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Sunday, August 22, 2010

スローライフ・スローフード

今夏の草津ハイキングは野反湖にしよう!
エ〜、うちらだけで行くの〜?
そうだよ。うちら3人と犬一匹で行こうね。
エ〜、ヤダー、疲れるから行きたくない〜!

と言いつつ一緒に行けるのも、きっと今年が最後くらいかもね。
標高1500m、一周コースタイムで3時間の道を、犬を放し、4時間かけて湖畔を巡る。
前半は普通の山道を、後半は水位の下がった砂地に靴をのめり込ませながらゆっくり歩く。
こんなところ、歩いてもいいんだろうかね?
草津や志賀高原に比べ観光地化されておらず、人も少ない。
カイ君も、子どもたちも良く歩いたね!
帰路の車は、さすがに疲れて、2人+1匹ともぐっすり。
夜は、じんと2人で白旗の湯の熱〜いお風呂に入る。...というか、熱すぎて入れない。
それが昨日。

今日は午前中、渡辺牧場でブルーベリー狩り。お腹がタッポンたっぽんになっちゃった。
お昼は庭で火を起こし、二日前からタレに漬け込んでおいたスペアリブとトウモロコシでBBQ。
仲間が来なくたって、ママがいなくたって、君たちと一緒に外で美味しい食事しようね。
ねえ、まだ〜?お腹が空いた〜!
あと30分くらいかな。こういのをスローフードって言うんだよ。ふだんはファーストフードですばやく食べるでしょ。
こういうときは、わざとのんびり、ゆっくり食べるんだよ!
カイ君も骨のおこぼれをもらって満足だね。
スモーカーには3日前から下準備したチキンレッグとレバーを、ヒッコリーチップで燻す。
バーボンと氷があれば最高だね!
パパも君たちとゆっくり時を過ごせて満足だよ!

Thursday, August 19, 2010

沖縄3 <優子と感情を放す>

世界の果ての日本。
その果ての沖縄。
その果ての久米島。
その果てのはての浜
周囲7kmほど、草木も生えない珊瑚の白い砂浜だけの無人島へツアーでボートを繰り出した。
昨年、優子石を作るため骨の一部を取り出して砂状に細かくした。その余りを小瓶に入れ、その半分は昨年の夏、優子が昇天した万座温泉スキー場を見下ろす草津の山から空に離した。
残り半分は、ここでみんなで海に放そう!

優子は海派だったよな(僕は山派)。若いころ仲間と行ったサイパンでは一日中シュノーケルで浅瀬に浮かんでいた。だれもが気持ち悪がる黒いナマコを直に指でつまみ上げ、みんなをビックリさせたのが懐かしい思い出だ。子どもの頃は海洋生物学者になりたかったんだってね。最果ての浜辺は、世界の海に直結している。ここは残りの優子を放つには最高の場所だ。これで、優子は空と海を自由に吹き渡ることができる。
白く小さくなった優子を手のひらに取り、海に放す。思わず涙があふれてくる。保育園パパも灰を手に取り涙を流してくれた。

でも、ユマは参加していない。ママの灰を手に取るのを拒否して遠巻きに眺めている。まわりの人の目を気にして、パパが泣けばすぐにタオルを投げてくる。
「大丈夫だよ、サングラスかけてるからわからないよ。」
「イヤなの!」

さえもそうだったよな。昨晩、民謡酒場でお父さんのパフォーマンスに耐えられず、恥ずかくて顔を上げられなかったよね。われ関せずと知らんぷりしてればよいのに、そうはいかない、普段はうざくても、ほんとはすごく大切なお父さんだもんね。
自分の気持ちを我慢して、他者と折り合う術を学びはじめた中二の彼女たちにとって、気ままに感情を放すパパたちのパフォーマンスは耐えられないよな。

