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Wednesday, September 30, 2009

親弁


> エーッ!!??
> ご自分でお弁当を作っていらっしゃるのですか?
> スゴイ!!驚きです!!

お褒めの言葉、ありがたく頂戴いたします。(でも、そんなに驚くことかね??)
もともと、高校の山岳部の時から、メシを作ることは割と慣れていたんですけど、子どもたちの保育園弁当はすっかり優子に任せていました。ときどき優子が疲れていたり、ムードが険悪なときには、「たまにはアナタが作ってよ!」なんてキレられていましたけど。

この春から長男が高校生になったんで、今度は僕が作るしかないでしょ。ついでに、カバンにも入る細長い弁当箱を買ってきて、僕自身のも作っているんですよ。子どもに作った弁当が、マトモに食えるか自分でモニターしてます。最近、男の弁当作りが流行っているみたいですね。

30分ほど朝早く起きなくちゃならないのが面倒だけど、慣れれば結構楽しめますね。愛情弁当じゃないけど、子どもに餌を与えているってのは、親をやってるなという実感がわきますね。

もっとも、下に住むおばあちゃんにお惣菜を分けてもらったりしているんですけどね。
何年もお弁当を作り続けてきたプロのお母さま方に比べれば、まだまだ新米のMr.Momですけど、なんとかやってますよ(苦笑)。

今後のイメージトレーニング

Qさん、Tikiです。

Qさんのメールは、パートナーを亡くした先輩(そんなの、アリか!?)として、とても参考になります。

今日まで関西方面に出張中でした。旅に出て、普段のなじみの世界から切り離されると、否応なく自分と向き合いますよね。僕は孤独に弱いのかな。昨日も自転車を借りて、平城宮跡や奈良公園をひとりで回ったんですよ。ひとりの時間になると、どうしても優子が出てきてしまいます。最後の夫婦旅行となったソウルの景福宮と雰囲気が似ていたりして。

夜も久しぶりに優子の夢を見たんですよ。正月スキーよりちょっと前の時間にバックして、もう一度その時間をやり直したら、今度は心臓発作がおこらなかった。だから、死んだ方の優子はなしにして、もう一回リプレイした優子の方をとればいいんだよ、大丈夫だね、よかったね、、、みたいな。
でも、それができないんだということも夢の中でわかっていて、夢の中で泣いてました。

これでも、以前に比べれば進歩したんですよ。以前は、夢の中では泣けなかったんです。つまり、夢の中では優子が確実に生きていて、夢から覚めてから泣いてました。

優子を考えない時間は以前より増えているとは思うんだけど、まだまだ心の底にしっかり根付いていて、隙あらば出てきてしまいます。
それを、覆いかぶせるために新しいパートナーを見つけるってのはダメですよね。

優子を越えるような人って、ありえるんでしょうか?
客観的に考えれば、優子より素敵な人はいくらでもいるはずですよね。
でも、主観的には、優子がこうやって心の中を占めているうちは、そう見えてこないのかな?
いや、別に誰か具体的な人を想定しているわけじゃないですよ!
ただ、何となく将来のために心のありようをシミュレーションしてみているんですけど。イメージトレーニングというか。

Qさんの言うように、きっと何年たっても優子のことが心の中から抜けるってことはないんですよね。私としては、それで良いと思うんですけど。
でも、そんな状態で新しいパートナーとうまくやっていけるものなんでしょうか?
パートナーとの関係って山あり谷ありだから、山のときは良いとして、谷のとき、新しい関係の中に、優子の亡霊がすっと入ってきちゃうような。

書きながら思うんだけど、まあそこまで深く考えなくても良いのかな。
優子亡霊が、僕の中で十分に小さくなっていれば良いのかも知れないし、どちらにせよ、優子亡霊は僕に一生つきまとうわけだから、その存在に、新たな二人が怯えて怖がらなければいいのかも。ふと出てきちゃったら、押し隠そうとせず、「やあ、こんにちは。」みたいに。

どうやったら、優子と無理なく離れてゆけるんでしょう?
仕事とか、趣味とか、子どもたちとか、友人や新たなパートナーとか、別の(楽しい)ことを心の中に満たしてやれば、優子のことは相対的に小さくなっていくのでしょう。
でも、それでも良いのですけど、なんか、ちょっと違うような。

むしろ、心をわざと空っぽにして優子を甦らせ、心の中で自由に遊ばせたら、悲しくて辛いけど、自然に小さくなってくれるのかなとも思います。そのために、西魔女に会ったり、こうやってブログを書いたりしているんですけど。だから、今の僕にとっては、無理に心を何かで満たさず、空かしておくのも良いかなと思います。

