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Wednesday, January 27, 2010

おばあちゃんとコルテオ

この前の日曜日、祐馬とじんを連れて、生田のお祖母ちゃんと会った。
おばあちゃんは、待ち合わせより1時間早く来て、時間つぶしにハンドバックが安かったから買っちゃったんだって。
おばあちゃんもだいぶ元気になったよね。去年の今頃はとても落ち込んでいて心配したけど。一周忌がとても良かったって。今まで、娘のことは辛すぎて親戚にもご近所にも誰にも言わず黙ってたけど、ああやって話す機会がもてたし、集まった人たちから優子のいろんな話を聞いて、だいぶ気持ちが楽になったって。

祐馬の希望で、表参道のクルック3でオーガニックなおそばを食べた。美味しかったね。おばあちゃんは、こうやって孫たちの元気な姿を見るのが何よりも楽しみなんだって。
その後、おばあちゃんとは別れて、3人でシルク・ド・ソレイユのコルテオを見に行った。
ゆ)おばあちゃんとか、あれ、絶対衝動買いじゃん!
パ)おばあちゃんは、お金は有り余ってるんだよ。ひとりじゃそんなに使いみちもないし、ゆまにも何でも買ってあげるよとか言ってたでしょ。
ゆ)「2ヶ月に一遍くらい、こうやって会って食事しようね」っておばあちゃん、言ってたよ。
パ)...そうだ!ゆまはGAPで洋服買ってとか、あれ買って、これ買ってってよくパパに言うでしょ。そういう時、おばあちゃんのところに行こうよ。そうすれば、おばあちゃんは孫に会えるし、祐馬は欲しいものを買ってもらえるし、パパは女性服売り場に行かなくても済むし、一石三鳥じゃん!
ゆ)....

コルテオは、体操好きなじんがじっと食い入るように見ていた。
ゆ)あれ、じんは絶対すごい影響されてるよ!
今日は、東京公演の最終日だったんだ。終演後、Salyuがsurprizeで出てきてテーマ曲を披露した。
ゆま、コルテオで何が良かったって、Salyuが見れたのが一番良かった!
パパは何が一番良かったって、こうやって子どもたちと一緒に過ごせたことだよ!
ちゅけは、、、一日部活で来れなかったけどね。

出張による現実からの逃避

羽田空港Terminal 2にあるOrganicバイキング餉餉(けけ)は期待はずれだった。駒沢公園のは料理がすごく充実していたんだけどなあ(だからすぐにつぶれちゃったのかもしれないけど)。それでも、他のレストランに比べれば再訪する価値はあるだろう。

明日午後からの講演だから、無理すれば日帰りも可能だ。でも、それは疲れるだけ。じじばばに子どもたちを任せて、前日の晩から山口に入ることにした。
学会や講演などのひとり出張。今までは、接待とか、仲間と飲みに行ったり、ひとりだけだったら、宿近くのバーのママさん相手に恥のかき捨て的に酔っぱらってもいいのだけど。
優子がいた時、家や職場という日常から一時的に解放される泊まりの出張は楽しみだった。やった!、ひとりになれる!でも、実際ひとりになると、とたんにさびしくなるんだよな。せっかくの自由な空間を、誰でもいいから人かお酒で埋めようとする。

優子がいなくなってから、あえて寂しさを紛らわせないのもいいかなと思い始めた。そうすれば、悲しみと孤独の中で優子に会えるから。ふだん、仕事と子どもたちに振り回されていると、優子を出したくても出てこないからね。良いチャンスだ。
でも、よく考えれば優子がいない現実は、逃避したくなるほどの拘束力は持たなくなったなあ。優子は強い拘束力でもあったんだ。なにしろ僕の体の一部だったから重たかったよな。常に優子の眼差しを意識して、二人三脚がうまくいけばすごく楽しいし、歩調が乱れるとすごく負担になる。依然、子どもたちや仕事という拘束はあるけど、優子に比べればたいしたことないな。

以上、空港と飛行機の中で思案が盛り上がってメモしたんだけど、結局、宿に着いて風呂に入ったら、眠くなって孤独と優子には会えませんでした。まあ、骨休みになったからそれもいいけど!

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で、当日。午前中の2時間をつぶせるところないかなと探したら、湯田温泉街の近くに、気持ちの良い場所が見つかった。山口市立中央図書館。広い公園の中にある総ガラス張りの近代的な建物の中に広々とした閲覧室がある。これはいいな。しかも、ネットやPCも使える。早速手続きをして、今、そこからブログをアップしてるんだけど、問題は、アクセス速度が遅い、遅い!しかも、gmailをチェックしようとしたらフィルタリングではねられるし、やたら使いにくい。
まあ、仕方がないか。のんびりやりましょう。

教師のための大学授業:追加

あ、あと先生に。新しいパートナーも素敵ですが、私の一個人の子どもとしての意見としてはお父さんに彼女ができるのはいいけど、新しいお母さんが出来るのは嫌です!

そうね、大学生のみんなの立ち位置はまだ子どもだから、子どもの気持ちよくわかるんだね。
そう、子どもたちにとって、自分を産んでくれた大切な、ただひとりのお母さん、絶対的な存在だよね。
母親が生きていれば、子どもたちが成長するプロセスでゆっくり親から自立して、絶対相対的な存在に変えてゆけるけど、突然死んじゃったから、有無を言わさず突然親離れさせられてしまい、ママは絶対的な存在のままで子どもたちの中で生き続けるのかなあ。

パパにとって、ママはもともと他人だったんだ。付き合って、一緒に生活していく中で、パパにはなくてはならない絶対的な存在に変えていったんだよ。自分の存在の由来である親を選択する余地はないけど、パートナーは意図的に絶対化したんだ。だから、これから時間をかければ、再び意図的に相対化できるかもね。

パパの彼女ができても、「はいこれが新しいママですよ」なんて受け入れるわけにはいかないよね。もっと幼い頃だったら、保育園の先生みたいに新たな愛着対象を形成できるかもしれない。でも、思春期の子どもたちは時期的に、それまで培ってきた愛着を徐々に切り離し自立していく年齢だからね。たとえパパの彼女がどんなにやさしくしても、ウザいオバサンか、良くても年上のお友だちくらいだろうね。それでいいよ。
大丈夫、パパは君たちとケンカしようが、キモくて、ウザくても、しっかり君たちのことを見守っていてあげるから。それに、子どもたちだって、パパが与えるんじゃなくて、もうしばらくしたら自分自身で大切な人を見つけるよな。パパがママを見つけたようにね。

Tuesday, January 26, 2010

教師のための大学授業

魂は生きている。夫がかけてくれた虹。河辺さんがおっしゃいました。
優子の魂をひゅっとおろして、またひゅっとあげて・・・いまもこのへんに、この花束のなかにいるかもしれない。先生がおっしゃいました。ここそこから鼻をすする音がきこえました。
前回の授業では、前々回に見たVTRに出演していた河辺貴子さんと、我らがTiki先生のおふたりによるお話を聞きました。おふたりとも言わずとしれた愛するひとをなくした当人であり、その全貌をまとめるにはあまりにも広く深いお話をしてくださいました。おふたりの相違点であるのはまずひとつ、共に闘病したかどうかであり、その経験がおありの河辺さんからは、闘病生活について多くの経験談をお聞きすることができました。ホスピスという場所のとらえ方、真剣に向き合うことの大切さ、特別ではなく日常を心がけた毎日の闘病生活、癌が再発した時の絶望感、病人本人の計り知れない辛さ、ひとりになってからの人生・・・彼女が感じたひとつひとつを、それぞれにぴったりなことばを選んで、伝えてくださいました。
一方で、闘病することもなくある日突然奥様をなくされた先生は、今度は河辺さんには経験のない、子どもがいることについても語ってくださいました。娘や息子がいることで、つくるごはんの量を変えなくてもよかったこと、奥様とできない喧嘩を娘さんとできること、子どもたちのなかで自分がNO.1の親になったこと・・・
先生を頼るしかないこどもたちの存在がどれだけ先生を支え、優子さんのいない悲しみと向き合う力になったのかをうかがいしれるお話でした。
おふたりは過去を振り返った後に、これからを見ることも忘れていませんでした。「愛し合っているひとがいなくなってしまったら、そのひととのSEXはもう一生叶わない。それはとてもかなしい。」といった河辺さんに対して先生は「僕はまだあきらめていません。」と豪語し、さらに河辺さんも「私だって!」と返していました。そして私たちにも、「とにかくこんなふうに想えるようなひとと出会うことよ、」と言ってくださいました。これから、そのような最愛のひとに出会うことは簡単ではないですが、おふたりにも、私たちにも、生きている限りそんなチャンスは何千何万とあるのでしょう。おふたりとも、こんなにも深いお話を、ありがとうございました。

