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Thursday, December 28, 2017

ヒマになっちゃった。

ご飯を作ってあげる人がいなくなっちゃった。
優子がいた時は、交代で作っていた。優子の友達を家に呼んで僕が料理した時、「まあ、素晴らしいダンナさん」とか褒められたりして。
優子がいなくなって、僕が作って。
祐馬が帰国した時は、ご馳走を作って。
ばあちゃんがご飯を作れなくなっちゃったので、僕が作って。
ばあちゃんは、ホームでは食おうとしなかった。僕がヨーグルトかプリンを持って行ったら食った。
それも食べれなくなって、亡くなった。
ちゅけと祐馬は家にいない。
じんはいるけど、バイトで遅い。
遅くなくても、「俺、勝手に自分で食うから」。
自分でやりたい年頃なんだよ。親の飯は食いたくないんだ。
肉が食いたいといえば、メガドンキの硬い牛肉を焼いてやるのに。
昨日はスペアリブと大根の煮込みを作った。じんも食うかと思ったけど、食わなかったから、一人で食った。
僕の作った飯を食ってくれる人はいるんだろうか?

料理は好きなんだよね。
高校の山岳部で良く作ったよ。
山行で疲れきってテント場に着いて、テントを設営して、水を汲んできて、ガソリンストーブをプレヒートして、米を炊いて、カレーか豚汁を作って。えらく大変だったけど、それはそれで楽しかった。朝食の味噌汁に出汁を入れ忘れたり、決してうまくなかったけど、仲間たちと食う飯は旨かった。
大学に入って、まずい吉池の学食は使わずに、寮で自炊した。冬はスキーに行く金を貯めるために、豆腐と白菜と納豆のご飯だったり。

これまで、一生懸命に生きてきたんだよね。
自分のキャリアを作るために。
優子のために。
子ども達のために。親のために。
そういうのが、なくなっちゃったんだ。

そりゃあ、子ども達のためにはもうしばらく続くけど。
お金を出して、遠くから見てるだけでいいから。今までのように手間ヒマはかからない。ご飯も作らない。

僕のキャリアはできちゃったんだ。それなりの評価は得ている。
AAFTのつくば大会はすごく成功して、世界各地から講演のお声がかかる。ホントにInternationalになっちゃった。
セラピーもまあまあうまくいっているし。

このままでも良いし。そんなに儲ける必要もないし。
でも、もっと頑張る余地はある。頑張ろうかなぁ、どうしようかなぁ。
書かないとダメだよ。
国際誌に投稿して、professional向けの論文や本を書いて、世界にアピールする。英語でね。
国内のクライエント向けにも啓発書を日本語で書く。ネタは十分にあるけど、まとめるほど腰を据えて落ち着けない。すぐに、どこかに行っちゃうからね。
ちゃんとやらなくちゃダメでしょ。
仕事面では、まだまだやることはある。

でも、プライベート面でやることなくなっちゃった。
うちに帰っても、誰もいないし。
正月の集まりも今年はやらないし。
お墓まいりでも行ってくるかなぁ。車じゃなくて、電車とバス(あるいは自転車)で。
正月にはちゅけの北海道に行くし。
2月には祐馬のオーストラリアに行くし。
スキーも、自転車も、登山もあるし。
プライベートを満たす手段はたくさんあるのだけど、、、

仕事でも、誰かと必死に関わる必要がなくなったんだ。
ソロでできる。そうしたかったから大学を辞めて開業したんだけど。
もし、大学を辞めていなかったら、今頃、なんとか委員会の委員長とかやらされて、学生やらわからんちんの教員や事務員相手にえらい目にあっていただろう。
人との関わりの中での生きがい。
えらく面倒だけど、それは何かをやっているという実感(満足感)があるんだよね。常に人と関わっているから。
人との関わりの中から喜びも苦しみも生まれる。
人との関わりがなくなっちゃら、何も生まれなくなる。

そんなこと言ってないで、ソロで生きることができるようにならなくちゃダメでしょ>自分。寂しいとか、言ってないで。

学会長をやらされるかなぁ。
これまで逃げ回ってきたけど、立場的にはやるポジションになっちゃった。年齢的にも。
そしたら、人とのしがらみができてくる。

しがらみは辛いから、学会長から逃げるか。
ソロは辛いから、学会長へ逃げるか。
まあ、そこまでみんなが期待してくれるかは分かんないけどね。

なんだかんだ言って、よっぽど承認を得たいんでしょ!

Tuesday, December 12, 2017

多摩サイ

仕事で多摩地区に行くことが二月に一回くらいある。
天気さえよければ、多摩川を自転車で走る。
今日も気持ちが良い。冬の小春日和。天気は快晴。富士山が見えるよ。
日本海側は猛吹雪だって。今年の冬は雪が多そうだ。もうスキーシーズンが始まってるよ。

多摩サイを走り始めたのは優子がまだいた頃だ。小金井市まで片道30km。
初めの頃は、往復するとヘロヘロだったが、今は全然大丈夫。体力ついたよ。
優子を失ってからは、優子を想うロードになった。
登戸付近を通過して、優子の実家の近くだ。もうあまり行かないけど、時々おばあちゃんを訪ねる。

さすがに、もう優子は入ってこないよ。
でも、9年前の僕の気持ちが入ってくる。涙を流しながら走っていたもんなぁ。
走っていると、いろんな連想が出てくるんだ。今、何を一番考えているのか、想っているのかがよくわかる。優子のことや、原稿のアイデアとか。
今も途中のベンチに停まって書き留めている。
一つのアイデアが出て、もう一つ別のアイデアが出て。
三つ目が出ると、一つ目を忘れちゃうんだ。フワフワのイメージが出たり入ったりする。だから、二つ目が出た段階で書き留めておく。

チャリが一番良いんだよね。アイデアがよく出てくる。
電車だと寝ちゃうか、スマフォいじるか。
飛行機の国際線は長い時間を取れるのだが、窮屈で狭い。映画見たり、飯食って酒を飲んじゃう。国内線くらいが良いかな。
その点、チャリだとスマフォも映画も酒もないし、居眠りもできない。しっかり目は覚めているが、頭は何もやることがない。特に多摩サイは信号もなく広々のんびり走るのでイメージを膨らませる宝庫だ。

多摩サイは僕の原点になっちゃったよ。
僕にはたくさんの原点があることがわかった。学会誌に「私のターニングポイント」なんていう原稿を書かされたからね。
・6歳、祖母の死:「死の発見」と恐怖
・AFS :国際デビュー
・JASC:優子との出会い
・London:専門家としてのidentity
・36歳:父親になる
・優子の喪失:そうか、多摩サイは優子を消化するスペースだったのか。走りながら、優子と向き合ったよ。
ターニングポイントとは、何かを得て、何かを失うポイントなんだね。

次のターニングポイントはいつだろう?
順番からいくと、何かを得る番なんだけど、、、

Thursday, November 23, 2017

母の終焉日記7

 例年になく寒さの厳しい冬の到来となりました。
 御母上様が昨年10月にお亡くなりになりましたとのこと、悲しみと寂しさが胸にこみ上げてきます。
 ご家族にありったけの愛情を捧げられた一生を送られたことと思います。
 御母上様はどのようなご様子なのかと思いながらも、近頃は疎遠になり本当に申し訳なく残念な気持ちでいっぱいです。
 学生時代も、その後も尊敬する大切な友人であったこと、感謝いたします。
 どうぞ御母上様の御冥福を心よりお祈り申し上げます。

S 様
 ご丁寧なお手紙ありがとうございます。
 Sさんのことは、子ども時代に母の手を引かれてお目にかかったことが遠い記憶にあります。女学院時代にとても親しくさせていただいたこと。私と同年代の息子さんがいらっしゃることなど。
 母は、2年前の1月に父を見送ってから、伴侶を失った悲しみから抜けきれず、「私はもういつ(この世から)おさらばしてもいいのだから。」とよく口にしていました。昨年の1月に転倒して腕を骨折し、骨折自体は大したことなかったのですが、一気に認知が低下してしまいました。4月には近所の老人ホームに移り、落ち着いた生活をしばらく送っておりました。8月に肺炎のため大学病院に救急搬送され、肺炎自体は落ち着いたのですが、食べ物が喉を通らなくなり、栄養の点滴もできず、入院したまま10月に静かに息を引き取りました。安らかな最期だったと思います。
 おっしゃるとおり、母は家族の愛情の中で生きた人でした。

Saturday, November 18, 2017

絶対的に困る人

昨夜は飲みすぎた。
今朝、見事に飛行機に乗り遅れた。
5時に起きるはずが、目が覚めたのは8時過ぎ。
あ〜あ、やっちゃった〜
もういっそ石垣島に行くのやめようかなとも一瞬思ったけど、どうせ週末ずっとヒマだし、気を取り直して行くことにした。バカ高い普通料金の航空券を買い直してね。
別に行く必然性はないんだよね。
一人で自転車乗りに行くだけだから、僕が行かなくても誰も困らない。

先週、学会も終わった。
これは僕が学会長で、僕がいないとみんな困っただろうから、頑張っていたけど、それも無事に終わったんだ。すごい成功だったよ。

ばあちゃんが亡くなってから、なんかすごく楽になったというか、心がヒマになったというか。
僕がいないといけない、生きていないといけないという必然性から自由になった感じ。
ばあちゃんは、僕がいないと生きていけなかった。
そりゃ、もしいなければ妹か、社会福祉がなんとかするだろうけど、やっぱ僕がなんとかしなくちゃいけないんだ。そういうことになっている。

ばあちゃんの前はじいちゃんだった。
あるいは子どもたち。
でも、子どもたちも成長して、もし僕がいなくなってもなんとかするだろう。
お金に困るくらいなもんだ。
それだって、なんとかするだろう。僕の生命保険もあるしね。保険金いくらだったっけ?