それに、敢えて、パートナーを見つけなくてもいいのかなんて思うようにもなりました。
パートナーがいなくても、生活は十分成り立つし、子どもも3人作っちゃったし。求めるとしたら、寂しさという気持ちの理由だけなんですよ。
パートナーがいなくたって、十分に幸せになれますよね?
むしろ、人生を周到に幸せで満たすのではなく、少し欠乏させていたほうが創造性に結び付けられるのかなとも思います。
今までやってきた臨床経験や研究をまとめて本を書きたいと思っているんですよ。でも、こういうのって集中力とエネルギーが必要だから、あまり満ち足りてしまうのと、そっちまでエネルギーが回ってこないような気がします。今まで、そうだったから。
そういう意味では、自虐的だけど、ちょっと心を飢えさせておいたほうが良いかもしれない。ハングリーじゃないと、良い仕事って生まれてこないような気がします。
でも、わからない。そこまで強くはなれず、快楽の方に走った方が楽ですよね。そんなにマジメに突き詰めて考えなくても良いのかなとも思います。

ダラダラと済みませんでした。
Qさんへ伝えるという形で、今の自分の気持ちをちょっと映し出してみました。お付き合いくださってありがとうございます。

Sunday, September 27, 2009

テニス合宿

この土日は、大学時代の仲間とテニス三昧だった。
彼らとは、大学時代、よく授業をサボって学内コートでテニスした。5-6年生では、ひとりではやってられない国家試験の受験勉強をするために、勉強会と称して週1-2回集まった。お互いの結婚式にも出た。その後、しばらく会っていなかったが、生活と仕事がひと段落した10年ほど前から、年1回、秋の週末に集まり、テニス合宿をするようになった。

年に一度会う旧友たち。土曜に4時間、日曜に3時間、たっぷりテニスを楽しんで、夜は温泉に浸かり、酒を酌み交わす。とりとめのない話に花が咲く。

優子のお葬式にも、みんな来てくれた。だからといって、優子の話をするわけでもない。でも、ふと「おいTiki、その後、大丈夫か?」なんて尋ねてくれる。

身体をとことん使うスポーツと、気の置けない仲間たちとの交流は、僕にとっての最高の心と身体の健康法だ。

Friday, September 25, 2009

じんの親離れ

 小5のじんは、優子が亡くなる前から、下の部屋で祖父母と一緒に寝ていた。

 小学校に上がる頃、子ども部屋に3人それぞれのベッドを買った。はじめの2-3ヶ月、じんは物珍しさからか、兄・姉と同室で、自分のベッドに寝ていたが、その後は、また両親のベッドにもぐりこんで来た。優子にとっても、冬は湯たんぽ代わりに重宝していて、親も末っ子を離したくないみたいなところがあって、小3くらいまでだったっけ、親と一緒だった。
 小4になり、体も大きくなって、さすがに親と一緒だと恥ずかしいという気持ちが芽生えてきたのだろう、でも、自分ひとりというのも決心がつかなかったのか、その頃から、祖父母の寝室にもぐりこんでいた。祖父母としても、孫と一緒はまんざらでもなく、和室にじんのために布団をもう一枚敷いてくれた。べったりしたくはないけど、離れているのは寂しいのか、お祖父ちゃんっ子のじんは、足の先でもいいから祖父と身体の一部がくっついていたいらしい。
 そんな頃、優子が亡くなった。普段ポーカーフェースのじんが、寝室に寝ているママちゃんに向かって、「ねえ、生き返ってよう!!」と号泣していたくらいだから、普段、表に出さなくても、10歳になったばかり、ようやく親離れが始まったじんにとって、とてつもない喪失だったに違いない。
 でも、その痛みを乗り越えられたのも、祖父母の存在が大きかったと思う。母の死後、中3だったちゅけは、そのまま自分のベッドで寝ていた。小6だった祐馬は、2週間くらいは自分一人では寝れずにパパのところに来たり、お友だちに来てもらったりしていた。
 じんは、ママが亡くなる前と同様に、祖父母と一緒に寝ていた。少なくとも、一番さみしくなる就寝時には、安定した愛着が提供されていた。心配していた不安症状や行動異常もなく、子どもたちにとっての最大の対象喪失もなんとか乗り切れた。
 その後も、じんは祖父母の寝室に寝ていた。どこで、誰と寝るかは、じんの好きにさせておいた。おかげで生活リズムも祖父母と同じ早寝・早起きがすっかり身についた。
 ところが、一週間ほど前から、特に何のきっかけもなく、
「オレ、もうそろそろ一人で寝ようかな!」と自分から言い出した。
「ああ、いいよ。」
連休中に、荷物置き場になっていたじんのベッドを整理して、使えるようにした。すると、自分だけのスペースを気に入ったようで、自然に自分のベッドに移行していった。
 祖父母がいなかったら、こうスムーズには移行しなかっただろう。祖父母が見事に移行対象(transitional object)の役割を果たしてくれた。

