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Sunday, November 13, 2016

53回目の誕生日

優子
53回目の誕生日、おめでとう!

あやうく忘れるところだったよ。
じいちゃんがそっちに行ったから賑やかになっただろう。
じいちゃん二人はそっちで、ばあちゃん二人はこっちで頑張っているよ。

じんは大学受験生だよ。
あまりしゃべらないなあ。まあそういう時期なんだろう。と言いながらも、肝心のことはわりとしゃべったりしているから、良しとしよ。受験のことも全部本人任せだよ。優子ならもっと関われって怒るだろ、きっと。だけど、関わりようがないし、じんの意思決定を信頼してやるのが一番なんだよ。これはオレの方針なんだから天国の優子には文句を言わせないぞ。

祐馬はもうすぐメルボルンから帰ってくる。冬休みが3ヶ月近くあるから、久しぶりに長くいるぞ。また騒々しくなるな。まあそれも良いか!祐馬が一番遠くにいるのに、ネットを介して一番たくさんしゃべってるよ。まあ父親としてはそれが一番嬉しいけどね。大学生活は大変だ~ってぐちをこぼしながら、しっかり頑張っているよ。

ちゅけは札幌でM1。あいつの動向はあまりつかめないんだ。つかむ必要もないというか、もうあいつに任せるしかないからね。学費は出してやってるけど、生活費はバイトしながら頑張っている。就活関連で東京に来るたびに、なんとなく大人の雰囲気を漂わせているよ。そう、子どもたちはもうすぐ大人になっちゃうんだよ。優子は信じられないだろ。

オレはまあ元気でやってるよ。仕事もマイペースでやりたいことやってるし、海外にも行ったりしてるし(行き過ぎか)。最近、優子の後釜をどうしようかななんても真剣に考え始めているんだ。どうしようかなぁ、、、
べつにもう一つの「家族」を作るつもりはないし、でもひとりってのも淋しいし。優子がいれば、こんなこと考えなくて済んだのに、どうしてくれるんだよ!でも、優子がいなくなったから、考えられるっていう面もあるけどね。考えるの面倒だけど、結構楽しかったりして。

Friday, October 21, 2016

石垣島

に行って来るよん。
鎖骨もどうにかくっついたし、チャリ乗って来る。
優子を失ったから、ウジウジしてるとか、もう関係ないからね。
誰がなんと言おうと、俺はオレのやりたい事をやる。誰も止められないんだ。

俺は強い。
と同時に、とんでもなく弱い。
その事は自分でわかってるんだ。優子はわかっていなかった。
弱さを受け止めて、修正する強さだって持ち合わせているんだ。
もうすぐチェックイン@羽田空港だ。
石垣島は30℃だってよ〜!

Tuesday, October 11, 2016

29回目の結婚記念日

優子
もう、いつまでも、どれだけ僕を苦しめるんだ!!?

なんて、優子に八つ当たりする必要はもうないんだけどね。
ちょっと言ってみただけだよ。はははは!

いやあ、今回は大変だったよ。
7年半経って、もう優子の喪失からはすっかり立ち直ったつもりでいたんだけど、甘かった。
ぼちぼち本格的にグラウンドゼロに大切な建物を再構築しようと基礎を掘り下げていたら、まだまだ残っていたんだよ、テロの残骸が。
優子を失った悲しみじゃないけど、喪失感とか、急に家出された怒りとかがね。まあ、それだけじゃない、僕が老いて能力を失っていくことに対する恐怖心もあるんだけど。
そんなでかい岩の塊にぶち当たって、うまく基礎の杭を打ち込めないんだ。ぐらぐら傾いて倒れそうになる。ホントに倒れるところだったよ。

でも、優子の力を借りる必要はない。もう当てになんかしてないから。
大切な人が何人もいるんだ。
その人たちの力を借りながら、なんとかやっていくしかない。
うまくいくかどうかなんて、やってみるしかわかんないでしょ!
そんな自信なんてないけど、やるしかないんだよ!

なんで、それが結婚記念日だったんだ!?

Tuesday, September 27, 2016

おばあちゃんの世界と生きがい

おばあちゃんは、もういつおさらばしても良いのよ。
おばあちゃんのエンディングを考えてるの。
私、たくさん宝石があるのよ。それをどう分けるか。
おじいちゃんからもらった婚約指輪は優子さんにあげるつもりだったんだけど、どうしようかな。
Tikiや優子さんにもらったのは、そのままあげるけど。
あと、誰からもらったのかよくわからないのもあるのよ。

先日、おばちゃんが来た時に、二人で宝石箱の中身を点検したんだって。
これが、ばあちゃんの世界だよ。
家庭を作り、子どもを産み育て、夫を見送るという大切な役目をちゃんと果たした今、もういつおさらばしても良いというのは、よくわかるよ。それで良いんだよね。
おばあちゃんにとって大切なものは、社会的な役割とかではない。家族と、おばあちゃんの財産=宝石なんだ。不動産とか貯金もあるけど、おばあちゃん自身が管理していないから視野にない。小さな、小さな世界。それで良いんだよ。

じいちゃんは自分史や年表みたいなの何度も書いてたでしょ。それがじいちゃんの世界なんだ。自分が社会と家族の中に築いてきた世界を確認したいんだ。ものとしては多少の著作くらいで、土地もお金も大したものは残っていない。やっぱ人だろうね。

パパ自身の世界って何かね?
パパはもうボチボチ自分の世界を創り上げて、外から眺めて確認してもいい年齢に来ているんだけどね。その世界はまだなんとなく完成していなくて、手を離せないでいるって感じかな。
ママが死んじゃって、パパの世界が、がらりと変わったし。この先また変わらないとは限らない。
リタイアすればもう固定するんだろうけど、パパはまだリタイアしてないんだ。仕事的にも自分史的にも。まだこの先変わるかもしれないし。現役でいたい。

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ばあちゃんはじいちゃんと一緒に近所の囲碁クラブ通っていたけど、じいちゃんが亡くなって行かなくなっていた。でも最近、週2回ほど以前と同じペースで出かけるようになった。

久しぶりに囲碁に行ったら4勝したのよ。でも家を空けている間に、宅急便のご不在連絡票が入ってると、罰を言われたみたいで。。。

ご不在票が入っていたって、全然問題ないんだからね。
そんなの気にしないで、外に出て良いんだよ。

フゥ〜ん!!

そう言っても、納得できていない。
そう、郵便を受け取り、家の出入りをちゃんと把握していることが、おばあちゃんに残された大切な役割だからね。

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ばあちゃんはATMを使うのもじいちゃんが亡くなってから。
それまではじいちゃんがお金の管理をしていたみたいなんだ。

今日、郵貯のATMで5万円おろしたんだけど。
お金、出すだけじゃなくて、また自然に入ってくるんでしょ?

そうだよ。通帳みれば確認できるんだけど、わかる?

ひととおり通帳を眺めて、

これで良いんでしょ?

そういうの、自分で確認できる?

わかんない。

自分で判断できない。別に認知が始まったわけではなく、ばあちゃんはそういう習慣がなかったんだ。

おばあちゃん、大丈夫だよ。おばあちゃんが長年おじいちゃんに尽くしてきたから、ご褒美で、ばあちゃんが死ぬまで、じいちゃんの年金が自然に入ってくるから、大丈夫だよ。

そうなの?
ありがとう。

おばあちゃんは、田舎の割と裕福な旧家で育ち、お見合いで結婚して、専業主婦として働いた経験はなく、決してリッチではなく、でも決して貧乏ではない公務員のおじいちゃんの給料が自然に入ってきていたんだ。守られてきた世界。
そう、お金は自然に入ってくるもんなんだ。
おばあちゃんの世界はそれで良いんだよ。

Monday, September 26, 2016

どうしてこんなに悲しいんだろう


悲しいだろうみんな同じさ。同じ夜を迎えてる
風の中をひとり歩けば、枯れ葉が肩でささやくよ
どうしでだろうこのむなしさは。誰かに逢えば鎮まるかい?
こうして空を見上げていると、生きていることさえむなしいよ
 
これが自由というものかしら。自由になると淋しいのかい
やっと一人になれたからって、涙が出たんじゃ困るのさ
やっぱり僕は人にもまれて、皆の中で生きるのさ
 
人の心は温かいのさ。明日はもう一度ふれたいな
独り言です、気に留めないで。時にはこんなに思うけど
明日になるといつもの様に心を閉ざしている僕さ
(曲・歌:吉田拓郎、1971)

これは高校の頃、自分の部屋で、フォークギターでおそらく一番良く歌っていた曲だ。
当時の心境をよく言い当てていた。
親からの自立心が芽生え、「自由」な自分を見出していた。
すると寂しくなる。孤独が見えてくる。いくら家庭や学校に信頼できる人で満たされていても、孤独を感じることを、むしろ求めていた。
Sexualityの芽生えだったんだろう。

優子と結婚してからは孤独が消滅した。優子と子どもたちと仕事で僕の日常生活は満たされた。というか、満たされ過ぎた。普段の日常は自由や孤独を感じる隙間もないほど、幸せを感じる暇もないほど、幸せだった(と思う)。
寂しいどころか、その対極のウザい。
時々、出張やゴルフに出かけてふぅとひと息、束の間の独り自由を味わい、家に遅く帰って優子におこられていた。

そして今、思春期に逆戻りだ。
この曲が心情にフィットする。
子ども達が自立して親元から離れ、私の安全弁であった親は老いて、亡くなり。
多忙な仕事も手放し。
何より優子が一番先に去っていったから。

それでも人は周りにたくさんいる。寂しくなんかないはずなんだけど、それでも寂しい。

強がりを言えば、
それで良いんだよ。寂しくて良いんだ。
どうせ死ぬ時はひとり寂しいんだし。
一定の寂しさをあらかじめ保持しておいた方が人に優しくなれる。
前みたいに日常が幸せで忙しくなってしまうと、周りを押し退けてそこから飛び出したくなる。まだパズルのピースみたいにハマりたくはない。

人を求めようとすればするほど、寂しくなる。
それで良いんだよ。
若い頃は、寂しさが原動力となった。
今もそうかもしれない。

お腹が空くと辛いけど、食べ物にありついた時に、とても美味しくなる。
飽食しちゃうと、美味しくなくなるし、太ってメタボになる。
やせ我慢していた方が良いんだ。。。

Friday, September 23, 2016

愛される自信

一番大切なのは、その人を心から愛している自信があるか、
愛されているという自信があるかということ。

fear of rejection
捨てられることへの怖れ。その逆が、捨てられないという安心。
いつかは別れが来る。死別か、離別かわかんないけど。それを怖れていたら、そこを隠さないといけない。普通はそうするでしょ。でも思い切って別れと死に向き合えば、もう怖れるものはなくなるんだ。

Nothing to loose. Nothing to hide.
失うものはもう何もない。隠すものも。
自分に正直でいられる。

怖れなくても良い、怖れと不安から自分を解放してやれば、とても楽になる、自由になれる。

死と別れに向き合いたくなくても、たまたま向き合っちゃって、仕方がなくもがき苦しんで、そこを乗り越えたら、もう怖れるものはなくなる。
人は強くなれる。

自分の弱さにも向き合える。

でも、乗り越えるってホントはとてもたいへん。ビビっちゃうよ、どうしても。
不安になっちゃう。
そこで、始めに戻って来るんだ。
自分は愛されているんだって確信できるか、
自分が愛されているっていう部分に自信を持てるかってことなんだ。
愛されたという確信が、人を愛する確信に繋がる。

「それは、我慢も遠慮もせず、自分を出せて、自分のしたいこと、そして相手のしたいことをお互いに受け入れ合うことです。」

Tuesday, September 13, 2016

じん、よく言ったぞ!

