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Wednesday, May 23, 2018

安心の文脈づくり

葛藤を通り越した先にある真の安心感。
それが満たされれば、attachment systemはinactivateされる。気づかなくなる。

優子との関係がそうだった。パートナーシップってそんなもんでしょ。
家族はそうなんだ。夫婦だって、親子だって、安心できていれば空気になれる。
それが満たされていないのが、今の自分であり、多くのクライエントなんだ。
どうやってinsecureをsecureに持ち込めるか。
もともとのattachment theoryでは、それは子ども時代に作っちゃった鋳型だから、後から変えるのは無理。
そう言っちゃうと、もともこうもないでしょ。

Therapeutic Relationshipがそうでなければダメでしょ。
というか、どんな理論や技法よりも、それが一番大切なんだ。
不安に満ちた家族システムに、セラピストの暖気を送り込み、不安安心に転換する。
そうすれば、病気なんて治っちゃうよ。

不安:Insecure attachment, Avoidant and/or Clinging attachment
Fear of Rejection。
それを安心に転換するためには、拒否・攻撃されることを恐れず、相手と関わり続けること。相手が不安を見せても、こちらは安心のコンテクストを提供し続ける。

精神病患者を恐れてはいけない。タブー視してはいけない。語り続けること。
それが人薬でしょ。

Open Dialogueがそうなんだよ。
対話を続けることのみ。
みんなが参加するんだ。
途中でバックレてはいけない。
否定してはいけない。
タブー視され、疎外され、村八分にされたクライエントを、もとの安心のサークルに呼び戻す。
それだけの話なんだよね。
ラップランドでできたなら、上毛高原でもできるよな、きっと。

そのためには、セラピストが十分な体温を維持していなければならない。
自分自身が温められていないといけない。
人に分け与えるだけの熱量を持っていないといけない。

BCガイドがそうだね。
自分だけじゃなくて、針金やザイルや熊スプレーや、ゲストを救うだけの小道具を抱えて滑るんだ。それだけ重くても、自分の滑りはちゃんと全うできなければならない。
プロはそういうもんでしょ。

自由(自分でいる喜び)vs.献身(他者に必要とされる喜び)

「献身」と訳すとしっくりこないな。
Freedom vs. Commitment.

このふたつの間を行ったり来たりしている。
優子を選んだのは僕の自由意志だった。
家族を作り、commitした。家族のために献身(?)したのかな。父親役割・夫役割を必要とされることで自分が成り立ってきた。
そしたら、自由を欲しくなる。ゴルフに行ったり、スキーに行ったり、ひとりになりたい!ってね。
やっと「ひとり」になれた。
そしたら、人を求める。
いったい、どっちが欲しいのか?

Freedom vs. Commitmentという対立構造で考えたらうまく説明できないんだ。
両方とも欲しいのだと思う。
僕にとってのCommitmentは説明しやすい。
家族人(父親・夫・息子)として必要とされる喜び。
社会人(精神科医・教授・地域の人?)として必要とされる喜び。
そこに自分の存在価値(生きていることに意味があるんだよ)が生まれる。

僕にとってのFreedomって何?
自分の思いどおりになること。自分で自分の行動を選択できること。
じゃあ、思いどおりになって、何をしたいの?
〇美味しいものを食べる。
〇スキーや登山や自転車に行く。
〇旅行や海外に行く。
〇友だちと出会ったり、飲みに行ったり。
→美味しいものをひとりで食べても美味しいって言えないじゃん。「美味しいね」と言える相手がいて美味しくなるんでしょ。
→スキーや登山。大自然の中で自分の立ち位置を確認できる。mother natureとの一体感を味わえる。Backcountry Skiはホント自由だよね。大自然の中を自由に滑れる。危険だからひとりじゃ行かないけど。夏山なら仲間と行くより単独行が良い。テント場ではひとりでメシ食っても旨いかな。自転車は、ひとりでしまなみ海道やふだんの通勤チャリしても、それなりに楽しい。自分の身体と向き合えるからね。でも、イベントに参加した方が楽しいかな。別に誰かと一緒に走るわけでもないけど、周りにおんなじような人がいて、時には「がんばれ」と声を掛け合ったりする距離感が面白いかな。エイドステーションで地元のね~ちゃんから食べ物をもらうのも楽しいし。
→旅行や海外にひとりで行ったってつまらないし。一緒に行く人が欲しいし。
→友だちという意味では、一番わかりやすいのは、学会のinternational consultation groupやMen's InstituteやMKP groupだったり。そこでは、自分の内面を出し、理解し、受け止めてもらう体験。それが自分のliberationに繋がるんだ。否定されることがないというのが大切だね。

