも忙しくて、あまり和田さんにも会えなかったんだ。考えてみればママのフルートの発表会には一度も行けなかったよ。ごめんね、優子!

結婚して始めのころは、パパもママとの関係に自信なかったから、和田さんにけっこう妬いていたんだと思う。でも、年月がたち、ママとパパの絆が深まってきたら、どんな男の人が現れても、パパママの絆の方が強いから大丈夫って、別に心配しなくなったよ。ママちんにとって、和田さんは高校時代からずっと続いている、大切な人だし、そのことで別にパパとママの関係が影響することはないし、今は、和田さんに、優子を支えてくれてありがとう、って言いたいよ。

ここまで書いてきて、こんど、和田さんと二人で飲みたくなったよ。
和田さんにとっても、優子を失った悲しみは大きいと思うんだ。
ふたりでしみじみ優子のことを話したら、パパも救われるような気がする。
あれほど優子が慕っていた人だから、とてもいい人なんだと思う。
和田さんは、このブログ、見てるかなあ?

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えっ、何、遊馬、パパのことキモいって!?
まあ、キミがパパの気持ちをわかるのは、あと10年くらいしてからだろうね(笑)。

Sunday, February 8, 2009

パンドラの箱


優子

二日もブログを開けたの、初めてだね。
読んでくれている友だちが心配してメールくれたりして。ありがたいよ。

忙しかった一週間を、昨日の午前中、無事に終えられたんだ。
世界からの研究者仲間5人(後半は10人)との集中的なディスカッション。まるで、JASCだね。夜も、彼らの各国料理屋に行ったりして。優子のことなんか忘れるくらい集中できたよ。すごいでしょ!
今度はこれをネタに論文を書くんだ。久しぶりに国際誌に投稿するぞ!本を出そうという仲間もいたくらいだから、今後も発展できそうだ。

そんで、昨日はお昼過ぎに連中と別れ、子どもたちと過ごした。今は、子どもたちとの生活が何より大切な気がする。
まだ、お葬式のビデオは見れないけど、優子との結婚式のビデオを探していたら、押し入れからパンドラの箱が出てきたよ。大きめの収納ケースは優子のお宝で、僕は絶対見ちゃいけなかったんだよね。
見ちゃったよ、全部。
子どものころからの日記や、通信簿や、写真や、手紙類など。失敗しただろ、そっちに行く前に処分してなくて。もう、遅いよ。
ずいぶん、マメに取っておいたんだね、元カレの手紙までちゃんとファイルして。僕なんかほとんど捨てちゃっているのに。結構、優子も恋をたくさんしていたんだねえ。多感な少女というか。僕の前ではウブな乙女を演じていたけど、安心したよ。僕だけじゃなくて。
僕も知っているユカ・リカ・タミヤンたちからの手紙もあって、30年前と今が僕の中でも微妙にクロスオーバーしている。
正に、パンドラの箱。何が出てくるかドキドキしているんだ。今まで、一生懸命、僕の記憶の中の優子をかき出してきたけど、これを見ていると、僕の知らない新しい優子が見えてくる。優子のイメージを再構成しないといけないので、ちょっと戸惑っているけど。でも、これはラッキーだぞ。優子がいなくても、優子との関係を発展させられるからね。一方的にだけど。
箱を押し入れから引っぱり出して手元に置いて、寂しくなったらちょくちょく眺めてるからね。

でも、これは小さい頃から結婚するまでの箱なんだ。
結婚以降の箱はどこかにないの?そしたら、面白いのになあ。もうちょっと家探しをしてみよう。

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シカゴのチャックが久しぶりに奥さんの里帰りで帰ってくるんだって。彼へ送ったe-mailだよ。

I am now in the biggest sadness and pain in my life since the beginning of this year. I am sure this is the biggest even compared to any kind of experiences I may go through in the rest of my life.

I suddenly lost my beloved Yuko by heart attack on Jan 3rd. She had a long standing heart disease and had by-pass operation 20 years ago. She was recovered, and doing fine until the very last moment. She and I were enjoying snow ski with children in our favorite mountain near Kusatsu, when she suddenly fell down, and lost both consciousness and heart beat at once.