おぅ、オヤジ。オレやっぱ国立やめようかと思うんだ、、、

ふだん、勉強や受験のことパパが聞いても何も言わずうるさがっているじんが、めずらしく神妙な顔をして、椅子に座って、突然言い出した。
おっ、来たか!
パパもテレビを消してじんに向き合った。

おう。どうしたんだ?

いや、もう科目が多すぎて、さすがに追いつかないんだ。

ああ、そうか。ぜんぜん構わないぞ。祐馬だって私立なんだし。お金のことは気にするな!

済まない、、、

じんの尊敬する兄貴は公立高校から国立大に行った。
じんがケンカばかりしていた(今はもうやらないか?)姉貴は公立高校から外国の大学に行っちゃった。
パパもママも公立高校だった。
じんも行きたかったよな。でも公立高落ちちゃって、私立校へ。
そのリベンジで国立大に行きたかったんだろ。今まで公立大に行くんだと頑張っていたもんな。それがじんのプライドだったんだ。じんはひとりでよく勉強しているよ。パパが何か言うとうるさがって「オヤジは何も知らないだろ!」としか言わないけど、パパはそう思っている。

そう。目標を高く掲げて頑張るんだ。それは正しいことだ。
東大を目指せ! 甲子園を目指せ! 金メダルを取るんだ!
くじけるな! 困難に立ち向かえ! 最後までやり通せ!

でも、行き詰り、にっちもさっちも行かなくなるときだってある。
この時期、言い出すのは、センター試験の科目選定があったからなのか、先生に何か言われたのか、そこまではじんも言わないからわかんないけど。

それで良いんだよ。
目標を下げることは敗北ではない。むしろ勝利なんだ。
プライドを捨てず、無理とわかっていても、当初の目標に突っ走るって、なんか強いように見えるけど、実は現実を見るのが怖くて否認しているからなんだ。
現実を受け入れ、今まで自分を支えてきたプライドを再調整するって方がよっぽど難しいし、それを自分で受け入れるってのは、実は強いことなんだよ。

おやじに金を使わせたくない。
それがおまえのプライドなんだろ!?
パパがそれくらいの金は持っていることはじんも知っているだろ。
金があるないの問題ではなくて、じんは親がかりが嫌なんだよな。自立したいんだよな。

今の段階で国立を視野から外し、受験科目を減らして集中するのは賢明な策じゃないか。
その線でがんばりなさい。自分で行きたい大学を選び、ベストを尽くしてごらん!

Tuesday, July 26, 2016

おばあちゃんと墓参り

に行ってきたよ。

ばあちゃんにとっては4月の納骨以来、初めての墓参りだ。じいちゃんが亡くなってからほぼ半年だよ。もうちょっと近ければ気軽に行けるんだけどね。


人の世話になりたくないばあちゃんとしては、今回電車とバスで行く予行演習をして次回からは一人で行けるようにしたかったみたいだけど、諦めたみたい。方向音痴で最近はめったに電車さえ使わないばあちゃんにとって、やっぱ無理だな。

ばあちゃんはお墓の前でハンカチ出して、静かに泣いてたよ。何も言わずに。

ふだんこうやって涙を流す機会もあまりないしな。

♪ 私の~お墓の前で~、泣かないで下さ~い。 

とか歌にもあるけど、実は泣いた方が良いんだよ。
死んだ人にしてみれば、自分のお墓の前でいつまでもビービー泣かれるのはイヤだろうけど、遺された人にしてみれば、辛いけどやらなくちゃいけないプロセスなんだ。

大切な人を失うと、心のタンクに哀しみが溜まり、心が重たくなってうまく動かなくなる。
タンクの蛇口を開けて、溜まった涙を流してやらなくちゃならない。別にわざわざ蛇口を開けなくても、時間がたてば少しずつ自然に蒸発していくから、何とかなるんだけどね。でも、時間がかかるし、思い切って出しちった方が、その時は辛いけど、後が楽なんだ。

パパも今回お墓参りして、多少は悲しくなるかなと思ったけど、もうなれないんだよね。
べつにもう優子はどうでもいいし、じいちゃんはまだ半年だからお名残り惜しいかなと思ったけど、そうでもないんだ。もう二人とも、天国で勝手に楽しんでいてくださいって感じで。

優子、じいちゃんゴメンなさい。

泣きたくても泣けないってのも、ちょっと残念だよね。
やっぱしちょっぴりは悲しくなりたいというか、悲しみもパパの人生の一部として取り込んでいた方が、まっとうなような気がするんだよね。

あとは、ばあちゃんをどうやってあっこばちゃんのとこへ連れていくかだな。
パパの時は、あらゆる人々を使って悲しみを出しまくっていたけど(ちょっとやり過ぎたかな!?)、ばあちゃんの場合、それができる相手は極めて限られているんだ。友だちだってあまりいないし、子や孫や、気心の知れた甥・姪くらいなもんなんだ。
その中でも、ばあちゃんが同じ目線で気持ちを許せ合えるのが妹のあっこばちゃんなんだ。

ばあちゃんは四国に行きたくても、タケシの世話になりたくないとか突っぱねるし。
どちらにせよ、パパは秋にしまなみ海道でチャリの大会があるから、その時にばあちゃんを連れていけば問題ないんだけどね。

ばあちゃんは、四国ののんびりとした田舎町で生まれ育ち終戦を迎え、しばらくしてからお見合いでじいちゃんと結婚して、単身東京にやってきたんだ。当時の愛媛・東京間は、今の東京・メルボルン間より遠かったんじゃないかな。ずいぶん寂しかったと思うよ。
当時、女性としてはめずらしく四大を卒業したのに仕事もせず、専業主婦として子どもを作り、夫を支え、60年間ずっと東京で暮らしてきた。おかげでじいちゃんはしっかり社会に貢献して、ふたりの子どもも、まあ無事に育って、5人の孫もいる。

先日、ばあちゃんは
「もう私はいつでも、おさばらしても良いと思ってるから。」
とか言っててね。
たしかに、夫を見送り、子どもたちを船出させ、楽しいことも辛いこともいろいろあっただろうけど、ばあちゃんの時代の規範に照らせば、ちゃんとやるべきことをやって、人生の目的を全うしたんだよ。身体は健康だけど、聴力も体力も精神力も弱くなり、世の中に付いていけなくなっちゃって、どんどん取り残されるし、生きていても新たな楽しいことが生まれるってわけでもない。ばあちゃんの気持ちもわかるし、無理にお引き留めする必要もないわけなんだけど。

ばあちゃんには、静かに、安定して山を降りて行ってもらいたい。

じいちゃんの時もそうだったよね。
少しずつ自分を失っていく。社会的役割も、体力も、健康も、気持ちも、意識も、、、。痛みを伴わずに失えるって、けっこう難しいと思うよ。

子どもが成長して、自分を獲得していくプロセスもけっこう大変だし、痛みを伴う。今、子どもたちは3人ともその最中なんだよ。自分たちは夢中でわからないだろうけど。
子どもが大きくなるとき、親やまわりの支えが必要だったのと同じように、
老親が小さくなっていくとき、だれかの支えが必要なんだ。その役目は子どもが担ったりするけど、子どもがいない場合だってあるしね。

ばあちゃんが故郷に帰って、子ども時代に戻ったら、楽に小さくなれるんじゃないかなと思ってね。
でも、ばあちゃんの故郷の生家も両親もなくなっちゃって、唯一残っているのが、あっこばちゃんかなと思って。

先日、ばあちゃんの本家の甥が四国から来てくれてね。甥姪4人を集めて会食したんだ。短い時間だったけど、ばあちゃんは楽しかったみたいよ。その後、
「また、時にはああやって会食しようね。」
と言ってるんだ。

キミたちも、ママのお墓参りする時には、ばあちゃんを連れて行ってやってね。



Sunday, June 12, 2016

不安スイッチとおばあちゃんの認知症

ばあちゃんの認知症が始まったかな、、、という感じなんだよね。

玄関のドアのカギを開けられないんだ。
私が、普段使っていないもう一個の鍵も閉めたもんで、おばあちゃんが開けられない、外に出られないってパニックになっちゃったんだ。イレギュラーなことが起きるとダメなんだよね。その後カギを縦にしたら開いて、横にしたら閉まってというごく単純なことが飲み込めなくて何度も繰り返すんだけど、「わかった」と納得がいかない。じんが30分くらい付き合ってなんども説明して、その後パパも同じようにずっと付き合っていたんだけど、ダメなんだよね。ちゃんと問題なく開け閉め出来ているに、「できたんだ」と思えないみたい。
「もう、おばあちゃんダメだなぁ」が口癖になっちゃって、すごくめげちゃうんだ。
その後、いつもの朝の打ち合わせで、「帰宅は6時、夕食はOK」みたいなことをカレンダーに書き込むんだけど、それができないんだ。ペンを持ったまま固まっちゃって、「なんて書いたらいいかわからない〜」という状態。
自分ができなくなっちゃったということはよく分かってるから
「あぁ、おばあちゃんもうダメだなぁ」と、さらに落ち込む。
それでいて新聞読んだり、いつもの碁の集まりとかルーチンの慣れてることは普通に出来るんだよね。今晩も一緒にご飯を食べたんだけど、買い物・炊事・料理はちゃんとできるし、食卓での会話もいつもと同様、耳が遠いだけで、頭は普通に働いているんだ。
認知症って、こうやって少しずつ始まるんだよね。初めは特定のことだけ部分的にあれ、おかしいなという具合なのが、徐々に他の分野にも及んでくる。

心配なこと、不安なこと、びっくりすることなどなんらかの否定的なストレスが加わると、パニック発作、つまり不安スイッチがオンになっちゃうんだ。すると思考停止状態に陥っちゃう。emotional overloaded つまり心がその感情で一杯になっちゃって、理性が働かなくなっちゃって、アタマが止まっちゃうか、暴走し始める。

パパもママが死んだ後、2−3ヶ月間は、自分の心の動きが止まる(うつ状態)か、暴走するんじゃないか(変な行動を起こすとか)と心配だったけど、なんとかそうならずに済んだけど。

