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Monday, December 21, 2009

幸せな人生?

告別式でピンクを基調としたお花に囲まれた優子さんを、信じられない混乱した気持ちでお見送りをしてから、春、夏、秋。季節が巡り11ヶ月経った今でも心のどこかで事実を受け入れられない自分がいます。
大学での4年間、優子さんはいつも穏やかな微笑みを浮かべ、ソフトなお顔でいながら、芯の通った頼もしい存在でした。流暢なアメリカ英語を話し、参加なさっていた日米学生会議のお話も聞かせていただきました。豪華な結婚式にもご招待いただき、感動的な美しい花嫁姿の優子さんの笑顔はとびっきり輝いて見えました。
3人のお子さんに恵まれ、そのたびに産休後お仕事に復帰なさってすごいなーと思っていました。ランチにお誘いしたところ、お手製のおいしいフルーツケーキを焼いて持ってきて下さいました。いろいろおしゃべりして楽しいお昼を過ごしました。
その時、勤務がフル5日ではないので、通訳の勉強を始めたと聞いて、主婦業、3人のお子さんの育児、お仕事それに加えて勉強とはなんというsuper lady!!と常に前を向いて進むパワーに圧倒されました。
その後、お宅にお招きいただき、ご主人手作りのベーコンとpizzaをごちそうになった際(すごくおいしかったです!!)、優しいご主人とかわいいお子さんたちに囲まれ、にぎやかで楽しいご家庭で、優子さんはほんとうに幸せな結婚をなさっていたことがよくわかりました。甘えてぺたっと抱きついたじんちゃんを優しく抱っこしていた優子さんはそれは穏やかな表情でした。
優子さんのそのふんわりした穏やかな笑顔とソフトな声を見たり聞けないのは本当に悲しいですが、優子さんは他の人より何倍も密度の濃い充実した幸せな人生を送って来られて、美しい雪山で最愛のご主人の腕の中で苦しむことなく旅立って風になられたのですね。

確かに優子はふんわり、ポッチャリしてましたね(笑)。
それでいて考えていることは結構鋭かったり。私もその雰囲気に惹かれたのだと思います。
日米学生会議は兄に続いて優子が大学2年生の時に参加しました。夏の4週間の会議に向けて、春ころから準備をします。その後、参加した数名が実行委員として残り、翌年の会議を企画・運営します。私が参加したのは優子が実行委員をしていた2年目の会議でした。日本側4名、アメリカ側4名、計8名の学生でグループとなり、4週間、ひとつのテーマを追います。我々のテーマはComparative Culture(比較文化)。学部3年の優子にとって、私のような6歳年上の院生メンバーは、さぞかしやりにくかったでしょう。

私から見ると、結婚当初の優子は、ぜんぜんsuper ladyではありませんでした。まだ実家の母親や兄から十分自立していない部分を抱え、自分のことや人との関係に悩んでいました。
20代の優子、30代前半の私は、まだまだ発達途上で、いろいろ試して、あちこちにぶつかりながら成長を続けていたと思います。優子も私も、3人の子どもたちの親になり、だいぶ変わったと思います。優子は母親として、自信を持って子どもたちに愛情を注いでいました。成熟した大人としての本当の自分に目覚めたように見えました。
それとともに、仕事もずいぶんがんばっていたと思います。子育てに専念する間は、仕事を辞めるという選択肢もあったのですが、勤務時間を短縮できる職場だったので、あえて続ける道を選びました。私も賛成でした。
優子がお世話になった3つの職場は、色々な意味で恵まれていました。しかし、組織の中のひとりに過ぎず、本当にやりたい仕事なのか、優子もいろいろ考えていたようです。結局、優子の原点は幼い頃のアメリカ生活だったようです(それは私自身にとっても同様です)。好きで、得意な英語を使うことが一番やりがいを感じ、自分の能力を発揮できたのだと思います。子どもたちが小学校に入り、子育てに余裕ができ始めた頃から、通訳の勉強を始めました。プロの通訳になるためには、いくつものハードルがあるようです。優子はずいぶん勉強熱心でした。受験生じゃないんだからそんなに几帳面にやらなくてもよいのにと、いい加減な私は傍で見ていましたが、単語ノートを作り、自分の訳を録音テープ吹き込み、を何度も繰り返し聞いていました。その成果が形となって現れ、ハードルを越えてゆくのが楽しかったのでしょう。エージェントの専属通訳者となり、さまざまな会議やミーティングに出かけていました。多忙な生活、家の中は散らかり放題でしたが、優子はやり甲斐を得ていたようでした。
通訳者の世界は能力主義、とても厳しいようです。優子はBクラス。そこまで達成しただけでも、私から見ればきっとものすごいことなのでしょう。でも、よく仕事の愚痴をこぼしていました。
私、また失敗しちゃった。ペアになった相方のAクラスの通訳者はすごい!どうやったらあんな風になれるんだろう?
そりゃあ、5年、10年選手と比較しては大変だよ。経験がものを言うんじゃない?
もう何年かしたら、私もAクラスになりたい。
そんな目指す夢を優子は抱いていたし、そこまで登る自信を密かに抱いていたのでしょう。
心臓が悪い優子は、家族と仲間で行く山登りではいつもへたっていました。
でも、へたららずにグイグイ登ってゆける得意な山を、ここ3-4年で、ようやく見つけたようでした。

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