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Monday, December 31, 2012

大晦日

例年、大晦日の晩は定番の手巻き寿司にスパークリングワインを飲んだくれ、紅白の最後も年越しそばも逃して寝てしまう。今年も手巻き寿司だがドライにした。娘は友だちと年を越すと出かけ、息子たちは紅白と録画した「ガキの使い」を交互に見ている。

酔えば気持ち良いけど、なにもできなくなるのでもったいない。昨日も親戚が集まり昼間から飲み、明日の元日も飲むだろう。今日ぐらいはドライにしておこう。

ここに書く頻度が下がってきたということは良いことなのだろう。でも「卒業」はしたくない。いつまでもブログを大切に書き続けていたい。優子に関する記事はあまり書けなくなってきた。でもいろいろ書きたいことはある。あと書く場所もいろいろある。こちらのprivate blogと、official blog、それにFacebookやTwitter。どこに何を書いたらよいか、どう使い分けるかまだよくわからない。とりあえずここに書いてから編集することにしよう。

ふだんのルーチンワークから解放される年末年始。
年賀状を書いて、大掃除をして、買い物をして、、、
年末年始のやるべきことを済ませたら、けっこうヒマ。(になるはずだったが、大掃除が終わらず、ヒマではなかったが)
書かねばならない原稿はたくさんあるし、本も読みたいし、、、
ヒマな時だからこそ出来ることはたくさんあるのだけど、それはひとまず置いておいて(と言って結局やらない)、心をemptyにして1年間を振り返る。
この1年は私にとって何だったんだろう?

今、大切な人を見送ろうとしている。中学時代の恩師の吉澤先生。詳しくは別に書いたが、病気の進行が予想を超えて早く緩和病棟で「その時」を迎えようとしている。私の家族ではない。しかし、私のライフサイクルの中でとても大切な人だ。そういう人を失っていく。私の愛着はどうなったんだろう?

子どもたちの成長:
ちゅけは巣立った。でも今は帰省している。元旦には札幌に戻るという。
次はいつ帰るんだ?
2月の後半。
そうだな授業も終わるし。まあ、割と頻繁に帰るよな。別れを惜しむほどでもない。
昨日、親戚に久しぶりに会ったらじんの成長ぶりに驚いていた。そう、どんどん成長する年代だね。

優子を失いもうすぐ4年。喪失の痛みと再建についてシンガポールでしゃべった。
再建、、、どう自分の愛着を再建していくのだろう。生田のおばあちゃん曰く、まだ若いのだから、そのうちいい人を見つけて、、、」
いやあ、、、息子たちは関心もないのだけど、祐馬のチェックが厳しくて、、、「パパ、どこに行くの?だれと会うの?」みたいなチェックが入る。ウイークデーは酒は飲まないと宣言してしまったもので、つい缶ビールを冷蔵庫から取り出すと祐馬に取り上げられるんですよ。
そう、子どもたちは一番の愛着対象だ。でも僕自身はどうなるんだろう?まだ若いのか、もう若くはないのかよくわからない。封筒のノリしろみたい。若い頃は粘着力がちゃんとあった。重ねただけでしっかりひっつくことができる。それを無理に引っぱがされてしまった。もう一度、新たな対象と封をしたくとも粘着力がなかなかうまくいかない。

もっとも年のせいだけではない。若い頃だって同じだろう。みんな悩み、迷いながら試行錯誤している。パートナー(愛着対象)を求め、ひきこもりの人たちは社会への適応を求め。みんな自分の居場所を求めているんだ。ドメスティックな居場所、そしてパブリックな居場所を。得てしまえば自明のことでも、得ようとするプロセスはそう簡単でもないはずだ。

今年の海外は5回だった。
3月にVancouver、IFTAに参加。Davidとふたりでいつもやってるinternational case consultationを発表した。
5月にSan Francisco。AFTAでは何も発表しなかった。仲間との再会・交流がメイン。
8月にソウル、日韓の会議にコメンテーターとして参加した。学会の国際交流委員長として交流するのが仕事。来年は日本の当番。北海道でやろうか!
10月に台北を二往復。SVのトレーニングと、国際患者をひとりみて、大学で講義して、旧交を温めて、急がしい出張であった。
12月にKuala LumpurとSingapore。KLでは6人の仲間でconsultation合宿。SingaporeではHong Kong, Tokyoに続けて三回目のCIFA。大会場でPlenary session。

確かに、海外での交流は確かなものが得られた。
学会で原稿なしで発表できるんですか?
若い頃と、年配になってからの差。
英語でも原稿なしでできるって?そりゃあそうなんですよ。まあそう出来る人は確かに少ないかもしれないけど、それは日本の特殊事情ですよ。アジアの学会でも、Hong Kong、Singaporeの人はごく普通に。韓国、台湾あたりだって、professional level、つまり大学教員とか学会で中心になってがんばっているくらいの人たちなら、ふつうに英語を使ってますよ。日本くらいですね、そうできないのって。

海外でしゃべったほうがむしろ楽。日本では「当たり前」でしゃべる意味もないようなことを、海外では堂々としゃべることができる。

、、、ダメだ、もう眠くなった。

Tuesday, November 27, 2012

子どもたちとの大切な時間


ねえ、パパ。今度の休みの日、広尾に行くの?
うん、行くよ。
祐馬たちミッドタウンに昼間行くんだけど、夜、ごはん食べに行こうよ。
えっ、(内心うれしいが、迷惑そうな口調で)、、、外食ったって、じんがいるだろ?それに、友だちも連れてくるわけ?
うん。
何人?
ふたり。パパは横でビール飲んでれば良いから。
う~ん、、、どうしようかな、、、
ねえ、行くの、行かないの?友だちに連絡しなくちゃいけないから、早く決めてよ!
じゃあ、、、(イヤそうに)わかったよ。行こう。

じん、今晩は祐馬と外食するけど、じんは夕メシどうする?ばあちゃんに頼むか、それともコンビニで何か買ってくるか?
じゃ、オレ、自分で作るよ。
えっ、、、(絶句)、、、そうか。そりゃあがんばってやってごらん。食材はどうする、買えるか?お金を置いておこうか?
あとで請求するから良いよ。パパ、オレのこと、心配しなくても良いよ。
あっ、そうか、、、じゃ、がんばれよ。

えー、私、恵比寿って初めて!
あまり知られてないけど、恵比寿って結構おしゃれなんだよね。
ねえ、これって飲み屋?
基本的にはカレー屋だよ。でも飲めるし。
外食なんて、久しぶり~
そうかぁ。。。子どもはあまり外食しないもんなぁ。というか親がしっかりしているから毎日ちゃんと家で食べさせてくれるんだよな。
でもたまにはこうやって友達のお父さんにご飯を連れて行ってもらうって悪くないでしょ!

ご馳走さま~!
ご馳走さま~!
ご馳走さま~!
美味しかったね。お腹いっぱいになったね。
だってパパ、あんなにたくさん注文するんだもん!
今度は、カレーは二人にひとつぐらいで良いかもね。

家に戻ると、部屋中が油の焼け焦げた匂いが充満している。寒いのに窓が開け離されている。
じん、ひとりで大丈夫だったか?
うん。チャーハン作ったよ。
ああ、それは良かった。
、、、なにサラダ油を新しく買ったのか?まだあったのに。
だって足りないもん。
まだ、これだけ入っているよ。これで十分だろ!?
いや、少ない。ほら、ここに書いてあるだろ!
ああ、「男の料理」本ね。
「おタマいっぱいの油で煙が出るまで熱する」って、それ中華鍋の場合だよ。ふつうのフライパンはやらなくて良いんだよ。
そんなこと知るかよ。本に書いてある通りにしかできないもん。
まさか、オマエ、この鍋で煙を出したの?
そうだよ。
う~ん、、、、まあ仕方がない。
で、うまく出来たのか?
ちょっと塩辛かった。
まあ、そうやって経験すれば、次はきっともう少し上手くいくようになるよ。
よくがんばったな!

Monday, November 12, 2012

49回目の誕生日

おめでとう!
実際に生きていたら「めでたくないよ~」とか言っていたかな?
まあ、母上が亡くなった今でもバースデーカードの習慣が残っているのは、たとえ家族がバラバラになったとしても「家族」としての繋がりは消えないという象徴なんだと思う。天国からでもこのカードを読んでいてくれたら嬉しい。

Happy Birthday, Dear ママ!!