パパんとこに来る患者さんたちもそうだよ。例えば子どもに心の問題が発生すると、親の不安スイッチが入っちゃうんだ。すると暴走して制御不能になって、パパがなんかアドバイスとか言っても全然入んなくなっちゃう。子どものためと思って一生懸命子どもに接するんだけど、その方向がずれているもんで、ますます子どもの問題が悪化してしまう。

人は誰でも過大なストレスが加わるといかれちゃうんだけど、どれくらいのストレスで暴走し始めるか、人によって閾値(threshold)が違うんだよね。健康な人は高いんだけど、心の健康を損なうと低くなっちゃう。おばあちゃんはママの死やおじいちゃんの死でストレスが加わって、さらに加齢もあって閾値がかなり低くなっているんだ。だから普通の人ならなんでもない小さなストレスでもアタマが動かなくなっちゃう。さらに、この閾値が低くなって、常時動かなくなっちゃうと、認知症ってことになるんだろうね。まあそうすぐには進行はしないだろうけど、今後はわからないね。

それに今回はパパが海外に行くってことがあって、ばあちゃんにとっては相当ストレスなんだろうね。じいちゃんも、パパが外国に行って留守にする時に限って調子を悪くしてたし。という意味ではパパにも責任はある。でも、パパもずっとおばあちゃんにつきっきりっていうこともできないしね。パパのやりたいこと、やらなくちゃならないことはあるし、一人暮らしや施設で暮らしている高齢者だってたくさんいるわけだから。

ということなんで、君たちもばあちゃんをよろしくね。孫に会うことがばあちゃんにとっての一番のストレス解放になるから。

Wednesday, June 1, 2016

久々に読み返してみたら、、、

母が、父の遺品を整理していて「これ、Tikiのでしょ!」と渡してくれたのが、このブログの原稿。父が読みたくて、私がプリントアウトして渡したんだよ。ブログを始めてから半年分くらいなんだけど、A4のコピー用紙に100枚以上。随分と書いたもんだねえ。
読み返しても、まあよく書けたもんだ。すごいintensityだよね。我ながらびっくりしたよ。
もちろん、書いてある出来事も、その時、そういう心情だったということも覚えてはいる。でも、相当悲しかったんだねえ。。。その気持ちは主観的に呼び戻すことはできない。
Men's group (MKP)の仲間たちの助けも借りて、当時の悲しみの気持ちを蘇らせようとしたんだけど、残念ながらもうできない。悲しみのタオルがカラカラに乾いて、いくら絞りだそうとしても何も出てこない。
書いていた当時は絞らなくてもちょっと触れればポタポタ垂れてくるほど悲しみの水で溢れていたんでしょうね。今は、それがなくなっちゃった。これも、一つの喪失体験かね。当時の気持ちに戻ることができなくなっちゃった。

それは、残念なことじゃあないんだよ!、、、と仲間が指摘してくれた。
彼は優子のお葬式にも来てくれて、僕のmourning processにずっと付き合ってくれていた。つまり、Tikiは悲哀の仕事をうまくこなしたってことだよ。
確かにそうなんだよね。もうあの当時の悲しみの世界には戻れない。それは良いことなんだ。

そろそろ、このブログを本にまとめてみたらどうだろう?
世の中にはこの種の、家族喪失の体験本がたくさん出ているからね。優子を失った直後は読む気がしなかったけど、しばらくしてから随分読んだ。今は、もう読む気しないけど。ってことは、こういう本を必要としている人は常にいるわけで。
中には、喪のプロセスの現在進行形で書かれた本も結構あった。要するに、僕のブログがまだ熱い頃に出版されたような本で、ああ、こうやって本を出すことで喪の仕事を進めているんだなってのがよくわかる。
僕の場合は、もうその時期は過ぎてしまった。悲しみのタオルが乾いてしまっているから、そういう意味では本を出す必要性もないんだけど。
むしろ、乾いた立場、そして喪の仕事を支援する心の専門家の立場から、僕のmourning processを客観的に解説するみたいな二重構造で書けば面白いんじゃないかってね。そうすれば、僕自身の当事者としての心の姿と、支援者としての姿の両方を見せられるから、営業的にもなりたつんだ。僕自身のニーズというよりは、そっちのニーズから書こうということなんだ。

でも、その前に、一向に進まない本の原稿があるから、まずそっちを仕上げなくちゃダメでしょ。そっちを早々に仕上げて、こっちの方は今が優子喪失7年目で、べつにもう少し後でも、タオルの乾き具合はもう変わんないのだから、待っても構わないでしょ。

Sunday, March 6, 2016

父の終焉日記(2月23日〜3月6日)

2月23日
今日はおじいちゃんの初めての月命日だったんで、おばちゃんが家に来たてくれたよ。
サプライズで来たからおばあちゃんはびっくりして、喜んでいた。

そうかぁ、今日は命日なんだね。。。

なんておばあちゃんはしみじみ言ってたけど。
パパも正直、月命日のことは忘れていたんだ。
ママの時は、しつこく、しつこく、いつまでも月命日のことを憶えていた。
でもそれも3−4年間くらいかな。さすがに7年経った今は「3日」のことは忘れてるけどね。

  • この度は御尊父さまのご逝去、ご愁傷さまでした。
  • 少し時間もたちましたが落ちつかれましたでしょうか?

なんてことを時々いろんな人が聞いてくるんだけどね。
あまりピンと来ないというか、パパはもうすっきりしちゃっているんだ。
2週間前にスキーに行って、夜に仲間と飲み交わしながら、話の流れの中で
「ボクも2週間前に父が亡くなってね、、、」
なんて軽く言ったら、友だちは「おいおい、大丈夫かよ!?」
まあ、そんなこと聞けば普通はびっくりするというか、深刻に受け止めるよね。
でも、パパの場合は別にもう大したことないんだ。
ママがスキー場で死んだ後は1年間、スキーに行けなかったもんね。翌年に恐る恐る行ってみて、また行けるようになったけど。
今なんか、スキー行きまくってるよ。

今回は、どうしてこんなにすっきりしてるんだろう?
パパの中で、おじいちゃんのことはすっかり整理がついてしまっているんだ。
おじいちゃんからもらうものは十分にもらったし、おじいちゃんに与えるものも十分に与えられたっていう感じかな。

おじいちゃんからはたくさんのものをもらった。
そんな風に振り返られるようになったのも、パパが40歳を過ぎてくらいかな。それまで必死に生きてきて、やっと余裕ができてまわりが見えてきたんだと思う。

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で、ここからは3月5日、というか6日。もうそんなに必死にブログ書かなくなっちゃった。
気持ちが必死だと、文章たくさん書くんだよね。ママの時がそうだった。書きまくってたよ。でも、今はそんなに一生懸命書く必要なくなっちゃ、、、と言いつつも、多少こうやって書くかな、、、だから時間が出来た時にポチポチ書いてるって感じ。

おじいちゃんのことを思い出そうして出て来るのは、たくさんパパにやってくれたんだなってことかな。そういう思い出が出てくるってのはつくづく幸せなんだと思う。そうじゃない人、けっこう多いもんね。特に父親のことは。母親はまだ良いんだけど、父親の思い出って「ない」のが思い出だ、なんてね。

おじいちゃんは、とても家族を大切にする人だった。
パパが子どもの頃も、いつもそばに居てくれた感じ。
そりゃあ、主婦のおばあちゃんがいつも家に居て、おじいちゃんは物理的には外に居たけど、気持ち的には、いつも見守られていた感覚が残ってるんだ。
・幼児の頃はおじいちゃんのおっぱいを触って寝ていた話は、もうしたよね。
・子どもの頃はよくスキーとか田舎の里帰りとか一緒に行ったし。
・高校時代、アメリカに留学したいと言った時も、おばあちゃんは想像を絶するびっくりポンで、良いも悪いもなかったし、高校の担任教師は「そんなことしたら大学に行けなくなるぞ」なんて言うし。
そんな中で、おじいちゃんが「行ってこい」ってはっきり勧めてくれたんだ。
あと中学の吉澤先生もそうだったかな。かなこちゃんのおじいちゃんだよ。中学を卒業した後も先生とはコンタクトがあってね。
(祐馬の◯◯先生みたいに。そういうの大切だよね)
・ママを失ったこの7年間も、じいちゃん・ばあちゃんはパパと子どもたちのことを出来る限り助けてくれた。それは子どもたちも見えてるだろ。

おじいちゃんとおばあちゃんはパパと子どもたちに、親(と祖父母)として出来る限りのことをしてくれたよ。
パパもおじいちゃんに、息子として出来る限りのことをしてあげたよ。
特に、おじいちゃんの最後の半年間かな。
それまでは、おじいちゃん、ちゃんと自分で自分のことを出来ていた。
でも、頸椎に転移が見つかってからは、すっかり弱気になっちゃって、幼児返りみたいになっちゃった。身体がいうこと効かなくなっちゃったからね。仕方がないんだ。
パパがじじばばと一緒に住んで、いつもそばに居たことが大きな安心だったと思うよ。
だから、パパが海外出張とか居なくなると、すごく不安がっていた。
だからと言って、パパが旅行をすべて取りやめて家にずっといるということまではしなかったけど、病院に付き添ったり、在宅医療をアレンジしたり、おじいちゃんの実家に連れて行ったりね。その頃から、おじいちゃんは大切な判断をできなくなり、すべて息子のパパに委ねるようになったよ。ちょうど幼い子どもが親に判断を求めるようにね。
パパは、じじばばのもとで、安心して大きくなった。
おじいちゃんは息子の元で、安心して小さくなっていったんだ。

てなわけで、するべきことは十分にやったから、ぜんぜん悔いはないというか、もうきっちり済んだ感覚。
ちょうど紙コップでコーヒーを最後まで飲んで、空っぽになったから捨てても全然構わないっていう感じかな。そりゃ、捨てるのもったいないけど、十分役目は果たしたからね。

おばあちゃんも、妻としておじいちゃんには出来る限りのことをやったね感はあるんじゃないかな。まだ聞いてないけど。
ママの時は、出来る限りもなにも、まだやってる最中だったからね。
おいおい、なんでそこで急に生きるの止めちゃうんだよ!
びっくりするし、ムカつくし、冗談じゃないよ、っていう感じだった。
まだ紙コップにスタバのコーヒーがたくさん入っていて、これから楽しもうと思ったのに、いきなりこけてゴミ箱にポンと捨てちゃって、ゴミ箱と床がコーヒーでびちょびちょ水浸しになっちゃったという感じだな。

Saturday, February 27, 2016

哀しみを自己肯定につなげる。

〇ヶ月前に母が急逝して、ずっとどこか虚しさを感じてきました。生まれた時から愛されてないと感じたことが一度もなかったというのはなんと幸せなことでしょう。決して良いお母さんイメージではなかったけど、人として大好きでした。

愛されていないと感じなかった、というのと、愛されているのを感じてた、ってのはまた別の話なんでしょうね。

そうですね、愛されてることは当たり前すぎてたのかな。

 くっついていた(愛されていた)時はそれが当たり前で空気みたいだから何も感じないけど、離れて(失って)からようやくくっついていた(愛されていた)時のことを感じるんでしょうね。だから悲しいんですけど。