僕がなんとかしなくちゃいけない人が、いなくなっちゃったんだよ。
僕がもし急に死んでも誰も困らない。
そりゃ、子どもたちも、患者さんたちも、ヴァイジーさんたちもある程度は困るだろうけど、絶対的に困るわけではない。心情的なことも含めたら、子どもたちはかなり困るだろうけど、今までに比べれば、その度合いは低くなった。
優子が死んだ時は、子ども達も僕も猛烈に困ったんだよね。
生活はなんとかなったけど、心情的に。よく乗り越えてきたもんだよ。
すでにちゃんと経験しているから、うちの子ども達は父親を亡くしたって全然大丈夫のはずだ。

生きている必然性=生きがいって、自分が生きていないと絶対的に困る人がいるから生じるのかな。
じいちゃんばあちゃんが死んで、子ども達も大きくなって、そういう人がいなくなった。
この先、僕が生きていなくても、絶対的に困る人はいない。
じゃあ、生きていなくても良いのかって、そういうわけじゃないけど。
石垣島で自転車乗ったり、生きていて楽しいことはたくさんあるから生きてるけど、生きがいとか、生きていなといけないという必然性じゃないんだよね。
そう考えると、すごく楽に生きられる感じだよね。自由になったというか。

この先、パートナーを見つけて、また生きてないと困る人を作るかなぁ。。。
今は、身体的にも、経済的にも、心理的にも自活しているから、僕自身、その人がいないと生きていけない人はいないんだけど。
優子はそうだったのに、それを失って、リカバーしたから、もうこの先、いてくれないと僕が死んじゃう人はありえないんだよ。優子が死んでも、僕は死ななかったから。

でも、この先、年とって自活できない時が来るだろう。
その時のために、パートナーを確保しておきたいけど、いま現在は必要ないんだろうか。
でも、生きがいを作るには、そういう人を作るんだよね。やっぱ、生きがいはあったほうが良いのかな。より幸せになれるのかな。愛着関係が生きがいと幸せをもたらすのかな。不幸も成り行き次第でもたらすけど。
このまま生きがい(生きる必然性)がなくても、子どもたちや僕を必要とする患者さんたちを軽い生きがいにして、楽しく生きていくことは構わないんだけど、なんかオプションみたいだな。必須項目ではなくなった。

子どもたちが小さな頃は、必死に生きていた。
結婚する前だって、必死だったよ。絶対に生きていないといけなかった。
今だって、生きてはいたいし、死にたくなんかないけど、必死ではなく、ゆる〜く生きていけるような気がする。

と、乗り遅れて、高い金を出して買いなおした飛行機の中でぐるぐる考えながら書いている。
まあ石垣島に着けば、目先のやることができてこんなこと考えなくなって、楽しくなって、生きる必然性が生まれてくるとは思うんだけど。飛行機の中だけで妄想していることなのかもね。
空港に着いたら、自転車を組み立てて、宿にチェックインして、エントリーしてゼッケンを取りに行って、夕飯は近くの居酒屋さんにして、明日は寝坊しないように早く寝て、、、

客室乗務員って、すごい人気の職業なの?給料いいの?
きっとそうだよね。日本のCAってレベルが高いというか、すごいサービスいいよね。いつもニコニコして、美人ばかりだし。顔が引きつらないのかなぁ。
外国のスッチーはおばちゃんばっかで無愛想だし。

国内線の飛行機の中でもネットに繋がるようになったんだね。
でも有料だから繋がないけど。
あるいは、この記事をアップするために繋げちゃおうかな。
石垣に着いたら、バカらしくなって、アップしなくなっちゃうかもしれないから。

Thursday, November 16, 2017

54回目の誕生日

もう、優子の誕生日なんて、ほとんど忘れてるところだったよ。
でも、かろうじて覚えていた。
10月の結婚記念日は忘れちゃってたけど(笑)。
もう、いいよね!?

今までの誕生日カードは、子どもたちの様子を報告していたけど、なんかもうしなくてもいいかなっていう感じ。
じんも大学生になって、しっかりやってるよ。
ちゅけも祐馬も、それぞれの世界を作って頑張ってるし。
金はかかるけど、もう親があーだこーだ言う余地もなくなっちゃった。

今度は、僕自身だね。
優子は、
祐馬がOKしたら再婚していいよ、
なんて突然言ったことがあったよね。

祐馬も、だいぶ前に、
パパ、女の人とか言うけど、まだ早い。ママのこと忘れちゃったの?
何年経てばいいの?
10年!
って言ったよね。
もうすぐ10年だよ。
僕も還暦を迎え、そろそろ誰か見つけるよ。
なかなかうまくいかないけど(笑)。

この一年、なんか、いろんなことがあった印象だな。
Life is so exciting.

Saturday, October 14, 2017

母の終焉日記6

気遣っていただき、ありがとう。
見送るのは慣れちゃってるので、そんなに疲れも出ないんですよ。

見送りに慣れるっていうのもよくないですが、親より長生きするのは親孝行ですよね。
急に寒くなり風邪が流行ってますよ。お気をつけて。

見送りに慣れるのは深い意味で良いですよ。
いや、とってもイヤですけどね。
最近の火葬場は昔と比べるとずいぶん近代的でキレイになりましたね。でも、大切な人がお釜から灰になって出てくるのは何度経験してもショックです。喪失の悲しみもあるけど、やがては自分もそうなるんだって恐怖と向き合わないといけないですから。だから、こういうのはみんな忌み嫌って避けようとしますね。
でも、結局は人生で避けて通れないこと。妻、父、母と何度経験しても悲しいのや怖いのは変わらないけど、慣れると、必死に避けなくても済むようになります。なんか心が広がるというかリラックスできる感じですよ。

それが風邪ひいちゃってのどが痛いんですよ。
寒暖の差が大きい理由もあるけど、やっぱいろいろ疲れて免疫が落ちているんでしょうね。

Friday, October 13, 2017

母の終焉日記5

哀しむ暇もなく、色々と事務処理が大変なんですよね。
そういった雑務が終了すると、どっと疲れがでてしまうので、お気をつけくださいね😃

確かに、疲れが出てきているのかもしれない。
「疲れた〜」
という自覚は全くないんですよ。
でも、母の亡骸に付き添った通夜の晩から喉が痛くて風邪ひいたみたい。
昨日は真夏日くらいに暑く、今日は10℃以上低くて、寒暖差アレルギーとかTVニュースで言っていたけど。
確かに、免疫力が低下しているのかもしれない。。。

Wednesday, October 11, 2017

母の終焉日記4

午前中、区役所に行ったり、銀行、墓地とかあちこち電話したり。去年、父親の時にひと通りやったのでだいたい分かっているんですけど、面倒ですネェ〜(!)

哀しむ暇もなく、色々と事務処理が大変なんですよね。
そういった雑務が終了すると、どっと疲れがでてしまうので、お気をつけくださいね😃

お気遣い、どうもありがとう。
そういうこと、よく言われるよね。
でも、ヒマがなくても、ちゃんと哀しんでいるんですよ。
そのあたりの感情の出し入れは僕の場合自由にできるというか、もともとその道のプロだし、優子の時に鍛えられたし。
優子んときも、しばらくして疲れが出るかな、落ち込むかなと内心不安だったけど、大丈夫だったよ。そのあたりの処理能力はあるんだ。

ヒマになったよ。
今までは病院や施設との往復が大変だったけど、それがすべてなくなったからね。
残務処理があるけど、まあ大したことではない。

じんも夜遅くまでバイトだし、家に帰っても誰もいないから、こんな遅くまでオフィスにいるよ。今まではこんなことなかったし。

さて、そろそろ帰ってひとりメシを作るかな。
途中で寄って食っても良いんだけど、山メシの練習でチタンのフライパンを試してみたいからね。トランギアのメスティンも使ってみたいなぁ。買っちゃおうかなぁ。

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とかね。こういうくだらないことをブログに書いているでしょ。
ってことは、まあそれなりにgrief workをやっているんだよ。まあ、一週間程度だろうね。
優子のworkは今でもまだ引きずっているけど。

Monday, October 9, 2017

母の終焉日記3

おばあちゃんへ

一人で葬儀屋と相談していた時は、お葬式とかやらないつもりだったんだよね。
でも、昨日、妹といろいろ相談して、こんな形の家族葬をやろうということにしました。
家族葬って案外いいね。自由な形がいいと思うんだ。家族だけで水入らずで、僕みたいに喋りたい人は喋るし、静かに悼む人はそうするし。好みによっていろんな弔い方をすればいいんだよ。

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2017.10.4.@医大の病棟にて。ばあちゃんが亡くなる3日前、ベッドにいてもヒマだったから書いていたんだ。