沖縄2 <民謡酒場にて>

「元気だった母親が急に亡くなるなんて、子どもたちにとって、絶対考えられないほどのすごい出来事だったと思うの。それなのに、去年、お手伝いにおじゃました時、子どもたち3人とも健気に普通にしてたじゃない。おかしくなっちゃうとかじゃなくて、普通にしているのが考えられなかったの。」
泡盛も手伝い、しながら仲間のママさんが去年の気持ちを語ってくれた。

ありがとう。
そうなんですよね。僕もあのときは自分自身に精いっぱいで、子どもたちがどうなるか、それに対してどうすればよいかなんて考える余裕は全然なかったですよ。でも、幸い子どもたちは意外と平気だったですよね。僕もびっくりした。むしろ僕の方が全然ダメだったもの。

今から振り返るafter thoughts。
大人は、過去・今・未来の連続した流れの中で自分の存在・安定性を確保しているんじゃないかな。それが急に途切れたときのショックは大きく、悲しみは深いですよ。
それに比べると、子どもは、に生きているみたい。母親が亡くなった時、彼らはそれなりの反応を示したんですよ。祐馬は母の死を知らせたとき号泣し、じんは自宅に安置された冷たい母の顔に頬を押しつけ、「ねえ、はやく生き返ってよう!」と号泣した。ちゅけは、、、少なくとも僕には見せていない。でもその後は、悲しみを振り返ることもなく、あっけらかんとしている。ずっと僕の方が引きずってますね。
大きな喪失・悲しみを体験しても、その後、周りの人たちが支えてくれて、残った家族がバランスを崩さなければ、彼らは健やかに生きていけるみたい。逆に、喪失と悲しみのために、彼らの生きる生活が混乱したら、子どもたちもきっと混乱するんでしょうね。
そして、子どもから大人になっていく思春期に、今までバラバラだった過去の記憶と今の自分を結びつけ、未来へ向けた安定した自我像をつくっていくのでしょう。その時、近しい他者から愛され、受け入れられた過去の記憶がとても大切な肥しになると思います。

のんきなこと言ってられない、ちゅけと祐馬は、まさにその時期なんだよな。

Saturday, August 14, 2010

沖縄1

ふぅ。やっと羽田を離陸したね!
これからのんびり沖縄long vacation。
思えば、ほんの3年前だったよね、家族五人で初めて沖縄に来たのは。カヌチャベイのホテルや美ら海水族館は楽しかった。でも肝心のビーチはいまいちかなあ。次回は海のきれいな離島に行きたいねってママと話していたんだ。
今回は、毎夏来ているさえ一家に便乗して久米島へ。さえは一人っ子、うちは一人っ親。3+3=6人の楽しい休暇!
ちゅけが来れないのか残念だね。でも良いんだよ。あいつは、もう家族とは別の自分の世界を築いてるんだから。試合に応援に行けないけど、頑張れよ!!

優子、約束を果たすよ。優子も連れて来たし。
余裕ができれば、子どもたちにも優しくできる。

Friday, August 13, 2010

ひとり親のニコニコ子育て術

ひとり親といってもいろいろある。

  • ホントにひとり親
    • うちのように親が死んじゃった場合
  • ふたりいるけど、実質的にはひとり親の場合
    • 離婚した場合
    • 離婚してはいないけど、実質的に離婚してる場合
    • 子育てに関わろうとしない場合(仕事が忙しくて、子どもに愛情・関心がなくて、あなたは関わらないでとパートナーから拒否されている)、などなど