Tikiさんの姿を見ていたおかげで、母のお葬式を母らしく送ることができました。あと、喪の作業も。

そうですか。参考になりますか?そりゃあ良かった。
僕としても、〇〇さんやみんなが居てくれたおかげで喪の作業を進めることが出来たんですけど。

喪の作業って、大切な人を失い、空虚ながらんどうになってしまったスペースに再び感情を満たしていく作業なのかなって思いました。
でも、水道の蛇口を開ければいろいろな感情が出てきて水浸しになってやっかいなんですよね。だから、蛇口は閉めておきます。そうすると悲嘆は閉じ込められていつまでも処理できません。
安全に蛇口を開けるのって結構やっかいかも。誰かに受け止めてもらわないと無理です。

失って、見えてくるものが愛しさだと、涙(悲しみ)が溢れ出してきます。

でも、悲しみはまだ良い方なんですよ。
時には後悔や怒りや安堵(正直死んでくれてホッとしたみたいな)が流れ出してきます。実はそっちの方がずっと厄介なんですよ。それは罪悪感を生み、自己否定に繋がっちゃいますから。そんなのイヤだから蛇口を開けず、固く閉めたままです。閉めたままいつまでも消化されないのを複雑性悲嘆(Complicated Grief)といって、そういう人が私のところに相談に来たりします。
でも、その罪悪感の背後には、実は愛が隠されているんですけどね。そこまで到達できれば自己否定から解放されるんだけど、そこに至るのは専門家の力を借りたとしてもなかなか難しいですよ。

「悲しみ」は、それを表出すると心が混乱して疲れるから、ふつうは避けようとしますけど、実は自己肯定に繋がる健康的な感情なんですよ、きっと。
7年間、悲しみに向き合って来て、なんとなくそう思うようになりました。

Saturday, February 6, 2016

母親の物語(おばあちゃん語録)

「『老いては子に従えだねぇ。」
昼間におばちゃん(娘)が来て、いろいろアドバイスしてくれたんだって。
部屋の中の整理はこうしたらいいよとか、
親戚への連絡はああしたらいいよとか。
おばあちゃんは、それを素直に聴いて、ありがたがっているんだ。
ばあちゃんは認知は全然はいっていないからね。ものごとはちゃんと理解している。だけど、判断の自信がぜんぜんなくなっちゃったんだ。道理ではこうすればいいというのは当然わかるんだけど、ホントにそれでいいのかってのはぜんぜんわからない。だから、おばちゃんやパパが言うことに全部すなおに従うんだ。

「今晩はおばあちゃんはひとりで食べるからね。」
じいちゃんの死後、パパが何度か上で一緒に食べようと誘ったからね。すると、素直に「ありがとう」と言うんだけど、ホントは自分で食べたいみたい。
パパが朝にばあちゃんの所に行くと、パパから「上で食べよう」と誘う前に先手を打って、「ひとりで食べるよ」って宣言してるんだ。
おばあちゃんは、プライドはあるんだ。自分でできることは自分でやりたい。
ちょうど3-4歳の子どもが、今まで自分でできなかったことが出来るようになると、「自分でやる!」って主張するでしょ。それと同じ感じ。
おばあちゃんの場合は、今まで自分でできていたことがだんだん出来なくなるんだけど、出来るうちは自分でやりたいんだよ。人に生かされているんじゃなくて、自分で生きたいんだ。
といったって、自分で料理するわけじゃなくて、コンビニ弁当とか買ってくるんだけどね。それでも良いみたい。でも、「じんの分も作ってよ」とかパパから頼めば、オリジナルで料理もできるんだよ。
だから、今後は「上で一緒に食べようよ」とおばあちゃんの自立性を奪うのではなく、「僕らの分も作ってよ。お刺身とか一品持ってくるから下で一緒に食べようか。」みたいな誘い方のほうが良いのかもしれない。

「喪失感が大きくてね。」
初めの一週間は、そんなこと言わなかったんだけど、最近言うようになってきた。
しばらくして落ち着いてから、そういう気持ちが出て来るんだ。
そりゃそうだよ。喪失感は大きいよ。60年近く一心同体で一緒にいたんだから。

「気持ちを和歌に書いたら?」ってパパが勧めたら、
「まだ、とてもできないよ。」
そうだよね。気持ちを書き出したり、表現するのも、ある程度、時間が経って落ち着かないとできないんだ。そういうのを出来るようになると、だいぶ楽になるんだけど。
おばあちゃんは、おばあちゃんのペースでゆっくり喪失の悲しみを消化していくしかないね。

それに比べてママの時、パパは超スピードだったよ。
こう言っちゃあ何だが、ばあちゃんよりパパの方が悲しみの量ははるかに大きかったはずなんだ。だって、年齢も若かったし(40代 vs. 80代)、オトコだからね(一般に女性の方が感情の耐性が強い)。だからパパの方が感情表出が難しくて出し始めるまでに時間がかかるはずだったんだけど、そこはパパもすごく焦っていてね。どうしようもなかったし、スキルとしてどうすればよいのかわかっていたから、初めっからたくさん書いて、たくさん泣いていたでしょ。
そういえば、お葬式以降、ばあちゃんの涙はあまり見てないな。

でも、ばあちゃんは一番仲の良い四国の妹へ手紙を時間をかけて書いているんだよ。
他のきょうだいには簡単に知らせるけど、この妹だけには長く書くんだって。ずっと下書きを書いて、パパやおばちゃんにこれで良いか見せて、また書き直して。
それが、ここ3−4日のおばあちゃんの日課なんだ。それしかやってない。
まあ、それで良いんだろうね。そうやっておばあちゃんは気持ちを書き出しているんだよ。

だから、パパが別のお手紙を書いてあげた。これを同封しなよって。パパは30分で書いちゃったけどね。
◯◯おじさん、◯◯おばさん
ご無沙汰しております。
 母の手紙のとおり、父は去る1月23日に自宅にて安らかに逝去いたしました。葬儀は無宗教で、妻、子、孫、父の妹たちのみでしめやかに済ませました。
 父が58歳の時に人間ドックでガンが見つかり左の腎臓を、11年後の69歳にすい臓・十二指腸・胆のうを切除しました。81歳で肺にも転移が見つかりましたが、もともと進行の遅いタイプであったため、抗がん治療は一切行いませんでした。発見されて以来、29年間ガンと共生しました。
 去年6月に手のしびれと痛みから、第四頸椎への転移が見つかりました。放射線治療により痛みは緩和され、近くの日赤病院外来通院と、週1回の在宅医療を併用して、自宅で療養しておりました。お正月までは比較的元気で、自由に歩き回ったり、食事もしていたのですが、正月7日に転んでしまいました。その拍子に頸椎が崩れ、右手の麻痺と両下肢の脱力のためにベッドに寝たきりになりました。以来、ホームヘルパー、医師、看護師、医療マッサージ、訪問入浴など、本格的な在宅緩和ケアを開始しましたが、その10日後の1月23日の朝に、何の前触れもなく穏やかに息を引き取りました。
 父の意識レベルは穏やかに低下していったものの、最後まで痛みや不快感もなく、自宅で家族に見守られながら、穏やかに天寿を全うすることができました。
 残された母は聴力が低下しているために電話の対応も来客の対応もできませんが、元気で静かに過ごしております。数日前から◯◯おばさんへの手紙を何度も書き直し、ゆっくり喪の作業を行っているように見受けられます。
 父の生前の希望で、父の死は家族以外には誰にも知らせておりません。母のきょうだいにも、母のペースでこれからゆっくり知らせることになろうかと思います。
 以上、息子からの補足でした。

Monday, February 1, 2016

母親の物語(生きがい)

なんか、おばあちゃんが急に可愛くなっちゃったよ。
可愛く、というのも変な表現だけど、すごく落ち着いたというか、素直になった。
私はよく出かけるように週末2日ほど家を空けたんだ。
じいちゃんがいたころは、私が出かけるとすごく嫌がって、不安になっていた。
でも、今回は全然反応が違うんだ。ぜんぜん心配していない。
じいちゃんがいなくなったら、心配する必要がなくなったんだ。ということは、今までもばあちゃんは自分のことを心配していたんじゃなかった。じいちゃんに何かあった時、自分一人じゃ対応できないから息子にいてほしい、息子がいないと困る、という心配だったんだ。
今の穏やかな姿を見ると、今までは必死に戦っていたように見える。じいちゃんや家族のことを心配し、家庭介護でたくさんの人たちが来たら神経を使ってヘトヘトになって、がんばってきたよね。
今は全然がんばっていない。力が抜けて、人の心配や気を遣うこともない。
気が抜けちゃって、落ち込んでいるように見えないこともないけど、なんか違うように思う。あまりメソメソ泣いたりもしないし、おじいちゃんのことを思い出して語ったりということもあまりしない。まだ初期ショック状態で、これからそうなるかもということはあり得るけれど、今のところ、とっても楽なように見える。
今晩も、夕食を一緒に誘ったんだ。初めは遠慮して「自分ひとりで作るから」と言う。「でもせっかくおばあちゃんの分も作ったから」と勧めれば、それ以上自分を主張することもせず素直に従う。ばあちゃんの好物のお魚を出したら、美味しい、美味しいと子どものようによく食べる。食欲もちゃんとあるよ。
この前は、ラザニア、ちょっとばあちゃんの口には合わないかなと思ったんだけど、それも美味しい、美味しいと食べていた。
ばあちゃんはずっと家族の中で生きてきた。儒教の三従の教えのとおり、子ども時代は父親には従い、結婚して夫に従い、これからは息子に従う準備も、すっかり出来ているように振る舞っている。

おばあちゃんの生き甲斐って何だろう?
「生き甲斐」って、自分単体では生まれてこないんだ。
人がいて、その人にとって自分がいることに意味がある、いてくれて助かる、いてくれないと困る、、、
それは夫婦や親子の家族の中でも、仕事とか社会の中とか色々あるけどどっちでもいいから。
ばあちゃんは生き甲斐が何かとか考えたり、生きがいを求めたりってしたことないんじゃないかな。なぜならばあちゃんにとって自分から求めるものではなく、まわりから与えられるものを受け取るだけだから。そんなこといちいち考える意味がないんだ。
じいちゃんは退職してからも囲碁、和歌、書道、パソコン、キーボード、いろんなことやってたでしょ。百科辞典とか園芸とか世界旅行とか訳のわからんシリーズ物のビデオ買っていた。じいちゃんは生きていくために生き甲斐が必要だったんだ。夫や父親という家族の一員として、そして職業を通じて社会の一員として、どうやったら生きてる意味があるのかって常に考えていた。多くの男性は社会生活が中心だけど、じいちゃんは家族生活もよく考えてくれていたよ。
ばあちゃんはじいちゃんに付き合って囲碁とか短歌とかやってたけど、別に自分からやりたくてというわけではなく、じいちゃんがやるなら自分も楽しもうか程度。まあ二人でやれば共通の話題や知人もできるから、そっちのほうが楽しくてやってるみたいな感じかな。多分じいちゃんがいなくなったから、囲碁も和歌も特にしなくてやめちゃうんじゃないかな。
ばあちゃんは生き甲斐とかを敢えて求めなくても、これからもひとりで普通に生きていけるんじゃないかな。ただ起きて、ご飯たべて、お風呂入って、それでいいじゃん。
こんな風に書くとなんかばあちゃんをバカにしてるように聞こえるけど、そうじゃなくて。

