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Saturday, October 14, 2017

母の終焉日記6

気遣っていただき、ありがとう。
見送るのは慣れちゃってるので、そんなに疲れも出ないんですよ。

見送りに慣れるっていうのもよくないですが、親より長生きするのは親孝行ですよね。
急に寒くなり風邪が流行ってますよ。お気をつけて。

見送りに慣れるのは深い意味で良いですよ。
いや、とってもイヤですけどね。
最近の火葬場は昔と比べるとずいぶん近代的でキレイになりましたね。でも、大切な人がお釜から灰になって出てくるのは何度経験してもショックです。喪失の悲しみもあるけど、やがては自分もそうなるんだって恐怖と向き合わないといけないですから。だから、こういうのはみんな忌み嫌って避けようとしますね。
でも、結局は人生で避けて通れないこと。妻、父、母と何度経験しても悲しいのや怖いのは変わらないけど、慣れると、必死に避けなくても済むようになります。なんか心が広がるというかリラックスできる感じですよ。

それが風邪ひいちゃってのどが痛いんですよ。
寒暖の差が大きい理由もあるけど、やっぱいろいろ疲れて免疫が落ちているんでしょうね。

Friday, October 13, 2017

母の終焉日記5

哀しむ暇もなく、色々と事務処理が大変なんですよね。
そういった雑務が終了すると、どっと疲れがでてしまうので、お気をつけくださいね😃

確かに、疲れが出てきているのかもしれない。
「疲れた〜」
という自覚は全くないんですよ。
でも、母の亡骸に付き添った通夜の晩から喉が痛くて風邪ひいたみたい。
昨日は真夏日くらいに暑く、今日は10℃以上低くて、寒暖差アレルギーとかTVニュースで言っていたけど。
確かに、免疫力が低下しているのかもしれない。。。

Wednesday, October 11, 2017

母の終焉日記4

午前中、区役所に行ったり、銀行、墓地とかあちこち電話したり。去年、父親の時にひと通りやったのでだいたい分かっているんですけど、面倒ですネェ〜(!)

哀しむ暇もなく、色々と事務処理が大変なんですよね。
そういった雑務が終了すると、どっと疲れがでてしまうので、お気をつけくださいね😃

お気遣い、どうもありがとう。
そういうこと、よく言われるよね。
でも、ヒマがなくても、ちゃんと哀しんでいるんですよ。
そのあたりの感情の出し入れは僕の場合自由にできるというか、もともとその道のプロだし、優子の時に鍛えられたし。
優子んときも、しばらくして疲れが出るかな、落ち込むかなと内心不安だったけど、大丈夫だったよ。そのあたりの処理能力はあるんだ。

ヒマになったよ。
今までは病院や施設との往復が大変だったけど、それがすべてなくなったからね。
残務処理があるけど、まあ大したことではない。

じんも夜遅くまでバイトだし、家に帰っても誰もいないから、こんな遅くまでオフィスにいるよ。今まではこんなことなかったし。

さて、そろそろ帰ってひとりメシを作るかな。
途中で寄って食っても良いんだけど、山メシの練習でチタンのフライパンを試してみたいからね。トランギアのメスティンも使ってみたいなぁ。買っちゃおうかなぁ。

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とかね。こういうくだらないことをブログに書いているでしょ。
ってことは、まあそれなりにgrief workをやっているんだよ。まあ、一週間程度だろうね。
優子のworkは今でもまだ引きずっているけど。

Monday, October 9, 2017

母の終焉日記3

おばあちゃんへ

一人で葬儀屋と相談していた時は、お葬式とかやらないつもりだったんだよね。
でも、昨日、妹といろいろ相談して、こんな形の家族葬をやろうということにしました。
家族葬って案外いいね。自由な形がいいと思うんだ。家族だけで水入らずで、僕みたいに喋りたい人は喋るし、静かに悼む人はそうするし。好みによっていろんな弔い方をすればいいんだよ。

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2017.10.4.@医大の病棟にて。ばあちゃんが亡くなる3日前、ベッドにいてもヒマだったから書いていたんだ。

ばあちゃんの命が終わろうとしている。
ばあちゃんが人生を終えようとしてる。

じいちゃんは年譜とか家系図とか、そういうのが好きだったから、何度も書いてきたし、僕との往復書簡も本にした。自分のことを表現して客体化したいんだ。自分の人生に意味をもたせたい。私はこうなんですと、人に伝えたい。
自分が生きてる意味って何?
自分の存在意義って何?
そんなことばかり考えていたんだろう。
僕だってそうだ。生きる意味がないと生きていけない。