Since then, I do not know how I have survived. I had a funeral, went back to work after a week, looking after the three kids, etc. But I am doing OK. So many people helped me. Our Tokyo brothers were certainly of great help since right after her death, during the funeral, and even now.

I can go on talking like this, but I stop here. That's why I want to be with children as much as I can. But I also want to share my feeling with you, so let's see and arrange how we may be able to meet. 


Tiki.

Friday, February 6, 2009

夫婦ケンカ

子どもたち

今日は、レバノン料理、美味しかったね。大人の人たちよりも、君たちはたくさん食べてたよ。
カウラさんや、英語人のみんなも、君たちが来てくれたことに、とても喜んでいたよ。もちろん、パパもとても嬉しかった。明日は学校があるのにちょっと遅くなり、帰りの新宿からの電車は眠かったね。

さあ、久しぶりにママちゃんのお話をしてあげよう。
さっき、テレビでバラエティ番組をぼんやり見ていたら、三浦友和が出てきて、こう言うんだ。
三浦 「私は、妻とケンカしませんねえ。」
三浦 「家ではけっこう手伝いますよ。」
司会 「じゃあ、今日はちょっと疲れて手伝いたくない気分の時はどうなるんですか?」
三浦 「妻は手伝ってくれなんて一度も言ったことないです。」
...だって。

パパとママは、こういう雰囲気とは全然違っていたんだよ。
ケンカしないことでケンカしたりしてね。
ママは若い頃、ムカつくと黙っちゃっていたんだ。
不満とか言いたいことがあっても、フン、知らないって言う感じで。
そうすると、今度はパパがムカついていたんだよ。
「言いたいことがあるんだったら、ちゃんと言えよ。言わなきゃわかんないじゃないか!」ってケンカをふっかけたりしてね。
結婚した初めのころは、ママがまだ20代前半だったから、ケンカしても、たいていパパが勝っていたかな。(と、パパが勝手に思っているだけかもしれないけど)。結構、お互いに武器があってね。パパは、心理学を持ち出して、「そういう優子の気持ちは、昔の〇〇の体験が関係しているんだろう」とか、ママの気持ちを分析して、理屈で攻めたりしたんだ。そしたら、ママは「ずるい!」って言ってたよ。
でも、ママは、ケンカが深まって、興奮してくると、突然日本語から英語に変わっちゃうんだ。その方が、攻撃的な言葉が出てきやすいみたい。すると、パパは「ずるい!ここは日本なんだから日本語でしゃべろ!」って言っていたよ。
でも、こんな風にケンカできるようになったのは、結婚してしばらくしてからだよ。結婚する前は、パパもおとなしいというか、言いたいことはうまく言えなかったんだ。
ひとつ覚えていることがあるんだけど、ママが「パパの英語下手だね」みたいなことを意図せず言ったんだ。パパはママに比べて英語コンプレックスがあったから、ちょっとムカついてね。今だったら、すぐに「そんな言い方、ないだろ!」と反論できたけど、結婚する前は言えなくてね。でも、パパの気持ちは伝えなくちゃと思い、さんざん考えた末、ドライブに誘ったんだ。ママんちから、わざわざ高速に乗って、横浜の山下公園に行ってね。海を見ながら、「ねえ、優子、先週、〇〇って言ったでしょ。ああいう言い方すると、すごく傷つくんだけど!」って、すごく丁寧にムカついたんだ。そしたら、ママもわかってくれて、「ええ、わかったわ。でも、それを言うために、わざわざドライブしたの?」ってびっくりしていた。あの頃は、ケンカし始めたころだったから、恐る恐る、相手の出方を確かめながら対戦していたかな。

でも、結婚して、お互いに慣れてきたら、そんな手間をかけてケンカしているヒマはないからね。もっとストレートに言い合っていたよ。特に、ロンドンの3年間と、君たちがまだ小さい頃は、毎日大変だったから、たくさんケンカしていたよ。みんな小学生に上がってからは、だいぶ楽になったので、ケンカの頻度も少なくなったかな。と言いつつ、時々、不満がたまってくると爆発してたけどね。