「生き甲斐」とか「自己実現」とかって単体としての生き方を前提とした個人主義が背景にあるんだ。
パパもじいちゃんもそういう考え方に取り込まれている。それが近代知性のあり方でもあるからね。
家族の中で一生を過ごしてきたばあちゃんにとって、自己実現とかが似合わない。そんなものは見いだすものでもなく、自然にしてれば十分、それで楽しいじゃんという感じかな。じいちゃんが一生懸命自分のことを書いたり、パパとじいちゃんが往復書簡したり、じいちゃんに元気になってもらおうと孫たちを集めても、ばあちゃんとってはそんなの意味がないんだ。じいちゃんやたけしがやりたければ勝手にやればっていう感じ。

人生は単体として成り立つのではなく関係性の中で成り立つ。ばあちゃんの生き方はまさにそれだ。どうしたら自分が楽しいか、嬉しいかということではなく、どうしたらみんなが楽しいか、嬉しいか。みんなが幸せなら、それが自分の幸せなんだ。ばあちゃんは与えられた家族の中でずっと生きてきた。社会がどうの、世の中がどうのということはあまり関係ない。
考えてみたら、それもすごく幸せな生き方だよね。

Thursday, January 28, 2016

父の終焉日記:1月28日

泣き虫のパパは、例によってお葬式でたくさん泣いていたけど、ママの時とはぜんぜん違う涙なんだよ。ママの時は悲しみの涙、今回は「ありがとう」の涙なんだ。

  • パパを誕生させてくれてありがとう。
  • パパを育ててくれてありがとう。
  • パパを見守ってくれてありがとう。

ママん時は対象喪失の涙だった。自分にとって必要な人が剥がれるような痛い悲しみ。心にポッカリ穴が空いてしまって、、、みたいな。
じいちゃんは、パパにとって「必要」な人だった。過去形だね。今でももちろん大切だったよ。でもじいちゃんはパパにとってセミの抜け殻みたいに、幼虫の頃は大切な身体の一部だったけど、もうとっくに脱皮しちゃった。現役選手を引退して野球の殿堂入りしたというか、大英博物館のロゼッタ石みたいに、大切な過去の遺産、歴史上の人物なんだ。そりゃあ、失うのは人類遺産の喪失だけど、別に現代社会を生きていく上で全く支障はない。
ママは45歳でじいちゃんは86歳。およそ倍だからね。ママん時はルール違反でアウトだったけど、じいちゃんは全然セーフだから。

おじいちゃんはパパに何を残してくれたんだろう、、、って考えていてね。
1)DNAを残した、というか受け継いだ、ということをじいちゃんは言っていたけど。残す側にとっては大切で、残される側にとっては、だからそれで何なの?っていう感じかな。残す側の立場から言うと、パパも3人の子どもたちにDNAを残して。自分の存在が消滅した後も、DNAという情報形跡が子どもたちに残っている、自分が子どもたちの中に生きているという感覚は確かにホッとすると思うよ。
残される側にとってみれば、DNAの情報、つまりじいちゃんから遺伝形質として受け継がれたもの:身体の特徴とか、運動神経とか、性格とか、アタマの良し悪しとか、、、遺伝病もあるし、精神病は遺伝ですか?なんてよく患者さんは聞くけどね。まあそういうのがどこまで遺伝(先天的)で、どこまでが環境(後天的)かってのも微妙だからね。別に、私は親の遺伝子が身体の中に入っていて、なんて意識はしないよね。まあ、どうでも良いことだけど。
2)遺産は都内の小さな土地と、ちょっとの貯金と、大したことないけど、少なくともマイナスの遺産ではない。遺産ってお金とか財産とか残してくれるものとイメージするけど、その反対に親が借金してそれを引き継がないと行けないっていう負の遺産も結構あるんだよ。
3)を残してくれたんだよ。じいちゃんは、家族に愛を教えてくれた。人を愛することってどういうことかを具体的に示してくれた。これが一番大きいよ。
そのことは、じいちゃんが死ぬまで気づかなかったんだ。じいちゃんが子どもの近くにいてくれた、認めてくれていた、大切にしてくれていたってのは前々からわかっていたけど、それが「愛」なんだってとこまでは考えなかったね。

愛って何でしょう?
それは心理学的にも定義するのは困難なんだ。だってあまりにも主観的な感覚でしょ。哲学も、文学も、芸術も、みんな愛をテーマにしてるよね。文学や芸術は愛を主観的に象徴的に表現して、心理学は愛を客観的に説明しようとするけど、よくわかんないや。
あなたが好きだよ、大切だよ、他の誰より大切だよ(友だちだったらそういう独占欲はないよね)、あなたは良い人だよ、肯定的に承認するよ、あなたは生きている価値があるよ、私にとってあなたが居ることが必要だよ、、、そんなことを言ってくれる他者との関係性が愛なんじゃないかな。愛は人間関係の形態様式のひとつなのかもしれない。

生きるためには愛が必要なんだ。愛がないと生きていけない。愛があるから自分の価値(生きがい)が見出される。愛が失われると、自分の価値も失われる。自殺した人の話をだどってみると、こういうのが欠けているんだよね。

成長するためには、親の愛が必要なんだ。
家の中で安全に大きくなるには母の愛(守る愛)が必要で、成長して家族から社会に自立していくためには父の愛(放す愛)が必要なんだ。
自分の家族を作り子孫を残すためには夫婦の愛が必要になる。

あと、死ぬためにも愛が必要なんだってじいちゃんを見ながら思ったよ。愛って安心を提供するんだ。安心の中で成長して家族を作り、安心の中で人生を終わる。じいちゃんは病院じゃなくて家に居て家族と一緒に最後の時を過ごしたかったんだ。ばあちゃんに「お水ちょうだい!」って甘えて、子や孫が不自由になった身体の世話をして「ありがとう」って言えるのが安心だったんだよ。成長するのも、家族を作るのも勇気がいる。死ぬことだって勇気がいるよね。それを平穏の中でこなすためにも、愛が必須なんだ。
ママの時はそんなこと言っている間もなく瞬間移動だったから関係なかったけど。

じいちゃんは、とても分かりやすく、受け入れやすいカタチで愛を示してくれたよ。パパが小さい頃も、「パパのおっぱい」の逸話じゃないけど、物理的・心理的にそばにいてくれた。承認もたっぷり与えてくれた。パパが高校でアメリカ留学したいと思ったとき、ばあちゃんにとってはそんなの想像を絶することだっし、高校の担任教師はおまえ大学行けなくなるぞって反対したんだ。その時、じいちゃんが「行ってこい!」って承認してくれて、実現できたんだ。
ママが死んでからもじじばばがパパや子どもたちをたくさんサポートしてくれたのは子どもたちもわかるよね。今だから言うけど、ママが死んだ直後に保育園の園長にじいちゃんが「息子に良い人を探して下さい。」っていう手紙を出したんだよ。じいちゃんは、ひとりになったパパのことをずっと心配していたみたい、あまり態度には示さなかったけど。そんな風に、じいちゃんから見守られてるなっていう安心感はパパの心の中にずっとあったと思う。半年ほど前まではね。

パパは仕事柄たくさんの家族の心理をみてるけど、ほとんど例外なく親は子どもを愛しているんだよ。でも、その愛し方がとても分かりにくい場合が結構ある。親が普通に平常心でいれば子どもにも愛を素直に伝えられるんだけど、親の気持ちに変なものが挟まっていて、不安とか、過去の怖れとか、痛い失敗体験とかがあると、親から子へ(あるいはパートナー間で)愛がヘンに曲がったカタチで伝えられてしまう。怖くて子どもに心理的に近づけなかったり、怒りや暴力や過干渉で愛を示したり、心配で子どもにひっついてしまい離せなくなりお互いに苦しくなったり。ホントはもっと良い愛を子どもや家族に伝えたいと思いながら、それが出来ずに「あーダメだ」なんて自信をなくしている親がけっこういるんだ。
母親の愛ってイメージしやすいけど、父親の愛ってなかなか難しいし、仕事して忙しくて、男性の家庭内の役割ってのが見えにくいんだ。その辺りがパパの専門なんだけど、母親の愛は家の中で暖かく見守ってすくすく成長するって感じ。父親の愛は自立する勇気を与え、社会の中で独り立ちしてうまくやっていけるよという自信を与えるんだ。多くの家族ではそれが十分でなくて、外に出られずひきこもりになっちゃったりする。たとえば、母親の世界は小さい子に「道で知らない人に声かけられてもついていっちゃダメよ!」と外部の危険から守る愛だからね。子どもが大きくなっても、相変わらずそういうメッセージを与え続けている親ってけっこういるんだよ。びっくりぽんだけど。それに比べて、父親の世界は「知らない人にも思い切って声をかけてごらん!」の世界だから正反対なんだよ。

パパの心の中には、おじいちゃんやおばあちゃんからもらった愛のストック(備蓄)がたっぷり貯まっている。だから、子どもたちやママにも難儀せずに愛を与えらるんだと思う。まあ子どもたちがそのことを実感するのはパパが死ぬまで待たねばならないかもしれないがね。学生や患者さんたちに与えているのも愛なのかもしれないなって最近思うようになってきた。じいちゃんが目に見えて弱ってきたこの半年くらいは、その愛のフローが「父親➡息子」から「息子➡父親」に逆転した感じでね。老親の介護ってけっこう大変だけど、パパの場合はあまり苦労せずに死に行くじいちゃんに愛と安心を与えられたかな、なんて思ってるんだ。

おばあちゃんの場合は、既にかなり前から「息子➡母親」に逆転していたような気がする。ばあちゃんについては、これからの課題だから、またよく考えるわ。

Tuesday, January 26, 2016

父の終焉日記:1月26日

いつも見てる朝の連ドラ、消しちゃったよ。
人の物語を見てるより、自分の物語を消化するのが精一杯だから。

今は、正直ホッとしている。
良いお葬式だったよね。
子と孫だけで、ゆっくり悼む時間を取れたよ。
お葬式の前の「湯灌」ってああやるんだね。私も初めて見たよ。ひげを剃って、背広を着せて、じいちゃん、最後も男前にかっこ良くなっちゃって!