ばあちゃんは、そんなこと、ちっとも考えていなかったんだろうね。
あくまで主体の中で生きていた。家族のために生きていた。
その意味とか考える意味がないんだ。
家族という狭い枠組みの中で生きている。

男は違う。
社会とか、もっと広い世界に自分の価値を見出したい。
狭い家族より、広い社会の方が良いみたいに言われてるけど、変わらないよね。優子を失ってそう思ったよ。たくさんの人から承認されたって、結局自分の喜びや悲しみや生きがいって、ごく身近な人との関わりなんだよ。

ばあちゃんの生きる意味は、じいちゃんを見送った段階で終了したんだ。
優子のお母さんは伴侶を亡くした後も仕事して、一人で生きがいを持って元気に生きている。
ばあちゃんだって、自分の生きがいを社会に求めるだけの能力は十分にあったはずだ。でもそれがベターだなんて言い切れないよね。ばあちゃんの生きた時代と社会の中で当たられた枠組みをまっとうに生きたに過ぎないんだ。

ばあちゃんが幸せだったかとか、そうでなかったかなんて、ばあちゃん自身考えたことないだろう。そんなこと、考えることに意味をもたせなかった。
じいちゃんは自分は幸せだったんだって、一生けんめい自分に言い聞かせて、納得したかったんだ。僕だって同じかもしれない。
僕がばあちゃんにできることは、ばあちゃんの人生が幸せだったんだ、意味があったんだということを証明することなんだ。
ばあちゃん自身はそんなこと求めていないけど、息子である僕がばあちゃんを弔う方法はこういう方法なんです。

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ばあちゃんの生まれた戦前は、儒教の「三従の教え」が生きていた。女性は一生に3人の男性に従うって(父親、夫、息子)。今じゃあ時代遅れだけど、当時はそれが当たり前だった。それが女性差別だ、古臭いなんて言説は、ばあちゃんにとってはどうでもよかったんだろう。

四国の田舎の大きな商家に7人兄弟の4女として生まれ、戦後は農地改革で手放してしまったが、ばあちゃんの子供時代は、多くの土地を持ち、いわば地主だな、大家族で使用人を抱えて、経済的には恵まれた暮らしぶりだったのだろう。

ばあちゃんや勉強がよくできたんだ。
当時、田舎の女子が、四年制大学に行くなんて、まず珍しかった。ばあちゃんの姉妹たちもせいぜい短大止まりだったんじゃないかな。関西じゃ名門の女学院に行き、学生寮で生活した。都会のハイソなお嬢さんたちに混じって違和感があったんじゃないかな。女学院時代の話はあまり聞かないんだ。
当時は高等教育を受けても、女性が働くなんて問題外だ。卒後、郷里に戻り、学んだ英語で近所の子供達を教えながら、お茶やお花の花嫁修業をしていた。その時に使った長い座卓みたいなのが、私が子どもの頃帰省した時にも使われていたよ。
じいちゃんとのお見合いは初めてではなかったらしいが、その辺りも聞いても教えてくれない。
壬生川にあった紡績工場長の知り合いの◯◯さんが東京にいて、仲人となってじいちゃんとばあちゃんはお見合いをした。
半蔵門にあった東條会館(だったかな?)で結婚式を挙げたのは、ばあちゃんが23歳だった。24歳で僕を生み、26歳で妹を生んだ。

僕らが小さい頃、よく大塚のさだ子ばちゃんの家に行ったよ。ばあちゃんの長姉で、PTAとかやる前は東京で唯一の頼れる人だったんじゃないかな。ばあちゃんの兄弟は地元か、せいぜい関西エリアにお嫁に行き、東京まで進出したのは二人だけだったんだ。

毎年、夏には四国のばあちゃんの実家に遊びに行ったよ。親戚一同が集まり、いとこたちがうじゃうじゃたくさんいてね。僕らにとってはすごく楽しく懐かしい思い出でだよ。

ばあちゃんはすごく社交的なんだ。呑気で、明るくてね。PTA活動とか、すごく生き生きとしていたよ。小学校でも中学校でも副会長までやったんだ。僕の時に役員のデビューをして、妹の時に副会長までやるんだ。そんなにリーダーシップがあるようには見えないけど、人あたりはよかったんだろう。

