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Monday, June 9, 2014

優子と子どもたちの往復書簡

喪の作業を終了しでも、ブログに書く仕事は続けたい。営業用ブログとは別に、自分自身の物語は続いていく。

というわけで、ブログのタイトルを変更します。(確か、初期の頃も一度、変更したような覚えが、、、)

これまでは「優子とみんなの往復書簡」でしたが、
今日からは、「優子と子どもたちの往復書簡」です。

といっても、子どもたちはこれを読んでいない前提で書きます。
初期の頃は祐馬が読んでいたけど、最近はもう見てないよな!?

べつに読んでいても良いけど。
君たちのことを現在進行形で書くけど、君たちのプライバシーを侵しているわけじゃないよ。
あくまで、君たちを題材にしているだけで、パパの気持ちを書いているんだからね。客観的事実とは違うかもしれない。いずれにせよ、君たちのプライバシーは保護者である私が責任を持つから大丈夫だよ。

さすがに、もうここに来て読んでいる人って少ないよ、きっと。自分の閉じた日記帳に書いても良いのだけど、どうせなら少数の読者が居てくれた方が書きやすいからね。

優子の悲しみの井戸が空に近くなった今、私の不安の源泉は子どもたちに移行しているんだ。
ひとり親だからではない。思春期の子をも持つ親としての普通の不安だね。
それは、家族臨床で出会う親たちの不安とシンクロしている。

そんで、こうやって書いて、ママに報告するからね。


ーーーーーーーーーーーー「ひきこもり脱出支援マニュアル(PHP出版)」のあとがきより引用。

子どもたちは順調に成長しています。長男は今年、成人を迎えました。子どもたちが小さい頃、彼らと酒を酌み交わす時を夢見ていました。

 第三子の次男は中学3年生で、もうすぐ高校受験です。彼の両親も兄も姉も、都立の進学高に進学しています。彼もそれを希望していますが、成績が不十分で平均3のレベルです。2学期には頑張って平均4に近いレベルまで成績が伸びました。私はそれをほめるのですが、息子は喜びません。まだ、自信を得るための成功体験とカウントしていないようです。彼は家族の期待を成就できず、彼が望むきょうだいのような学校に進学できなくても、自信を獲得できるのだろうか、自立して幸せになるのだろうか、父親として心配します。

 学校の先生や友人に相談しても、何の問題もない言います。私も人から相談を受ければ、全く心配ないと言うでしょう。しかし、自分の子どものこととなると判断が停止してしまいます。
 幸せになれないかもしれないと心配するのは、子どもを信じていないということです。親のエゴに過ぎません。親が子どもに期待して、勝手に悩みを作っているに過ぎません。

 こうやって自分の価値観を点検してみると、自分が如何に学力(頭の良さ)という一つの指標に縛られてきたかということがよくわかります。世の中にはさまざまな価値があります。サッカーがうまかったり(運動能力)、背が高かったり(身体能力)、イケメンで女の子にもてたり(美しさ)、ピアノや絵画が上手だったり(芸術的才能)、いくらでも自己を承認する指標はあるのに、それらを使わず学力のみに頼ってきました。偏差値が高いという価値は決して間違っているわけではありません。とても大切な価値です。ただ、それが唯一の価値ではなく、多様な価値の一つに過ぎません。しかし、それを際立たせるために他の価値を見過ごしてきました。

 私は、自分の親のようになりたいと思ってきました。いえ、当時はそんなことを意識しませんが、いまから振り返れば親が目標でした。親の価値観に叶う人間になり、親からの承認を得たかったのです。自分の命の由来である親から認められることで、自分という価値が肯定されます。