式は坊さんの読経の替わりに、喪主の私がたくさんしゃべったでしょ。
じいちゃんの病気の経緯を紹介して。
58歳で人間ドックで左腎臓ガンが発見されて以来、29年間がんばったんだよね。69歳ですい臓・十二指腸・胆のうを切除して、81歳の時に日赤にて肺転移が見つかったけど、もう手術はしないって。だいたい、膵臓がんの術後5年生存率は5%以下だからたいしたもんだよね。

去年の6月に頸椎への転移が見つかって、首のコルセットと在宅医療も始めたけど、まだそれなりに元気だったよね。10月、兄貴の新太郎おじさんの四十九日に四万温泉まで連れて行った時、「疲れた〜」とか言ってたくせに妹たちの前だと偉そうな兄貴風を吹かせてすごく元気になったんだ。じゃあそういう機会を作ろうと思ったのが12月6日の「じいちゃんの話を聞く会」ね。mp3で流したんだけど、ここにも張り付けられるかな?(ダメだ、音声ファイルは張り付けられない)
今年の元旦に集まったときも、まあ元気だったよね。でも、7日に転倒したのが命取りだった。右手が麻痺して、寝たきりになって。本格的に在宅医療を開始して、じいちゃん的には良かったけど、ばあちゃんにとってはえらいことになっちゃって。でもその期間も10日間ほどで、あっけなく天国に逝っちゃったよ。
最後の日も朝に、「じいちゃん、行ってくるからね!」と私が仕事に行ったときは、意識はちゃんとしていて、でも言葉がもう出なくなってたから、はぐはぐ口を動かすだけで、何を言ってるか分からなかった。まあ、この調子だとあと1-2週間かなとLINEで孫たちにメッセージを送ったよね。その直後、9時すぎにヘルパーさんから電話が入り、「世話していると、どうも様子がおかしいんです。息をしてないんです。」ということで、もう来ちゃった患者さんひとりだけ診て、その後の予約を全部電話でキャンセルして、急いで家に戻った時はすでに急遽往診してくれたお医者さんも帰っていて、じいちゃんの遺体と死亡診断書だけが残っていたよ。どうも看護師さんたちも含めて4-5人やってきて、身体もきれいにしてくれたらしい。さすが、慣れているよね。

ってなことを長々と私がしゃべって、あとはみんながお焼香して式はおしまい。
その後の会食が盛り上がったよね。
きょうだい会みたいになっちゃった。新太郎おじさんのお葬式の時もそうだったけど。
じいちゃんのきょうだいって仲が良いんだよ。私が子どもの頃はきょうだいたちが子どもたちを連れて四万温泉や交代でいろんなところに集まったんだ。そうすると、歳の似た20人くらいのいとこたちも集まるもんだからみんなで遊んで、幼い頃の楽しかった記憶なんだ。そういう親族の同窓会みたいな。おばさんたちだけを呼んだんだけど、いとこも4人くらいくっついてきてね。私とおばちゃんも含めて6人の「いとこ会」にもなっちゃった。ホントはもっとたくさんいるんだよ。
じんがいとこのねーちゃんたちと親しそうにしゃべってるのは見ていて感心したよ。ふだん家では見せない顔だからね。ちょっと離れたいとこたちとは良い感じになれるんだよな。子どもたちきょうだいもこれから離れていけば、もっと気楽に仲良くなれるようになるんだと思う。今は、まだライバルで競い合っているというか、まだ子どもの部分をぶら下げているんだ。と言いつつも、3人とも大人になって来てはいるけどね。

次の日(昨日)は妻・子・孫の6人だけで斎場へお見送りして、じいちゃんはお釜に入って50分くらいで焼き上がっちゃった。最近のオーブンはずいぶん進化しているんだねえ。昔はもっと時間がかかっていたのに。お昼には遺骨と一緒に家に戻ってきて、
はぁ〜、終わったねえ、、、。
あっという間の出来事だったよ。

Saturday, January 23, 2016

父の終焉日記:1月23日(命日)

孫たち、集まってくれてありがとう。
今日の予約をキャンセルした患者さん方、済みません。
今日は、家族をまとめ、手続きを進めるのが精一杯で、気持ちはまだ出てきません。
少なくとも、優子の時みたいに感情が否応なしに溢れてくるようなことはないけどね。

Friday, January 22, 2016

父の終焉日記:1月22日

人生って登山みたいなもんだね。
登山口から、しばらくは樹林帯の中を登っていく。見通しは利かず、どっちに行くのかよくわからないまま、急登をあえぎ進むしかない。子どもたちはまだここなんだよ。
5合目くらいまで登ると樹林帯を抜け、見通しが開けてくる。姪たちはこのあたりだよ。まわりの眺めは見えてくるけど、頂上と思って見上げる頂は実は前山で、前山に着いて、隠されていたホントの頂上がやっと見えてくる。
私はおじちゃん・おばちゃんたちは3000m級のピークが連なる稜線を歩いている。もう最高峰は過ぎ、そろそろ高度を下げる時期に来ている。
ママはピークの稜線から足を滑らして、突然下まで急降下しちゃったよ。
じいちゃんはゆっくり山を降りている。すい臓を取り、退職してから20年。のんびり下降してきて、いよいよ最終段階に来ている。

もうあまり食べなくなってきたんだ。栄養剤ジュースをひと缶飲むくらいだよ。だんだんと、干涸びてくる。水分は取れているけど。
認知もゆっくり落ちてきている。現実世界と夢の世界と、行ったり来たりしながら、だんだん夢の世界に多く入ってきている。

上手に降りるって難しいんだよ。
ママは乱暴に無理矢理急降下しちゃった。
その点、じいちゃんはゆっくり良い降り方をしているよ。
20年前に社会的役割をリタイアして高度を徐々に下げてきて、2週間前から最終着陸体制だ。シートベルトを締めて。
身体の自由も、食欲も、認知も、同時並行でゆっくり降ろして来ている。着陸に際して苦痛も、恐怖も、不安もない。ソフト・ランディングだな。

飛行機も、離陸と着陸が一番むずかしいんだよね。
すごいエネルギーを使って滑走路を走って、地面から離れて飛び立つって怖いし、難しいし。
巡航高度まで上がり、気流に乗れば比較的楽なんだよね。時々乱気流でガタガタいうけど、まあ多分大丈夫。
着陸する空港は決まってないんだよね。ハワイか、サンフランシスコか、ニューヨークまで行っちゃうのか。でも、やがて高度を下げていってゆっくり地上に降りるんだよね。急にタッチダウンすると機体や乗客が傷つくし、ソフトに降りるんだよ。

父の終焉日記:1月21日

じいちゃんが退院してきて今日で9日目。
状況は見えてきたんだ。

じいちゃんの状態は、
1) 呼吸や心臓は問題なく、
2) 意識は夜間は夢の中みたいになって、昼間は正気に戻る。
3) 右手は動かず、左手はまあ使える。
4) 足は動くけど立つことは出来ず、介助して上体を起こすのがやっと。
5) 食事はばあちゃんが介助して流動食をある程度は摂取できる。
6) 水も口から飲むことが出来ている。
7) 排泄はベッド上でオムツ。
8) 痛みは薬でコントロールされている。
9) 歩くことも、できないこともたくさんあるけど、不快感は強くない。
10) 気分的には「ありがとう、、、」みたいにまあ落ち着いている。
この状態は9日間ほぼ変わっていない。

それに対して、ケアマネさん(care manager。介護保険を使って介護のプランをコーディネートしてくれる人)と相談して、
・ヘルパーさんが土日も含めて毎日2回、朝晩に30分ずつ来て排泄の介助と薬の服薬
・看護師さんの訪問が土日も含めて毎日
・お医者さんの訪問が週1回
・訪問入浴が週1回
・リハビリマッサージが週1回(手足をマッサージして固まらないようにしたり、できればもっと動かせるようにする)
というプランにしたんだ。
今のじいちゃんの状況では、これ以上でも、これ以下でもないかなというところで、介護する私としては落ち着いたし、じいちゃんも「ありがとう」って落ち着いている。
ばあちゃんもスローペースで落ち着きつつはある。退院した日にはじめてケアマネさんに会った時には、「もう、こんなにたくさん人が来て、イヤ!!」ってパニクってたけど、今日くらいになるとだいぶ慣れて冗談も言い合えるくらいになった。ばあちゃんのアウェー感が徐々に薄れ、ホーム感が出てきてるかな。

今後、どうなるかだね。
「いつ何が起きてもおかしくない状態」なんだけど、
どうなるかわからない???
ってのはどう対応していいか分からないから不安なんだ。
実は、どうなるかってのはわかっているんだ。
要するに上記(1)〜(7)が低下して行くということなんだ。どの順番かはわからない。改善する可能性はまずない。ゆっくり出来ることが出来なくなっていく。
いつ、って言ったって、はっきりはわからないけど、この数週間・数ヶ月のうちだと思う。
そう考えれば、今後どうなるかはわかっている。
わかれば、対応のしようもあるんだ。

看護師さんなんかから、「緊急の際に救急車を呼ぶか・否か?」ということを聞かれているんだ。答えはNo。(1)〜(7)の何が低下しても、もう病院に運ぶことはない。そうしないと、家を終の住処にすることはできないからね。医院が24時間いつでも電話を受け付けていて、救急車みたいに数分じゃないけど、数十分以内には来てくれることになっている。
だから、何が起きても、やることはわかっているんだ。別にあわてたりドキドキする必要はない。そういう中で、できるだけ(8)〜(10)をキープできるかということが介護の目標となる。
と、まあこう書き出して、私自身の気持ちを整理しているんだけどね。そうしないと混乱しちゃうから。

孫たちも、来たかったらおいで。まだ、そこそこに会話もできるよ。
じいちゃんにすれば孫の顔を見ることで、生きるエネルギーは確実に上昇するからね。
でも用事があって来れなかったら、それで構わないよ。ぜんぜん問題ない。
「おばあちゃん。お水ちょうだい!」って、一番甘えてる人がいつも居るから大丈夫だよ。

Thursday, January 21, 2016

父の終焉日記:1月19日

高齢者の自立ってことかな。
じいちゃんは、もう退行して甘えきっている。まあ、そういう選択肢しかない状況だから。
ばあちゃんにとっては、自分の力でなんとかしたい、人のお世話になったり、ご迷惑になりたくない。そういう気持ちも尊重したいし、その一方で自分たちの力ではどうしようもなくなり援助が必要となる。ばあちゃんには力があるし、力がない。
今まで、じいちゃん・ばあちゃんはペアで自分たちの尊厳(プライド)と責任を持って生きてきた。
自分で出来ることは自分でやりたい。人に指図されて勝手にあーだこーだやってほしくない。そういうばあちゃんの自己決定権は尊重してあげたい。自分でできることは自分でやりたい。支援が過保護になってはいけない。
ただ、その判断が妥当か否かは客観的にみててあげないと。支援が必要なのに支援を求めようとせず、悲惨なことになってはいけない。