でも、ばあちゃんは頼りなかった。
じいちゃんは私にとって同性の親だから、幼い頃は成長するモデルであり、尊敬する人で、思春期には反抗して乗り越える対象だった。ばあちゃんは反抗するまでもない、そばにいてくれる存在だった。
方向オンチで、新婚の頃は、買い物に出かけて迷子になって自分ちまで帰れなくなっちゃったとか。
喘息持ちで、布団の上げ下げができなかった。僕らが小さい頃から二十歳くらいまでで、その後はけろっと治っちゃった。今から思えば心因があったのかと思うけど。そのために、じいちゃんが布団の上げ下げをやっていた。それも疾病利得というか、ばあちゃんの弱さがじいちゃんのサポートを可能にしたんだ。

あと、僕が小学生の頃かな、ばあちゃんぶっ倒れたことがあった。
トイレから出て、気を失って、洗濯機の角に頭をぶつけて、2−3日変なことを言っていた。じいちゃんが慌てて仕事から帰ってきて、これでママは一生パーになっちゃうのかなと心配したけど。今から考えれば、起立性的低血圧による機能性脳虚血、一過性の健忘症で大したことなかったんだけど。
アメリカのホストマザーも「うつ病」で時々臥せっていたし、僕にとって女性というのは、強くないし、守ってあげないといけないと思っていたよ。

ばあちゃんは、家庭人としてとても立派な仕事をしたと思う。
2人の子どもはどうにかまともに成長して、家庭を作って、孫が5人、ひ孫が一人。みんな幸せにしている。かな???
ばあちゃんがやるべき仕事はしっかり全うしたんだよ。

僕は仕事柄、家族療法、多くの家族を見てるけど、そうでない親子や家族ってたくさんいるんだ。それと比べるのも悪いけど、うちには、しっかり安全感があった。安心して生活して、成長できた。そんなの当たり前なんだけど、そうでない人からすれば、これってすごいことだと思う。

じいちゃんも頑張ったし、ばあちゃんも頑張った。
ばあちゃんが楽しんで、幸せそうにしている姿を家族が見て幸せになって、そういう家族を見てばあちゃんも幸せになって。ばあちゃんは、ぶつぶつ文句を言ったりしていたから、ばあちゃん自身に言わせればあーだこーだと不満はあるだろうけど、少なくとも僕は子ども時代も、結婚するまでも、結婚してからも、両親は僕にとっての安心基地だったんだ。

そんなの当たり前だけど、そうでない家族もたくさんいるんですよ。

この9年間も、ばあちゃん、じいちゃんにはとてもお世話になったよ。
それまで、優子と一緒に幸せな家庭を作ろうとしていたけど、優子が突然いなくなっちゃうものだから、幸せじゃなくなっちゃう危険、危機状態だったと思う。
3人の子供達に、そして僕自身がどうやって安全基地を確保するか。普通に生活するならできるだろうけど、安心できる良い家庭を作れるかなんて自信はない。必死だったけど、ばあちゃんとじいちゃんがいたおかげで、どうにかやってこれたと思う。

でも、それがばあちゃんには負担をかけちゃったようにも思う。優子が亡くなってから、ばあちゃんは「老人」になってきたなあと、なんとなく感じてた。大変だったよね。ごめんね。でもありがとう。

さっき、昔のアルバムを見ながら思ったけど、上越時代がばあちゃんの人生の花だったのかもしれないね。子育てを終えて、子供達は結婚して、じいちゃんばあちゃん二人の生活だった。孫もできたし、子ども家族を追ってイギリスやブラジルに海外旅行したり。
じいちゃんが上越教育大学を定年退職した後、青森に行き、しばらくしてじいちゃんの膵臓転移が見つかって手術してからは、じいちゃんのケアで、だんだん老後に入って行ったのかな。そして、嫁さんが突然いなくなり、孫の世話をして。
その辺りから、ばあちゃんの心配性がひどくなってきたように思う。孫たちは知らないだろうけど、若い頃のばあちゃんはとても楽天的で呑気だったんだよ。晩年の心配性のばあちゃんとは正反対だったんだ。

ばあちゃんは幸せだったんだろうか?
最期の頃は、カラダも、アタマも、いうことが利かなくなって、相当イライラしていたと思う。ばあちゃんの生きる目的は、家族を世話することだから、逆に家族に世話をされることはプライドが許さなかったんだろう。それまで、プラスだったのが、マイナスになっちゃった。