Sunday, November 11, 2012

のんびりした休日

久しぶりの何も予定が入っていない日曜。
先週の日曜は台湾だった。来週の日曜は仕事が入っている。
のんびりしたいのだけど、のんびりできない。
朝食はホットケーキを作り、昼食は息子とラーメンを食いに行く。ついでに酒のカクヤスでビールとワインの宅配を頼み、ユニクロで子どもの服を買い、肉のハナマサで肉とトマト缶と子どものお菓子を大量に買った。食料品のストックが家にあると何となく安心する。
部屋の掃除をしなくちゃいけないのだけどやらない。
本や文献を読み始めたら寝むくなっちゃいそう。
ポケーっとテレビでも見たらよいのだろうけど、できない。
隙間の時間があったらブログか何かを書いている。
PC依存あるいはブログ依存かもしれない。
Dog Year的な生き方なのかもしれない。
ドッグイヤー. 「犬の一年」。成長の速い犬にとっての1年は人間の7年に相当するという意味。技術革新など変化の激しいことのたとえ。
夕飯は買ってきたスジ肉の塊を圧力鍋で煮込もう。ワインを飲んだら夜はそのまま寝ちゃうかな。それとも飲まないで仕事かブログしようかな。
まあこれが私にとってののんびりした休日なのだろう。

というようなことをどこに書いたら良いのだろう。
優子とは関係ない話なんですけど。
Facebookに書いても良いけど、今イチあそこはpublicにしちゃったからプライベートなことは書きにくい。140字にまとめてTwitterでつぶやいても良いのだけど、こっちも客層が微妙に違うし。
外は冷たい雨が降り始めた。

Tuesday, November 6, 2012

3年10ヶ月

3年10ヶ月ねえ、、、
ずいぶん遠くまで来たもんだ。

3日は海外だったよ。
あなたのことなんかぁ、ちっとも思い出す間もなくチョー充実してたよ。
だいたい僕は海外に出るとempowerされる。だいたい優子と知り合ってから親しくなったのもアメリカだったものな。
特に今回は親日的な国だったこともあるけど、メインのワークショップ5日間も楽しかったが、現地の友人たちと会食し、大学院の授業にゲスト出演し、患者もひとり診てきた。一石五鳥くらいだったよ。
帰ってくれば、留守中に溜まっていた仕事が押し寄せてくる。
昨日は、締め切りを過ぎた原稿をどうにか仕上げた。
今日は、一日相談予約でいっぱい。
明日も打ち止めだよ。
日々の生活は充実感で満員御礼。超、埋まっている。

それなのに、埋まらない何かがある。

Sunday, October 14, 2012

アホ電話


<日曜日の夕方>

もしもし、中学生のお子さまのお母さまはいらっしゃいますでしょうか?

どちらさまですか?

〇〇家庭教師センターの、、、

お母さまは死にました

はっ、、、大変申し訳ございません。
それでは、あの、、、

では、失礼します。

はっ、はい、、、

Thursday, October 11, 2012

結婚記念日


パパ、今日は結婚記念日でしょ!?

そうだよ。よく覚えているね。
生きていたら、今回が銀婚式なんだよ。

ふぅ~ん!

優子、結婚記念日おめでとう。

なんてなぁ。書く気持ちにもならへんし。でも、ブログを続けるからには書かんとあかんし。
いや書きたいんだよ、ホントは。でも、書くほどの気持ちの高まりを得られない。なんか無理やり書いている感じ。
そこまでしなくたって良いじゃん。なんだか強迫的だね。

でも、オレはどこに行くんだろう?
一昨年と去年の同じ日のブログにそう書いてあるので、今年も一応定点観測として置いてみる。

(一昨年は)
今みたいに迷っているのは、若い頃だった。
大学を出て、優子という伴侶を得て、留学・就職、そして三人の子どもたち、、、
選択肢をひとつずつ選びとり、歩む道は確定していた。安心して迷うことなく、家族というパーティーを組んで稜線を縦走していたんだよ。
そしたら、急に同行者が足を滑らせ谷に落ちて消えちゃった。

(去年は)
まだ、同じ様に迷っているなあ。進歩してない。でも進歩してる。

今年は?
もう迷ってはいない。
新しい仕事もどうにか続けている。
子どもたちは前に進んでいる。
ふつうの人が当たり前に人生に迷うレベルまでには回復した。
でも、まだ迷っていたい。回復したくはない。
、、、ってのは贅沢な話なの?

(afterthoughts)
でも、やっぱり迷っていると思う。
自分がとても寂しがりやなのがよくわかった。
絶対、ひとりでは生きていけないことは確かなようだ。

Friday, October 5, 2012

3年9ヶ月

月命日だからって、別にもう書くこともないんですけど、、、
かと言って、止めたくはない、何かを書き続けていたいのだけど、、、
ホント、ないんですよ、書くことが。今日いち日考えていたんだけどね。

この前の日曜には、余命1年というY先生に会い、
火曜はN先生のお通夜、
明日は3ヶ月前に伴侶を亡くした同僚のM先生とランチ、
考えてみたら先週も、今週も、パートナーを自死で亡くしたクライエント2人と会ったんだ。
あっぴの父さんも久しぶりにブログ書いていたし。

死がこんなにも身近になってしまった。
お通夜の香典返しについてくるお茶漬けみたいな塩の小袋ねえ。
あれ、清める必要ないじゃん。死はケガレでも忌み嫌うものでもない。
身近にあって、常になんとなく考えているものになっちゃった。
その方が居心地が良いからね。

、、、と、この程度しか書けないんですけど。

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追伸
つまり、Incentive Intensity が薄れつつあるんですよ。
今まではかなり強烈にあったのに。
そういうのがなくちゃ、なかなか文章って書けませんものね。

Tuesday, October 2, 2012

三人称の死


お通夜に行ってきました。
どうにも気持ちが収まらないので書かせていただくと、、、、

弔問客は長蛇の列。
お焼香の後、中高時代の同級生の方と研究室の学生さんとちょっとお話ししました。
肩が痛くてずっと五十肩だと思っていて、8月に検査入院したときは、すでに全身ガン組織だらけ。原発臓器がどこだかわからない原発不明ガン。
一時期、脳出血も起こしたけど持ち直し、2週間くらい前までは意識もしっかりとしていたとか。
抗がん剤治療を始めようとしても全身状態が悪化して続けられず。
遺族席にはご老親もいらっしゃったそうだけど、お顔を見ることができませんでした。祭壇にはものすごい数の生花。

6月のサンフランシスコの学会では懇親会を抜け出して、ツーショットの「デート」もしたし、7月の打ち上げでは一緒にお酒を飲みました。
高橋規子さんに続き、学会では貴重な女性を失いました。

、、、と事実を並べてみてもどうしようもないんですよね。
何かが見えてくる訳でもない。

知人にたくさん会いました。
「何でこんなことに、、、」
「惜しい人を亡くしました、、、」
涙する人もいたけど、私は泣く気にならない。というか、泣く必要もない。

しょせん、三人称の死。
55歳。私とタメなんですよね。
「人生、一寸先は闇なんですね。」
そうなんだけど、だからといって一人称の死には結びつかない。

大学教授という社会的役割の真っ最中。本を何冊も上梓して、弟子をたくさん抱え、the prime of life。子どもたちは立派に成人して親役割も全うしたし。

優子は45歳だった。親役割が中途半端でしょ。
40代だったら「あまりにも早すぎる死」
50代なら「あまりにも」は削除して「早すぎる死」くらいかな。
60代なら「早い死」
70代は、まあ「ふつうの死」

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先日、中学時代の恩師Y先生を尋ねた。
「肝臓がんの末期であと1年くらいだろう。」
と平気で語っていた。
傘寿も祝ったし。もうじたばた思い残すこともないんですよ。気がかりなのはこの人のことだけ。」
死の恐怖さえ克服することができれば、死と向き合うってホントは幸せな時なのかもしれない。生と向き合い、生きている実感をグイと引き寄せることができる。 
死は時限爆弾。震災や津波よりも、よっぽど確実にやってくる。でも、いつやってくるかわからないと、とりあえず先延ばしにする。
一人称の死は絶望と恐怖を、
二人称の死は悲しみを生む。
だから、考えずに先延ばしにしたくなる。でも、いつか直面する時がくる。
三人称の死は何も生まない。

中釜さんは一人称の死にどう向き合ったのだろうか?
悲しみ・恐怖・絶望は限りない苦痛だが、生きる意味にも直面する時なのだ(思考能力が保たれているという前提で)。
期間非限定のオープンな死だと、生はまだ見えてこない。
期間が限定されたクローズドな死だと、生(生きる意味)が凝縮されてぐっと濃いものになる。