ばあちゃんの命が終わろうとしている。
ばあちゃんが人生を終えようとしてる。

じいちゃんは年譜とか家系図とか、そういうのが好きだったから、何度も書いてきたし、僕との往復書簡も本にした。自分のことを表現して客体化したいんだ。自分の人生に意味をもたせたい。私はこうなんですと、人に伝えたい。
自分が生きてる意味って何?
自分の存在意義って何?
そんなことばかり考えていたんだろう。
僕だってそうだ。生きる意味がないと生きていけない。

ばあちゃんは、そんなこと、ちっとも考えていなかったんだろうね。
あくまで主体の中で生きていた。家族のために生きていた。
その意味とか考える意味がないんだ。
家族という狭い枠組みの中で生きている。

男は違う。
社会とか、もっと広い世界に自分の価値を見出したい。
狭い家族より、広い社会の方が良いみたいに言われてるけど、変わらないよね。優子を失ってそう思ったよ。たくさんの人から承認されたって、結局自分の喜びや悲しみや生きがいって、ごく身近な人との関わりなんだよ。

ばあちゃんの生きる意味は、じいちゃんを見送った段階で終了したんだ。
優子のお母さんは伴侶を亡くした後も仕事して、一人で生きがいを持って元気に生きている。
ばあちゃんだって、自分の生きがいを社会に求めるだけの能力は十分にあったはずだ。でもそれがベターだなんて言い切れないよね。ばあちゃんの生きた時代と社会の中で当たられた枠組みをまっとうに生きたに過ぎないんだ。

ばあちゃんが幸せだったかとか、そうでなかったかなんて、ばあちゃん自身考えたことないだろう。そんなこと、考えることに意味をもたせなかった。
じいちゃんは自分は幸せだったんだって、一生けんめい自分に言い聞かせて、納得したかったんだ。僕だって同じかもしれない。
僕がばあちゃんにできることは、ばあちゃんの人生が幸せだったんだ、意味があったんだということを証明することなんだ。
ばあちゃん自身はそんなこと求めていないけど、息子である僕がばあちゃんを弔う方法はこういう方法なんです。

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ばあちゃんの生まれた戦前は、儒教の「三従の教え」が生きていた。女性は一生に3人の男性に従うって(父親、夫、息子)。今じゃあ時代遅れだけど、当時はそれが当たり前だった。それが女性差別だ、古臭いなんて言説は、ばあちゃんにとってはどうでもよかったんだろう。

四国の田舎の大きな商家に7人兄弟の4女として生まれ、戦後は農地改革で手放してしまったが、ばあちゃんの子供時代は、多くの土地を持ち、いわば地主だな、大家族で使用人を抱えて、経済的には恵まれた暮らしぶりだったのだろう。

ばあちゃんや勉強がよくできたんだ。
当時、田舎の女子が、四年制大学に行くなんて、まず珍しかった。ばあちゃんの姉妹たちもせいぜい短大止まりだったんじゃないかな。関西じゃ名門の女学院に行き、学生寮で生活した。都会のハイソなお嬢さんたちに混じって違和感があったんじゃないかな。女学院時代の話はあまり聞かないんだ。
当時は高等教育を受けても、女性が働くなんて問題外だ。卒後、郷里に戻り、学んだ英語で近所の子供達を教えながら、お茶やお花の花嫁修業をしていた。その時に使った長い座卓みたいなのが、私が子どもの頃帰省した時にも使われていたよ。
じいちゃんとのお見合いは初めてではなかったらしいが、その辺りも聞いても教えてくれない。
壬生川にあった紡績工場長の知り合いの◯◯さんが東京にいて、仲人となってじいちゃんとばあちゃんはお見合いをした。
半蔵門にあった東條会館(だったかな?)で結婚式を挙げたのは、ばあちゃんが23歳だった。24歳で僕を生み、26歳で妹を生んだ。

僕らが小さい頃、よく大塚のさだ子ばちゃんの家に行ったよ。ばあちゃんの長姉で、PTAとかやる前は東京で唯一の頼れる人だったんじゃないかな。ばあちゃんの兄弟は地元か、せいぜい関西エリアにお嫁に行き、東京まで進出したのは二人だけだったんだ。

毎年、夏には四国のばあちゃんの実家に遊びに行ったよ。親戚一同が集まり、いとこたちがうじゃうじゃたくさんいてね。僕らにとってはすごく楽しく懐かしい思い出でだよ。

ばあちゃんはすごく社交的なんだ。呑気で、明るくてね。PTA活動とか、すごく生き生きとしていたよ。小学校でも中学校でも副会長までやったんだ。僕の時に役員のデビューをして、妹の時に副会長までやるんだ。そんなにリーダーシップがあるようには見えないけど、人あたりはよかったんだろう。

でも、ばあちゃんは頼りなかった。
じいちゃんは私にとって同性の親だから、幼い頃は成長するモデルであり、尊敬する人で、思春期には反抗して乗り越える対象だった。ばあちゃんは反抗するまでもない、そばにいてくれる存在だった。
方向オンチで、新婚の頃は、買い物に出かけて迷子になって自分ちまで帰れなくなっちゃったとか。
喘息持ちで、布団の上げ下げができなかった。僕らが小さい頃から二十歳くらいまでで、その後はけろっと治っちゃった。今から思えば心因があったのかと思うけど。そのために、じいちゃんが布団の上げ下げをやっていた。それも疾病利得というか、ばあちゃんの弱さがじいちゃんのサポートを可能にしたんだ。

あと、僕が小学生の頃かな、ばあちゃんぶっ倒れたことがあった。
トイレから出て、気を失って、洗濯機の角に頭をぶつけて、2−3日変なことを言っていた。じいちゃんが慌てて仕事から帰ってきて、これでママは一生パーになっちゃうのかなと心配したけど。今から考えれば、起立性的低血圧による機能性脳虚血、一過性の健忘症で大したことなかったんだけど。
アメリカのホストマザーも「うつ病」で時々臥せっていたし、僕にとって女性というのは、強くないし、守ってあげないといけないと思っていたよ。

ばあちゃんは、家庭人としてとても立派な仕事をしたと思う。
2人の子どもはどうにかまともに成長して、家庭を作って、孫が5人、ひ孫が一人。みんな幸せにしている。かな???
ばあちゃんがやるべき仕事はしっかり全うしたんだよ。

僕は仕事柄、家族療法、多くの家族を見てるけど、そうでない親子や家族ってたくさんいるんだ。それと比べるのも悪いけど、うちには、しっかり安全感があった。安心して生活して、成長できた。そんなの当たり前なんだけど、そうでない人からすれば、これってすごいことだと思う。

じいちゃんも頑張ったし、ばあちゃんも頑張った。
ばあちゃんが楽しんで、幸せそうにしている姿を家族が見て幸せになって、そういう家族を見てばあちゃんも幸せになって。ばあちゃんは、ぶつぶつ文句を言ったりしていたから、ばあちゃん自身に言わせればあーだこーだと不満はあるだろうけど、少なくとも僕は子ども時代も、結婚するまでも、結婚してからも、両親は僕にとっての安心基地だったんだ。

そんなの当たり前だけど、そうでない家族もたくさんいるんですよ。

この9年間も、ばあちゃん、じいちゃんにはとてもお世話になったよ。
それまで、優子と一緒に幸せな家庭を作ろうとしていたけど、優子が突然いなくなっちゃうものだから、幸せじゃなくなっちゃう危険、危機状態だったと思う。
3人の子供達に、そして僕自身がどうやって安全基地を確保するか。普通に生活するならできるだろうけど、安心できる良い家庭を作れるかなんて自信はない。必死だったけど、ばあちゃんとじいちゃんがいたおかげで、どうにかやってこれたと思う。

でも、それがばあちゃんには負担をかけちゃったようにも思う。優子が亡くなってから、ばあちゃんは「老人」になってきたなあと、なんとなく感じてた。大変だったよね。ごめんね。でもありがとう。

さっき、昔のアルバムを見ながら思ったけど、上越時代がばあちゃんの人生の花だったのかもしれないね。子育てを終えて、子供達は結婚して、じいちゃんばあちゃん二人の生活だった。孫もできたし、子ども家族を追ってイギリスやブラジルに海外旅行したり。
じいちゃんが上越教育大学を定年退職した後、青森に行き、しばらくしてじいちゃんの膵臓転移が見つかって手術してからは、じいちゃんのケアで、だんだん老後に入って行ったのかな。そして、嫁さんが突然いなくなり、孫の世話をして。
その辺りから、ばあちゃんの心配性がひどくなってきたように思う。孫たちは知らないだろうけど、若い頃のばあちゃんはとても楽天的で呑気だったんだよ。晩年の心配性のばあちゃんとは正反対だったんだ。

ばあちゃんは幸せだったんだろうか?
最期の頃は、カラダも、アタマも、いうことが利かなくなって、相当イライラしていたと思う。ばあちゃんの生きる目的は、家族を世話することだから、逆に家族に世話をされることはプライドが許さなかったんだろう。それまで、プラスだったのが、マイナスになっちゃった。