いつもの授業は(上から)先生目線で、授業を進め、みんなのお題を読むのだけど、今回は違いました。いつもは、学生たちのための授業。今回は、みんなのためでもあるけど、私自身の喪のプロセスに使わせてもらいました。
悲しみを語ることは辛いのですが、慣れてしまうとむしろ語らないことの方が辛いんです。しかも、今回は河辺さんの物語と私の物語の二重奏。基本的に短調ではあるけど、所々の調律が微妙に異なっていたでしょ。それが、ハーモニーとなり、より立体的な物語が奏でられるんです。ふたりとも、特に何を話そうと準備していたわけじゃないんですよ。アドリブでみんなの質問に答えながら、私の心を率直に描写しました。パンドラの箱のように、深い辛さ・悲しみがたくさん出てきた後に、希望が飛び出してくるんですよ。それらをみんなに聴かせて受けて止めてもらって、こうやってフィードバックをもらうんです。私にとって、それは自分の気持ちを鏡に映し出しているような気持ちになるんですね。自分の悲しい・恥ずかしい気持ちが受け入れられ、他者によって認められます。そうやって、私自身の気持ちを整理しているんですよ。みんなどうもありがとう!

女の私にとって先生の「再婚の意思あり」宣言には少しショックだったんです(笑)パートナーを亡くしてから再婚するのは男性が多いという事実も今日初めて知りました。
⇒その気持ちわかるよ。でも、天国の優子は、私にどうすることを望んているかな?もしあなたが愛する人を天国から見守る立場だったら、どう望む?

先生に悲しいものは悲しいままでいいのだと言われ、無理に苦しみを消し去ろうとしなくていいのだと思い、なんだか心に感じるものがありました。
⇒「~べき」論ではなく、大切なのは自分の気持ちを素直に無理なく受け入れることだよね。

先生の、今が一番純粋に優子さんのことを愛していると感じられるという話を聴いて、素敵だなと思った。
⇒生きているときも、心の基底には愛情があるけど、その上に家事・育児などの生活や考えの食い違い、いろんな人との付き合いとかさまざまな葛藤やストレスが山積みで、愛情はその下に埋もれちゃってます。亡くなるそれらが全部消えてしまうので、基底がよく見えるんです。

病気や死はどんな時も身近にあるのかもしれません。でも、自分だけが大変な思いをしていると落ち込むより、積極的に考えた方がいいということを改めて学ぶことが出来ました。
⇒そう。それが本当の意味の自立だね。

私が死んだ時にそのように悲しんでくれる人、その人が亡くなった時私が悲しめる人とめぐり合えたらいいなと思いました。河辺さんご夫婦も、先生ご夫婦もとても理想です。
⇒夫婦関係は、理想の人と巡り合うものではなく、一旦決めた人と時間をかけて作り上げていくものだと思うよ。

お話をしている時の表情から、旦那さん・奥さんのことを心から愛していることが伝わってきました。失礼かもしれませんが、すごく素敵で印象深い表情でした。私も、相手のことを考えた時に、自然とそんな表情になるようなパートナーに出会えたらいいなあと思います。
⇒失礼じゃないよ、大切なことだからね。それは、素敵なパートナー以上に、素敵な自分に出会うことだよ。

Sunday, January 24, 2010

死を身近に置くこと

お子様3人がお元気にすごしていらっしゃる様子をとてもうれしく拝見しました。奥様にとって何より気がかりのことだろうと思います。
私は数年前、がんの手術をしてから、死を身近に感じるようになりました。毎日生きている喜び、仕事ができる喜び、人と交流できる喜びを味わっています。生がいつ終わっても自然に受け入れられるような気がします。お若い時に心臓の手術をされたということで、奥様の心境もこれに近いものだったかと想像してしまいました。
素晴らしい生を送られたと思います。

優子も、普段はあまりそぶりを見せませんでしたが、よく想い出してみると、自分のいのちのはかなさを身近に感じていたのだと思います。
死を身近に置いておくのは圧倒的に悲しく、辛いけど、逆にそこからがはっきり見えてきますね。今まで、私は満ち足りて、幸せであることがdefaultの状態だったので、何が幸せで、何が喜びであるか、あまり見えていなかったのだと思います。それが、昨年来、悲しみが私の基底の感情になったために、それと対比する日常の何気ない出来事が、喜びであり、幸せであることを自ずから実感できるようになりました。

Three weeks after the anniversary.

Tokyo warriors and Steve Kush,

Since I will not able to make our next meeting tomorrow, I chose to check in and share my emotion on line.

> How are things going since the anniversary of Yuko's passing?

> I was thinking of you recently and thought I would check in with you.
> How are you doing?
> What are you keeping yourself busy with?
> How are your children?

Thank you, Kevin and Steve for checking in. Your messages mean a lot to me and facilitate my work well.

The anniversary ceremony on Jan 3rd freed my sadness a lot. I guess this is a ritual which you may not have in the States. It is normally conducted by religious tradition. Since I am not religious, I could not stand staying quiet and listening to the Buddhist monk’s prayers which we do not understand the words. So I made up the ceremony in the way I want to just like the funeral a year ago. It was just like our warrior groups. I appreciated men who were physically and spiritually there when I and my children called Yuko’ spirit into the circle. I talked about Yuko; sadness and the memories which I wanted my children to remember. Then the microphone was passed around to all the people to give a chance to say anything. There were full of people last year at the funeral; around 600. This time I invited only 30 people who were really close to Yuko in her school days, workplace and neighborhood.

I worried about Yuko’s mother who has not being able to tell her daughter’s death to her relatives. It may be too much for her to express her feeling, so I gave all of us a choice to either speak or not to speak; they can silently pray and pass the microphone to the next person. But she actually spoke about her childhood memory. I had a telephone conversation last night with the mother. She said she liked the ceremony very much and felt much lighter after talking and listening to many stories of Yuko from the people gathered. I believe she could release some burden of the sadness. At the end of the ceremony, the warriors helped us again to release Yuko’s sprit into the sky again, followed by nice lunch.

It has been three weeks since the anniversary. In a way, I had expected I would be in better shape after the event. But in reality, I still keep sadness inside. I think I do not want to release it for life. So my emotions are basically same, but at the same time, I see myself start to look more at my future; the plan for new job next year, and a possibility of new partner. I have an exact plan for the first one, but not for the second one yet. I am not doing anything at a moment, just thinking in my head for the future option.

Children are fine. They receive a lot of love from their grandparents who live together. I try to be present and available for children, and to avoid to be an absent father. But it has been a difficult task even before Yuko’s death as you all know in my works in our i-group.

Ho!
I just need to get my feelings out by responding to your messages.
Thank you for listening.
I feel sadness and hope.
I am OUT.


Tiki,
I share and understand your sadness. It is never easy to lose a loved one. I never knew Yuko, yet I think she must be a very good woman - just look at her husband, an honest and loving man who loves unconditionally. .
From the other side of the ocean, I send you energy to step forward into the future.