「あと半年の命だったら?」
毎年はじめの授業で学生たちに投げかけていた。
・大学をやめて、世界旅行をして遊び回る。
・大切な人と一緒に過ごす。
・昔の友人に会いに行く。
・写真や思い出の品を残すために整理する。
・写真や思い出の品を処分して整理する。
・家族や恋人に「ありがとう」と言う。
・今までと変わらない毎日を過ごす。

「半年」と限定すれば人生、何が大切で何をするべきかが見えてくる。
「3年」でもよいかもしれない。
しかし、「30年」になると焦点がぼやけて見えなくなってしまう。

地位や業績や財産や人望や、、、
そんなものはどうでも良い。
量は意味を果たさなくなる。質が大切。
家族との交流。大切な人との時間が、生きる意味を創造してくれる。

Friday, September 28, 2012

涙の記憶


さあ、ひとりになれる至福の時間だ。
普通に新幹線で行けば訳ないのに、わざわざチャリを担いで普通列車で高崎乗り換え横川駅まで。時間が2倍かかるけど、その方がかえっていいんだ。ゆっくり自分の時間を持てるslow life。
まだ診療は予約をパンパンに詰め込むほど混んでない。昨日ちょっと頑張れば、今日はオフにできる。もう、自分のやりたいことしかやらないからね。このライフスタイル、これからもキープできるんだろうか?それともまた変わっていくのかなあ。

いや、私も相当泣きましたよ。
悲しみを思い出して泣いて、泣いたことを思い出して、また泣きはしないけど。
3年半前、山麓の病院のERで死亡が確定された瞬間、どばっと泣いたけど、すぐ次のことをしなくちゃいけないから、泣いてなんかいられなかった。子どもたちの待つホテルへ向かうタクシーの中で、あちこちに電話しながら泣きじゃくり、運転手さんに慰めてもらった。
弔問客が来て、事情を説明する旅に涙の堰が切れ。
泣きながら葬儀屋と打ち合わせしていた。そりゃあ、家族も心配するよな。
葬式の最中は感情が高ぶりちょろっと泣いたりもしたけど、喪主は落ち着いて泣いなんかいられない。
涙を誰かに受け止めてもらった方が良いのだけど、ひとりでもたくさん泣きましたよ。
電車の中で、道を歩いていて、多摩サイで自転車に乗っていて、ベッドで夢を見た後、ブログを書きながら。
授業で泣きじゃくったのも、今から考えればひどいもんだよね。まあ、学生にとっては教授が泣き出すなんて稀有な体験、害はないだろうけど、シラバスにはそんなことひとつも書いていないだろ。全く教師の自己都合だね。
2ヶ月間くらいは、別に泣こうと思って泣いたわけではなく、勝手に不用意に涙が溢れていました。蛇口が壊れていたね。

それが過ぎると、意図的にシチュエーションを選んで、「そう、今は泣くべき、泣いても良い場面だな」というときに、涙腺の蛇口を意図的に緩め溜まった涙を流してたという感じ。
・International Consultation groupの仲間がウチに訪ねて来てくれ、遺骨の前で泣き。
・ちゅけと一緒に「優子石」を作りに大阪に行き、優子の骨をすり鉢で砕きながら泣き。
・福岡のリカちゃんと会ったとたんに泣き。
・西魔女の前では1年間くらい毎月泣きまくっていたよな。

でも、そんなに長く泣いてるわけじゃないですよ。ワ―っと感情が盛り上がって泣きわめくのがせいぜい15分くらい。そしたら、とりあえず悲しみのタンクが空になるみたいな。

泣くことは辛いというか、けっこうエネルギーを使いますよね。悲しみを封印していた方が、とりあえずその場は楽なんだけど、長期的には苦しくなる。
心の中に津波が押し寄せて、圧倒されて、心の大地が水浸しになり、普通の感情生活が止まってしまいます。
復興できるんだろうかという心配。いったん心の堤防が切れたらもう防御する手立てがなく、第二波、第三波と繰り返し襲ってきて、地盤沈下してずっと水浸しになっちゃうんじゃないかと不安になります。

泣くのは恥ずかしいですよね。少なくとも男性にとって。
「男の子は泣いてはいけません。泣く子は弱虫です。」
という風に、涙はダメな行為というレッテルが貼られてきた。
確かに、子どもの涙と大人の涙は違うんですよ。
子どもの涙は弱虫の涙。自分が無力であり、自分の力をgive upして、他者の庇護を求めるアピールの涙です。
大人の涙は弱虫じゃあないと思います。強がっている防御の鎧を脱ぎ、自分の弱さに由来するわけではない、逆境から生じる否定的感情(苦しみ・悲しみ・不安・怒り)をリリースします。封印して隠しておいても、自然になくなるわけじゃないんですよ。小さな出来事なら自然忘却という手段もありうるけど、大きな出来事は決して忘れません。忘れようとすればボケて自分を失います。
悲しい現実を受け入れるしかないんです。鎧の下に隠しているということは、それをどこか自分自身でも認めない、受け入れていないということ。もうダメだ〜とgive upするわけではない、他者に救いを求め頼るる訳でもない、自分自身で苦しみの現実に向き合い、受け入れるしかないんです。それは弱虫なんかではない、すごい前向きの力ですよね。

泣きたくないもう一つの理由は、悲しみを手放したくない、ずっと持っていたい時です。
「水に流す」というけど、泣いたりして感情をリリースするということは、その感情を手放すことなんですよ。悲しみはそうでもないけど、怒りや憎しみなんかそうかな。まだ語りたくない、許したくない。表現することを拒否します。拉致被害者は絶対加害者を許しませんよね。怒り・悲しみと共に残りの人生を送る。その人のアイデンティティになっちゃった。

涙は、悲しみの感情とは限らないです。
喜び、怒り、決意などその種類は問わず、大きな気持ちを動かす時に出て来たりします。
大学4年、アメフトの最終試合に勝った時も大泣きしたな。勝っても負けても泣いてました(毎回じゃないけど)。コーチが呆れていたよ。
卒論指導の学生に「何やりたいの?」と尋ねても答えが出てこない。「何かあるでしょ、何でも良いから言ってごらん!」と重ねると、沈黙の後に泣きながらしゃべり出す。別に泣くようなことじゃないでしょ!それまで、情報を取り入れることしかやってこなかった学生たちにとって、自分の考えを表現しようとすると、感情まで一緒に出て来てしまうんだよね。そんな子が時々いたかな。

役者は芝居の中で自由に涙を流せるんでしょ?
セラピスト・精神科医は芝居じゃうそ泣きはできないけど、自分の感情を割と自由に表現できるんですよ。
もっとも、そこまでしっかりトレーニングした専門家は希有ですけど。
20代に初めて受けたときは全然わかっていなかった。一緒に受けた友人の精神科医と「すげー、女はみんなビービー泣いてるぜ。」なんて物見遊山の気分。自分が泣くはずないじゃんと思っていた。
それが変わったのは子どもが出来てからかな。
30代半ばに父親になり、保育器の息子に向き合い感動で泣いた。
40代のトレーニング中に突然男性のメンターが泣き崩れた。「エッ、壊れちゃったの?」そうじゃなかったんだ、泣いても良いんだ、崩れちゃう涙ではなく、意図して崩した涙だったんだ。目からウロコが落ちました。
男性に特化したトレーニングもあるんですよ。アメリカ男性の週末リトリート。思いっきり感情を出しまくって健全な意味でのオトコの強さを体験しました。ああいうの日本でも出来たら多くのオトコのたちが救われるだろうけど、無理だろうなぁ。

Sunday, September 23, 2012

「子ども」の喪失


息子さん、北海道に行ってずいぶんとしっかりされたでしょう?
いやぁ、どうだか、、、
夏休みはウチでダラダラ、以前と同じですよ。
合宿免許とかから戻ってきて、今日は鮫洲に行ってます。

おまえ、学科受かったのか?
もちろん。
交付終わったから、今、パスポート取りにチャリで有楽町に向かってる。

親の眼差しの中では、いつまでもあどけない子どものままだが、
眼差しの外で、着実に成長しているのだろう。

今日、北に戻っていった。
来週から後期の授業が始まる。
次は正月休みかな??
親は「子ども」を喪っていく。

Shadowlands


友人がDVDを貸してくれた。

Why love, if losing hurts so much? I have no answeres any more, only the life I've lived. Twice in that life I've been given the choice, as a boy, and as a man. They chose safety. The man chooses suffering. The pain, now, is a part of the happiness, then. 