おばあちゃんは、もっと自分自身の楽しみを持てば良かったのにね。
でも、自分自身とかいったって、結局は人との関連性の中で幸せって生まれてくるものだから。例えば、僕だったら、学生とか患者さんが少しでも幸せになれば、僕も仕事をやっていたやりがいが生まれるわけだし。
ばあちゃんにとって、家族が幸せであることが、ばあちゃんの幸せなんだ。
だから、ばあちゃんが幸せな人生だったということを証明するためには、僕らが幸せでいればいいんだよ。そしたらばあちゃんの生きがいが生まれてくるんだ。

————
悪いけど、ばあちゃんが死んでも、全然悲しくないんだ。
冷たい息子なのかなぁ?
なぜか?
優子とじいちゃんの死を経験したから?
それもあるけど、ばあちゃんは、早くから僕の愛着圏外なんだよ。
愛着理論ってのがあってね。初めは子どもと保護者(主に母親)との関係のことだけだったけど、最近では、愛着関係は一生必要と言われるようになった。
ひとことで言えば、
「君がいるから元気になれる」関係
「君がいるから安心して毎日を過ごせる」関係
逆に言えば、
「君がいないと元気が落ちて、毎日の生活が辛くて不安になる」関係なんだ。
それは、揺るぎない信頼と安定感に満ちているはずなんだ。そうしないと安全と感じられないからね。

大切な人がいて、その中でも特に必要不可欠な人が愛着対象だ。
内側の人を失ったり、その人が変な人だと苦労する。ダメージを受けて、まともに生きていけない。そういう人たち、たくさん知ってるよ。
外側の人は、失ったら悲しいけど、別に生きていくには差し支えない。

例えば、妹は外側の人だよ。
子どもの頃だったら、きょうだいは同じ家族の一員で、内側の人だった。その頃に妹を失ったら、ちゃんと生きていけなかったかもしれない。
でも、大人になって、それぞれ別の家庭を築いて。
それでも、きょうだいはきょうだいだし、大切な身内だし、もし死んだら悲しいし寂しいけど、僕の人生や元気さには影響しない人でしょ。
私にとって、おばあちゃんはそういう人なんだよ。だから、お葬式では泣くかもしれないけど、身を切るように悲しくはないんだ。

優子の時はもちろん違ったよ。
僕にとっても、3人の子どもたちにとっても、ママは愛着対象だったでしょ。
失うのは身を切るように痛く悲しかったし、ちゃんと生きていけるか心配だったよね。怖かったよね。

ばあちゃんの場合は、ラッキーなことに、誰も怖くないんだ。
人間、そうなってから死ななくちゃダメだよね。
優子はダメだったんだ!

でも、そういう親子の結びつきって結構違っているというか、特に日本の親子って、母親の呪縛が強かったりする。
友人の山登敬之が「母が認知症になってから考えたこと」(2013年、講談社)という本を書いたんだ。彼は、母親の呪縛がいかに強くて、そこをどう切り離すか苦労して、本まで書いちゃったんだ。

僕は母親との呪縛は全然強くない。
なぜかというと、じいちゃんがしっかりいたからなんだ。
僕の愛着対象は、ばあちゃん以上にじいちゃんだった。
2歳で妹が生まれてママのおっぱいを取られちゃったから、僕はパパのおっぱいを触って寝ていた。幼稚園の頃も触って寝ていてね。子どもながらに、もし小学生になってもパパのおっぱいなしで寝られなかったらどうしようって、すごく恥ずかしいくて情けなかったよ。
ヤマトは本の中で中学生まで母親の布団で寝ていたってカムアウトしている!
じいちゃんがしっかり、僕のそばにいてくれたんだ。その分、母親の影は薄かったというか、そんなに頑張って子どもに関わらなくても良かったんじゃないかな。

小4でラジオ作った時も、じいちゃんは、よくやったって褒めてくれて、ばあちゃんは、電気工作とかよくわかんなくて、台所でご飯を作っていただけだったなぁ。そんなワンシーンの光景をよく覚えているよ。

じいちゃんはスキーによく連れて行ってくれて、大好きになって今でもやってるでしょ。じいちゃんがしっかりモデルだったし。ばあちゃんもスキーに一度だけ行ったことがあるんだけど、転んでばかり散々で、以来二度と行かないし。
ばあちゃんはモデルじゃないんだ。

高校AFS留学でアメリカに行った時も。
じいちゃんは行ってこいと勧めてくれて、ばあちゃんは、心配そうな表情だった。
だから、「僕は1年間、死んだと思って忘れてくれ!」と言ったそうだ。
ばあちゃんが僕のことを心配するのはかわいそうだから、心配しないでくれと言いたかったんだけど、今から考えればひどいこと言ったね。

その時、たまたまじいちゃんも在外研究でミネソタに行っていて、父と息子がアメリカに、母と妹が日本にいたんだ。ばあちゃんと妹が夏にミネソタのじいちゃんのところにやってきた時、僕がいたNorth Carolinaにも電話してきて、そっちにも行きたといってきたんだ。
僕は断ったんだ。まだアメリカに来たばかりで、適応しようと一生懸命で、二人のmothersがいたら混乱するから嫌だったんだ。ひどい息子だね。
その後、12月のクリスマスには父親ひとりで訪ねて来てもらうのは問題なかったのに。
つまり、それだけばあちゃんを突き放しても、大丈夫。母親を失うことはない。母親は安定してそこにいるんだ。昭和基地が安定していたから、突き放すことができたんだ。

ヤマトは母親本を書いて、母親の圏内から抜け出し、
僕は父親本を書いて、父親から乗り越えようとしたんだ。

ばあちゃんが僕の圏外になれたのは、
1) じいちゃんの家族への関与と、
2) じいちゃんばあちゃんがしっかり安全基地を作ってくれた
おかげなんだ。

昭和基地が安全だと、隊員は外に行ける。ボストンだってメルボルンだって。
安全な基地でないと、隊員は引きこもるしかない。

でも、こういうのって、男性っぽい考え方なんだよね。
子ども時代の愛着対象(親)を成長しながら一生懸命切りはなそうとする。
自立志向、独立志向が強いんですよ。
女性は、もっと関連性を志向している。関連性の中に生きている。

ばあちゃんを見舞いに行っても、僕はそんなに長くいないし、ばあちゃんの痛みや苦しみは、ばあちゃんの持ち物だから、医学でどうにかできなければもう仕方がない。虫歯を治す時にはちょっと痛いように、治すための痛みは請け負わないといけないし、それ以上の苦痛は麻酔でとってね、くらいにしか思わない。

でも、女性は違うみたいね。妹は、ばあちゃんのそばにずっといようとすごく気持ちを傾けて、ばあちゃんが苦しくないこと、辛くないことを何より一番に考えていた。妹にしたって、ばあちゃんは愛着圏外ではあるのだろうけど、情緒的なつながりは僕よりはるかに強いし、理性よりも感性で動いている感じだよ。
別に、それが悪いとか言ってるわけじゃないけど。

母の終焉日記2

今の気持ちは、人生でそう度々経験するものでもないから、記録しておこう。

・10月7日のお昼に永眠。前から登録しておいた葬儀屋に迎えに来てもらい、安置所に保管。
・10月8日。夕方、子ども孫たち6名での家族葬。夜は子ども二人が母の体と同じ場所で夜を共にする。
・10月9日。優子と同じ臨海斎場で荼毘に付し、無言の帰宅。

いやあ、お疲れ様でした!

・記録を思いついたのは、母の日記を読んで。10年、いや20年以上前から毎日、日記をつけているんだよね。10年日記帳とか、10年間の同じ月日が一つのページに連なっている。しかも、それが空きがない。すごい根性だよ。これを引き継ぐか?僕がやるとしたらデジタルのライフログか。でも、無理だろうなぁ。
・優子、父親に続き3回目で慣れてはきたが、心情的にはとてもdemandingだ。いろいろな気持ちが錯綜する。
・僕にとっての大切な人を喪失するというのは、大きなショックだ。自分の大切なものを失う喪失体験。
・トラウマ(心的外傷)でもある。「死」に直面するのは辛い。生きているものの命が失われるショック。動物だって、生き物ならなんでもそうだけど。冷たくなっていくショック。お釜から出てきて、それまで存在していたものが消えるショック。ドキドキするよ。辛いよ。
・しかし、愛着喪失体験ではないんだ。ここの心情を説明するあたりが難しい。後でゆっくり解題しよう。
・負担の軽減。今まで気にかけて、心配して、四方八方手を尽くして病院に施設に行き、医療・介護のスタッフと会い、経済的にも負担だし。そこからの開放感。そして空虚感。ぽっかり穴が開いたような。
・でも、片付け、各種手続き、役所に、銀行に、墓地に、税務署に、いろいろやらなくちゃならない煩雑さ。

などなど。

Friday, September 29, 2017

母の終焉日記

人の死は、理性的プロセスであり、感性的プロセスでもある。

もう嚥下できないだろ。
まだつば呑み込んでたもん。
いや、医者はみんな無理と言ってるし、廃用症候群ってのがあるから
でも、それはお兄ちゃんの意見でしょ?
いや、僕の主観的な意見ではなく、医学・生物学的な客観的事実なんだけど。

お兄ちゃんはおばあちゃんのところにいない。
15分いるよ。
それじゃあ短い。
じゃあ、2時間いれば十分なのか?
看護師さんは優しくて、よく来てくれるからわかってくれている。
先生はあまり来ないからわかってくれていない。
そりゃ、医者はベッドサイドに来なくても、スタッフから申し送りを受けて、検査データも踏まえてちゃんと理解しているんだよ。
教授回診なんて、ちょっと見るだけで、意味がない。それに、この前はおばあちゃんの前を素通りしたし。
それは、違う診療科の先生なんだよ、きっと。