Saturday, January 23, 2010

母の誕生日

喜寿、おめでとう!
この一年、おばあちゃんがいなかったら、今の生活は成り立っていなかったでしょう。本当にいつも感謝しています。ありがとう!
元気で、長生きしてください。我々も、もうしばらくおばあちゃんを必要としています。

料理は割と好きだから、弁当つくったり、時間があれば炊事はどうにかやってるけど、その他の家事は、おばあちゃんにすっかりお世話になって!
当初は仕事をかなり減らさなければと思い多くを整理したものの、その後も新たな仕事が洪水のように入ってくる。選びながらも仕事に打ち込めるのも、おばあちゃんのおかげです。

コロキウムだかなんだか!
12月まで家族ほっぽらかしとくつもりかよ!
優子(怒)

これは、優子が亡くなる半年前、大学の仲間と週末1泊テニス旅行(コロキウム)を計画していた時の僕へのメールです。その後も海外出張などが重なり、不在の週末が続いた時でした。

Tikiは動きすぎ。もう少し家にいなさい!

それは、ずっと前から僕の課題だったんだよね。

二世帯住宅は独立と扶助の折り合いを可能にした、日本の家族の伝統かも。
順風のときは、ドアを閉めてお互いの独立を尊重できるし、逆風が吹けばドアを開けて助け合える。危機を乗り越えることができる、しなやかさ(resilience)かもしれないね。

犬のtrainingと再婚のincentive

カイ君は、できれば居間で家族と一緒に飼ってあげたい。でも、生後8ヶ月になってもtoilet trainingが不十分で、予期せぬ時に予期せぬ場所でうんち・おしっこをまき散らしてしまう。もうしばらくケージに入れて、ちゃんと自分のトイレの場所を覚えたら、放し飼いにしようね>子どもたち。

フィンランドのAndreは10年来の親友だ。精神科医で同い年。仕事で何度か来日してるが、今回、優子のことを気にかけてくれ、1日休暇を取り、会うことにした。お台場の大江戸温泉物語でふたりゆっくり語り合った。
オレたち、midlife crisisだよなあ。彼も3年前に奥さんと離婚したんだって。子どもも3人、うちの子どもたちと同じ年代だ。
でも、その後がいい。もう再婚したんだって。相手は35歳の日本人女性!おまえ、20歳以上違うだろ。しかも、、、、新たに子どもを作ろうとしている。ホントかよ!?
じゃあ、オレが美しいFinlandの女性を紹介してやるよ。
ハハハ、それは良いね!

今日は、仲間とテニス。吉澤先生は僕の中学時代の恩師。その当時からテニスをやっており、もう喜寿を過ぎているのに腕前は衰えていない!ホントかよ!?
僕と会うたびに気にかけてくれている。
「一年過ぎて、どうだね。子どもたちはどうしてる?」
「お陰さまで、元気ですよ。みんなスポーツに精出しているし。」
「Tiki君も、そのうち再婚なども考えているのかね。まだ若いんだから」
そりゃそうだ。先生に比べれば若いけど、、、

今日の午後、夫婦子育てサロンで、30代の女性曰く
「最近の30代の女性は結構しっかりしているから、同年代の男性は物足りなくて、40代の年上の男性が人気なんですって!」
「あの、僕50代なんですけど、、、」
「え~、先生なんて良い条件たくさん揃ってるから、もう大変ですよ!!」
まあ、そう言われれば婚活市場では高値がつくかもね。歳がちょっと気になるけど。

そりゃあ、理屈で考えれば再婚は十分可能だと思いますよ。
心から愛していた対象が急に消えてしまったから、僕の愛情エネルギーは減退することなく行き場を失っている。愛情がきれいごとではなく、困難を伴い、それを切り抜けてきた経験も自信もあるし。

だからといって、Andreみたいにすぐ新しいパートナーを求める気にはなれないなあ。
第一に、子どもたちのこと。
じじばばがいれば、子どもたちにとって「新しいお母さん」のニーズはそれほど高くない。むしろパパのニーズが高い。パパに新しい奥さんができることが、彼らにどんなインパクトを与えるのか、よくわからない。
第二に、僕がどう優子と新しいパートナーを折り合えるのか。こっちの方が問題だ。
初めの頃は、喪の仕事を終えれば悲しみと優子の想い出を消して、新たな気持ちになれるだろうと想像していた。でも、1年たって思うには、今後何年経ってもそうはならないでしょう。悲しみと優子の面影は消したくない、ずっと心の中に生きていてほしい。
優子と純粋に向き合ったように、新しいパートナーとも同様に、あるいはそれ以上に、素の気持ちで向き合いたい。でも、優子を心の中に飼いながら、それができるんだろうか?多分、優子がちゃんと行儀よくしてくれていれば構わないだろうけど、予期せぬときに暴れて(注)そそうしちゃったら、せっかくの新居が台なしになってしまう。
心の優子のtoilet trainingも、まだ不十分みたい。

注)たとえば、新たな人に愛情を向けようとしますよね。今まで20年間、それは優子に向いていたわけで、愛という感情の発露と共に、普段は薄らいできた優子のイメージが急にどばっとフラッシュバックしちゃうんじゃないかって。

まあ、Tikiさん、そこまで心配しなくてもいいんじゃないの?

ううん、どうかなあ、、、
少しボク自身の気持ちに臆病・慎重になり過ぎているのかもしれないけど、わからないよ。

Sunday, January 17, 2010

Relaxing Day

昨日の土曜はくたびれたよ。
8時過ぎに帰宅して、お祖母ちゃんが作ってくれた晩ご飯を食べ、風呂に入り、一昨日、作って寝かしておいたもつ煮込みを肴にナイトキャップを飲んで寝た。
今日はrelaxing day。
午前中は近所の練習場でゴルフ・レッスン。最近、勘をつかめてきた。要するに体軸をしっかりね。
午後は西魔女のところへ。初めの頃は大変だった。彼女を使って悲しみの整理、一生懸命だった。1年経ち、もう吐き出さねばやってられない感情はない。ゆっくり、じっくり、気持ちを点検して話すことができる。
晩ご飯は子どもたちのリクエストでお好み焼きにしよう!
7時過ぎにちゅけがバレー班から、祐馬が水泳から帰ってきた。
じんは土日に体操教室。みんな良く運動したね。
ちゅけはお好み焼きの晩ご飯では足りず、カップヌードルを2個追加して平らげた。
「やっぱ、家は落ち着くなあ!」
ちゅけが何気なくつぶやいた。
よかった!
その一言が、どれほど僕を安らげてくれるか!

試験監督と、変容した自己の物語

昨日は朝8時から夜7時までセンター試験の監督でした。いやあ、疲れた!受験生も大変だけど、監督者も大変なんですよ。やることは単純だけど、ミスは絶対許されない。開始時間を1分間違えてもニュースネタになるし、問題を配り間違えて訴訟だって起きるんです。極度の緊張状態。だけど、受験生と異なり、頭の中は空っぽのフリー状態なんです。本を読んだり、原稿を書いたり内職するわけにもいきません。毎年の年中行事だけど、僕がもっとも嫌いなroutine workの一つです。
だけど、今年は違いました。去年まで、試験中フワフワ遊離した思考回路の行く末は、それほど意味を成さないただの雑念だった。でも、昨日は遊離すれば必ず優子の世界にたどり着きます。優子の場所へたどり着き、僕自身の心の中をゆっくり点検できる貴重な時間でした。
そうやってると、ふとアイデアが出てくるんですよね。これ、ブログに使おうとか、西魔女に伝えようとか。ポケットにこっそり忍ばせたポストイットを取り出してメモするんです。それを後で文字に起こしたのがこの記事なわけ。

僕の気持ちを書きとめ、ブログに書いて標本化する。今回ラッキーだったのは友人の友人であるXさんが著した本の草稿が送られてきたこと。Xさんは数年前にパートナーを自死で亡くして書き始めた50冊の日記を編集した心の軌跡の物語。
このブログは僕の物語。似た物語があると、とても助かるんだ。Xさんの物語にシンクロし、僕自身の物語を豊かに発展してゆける。ふたつを比べてどっちが良いとか悪いとか、そういうことではないんです。X物語をTiki物語に引き寄せて、そうか、そっちの方にも展開できるんだ!いろいろなアイデアが浮かぶ。
それに、明後日、河辺貴子さんが授業に来てくれるんだ。9年前、夫をガンで亡くすまでのプロセスを絵日記にしてホスピスの個室のドアに貼り続けたのが注目され本になり、NHKでも放映された。何年か続けて僕の授業に来てもらい、学生たちに家族の死、そしていのちの尊さを語ってもらった。ここ2-3年は休んでいたのだけど、今回また来てもらうことにした。河辺さんの、愛する命を送る物語。それに学生たちからの質問。先週、NHKのビデオを見せ、私のブログを見せて、「河辺さんと私に聞きたいこと」という課題を出したんだ。学生のためもあるけど、僕自身のためなんだよね。
Xさん、河辺さん、そして学生たち。そういうのを全部利用して僕の物語を広げていくんだ。