「最近、A子は問題が多いね。」
「あそこは、ひとり親なんだ。」
「ああ、、、やっぱり、、、」

ひとり親は、子どもに問題が起こりやすい
、、、、まわりも当事者もそのように考えがちだが、決してそんなことはない。

ひとり親でも、十分、ちゃんと子どもを育てられる。
子どもに必要なことはふたつ。

  1. 物質的な充足:適切な栄養と、安全で快適な生活、安らぐことができる住まい
  2. 精神的な充足:自分を見守ってくれる、大切にされているという愛情


確かに、ひとり親はふたり親に比べればハンディを負うが、ひとり親だって十分与えられる。
これらが不足すると、問題が生じる。

  1. 物質的な不足:経済的な余裕のなさ、特に父親がいないとそうなりがちだ。社会・福祉の支援が必要になる。
  2. 精神的な不足:親の気持ちの余裕のなさ、たとえば死別した悲しみや、離婚した元パートナーへや、いるけど役に立っていないパートナーへの怒りが、いつまでも消化されぬイライラ・葛藤となって子どもに向かってしまう場合。あるいは、ひとり親であることの引け目、ひとりじゃ子育て無理よという自信のなさや不安、夫婦間の愛情のやり取りに失敗して、子どもとの愛情のやり取りにも自信を持てない場合など。結果的に親がせっぱつまると、子育てがうまくいかなくなる。
    • 親自身のイライラを子どもにぶつけ、必要以上に叱り飛ばしたり、
    • 逆に、どう子どもに接してよいか自信をなくし、子どもに何も言えず、叱ることもできなくなる場合などがある。


これは、親がひとりかふたりかということはあまり関係ない。ひとり親でもしっかり充足している場合もあるし、ふたり親がいても不足してる場合だってある。

さらに子どもが思春期になると次のふたつが付け加わる。

  1. 自己肯定:自分は良いものだという自信を得る
  2. 社会性の獲得:自分の欲求と社会の規範とを調節し、社会の中に居場所を見つける


これは、基本的に思春期の子ども自身が自分の力で獲得するものだが、親はその環境を整えることができる。

  1. 自己肯定:親がたっぷり子どもを肯定すること。それ以前に、親が自分自身を肯定していること。子どもは自分の由来である親の肯定的イメージを胸に抱き、自分自身を肯定していく。親が自信を失い自己を否定していたり、闘争中のパートナーのことを子どもに愚痴っていると、子どももその親を否定することになる。
  2. 社会性の獲得:社会に出る前に、家庭の中で規範を作ってあげる。子どもは反抗期に入るから親の対応は難しくなる。子どもの自由・自立を認める一方で、ダメなときはダメとしっかり伝える。自信をなくし、傷ついている親は、子どもも傷つくことを恐れ、ダメと言えなくなる。


これらを踏まえ、ひとり親のニコニコ子育ての秘訣集

  • ひとり親は不利という前提をはずす。代わりに「ひとり親だって大丈夫」という前提でやりましょう。むしろ、ひとりの方がうまく子どもに接することだって可能なんだから。
  • 親自身が気持ちに余裕を持たせる。悲しみや怒りがたくさんあったら、どうにかしてうまく消化する。子どもにぶつけてはダメ。
  • いない親の肯定的なイメージを子どもと一緒につくる。

具体的には、
パートナーを亡くした場合

  • 親の悲しみを見せることが良い部分と、悪い部分がある。パートナーも、子どもも、喪の作業は必要です。親が悲しみを表現するモデルを作ってあげる。お葬式や墓参り、一周忌など、悲しむべき時はたっぷり悲しみます。子どもは大人ほどには上手に悲しみを表現できません。親が悲しむ姿を見て、子どもも悲しむことができます。
  • しかし、ダラダラいつまで悲しんでいるのは良くない。普段でもブチブチ悲しみ、やる気をなくしている親を見るのは子どもも辛いもの。悲しむべき時、そうでない時のメリハリをつける。
  • 喪の作業がある程度進むと、悲しみに満たされずに亡くしたパートナーのことを語れるようになる。そうなれたら、死んじゃった親の話を親子でしましょう。どうやって知り合ったの?どうやって結婚したの?どうやって子どもたちが生まれてきたの?親が愛し合い、祝福されて自分がこの世に誕生したストーリーは、子どもへのとても大きな肯定的メッセージになります。