呼びかけて、身体をさすって、そばに居てあげて。
Doingではなく、Beingが大切なんだよね。

結局、親族が、どう終焉を受け入れるかってことなんだよね。それは感性的・主観的なプロセス。
どう選択しても、結果はunhappyな可能性が大きいわけで、ああすればよかった、別の選択肢を取っておけばよかったのかもしれないって、後悔する。
選択する判断は理性的なプロセス
後悔するのは感性的なプロセス。

この両者をバランスよく働かせるって難しい。

感性に圧倒されると、理性が働かなくなる。
優子の喪失(感性)を整理するのに、えらく大変だった。
そのなかで、葬式の判断とか意思決定をするのって辛かった。
センター試験の試験監督は免除してもらった。そりゃそうでしょ!
子宮で考えているんじゃないかっていう女性。理性が働かず、不安に操られてしまう。不安が怒りとなり、スケベになってしまったり。僕だって、理性がぶっ飛んだこともあったし。

理性が強すぎると、感性が働かなくなる。ってことはないか。
感性を抑圧すると、理性しか使えなくなる。ということか。Alexythimiaの男性たち。

Sunday, July 23, 2017

ばあちゃんと祐馬

祐馬が半年ぶりに帰国した。
ほんの2週間だけどね。

おばあちゃんと、ともみ君に会いたくて。

そうだね。
まあ、ばあちゃんは、まだすぐには死なないから大丈夫だけど。

祐馬が訪ねると、ばあちゃんは満面の笑み。
良い顔してるねぇ!
ばあちゃんは、トイレのしかたも、今朝なに食べたかも覚えてないけど、久しぶりの孫の事はちゃんと覚えているよ。というか、いつも家族のことしか気にしていないし。

僕は、ほぼ毎朝、ばあちゃんのところに顔を出している。家からチャリンコで3分の場所だからね。カイの散歩みたいなもんだ。

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ばあちゃん、元気?

わかんない。
もう死んでも良いんだ。
どうせ死ぬんだから。

そりゃ、そうだ!
よくわかってるじゃん!

ばあちゃんは、死んでも良いよ。
まだ死にたくないとか、死ぬのが怖いとか、生きているのがイヤだから死にたいなんて人がたくさんいる中で、ばあちゃんは人生でやるべきことちゃんとやったもんね。えらいよ!
ばあちゃんが死んだら困るとか、ばあちゃんなしでは生きるのが辛いとかいう人もいないよ。
そりゃあばあちゃんが死んだら子や孫たちは悲しいけど、ばあちゃんがいなくたってみんな幸せに生きていけるから問題ないし。

どう生きるかってのが大事とかいうけど、
どう死ぬかってのも、とても大事だよね。

優子みたいな死に方は一番悪い見本だな。
本人は良いかもしれないけど、てか、死んだら良いも悪いも考えないから良いだろうけど、周りに迷惑をかけすぎだ。子どもたちと夫に辛い思いをさせすぎだ。

ばあちゃんは良い見本だよ。
ばあちゃんが死んでも誰にも迷惑をかけないから、心置きなく、安らかに死ねば良いさ。

〜〜〜

祐馬は今日、メルボルンに帰るんだ。
父親として。そりゃあ、寂しいさ!

Sunday, July 9, 2017

真夏の太陽

毎年恒例の梅雨末期の水害も東京までは及ばず、今朝もチャリで通勤していると、梅雨明け前だけど、既に真夏の雰囲気だ。

夏が嫌い、という人もいるけど、
僕の場合、真夏のギラギラ太陽って好きなんだよね。
すべてのものの温度が上がり、が分子レベルで活性化して、圧倒する暴力的なエネルギーを感じる。
暑いし、汗かくし、寝苦しくてどうしようもないし。
そこまでやらなくてもいいだろうに、、、
、、、やり過ぎの夏が好きだ。

ノスタルジックな思い出が甦ってくる。

子どもの頃、母親に連れられて帰省した愛媛の壬生川。
祖父母のもとに大家族が集まり、縁側に並んで食べたスイカや、おじさんのトラックの荷台で行った桜井海岸の海水浴。祖父母や伯父伯母の多くは既に故人だ。

父親の実家は四万温泉。いとこたちと一緒に摩耶の滝までハイキングしたり。

高校山岳部の夏合宿で縦走した飯豊連峰や北アルプス。梅雨明けからお盆の前までが最高の夏山シーズンなんだ。高地の太陽はギラギラしてないよ。朝晩は肌寒く、昼の日差しが強くても爽やかな運上の天国だ。この夏は新しい装備を担いで登ってくるぞ!

僕の海外デビューは高校留学で初めて飛行機に乗り、辿り着いたサンフランシスコ郊外のスタンフォード大学。そのキャンパスは広大で美しく、太陽もさんさんとと輝いていた。

草津の別荘は、優子と幼い子どもたちと過ごした思い出の地であり、今だって行ってるぞ。高原は涼しくて良いよな。今年も行くぞ!

暑い夏に、思いっきりエネルギーを放出したい。
むちゃくちゃ無謀にね!

夏が終わるのが寂しい。

Sunday, July 2, 2017

ソウル再訪

ソウルでの研究会を終えて、1日ひとり自由な時間を作った。
どこのホテルにしようかな?
booking.comで調べて三清洞(サムチョンドン)の安いゲストハウスにした。
優子が亡くなる1ヶ月前、二人でソウルに行って景福宮と三清洞を散歩したんだよね。
8年前のことをYoung Juさんもよく覚えてくれている。彼女が案内してくれたんだ。
だから、この近くのホテルに泊まるんだよと彼女に言ったら、
"So you still miss her!?"
"Yes, of course."

優子と二人で歩いた景福宮を、8年ぶりに歩いてみた。ひとりで。
優子を亡くしてからソウルには何度も来ているけど、景福宮に来るチャンスはなかった。
ここで写真を撮ったよね。
それが残っているから、その時のこともよく覚えているよ。

この5日間、研究会と学会でたくさんの人たちと会った。
セラピスト自身の気持ちと向き合うトレーニングを、僕が主宰した。
自分の気持ちはいつでも心の引き出しから自由に出し入れできるんだよ。
隠す必要はない。出てきても、怖がる必要もない。心を自由に、オープンにできるんだよ。
いつまでも悲しみを心の中に留めておいても、全く構わないんだ。
自分の気持ちをごまかさなくても良いんだよ。
いくら心を絞ってみても、優子の涙はもう出なくなったし。
いや、出てきても構わないんだけど。

Tuesday, February 28, 2017

カイくんを悼む

ビーグル犬の平均的な寿命は12歳~15歳なんだって。
7歳半で逝ったカイは、人でいえば45歳くらいかな。
まだまだ長生きしてほしかった。。。

カイくんのことを子どもたちとパパで語ろう!
カイを悼もう!

カイの人生、じゃなくて犬生って、何だっんだろうか?
カイは幸せだったんだろうか?
カイが生きてきた意味を、その軌跡を見出してあげよう!
パパからいくと、、、

パパにとって、カイへの愛着は間接的なんだ。ママが亡くなり、子どもたちをどうひとり親で育てたらいいのか、必死だった。君たちから犬を飼いたいと言われ、ばあちゃんは反対したけど、じいちゃんが賛成してくれて、パパはそれも良いかなと思ってカイ君を迎えたんだ。パパから子どもたちへの愛があり、子どもたちからカイへの愛がある。
祐馬が送ってくれた写真が、カイ君の思い出だよね。カイ君は子どもたちとパパが幸せになる過程にすごく貢献してくれたよ。

そりゃあ、もっと一緒に居たかったとか、狭いケージじゃなくて、、、とか、もっとできたのにと思うこともあるだろう。でも、カイ君はきっとウチに来て、幸せだったと思うよ。
期せずして、今日はじんの卒業式だ。これから式が始まる。パパはさっきから泣きっぱなしなんだ。もう恥ずかしいよ。
思いっきりじんに「おめでとう㊗️🎊」と言いたい。
祐麻も、成人式おめでとう㊗️🎊
祐麻の振り袖姿にも泣いちゃったし。
子ども達がこうやってぐんぐん成長していってくれるのが、パパにとって最高の幸せなんだ。
カイ君は君たちの成長を助けてくれたと、パパは思ってる。

ちゅけと祐馬は既にウチから巣立っている。
じんは四月から大学生だ。
カイがいなくたって、君たちは幸せになる礎を築けるまでに成長した。
カイ君は立派にその役割を果たしたよ。

カイ君、ウチに来てくれてありがとう‼️

と言ってやろう。
天国に行ったら、優しかったおじいちゃんや、初めましてのママときっと遊んでるよ。
おじいちゃんがたくさんカイの面倒を見てくれてるよ。

Sunday, February 26, 2017

おばあちゃんの認知症

おばあちゃんは骨折してからこの1ヶ月で、急速に衰えているよ。
足腰が弱くなり、外を出歩けなくなり、今の所病院まで手をつないで通っているけど、それも今後は車椅子かな。