おたくの心情が何となく理解できるようになった。コスプレ、鉄道、アニメ、何でもいい。そこに没頭することで、自分独自の世界を作ることができる。その中に自己を投影し、自分なりの秩序を作ることができる。
僕の中の優子の世界もおたくと同様だ。僕だけのユニークな世界。僕が構成している。具体的にいえば、優子を失った悲しみの世界。どう僕と子どもたちが悲しみと向き合い(あるいは避け)乗り越えた(乗り越えなかった)のか。そして、21年間、優子と共に築いてきた家族という日常の世界。それがどう生まれ、どう終わったのか。さらに付け加えるなら、優子と一緒になる前の僕自身の世界と優子自身の世界。それら全部が含まれる。
その世界のプレイヤー(選手)は僕と子どもたち。その周りに内野席と外野席から多くの人たちが見守ってくれる。
優子が生きている時、僕の物語は語る必要はなかったし、その存在に気づくことさえ不要だった。第一の登場人物である優子と織りなす日常の物語。恋愛時代は毎晩欠かさなかった1時間ほどの長電話の中で、結婚してからは日常生活の中で、自然にお互いの中に吸収されていった。あえて物語らなくても、優子が僕を見て、僕が優子を見ていた。それで十分だった。

優子が突然亡くなり、僕の世界が一気に変容した。日常が崩れ去り、非日常の世界。そしてそれを一番近くで見ている人を失った。僕の存在を敢えて語り、人に伝えないと消えてしまいそうになった。話し言葉でいろんな人たちに語り、書き言葉で語ってきたのがこのブログだ。変容した僕の世界の地図です。この地図がないと道に迷ってしまう。優子といたときには、地図がなくても迷わなかった。

内野席・外野席の応援団とはまた別に、僕がブログに描く世界地図を手伝ってくれる人たちがいる。たとえば、Xさんと河辺さんは、彼ら自身が経験したパートナー喪失の物語を見せてくれる。東直子さんは、友だちの位置から優子の喪失を著してくれる。彼らが僕の作業にperspectiveを与えてくれ、観客席から見てくれる人たちが地図に価値を与えてくれる。

というようなことを、試験を監督しながら考えていました。受験生くんたちごめんなさい。

Wednesday, January 13, 2010

iPod family

うちのiPodが4台から5台に増えた。
僕は初期の頃、40GBくらい入るデカいclassicを持っていた。
優子は、
iPod touch を年初に購入、音楽はもちろん、スケジュール管理もこれでしています。最近は podcastvideo を入れて通勤途上などに見たり聞いたりしています。iphone も出たけれど、私は touch で十分満足。(昨年の年賀状より)
ちゅけは、小型のiPod classicを、祐馬はiPod nanoをそれぞれサンタさんからもらった。ちゅけはパンクロックを、祐馬はミスチルを入れ、片時も離さず聴いている。
それを見て、
次男)僕も欲しい!
父)じゃあ、とりあえずパパのiPodを使っていいよ。
ジブリなど、じんのお気に入りをインストールしてしばらく聴いていたが、すぐに飽きた。じんは、音楽よりもまだテレビゲームだ。

1月4日。
娘)ねえ、祐馬のiPodがこわれちゃった。修理に出してよ!
年末から言っていたことだし明日から仕事が始まる。今日行くしかないかな。
父)わかった、銀座のアップル・ストアに行こう。
1階のショールームでしばらく時間をつぶして、2階のカウンターで祐馬と僕が並んで座る。
店員)...では、交換いたします。
父)保障の登録情報は誰になってる?
店員)優子さまになってます。
父)あ、それ変えてもらえます?その人、もう死んじゃったので。
とたんに、カウンターの下で祐馬の蹴りが入った。
銀座から有楽町への帰り道。
娘)なんでパパあんなこと言うのよ!もう、まったく~!
父)だって、そういうのはちゃんとしといたほうが良いんだよ。名義変更でも死んだ場合とそうでない時じゃ微妙に違ったりするからね。
娘)そんなこと、向こうから聞かれたら言えばいいでしょ!
父)それでも良いけど、べつにこっちから先に言ったっていいじゃん!?
確かにママの死は、知らない人にポンポン言うことじゃないよな。祐馬の言うとおりかもしれないね。パパはその辺ちょっとヘンだから。
でも、パパが大切にしたいのは、子どもたちとの間では、ママのことを辛くても、悲しくても何でも自由に言えちゃうようにしておきたいんだ。だから、店員さんに言うかどうかとかは、どうでもいいんだ。その後で、祐馬とこうして話し合うことの方が、パパはよっぽど大事なんだよ。

優子のiPod touchは、この1年間、僕が形見としてずっと使っていた。優子の入れた音楽のコレクションを、そのまま手をつけずに。
父)銀座でiPhoneいじってたら、欲しくなっちゃった。ケイタイauから替えようかなあ。
娘)パパはそうやって、すぐポンポン衝動買いするんだから!!
長男)えっ、ホント!?じゃあ、パパが使ってたママのiPod、僕に使わせてよ!
父)いいよ。
ちゅけに渡すと、さっそくがっしりしたレザーケースをネット通販で手に入れ、ママのコレクションをすべて自分の好みに入れ替えた。
父)ねえちゅけ、CDアルバムの画像がうまくiPhoneに入んないんだけど、わかる?
長男)教えてやろうか?それ、ママに教わったんだよ。ついでに、YouTubeの入れ方も教えてやるよ。先輩に教わったんだ。
父)すごいね。パパよりずっと活用してるなあ!
次男)僕も欲しい!ちゅけの使ってたiPod、僕に使わせてよ!
長男)いいよ。
次男)でも、やり方がわからない。
長男)入れたいアルバム2-3枚持ってこいよ。
次男)アルバムってなあに?

男性の喪の仕事

今日は、めずらしく日中なにも予定が入っていない(夜は仕事があるのだけど)。
職場に連絡して、自宅で仕事をすることにした。こんな日は、めったにないんだよなあ!
僕の二つの仕事は、本来の仕事と、喪の仕事。
本来の仕事モードでは、自分の感情は棚上げし、与えられた業務をこなす。
喪の仕事モードでは、自分の感情に焦点を当てる。
もっとも、カウンセリングはクライエントの感情の焦点を合わせるし、講演や授業で僕の喪の仕事を題材にしたりしてるから、僕の仕事の特殊性から、この両者はクロスオーバーしてる部分もあるんだけど。

喪の仕事っていうのはね、学生クンたち、悲しみという巨大な感情の塊を、言語・非言語いろんなやり方で表現して、誰かに受け止めてもらい、少しずつ崩しながら整理していく仕事なんですよ。来週来てくれる河辺貴子さんは絵日記という方法で、僕は割とストレートに言葉で表現してますけど。それ以外にも、音楽などの芸術やスポーツもあるかもしれないね。

自宅の書斎で、ひとり静かにPCに向かっている。
PCの横には、iPodに繋げたBOSEのスピーカーから静かなPat Methenyのギターが流れている。その上のdigital photo frameからは、1分ごとに切り替わる優子の写真が映されている。
ゆっくり自分の気持ちと向き合い、そしてそれをブログを通じて伝えることができる、大切な時間だ。

主人の母が優子さんと同じ歳で亡くなっていますが、同居の義父の気持ちを今まであまり考えたことがありませんでした。悲しみを語らない義父や主人も多くの事を乗り越えてきたのだと、ブログを読んで改めて気づかされました。