おばあちゃんは、もっと自分自身の楽しみを持てば良かったのにね。
でも、自分自身とかいったって、結局は人との関連性の中で幸せって生まれてくるものだから。例えば、僕だったら、学生とか患者さんが少しでも幸せになれば、僕も仕事をやっていたやりがいが生まれるわけだし。
ばあちゃんにとって、家族が幸せであることが、ばあちゃんの幸せなんだ。
だから、ばあちゃんが幸せな人生だったということを証明するためには、僕らが幸せでいればいいんだよ。そしたらばあちゃんの生きがいが生まれてくるんだ。

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悪いけど、ばあちゃんが死んでも、全然悲しくないんだ。
冷たい息子なのかなぁ?
なぜか?
優子とじいちゃんの死を経験したから?
それもあるけど、ばあちゃんは、早くから僕の愛着圏外なんだよ。
愛着理論ってのがあってね。初めは子どもと保護者(主に母親)との関係のことだけだったけど、最近では、愛着関係は一生必要と言われるようになった。
ひとことで言えば、
「君がいるから元気になれる」関係
「君がいるから安心して毎日を過ごせる」関係
逆に言えば、
「君がいないと元気が落ちて、毎日の生活が辛くて不安になる」関係なんだ。
それは、揺るぎない信頼と安定感に満ちているはずなんだ。そうしないと安全と感じられないからね。

大切な人がいて、その中でも特に必要不可欠な人が愛着対象だ。
内側の人を失ったり、その人が変な人だと苦労する。ダメージを受けて、まともに生きていけない。そういう人たち、たくさん知ってるよ。
外側の人は、失ったら悲しいけど、別に生きていくには差し支えない。

例えば、妹は外側の人だよ。
子どもの頃だったら、きょうだいは同じ家族の一員で、内側の人だった。その頃に妹を失ったら、ちゃんと生きていけなかったかもしれない。
でも、大人になって、それぞれ別の家庭を築いて。
それでも、きょうだいはきょうだいだし、大切な身内だし、もし死んだら悲しいし寂しいけど、僕の人生や元気さには影響しない人でしょ。
私にとって、おばあちゃんはそういう人なんだよ。だから、お葬式では泣くかもしれないけど、身を切るように悲しくはないんだ。

優子の時はもちろん違ったよ。
僕にとっても、3人の子どもたちにとっても、ママは愛着対象だったでしょ。
失うのは身を切るように痛く悲しかったし、ちゃんと生きていけるか心配だったよね。怖かったよね。

ばあちゃんの場合は、ラッキーなことに、誰も怖くないんだ。
人間、そうなってから死ななくちゃダメだよね。
優子はダメだったんだ!

でも、そういう親子の結びつきって結構違っているというか、特に日本の親子って、母親の呪縛が強かったりする。
友人の山登敬之が「母が認知症になってから考えたこと」(2013年、講談社)という本を書いたんだ。彼は、母親の呪縛がいかに強くて、そこをどう切り離すか苦労して、本まで書いちゃったんだ。

僕は母親との呪縛は全然強くない。
なぜかというと、じいちゃんがしっかりいたからなんだ。
僕の愛着対象は、ばあちゃん以上にじいちゃんだった。
2歳で妹が生まれてママのおっぱいを取られちゃったから、僕はパパのおっぱいを触って寝ていた。幼稚園の頃も触って寝ていてね。子どもながらに、もし小学生になってもパパのおっぱいなしで寝られなかったらどうしようって、すごく恥ずかしいくて情けなかったよ。
ヤマトは本の中で中学生まで母親の布団で寝ていたってカムアウトしている!
じいちゃんがしっかり、僕のそばにいてくれたんだ。その分、母親の影は薄かったというか、そんなに頑張って子どもに関わらなくても良かったんじゃないかな。

小4でラジオ作った時も、じいちゃんは、よくやったって褒めてくれて、ばあちゃんは、電気工作とかよくわかんなくて、台所でご飯を作っていただけだったなぁ。そんなワンシーンの光景をよく覚えているよ。

じいちゃんはスキーによく連れて行ってくれて、大好きになって今でもやってるでしょ。じいちゃんがしっかりモデルだったし。ばあちゃんもスキーに一度だけ行ったことがあるんだけど、転んでばかり散々で、以来二度と行かないし。
ばあちゃんはモデルじゃないんだ。