 より豊かな社会を作り、幸せな人生を送るために質の高い教育は大切です。しかし、学歴がすべてではないはずです。偏差値が高くなくても、家族の期待に応えられなくても、人は十分に幸せになるチャンスはあります。それはあまりにも自明のことなのに、自分自身の子どものことになると思考が停止してしまいます。どうやって次男を承認したらよいのだろう。どうやったら次男は、親からの承認を得ることができるのだろう。
 私の両親も、私自身も妻も、上の子ども二人も、みな学力という資質を頼りに自尊心を作ってきました。父親は東大卒です。母親はその年代には珍しく四年制の有名女子大学を卒業しています。私は国立大医学部卒で、兄と姉も名の通る高校に通いました。次男はこれから高校受験という初めての関門をチャレンジします。もし彼が家族の期待に見合う資質を持ち合わせていないとしたら、彼はどうやって生きる自信を獲得していくのでしょう。自分自身も家族を見渡しても、学力以外の価値を糧に自信を得た人を知りません。社会の中には学力以外で幸せを掴んだ人がたくさんいるのに、そういう人々には目が向かないのです。いままで、私はいかに狭い価値観のなかで生きてきたかということを、次男は気づかせてくれました。

 いま、次男に向き合い、私は父親として何を与えられるのか自信がありません。このように考えること自体、親の心配し過ぎであると、理屈ではわかります。親の思惑とは別に、子どもは自分で試行錯誤して価値を作っていくことを信頼しなくてはいけません。そう思いつつも、何とか子どもが価値を見出すための環境を整えてあげたいと考えています。

 次男には、無条件の承認を与えたいと願っています。勉強ができなくても、暴れん坊でも、性格が悪くても、根底のところでは彼は「良いやつ」なんだ、生きる価値がある人間なんだと彼を信頼したいのです。親にとって、子どもがいかにかけがえのない存在であるか。それは彼を甘やかしたり、彼の言いなりになることではありません。彼の内面の強さを信じて、彼が獲得したものや、彼の努力を評価したいのです。
 偏差値の高い大学に行かないかもしれない。高卒かもしれない。正社員になれないかもしれない。フリーターかもしれない。彼の人生がどんな状況であっても、私にとって彼の価値は変わりません。幸せになってほしい。この世に生を受けたことを喜んでほしい。でも、私は親としてそれを保証してあげられるのか、自信がありません。
これが私の本音です。まわりから見ればごく単純なことのはずなのに、当事者の席に座ると、客観性を失い、不安の渦の中に巻き込まれます。

--------- 引用終わり。 ---------

これを書いたのが3月の入試前だった。その後のことを、ここに書き加えていきます。ということは、時系列的にちょっと前後するけど、3月以降の日付の記事を後から書いてます。

ブログタイトルを変更します。

Tikiさん、もうあんまりブログは書かないんですか?

ああ、ずっとチェックしてくれているんですね!?ありがとう!
残念ながら、優子のことはもう絞り出してもあんまり出てこないんですよ。

先日の相談で、ある喪の作業が終わらないクライエントの涙腺をちょっとつついたら、涙がどっと溢れて来た。
 心のポリタンクには4リットルくらいの涙が溜まるんですよ。ちょっと突いたら涙があふれてきます。でも、それは無限じゃない。4リットルを出し切ったら、涙の伴わない悲しみになるんです。そうしたら楽だね。自由に悲しむことができるようになる。いちいち、心を突き動かされて辛くならずに済みますから。

ブログを書くという私の喪の作業も、もう終了が近づいてきたかな。
本に思いっきり書いたのが良かったかもしれない。


ーーーーーーーーーーーー「ひきこもり脱出支援マニュアル(PHP出版)」のあとがきより引用。

そして、私は30代半ばで父親になりました。それは私にとって仕事上のどんな成功よりも、幸せな体験でした。祖父から父へ、父から私へ伝えられた愛情を、私から子ども伝えることができます。

 妻の立ち会い出産は、男性にとって絶好の「父親」になるチャンスです。女性が10ヶ月もの長い間、身体に子どもを宿し、身体の中から「母親」になってゆきますが、男性はその体験を持てません。せめて陣痛の時に妻の背中をさすり、分娩台の横に立って妻の手を握り、「ヒッ、ヒッ、ハー」と妻と呼吸を合わせて、親になる瞬間を共有したいと思いました。無事に出産して、妻が後産(胎盤の処理)をしている数分の間だけ父親は新生児と対面できます。当時の産院では、母子が退院するまで父親は赤ちゃんに触れることはできませんでした。誕生したばかりの我が子に何度も語りかけました。「赤ちゃん!(まだ名前を付けていないので、そうしか呼べません)わが子よ。僕が君のお父さんだよ。よろしくね。これから君のことをしっかり守り、しっかり育てることを誓うよ!」と何度も心の中で唱えました。私自身が父親であることを自分自身に焼き付けておきたかったのです。
 おかげで、20年前の刻印は今でも強く残っています。その後の出産も同じ病院で同じように立ち会ったのですが、2回目、3回目の記憶は不思議と残っていません。初めて父親になった時が私にとっての記念日でした。