そうなんです。女性と比べても、男性って、感情を自分自身で感じたり、表現することがとても苦手だと思います。ふつうの状態ならそれでも問題はないのだけど、悲しみ・不安・恐れなど、大きな気持ちを抱えた時、困ったことになるんですよ。
男たちは、たいてい大きな感情の塊を心の内に秘め、漏らさないように、必死に抑え込みます。すると、生活するために必要な他の感情(=意欲)まで抑え込まれてしまい、うつ状態になっちゃうんですよ。それが、引っ込んだ場合。
その逆に、変な形で出てきちゃう場合もあります。男が激しいマイナスの感情(悲しみ・恐れ・不安など)をマトモに出せないとき、何故か攻撃性(怒りのエネルギー)、あるいは逸脱した性的エネルギーに転換して出てきちゃうんですよ。
今日も、大阪で離婚話のもつれから男が銃で人を殺し、自分も自殺する事件がありました。さぞ凶暴なオトコかと思いきや、職場ではマジメでおとなしい性格だったようです。
しばらく前に、子どもの学校の教師が電車の中で「迷惑防止条例」で摘発されて、仕事を辞めちゃったんですよ。こういうのはよく聴く話ですよね。
結果的に、彼らはどうしようもない迷惑オトコというレッテルが貼られ社会から疎外されていくんだけど、本来はどうしようもなく凶暴でスケベな異常性格というわけでもないんですよね。むしろナイーブで自分の気持ちと行動をコントロールできない、弱い男たちなんです。
男は強くなれ!弱ムシはダメだ(キモい、オタク)なんて言われるものだから、ますます自信なくしちゃうんですよ。
弱くて良いんですよね。そこに気づいて、そこからスタートすれば強くなれます。

Thursday, January 7, 2010

外野席から

相変わらずブログをのぞき見させていただいてます。
3日の大事な日をTikiやご家族の皆さんがどう過ごされたのかとても気になっていました。「優子の会」の様子、なんだかどきどきしながら読んでいました。
優子さんへのみんなの気持ちがぎっしり詰まった会だったようですね。ああやって心の中のいろんなものを解放するのは必要ですよね。それをきっと優子さんが受け止めていてくれる。すばらしい会だったんですね。
外野応援団の一人である私は、想うことくらいしか出来ないのですが、とにかく「気にしてます」から!きっとTikiやご家族、そしてそのすぐそばで同じような痛みを感じてる人たちの外側に、Tikiたちのことを気にしてる人たち、たくさんいると思う。何をするわけじゃないんだけど、きっとみんな「想っています」から。
ブログにあった、学生の方のコメントに
「…早く5年10年が過ぎて1番苦しい時期が過ぎてほしいと思います。…」
とありましたが、私もそう思わずにはいられません。優子さんを想う気持ちは減ることなくても、心の痛みだけは少しでも和らいでいきますように…

外野の存在ってとても大きいよね。
距離は遠いけど、熱い視線を送ってくる。
大教室の学生、コンサートや講演会の聴衆とかね。
彼らが見てくれているから、大学教授もミスチルもイチローも頑張ることができるんだよね。
気づかないかもしれないけど、ステージから外野はよく見えるんですよ。講義や講演していても、あくびしてる人、泣いてる人、うなづいている人など、表情までよく読みとれます。それによって、頑張れたり、逆にしゃべる気をなくしたり。

私も暮れに友人たち数人と集まりました。5年前の地震で亡くなった友人を想う会でした。ご飯を食べながら彼女の写真を飾ってあれこれとおしゃべりをしました。それだけなんですが、とてもよかったです。最初の何年かはなんとなく集まることすらできませんでしたから。

そうか、5年たっても集まれるんですね。
また来年も、優子の会を開けるかな?
やるとしたら、もっと気楽なのにしたいね。

時間だけが解決してくれるものもあるかもしれません。
お子さまたちもなかなか親に素直になれない時期、自分で自分がよくわからない時期、でしょうから、いろいろ難しいこともあるのではないかと…。もやもやしてる時は踏み込んでもダメなので、見守ってるという感じですが。かえって学校の友達のおかあさんたちが、自分の子供の違う面を見てることもよくあるので、情報網は欠かせません…って、こんなことこの道のプロのTikiにいうことじゃないですけどね(笑)。

第三者の位置から見てくれる人って大切ですよね。残念ながら、僕はお母さんのネットワークには入り込みにくいけど、幸い、一番もやもやしてる祐馬には友だちお母さんがいるんですよ。

冬休みの一番の想い出)友だちの家へ行って、泊ったのが楽しかった。年齢は離れているけど、一緒に話したり、遊んだりしたのが新鮮で楽しかった。

友だちさん、こっそり祐馬の様子を教えてください!

優子の会(一周忌)

久しぶりの祐馬です。 3日の分・・・。
皆さんから「優秀」、「優秀」って言うことは沢山聞いたんですけど、私にはそんなイメージ全くなかったし、ママがどんな事をやっているのなんて全然知らなかったです。(それは去年の今頃思いしらされました)。
むしろ私にとっては仕事なんて辞めて家で主婦やって、学校から帰ったら「おかえり」って言ってほしかったです。(友達がみんなそうで羨ましかった。)
別にママに不満があったわけじゃないんだけど。それでもなんか生き々してるようなオーラは感じてました。
ママはいつもニコニコ微笑んでいて、だけど機嫌の悪い時は八つ当たりしてくるような人で、パパが出張してる時なんて一日2回ぐらいケンカしてたと思います。去年の3日だって最後までじんのカレーのキノコ(注1)、ニコニコしながら食べてあげてて優しいなーって思ってたんですけど、その日夜8時ぐらいにあんまりに不安なんで(注2)ママの荷物あさったりしてたんだけどノートがあって、中見てみたら出来事をメモみたいに書いてあって、その中に『ゆまの新聞』っていうのがあったんです。ゆまは学級の係で新聞係っていうのをやっていて、でもいつもママは見ないで捨てちゃって。でもゆまがある時、ママに『ゆまが作った新聞なんだから捨てないで見てよね』って言ったんです。そしたら次の日あたりから新聞のキャラクターの『○○ちゃんって可愛いね』って言ってくれて。とっても嬉しかったんです。
今ママと話せるとしたら、ママに『ゆまちゃん、(注3)本当にごめんね』って謝ってほしいです。
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注1) 最後の昼食となったゲレンデ食堂で。じんはキノコがキライ。
注2) 優子が救急隊によって病院に運ばれ、父親が戻ってくるまで、祐馬とじんはホテルの部屋で二人きりで待機していた。
注3) 急に死んじゃって...

1月3日、「優子さんの会」では、優子さんの学生時代のお友達、先生、通訳の同僚、ご家族やご親戚、そして結束固い保育園仲間の皆さんなど、20名ぐらいの方々が、たっぷり2時間かけて、優子さんの思い出を語りました。(このあたり、もうTikiがブログに書いているかもね。)
そして最後に長男クンがご挨拶なさったのですが、これがもう今日のダントツのハイライトです。高校一年生が、あれほど立派にきちんと、大勢の前でお話なさるということ自体、私には驚きなのですが、それに加え、皆が話したことの意を汲み、メッセージを受け取ってくれたことがはっきりとわかる内容で、本当に賢い、素晴らしい若者だと、ただただ感心しました。
お食事の間、同級生の方が、「20数年、ほとんど音信普通だったクラスメートたちが、去年の1月以来、一体何度集まったことか…」とおっしゃっていました。
もっともっと伝えたいことはあるはずなのに、うまく言葉になりません。でも、今日の数時間を、Tikiのご家族と、そして優子さんのお友達と過ごしたことで、とても優しい気持ちになれました。

Tiki,
今日で1年ですね。不思議なことに、昨晩、夢に出てきましたよ。しもゆうの表情はよく覚えてないの。Tikiは何かアドバイスくれて、相変わらずニコニコしてた。
今日の優子さんの会はどんなものだったでしょうか。私も実家で偲びました。
TIkiの悲しみは癒えることはないのでしょうが、元気な姿をまた見せて下さいね。