映画「shadowlands(邦題:永遠の愛に生きて」)のラストシーンより

この映画は、英国の童話作家C・S・ルイスの体験を物語化したものだ。
No one ever told me that gief felt so like fear. I am not afraid, but the sensation is like being afraid. The same fluttering in the stomach, the same restlessness, the yawning. I keep on swallowing.
C. S. Lewis, A Grief Observed, 1961.  
だれひとり、悲しみがこんなにも怖れに似たものだとは語ってくれなかった。私は怖れているわけではない。だが、その感じは怖れに似ている。あの同じ肺臓のおののき、あの同じやすらぎのなさ、あのあくび。わたしはそれをかみころしつづける。
(西村徹訳「悲しみをみつめて」新教出版社、1976)

喪うことがこんなに痛いのなら、なぜ人は愛するんだろう?

彼は、人生に二度、悲しみを体験している。
子ども時代に母親を失った。
悲しみは恐ろしい。危険すぎる。
安全を選び、以来感情をかみ殺したshadowlandsの中で生きてきた。

中年期に、彼は初めて人を愛し、喪った。
二度目は対象的だ。痛み(悲しみ)の中で生きることを選択した。
なぜなら、痛みこそが幸せの一部なのだから。
痛みが生きている証になった。
痛みを忘れたら、生きる証も失うことになる。

Blue Heaven

暖かな風に乗り君は降りてくる
海鳴くカモメが空を舞うように

悲しみの幻影に人は追いすがり
いつしか慕情に抱かれ泣き濡れる

愛した女性は翼の折れたエンジェル
夢見るたびせつない気分

I can feel your lovin'wave on the water
愛すれど面影はblue
You're the wave that kissed my shore, but it's over
波音は無情のnumber
この愛なき場所はBlue Heaven

終わりなき夏の日が眩し過ぎたのか
どんなに泣いても君は帰らない

孤独さえ絶望さえすべて受け止めて
惨めな恋なら二度としたくない

忘れ得ぬ女性は波に消えたエンジェル
星降る夜は祈りの気分

、、、
桑田佳祐

懐かしい友人


ねぇ、元気なの? 再婚するの?

と、久しぶりに会ったとたん、立ち話でいきなり切り出されても、、、、
そう簡単に言わないでくれない!?
確かにあの頃の振り出しに戻っちゃったんだよね。どうするんだろう、オレ??
あの頃は夢と可能性があった。
今は?
ぜんぜん違うじゃん!
今はあの頃のように若くはない。

ホント?
生きているうちは若いんじゃあないの?
生きているうちは可能性があるんじゃないの?

Wednesday, September 5, 2012

至福の自転車

午前中は新宿まで自転車で1時間ちょっと。
BD-1を折り畳み袋に入れて、新宿➡八王子へ輪行。
午後は小学校で研修会の講師。
帰りは自宅まで2時間かけてサイクリング。浅川から多摩川を下り、まだ夏の暑さが残る土手をひたすら漕ぐ。
さすがに筋肉疲労はハンパじゃない。とことんの疲労感は悪くはない。
ストレッチして、筋肉繊維に溜まった乳酸を血中に絞り出す。すごく気持ちが良いんだ。
さすがに、今晩は原稿に向かう気も、メールの返事を書く気にもならない。
何もできないから、9時を回ったところだけど、もう寝よう!
身体がほてった夜はぐっすり眠れる。
でも、そのまえにちょっと焼酎のロックをひっかけてから。

今度の軽井沢は、横川まで輪行して、碓氷峠旧道のヒルクライムに挑戦するかな!

Tuesday, September 4, 2012

3年8ヶ月とB'day messages

3年8ヶ月の方はどうでも良いんだけど。。。

ついにゾロ目。
家では恒例行事。じじばばのところに夕食後みんなで集まりロウソク立てて、歌って、吹き消して、みんなでケーキを食べる。子どもたちからはカードのメッセージ。

パパずるいじゃん、年に2回ももらって。いつもおめでとうとかありがとうとか飽きちゃったよ。

じゃあ、分ければ良いじゃん。父の日は「ありがとう」にして、誕生日は「おめでとう」にすれば!?

でも、いつも同じようなことばっかし書いてるし。

Facebookもすごかった。
国内から〇人、海外から〇人。ふつうリアルの世界ではこういうのないよね。どれくらい親しいかもあるけど、どれくらいFacebookにはまっているかにもよるかも。画面右上の「今日は〇〇さんの誕生日です」メッセージをクリックして何か書けばそのメッセージは消える。自分がたくさんもらった喜びを経験したら、次から人にもメッセージを送るからね。バーチャル学級の月例お誕生会かな。
いや、そりゃあ嬉しいんですけど。

Thursday, August 30, 2012

久々の墓参

前回お墓参りに来たのっていつだっけ?
ちゅけと祐馬が受かってからは来てないし、その前もなんだかんだと忙しかったし、お正月以来かね?
その間、ちゅけは一人で何度か来てるよな。そう、ひとりで来るって良いよな。
いつも来たいとは思っているんだけど、どうしても死んでいる人より生きている人の用事や都合が優先しちゃうから。
やっと時間がとれたね。ちゅけが帰省している間、祐馬とじんの夏休みの間に行けて良かったよ。
まわりにちょろちょろはえている雑草を抜いて、石にお水をかけて、お花をあげて、お線香をあげるだけ。15分もかからないけど、わざわざそのために車で2時間かけてやって来るんだ。
別に優子はお墓になんか眠っていないし、大空というか、みんなの心の中に居るんだから、お墓に行く必要はないんだけど、やっぱり行く必要があるんだよね。
生田のおばあちゃんもご無沙汰してるから、帰りに寄って一緒にご飯食べれば孫たちの顔も見れるからね。パパは普段見飽きているけど、おばあちゃんにとっては大切な時なんだよな。

昨日はおいで頂きありがとうございました。
会うたびに成長する孫たちが喜びです。

Saturday, August 18, 2012

久々の夢

久々に優子が出て来たので、忘れないうちに書いておこうと思うのだけど。
あの映画の、病床の夫の臨終が近づき、だんだん弱まっているときの夫婦の会話みたいなシーンだった。夫の手を取り、永遠の別れが近づくことを前提に交わす夫婦の親密な会話。優子の場合はそれがなかったのに。あまりにも急性だったために、近づく死を予知して不安や悲しみを語ることはできなかった。
なのに、なぜ今ごろになってまた優子が出てくるわけ?
こんなに充実して楽しい時間を過ごしているのに。
、、、いや、だからこそ出てくるんだよな。
悲しみの前の親密さ。
親密性に触れた時、優子のイメージが出てくるんだ。
それはそれで良い。たくさん出て来な!

Monday, August 13, 2012

子どもたちとのquality time

なんだ、ちゅけは夏休み戻ってくるのか!
まあ、そりゃそうだよな。休み中もバイトとサークル、後半は就活と卒論でほどんど実家には戻らないという学生たちの話も聞くけど、1年生のときは違うよな。徐々に離れていけばいい。父親としては子離れの儀式を済ませたつもりで、あえて祐馬とじんを連れて来たけど、そうしなくても一緒に居る時間はあったんだ。
でも、こうやってroutineの仕事も生活も外して一緒に過ごすことに意味がある。少なくとも父親にとってはね。子どもたちはそんなこと考えてもいないだろ!?いくつになっても、親にとって子どもは子どもなんだよ。とても安心するんだよ、一緒にいると。
 この、親眼差しは自分でも持て余している。別にひとり親だからって不憫でもハンデでもない。こうやって間近な距離から凝視してなくたっていい。遠くから眺めていれば良いんだ。
 一緒にいればお互いに疲れる。親子、それぞれの役にはまっちゃうんだよな。親は親役割を発揮してあーだこーだ口うるさく言い出すし、子は子役割を発揮して親に依存し、「自分じゃ出来ない、パパやって!」スタンス(依頼心)になる。
 一緒に過ごそうなんて、親のエゴだよな。

Tuesday, August 7, 2012

3年7ヶ月

3日はふつうに忘れていた。
というか、何となく覚えていたけど、書くことが何も思いつかなかった。

Wednesday, August 1, 2012

セールスの電話


セールスの電話があって「奥さんいらっしゃいますか?」と言うから、「もう死にました。」って言ってやろうか(笑)。


そりゃあ止めといた方がいいよ。相手が気を遣うから。


そうか。じんも気を遣える年頃になったんだなぁ。

Friday, July 27, 2012

しまなみ海道

せっかくモレスキンの良いノートを奮発したのに、バッグの中でお弁当のお汁がついて端っこがビラビラになっちゃった。まあこうやって下書きくらいにしか使わないからいいんだけどね。