支援し過ぎると、依存を生む。
支援しなさ過ぎると、孤立を生む。

どの辺りで手を打つかって、微妙だな。

Monday, January 18, 2016

父の終焉日記:1月17日

じいちゃんは、ゆっくり理性がはがれ落ちてきているって感じかな。
身体機能はまあまあ落ち着いてはいる。血圧が90代でちょっと低めだが、もともと血圧は低めの人だからまあ許容範囲かな。
むしろ、精神機能が下りてきている。
病院に入院していた方が合理的な看護・医療を受けられるけど、患者本人にとってはアウェーの感覚、緊張しなければならない。家庭にいればホームだからリラックスできるし、サポーターもたくさんいる。ホームにいれるじいちゃんにとっては良い環境なんだよ。
リラックスできるって、のんびり、本来の自分が出せる、いつわらない素の自分でいれる、緊張感を下げられるってことは、理性をあまり使わなくて良い状態なわけ。
特に夜間が緊張レベルが下がるんでしょうね、夜から朝にかけてがわけがわかんなくなっちゃう。
「おばあちゃん、お水ちょうだい。」
「もうオレ、外に出たいよ。中にいるのやだよ。」
「子どもの頃の自分が一番良かったから、、、」
昼間に、ヘルパーさんや外部の人が入ると、多少は理性を戻して普通に振る舞ったりするんだよ。特に看護師さんが若い女性ですごく元気がいい。訪問看護でこういう老人との関わりに慣れているんだろうね。わざとやってんのか、テンションを上げて接してくれるわけ。するとじいちゃんもばあちゃんもつられてテンションを上げられるというか、笑いも出たりして良いんですよ。
いずれにせよ、ホームに居られるじいちゃんには良い環境で、安心して降りて行けるんだ。

問題は、ばあちゃんなんだ。看護師、医師、ケアマネ、ヘルパー、リハビリマッサージ、訪問入浴、、、ホームにたくさんの外部の人がやってきて、ばあちゃんにとってはホームがアウェーになっちゃった。
通常の体力・聴力・理性・精神力があればその緊張にも対応できて、じいちゃんをひとりで看なくて良いから楽になる筈なんだけど、むしろばあちゃんにとっては、そういうたくさんの人たちに対応しなくちゃいけないということが過大なストレスになっている。ばあちゃんにもプライドがあるんだ。家に来る人はばあちゃんが主婦(ゲートキーパー)としてしっかり把握したいけど、一度にどっと押し寄せたもので、ばあちゃんのキャパを越えてしまったんだ。
でも、ばあちゃんはまだ適応力が残っているから、多少時間をかけて慣れてくれれば良いなと思っている。

Saturday, January 16, 2016

父の終焉日記:1月15日

子どもと姪たち(つまりおじいちゃんの5人の孫たち)へ

おじいちゃんの最後は、おばあちゃんと子ども二人(私とおばちゃん)で看取るから、孫たちはそこまで参加しなくても良いよ。もちろんしたければしても良いけど、自分自身の生活もあるでしょう。でも、おじいちゃんのことをは気になるよな。私からLINEで逐一報告しても良いのだけど、そうすると必然的に関わらせてしまうことになるでしょう。だから、こっちの場で報告しておくね。そうすれば、見たいときに読みに来れるし、忙しくて読みたくない時は読まなくて済むから、自分のペースでじいちゃんのことに関わって下さい。

1月12日は私が一日休みを取って、午前中に日赤を退院して介護タクシーで家に連れて帰り、訪問看護師とケアマネさんとヘルパーさんと、みんな呼んで、家で作戦会議を開いたんだ。看護師さんには入院前の週3日から毎日に増やしてもらい、ヘルパーさんも新たに毎日朝と晩に2回ずつ入ってもらう。医者の往診は以前と同じで週1回。

うちの場合は、病院にまかせちゃったが、そりゃ自分ちで死ねたらお父さんも幸せだろうな。

じいちゃん本人にしてはそれが一番良いし、耳が遠くて外出や人との会話が大きな負担になるばあちゃんにとっても病院まで見舞いに行かなくて済むという点では都合は良いのだが、病院で専門のスタッフが看護してくれる分を家でやるってかなり大変なんだよね。それをカバーするのが介護保険で、在宅介護・在宅医療も最近はかなり体制が整えられてきた。でも、問題はそのやり方にじいちゃん・ばあちゃんが慣れるかってこと。
じいちゃんはそれほど抵抗ないというか、受け身でケアされるのは病院でも自宅でも変わらないから楽チンなのだが、問題は耳の遠いばあちゃん。いろんなスタッフが入れ替わり立ち替わり家に入るのはかなり負担なようだ。スタッフとの作戦会議の場で感情的にキレて、「みんなでよってたかって、そんなのイヤだ!」と言っていたが、ばあちゃんには合理的に考える力は衰え、不安感情に支配されている。子どもを諭すように言い聞かせて、慣れてもらうしかない。

じいちゃんは認知症は入ってなく、ちゃんと考えられるはずなんだけど、生きる意欲の低下とともに、せん妄状態に入ってきた感じ。「せん妄」とは認知症とは違うんだけど、意識レベルが低下して、幻覚や妄想が出てきてしまうんだ。特に夜にそうなるのが「夜間せん妄」といって高齢者や重い病気の人にみられることがある。一時的にわかんなくなっちゃうけど、昼間になればもとにもどる。病院でも何度かベッドから落ちちゃったらしい。家でも夜中の2時くらいに下のばあちゃんから私にインターフォンが入って「たけし、すぐ来て!」というんだ。今度は何が起きたのだろうかとドキドキで一階に降りると、じいちゃんがベッドの隣の床に寝てるんだ。2階に寝ているばあちゃんは夜中も心配で時々じいちゃんを見に来るんだ。じいちゃんは意識はあって、ヘラヘラしながらこっちをじっと見ている。「じいちゃん、どうしたの?なぜ床で寝ているの?」と尋ねても、「うん?何だよ?俺は死んじゃったんだよ。ここは死んでるのか?」と的外れな応答だ。仕方がないので抱きかかえてベッドに戻したら、「ありがとう」。ばあちゃんを2階に戻して、しばらくそばにいて様子をみていると、「たけし君、もう大丈夫だから行って良いよ。」だいぶせん妄が回復して正気に戻ってきたようだ。この間、小一時間ほどでボクもじいちゃんのところを離れた。

上に戻ってもしばらく寝られずメール書いたりしながら考えていたんだ。じいちゃんもばあちゃんも、すっかり子どもに戻っちゃったってね。「ベンジャミン・バトン」っていう映画ちょっと前にあったの知ってる?主演のブラッド・ピットが老人で生まれて、年取るごとにだんだん若返ってきて、赤ちゃんになって一生を終わるっていうストーリー。
じいちゃんもそんな感じだなって思ったね。親子が逆転しちゃった。私が小さい頃は父親が大人だったけど、今は私が大人でおじいちゃんが子どもになっちゃった。そんなおじいちゃんを抱きかかえていると、昔の記憶が何となくよみがえるんだよね。
私が2歳の時、生まれてきたりょうこおばちゃんにママを取られて、パパと寝るようになったんだ。2歳まではママのおっぱいを触って寝ていたんだろうね、その記憶はないんだけど、おじいちゃんのおっぱいを触っていた記憶はあるんだ。4歳、5歳くらいになってもずっとそうすると安心して、子どもながらに恥ずかしかったけどやめられない。もし小学生になってもパパのおっぱいを触るのやめられなかったらどうしよう、、、と焦っていたことは憶えている。今だから言えるけど、子ども時代は恥ずかしくてこのことは誰にも言えなかったんだ。
ふつうだと、幼児は母親に主な愛着を向けるのだけど、私の場合、専業主婦で接する時間が長かったママもだけど、パパともこうやって幼児期の基本的な身体的愛着が形成されていた。その後もスキーに行ったり、いろいろ触れ合った思い出がある。私が小さい頃は、父親が優しく身近に居てくれたんだ。今は立場が逆転して、小さくなった父親のそばに居るだけなのかなって、そんなことを考えていたよ。

子どもが生まれ眠りから覚め、成長してだんだんわけがわかってくる頃、まわりに家族がいて安心して成長した。
それと同じように、人生の終わりにだんだんわけがわかんなくなってきて、まわりに家族がいて安心して眠りについていくんだろうね。

今、おじいちゃんはベッドに寝たきりだ。トイレさえ行けずにおむつだし、食事もほとんどとらなくなった。今おじいちゃんが唯一できることは、
「おばあちゃん、喉がかわいた。お水ちょうだい。」
幼児の様に妻に甘える。
するとおばあちゃんは「はいはい」と文句も言わず、じいちゃんの面倒を見てやる。
じいちゃんは、「ありがとう」と満足そう。
そんなやり取りだけが残っちゃったんだよね、今のじいちゃんは。

Friday, January 15, 2016

父の終焉日記2

2016年1月8日
いよいよ、最後の時になった。
7日の早朝にトイレに行こうとして倒れ、起き上がれなくなった。
昼に往診に来た医師の判断で日赤に緊急入院となった。
おいおい、自宅を「終の住処」するはずじゃなかったのかよ!?
病院に運べば、そこで終わってしまう。
年末12月にも外来で貧血が見つかり、入院したけど、輸血しただけであえて検査もせずに退院した。もうそれで日赤の通院は卒業したはずだったんだけど、今回は在宅医の判断で病院に運ばれてしまった。
あえて追求はしないけど、脳内出血による片麻痺を疑ったではないだろうか?
それを確認するための検査が目的だったんだろうか?
よくわからないけど、まあ良いや。

家族の死に向き合うのはとても辛い。
優子の時よりははるかに楽とはいえ、一応、気持ちを、書き出すニーズがあるレベルには達している。

入院した父は、生きるエネルギーが一晩で落ちた。
初日は妻を気遣う余裕もあり、おばあちゃんに迷惑かけるから、入院でも良いかなと言っていたのに、二日目になると駄々っ子みたいな自己中になり、「家に帰りたい」の一辺倒だ。右上腕が麻痺してしまった。そのことが父自身ショックで、がんばる意欲を失わせたようだ。

父の終焉日記(2015年分)

2015年6月17日
先週はシンガポールに出張だった。出張先からも毎朝定期便で両親に電話する。すると、手足がしびれるという。ボクがいなくなるといろんな症状が出て来るんだ。心気症か!?
日曜日に帰国して、念のため近所の日赤病院の休日診療に連れて行った。たいしたことないと思ったんだけど、当直医が首のレントゲンとCTとを撮ったら、頸椎のひとつが潰れていて、ガンの転移による圧迫骨折だろうということになった。 脊髄を圧迫したら四肢の痛みだけでなく麻痺がくるから絶対安静が必要だ。検査目的ということで入院したんだ。入院してからは自覚症状的には痛みはおさまり、今のところ個室の部屋で元気にしてる。