3日の集まりで、かなり癒えましたよ。みんなありがとう!!
カタルシス(感情浄化)とは「溜まっている感情を排出して心の緊張をほぐす」という意味ですけど、今回の集まりはそんな表現を越えるものを得られました。
僕の心の中の深い悲しみ。それは感じることが辛く、自分でも隠していたい深い悲しみなんですが、あえで表現し、まわりの人が共感し、受け止めてくれます。べつになにが変わるわけじゃないんですよ。悲しみの量は変わらないし、優子を失った状況が変わるわけでもありません。でも、悲しみが特別な辛い感情ではなく、普通の、持っていても構わない、したがってあまり気にすることのない感情に変わっていくんです。
基本的には、ブログとやっていることと同じなんですよ。それをネットでやるか、現実世界でやるかの違いなんです。ブログだといつでも自分の好きな時にできるけど、受け止めてくれる相手はネットの向こうにいて、後で言葉で返してくれます。優子の会では、30人ほどの人間がいてくれて、身体全体で受け止めてくれます。僕が気持ちをしゃべっている時、視線は誰にも注がれていなかったと思うんです。真ん中の優子の場所を見つめていたかな。特定の誰かに語りかけるというよりは、ひとり語りなんです。でも、その場に居る人たちが受け止めていることは肌で感じることができます。
私が語った次に、みんながひとりずつ心の中の優子を語ってくれました。僕が優子と付き合い始めた学生の頃の優子、ブチブチ職場の不満を言っていた優子、保育園ママたちとヘベレケに酔っぱらった優子などなど、ああこんなことも、あんなこともあったなあ。いつもは僕ひとりで反芻している優子をみんなの声として聴けました。まるで、優子の魂が、参加していたすべての人たちの繋がった心の中に広がったように。
そして、優子の想い出をみんなで十分に語りあった後、みんなで優子を空に向かって解き放しましたよね。

春がきて、外に出られるようになると、みんな、たがいに行き来しては、アナグマの思い出を、語りあいました。...
みんなだれにも、なにかしら、アナグマの思い出がありました。アナグマは、ひとりひとりに、別れたあとでも、たからものとなるような、ちえやくふうを残してくれたのです。みんなはそれで、たがいに助けあうこともできました。
さいごの雪がきえたころ、アナグマが残してくれたもののゆたかさで、みんなの悲しみも、きえていきました。アナグマの話が出るたびに、たれかがいつも、楽しい思い出を、話すことができるように、なったのです。
(スーザン・バーレイ「わすれられないおくりもの」評論社)

悲しみが消えたわけじゃないんですよ。悲しみを僕の心の中に閉じ込めておくのは辛すぎます。悲しみを声や文字をとおして一生懸命吐き出して、空に漂わせておきます。また優子を感じたくなったら、心の中に呼び戻します。

昨日は本当にステキな会に参加させて頂きありがとうございました。またこのような機会(もう少しインフォーマルなもの)がありましたら、参加させてください。

今回は、みんなが共有する悲しみの周りに集まれたんですよ。あと1年たったらどうかな?僕自身はまだ悲しみのエネルギーは十分あるだろうけど、みんなの中の悲しみは拡散して薄まり、集まるだけの凝集力はなくなるんじゃないかな。
クリスチャンでは、亡くなった時の葬式でお終い。年忌とか法事というのはないんだって。仏教では、一周忌に続き2年目が三回忌、以降は、七回忌、十三回忌、十七、二十三、二十七、三十三と続き、五十回忌が最終打ち止め。でもそこまでは普通やらないよな。でも、僕が小学生の時亡くなった祖母の三十三回忌はやったような。それは悲しみで集まるというよりは、家制度の中の行事というか、散っている拡大家族の同窓会みたいな感じなのだろう。
3日、僕は微妙な立場にいた。喪主として祭主として場を取り仕切っていた。宗教も心理学・精神医学も、魂の救済という意味では似てるということを今日、雑誌の取材を受けながら気づきました。それでいて、(多分)僕の傷がもっとも深く、癒されるニーズが高い。心理学でいえば、自助グループ(self-help group)としてのグループ・カウンセリングに相当します。MKPもそうなんですよ。だから彼らに来てもらったわけ。

今日のこの区切りの一年が先生の今後の心にどんな変化を与えるかは私にも全くわかりませんが、きっと優子さんはまさに天使の笑顔でずっとみんなのそばにいてくれるんでしょうね。
先ほどすごいことが起こったんですよ。このメールを書こうと私がPCのキーボードを触ろうとしたら、それまでソファーで寝ていた犬のレモンが急にクンクンと鼻を鳴らして、リビングのドアの前に。この仕草は大好きな家族やお友達が来たり、インターホンが鳴るとする仕草。うれしくて部屋をクルクルと走って、私のところへ来て「玄関へ行くから、ドアを開けて」って。
インターホンも鳴ってないし、リビングのドアを開けると走って、玄関へ。でも、誰もいません。なのにレモンはうれしそうに尻尾を振っていました。
きっと優子さんが来てくれたんですね。優子さんは今日、たくさんの人のところへ新年のご挨拶回りをしてらっしゃるのでしょうか?(笑)レモンにだけは優子さんが見えて、急いでお出迎えしたんでしょうね。レモンは女の人が大好きなんです。
ほんの数分の出来事でしたが、すごく不思議で、でも心が温かくなりました。

多分、優子の会を終えて、我々が優子を空に放してから、そっちに行ったんじゃないかな。今日はみんなに持ち上げられたり、こき下ろされたりして疲れたとか言ってなかった?もともと優子はそういうのが好きでなかったからね。

この1年、先生、本当にお疲れ様でした。ブログを読んだり、先生の机の上の写真を見ると、家族関係学の授業に来てくれて先生と奥さんが仲良さそうに照れて笑っていた事と、亡くなった直後の授業で先生が涙で喋れなくなった事が同時に思い出されます。どうしようもなく寂しいことと必死に闘っている先生を見ると、早く5年10年が過ぎて1番苦しい時期が過ぎてほしいと思います。
どうかたくさんの人が先生の悲しみと一緒に闘ってくれますように!3人のお子さんの寂しさをたくさんの人が支えてくれますように!そう思わずにいれません。
先生頑張ってー!
これからもっと寒くなるので、自転車通勤にはくれぐれも気をつけて、ずっと元気な先生でいてください。

闘っている、、、
そうねえ、闘っていたつもりはなかったんだけど、そうかもしれないね。なにしろ悲しみがすごい勢いで押し寄せてきたから。まるで洪水か大雨で、家の中にどんどん押し寄せてくる水と闘って、必死にバケツで掻き出していたね。
そうか、わかった!洪水の例えで言えば、水が家の中に押し寄せてくるのは闘わなかったんだ。それまでくい止めようとすると、かたく家の出入り口を閉ざさなくちゃならないし、圧力で潰される危険がある。床上浸水までは素直に受け入れ、水浸しになりながら、近所の人たちに協力を求めて、一緒にバケツリレーで掻き出そうとしたんだと思います。

でも、こうやって応援してくれる教え子クンたちも強力なサポーターだよ。
松下さん、卒論頑張ってー!


Sunday, January 3, 2010

行ってきます!

ワシントンより優子さんを偲びメッセージをお送りします。
この一年が、Tikiさんにとっても、三人のお子様たちにとっても、想像を絶する一年だったことと思い胸が痛みます。

ほんと、そうでした。
想像できませんよね。
でも、実際に経験してみて、1年間なんとかやってこれたことが、変な意味で自信につながっているように思います。
Emotional painだけなんですよ。経済的には問題ないし、普段の生活は二世帯同居している80歳ちかい両親が助けてくれました。専門的にみてdepressionになるかなと思っていた僕自身も大丈夫でした。そして、何より救いだったのは子どもたちが元気でいてくれたことです。
だから、どうしようもなく痛かったのは気持ちの面だけでした。
初めの3ヶ月間くらいは、ほとばしるようなactiveな悲しみでした。よく泣きましたよ!!4か月目に納骨をすませたあたりからは悲しみが表面から後退し、心の奥に引っ込んだような感じでした。あえて泣くようなsituationはかなり減ったのですが、いつも心の中に優子の面影が付きまとい、ふと気がつけば優子のことを考えているという状況がずっと続いています。それが辛いといえば辛いけど、僕自身、優子のことを忘れたくないから、わざとそうしているのかもしれません。
でも、助けてくれる人がたくさんいるんですよ。共感し、応援してくれるたびにこうやって気持ちを吐き出すことで、結果的には気持ちのバランスをどうにか保つことができたように思います。
今日を終えたら、また次のステージに進めるのかなと何となく期待しているのですが、こればかりは仕方がありません。気長に何年もかけて悲しみと付き合っていくしかないみたいです。

では、これから「優子の会」に行ってきます!