結婚20年の前半はパパがリードしていたけど、後半戦は、ママの連勝だったような気がする。若いころに比べ、年とると、年齢差が縮まるからね。パパがムカついて、ママを言い負かそうとしてケンカ始めても、よく言い合っているうちに、どうみてもパパの方が分が悪くなってきて、負けちゃって、自分で墓穴を掘っていたりしていたんだ。というか、ママ自身が強くなってきたんだよ、きっと。最近のケンカネタは、だいたいパパが家庭を顧みず、出張やゴルフに行っちゃったり、手抜きだったりというのが多かったんだよ。その点では、ママはマジメだから、手を抜いたり、サボったりあまりしないからね。パパも突っ込みようがなかったんだ。

Thursday, February 5, 2009

優子の夢

優子、おはよう。

優子のお葬式のビデオができたって。もうすぐ送ってくるよ。
そのことを子どもたちに話したら、祐馬あの時は泣いてばかりいたから見たくないって。
ちゅけは、何でそんなときのビデオ撮ったの?だって。
僕もわからない。
あの時は、この時間は記録しておかねばならないと自動的に思って、ビデオと写真と両方頼んだんだ。特にビデオは友人の知り合いのプロの人にお願いしたから、きっときれいに撮れていると思うんだ。
でも、できてきたビデオを見たいかっていうと、見るのが怖い。あの時間とその時の気持ちに引き戻されてしまうから。でも、あの時は、この時間を決して忘れてはいけないと思ったし、今でもそう思っている。

昨日、優子の夢を見たよ。
祐馬が、「パパがうがいしてたって言ったら、ママがひいてたよ!」だって。
何の意味かよくわからないけど、いかにもありそうな日常のワンシーンだった。
ちょっとだけだったけど、夢の中で優子と会えてとてもうれしかった!
でも、目が覚めてとても悲しかった。涙があふれてきた。

いったい僕は、いつまで悲しめばいいのだろう。どれだけ悲しめばいいのだろう。よくわからない。
いい加減、この辛さから解放してほしいよ。でも、忘れられない。
優子が倒れた時のスキー場のシーンが、何度も自動的に頭の中でプレイバックされるんだ。これをトラウマというのかなあ。
でも、あの時は怖くも悲しくも何ともなかったのだけど。ただ、淡々とやらなきゃならないことをやっていただけなのに。

Holms & Raheが発表した有名な研究があるんだ。そこには、配偶者の死が、ストレスの第一位に挙げれている。大学院生のころ、それを読んだ時は、「~ん、そうなんだ。そりゃあそうだろうなあ!」くらいにしか思わなかった。これは、実際にリストにあるようなストレスを経験したわけではなく、「配偶者の死」によるストレスを100としたら次の出来事は数字で表すといくつくらいですか?ということをたくさんの人に聞いて作った表なんだ。だから、みんな想像しているだけなわけ。確かにそうだろうな。配偶者の死が世の中で最も辛いだろうというのは、客観的に見れば簡単に納得できることだ。でも、すでに40年も前の話だし、夫婦中心主義みたいなアメリカの研究だし、我々にはどれくらいあてはまるのかなあと半分マユツバに思っていた。それに、「まだ成長していない子どもの死」とか、「火事で家を失う」とか、「ホームレスになる」とか、「事故で自分の車がつぶれる」とかの項目がないじゃん!

それでも、今、自分がどれほどの悲しみや苦しみを体験しているのか、相対的に想像がつかない。まわりの人が、ずっと前の知り合いだった人までメッセージを送ってくれるし、まわりから見たらというか、一般的にいえば、すっごく悲しく辛いのだっていうのはよくわかる。でも、自分の体験としてはわからない。ついでに、このページを読んでみても、別に僕はふつうに生活しているんだ。たしかに、不眠亡くなった人のことが頭から離れない現実感が感じられないという項目は当てはまるのだけど、種々の身体の症状はないし、物事に集中できるし、意欲の低下や無気力感なんかはない。というかむしろその逆に動き回っているんだけど。ってことは、落ち着きのない過剰な行動というのが当てはまるのか。亡くなった人を思い出させる場所や物に引き寄せられてしまったり、反対に避けるというのがあるから、お葬式のビデオみたいなことが起きるんだ。万座スキー場にはまた行けるかなあ?あのスキー場は割と気に入っているし草津に近いから、また行きたいんだけど...