今回の出張は仕事のついでに遊ぶというよりは、遊びのついでに仕事すると言った方が近いかな。全国いろんな場所に行くけど、愛媛は特別な思い出があるんです。東予市が母親の実家なんですよ。私のルーツ。母の実家は先祖代々続く結構大きな家で、昔はなんとか水軍とか瀬戸内海の海賊だったとか。でも戦後の農地改革で大方の土地を手放しふつうの平民に没落していったとか。子どもの頃訪ねた結構大きかった母の生家も道路の拡張で別の場所に移転してなくなってしまいました。数年前に跡地を訪れた時、こんなもんだったんだ。子どもの視点からはすごく大きなうちと思っていたのに。

お見合いで23歳で東京に嫁いで来た母は毎年お盆前後に幼い子ふたりを連れて帰省していました。父は来たり来なかったり、来ても短期間で母と僕らはできるだけ長く居たかった。母は7人きょうだいで、同世代のいとこたちが大勢集まり一緒に遊ぶのが大好きでした。どちらかというと年上のいとこの方が多かったかな。小さな庭に面した縁側にみんな裸になってすわってスイカを食べたり、おじさんの運転するトラックの荷台にみんなで載って、おまわりさんが来たらムシロをかぶって隠れるんだよとはしゃぎながら桜井海岸への海水浴。じいちゃんばあちゃんの金婚式を国民休暇村で親戚一同集まって和気あいあいと始めたのは良いのだけど、いつものごとく途中から何の話かわからないけどおじいちゃんが怒り出し、せっかくの宴会が台無しになってしまったこと。海水浴で沖に泳ぐ中学生のお兄ちゃんへ向かって泳ぎ覚え始めた平泳ぎでのんびりプカプカ浮いて楽しんでいたら突然小舟がやって来て二人とも乗りなさいと「救助」された。岸に戻ると母が涙目を浮かべている。岸から見ると潮の加減で流されているように見える。「タケシくんが流されている!」と叔母さんが騒ぎ出して親戚中でパニックになっていたそうだ。
近くの運河での花火大会。いとこたちと一緒に蚊帳を張って寝る。おにいちゃん・おねえちゃんたちの怪談が怖くて眠れなくなったこと。肥だめ式の下が明るくて見えちゃうトイレに行くのが怖かったこと。ちょっと体調を崩すとおばあちゃんにお灸をすえられたり浣腸されるのが怖かったこと。
当時は東海道新幹線ができたかできなかったかの頃。寝台特急瀬戸号と宇高連絡船と四国のディーゼル車の急行を乗り継ぐ長旅が楽しかった。
お盆も過ぎ、おばさんたちが東京や関西にそれぞれ帰って行くさよならのたびにおばあちゃんが「元気でまた来てね!」と儀式のように涙を流すのが面白く、いつ泣き始めるかじっとおばあちゃんの顔を見ていた。
怪談の夏か救助された夏か覚えていないけど、東京駅に迎えに来てくれた父親に1−2週間ぶりに再会したとたん泣き出してしまったのがとても恥ずかしかった。

なぜこんなノスタルジーの世界に浸るのだろう?再訪してしまえば40年前の記憶の世界は現実のしまなみ街道と道後温泉に塗り替えられてしまう。そうなる前に記憶を呼び戻しておきたい。
人は記憶の中に生きている。都合のよい部分だけ引っ張すんだよね。そうやって自分の歴史をつくる。子ども時代の記憶は原点だよな。

毎年親と一緒に帰省していたのは小学生くらいまで。その後は親と行く機会はなくなった。久しぶりに訪ねたのは大学1年の夏。1ヶ月ほど伯方島のおばさん宅に滞在してフェリーで今治まで毎日教習所に通った。路上が田んぼ道だったからか、おばさんが教官にビールを1ダース付け届けしたからかわからないけど、普通何度も落ちる路上検定を一発で通してくれた。夜は叔母さんの家で高校生のいとこの家庭教師。今回は松山に住むそのいとこと飲む予定だ。叔母さんの家にもフェリーではなく自転車で訪ねる。そういえばもっと昔、車を載せるフェリーの前は小さな渡し船だったよな。椅子席ではなく畳の客室から船縁に手を伸ばせば鏡のように穏やかな水面に届くほど近く、舟から眺める瀬戸内海の島々は素朴でホントに美しかった。

自転車で橋の上から眺める島々の風景はきっと違うんだろうな。昔の記憶が今の印象に上塗りされる前に原風景をしっかり思い出しておきたい。いや、上塗りされたってちゃんと記憶には残っているから心配する必要はないのだけど。。。

Wednesday, July 25, 2012

歯列矯正

30代後半くらいかなあ、新しい先生は引退したおじいちゃん先生にはなかった新しい治療をしてくれる。
こういうやり方だと何年かすると隙間が虫歯になって削らなくちゃならないんですよ。新しい〇〇というやり方が良いのです。ホントは歯列矯正した方が一番良いのですが。。。
えっ、だって矯正って子どもがするものじゃないんですか?
今、人生80年ですからねえ。あと30年生きるとしても、歯の健康は大切ですよ。今のご高齢の方は入れ歯でしょ。そうなるとホントに可哀そうですよ。

30年ねえ。あとそんなに生きるんだ。平均値をとれば。
まあ、それくらい生きたいつもりではいるのだけど。
人生の後半、下り坂といったって、ただ高度を下げ、出力を徐々に落としていけばよいわけではなさそうだ。50代のオジサンが歯列矯正して残りの生活の健康を積極的に作り出していくわけね。たしかに想像はつく。美味しいものをおいしく食べられない人生がどんなに味気ないかは。

自分でわかっていないくせに、人には言うんだよね、人生は三期制だって。
第一期はひとりの時期。自分のことを考えていればよかった。
第二期は子育て期。子どもを産み育て、他者のために生きなければならない。
第三期は子育て以降。昔は短かったけど、今は3-40年あるからね。どうやって幸せに生きますか?
これは思春期の子どもをいつまでも心配し続ける親へのメッセージなんだ。第二期には子どもへの心配が大切な役割だけど、子どもが親離れするには親自身の子離れ、つまり人生第三期に切り替わる感覚が大切なんだと。

そうやって偉そうなことを言っている自分はどうなわけ?
子育て的には移行しつつあるものの、下は中学生だろ。まだ第二期の仕事も残っている。
仕事的には第三期だな。早期退職はリタイアではない。新しい仕事への移行だ。まだ坂は降りていない。
Partnership的にはどうなの?
普通、第二期⇒第三期への移行はprimary relationshipを親子関係から夫婦関係に移行させるイメージなんだけど。
パートナーがいて、子どもたちがすんなり成長してくれれば、こんなこと考えなくて済む。

この3年間、いったん立ち止まり、残りの人生をあれこれイメージする日々。

Monday, July 16, 2012

草津の家にて

妻を亡くした男性のカウンセリングがかなり進んでいる。
私自身が歩んで来た道だからお手のもの。
別に自分の気持ちを投影しているわけじゃない。
でもそのプロセスはよくわかるし、自分自身のプロセスを反芻する良い機会だ。
彼との会話で見えて来たのは「三つの蛇口」説。
第一の蛇口が身体・行動のレベル。心理的な打撃のために突拍子もない行動にでるのが怖い。蛇口を閉めると行動できなくなり(うつ)、身体症状が出現する。それをどうにか動かそうという医学的治療のレベル。幸い私はそこはどうにか自力で切り抜けた。
第二の蛇口が感情のレベル。喪失の悲しみ(それ以外にも自責、怒り、後悔など)が溢れ出し収拾がつかなくなる。それを避けるために蛇口を閉めると気持ちが出てこなくなる(失感情症)。蛇口を安全に開けて、どう気持ちをうまく流していくか難しい。私もそれはずっとやってきた。
第三の蛇口が実存のレベル。自分の生活の一部、自分の身体の一部、自分の存在の根拠が失われ、自分の実存(生きている意味)をどう再構築するか。これはかなり深いレベルだから時間がかかるね。私もそこまで来ているかどうかは自分でもよくわからない。少なくともそれを意識はしているけど。彼がその蛇口までたどり着いたのは、それまで封印していた妻の写真を解き、妻と築いてきた世界を再訪できたからだ。