それに加えて頭の方がどんどん低下している。

おばあちゃん、体だけでなく、頭もパーになっちゃった。。。

と言えるから、自分がどうなってるかということもわかってはいるみたい。
でも、時間の感覚がなくなり(失見当識)、次に何をしたら良いのかわからなくなっちゃう。それでいて孫の大学入学のことは覚えていて、ばあちゃんがお金出すからね、なんて言えるんだ。家族を世話したいという気持ちは、最後まで残るんだね。これってすごいことだよ。

ついに昨日、ウンチをお漏らししちゃったんだ。
どこでウンチをしたら良いのかがわかんなくなったらしいんだ。
こうなると、介護もきつくなるね。

私が確か小学1年生の時、近所の友達のうちに遊びに行き、ウンチしたくなったけど、まだ人の家のトイレでウンチできなくて、急いで家に帰る途中でお漏らししちゃったんだ。泣きながら家について、おばあちゃんが風呂場まで抱きかかえて、洗ってくれたことを今でもなんとなく覚えている。
50年後になると、立場が逆転するんだね。私がおばあちゃんのウンチの始末をするんだ。

食欲はあるよ。
というか、認知症になると食欲が亢進するんじゃないかな。
知性が解除されると、本能がそのまま出てくるのか。
おばあちゃんの食べ方を見ていると、知性がなくなり、本能で食べているのがよくわかる。なんとなく、目を背けたくなる姿だよ。

カイも死にそうな病気で、ウンチ漏らしているしダブルパンチ、家中がウンチまみれになっちゃった。

これからおばあちゃんの介護はどうすればいいんだろう?
ヘルパーさんやデイケアを使うんだろうか?
施設に入れるってのも視野に入れた方がいいんだろうか。
これから、そんなことをケアマネさんと、おばちゃんと、相談することになるね。
じんは家にいても、彼の世界があるだろうし、私も普段はなんとかするとしても、時々海外出張で1週間とか家を空けるからね。そん時は、どうすれば良いんだろうか?

おばあちゃんは、まだ、家族のことはちゃんと認知しているけど、今後それもどうなるかわからないよ。
今後、レベルがどんどん落ちていくのか、今くらいのレベルで歩止まりしてくれるのか、わからない。

孫たちのことも、もしかしてわからなくなっちゃう前に、会っておいた方が良いかも。

Monday, February 20, 2017

おばあちゃんのデイケア

デイケアの初日、ばあちゃんは大丈夫かなと思ったけど、
初対面の隣の人とよくしゃべっていたんだって。

私、出身は愛媛です。

すると、隣の人は群馬なんで、

うちの主人も群馬なんです。

とか。
すごい社会性。
うちでは考えられない。
うちでは、

つぎ、何したらいいの?
もう、おばあちゃん、死んでも良いんだ!
あぁぁぁ~~~

って溜息だか、泣き声だか、すっかり幼児みたいになっちゃった。

今朝も、そんな感じでダメダメの調子だったんだけど、
でも、デイケアの人が迎えに来たら、さっと表情が変わるんだよね。それまでの、ダメばあちゃんから、外向きの笑顔を作って、正気になる。

おたくのところは、よくできてますね。

なんて、おべっかまで使って。
ばあちゃん、ちゃんとやろうと思えばできるじゃん!

子どもたちを保育園に連れて行った時とそっくりだ。
べったり親に甘えていて、保育園について、バイバイすると泣いたり、ヤダヤダするけど、しばらくしたら諦めて、園で普通にちゃんとしている。
それで、帰りに迎えに行って、パパの顔を見ると、ふだんの甘え顔に逆戻り。

ふたつの顔があるんだよね。
ダメダメな顔と、しっかりの顔と。

幼児と老人に顕著だけど、大人だって、誰だってあるんだと思う。

Tuesday, February 7, 2017

祖母の尊厳、子どもの自信獲得、親の自己万能感

尊厳 Dignity 
  • とうとくおごそかなこと。気高く犯しがたいこと。
自信 Confidence 
  • 自分で自分の能力や価値などを信じること
自立 Self-Reliance 
  • 他への従属から離れて独り立ちすること。自分を頼むこと、独立独行
自己肯定 Self-affirmation 
  • 自らの価値や存在意義を肯定できる
自己実現 Self-Actualization 
  • 自分の目的、理想の実現に向けて努力し、成し遂げること。
自尊心 Self-Esteem 
  • 自分の思想や言動などに自信をもち、他からの干渉を排除する態度
プライド Pride 
  • 誇り。自尊心。自負心。
自己万能感 Omnipotence 
  • 「価値のあるボク」という肥大した自己イメージを抱えている

いろんな言い方があるけど、どれもに共通していることは、要するに自分はしっかりしていたいんだ。
自分は良いものだと思いたい。それを作るために苦労して、手離すために苦労している。

自分はこういうもんだね、これで良いんだよねって、確認しながら生きている。
自分はなんのために生きているの?
自分の幸せって何?
そんなこといちいち考えていないけど、きっと心のどこかで、いつもそれを探し求めているんだ。
なんとなくそれが満たされたり、なんとなく不満で、なんか足りないんだけど、、、と空虚感を感じていたり。
それを言語化すると、こういうことになるんだ。

人は、これがないと生きていけない。
とっても大切なものなんだ。
それをどう作って、どう調整するのか。
三世代にわたり眺めてみよう。

^^^^^^
おばあちゃんの尊厳

おばあちゃんは、尊厳を失いつつある。
1月26日にシルバーカーで買い物に行った帰り道、僕が見ている前で転んでしまい、右手が痛くて動かなくなった。気持ちもすっかり落ち込んで、

おばあちゃん、もうダメだ。

生きる気力を失った。
足腰も立てなくなり、いよいよ寝たきり生活に入るのかと思ったが、
1月30日に整形外科を受診して、右上腕骨骨頭部(肩のあたり)骨折、つまり1ヶ月くらいで治るという診断が出た。
おばあちゃんは、「右手さえ使えるようになれば大丈夫」というという希望が見出せて、多少は元気が出て回復しようというやる気が出てきた。
しかし、傾眠傾向が強まり、起きればなんとか食事も自分で取ろうとするのだが、刺激がなくなるとぼーっとして何もできなくなる。体はかろうじて動くけど、気持ちが動きにくくなってきた。
1年前にじいちゃんが亡くなってから、急速に坂を下りている。

少し元気な時、食事とか世話をしようとすると、

「大丈夫よ。おばあちゃん自分でできるから。ありがと。」
「(病院などで)かかったお金、80万くらいかな。それ渡しておくから。」

人の世話になりたくない。迷惑・負担になりたくない。自分でやる。
自立したいんだ。
それが、ばあちゃんの尊厳だ。

ばあちゃんの人生において、生きる意味は広い社会の中にはない。
狭い家庭の中にあるんだ。
田舎町で成績優秀で、当時の女性には珍しく四年制大学を卒業して。
その後の世代なら社会の役割を担うところだろうけど、学歴は単なる花嫁修行の一環に過ぎない。卒業証書は就職の履歴書には使われず、お見合い写真の釣書に使われた。
6人姉妹の四女。上から順番にお見合いして結婚して、専業主婦として夫に尽くし、二人の子どもを育て上げた。家族を世話するという役割がおばあちゃんの生きる目的、生きがいなんだ。

その目的も終了した。二人の子どもはとっくに育ち上がり、去年、伴侶を見送った。
やること、なくなっちゃったよ。
孫の洗濯をしたり、カイの世話をしたり。
人(と犬)の世話を与えるけど、人から世話を受けない。それがばあちゃんの尊厳なんだ。
その尊厳を失ったら、尊厳死するしかない。
仕方ないよ、人は自分を徐々に失っていく。
命が失われる前に、尊厳も失われてしまうのも仕方がないんだ。

^^^^
息子の自信獲得

じんは、大学受験の真っ最中。
8日連続の大学受験ちう。

その初日、いよいよ本番だという時、朝起きてきて、

おやじ、ハンドパワーをくれよ!

と、握手を求めてくる。
普段は無口で、親が話しかけても何も答えず、ほっといてくれよと、距離を置こうとするじんにとっては青天の霹靂だ。

きょうだい喧嘩ばかりして、普段は口も利かないアネキにも握手を求めていた。

今日は、彼にとってもよっぽど心細かったのか、緊張していたのか。

40年前、パパの大学受験の時は、スターウォーズのセリフを使ったんだよ。

May the FORCE be with you! (フォースが共にあらんことを!)
https://www.youtube.com/watch?v=D9XYKY4Km20

と友だち同士が励ましあって、試験会場に向かったんだ。

高校の3年間は、マイペースで頑張った。
受験に関して、親に関わらせようとしない。
塾や予備校を勧めても、自分でやるという。
年下の弟。親の目から見ても、頑張っていた。

じんは滅多に自分を表現しない。

どこを受けるんだ?
模試を受けたんだろ?結果を見せろ!

と言っても見せない。
しつこく言って、やっと見せた模試結果の志望校は全てF判定だ。
そりゃあ、親に見せたくないよな。

本番受験日の前日に父が尋ねた。

じん、明日から本番だな。
ところで、第一希望はどこなんだ?