今日は、英語人のアテンドを友だちがやってくれるので、僕はオフなんだ。走らずに、のんびりゆっくりできるよ。でも、それが怖い。心の隙間から、優子風が入ってきてしまうから。
結局、なんだかんだ理由をくっつけて走ってしまうんだろうなあ。やらなきゃいけないことは山積みだし。

Tuesday, February 3, 2009

つながる力

(ゆんた改め)祐馬ちゃん

今日は、祐馬が夕食に来てくれて、パパはとてもうれしかったよ。
今日は、パパは英語人4人と一緒で、ママ風が入ってくる隙間がないほど忙しかったんだ。
夕方、祐馬が学校から帰って来て、みんなと話し合っている所に入ってきたでしょ。その後の韓国レストランにも祐馬が子ども一人なのに来てくれたから、みんなとても喜んでいたよ。言葉は通じないけど、デイビッドさんも、ヨンジュさんも、ピンシャンさんも、カウラさんもみんないい人でしょ。ママを失っても、祐馬がみんなと交流できる力があるので、みんな安心してくれていたよ。

パパも、みんなに支えてもらているよ。今日は、ママを亡くして一か月ということで、いろんなひとが手紙くれたり、電話くれたり、さりげな~く支えてくれるんだ。

パパは大丈夫だから、祐馬は安心してていいよ。

やっとひと月

優子

今日で、優子を失いひと月になる。
この一か月、長かったよ。
ずっしりと重い悲しさと辛さを引き摺り、一日を進めるのがたいへんだった。
優子がいなくなる前の日常は意識せずとも自然に飛んで行ったけど、この一か月は、毎日が重すぎて、一生懸命、意図して引っ張らないと進んでくれないんだ。

イメージとしては、火事で自分の家を失った人が、何が何だかわけが分からず、火事場の周りをぐるぐる意味もなく走り回りつづけているような。
きっと、周りから見れば、そんな風に見えるんじゃないかなと思うよ。
自分自身、まだ、何が起こったのか、冷静には理解していないんじゃないかと思う。
でも、立ち止まり、そのことを見てしまうと、もうそこから一歩も動けなくなるんじゃないかと不安になる。
まだまだ、ちょっとでも心に隙間ができると、優子風がすっと入りこんで来て、悲しみに満たされてしまうんだ。
でも、たぶん、僕はこれからもゆっくりしたり、立ち止まることができないんだろうなって思うよ。
幸か不幸か、そうできちゃうだけのエネルギーを持っているし。
まわりからすれば、痛々しく見えるかもしれないけど、しょうがないよ。僕の性分なんだ。

この一週間は、大いに走り回るイベントがあるんだ。昨日から始まっているんだけど。
海外からの家族療法家を4人招いて、集中的なケース会議をするんだ。
当初は、沖縄で開く予定だったけど、とても子どもたちと離れることはできなくなったので、急きょ、東京に変更したんだ。僕の研究費で招へいするから、すべてキャンセルすることもできたのだけど、僕にとってとても重要な会議なので、がんばって開催まで漕ぎ着けたよ。
ね、わけもなく走っているでしょ。
でも、これは仕事モードの冷たい会議ではなく、感情モードをたくさん使える温かい会議なんだ。アメリカのデイビッドは15年前から、イスラエルのカウラは5-6年前から、韓国のヨンジュは2年前から、そして台湾のピンシュワンは去年から、学会などで一緒に活動してきた仲間たちで、お互いに気心もよく知れている。そんな仲間たちを、自宅の近くのホテルに泊めて、昨日・今日は自宅に呼んで会議をしたんだ。だから、優子の遺影にも、じじばばにも、子どもたちにも紹介できたし、とてもat homeな雰囲気で話し合いを進めることができたんだ。
この会議のやり方は、4-5年前からデイビッドたちと一緒にやっているんだけど、とても面白いんだよ。各自が、自分が関わっている家族療法の例をひとつ持ち寄り紹介するんだ。うまくいったケース、いかなかったケースなどどちらでもいい。自分の文化的枠組みでは当然のことも、他の文化からみると、えっ、どうして!?という唖然になったりする。自分では当たり前と思う家族模様が、他の文化の基準に照らし合わせるととても特異なことだったりする。そういう新たな発見を掘り起こしてくれる会議なんだよね。