これから緩和ケアが始まる。

今までの肺の転移はほっておいても悪さをしなかったけど、今回のは悪さをするからね。脊髄が圧迫されないように放射線か薬を使うことになる。手術は父親自身もうしたくないと言うし、骨転移まできているから、医学的にも年齢的にも手術の適応外でしょう。いずれにせよ安静にしなくてはいけない。今後、進行が食い止められれば多少は動けるかもしれないけど、今までのような自由な日常生活ではなくなって、徐々に病人らしくなっていくのだろう。
カウントダウンが始まった。

6月23日
人は、だんだんとその機能を、それと共に人間らしさを失って行く。
父は30年前に片方の腎臓を、10年ほど(?)前に膵臓を失ったけど、人としてそれほど失ったものは少なかった、というか目立たなかった。
でも、今回の転移で、一気に失われた。
絶対安静。家に帰れるかもしれないけど、自由に動いて犬の散歩や外出できなくなる。
すぐに、あるいはしばらく先か、いずれにせよ手足の麻痺がくるだろう。そうすると寝たきりになる。日常生活の活動が大幅に失われる。
でも、思考能力とか意思の力とか現実検討能力とかは正常に保たれている。生きる気力も。
でも、これで寝たきりになれば、病人っぽくなるだろう。
あとは、痛みのコントロール、いわゆる緩和ケアだ。身体的な苦痛がなければまだいいのだが、痛みが出てくると生きながらえる気力もかなり減退する。そうやって最後は存在そのものが失われる。
少しずつ、部分的に失われていくんだよな。
優子は、その点ラッキーだよな。いきなり全部失ったから。自分が少しずつ失われて小さくなっていくななんて感じるヒマさえなかったもの。
でも、そのために、我々は大切な家族を失った。それも重大な喪失だった。
母親は思考能力・現実検討能力や生活能力(衣食住)は正常に保たれている。
しかし、聴力と運動能力(どこがどうということないけど、全体的にもうかなりよぼよぼしてる)、それに精神力が失われつつある。肯定的に見通すことができず、不安が先行して、心配ばかりしている。

6月26日
父親は頸椎の放射線治療を受けて退院になった。
今のところ痛みも治まり、特にイヤな症状もなくて家で普通に暮らしてる。
放射線治療は痛みを止める効果はあっても、腫瘍を縮める効果は少ない。やがて腫瘍が大きくなれば脊髄を圧迫して痛みや四肢麻痺がくる。早く来るか、遅く来るかは分からないけど、いずれは来るでしょう。もう麻薬系鎮痛剤も使っている。緩和医療もこれから本格化する。一旦、良くなった時期がしばらく続いて、次に悪くなった時はかなり悪くて、、、みたいな感じで進行するんじゃないかな。

ボクはこれから台北、イタリア、オーストラリア、トルコ、台湾、ハワイ、ベルリンと、海外出張は目白押しなんだ。
在宅看護・在宅医療をオヤジに勧めている。いわゆる在宅ホスピス、最後まで家で看取るってやつ。7−80年前まではもともと家で産まれて、家で死んでいた。その後、病院や施設でのケアが一般的になり、最近は、また家でやりましょう、その方が安らぐからって感じで、在宅医療(昔で言えば往診)してくれる医療機関もけっこう出てきた。週3回くらい看護師さんが往診してくれて、週1回くらい医者も来てくれる。いよいよになれば24時間耐性でやってくれるんだ。
そうしないと、ボクが出られないからね。ボクが不在だと、母親はあたふた、何も対応できない。前回だって、シンガポール中にオヤジの四肢の痛みが来て、帰国した日に救急外来に連れて行ったんだ。だからといって、ボクがやりたいことをやらずに親のそばに居るってわけにいかない。母親は家族のそばに居ることが生きがいだった。そのために生きてきた。自分のことなんかなくて、夫を看て、看取ることが唯一の使命だ。

Filial Piety(親孝行)
「孝」の考え方はアジアの家族に特徴的で、欧米には希薄だ。そのことはシンガポールや今回の台北でも講演するテーマのひとつだ。「親孝行」なんて古くさいイメージだけど、文化の根底に根づいているからしかたがな。アジアの国々もそのあたりは似ている。欧米では二十歳前後で親から自立して離れていく。アジアの親子は良い意味でも悪い意味で一生ものだ。家族の病理もみんな親子を基軸にしている。ひきこもりは、親がずっと子どもを面倒見続けている病理だ。
オレだってそうだ。二世帯家族で、優子が亡くなり、一世帯の大家族になり、孫のメシを作ってもらって、老親のケアをする。そういった親子の結びつきというプロセスはみな相似形で、そこに葛藤があるかないかだけの違いなんだ。

元気で健康な時はみんなソロでいられる。家族はバラバラでも構わない。誰かが弱くなった時に家族の凝集性は高まる。もともと弱者(子ども・高齢者)のケアは家族の役割だった。ボクの祖父母はそうやって大家族の中で看取られていった。祖父母も子ども・孫家族がみんな一緒にいた。家族はそうするものだったんだ。
もし優子がいたら、父親のケアについてもっと家族でガタガタしていたと思う。なにしろ、家族ケアは女性の役割だったから。母親も「優子さん」に期待していたと思う。息子のボクはオトコだから本来免除されているんだけど、ケアすれば「親孝行息子」としてedxtra creditがつくだけだ。お嫁さんがいるのに在宅看護なんて外注したら「そんなのいいわよ、お嫁さんに看てもらうから。」みたいな選択肢が出来てしまう。お嫁さんとしてはそんなことやりたくないけど、やらねばならないし、あなたがどうにかしてよ、、、という葛藤が生じる。

親子の伝統って、別にアジアだけでもない。欧米だって病院よりは、家にいて家族に看取られたいでしょ。そういう願いは世界共通なのだろう。

8月31日
朝、日赤へ父の付き添いで行く。
父親ひとりで行けるのだが、付いて来てほしいという希望だ。
父親は自分で判断する精神力を失いつつある。重要な判断はすべて息子に頼っている。まあ僕が医者だということもあるけど。
大森日赤は地域の中核病院だ。待合室には当然老人が多い。正面にも父・息子が坐っている。私と同年代らしき息子が車椅子の父親を連れている。何も会話するわけじゃない、ただ黙って父親のとなりにちょこんと座っているだけだ。僕と同じ姿だね。

父親はすっかり気が弱くなっている。身体の痛みにおびえている。
「ちょっと肩や手がしびれるんですけど。」
痛みに敏感になっている。

Sunday, January 3, 2016

7年目

優子、草津に来ているよ。
7年前と全く同じなんだよ。
元日に親戚みんなで集まって。
二日から二泊三日で草津に来た。7年前は優子と祐馬とじんで来て、ちゅけは受験で留守番だった。
今回はちゅけと祐馬で来て、じんは家に居残った、あとカイも来てるよ。
二日の晩は草津の家に泊まり、三日に万座で滑って万座プリンスに泊まる予定だったんだ。
今回はスキーはしないよ。暖冬であまりできないみたいだし、出来たとしても今回はスキーはせずにのんびりするつもりだよ。
いつもの定番の草津生活。元気があれば朝風呂に出かけ、家の回りを散歩して、「そば処風」で十割そばを食べて、大滝の湯の熱い「合わせ湯」に入って。
7年前とやることは殆ど変わっていない。
変わったのは3人の子どもたちの成長ぶりだよ。あの時は中学生と小学生×2だった。今は大学生×2と高校生だぜ。ちゅけなんか久しぶりの草津だとか言ってるから、もしかしたらこの7年間来ていなかったんじゃないか?
ボクは毎年2−3回は来続けている。
ボクは変わったのか?
こうやって優子と向き合うボクの時間は7年間止まっている。
しかし、優子を抜かしたボクの人生はどんどん前に進んでいるよ。
優子がいなくなったおかげで、出合った人もいる。
べつに悲しんでいるヒマも必要性もなくなってきてはいる。
「7年前の今日にママが昇天した万座の場所に行ってみるか?」
子どもたちに提案しても良いけど、なんと答えるかな。「べつに良いよ」「パパ、まだそんなことにこだわっているの?」くらいの反応だろうか。

多分、今年中には父親を失うだろう。自宅での緩和ケアの段階だ。
「パパ、なんでそのことばかり言うの?しつこくて祐馬いやなんだけど、、、」
祐馬ね、こうやって前々から話していた方が楽なんだよ。ママの時は突然だったから大変だったじゃん!
父親は私の人生にとって過去に大切な人だったけど、今、生きていく上で必要な人ではない。むしろ、父親にとって自宅でケアする息子が必要な人だ。親子のケア関係が逆転した。
優子は私の人生にとって現在進行形で大切で、必要な人だった。

今日は草津でのんびりしよう。スキーはせずに、ゆっくりお風呂に浸かって。
今、ボクにとって一番大切な人は三人の子どもたちだ。
祐馬が帰って来ている。今は子ども時代と変わりなく、当たり前に普通に一緒にいるけど、5日後にはメルボルンに戻ってしまう。次に会えるのは来年になるかなぁ。もっともSkypeやLINEではしょっちゅう話しているけれど。彼女の居場所はもうここじゃないんだよ。世界なんだ。信じられないけど。

子どもたちに尋ねてみた。今日はママの命日だよ。
ちゅけ「7年かぁ。」
祐馬「ラッキー・セブン」
べつにラッキーでもないんですけど。
万座に行ってみるか?
祐馬「やだ!」
ちゅけ「そうさなあ。ボクはいなかったからなぁ。」
バパは別に行かなくてもいいかな。けっこう1時間くらいかかるし。
ちゅけ「なら、なぜ聞くんだよ!」

幸せって何?
どうやったら幸せになれるの?
人ひとりでは、幸せ感は成り立たない。そりゃ、美味しいものを食べたり、チャリやスキーそれ自体も楽しくはあるが、それを共に楽しむ人がいて、幸せは成り立つ。大切な人が幸せだと、自分も幸せになれる。幸せ感を具現化してくれる対象が必要なんだ。
そういう意味じゃ、私が幸せに出来る人はたくさんいる。幸せを見失ったクライエントとか。
大切な人と一緒にいること自体が幸せではない。
祐馬と離れていたって、遠くで祐馬が幸せであればパパも幸せだよ。それで良いんだ。
でも、大切な人を大切に感じるためには一緒にいないといけない。
子どもたちが小さい頃は、一緒にいないとどうしようもなかったからね。それが家族なんだよ。
でも、成長しつつある今は、一緒にいる必要もない。少なくとも上ふたりは。高校生のじんだって、一緒に生活しているからこそ、しゃべらなくても一体感が成り立つんだよ。

そうか、七回忌って仏教ではあったなぁ。実際は6年目らしいけど。
もうそんなに経っちゃったんだ。優子との時間は止まっているからわからない。
そんじゃ、やっぱ万座に今日行こうか?露天風呂にも入れるし。
でも、いいよね。草津の露天風呂と温泉まんじゅうでいいじゃん。万座まで行くの面倒だよ。
こうやって優子のことを想っていれば、それでいいし。
祐馬はすやすや昼寝している。ちゅけは外で焚き火している。