パートナーと葛藤している場合

  • 怒りの気持ちを隠す必要はありません。隠したって子どもにはわかってしまうから。でも、子どもの前ではパートナーの人格までは否定しません。怒りは夫婦関係の中で出てきたもの。夫婦関係と親子関係は別だから。
  • 夫婦関係が不可能なら、さっさと別れる。子どもにとって一番良いのはふたりの親が仲良くいること。二番目に良いのは夫婦は離婚したけど、親が元気なこと。一番悪いのは、夫婦が仲良くなることも、別れることもできず、いつまでも中途半端でぶちぶちストレスを周りに(子どもに)振りまいていること。子どもは一番傷つきます。
  • 夫婦関係を整理したうえで、良い親子関係を確保する。一緒に暮らす親との良好な関係はもちろん、もう片方の親と、子どもが如何に良い関係を維持できるかが、子どもにとってはとても重要で、元夫婦にとってはとても困難な点。夫婦がよりを戻す必要はなく、別れたままで良いのだけど、子どもの親としては協力できる体制、必要なときには話し合える体制を作れるかどうか。当事者だけで難しいときには、第三者が入る。昔は親類や友人、今は調停委員やカウンセラーがその役を担う。


(この原稿、まだ書きかけです)

人間ドック

年一回の人間ドックに行ってきた。
35歳から始め10回以上受けたが、胃の内視鏡検査は二回目。大学の福利厚生でできるのも今年が最後だから、やっておいた。

他の検査は楽なんだけど、これはけっこう負担なんだよね。麻酔薬を飲んで、ブスコパンを筋注して、ゲボゲボ、ゴホゴホ、いやあ気持ち悪い。終わったらフラフラ。しかも、朝食を抜いて腹減ったのに、のどの麻酔が抜けるまでの一時間は飲み食いできないんだって。
でも、素人判断(玄人?、、、まさか)で内視鏡画像の食道・胃・十二指腸の粘膜には異常はないし、他の検査も特段異常はなさそうだ。それどころか体重が昨年より5kg減!
最近、意識して食事量を減らし、チャリにテニス、運動してる甲斐があったね!

でも、次から次へと効率良くたくさんの検査をこなしながら思った。
もし、僕が入院したら、だれが看病してくれるんだろう?
医療スタッフが充実していても、誰が気持ちを支えてくれるんだろう?

優子に、親に、子どもたち。今まで、看病する側はたくさん経験した。特に優子は多かった。子どもたち3人の出産も含めると、手術や検査入院、何度この病院に見舞いに行ったことか!仕事の帰り急ぎ足で病院に向かい、病室で待ちわびる優子が僕を見つけた時の安堵の表情。
テイクアウトのインドカレーを持ち込んで病棟中に匂いが漂い、ヒンシュクを買ったこともあったよな!

けれど、看病される側はまだ経験してないからなあ。
今は健康だから強気でバンバン押してるけど、いつかはそれが効かなくなる時が来るのだろう。
人間ドックは、その免許更新の手続きみたいなもんだ。

とりあえず、今回はクリアして、明日から子どもたちと沖縄旅行。

Sunday, August 8, 2010

最後のゼミ合宿

毎年恒例のゼミ生夏合宿に行ってきた。
学生はセミナーハウスに泊り、僕は別荘に泊まり、仕事半分、休暇半分。
自分の仕事も一応持ってきたのだけど、一ページも開けなかった。
でも、妙な満足感がある。
病み上がりの父親が来て。
近所に八百屋とスーパーがないから来たくない母親と、班活で忙しく半分親離れしているちゅけを東京に残し、祐馬とじんとカイが一緒。助っ人に妹も来てくれた。
学生たちとの勉強の合間に家に呼んでBBQ。いつものベーコンに加え、今年はスモークチキンも作ったぞ。
最後の合宿ということで、研究室の卒業生が3人来てくれた。頼りなかった元学生たちも、八年たつとしっかりそれぞれの道を見つけている。半日、彼らの話に費やし、現役後輩クンたちは、しっかり聞き入っていた。窓の外には子どもたちとカイ君が見え隠れしている。
最後は僕の最終講義(8月3日)の話。現役・OBたちへしっかりと伝わったみたい。
けっこうみんなもブログ読んでくれているんだね!