高校AFS留学でアメリカに行った時も。
じいちゃんは行ってこいと勧めてくれて、ばあちゃんは、心配そうな表情だった。
だから、「僕は1年間、死んだと思って忘れてくれ!」と言ったそうだ。
ばあちゃんが僕のことを心配するのはかわいそうだから、心配しないでくれと言いたかったんだけど、今から考えればひどいこと言ったね。

その時、たまたまじいちゃんも在外研究でミネソタに行っていて、父と息子がアメリカに、母と妹が日本にいたんだ。ばあちゃんと妹が夏にミネソタのじいちゃんのところにやってきた時、僕がいたNorth Carolinaにも電話してきて、そっちにも行きたといってきたんだ。
僕は断ったんだ。まだアメリカに来たばかりで、適応しようと一生懸命で、二人のmothersがいたら混乱するから嫌だったんだ。ひどい息子だね。
その後、12月のクリスマスには父親ひとりで訪ねて来てもらうのは問題なかったのに。
つまり、それだけばあちゃんを突き放しても、大丈夫。母親を失うことはない。母親は安定してそこにいるんだ。昭和基地が安定していたから、突き放すことができたんだ。

ヤマトは母親本を書いて、母親の圏内から抜け出し、
僕は父親本を書いて、父親から乗り越えようとしたんだ。

ばあちゃんが僕の圏外になれたのは、
1) じいちゃんの家族への関与と、
2) じいちゃんばあちゃんがしっかり安全基地を作ってくれた
おかげなんだ。

昭和基地が安全だと、隊員は外に行ける。ボストンだってメルボルンだって。
安全な基地でないと、隊員は引きこもるしかない。

でも、こういうのって、男性っぽい考え方なんだよね。
子ども時代の愛着対象(親)を成長しながら一生懸命切りはなそうとする。
自立志向、独立志向が強いんですよ。
女性は、もっと関連性を志向している。関連性の中に生きている。

ばあちゃんを見舞いに行っても、僕はそんなに長くいないし、ばあちゃんの痛みや苦しみは、ばあちゃんの持ち物だから、医学でどうにかできなければもう仕方がない。虫歯を治す時にはちょっと痛いように、治すための痛みは請け負わないといけないし、それ以上の苦痛は麻酔でとってね、くらいにしか思わない。

でも、女性は違うみたいね。妹は、ばあちゃんのそばにずっといようとすごく気持ちを傾けて、ばあちゃんが苦しくないこと、辛くないことを何より一番に考えていた。妹にしたって、ばあちゃんは愛着圏外ではあるのだろうけど、情緒的なつながりは僕よりはるかに強いし、理性よりも感性で動いている感じだよ。
別に、それが悪いとか言ってるわけじゃないけど。

母の終焉日記2

今の気持ちは、人生でそう度々経験するものでもないから、記録しておこう。

・10月7日のお昼に永眠。前から登録しておいた葬儀屋に迎えに来てもらい、安置所に保管。
・10月8日。夕方、子ども孫たち6名での家族葬。夜は子ども二人が母の体と同じ場所で夜を共にする。
・10月9日。優子と同じ臨海斎場で荼毘に付し、無言の帰宅。

いやあ、お疲れ様でした!

・記録を思いついたのは、母の日記を読んで。10年、いや20年以上前から毎日、日記をつけているんだよね。10年日記帳とか、10年間の同じ月日が一つのページに連なっている。しかも、それが空きがない。すごい根性だよ。これを引き継ぐか?僕がやるとしたらデジタルのライフログか。でも、無理だろうなぁ。
・優子、父親に続き3回目で慣れてはきたが、心情的にはとてもdemandingだ。いろいろな気持ちが錯綜する。
・僕にとっての大切な人を喪失するというのは、大きなショックだ。自分の大切なものを失う喪失体験。
・トラウマ(心的外傷)でもある。「死」に直面するのは辛い。生きているものの命が失われるショック。動物だって、生き物ならなんでもそうだけど。冷たくなっていくショック。お釜から出てきて、それまで存在していたものが消えるショック。ドキドキするよ。辛いよ。
・しかし、愛着喪失体験ではないんだ。ここの心情を説明するあたりが難しい。後でゆっくり解題しよう。
・負担の軽減。今まで気にかけて、心配して、四方八方手を尽くして病院に施設に行き、医療・介護のスタッフと会い、経済的にも負担だし。そこからの開放感。そして空虚感。ぽっかり穴が開いたような。
・でも、片付け、各種手続き、役所に、銀行に、墓地に、税務署に、いろいろやらなくちゃならない煩雑さ。

などなど。