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Wednesday, October 28, 2009

精神科医に求められるもの

Pさんが我々の年代になって、今までなさってきた○○科から精神科に転科するのは、ある意味、とても賢い選択だと思います。○○科が体力や的確な判断力、技術力などを使うとすれば、精神科は習得すべき知識や技能ははるかに少ないし、体力もそれほど要求されないから、一見とっつきやすいです。しかし、実は奥がとても深い分野です。他の分野ではそれほど要求されない医師自身の人生経験や感性を主に使うからです。

私の経験からアドバイスさせていただくとすれば、まず自分さがしを十分に整理したらよいということです。

私も含め、精神科を志す人は多かれ少なかれそういう動機を持っています。
自分が何者で、どうやってここまでたどり着いたか。そこを十分にクリアしておかないと、自分が秘めた精神構造と患者のそれがごっちゃになってしまうんですよ。
そのためにも、個人的なsupervisionを受けられたらよいと思います。医局や病院では、そこまでは難しいでしょう。僕もいろんな機会を利用して受けてきました。今も継続して受けています。ご希望でしたら、具体的にご紹介しますよ。

精神科は診断・治療に関する理屈や知識ではないんですよ。本を読めば、さまざまな○○理論があるけど、それを深く理解したところで患者さんを治せるわけではありません。自分の心情や自己理解をどれだけ深めているか、ということが最も大切だと思います。

患者さんを診断するために、身体医学のような客観的データは一切なく、治療者の主観的観察のみがデータとなります。そこには、観察力の正確さよりは、豊かさが求められます。患者が語り、表現する内的体験をどう受け取り、どう意味づけするか。その際には、必ず自分自身の体験を基準枠として、そこからのズレを有意な情報、あるいは異常として感知しているのだと思います。
自分自身の体験自体が曇っていたら、いくら診断学を学んだってダメです。自分という主体が相手を知る時には、必ず自分独自のレンズを通します。まったく曇りがないレンズはありえませんね。多少、色がついていたり、歪んで見えます。自分のレンズは無色透明で、正確に対象を映し出しているんだなんて考えている人ほど危ないわけですね。病識がないというか。
自分の持っているレンズの色の付き具合、ゆがみ具合をちゃんと自分自身で把握できているか。つまり、自分の感情の動きをモニターできており、それが自分の人生体験のどの部分と、どう関連しているのかということを理解してなくてはなりません。そこまで自分自身を見つめ、深めることができれば、クライエントの体験も、無理なく深めることができます。逆にいえば、自己の体験を深められなければ、クライエントの気持ちを深めることもできません。誰でも心のふたを開け、その中の気持ちを深めようとすると抵抗しますからね。その違和感・不快感をどう乗り越えるかということは、治療者自身がそれを体験していないと、わからないことだと思います。

あえて整理しなくても、こういうことは自分自身わかっていらっしゃるかもしれません。普通の人は、それで十分なんですよ。でも、患者さんの心を支援する専門家は、さらにその一歩先まで深めなくてはなりません。自己の体験に言葉を与え、信頼する他者に向かって言語化する体験が大切だと思います。その困難さ、表現した時の、自己が崩壊する感覚、そしてそれが他者に受け止められ、カタルシスとともに再生する体験なんです。けっこう難しいですよ。ひとりじゃできませんから。協働してくれる人を見つけなくてはなりません。

表面的な症状を記載すること自体は簡単だから、短時間の研修でも、操作的診断マニュアルに当てはめて診断し、適当な薬を処方することはできます。でも、それを人間的に理解できないんですね。
こういうことは、いくら偏差値が高くて頭脳明晰なお医者でも、若い頃は無理だと思います。僕もこんなことを考えるようになったのは40歳を過ぎて、いろんなスーパービジョンやグループワークを体験してから考えたことなんです。だから、20代の医学教育に含めるのは無理で、自己努力でやらなきゃいけないんですよ。日本ではそういう体勢もほとんどできてませんからね。僕の体験の多くの部分は海外での研修やワークだったりするんです。

そういう意味でも、この歳から心機一転、精神科を始めるPさんには、ぜひ、このあたりのトレーニングも含めて考えられるとよいと思います。

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