みんなに囲まれている安心感。

よっしー、イラスト頼んだぞ!

Tuesday, August 3, 2010

最終講義

前回のまとめ
まとめ役をふるのを忘れました。まず、みんなからのリクエストを受けフルーツバスケット。私の授業は、フルーツバスケットに始まり、フルーツバスケットで終わりました。次に、前回のしんぶんのコメント「授業が進んでいくうちに、自分の生き方についていろいろ考えさせられ、私って一体何なんだろうと、よく考えるようになりました。」ということで、みんなで「いまのわたし」を語り合いました。まず教員からみんなに、そしてみんながグループになって。

二十歳のTikiです。
①大学に入学し、高校時代の目標を達成し、親も多分ひと安心、将来の人生設計も何となく見えてきたけど、内面の自分は、まだよくわかっていないです。高校時代の彼女と別れ、女なんてもういい!アメフトで男同士群れてます。勉強はかなり難しくなり、高校までは一応できる方だったのが、一気に劣等生になり、こんな成績で医者になれるんだろうか。自信なんかぜんぜんないです。漠然とした不安でいっぱい、というか不安であることさえわかってないかも。自分がいったい何者なのか?、なぜ生きてるのか?、人生の目標は?、、、いわゆる自分探しにはまってます。
なぜ医学部を選んだのですか?)本当は理学部の分子生物学に興味を持っていたんですよ。分子レベルで生物を理解したら、自分のことがわかるかもしれない。自分探しの延長ですね。でも、偏差値的に医学部に行けそうなら、そっちの方がオールマイティーだし良いかな、くらいの動機でした。
もちろん、表面的にはうまくやって、つじつまを合わせてますよ。大学はギリギリで留年をまぬがれたし、バリバリ体育会系にはまり、皿洗いや家庭教師などバイトも随分やりました。親元から離れ、気ままな学生寮生活。授業さぼって徹マンしたり、酒盛りしたり、親が見たら卒倒するような日常生活です。
将来の道は、勉強に自信ないので、学究的な内科系は無理。頭はなくとも体力で勝負する外科、産婦人科くらいかなと思います。