まだ、決めてない。

決めてないわけないだろ。
でも言ってしまって、そこを落ちたときのことを考えてるんだろう。
だから、親には言わない。
自信なんかぜんぜんないよな。

高校受験で当然受かると高をくくっていた高校に不合格。
以来、彼は自信を失っている。。。ように、親の目は見ている。

祐馬も、ふだんはパパがちょっとでも触れると、「触らないでよ!」と怒るのに、
でも、成田空港に見送り、別れ際のゲートではハグしてくれる。
短期の海外旅行なんかじゃない。
ひとり海外で生活する。心細いよな。
普段はブーたれて甘えている父親との別離に際して、やっと愛着を感じるのだろう。

子どもたちは、普段は強気になりたい。
親の力を求めずに、自分の足で歩きたい。
親からの下手な保護や干渉はうざったいのだろう。

オレのことを信じていないのかよ!!

しかし、時に弱気になる。
そういう時が親のチャンスだ。
パパはしっかり愛情を差し出す用意があるぞ。

わんぱくでもいい。たくましく育って欲しい。
(1970年代の丸大ハムのコマーシャル)
https://www.youtube.com/watch?v=L8QGpL8tLWo

父親が子どもたちに向けるまなざしは、そんなもんだよ。
学歴なんて、どうでも良いんだ。たくましく、幸せであってくれれば。

高学歴家族の問題なんだ。
じんの兄も姉も、両親も、祖父母も、いとこたちも、みんなA級の高校・大学に進学した。

じんは兄・姉と同じようなA級都立高校に挑戦して、落ちた。
当然、受かるつもりでいた。彼は、まだ自己万能感の世界の中にいたんだ。
父親と見に行った合格発表に、彼の受験番号はなかった。
兄・姉の時、父親は喜びの涙を流した。特に、ちゅけの時は、優子の死後2ヶ月で初めての喜びだった。
じんの時、父親は呆然として落胆を示した。
じんは「オヤジ、そんなに落ち込むなよ!」と慰めてくれた。
その直後の帰り道、じんの堪えていた涙が突然吹き出した。

じんがエラいのは、受験する大学が、すべて彼の身の丈にあったB級大学だ。
ふつう、一個くらいはちょっと上の大学を受けるだろう。
誰だって、背伸びしたいものだ。夢は捨てられない。
彼は、ちゃんと捨てている。10割から7割に縮んだ自分を受け入れているのか。
だとしたら、父親が未だに解決できていない葛藤をすでに乗り越えていることになる。

いや、そんなエラいもんじゃあないのか。ただ、気が弱いだけなのか、それとも、A, B, Cとかどうでもいいと思っているのか。
本人は高学歴家族がどうのこうのなんて、考えちゃいない。
ただ、目の前に置かれたハードルをなんとかクリアしたいだけだ。
そのハードルが、社会の中でどんな意味を持つかなんて、知らないよな。それは後からやってくるんだ。

どうやって彼は自信を獲得していけるんだろう。
私にはわからない。
それが父親の不安なんだ。
なぜなら、私自身にその経験がないからだ。

じんは頑張っている。
ちゅけだって、祐馬だって同じだった。
自立したいだけなんだ。
自分の足で立ちたい。

40年前の十代の頃の私だって同じだった。
それで良いんだよ。AとかBとか関係ない。
本人にとっては、同等の挫折であり、頑張りなんだ。
本人たちは、直近の目の前にあるハードルしか見えない。飛べたり、飛べなかったり。
そのハードルが全体の中でどう位置付けられるのかってあまり関係ない。

それは家族が気にすることだ。親が不安なだけだ。
その不安を子どもに投影してしまうと、子どもも、せっかく飛べたハードルの意味がなくなってしまう。跳んだハードルを、そんなの価値がないと親が評価すると、せっかく得られた成功体験を台無しにしてしまう。
AとかBとかという価値は、世間からやってくるように見えるけど、実は家族からやってくるんだ。

優子は、秀才の兄に隠れ、親の承認を得るのに苦労していた。兄が行った東大に行きたかったのに、世間では十分A級な上智も、彼女にとっては「滑り止め」に過ぎなかった。

うつ病の太郎さんは、東大経済学部を卒業した。
彼の父親は東大法学部卒の高級官僚だ。
太郎さんにとっては、東大経はたかが「ネコ文二」。あまり勉強しなかったそうだ。
東大だって、太郎家にとってはB級にもなりうる、相対的なものなんだ。

AとかBとかハードルの高さって、関係ない。
努力して飛び越えたものをしっかり承認すれば良い。
来週、じんは、きっとどこかの大学に受かるだろう。
私はそれを、大いに祝福してやりたい。
浮ついた言葉ではなく、心の底から伝えたい。
そのためには、自分自身の心をもう少し深く点検しなければならない。

〜〜〜
父親の自己万能感の再調整

幼児は、すべて自分の望みが叶うという幼児的自己万能感に浸っている。
100%の自分でいたいと願う。そこから、基本的な自己肯定感が生まれる。
そして、成長する中で、プライドが傷つき、100%から70%、60%と縮小せざるをえない。それを受け入れることにより、ピーターパンの世界から現実の世界に降りてくる。
傷つきを受け入れ、傷ついた自分を受け入れることによって、本当の大人になれるんだ。

そういう意味では、もしかしたら私はまだピーターパンの世界にいるのかもしれない。
なりたい自分を成就してきた、、、というかできちゃった。まだ本当の挫折を知らない。
私は、成功体験が先行してきた。
私は、「学歴」というちっぽけな、しかし日本社会では大きな幅を利かせている指標を使って、自尊心を築いてきた。
小学生の頃は、運動が上手で、かっこよくて女の子にもてるハマダ君が羨ましかった。
小学生の頃は、成績なんて意味を持たなかった。
ぼくも、あんな風になりたいなぁ。。。

しかし、中学に入り、期末試験の学年順位が一桁で、都立進学校、高校アメリカ留学、国立医学部・大学院、英国留学、国立大学教授、開業医、、、

たった、それだけの話なんだよ。
しかし、親は喜び、親の承認を自動的に受けた。
上の二人の子どもたちも、わざわざ言わなくても、高学歴家族のハードルはクリアしているということは自明なんだ。

大学の偏差値って、いったい何の意味があるんだ!?
東大・京大>国立医学部>旧帝大>早慶上智>Gマーチ>日東駒専>大東亜帝国、、、
高校や予備校の教師にとっては営業成績のメルクマールだ。
1970年代の高度経済成長時代の終身雇用制度では、大学のランクが就職先のランクに直結して、生涯収入額と幸せの量にも比例していたのかもしれない。
今は、その世間的価値もとっくに崩れている。
一部上場企業に行っても、つぶれるし、転職するし、うつ病だって、過労死だってある。
そういう人たちを、私はたくさん知っている。

だのに、私は形骸化したはずの価値観に、未だに縛られている。
それは、私自身が、その価値観に準拠して自尊心を作り上げてきたからだ。
ちっぽけな、狭い時代の狭い社会にしか通用しない準拠枠を、すべてだと思い込んでいる。

だけど、私だってハードルをクリアできず挫折した体験だってたくさんある。
なりたい自分になれなかった体験だってありますよ。

  • 運動会のかけっこで一等賞になれなかった。リレーの選手になれなかった。
  • ハマダ君みたいに、女の子にもてなかった。
  • トランペットのコンクールで、全く吹けずに恥をかいた。
  • 慶応大の医学部に落ちた。
  • 大学の試験に何度も落ち、学部長室に呼ばれて、お前は学年でビリから2番目だ。今回はお情けで進級させてやるけど、今後しっかりしろと叱られた。
  • 病院実習で失敗して指導医に何度も叱られた。
  • 内科・外科などのメジャーな分野に行く自信がなく、精神科を選んだ。

いやあ、そんな挫折体験たいしたことないじゃないですか。成功体験の方が優先してますよ。
いえいえ、ここでは言えないようなのも、まだあるんですけど、、、

まともな挫折を体験しないまま、大人になってしまう人だっている。人生を終える人もいるのかもしれない。

自尊心を作っていく過程は、自分自身のみに終わらず、そして自分の家族にも及ぶ。
伴侶は自分のプライドに見合った女性を選ぶんだろう。
優子は上智大だった。
そんなのどうでも良くて、可愛いかったから惚れたんだ、、、とは言い切れない。
優子の元カレたちは皆東大生だった。まあ、彼女は東大コンプレックスだからね。
東大でないけど、国立大医学部の私がかろうじて優子のプライドを満たしてくれたんだろう。
僕のプライドも、優子は満たした。

子どもたちの成長もそうだ。
うちの家族の通過儀礼のハードルはA級なんだ。それを飛べて一人前になる。
なんてこと、誰も決めていないのに、私の自己万能感の中に自動的に組み込まれている。
Aのハードルをクリアすることで、自分は自信を作ってきた。
同じことを、自分の子どもたちに承認を与えてきた。
じゃあ、Bのハードルを飛んだじんに、どうやって承認を与えるの?
そんな、単純な、馬鹿げたことが、わからないのかね>自分よ?