今、草津の家にいる。子どもたちはまだ寝ている。
My quality time。ゆっくり瞑想に耽ることができる。
ホントは原稿を書いてたのだが、イマジネーションがこっちに来てしまった。こんなことだから原稿が進まないんだよ。
草津に家には優子の写真パネルをたくさん張り付けてある。
東京の現実から離れ、優子と幼かった子どもたちと過ごした家、優子が旅立つ前日に泊まった家に戻り、優子の世界に入る。
でも、だいぶ乾いてきたかな。今回はJenniferちゃんもいる。人に見られたって良い。
今まで、優子を語る呼称は「優子」でなければならなかった。
でもJenifferはそれではわからないでしょ。「21年間、私の妻だった人」でも良いじゃない、もうこれからは。

さて、子どもたちも起き出して来た。
瞑想の時間は終わり。朝食の支度でもするか。

Saturday, July 7, 2012

久々の多摩サイ


昨日は午前が広尾で午後が元の職場で仕事。
 
広尾から表参道、原宿、代々木公園を抜けて井の頭通り、浜田山で人見街道に入り牟礼から連雀通りで小金井へ。
帰りは多磨霊園を抜けて、スタジアム、飛田給から多摩川に入り多摩サイを一気に下る。丸子橋から市街地に戻り本門寺のわきを抜けて自宅へ。
いやあ、なかなかのチャリ通でしたな。
距離的にdemanding。100kmちかくあるんじゃないかな。以前はこれを週2-3日やっていたんだから体重落ちるのも当然か

多摩サイはフラッシュバックが不安だった。3年前、優子の哀しみいっぱいで走っていた道だから、また優子が出てくるんじゃないかって。
チャリ中は身体を思いっきり動かして、心の中は空っぽ。ふと気づくといろいろなイマジネーションがわいてくる。3年前は優子で満たされていた。
時々我に返り、あれ今何を考えているんだろう?という自分の思考に対するmeta-positionで、自分の思考内容を振り返る。
昨日は振り返ってばかり、というかmetaばかり、オレは今何を考えているんだという監視がきつくて自由な連想でもなかったな。優子が出てくるのをケアしましょうみたいな感じでずっと注意していた。おちおちのんびりもしていられなかった。
でも、身体は気持ちがいい。こんな蒸し暑い梅雨の合間の陽気だったけど、風を切れば暑さもさほど気にならない。これに比べれば広尾までの市街地往復はいまひとつだなあ。
多摩サイが懐かしい。

Tuesday, July 3, 2012

3年6ヶ月

今朝、書類に日付を記入して3日だってことを思い出した。良かった、今月は忘れずon timeで書ける。
3年半だもんなぁ。
といっても、あまり書くことないんですけど。アニーヴァーサリー効果もあまりないなあ。


、、、と、今朝書いてみたものの、これ以上書くことないんだよね。
他のことでは、いっぱい書くことがあるのに。
突き上げてくるものがない。なければ書けないんだ。無理して書く必要ないでしょ。今まで、ずっと無理なんかしてこなかった。書きたいから書いただけ。
べつに、もう月命日とかどうでもいいんじゃないの?


そうだよな、どうでも良いんだ。

Monday, June 25, 2012

病い・死・喪失

アーサー・フランク「からだの知恵に聴く:人間尊重の医療を求めて」より抜粋。

あとがき
  • 病いとは、本来からだが送ってくるシグナルであり、人が生活を振り返り、自分にとってなにが大切なのかを知ることができるプロセス。人はそこから学び、それを乗り越えていくプロセスである。つまり病いとはからだとのコミュニケーションにほかならず、自分の生を高めてくれるポジティブなものなのである。
否定
  • 「否定的」な感情はすべて不適当なものとされる。
  • 抑うつは病人の最も自然な反応だと認める人は少ない。
  • 不安と抑うつは人生の一部である。病いには「否定的な感情」など存在しない。必要なのは否定ではなく認識である。病人の苦痛は、治療できるできないにかかわらず肯定されなければならない。私が必要としたのは「きみの痛みも、不安も私にはわかるよ」という言葉だった。
語り
  • 処理しきれないほどの不安や挫折感
  • ただ書かずにはいられないから書いたにすぎない。
  • 自分に何が起きているのかと、問い続けざるを得ないからだに変わっていくストーリーを語るのが、病いの言葉なのである。
  • 問題はその表現を受け止めてくれる人が見つけられるかどうかである。
  • 話し合うことを通じて、私は自分に起こった変化とともに生きる道を考え続けた。
  • 我々は、「痛みを生きる」ということがどういうことかを表現する言葉を持っていない。
病い
  • 病いは闘い(fight)ではなく、長い苦闘(struggle)なのである。
  • 病いの体験は生を豊かにするための認識の機会である。
  • すべては病いが不可避だということを受け入れることに始まる。
  • ふたつの事実を変えることはできない。つまり人間はやがて死ぬということ、そしてほとんどの死にはその期間は異なるが病いが先行するということである。
  • 私のがんはいま再発しつつあるのかもしれないし、あるいは私はあと40年も生きて他の原因で死ぬのかもしれない。いずれにしてもがんが治癒することはない。退縮したがんを抱えて生きるしかないのだ。
喪失
  • 悲しみを通してのみ、喪失の向こう側に生を見出すことができる。
  • 恐怖や挫折や喪失と対面し、病気であることの意味を見出そうとする。
ケア
  • 治療できるかどうかに関係なく、患者の苦しみをそのまま認めることが、ケアなのである。
  • 病人にとって必要なのは、彼らが気にかけているということがわかるということである。
  • 一般の人にとってがんと向き合うことが辛いことは知っている。しかし「遠くからそっと気遣う」ことは、なにもしていないとの同じである。彼らが私との間に置いた距離は、もうひとつの病いの「否定」のかたちのように思える。
  • 人間の苦しみは分かち合うことで耐えられるものになる。
  • 病人にとってなによりもつらいのは、自分を拒否する人を無視することよりも、自分を肯定してくれる人に頼らなければならないという事実なのである。
  • なにより幸福だったのは、私が面と向かって人生を直視できるようになったことだ。
  • 苦痛は、からだが思考を生み出す力をもっていることを教えてくれた。痛みによって思考が生みだされ、思考がまた苦痛を生み出しもした。
  • 人間の最も基本的な権利は、自分に起こりつつあることを体験するという権利である。
  • 病いの究極の価値は、それが生きることの価値を教えてくれるということである。病い、そして死は、我々に生命というものを強く思い起こさせる。
  • 死は生の敵ではない。死は生の価値を回復してくれる。病いは、生をあたりまえのものと思っているときに失われる平衡感覚を回復してくれる。
一体感
  • 自分が「より大きな自分」の一部であるという感覚も生まれていった。
  • 病いを得て、人間であることの苦しみを分かち合うことは、全体の中の自分の位置を、他人とのつながりを知ることである。
  • 私は自分のからだを超えてこの世と一体となって存在した。そして私は死ぬことが怖くなくなった。私が死んでも愛する人が微笑むのをみることができるのなら、死ぬことにも喜びを見いだせよう。
一人称の病いは、死の恐怖につながる。
二人称の病いは、喪失の悲しみにつながる。

そんなこと考えたくもない、忌み嫌うものだけど。
私は一人称の方は、ずっと考えてはきたけど未だ多くは語っていない。
まだ語る必要がないから?

二人称の方はこの3年間、必死に語ってきた。
それは痛みに耐えるため、、、このままでは壊れちゃう、潰れて鬱になっちゃう、うまく子どもたちの父親をできなくなっちゃう、、、多分、そういう不安に駆られて始めた語りも、実はもっと深い意味があるのだろう。
不安や恐怖を回避するため、機能不全を取り除くためだけに語るわけではない。
語ることで不安・恐怖を超越すれば、その先に今まで見えなかった光が見えてくるのかもしれない。それは「生きる意味=人とのつながりの回復」なのだろうか。
人とつながることで、死や喪失の痛みを超えた、深い生の意味を見いだせるのかもしれない。

帰路

またメソメソしながら帰路についてるん?

