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Friday, January 23, 2009

ひとりで居れない

優子
今、これを移動中の電車内で書いているよ。
仕事とか何かをやっているときや、だれかと会って話しているときはいいんだ。でも、何もしてないとき、ひとりでいるとき、優子が勝手に頭の中に入り込んでくる。

優子、いい加減に、僕を放してくれよ。
前よりはいくぶん良くなった。優子が死んだ直後は、強い悲しみ、怒り、どうしてよいかわからない焦燥感など、激烈な辛さで満たされていた。感情が涙とともに押し寄せてきた。そのころに比べりゃ、少しは落ち着いてきたかな。今は、もう少しマイルドな感情、たとえば寂しさ、無力感、不安感などに暮れてしまう。少しは落ち着いたものの、優子のこと、優子がいなくなったことしか考えられない。
これだけ、僕の心に優子がへばりついているのは、優子を失った現実を受け入れまいとして拒否しているんじゃないか。優子のことで心を満たすことで、優子がいない、優子を失ってしまうことを否定しているみたい。無駄だとわかっているのに。

優子が生きているとき、こんなに優子のことを思ったことはなかったよ。まあ、付き合い始めのラブラブ時代を除いてね。日常で、優子のことを忘れていられた。少なくとも仕事中は全く忘れていたよ。海外出張なんかに行けば、2-3日、家族のことをまったく忘れることもよくあった。帰り際になって、おみやげどうしようと、あわてて思い出したりして。それも、優子がいるという安心感があったから、忘れていられたんだ。
でも、今は、優子がいない。不安でたまらない。亡くしたものを取り戻そうとして、心が優子のことを求めているのだろう。

このようにして、僕は失った優子を求めている。でも、それは自分自身のことだ。自分でどうにかすることができる。別に優子に依存していたわけじゃない。優子が居なくたって、生きていけるし、そのうち、心を満たすものを見つけるさ。
でも、子どもたちも求めているんだよ。それは、言葉に出さないだけで、僕以上だろう。彼らが自分の手で母親を突然失った悲しみを乗り越え、生きていく術を見つけていかなければならない。僕ができるのは、その環境を準備するだけで、彼らの心に直接介入できない。僕にはどうにもできないこと。それを考えると、とても不安になる。

これは今、ひとりでいるときに考えることなんだ。家に帰り、子どもたちやじじばばと一緒になれば、こんな風には感じない。もう、ひとりで居れない人になっちゃった。精神科臨床でよく出会う、そういう人たちの気持ちがよくわかるよ。だからこうやってブログで気を紛らわせているんだ。

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