講演会では、お話しの前に講師のプロフィールを紹介します。

  • 先生は、大学医学部をご卒業、同大学大学院で博士号を取得された後、イギリスのロンドン大学に渡り、○○を学びました。6年前に19年間奉職された○○大学の教授を早期退職され、西麻布に精神科クリニックを開業されました。。。

過分なご紹介ありがとうございます。
私は、こんなに偉い人なんですよ。良いものをたくさん持っているんですよ。だから、この人の話は為になりますよ。
講演後に、アンケートを取ると、

先生、とても為になりました。

たくさんの人たちが賞賛してくれる。

先生って、すごいんですねえ。

これが、私の自尊心の根拠なわけ?
人より抜きん出ることが?
なんか、それって薄っぺらな自尊心じゃないかしら?
抜きん出て、人と比較しないと、自尊心を持てないの?
人と比べて、自尊心を持つの?
そういうの、エリート意識っていうんじゃないの?

いや、そうじゃないんだ。
自尊心を得るためには、二段階必要なんだということが、これを書いていて見出した。

1)何かを達成する。
ストレートに達成しても良いんだけど、もっと深いのは挫折し、失敗して、自尊心が傷つき、万能感が打ち砕かれた後に立ち上がり、別の何かを達成するんだ。
やっぱり本人の努力が必要だ。それがないと、他者は承認する根拠が得られない。
空手型の誉め言葉では意味がない。

2)それを承認する他者がいる。

よくできた。素晴らしい!
という言葉があって、達成であることが初めて実を結ぶ。
それは、講演会の参加者でも、私の本の読書カードでも良いのだけど、ホントは、身近で自分にとって大切な人、自分のことをよく理解してくれる人の方がいいな。
世間の人から賞賛を得るには、何か偉いことをしないといけない。抜きん出ないといけない。みんながそれをできるわけでもないでしょ。
もっと身近な人が大切なんだ。
ばあちゃんにとっての子と孫。
じんにとっての親(、、、私だよ)ときょうだいと、友だちと。
私にとっての家族であり、優子であり。仕事の人、、、という意味では私の患者さんたちかな。

世間からたくさんの承認を受けているのに、身近な家族から受けていない人は、とても寂しく孤独を感じている。
世間には全く知られなくとも、身近な家族から承認を受けている人は幸せなんだ。
やはり、幸福は世間からではなく、家族からやってくる。

さあ、じん、頑張れ!!
「負け」を認めてはいけない。
もうダメですと、Give upしてはダメなんだ。
Never give up.
そこでくじけず、立ち上がり、前に進みなさい。
自分に妥協してはダメ。もうここでいいなんて言わず、立ち止まらず、前に進みなさい。

南アルプス甲斐駒ケ岳の黒戸尾根は厳しい。もういいよ、ここで今日は終わりにしようと思ったら、七合目小屋で一泊する。そこを乗り越えたら頂上へ達し、北沢峠まで足を伸ばせる。
私は、北沢峠まで達成した。
別にそれが偉いわけじゃないんだよ。七合目小屋だって良いんだ。

どこかで限界を認めなくてはならない。
エベレスト登頂では、勇気ある撤退が必要だ。せっかくたくさんのお金と時間をかけて頂上を目指すが、気象条件と隊員の疲労度を考え、判断する。
ここで無理をすると遭難する。しないかもしれない、でも危険だ。もともと登頂なんて危険なのに、どこで判断するかが勇気なんだ。そして、断念する。

じんは別に山を撤退したわけじゃない。
彼が選んだ山を登ろうとしているんだ。
彼はよく選べたと思う。
家族の伝統を意識したら3000m級の北アルプスを目指さなければならない。
しかし、彼は高校受験で傷つき、すでに自己万能感をリサイズできているんだ。
ちゃんと2000m級の奥秩父を目指している。
すごいじゃないか。父親より、兄・姉より、お前は人間が出来ているぞ。
お前の達成に心から祝福してやろう。

じんは素晴らしい人間だよ。

それを、早く伝えたいよ。

Tuesday, January 24, 2017

父の一周忌

おばあちゃんは、この1年間で相当老け込んでしまった。
半年前にお墓まいりに行った時は、電車とバスを乗り継ぎ、お墓まで階段を上り、歩いていくことができた。
今回は、とても、とても。
お墓の横まで車をつけ、杖をついて数メートル歩くのが精一杯。
それでも、近所のスーパーまで買い物に行っているんだよな。
洗濯機を回したり、洗濯物を干すことはできる。

ごく簡単な一周忌。
というか、お墓まいりだけ。
無宗教だから法要も何もないし。
妻と子供二人と孫一人だけが集まって、お線香をあげて、それでおしまい。

優子の一周忌は工夫したよな。
僕がプロデュースした。
東京会館の部屋を借りて、優子に近しい人に30人くらいだったっけ、集まってもらって、みんなにマイクを回し、まるでグループ・セラピーだった。
みんなが声を出して、気持ちを出して。
親族もいたよな。
そして、みんなで立食の会食。

今回も、みんなで会食したよ。4人で。
三浦海岸駅の近くの街道沿いにある清楚なレストラン。リニューアルしたみたいで、とても綺麗だった。月曜日の昼間、客は我々しかいない。
地魚が美味しかったね。
この場はおばあちゃんが払うからと言い出したら聞かない。
そのあたりの理性はまだまだしっかりしているんだ。
食欲もある。うな重をぺろっと一人前食べてたし。

こんな感じで良いんだよね。メモリアルって。
おじいちゃんのこと、みんなで悼んだか、、、
もうあまり会話にも出て来ない。
ばあちゃんは、すっかり山から下りてこれた感じだね。何も悔いることはない。
優子は、まだ頂上付近で急に滑落して一気に下ってしまった。
ばあちゃんは、ちゃんと下りもゆっくりこなして、じいちゃんを見送り、やるべきことはすべてやったんだ。
ひ孫の顔を見たければ見ればいい。
人生の楽しみ。ばあちゃんにとって、何だったんだろうか?
十分に楽しんだのだろうか?
それは、ばあちゃん自身の問題ではなく、ばあちゃんがケアした家族の問題なんだろうか。

Thursday, January 5, 2017

8年目

ブログを読み返したら、なんだやってることは、去年の今日とほとんど同じじゃないか!
2日から2泊3日で草津に来ている。
しかも、ちゅけと祐馬という組み合わせも昨年と同じだ。
じんは大学受験生で留守番。

8年前は、ちゅけが高校受験生だった。
つまり、この8年間が、「3人の子ども達の高校&大学の受験時代」だったんだ。
じんが今年、なんとかカタをつけてくれれば、それも今年で終わる。
優子は親として何もやらなかった。俺ひとりでやったんだぞ!

去年はスキーはしなかったが、今年はしたぞ。
3日に万座温泉で。
祐馬は行かなかった。命日にそのスキー場に行くほど神経ずぶとくないって。
そりゃそうだろう。トラウマだもんな。
パパにとってもトラウマといえばトラウマだが、十分振り返って解毒化してしまったんだ。こういうのを暴露療法(Exposure Therapy)っていうんだよ。
ちゅけは8年前は家に留守番で、現場にはいなかったから、別にトラウマでもなんでもない。二人で万座山ゲレンデを散々滑ってきたぞ。
ここは空いていて、適度な中斜面が続くいいゲレンデなんだ。一応、red runだが、blackに近いredだな。8年ぶりに滑ったが、結構な滑りがいがあったよ。優子の腕前ならさぞ息が上がっただろう。心臓に負担かけたな。
もし、あの一本を滑っていなければ、、、、
僕が優子を誘わなければ、、、、と、8年前の「たられば」でした。
だいたい、優子が行きたいって言ったんだからな!
子ども達と一緒に先に上がって、温泉でも浸かってレバ良かったのに!
年末にはチャリで一緒に品川までボタリングした時は全然平気だったじゃないか!!
万座山ゲレンデを何度も何度も滑りながら、優子に話しかけていた。

4日は草津国際で、祐馬も加わり3人で滑ったぞ。
雪は少なめで振り子沢は閉じていたが、清水沢コースを滑ってきた。
ちゅけはスノボで、祐馬と僕はスキー。
祐馬のスキーの早いこと、早いこと!
祐馬は優子の板で滑ったぞ。靴は古くなっちゃってレンタルしたけど、板は優子のをまだそのまま使えるんだ。

幸せって何?
どうやったら幸せになれるの?
人ひとりでは、幸せ感は成り立たない。そりゃ、美味しいものを食べたり、チャリやスキーそれ自体も楽しくはあるが、それを共に楽しむ人がいて、幸せは成り立つ。大切な人が幸せだと、自分も幸せになれる。幸せ感を具現化してくれる対象が必要なんだ。

これは、ちょうど1年前、ブログに書いたこと。

幸せって何?

このことを、今回も考えていた。

幸せはひとりだけでは成り立たない。
この部分では去年と変わらない。

(ここから先は、去年は考えていなかったこと、、、)
大切な人がいて、その人の幸せに、自分が多少とも寄与できた時が、僕の考える「幸せ」なんだ。
じゃあ、その人はどうやって幸せを感じるの?
相手が幸せを感じた時?
それじゃあ、堂々巡り、イタチごっこだろ。
相手に準拠しない、自分の中で完結する幸せってないのか?
ないね。
そういう大切な人が存在してるということが、幸せなんだよ。
一言で言ってしまえば「」になるわけか。
あるいは、「人との繋がり」か。

繋がりを失って悲しみ、繋がりを獲得して喜ぶ。

幸せってのは、「喜び」だけじゃない。
悲しみと喜びの両方をひっくるめて、幸せっていうんだよ。