メソメソなんかしてへんで!!
これも慣れやな。
もうあいつは手放してしまったんだ。
普段、成長した子どもを手放せない親と、自立できずに途中でポシャる子たちとたくさん会っているから心配になるけど、私は違います。
まあ、なんとかやっているよ。
部屋がきたない、、、と言ったって、ウチも人のことは言えないし。私自身の大学下宿時代と比べれば上出来だよ。
でもキッチンはきたないな。流しと洗面所の汚れを洗ってピカピカにしたら、あとは何もできないよ。おばあちゃんが留守中にウチの流しを磨き、俺はちゅけのアパートの流しを磨く。人の台所ってきたなく見えるもんだよね。
授業もけっこう大変みたいだな。レポートを徹夜して。もうちょっと要領よくできないのか?
まあ、パパの大学時代もレポートは徹夜してたからなあ。慣れてくればだんだん効率よくなるよ。というか、そうやってダラダラ時間をかけて取り組むプロセス自体が修行なんだ。
でも、なんだか頼りないんだよなあ。
おまえホントに大丈夫か?
オマエだって心細いだろ?
いや、それは確認していない。親の心細さを子どもに投影しているだけなのかもしれない。
おまえは心細さなんて感じているヒマなんかないよな。
若い頃はスピードが速すぎて、痛みは見えてこない。年をとってペースがダウンして、余裕ができてようやく見えてくるものなんだよ、きっと。
こんなことをおまえに言ったって仕方ないよな。親の勝手なエゴだからね。
じっと見ている親の方が悪いんだよ。

Sunday, June 24, 2012

札幌

僕が大学に受かった春休みにひとりで四国の田舎へ行った時、おじさんが近所の居酒屋へ連れて行ってくれた。寡黙なおじさんは話題なんかない。お酒を飲みながら「たけしくん、よーきたね〜や!」を繰り返すだけだけど、懐かしい30数年前の記憶だ。

子どもたちは保育園に通う道すがら、Kさんのおうちを通るのが楽しみだった。家の周囲に植木を山のように置き、お花に水をやっているおしゃべりなおばちゃんと自然に親しくなった。始めはベビーカーで、少し大きくなると親と手をつないで歩く三人の子どもたちが順々に成長していく姿をおばさんはずっと見ていた。子どもたちを見ると「ちょっと待ってて!」」と家の中から駄菓子をくれる。子どもたちが大好きなおばさんだった。
先日、カイ君を散歩に連れ出し、久しぶりにKさんのおばさんに出合った。
あら、お久しぶり!お子さんたちは大きくなったでしょう!
はい、上のちゅけは大学生、お姉ちゃんが高校生、下のぼうずも中2なんですよ。
あらまあ、早いわねえ。
そうだよね、親とおばちゃんの時間は停滞し、子どもたちの時間はびゅんびゅん飛んでいく。
あら、ワンちゃんもいるのね。
はい、3年前からなんですよ。
そうね、お子さんがほしがったんでしょ。寂しいですもんねえ。
おばちゃんは優子のことも知っている。
でも、お父さんが元気だから良いわね!
そんなこと、犬の散歩してる姿だけでわかるの?

子どもたちを保育園送り迎えしていた頃、いったいこの子たちと赤ちょうちんで酒を酌み交わすときが来るのだろうか。遠い先をぼんやり想像していた。
それが現実になるかな。
別に今回が初めてではない。3月には函館で、4月には札幌のホテルで父子ふたりメシを食ったよな。また今回、おまえと二人で酒を飲める。おまえはどの程度思っているかは知らんが、パパにとってこれがどれほど待ち望んだ至福のときか想像つかないだろ!? だって、ただ飯を食うだけだもんな。
ちゅけ、いつも夕メシは何時頃食うんだ?今晩、千歳に7時過ぎに着くから、待てるなら駅前かどこかに食いにいくか!?
uさんのお見舞いを口実に、ちゅけの様子を偵察に行く。
だって4月に行って、連休は帰省したし、また会いにいくわけ?
マイレージと別宅があるからお金かからないしね。週末ふらっと行ってくるよ。今回は寝袋持参で。
四国のおじさんに連れて行ったときパパは確か18歳で酒をふつうに飲んでたけどなあ。ちゅけも18歳。飲まないんだろ?最近の連中はマジメだねえ!パパもママも飲めたから、おまえたちも飲めるぞ、きっと。

愛着ってなんだろう?
空気みたいに当たり前にあるから、その存在に気づかない。
ボウルビィとかウィニコットとかが愛着の欠如した施設の子どもたちを観察して「発見」した。
もともとは子どもが親に向ける感情を指していた。
愛着関係を成就して、子どもはこの世に生きていても良いんだよという基本的・絶対的信頼関係を獲得する。
その後、愛着研究も発展した。
子➡親への感情だけじゃないでしょ。夫婦間だって、親➡子どもだってある。
愛着がうまくいかなければ、
子どもは人との関係を築けなくなり、
夫婦は関係を維持できなくなり、
は思春期の子どもを離せなくなる。
始めの頃の愛着は子どもの頃に獲得すればそれで済むものだった。でも、そうじゃないでしょ。獲得して手放すものではなく、一生を通じて必要なもの、キープするものでしょ。
愛着関係は、人として生きるための根拠を与えます。
子どもは親に愛着を向け、この世に居ても良いんだ、他人は敵ではなく、自分の味方なんだという大前提を得る。
パートナー間の愛着は今を生きる目的・根拠を与える。お金を儲けたって、美味しいものを食べたって、対象と共にその喜びを分かち合ってはじめて幸せと認知できる。だれもいなかったら、お金もご馳走も確認できないでしょ。壁や鏡に向かってもダメなんだ。
別にパートナーがいなくたって生きてゆけるよ。友だちとか家族とか、だれかがいるでしょ。
パートナー間の愛着をふつうに形成できる人にとっては何てことはない自然のことだけど、できない人は苦労するんですよね。自分では誠心誠意、一生懸命やっているのになぜうまくいかないの? そんなカップルがよく相談に来ます。
ゴルフみたいなもんですよ。出来る人はふつうにクラブを振ればできちゃうし、出来ない人はいくらレッスンに通っても出来ない。何かが根本的に違うんだよね。プロから見れば、どうしてできないの?力を抜くだけなのに!? 当事者としてはいくら同じことを言われても、理屈ではわかっていても、どうしても力が入っちゃう。というか力を入れていることに気づかない。逆に焦りまくって、力いっぱい固くなっちゃうんですよ。
親が子どもに向ける愛着は、未来の意味を与えてくれるのかな。自分のいのちの延長線上に子どもがいる。

パートナーや子どもなんて、始めからいなければ別に困らないんですよ。でも一旦愛着を作っちゃうと手放すのが大変だよ。喪失の痛みはものすごい。
その中では子どもが親を離していくのが一番楽なのかな。ただし、愛着がsecureな場合ね。十二分に引っ付いてニーズが満願されたらポロリと自然に離れていける。Insecureな場合はそううまくもいかないみたいだけど。事例がたくさん教えてくれる。
自然にポロリという意味では老親を見送るとか、老いてからパートナーを見送るとか、成長した子どもが巣立つとかも自然の摂理・life courseでしょ!
それなのに、なぜオレは成長した息子をreleaseするのにこんなに苦労してるわけ?
夏休みにも下の子たちを連れて行くとか、毎月会おうとしているじゃん!
苦労するのがふつうなのかな?
Launching kidsって、実は高等テクニックなのかな? AAMFT journalでも特集が組まれるくらいだし、アメリカ人にしてみればHikikomoriも「巣立ち障害」と位置づけられるわけね。
それともオレは分離不安なのかな?優子の喪失を未だに乗り越えられず、まだ宙ぶらりんで満たされていない愛着ニーズを子どもたちに向けているわけ?
そうでもないと思うんだけどなあ、、、
普段は問題ないんですよ。北海道のことなんか忘れてしまっているよ。でも、会いに行こうとするとダメになるんだ。
まあそういうものなのかね。
子どもの頃、四国に帰省すると、帰り際におばあちゃんが儀式のようにメソメソ泣くのがお決まりのコースだった。
それで良いのかもしれない。
というより、子ども時代のシーンに条件づけられてしまっているのかな。
だとすると、子どもたちは妻を失い悲しみまくっている父親の姿を見てどれほど影響を受けているのだろうか?
少なくとも私がおばあちゃんから受けた条件づけはnegativeではない。どのようにして別れを悲しみ、どう表現するのか、感性の使い方を教えてもらったように思う。

こんなこと、獲得している時はぜんぜん気づかないというか考えもしないんだよね。
失った時に初めて気づくことができるんだ。
要するに、寂しがりやなだけなんだよ。

Monday, June 18, 2012

父の日

子どもたち、
パパはチョー嬉しいんだ!(涙・涙)
パパの愛が君たちにちゃんと届いて、君たちも愛で返してくれてるね。
これほど嬉しいことはないぞ。パパの最も大切な生きがいだぞ。
ママがいないから、パパは君たちの愛を独占できるし、
君たちもママを失って、親からの愛も、親への愛も、どういうものだかよ~く意識化できるもんな。
君たちにとっても、パパにとっても、ママを失った痛みの中で生きるadvantageだね。