今回は新たな試みとして、治療者として関わった家族の例を出す前に、自分自身の家族体験を掘り起こし、みんなで語ろうということになったんだ。これは、僕が提案したのだけど、当然、優子のことを語らなければ先に進めないからね。優子のことはみんな知っているし、とても近しい所に居る。お葬式の遺影の写真も、11月の韓国旅行で今回参加しているヨンジュも一緒に会食したときなんだ。しばらくぶりに、しっかり喪失の悲しみを身体で表現でき、すっきりしたよ。
でも、悲しみを持っているのは僕だけじゃないんだ。5人がそれぞれ自分の家族体験を話す中で、程度や内容はさまざまだけど、みんな傷ついている。西の魔女がWounded Healer(傷ついた治療者)と言っていたけど、自分が持つ傷を隠すことなくしっかり味わえば、相手の傷をうまく癒すことができる、良い治療者になれる。つまり、この大切な作業は、自分の傷を癒すだけでなく、臨床家としての成長につながることなんだ。

夕食は、近所のスーパーでお肉とお刺身のお造りを買ってきて、近所の八百屋さんで野菜をたっぷり買ってきて、みんなですき焼きやったんだよ。子どもたちも参加して、楽しかったね。ちょっとお醤油入れ過ぎちゃったけど。英語しゃべれなくても、子どもたち、みんなと親しんでいたよ。彼らも、子どもたちの目と表情がとても良いって言っていた。言葉が通じない分、まなざしとか表情がよく見えてくるのでしょう。子どもたちにとっても安心できる場であったらよかったんだけど、どうかな??

こんな感じで、土曜日まで彼らと行動を共にするよ。
もう、走るしかないね。

Sunday, February 1, 2009

ラブラブ


優子
友だちが中村幸代の光と水のせん律というCDを送ってくれたよ。
すごく癒される感じ。それを聴きながらこれ、書いているんだけど。

昨晩は、アメフトのま〇〇が来てくれてね。酒飲みながら語りあかしたよ。4年間一緒にプレーして、最後の1年間は一緒に下宿したから、何でも心おきなく語れたよ。同期の他の連中も集まるはずだったんだけど、なんだかんだと言い訳して来なかったぞ。よ〇〇とは電話で話したんだけど、ブログ、子どもたちも読んでいるのかって聞くんだ。今のところ、あまり読んでいないようだけどね。元カノとか、プロポーズした人がいたとか、子どもたちに見せたらまずいんじゃないか、、、だって。あいつは、心配性だからなあ。

ゆんたは金曜の晩から、友だちんちに連泊だあ。優子がいたら、そんなこと許さなかったろう。僕も迷ったけど、今はいいかなと思って。ゆんたは感性の鋭い子だから、パパの前では元気を装っているけど、僕以上に心に大きな穴が空いているはずだ。仲良しの子と一緒に居れることが一番だな。でも、気を使う子だし、疲れちゃうかもしれない。

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子どもたち
どうして、パパがこうやって、一生懸命ママのことを書いているかっていうと、パパ自身のためと、子どもたちのためのふたつの理由があるんだ。
パパは、ママを失った哀しさと淋しさで、心が押しつぶされそうになるんだ。ちっとも前に進めないし、無理して進もうとすると辛くなる。だから、こうやって、ママのことを思い出してると、ママがパパの心の中に入ってきて、幸せになるんだ。ママはパパの心の中にしっかり生きているんだって。そしたら、パパは少しずつ前に進めるんだ。子どもたちの前で笑顔も見せられるし、お仕事もできるんだ。そのためには、表面的なきれいごとだけじゃだめでね。パパの本当の気持ちを出さないといけない。良いことばかりでなく、恥ずかしいことも、イヤなこともいろいろね。そしたら、本当のママちゃんが出てくるよ。
 そして、ついでにママちゃんのことを、ブログを読んでくれる人に植え付けちゃうんだ。そしたら、パパや子どもたちだけでなく、まわりの人たちの中にもママが棲みつくでしょ。そしたら、実物がいなくても、まわり中、ママちゃんだらけになるから、寂しくないよね。