個 vs. 関係性
ということ?
自分でありたい。自由でありたい。
でも、結局自分で何をしたいかというと、関係性の中の自分を成就したいわけでしょ。
自分で自由に関係性を選べるということ?
ひとつの関係性にイヤになっちゃったら、別の関係性を選ぶってこと?
本当に安心できる関係性って、裏切られない関係性。
個を犠牲にして、関係性にcommitするっていうこと?
両者はバッティングするの?
両方を同時にうまく成就できないの?
個を求めるためにひとりっきりだと孤独でしょう。
自分の意思で、自分の求める関係性を成就できることでしょ。
自分の求める関係性とは?
自己を展開して(ありのままの自分を出して)、それをスルーせずにちゃんと受け止めてくれる他者がいること。無視しちゃいけない。否定もしない。
かといって、無条件の肯定とかいって、そのまま傷つけずにまるごと受け止めるのではなく、ちゃんと突っ込み、鎧を脱がせて、素の自分を出したうえで、それを受け止める。
だからかなり葛藤するんだよね。
葛藤を通り越した先にある真の安心感。Secure Attachmentだ。
優子との関係がそうだった。
でも、生きている時はそうは感じなかった。ずっとひっついていると、お互いを縛り合うことになってしまうのかね。離れているからこそ、真の親密性は成就できるのか?
International Consultation GroupやMen's Groupはairplane intimacy。日常生活はcommitせず、たまに会うからこそ真に向き合えるのか。
祐馬がそうだ。パパと一緒にいるのは4日が限度だそうだから。でも、時間限定でも(時間限定だからこそ)貴重な愛着だ。
子どもたちが小さい時はそうはいかない。常時一緒にいて守らねばならない。

夫婦は、安心のcontextが生まれれば、常時ひっついている必要はない。Insecureだと引っ付いて(clinging)いなければならない。それは束縛でしょ。
力の差によるcomplementary(相補的)な関係性だと、一方が成就し、もう一方は犠牲になる。Win/Winの関係にならねばいけない。その調整は難しいね。

スルーせず、ちゃんと向き合い、葛藤しても、相手を受け止められる。
そういう関係性が安心を生む。
それが家族だし、クライエントとの関係性であるべきだし、
僕が求めているFreedomと Commitmentの両立なのかなぁ。
どうやって、安心の文脈contextを作っていくか。
よくわかんなくなってきたから、とりあえずここでやめよう。

Tuesday, May 15, 2018

山とスキー

今日、西魔女と話していて、俺にとってのスキーの意味がしみじみよく分かったよ。

小学校1-2年の頃、初めて父親と行った四万温泉スキー場。
リフトも何もない、斜面があるだけ。長靴をスキーに突っ掛けて滑った。
その後、毎冬に父と行くスキーが楽しみでしょうがなかった。
父親が僕をソトの世界に連れ出してくれた。
猪苗代スキー場で亮子を残して、父とふたりだけで上段の急斜面を降りてきたら、一人ぼっちにされた亮子が怒っていた。民宿のメシのたくあんがすごい味だった(まずかった)。
夜行で行った越後中里スキー場。母親も初めていったけど、さんざんで、二度とスキーには来なかった。
中学のブラバン部活をさぼり、顧問から非難されても、父の職場の仲間にくっ付いて八甲田スキー場に行った。ロープウェイで山頂まで登り、ガイドを付けて酸ヶ湯温泉まで滑り込んだ。初めての山スキーの雄大さ!ガイドの青森弁は理解できなかった。
中3卒業時に、確か戸隠に友だち同士で初めて行ったんだ。酒を飲んでゲロ吐いた。
高校山岳部では、よくスキーにも行ったよ。ゲレンデにテントを張って、飯を作って、かぐらと栂池だったかな。
大学に入って、平良と栂池を登り、白馬乗鞍から蓮華温泉に降りるはずが遭難して、一晩、ツエルトで過ごした。今なら捜索ものだよ。翌日が天気が良く、里に下りて来れたから良かったものの。この話は父親にはしたけど、母親にはしなかった。理解できないもの。
大学時代、父親と万座温泉スキー場に行き、久しぶりに父の滑りを見て、ああ、俺は父親を超えたなと思った。子ども時代は父親がお手本だったから、それが逆転したショックと誇りかな。