 急ぐことはない。ゆっくり、しっかりと成長してくれればいい。

Tuesday, September 22, 2009

墓前の会話

秋の連休はどこにも出かけず、家でのんびりした。学校の行事で忙しいちゅけを放って草津に行くわけにはいかない。夏休みがそうだったから。家族との時間を大切にしたい。昨日は、ちゅけの高校の文化祭に祐馬と行った。じんも誘ったが、「ボクはいい」と断られた。ちゅけのクラスの出し物は「迷路」でした。まあ、高1のレベルはこんなものね。でも、ブラスバンド班の演奏は圧巻でした。となりに座った祐馬は眠かったとか言ってたけど。

今日は、祐馬とじんでお墓参り。子どもたちとどこかに一緒に行くときは、必ず「行きたくない」とか、行く先で意見が分かれるのだが、ママのお墓参りに関しては、そういうことが全くない。初めて、カイ君もお伴した。渋滞を避けるため午前中に出かけ、いつもの東屋で手作りおにぎりのお弁当。帰り際、墓前での祐馬との会話。

父)さあ、帰ろうか!?帰る前に、ママのところにバイバイしに行こう!
父)じゃあね!また、来るからね。元気でな!
娘)元気じゃないんですけど。
父)そうね、死んじゃってるから...
父)でも、天国で元気でいてね、っていう意味でさ!
娘)....よくそんな前向きでいられるわね。

祐馬としては、前向き=能天気すぎる、とでも言いたかったのだろう。

Saturday, September 19, 2009

置き忘れた時間

最近、全然ブログを書けなくなっちゃった。
書きたいなあ、というネタは結構思いつき、忘れないうちにノートにメモしておいたりするのだけど、それをちゃんと書いて、アップロードできないんだ。
ブログを書くには、時間の余裕と心の痛みが必要みたい。

最近、なかなかひとりの空白の時間がとれない。
台湾の講演の準備や、閉め切りを過ぎて編集者から猛チャージを受けている原稿があった。
今は、それがひと段落したので、こうやってブログに向かう時間ができた。

今までは、忙しくても、時間がなくても書くことはあふれてきた。でも、段々と書く力が弱くなってきている。
電車の中や、チャリに乗っているとき、断片的に心の隙間ができると、優子を喪った痛みがこっそり忍び込んでくる。その気持ちに深く見つめていたいのに、現実の忙しさの方が勝ってしまう。心を占められる現実の部分は以前とそれほど変わりないけど、悲しむ力が相対的に弱まってきた。

 それは良いことだよ!悲しみが癒えてきているんだよ。
 たぶん、そうなんだろうね。だんだん、忘れていくのだと思う。でも、本当は忘れられない。
 今まで、etrovertだった僕は、人生をパンパンに膨らませて生きてきた。できるだけ多くの人と交わり、多くの人から認められたら、それだけ多くの生きがいが得られ、僕の人生が充実するみたいな。でも、それだと大切なものを置き忘れているような・・・
優子のことを、置き忘れてしまう。

もっとじっくり、落ち着いて自分の中の優子と対話したい。
こんなにたくさんの仕事はいらない。
僕と子どもたちが楽しく生活できるお金があれば十分。
たくさん仕事をするのではなく、深められた、質の高い仕事をしたい。
仕事や、他者に振り回される時間はいらない。
自分を見つめ、子どもたちの成長をゆっくり見つめる時間がほしい。