52歳のTikiです。
①二十歳のころの自分探しは、恋愛によってとりあえず解決しました。一時お休みしていた恋愛活動も大学の後半から復活し、何人かの女性を経由して、妻と出会いました。自分が必要とし、必要とされている絶対的な他者が存在することで、不完全だったボクがカップリングしてフルの自分となり、自分が生きている意味とか考える必要がなくなりました。
なぜ精神科医になったんですか?)体育会系からは一番遠いところにあるネクラな文系と決めつけていた精神科を自分が選ぶとは思ってませんでした。身近に高齢者がいなかったので、病気を治すんだったら、この先長くない老人よりも、先がたくさんある子どもを救いたい。小児科か産婦人科もいいかなと思っていた頃、「子どもの精神科」というのがあることを知りました。まだ新しく未開発の分野ということを先生から聞き、それなら自信のない僕でも入り込む余地があるかもしれない。もともと、子どもと関わることが好きでした。学校の先生にもなりたかったかも。
なぜ、大学の先生になったんですか?)30歳の頃の留学中に、大学の恩師から学芸大に先生の口があるから来ないかと誘われたのが直接のきっかけです。でも、その背後には元大学教員であった父親の影響があったと思います。小さいころから刷り込まれた、暗黙に決められた進む道だ、みたいな。大学の先生の特権は、自分で仕事を選べるんです。教育ばかりでなく、研究や臨床も。だから、授業ばかりでなく、週1回のお医者や、専門分野である家族療法の研究もやってました。正直なところ、はじめの頃は授業や教育にはあまり興味がありませんでした。でも、タム研の学生たちに卒論・修論を指導しているうちに、私の存在が、彼女たちが社会人として成長するプロセスにすごく影響していることがわかり、教育の素晴らしさ・やりがいが見えてきました。でも、最後まで大人数の講義にやりがいを感じることができませんでした。それは僕自身の学生体験から来ています。30年前の学生時代を振り返ると、感銘を受けた授業もあったんだろうけど、授業内容は全く覚えていません。どんなに良い話でも、人の話を受け身で聞くことが嫌いだったので、自分が話す側になっても熱が入りません。逆に座学ではない体験系はよく覚えています。みんなは教育実習、私は病院実習だったけど、病院の風景や患者さんの様子など、細部はもちろん覚えていないけど、イメージや感動したことは覚えています。だから、みんなへの授業も私の話は極力抑えて、みんなの体験を重視したでしょ。少人数の研究室ゼミなんかもやりがいがありますねえ。
なぜ、先生を辞めて、お医者に戻るんですか?)今から振り返れば20歳以降、私はずっと安定化路線を走ってきたんですよ。医師免許を取得して、就職し、結婚して、3人の子どもを産み・育て、家を建ててローンを払い終え、大学教授になって、本を書いて、みのもんたの朝ズバに出演し(笑)、、、
でも、1年半前に妻を喪い、30年間の安定性が一気に崩れてしまったんです。もちろん、経済的・社会的な自分は崩れず、すごく安定したままで、たくさんの人たちから必要とされています。しかし、肝心の一番近くにいる大切な人を失っちゃったわけ。自分の身体の半分を再び失ったようなもので、また学生時代の自分探しに戻っちゃったわけです。ここはどこ?私は誰?
前々から、大学の先生よりお医者の方が肌に合ってるなとは感じていたのだけど、大学教授もかなりオイシイ仕事だし、あえて辞めて転職するほどのインセンティブはありませんでした。でも、この1年半考えてわかったことは、妻を失った分、他者に必要とされる自分が必要になりました。第一に、子どもたち。小中高の3人の子どもたちにとって、ひとりになった親は絶対的に必要です。私にとって父親役割は最優先する生きがいです。第二に、仕事面ではどうだろうと考えると、大学の先生より精神科医の方が、相手にとって必要度が高いんですよ。大学の先生がひとり欠けたら寂しいけど、多くの先生たちがいるから、自分の学生生活の大勢に影響はないでしょ?でも、かかりつけのお医者って、私の命あずけましたみたいにすごく大切じゃない!多くの学生たちを相手にするより、そういう少数の人たちとの密な関係性に生きがいを求めるようになりました。(ちなみに、小学校の担任の先生もそれに近いよね。)
人生の第四コーナーを順風満帆、安定して走っていたら、突然の出来事で転んじゃってね。みんなからはそう見えないだろうけど、これは中年期の危機なんですよ。再び立ち上がり、残りの人生を走り抜けるためには、自分の点検・立て直しがどうしても必要なんです。私のようなパートナーを喪失なった場合に限らず、子育てや仕事の失敗、夫婦関係の破たんとか、中年期の危機に直面する人たちはたくさんいます。みんなのような青年期の危機ばかりでなく、そういう人たちの力になりたいと思ったのも精神科医に戻る理由のひとつです。もっとも、この歳で仕事の方向転換をできるのも、資格を持っている強みですね。みんなも資格はしっかりとっておくと良いよ(数撃てばよいというわけではないけど)。
ふつう、定年退職する大学の先生は、退職前に「最終講義」をして自分の教育者としての人生を総まとめするんだけど、私はまだ途中だからやりません。これが、最終講義の代わり、学生たちへの最後のメッセージです。まだまだ、人生は続くからね。今まで授業とメールで交流してきたように、これからはツイッターとかブログも使って交流しましょう。さよならなんて言いません。