優子と付き合い始めて、結婚前にニセコ東山スキー場へ行き、まだ下手くそな優子は一番下のファミリーゲレンデしか滑れない。亡くなる前には、一番上から滑れたのに。

優子と行く前に付き合った女性たちともスキーによく行ったよ。「私をスキーに連れてって」の時代だったからね。

別荘を草津に決めたのも、温泉とスキー場があったから。
子どもたちを背負子に背負ったり、紐をつけてボーゲンをさせたり。
保育園スキーの石打国際も楽しかった。
優子を失ったのもスキー場だった(万座温泉)。
そのシーズンはさすがにスキーには行けなかった。
翌シーズン、山岳部の連中と志賀熊の湯に行ったときには、怖かったよ。オレ、スキーに戻れるかなぁって。でも、ちゃんと戻ったし、以来、毎年山岳部OBで行っている。

父親との愛着のスタートがスキーだったんだ。
高校時代もその延長で山岳部に入り、
優子との付き合いも、子どもたちとの草津も、家族スキーだった。
そして、優子をスキーで失った。

両親も失い、empty nestを埋め合わせるのもスキーだった。
今シーズンは30日以上back countryに行ったもんね。
山にいると、スキーやってると、落ち着くんだ。本当の自分に戻れる気がする。
柔道でも、アメフトでも、テニスでもなかったんだ。
僕の人生は、山とスキーを軸に回っているんだよ。

これから、残りの人生どうなるんだろう?
また、新たなスキー人生が始まるんだろうか?
三浦雄一郎みたいに、じいさんいなってもスキーをやり続けるんだろうか?

Monday, May 7, 2018

守るものが無くなった今、、、

今までは、人生を変えられなかったんだ。
守るべきものがあった。
子どもたちと両親。それらを守るのが優先していた。

今は、守る人がいなくなっちゃった。empty nest。巣が空っぽになっちゃった。
自分のパートナーが欲しい。
今までは、寂しさが満たされる親密性は必要だったが、新しい生活は欲しくなかった。
新たな関係性に責任を持てなかった。だって、責任を果たすべき関係の維持に手一杯だったもの。

今は違う。
巣はいらなくなっちゃった。
守る人が欲しい。
責任を持ちたい。
新しい自分を得る得るために、今まで維持してきた枠組みを捨てられるんだ。
新しい巣と、生きがいを作るために?

Empty Nest Syndromeなのかなぁ

新幹線の隣の席には、若い母親が赤ちゃんを膝に抱き、子どもに離乳食を与えている。
車内は混んでいて、若いお父さんは離れた席に。
「席を代わりましょうか?」
「いえ、大丈夫です。ありがとうございます。」と若い女性はにこやかに応える。

「私の子供たちは24-22-19歳なんですよ。
あなたたちの赤ちゃんを見ていると、その頃の子どもたちのイメージと重なってくるんですよ。20年も前のことなのに、全然違和感なく、まるで昨日の出来事のように思い出しますよ。
その頃は、我々も若かったんだろうね。大変だったんだけど、一生懸命だったし。苦労はそんなに苦痛ではなかった。苦労もしたけど、楽しかったよ。充実してた。
子ども達のいのちに責任を持ち、てんやわんやしながら成長していく姿をまじかに見れば、親として、人として生きている大きな価値を授けてくれた。
今は、そんなこと考えている余裕もないだろうけど、この歳になって、子ども達が自分の手から離れると、あの頃は本当にリア充だったよ。若い頃、多くの異性・同性の友人・仲間に囲まれていることが本当のリア充じゃないんだ。夫婦で喧嘩して、仲良くして、双方の親と確執して、子ども達の教育方針で言い争っていた頃の方が、深いリア充だったよ。夫婦を手放すと、そのことがよくわかるんだ。
私はきっとempty nestなんだね。あなた達が赤ちゃんと頑張っている姿を見ていると、その頃の私と家族のことがフラッシュバックするんですよ。あの頃は、一生懸命、なんの自信も余裕もなかったけど、充実してた良い時代だったと。」

と言いたかったけど、実際に言えたのは、降りる間際の、
「頑張ってくださいね。」
の一言だけだった。