Saturday, January 2, 2010

素敵な優子

優子さんとは一度もお目に掛っておりませんが、お二人で素晴らしい家庭を築かれていること、毎年いただく年賀状を通して知り、なんと素敵なご家族といつも思っておりました。常に学ばれ、楽しまれ、隣人を愛され、私の理想のご家族です。

年賀状には良い事しか書きませんものね。それを繋ぎ合わせれば、何かすごい家族のように思えるでしょうけど、実際は理想でも何でもない、どこにでもいる普通の家族です。
でも、書き出すと、何でも肯定化されるんですよね。Positiveなことはもちろん、悩み・苦しみ・悲しみ・不安など隠したくなるようなnegativeなことも、書いちゃったらその内容自体は「誰にも言えない特殊な事情」から、「誰にでも起こりうる普遍的なこと」に格下げされ、「よく書けたね」という行為自体がpositveに評価されちゃったりします。

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優子さんとお会いしたのは私が通訳になったばかりの頃でした。
緊張でガチガチだった新人の私に対して、優しく笑顔で接して下さって本当にありがたかったです。ブースの中では的確で美しいプロの同時通訳に衝撃を受けました。
おっとりとした優しい雰囲気の一方、仕事はプロとしてきっちりというスタイルは、私がそれ以来お手本にしたいと考えている目標です。

優子も最後まで同じことを言ってましたよ。
より経験の豊富な先輩通訳者と組んで仕事をした後、「衝撃を受けたわ。私もああいう風になれるかしら。」というように。

2回目のクイーンアリス

あっという間に一年が経ってしまったのですね・・・
大学から数年間、その後の人生を方向付ける基礎になった日々に顔を合わせていましたから優子さんの存在は私の人生の中でとても大きな一部になっています。
最近は優子さんと頻繁に連絡を取り合っているわけではなかった私でも何ともやり切れない喪失感を感じていますから、ご家族は如何ばかりかと思います。ブログは時々見させていただいていますが、お子さんたちがそれぞれ元気に健気に過ごしていらっしゃるお姿を拝見して非常に嬉しく、頼もしく思っています。優子さんもきっとそうだと思います。

優子さんは、何を話しても受け止めてくれるような優しい笑顔が印象的で大学時代は私から見るととても「大人」って感じがしていました。でも、就職活動のときに話し合う機会ができて、いろいろな悩みや迷いを抱えていることを知り、急速に親しみを感じたことを覚えています。

それから、覚えていらっしゃるでしょうか、西麻布の「クイーン・アリス」で偶然お隣の席になったことがありましたね。1991年10月10日、確かロンドンから戻ってらして最初の結婚記念日に思い出のレストランにいらしたのだと伺った記憶があります。私たちは、夫の誕生日を一緒に祝っていたところでした。幸せな時間をちょっとだけ共有できたことは、今でも良い思い出になっています。もしできたなら、もう一度あのレストランでご一緒したかったです・・・

そうですか、優子は「大人」に見えましたか!?
確かに優子はいろいろ悩んでいたようです。
就職活動で、試験は受かったのに身体検査で異常が見つかり、第一志望の会社を落ちたんですよね。
母親との関係についても悩んでいました。
それに、後から聞いた話では、私以外にも優子ファンの男性もいたりしてね。
でも、一番の悩みはしつこく迫ってくる6歳年上のオジサンだったんじゃないでしょうか。

クイーンアリスも想い出しました。そうですね、まったく奇遇にも隣の席でしたね。なるべく横を見ないように気を使っていたことを懐かしく想い出します。
1985年11月12日、優子の22歳の誕生日にクイーンアリスで盛り上げたことは、去年1月27日付のブログに書いたとおり。その翌月にプロポーズしたんです。我々にとっては本当に想い出の場所だったんです。
その後、我々の結婚式にも来ていただき、優子との人生のスタートの時分を見守って頂きました。
それも、もう終わっちゃったんですよ。なのに1年経っても、気持ちの上でなかなか終止符を打てない自分がいます。
明日が、ひとつの区切りになるのかもしれません。

千の風

 現在仕事の関係で米国におり、優子さんがお亡くなりになったことを、葉書で初めて知り、言葉もありません。
 ブログを拝見して、優子さんが心臓を長く患っておられたことを初めて知りました。20年前、ロンドンで初めてお2人にお会いしたことが、昨日のように思い出されます。その時も、また、その後日本でお会いした時も、優子さんは、病気のことを全く感じさせない快活な方で、気配りの細やかな方でした。毎年の年賀状で頂く「しんぶん」は、年を追うごとに御家族が増え、楽しく過ごしておられることが印象的でした。突然このような形で、ママが逝ってしまう辛さは、想像だにできません。
 この辛い1年を、良く乗り越えられたと思います。ブログで述べられているように、辛い1年を乗り越えることにより、御家族の絆が一層強くなったのだと思います。(Mr.X.)
Tikiさんへ。喪の仕事は苦しいと思います。数年前に父を亡くしましたが、当初は母も私も父の死を受け入れることができませんでした。今でも千の風の歌を聴くと涙が出てきます。優子さんも風になってTikiさんとお子様のことをやさしく見守ってくださっているのでしょう。(Mrs.X.)

僕も千の風大好きなんですよ。当時の紅白で初めて聞いて、はまって、僕の十八番になりました。
(ちなみに、今回はまっているのは木村カエラのButterfly。ツタヤで貸し出し中だったので、YouTubeで何度も聞き、頭の裏で旋律が回ってます。)
優子が逝く前、石打スキー場の空いたナイターゲレンデで、大きく弧を描き、風を切りながら思いっきり大きな声でこの歌を歌ったんですよ。とても気持ちがよかった。近くで友だちと滑っていた娘は思いっきり嫌がってましたが。

優子を失ってから、まだスキーには行けていません。
また、スキーを再開できる時が来たら、思いっきりこの歌を歌いたいです。
その時は、優子風を背中に受けながら、大きな涙の弧を描くでしょう。
でも、歌い続けていたい。歌い止めるのやイヤです。好きなんだもの。
誕生~結婚~そして、死。
それらから目を逸らさず、足を地に付けて生きてゆきたい。
無理せずにね。

大切な言葉

(昨日と今日、届いた年賀状の中から)

ご葬儀にはとてもとても行けなくてごめんなさい。かける言葉も見つからずブログ読んでは泣いていました。あなたは奥様をはじめ、すてきな仲間をたくさん作ってこられたんですね。

お葉書ありがとうございました。Tiki家のような素敵な家族になりたいです。

優子様の笑顔がいつもご家族の皆様を見守っていることでしょう。

人間万事塞翁が馬。ぜひよいお年にしてください。

私も三人の子どもがおり、時折、シモは自分が来天したことを気づかずに、子どもたちやTikiさんのことを気遣っているのではないかと思う事があります。

家族の皆様が優子さんを感じながら毎日を大切に過ごしていることが伝わってきました。私は、、、?生きているということ・家族、仕事、、、どのように日々を過ごすのか?この一年、優子さんを想い出してはいろいろ考えました。そして「今を大切に」生きていきたい、と思っています。

ブログ拝見しています。

遠慮なく新年のあいさつさせていただきます。ご家族が優子さんに見守られて安心にくらしていかれますように!!

先生Fightです!!

Tiki家ファイト

とうとう1年、、、新しい体勢を作られたようで感心しています。優子さんも「けっこうやるじゃないの、、、」と言われていることでしょう

お便り頂きました。先生らしいあり方に感銘を受けています。

ことばがキラキラ輝いて、僕の胸に迫ってくるよ。
祐馬は、よく気に入ったミスチルの曲の歌詞を、一生懸命紙に書いたりしている。
写経だね、これは。
みんな、どうもありがとう!!