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先生は、二言目には愛、愛と、あんなに愛に溢れている50代なんて希少過ぎる。でも、あんなに愛が溢れてたらば、今はさぞかしsadなのかもしれないな。埋まらない分のエネルギーってどこに流してるんだろう。


いや、そんなことないよ。普遍的なことじゃない!?
愛(love)とか言えばロマンチックに聞こえるけど、愛着(attachment)といえば生きていくために必要不可欠な要素。それを商売根性を出して言語化してるだけのことで、みんなは言わなくても、持っていることでしょ。


西魔女に前から勧められている"Fatal Attraction(危険な情事)"のDVDを観た。
たしかに彼女はBPD (borderline personality disorder)の典型例だよね。自傷するし、攻撃するし。だからといって特別稀有なことではない。誰だって持っている愛への希求が極端化したらホラー映画になっちゃうんだ。誰だってそうでしょ!?
背景までは描かれていなかったけど、彼女は心がからっぽ。愛は得られないもの、愛を受けるに値しない自分と決め込んでいる。I cannot deserve love.
愛を受け取った記憶がなくなっちゃっている。
だから、愛を与えることも、愛を受け取ることもできない。
その機会が巡ってきても、ダメにして、パニックになっちゃう。どうしてもうまくいかないんだ。


でも、愛って必ずどこかに潜んでいるはずなんだ。
それを見つけ出すことができれば、愛をうまく扱えるようになる。
そういう意味では、確かに私は愛がよく見える形で溢れているのかもしれないね。
だから、愛を失っても、どんなに痛くても、パニックにはならないで済むのかもしれないよ。

Thursday, June 7, 2012

3年5ヶ月

あれっ、気がついたら普通に忘れてたよ。
先週末は忙しかったんだ。前半は学会で、後半は少しリラックスして。
学会の公開supervisionも我ながら上出来だった。
ENFPな私は、いろんな人たちと会って話し合っているうちに、どんどんimaginationが膨らみ、発想が湧き出してしまう。それをEvernoteにメモ書きしてはおくものの、しっかりまとめ上げる集中力と時間がない。帰ってきたら日常の忙しさに即逆戻りだからな。
やっとホントの原稿の前に立ちはだかっていた雑原稿にけりをつけることができた。さあ、これから本原稿に取り組むぞ。
という感じでon/offを問わず忙しいんです。それは良いことなのか、良くないことなのか。よくわからない。

Thursday, May 31, 2012

フーテンの

寅さんの気持ちがよくわかるよ。


新幹線で山口へ移動中。
国内の学会はこれひとつなんだよな。海外の学会はAFTA, IFTA, CIFAと3つ。海外の方が面白いんだ。昔は国内の関連学会によく参加していたけど、もうイイいや。別に発表して業績を作る必要もない。話を聞きたいような素敵な人もあまりいない。自分の居場所としてひとつあれば十分だ。

あっちへフラフラ、こっちへフラフラ。
放浪はオトコの癖なんだろうか?
砦を守るだけじゃなくて、あっちこっちに遠出をしたくなる。不安定さの中の安定。砦の中だけだと息が詰まってくる。ちょっと旅に出て、また戻って。しばらくしたら、また旅に出て。
別に現実を逃避するわけではない。
現実は素晴らしい。そこが現実への違和感を抱く寅さんとは違う点だ。
現実に縛られているわけでもない。現実を縛っていた優子もいなくなったし。
子どもたちは、父親の現実を縛っているか?幼い頃は縛られていたけど、今はそんなにきつい縛りはない。
じゃあ何で?じっと落ち着いて砦にじっとしてれば良いじゃん?
それはそうなんだけど、何か変化を求めるんだ。
ルーチンの現実ワークから抜け出して現れる空間に、新しい風を感じる。そこからuniqueなoutcomeが生まれるんだよ、きっと。

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湯田温泉に着いた。
さすがに新幹線の長旅は疲れたな。
新大阪で途中下車して、学生時代の仲間を見舞う。
会うのは卒業以来、30年ぶりだよな。メールを見てびっくりしたけど、まあ昔の饒舌さの片鱗もあって少しは安心した。
学生の頃からヘンな奴だとは思っていたけど、仕方がないよな。若年性糖尿病は生活習慣のせいではない。もっとも、それほど節制していたとも思えないけどな。
糖尿病で腎臓がやられて透析。ヘパリンの副作用で脳出血で片麻痺。おまけに正常圧水頭症なんて得体の知れない難病までぶら下げて。

我々の年代は、もう若さでごまかす訳にはいかないんだよ。
師匠の稲村さんは肝臓病が悪化して60歳で没。
優子は心臓病がもとで45歳で没。
今までは、健康でいることが当たり前だったけど、これからは健康でいられることが貴重な財産になってくるんだ。

また暇を見つけて会いにいくから、それまで生きていろよ!
さて、明日からたくさん人に会うextrovertな週末になるから、もう寝よう。

Tuesday, May 22, 2012

帰国の機内にて(1)


時計も日本時間に戻し、頭も日本頭に戻さないとな。
日本では得られない体験を通して、何を得たのかということがホントにわかる(会得)するためには、もう少し時間をかけないとダメかな。といいつつ、何となくは見えつつある。

Ashlandのcommunity groupでも、AFTAのMen's InstituteやPaulineのworkshopでも、やったことは同じ。お互いの信頼関係、それはcommitmentの力だと思うけど、そして十分に安全な感覚の中で、自分の体験とそれに伴う感情を十分に表出する。そしてそれを批判されることもなく、突っつかれることもなく十分に受け止められる。それによって、どんな逆境にあっても、潜在力が導き出されるんだ。

Men's Instituteでは、私の喪失体験をDとSが語ってくれた。
優子を亡くし、東京に戻って来た日だったと思う。保育園のママさんたちがたくさん家に来てくれて、手分けしてたくさんの人たちに電話してくれた。私も何人もの人に電話した。誰に電話したかはもう覚えていない。でもSにも電話してたんだった。
僕が落ち込み、悲しそうに語っていたらまだわかったけど、そうではなく、いかにも人ごとのように、淡々と感情を交えず、高いテンションで語っていたことが、かえって彼を心配させていたんだ。そのことは、今回話を聞くまで分からなかった。それは私に聞かせるためのストーリーではなく、彼自身の感情体験として語る必要があるストーリーなんだ。
葬儀が終わった頃だったか、また彼に電話したことは覚えている。
やっぱり、誰かプロに話を聞いてもらわないとどうもダメみたいです。
やはりそれは信頼できる人でなければならなかった。だけど、Sにとって私は近すぎる。もちろん私にとっても同じこと。Sの奥さんくらいなら大丈夫かなと思って電話したのだけど、代わりに狭い日本のmental health業界の外にいる西魔女を紹介してくれたんだ。そのことは覚えている。
Sが私のことをどれほど心配していてくれたか、3年後の今、語られる機会を得たことで、私のナラティヴに加わった。

2月の上旬に沖縄でDらとInternational Consultation Groupを計画していた。Dは訃報を聞いて、
"My automatic reaction was I would lose you."
研究上というよりも、この連中とのintimacyは逆境に陥ったからこそ必要だった。しかし子どもたちを残して沖縄に数日間行くのは僕の心情的に不可能だった。急遽場所を都内に変更して、彼らにうちに来てもらった。優子の遺影と遺灰の前で私の感情を語り、居間でmeetingを行った。夕食も子どもたちと離れるわけにはいかない。3人を連れて食事に出かけた。新宿の雑踏を、Juがじんの手を、Khawlaが祐馬の手を握り、Pingがちゅけと話しながら歩いている姿は、私と子どもたちをとても安心させてくれた。
タクシーが変な方へ行ってしまったので、Dと祐馬をふたりレストランに残さないとならない状況になった。まだ小6で英語を使えない祐馬がDの片言の日本語で2時間ほど過ごした時の様子をDが語ってくれた。初めて行くレストランで言葉もろくに通じない人と一緒のStrange situationであるにもかかわらず、Dを完全に信頼し、普通に佇んでいた祐馬の姿を印象深く語ってくれた。

このようにして、何度も何度も繰り返し語られる体験。僕自身の喪失と再生の物語がバージョン・アップされてゆく。