Tuesday, September 15, 2009

台北サイクリング


金曜日から月曜まで、台北に行ってきた。台湾は初めてだし、優子が亡くなってから初めての海外出張。3月と6月に参加するはずだった国際学会はキャンセルしたから。今回は自ら希望して参加する学会ではなく、講演を依頼された旅。2月に家にも来て、優子を失った直後の僕を支えてくれたPing-Chuanが招いてくれた。現地でもずっと一緒に居てくれたから気持ちも楽だったよ。今までの海外の仕事は自費or公費にせよ、こっちからの持ち出しだった。逆に、招待先からお金をくれたのは、優子が亡くなる2ヵ月前、最後の夫婦旅行となったソウルに次いで二回目だ。招聘された旅は至れり尽くせり。空港の送迎にホテル付き、昼食・夕食も仲間たちが歓待してくれる。空港で念のため両替したが、使ったのは子どもたちのおみやげと、空港ロビーで待つ間に頼んだマッサージだけだったよ。
飛行機の中で書いているんだけど、台湾だとあっという間についちゃうなあ。距離的には沖縄と大して変わらないから

講演はうまくいった。土曜日2時間の一般向け講演会と、土日二日間11時間の専門家向けのワークショップ。海外では、言葉がうまく伝わるか否かが成功のカギを握る。今回は、20年前、学芸大に留学して、今、台湾の大学に勤めている心理学者が見事な中日の通訳をやってくれたので、うまくいった。
内容は、「ひきこもりと家族療法」。台湾でもけっこう不登校・ひきこもりが出てきているみたい。ひきこもりの頻度と研究は日本がトップを走ってるからね。今後も、いろいろお呼びがかかるかも。

Ping-Chuanがチャリを手配してくれたのは嬉しいのだけど、ふつうのママチャリでした!まあ、いいや。仕事を終えた最終日の朝、2時間ほど台北をサイクリングした。市内の道路に自転車は少ないし、そのための道路は整備されていない。圧倒的に多いのはバイク!北京が自転車の大洪水で、台北はバイクの大洪水!自動車より数は多いのでは。朝晩の通勤時には、くまんバチの大群が押し寄せるような騒音がすごい。

市内のサイクリングはあきらめ、川沿いに向かった。初めて行く都市では、たいてい川沿いのサイクリングロードに向かう。アップダウンも少ないし、川を眺めながら行きたいだけ行き、同じ道を戻ってくれば迷うこともない。今までこの手で札幌、岐阜、ポルト、プラハ、ロンドンなどを攻めた。

台湾市街に接する淡水河と新店渓のサイクリングロードはよく整備されている。道幅も広いし、部分的には自転車と歩行者が分離されており、走りやすい。ママチャリとスポーツ自転車が半々くらいかな。世界的な台湾メーカーGiantの自転車も結構走っていた。

ソウルでも最近、市内を流れる漢河(ハンガン)沿いにサイクリングロードができたらしい。まだ行ってないけど。そういう海外都市に比べると、東京の自転車道は如何にも寂しい。最近の新聞で、多摩サイで高速自転車(?)と歩行者の衝突事故が多発するため、自転車が高速で走れないように土手道を改修することにしたという記事があった。確かに、土日の多摩サイは、人と自転車であふれている。しかも、道幅が狭い!!海外ではめったに見られない、いかにも高そうな高級ロードがバンバン走っているのに、インフラの整備はとても立ち遅れている。今の狭い道幅では、低速化もやむを得ないけど、政権が交代したことだし、ブームになりつつある環境&メタボ対策になる自転車の普及をはかるため、自転車道と歩行者道を分離するなど、整備してもらいたい。ダムや新幹線の建設費に比べれば二桁か三桁くらい違うと思うんですけどねえ。

Wednesday, September 9, 2009

子どもたちカードありがとう!

子どもたち、誕生日のカード、ありがとう!
毎年嬉しいけど、今年は特に返事を書きたくなっちゃったんだ。

パパはいつも元気にしているように見えるでしょ!?ママがいなくなった分、家事をひとりでやらなくちゃいけないとかは、ぜんぜん辛くないんだ。おばあちゃんやおじいちゃんもいるし、子どもたちも、けっこう手伝っているしね。

 でも、心の中は見た目ほど元気じゃないんだ。この8ヶ月間ぜんぜん変わってないかも。ママとパパは、ふたりでひとつ、みたいな感じだったから、急にママがいなくなり、パパの体と心の半分がなくなっちゃったみたいだよ。この悲しみは、これからもずっと残ると思うんだ。

 でも、大丈夫だよ。楽しいこともたくさんあるから。保育園のパパママさんたちや、友だちがたくさん支えてくれるし、やりがいのある仕事もある。それに、時々ゴルフとかテニスとか息抜きもしてるでしょ。でも、何より一番パパにとって救われるのは、子どもたち3人と一緒に過ごすことなんだよ。君たちがいてくれるだけで、パパはとても気持ちが安らぐよ。「早くしなさい!」「もういい加減にしなさい!」とか怒っている時も、内心はそう思っているんだからね。祐馬はカイくんの世話、大変だけどよくやっているね。お母さんとして合格だよ。