でも、一番大切なのは、君たちの心なんだ。君たちの心の中に、しっかりママが生きていてもらいたいんだ。これから3人がそれぞれ大きくなっていく中で、とても心配になったり、どう生きていったらよいか迷ったり、どう人と接していいか分からなくなっちゃう時がときどき出てくると思うんだ。そういうとき、パパとママが、どんなに愛し合って、君たちを大事に、大事に産み育てたかということが心の中にしっかり生きていると、辛くてもがんばろうという気持ちになれるんだよ。パパは、この歳になっても、パパを産み育ててくれた現物のふたりがいるでしょ。だから、安心することができる。パパは君たちのそばにずっと居てあげるけど、現物ママはいなくなっちゃったからね。その分、これを読めば、いつでも君たちの心の中にママを補充できるでしょ。読むだけでなくて、口でも話してあげるけど、ふだん生活してるとなかなか落ち着いてママを語り合う時間もとれないしね。

というわけで、きょうは君たちに性教育するぞ。
パパとママがお互いにたくさん好きになっていくと、心も身体も、もっともっと深く結びつきたいって思うようになるんだ。どちらかというと、女の人は心や気持ちを求め、男の人は、身体を求めたくなる。パパとママもそうだったよ。心や気持を、パパとママがどう求め合ったかという話もたくさんあるから、後でするけど、きょうは身体の話。
ゆんたは、それをエロとか言うけど、正しいエロは大切なんだよ。(ヘンなエロはすごく迷惑だけどね)第一、パパとママにエロがあったから、君たちは生まれたんだから。そのことは知っているよね?

で、パパはママの身体もたくさん求めたんだけど、ママは結婚するまで絶対ダメって、許してくれなかったんだ。こういうのって、時代や文化によっていろいろな考え方があるんだ。じじばばの時代には、こんなこと考えられなかったし、君たちが大人になる頃には、きっともっと自由に考えていると思うんだ。パパとママの頃は、結婚前はダメという人と、構わないという人と半々くらいだったかな。パパは男だし、なんでもいいじゃん!というおおざっぱな性格だから、当然やろうよ、と言うんだけど、マジメできっちり派のママはダメだったんだ。だから、ラブホとか行ったことないよ。

ママとデートして、車でママの家まで送るでしょ。そうすると、少し休憩してくださいって、居間に上がるんだ。ママのご両親とお茶飲んだりするけど、夜になると、もう寝ますからって、二階に行っちゃうんだ。たぶん、気を効かせてくれたんだと思うけど。そしたら、ママとふたりになって、電気をちょっと暗くしてラブラブしてたんだ。ママは、赤ちゃんができちゃうようなことは絶対ダメだったけど、その手前ならOKしてくれたから。一度か、二度、ママのお母さん(おばあちゃんだよ)が一回に降りて来て、「ゆうこ~~、言い忘れたけど、、、、、」とか大声で言うんだ。すると、ママとパパは今、部屋に入ってこられたらヤバイ!!と大あわてで、毛布をかぶったりして。結局、おばあちゃんは居間まで入ってこなくて、ホッとして、二人で苦笑いしたりして。そんなことがあっても、結婚するまで、ずっとママんちでラブラブしてたよ。
ああ、こうやって思い出すと、とっても懐かしいなあ。パパとママはとても、とても幸せだったよ。書きながら、涙でてきちゃうよ。

同じようなことは、イギリスにいた時もあったんだ。夏に車でスコットランドを一周したとき、荒涼で何もない大地の小さな町のB&B(民宿だね)に泊まったんだ。夜、ベッドに入って、ママとラブラブしてたら、突然民宿のおばさんがノックもせずにいきなり部屋のドアを開けて「言い忘れたけど、明日から夏時間だから、朝ごはん一時間早いよ!」って言いに来たんだ。びっくりしたよ、もう。たしか、イングランドとスコットランドでは夏時間の始まる日が違っていたんじゃなかったかなあ。
結婚した後のイギリス生活も、たくさん思い出が詰まってるから、また後で話してあげるね。