妻も私もフルタイムの仕事を持っていたので、育児休暇が明けると、子どもたちを保育園に預けました。子どもたちは、妻と私の生きがいです。ふたりとも、子どもを育てることに必死でした。父親としてがんばったつもりでも、結局は私が仕事や週末のゴルフで抜けて、妻の過重負担は避けられません。「あなたは外では偉そうに子育て論を唱えているかもしれないけど、自分の家族はどうなっているの!」と妻からそしられ、夫婦でたくさん喧嘩しました。結婚当初の若い頃は6歳下の妻を言い負かすことができました。しかし、子どもが生まれてからは口論すると、どうしても妻の方が負担が大きいことが明らかになり、私の部が悪くなり言い負かされていました。

その妻を5年前に突然の出来事で亡くしました。妻は子どもの頃の伝染病の後遺症で心臓の冠動脈が狭窄していました。若い頃何度か手術をして健康を取戻し3人の子どもとフルタイムの仕事を持つことができました。しかし、5年前のお正月に家族でスキー滑降中に心筋梗塞で倒れ、そのまま帰らぬ人となりました。

私は、人生最大の悲しみに直面しました。それから半年くらい、何度も妻が生き返った夢を見ました。夢の中で再会の喜びに泣き、夢から目覚め現実に戻ってまた泣きました。3人の子どもたちと私が「うつ」になることが恐ろしく不安でした。心と身体の調子を崩し、日常生活が立ち行かなくなる「うつ」がどれほど苦しいかよくわかっているから、もしその兆しがみえたら、仲間の精神科医に薬を処方してもらおうと考えていました。眠ることが怖かったので睡眠導入剤は服用しましたが、結局、抗うつ薬や精神安定剤は使わずに済みました。

 大切な人を失った心の傷は、大切な人と繋がることが最も効果のある薬だと実感しました。
 妻を亡くした直後からお葬式までの一週間は、近所に住む保育園時代のパパママ仲間が交代で家に来てくれて、思考停止に陥っている私たちを心身両面から支えてくれました。その後も、保育園仲間の土肥悦子さんや、私の学生時代からの友人である小松崎涼子さんが子どもたち、特に多感な娘の母親役として支えてくれています。

  保育園パパ仲間の高島亮さんの勧めで、妻の死後3日目からブログを始め、私の悲しみの軌跡を書き出しり、親しい人たちに受け止めてもらいました。書くことと同時に、語ることも必要でした。カウンセラーである私がクライエントとなり、グリーフ(悲嘆)・カウンセリングを受けました。信頼できる人に私の気持ちを十分に表出することで、かろうじて心のバランスを保ってきました。
そしてなにより一番の力になったのは私の両親です。我々は二世帯住宅を構えていますが、妻のいた頃は、ふたつ世帯はドアで区切られていました。妻の死後、そのドアは開放され、ひとつの三世代家族になりました。父親は私と子どもたちの気持ちを支え、母親は炊事・洗濯など生活を抱えてくれています。20年以上前に嫁いだ妹も、私の家族と仕事を側面から支えてくれています。

 私の世界観は妻を亡くした5年間で大きく変わりました。
 まず、私の住む世界が小さくなりました。以前は生きがいを社会という大きな枠組みの中に位置づけていました。大学教授や医師という社会的役割を担い、授業や診療やメディアを通してより多くの人々に自分の存在を知らしめたいと思いました。それがこの5年は家族や友人、臨床で出会う少数の患者さんなど、より近い関係性の中に生きがい求めるようになりました。大学教授を辞めて精神科診療所を開業したのもそういう理由からです。


 そして、人の苦しみや痛みを深く実感できるようになりました。やっとユングのいう「傷ついた支援者 (wounded healer)」になれました。自分で痛みを体験していないと、他者の痛みを想像や理屈で理解するしかありません。順調に人生を歩んでいた頃は、人の痛みの表面しかとらえていなかったことに気づきました。