 いつも帰るのが遅くてごめんね。仕事も大切だけど、できるだけ早く帰ってくるね。パパはずっと君たちのそばに居るよ。将来、もしかしたら再婚なんてこともあるかもしれない。でも、君たちがもっと大きくなってからの、ずっと先の話だよ。もし仮に好きな人ができたとしたって、パパがこんな風にいつも死んだママのことを思っていたら、新しい奥さんもやってられないしね。

 ちゅけ、パパも高校生の頃、山岳部とか、留学のための英語の勉強とかに打ち込んで、帰る時間はいつも遅かったよ。好きなことが見つかったら、それに思いっきり打ち込んだらいいよ。そうやって、自分の世界を見つけて、親から自立していくんだ。パパも、子どもたちがそうしてくれたほうが嬉しいから。
パパのことを心配してくれてありがとう。でもパパは大丈夫だよ。だから、君たちも安心して大きく成長しな!!

Friday, September 4, 2009

誕生日

3日は僕の誕生日だったことを仕事仲間に口を滑らせちゃったから、みんなから「おめでとう!」と声をかけてくれた。
我が家のお誕生日の祝い方は、決まっている。食後にケーキに立てたローソクに火を灯し、歌を歌って吹き消す。
「祐馬がやる!」と、ケーキを切り分けて、みんなが一言ずつメッセージを書いたカードを渡す。
子どもたちの場合には、プレゼントがつくが、たいてい誕生日の前に何が欲しいというリクエストがあり決着している。

一度、ママの誕生日を忘れちゃったことがあったよね。
3-4年前だっけ!?確か、ママは自分が欲しいものは自分へのプレゼントとして買っちゃっていて、誕生日の日、パパも朝までは覚えていたんだ、みんなでカードに書こうねって。
でも、その後、仕事に行って、帰ってきてもすっかり忘れちゃっていて。
みんなで、夕食を食べ終わって、ママが「今日は、何の日だっけね!?」
かなりムカつき口調だったんで、パパはビクってどうにか取り繕うとしたけどもう遅し。ママは、「どうせ、ママの誕生日なんか誰も祝ってくれないんだよね!!」とブスっとしてたね。パパは、しまった!、と冷や汗タラタラ。あわてて翌日、子どもたちとみんなでカードに書いて、パパは花束を買ってきて、ママにあげたんだよね。
それ以来、誕生日は絶対忘れないようにと心がけていたんだ。

3日は、早く帰りたかったんだけど、仕事が遅くまで入っちゃった。
急にアメリカからのお客さんが初めて日本に来るから、ぜひパパに会いたいって電話してきたんだ。3日の日しか東京に居ないというんで、誕生日のお祝いは後回しにしたんだ。
でも、当日、到着する時間になっても電話がかかってこないので、こりゃ、急に来なくなったのかな、じゃあ、帰ろうと思い、大森駅に着いて駅ビルでケーキを買おうとしたら「飛行機が遅れて、今ついた。」って電話かかってきたんだ。友だちのDavidの紹介で、一度も会ったことのない人たちだったから断っても良かったんだけど、パパ自身が海外に行った時の体験を思い出して、会うことにして、急遽、渋谷まで引き返したんだ。

でも、会って話して、よかったよ。夫妻ともカウンセラーで、夫も僕もAFTAのメンバーだから、初対面だけどお互いに信頼しあえる。MonicaとかDavidとか優子が亡くなったことを知っている共通の友人もいるから、今日が僕の誕生日であることや、妻がちょうど8ヶ月前に突然亡くなったことなんかもしゃべっちゃってね。気持ちをよくわかってくれて、なんだかすっきりした。

その日は遅くなっちゃったけど、次の日、みんなでケーキ食べたよね。子どもたちがくれたカード、とても嬉しかったよ。あとで、返事かくね。夜には、マブダチ・ヤマトが
「おい、Tiki、3日はオマエの誕生日で、優子さんの月命日だよな。その後、どうだい!?」
ってメールをくれたんだ。それに、ヤマトのいとこも心温まるメールくれてね。もう10年か20年近く会っていないかもしれないけど、若い頃、よく一緒に遊んだ仲間なんだ。
こういうのが、一番嬉しいんだよね。こっちから話題を出さなくても、むこうから触れてくれる。ああ、思っていてくれたんだなと、支えられてる!という感じる。

こうやって、みんなに支えられているから、僕は大丈夫なんだ!