ブログ依存

今日は祐馬と明日着る洋服を買いに自由ヶ丘に出掛けたのと、夕食の買い物以外は家にいて、ずっとPCに向かっていた。子どもたちも3人とも家にいて、のんびり・ゆっくり過ごしている。こんなこと、滅多にないよ。野菜とトリ肉でポトフを仕込んだので、お腹がへればいつでも食べられるぞ。

年賀状とメール。昨日・今日と、たくさんの方々からメッセージを頂く。それを受け止め、返事をモンブランで書いたり、PCでメールを返信したり。
そればっかりだよ。こういう状況は、1年前、優子の葬儀を終えるまでと同じだった。気持ちを掻き出していないと、やってらないよ。もう、明日の準備は整った。あとは、明日を迎えるだけなのに。
休み中に仕上げておきたい原稿は山のようにあるが、そっちは全然手に着かないよ。これだけのエネルギーを向けられれば、仕事がすごく効率よく進むのになあ。
ブログに浸っていないとやってられない。どんどんブログの量が増えてくる。止めようとすると禁断症状が出てくる。これは、もう中毒(依存症)の域だね。

明日までは仕方がないよ。酒に浸るよりはマシだよな。
明日を越えれば、新たな気持ちの展開を迎えられるんじゃないかと期待しているのだけど。
もっとも、正月休みが終わって仕事が始まれば、ブログばかり書いている時間もなくなるからね。
今日だけは自分を許してあげよう。

気持ちの受け止め合い

12月31日のブログ)
深い感情を表現し、それを信頼できる他者が受け止めてくれる。

これはセラピーに限らず、普通に学校の授業でも見受けられる現象です。教員が心の底から伝えようとすることは生徒も真摯に受け止めてくれますし、たとえ拙くても生徒が独力で考え、発言したり書いたりしたものにはクラスも賞賛を惜しみません。
うまくいっているご家庭ではこうした気持ちの受け止め合いを日々実践なさっていらっしゃるので、お子様もそうした感情の表現と受容が自然と身についているのでしょう。
突然優子さんを失った家族の皆さんは困難な状況と向き合い、乗り越えた分だけ、人生を一段と豊かにする術を身につけていらっしゃるのだと思います。

なるほど、そうですね。
これは、あらゆる人間関係の基本なんですよね。
カウンセラー=クライエント関係
教員=生徒関係
それに、家族関係もそうですよね。
それを応用したのが家族療法なんですよ。
子どもの問題とか、夫婦の問題とか、困難な状況を抱えて家族が支援を求めてきます。
カウンセラーは、まずクライエントとの信頼関係を築きます。
次に、家族間の信頼関係・協力関係を樹立できるよう、側面から支援します。

僕自身にとって、今まで幸せは意図せずとも当然のごとく与えられているものでした。
優子を失い、幸せは敢えて意図して作らなければならなくなりました。それは、僕ばかりでなく、子どもたちも同様でしょう。
反抗してくる祐馬はムカつくけど、その背後の感情を読み取ることができれば、キレつつも話し合いを続けること(negotiate)ができます。自己主張と譲歩をお互いに繰り返しながら、meeting pointを見つけていくんです。

困難な局面は両刃の剣。関係が崩壊する危機であると同時に、それを乗り越えるために家族の潜在力を賦活するチャンスでもあります。
家族はバラバラになるとすごい負担のお荷物だし、逆にひとつうまくいきかけると、すごい底力を発揮するんですよね。
「自然な感情の表現と受容」って、うまくできる人と、ぜんぜんうまくいかない人がいます。でも、それは能力じゃないんですよ。生活体験に裏付けられた習慣だと思うんです。そういう体験が乏しいと、どうやって家族を信頼していいかわからないし、一旦うまく体験できれば理屈抜きで自然にできるようになります。
家族療法では、まずカウンセラーとの関係で、そういうのを体験してもらい、次に、家族同志の間でも実践します。でも、これはかなり難しいんですよ。家族ストレスに直面すれば、どうしてもnegativeな方向に傾き、お互いキレちゃいますから。そこにカウンセラーが介在し、うまい方向に導くわけなんです。たとえばキレるにしても、破滅的なキレ方と、うまいキレ方がありますからね。
まあ、実際にはそう簡単ではありませんが、そこを工夫するのが職人技なんですよ。

Friday, January 1, 2010

新年のお墓参り

「おめでとう」のない新年が始まった。
朝食は、おばあちゃんが作った簡単なお雑煮。
お年玉だけは子どもたちの死活問題なので通常どおり。
優子のお母さんも誘い、子どもたちと一緒に三浦半島へドライブ。
海に臨む三浦霊園はよく晴れ、風も強く、優子も喜んでいるんだよな。
子どもたちはカイくんと一緒に霊園の芝生でよく遊んでいる。写真を撮っていたら、祐馬が近づいてきて、
ちょっと勝手に撮らないでよ!
デジカメを横取り、祐馬の写真を全部削除しちゃった。僕が叱っても、言うことを聞かない。
帰り道、
「みんなで遅めの昼ごはん食べよう!回転ずしでいいかな?」
祐馬⇒いいよ。
じん⇒いやだ。
ちゅけ⇒どうでもいいよ。
必ず希望が割れる。
しかし、結局、じんは大好物のまぐろを一番多く食べていた。

夕方。
祐馬)ねえ、あさって着る服がないんだけど。
父)お葬式の時着ていたやつでいいじゃん。
いやだ!
ねえ、明日、GAP行こうよ。自由ヶ丘の。
えっ、また洋服買いにいくの?
う~ん、どうしようかなあ、、、
じゃあ、あさって、作文を書いて読んでくれたらいいよ。
いやだ!
交換条件なら、何か他のことにしてよ!
別に他には思いつかないもん。
じゃあ、祐馬の写真を撮ってもいいことにするから。
あっ、それ良いねえ。これからずっとだよ。

結局、明日は祐馬と買い物に行くハメになった。
それも、悪くはないのだが。

優子の会のやり方

子どもたちへ

 ママが天国に行ってちょうど1年目の1月3日には、親せきと、ママが学生の頃や、お仕事、保育園などで本当に親しくしてくれた人たちと一緒に、静かにママのことを思い出そうと思うんだ。どんな風にするか説明するね。
 まず、お葬式でやったように、ママを空から呼び戻そう。そして、みんなで円くなって座り、みんなでママのことを話してもらおうと思うんだ。
 ママは、集まってくれる人たちの心の中から一生離れないと思うんだ。思いだすと悲しくなっちゃうよね。でも、そんなのイヤだから、思い切ってママを心の花壇にしっかり、きれいに植え込んであげようよ。集まってきてくれた人たちは、学生のママ、仕事のママ、友だちとしてのママなど、いろんなママの姿を知っているよ。そういうのを聞かせてもらって、「えっ、そうだったんだ!」って、ママのことを豊かに留めておこう。そうすれば、これから君たちが悩んだり、辛いことがあっても、心のママに話しかければ、きっと元気が出るよ。そして、ママみたいな素敵な人になれるよ。
 だから、君たちもママのことを想い出して、作文を書いてごらん。ママのこんなところが好きだったとか、嫌いだったとか。あるいは、ママのこんなところが人間として尊敬していたとか、あまり尊敬してなかったとか、、、なんでも良いよ。
 でも、無理しなくても良い。書きたくなければ書かなくてもよいよ。パパは、こうやって気持ちをたくさん出したいタイプだからそうするけど、気持ちを大切に心の中にしまっておくタイプの人もいるんだ。どちらでも構わないんだよ。
 あと、悲しくなったら泣いても良いんだよ。ママのことを考えると悲しくなるよね。それを隠さず、ちゃんと言えるのは弱虫の涙じゃなくて、その反対、強い人の涙なんだ。
 だから、作文をみんなの前で発表する練習だと思って、やってみてごらん。みんなが優しく見守ってくれるから大丈夫だよ。
 それが終わったら、またママをお空に戻してあげようね。
 そして、みんなで楽しくごちそうを食べよう。