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Saturday, April 25, 2009

Family Life Cycle

優子と僕は、赤い糸で自然に結ばれていたわけじゃない。一生懸命、結んだんだよ。
確かに、僕の身体の一部になってしまった今から振り返れば、優子と出会ったのは、どう考えても赤い糸の運命だったのかもしれない。でも、出会って、愛し合うようになってからは、結び目をキープするのに一生懸命だったよ。いったん結んだら、もう大丈夫、解けない、なんてものじゃなかった。いつも、結び目がどうなってるか、解けかかっていないか、確かめていたよ。

僕の人間性の中に優子が存在しているとしたら、やっぱり一番は3人の子どもたちを産み、育てた体験だろう。ふたりを束ねておくのさえたいへんなのに、それに3人を加え、5人を束にするってのは、並大抵の事じゃなかった。その作業を通じて、優子と僕がお互いに深く入り込んだよね。遠慮なんかしてられない。その体験が父親として、夫としての僕を成長させたのだと思う。

優子もよく言われていたよね。子ども3人つくって、仕事もちゃんとこなせてすごいわー。それに実は心臓の病気も持っていて...ダンナさんがよく理解してくれるからね...とか。
でも、僕らとしては、なにもすごいことを狙って、がんばろうとしていたわけじゃないよね。僕らが一番やりたいのはどんなことだろうって、ふたりでよく考え、話し合って進めていったことなんだ。結果がどうなるかなんて、あまり考えなかったよ。

優子と僕の家族ライフサイクルを整理してみよう。
1st Stage) Twosome Courtship
ふたりが付き合い始め、結婚して1年後に留学。3年間のロンドン生活を終え、帰国して、ふたりが就職するまで。ふたりの生活の基礎を作った時期。
お互いに愛し合っていたとはいえ、それが本当かどうか確かめるまでは時間がかかった。この人で本当に良いの?ということを確認して、この人が一番になるよう、いろんな人間関係を整理し、一緒の生活をスタート。ロンドンではホントふたりっきりだったからね。
原因はとっくに忘れちゃったけど、もう離婚するしか手はないかなんて思わせるケンカもあったような気がする。でも、別れる決心などできず、お互いに向き合うしかなかった。
優子は、Samaritans(いのちの電話)で僕と一緒に相談員をやりながら、優子自身もリーダーのPaddyに自分の事を相談していたよね。僕もPaddyはよく知っていたけど、優子がどんなことを相談していたかはconfidentialityとかいって教えてくれなかった。僕も、英語では苦労するし、勉強もはかどらないし、自信なんかなかったよ。
でも、帰国直前に今の就職先が見つかり、優子も帰国してから日経新聞の求職欄を半年くらい睨んで、良い就職先を見つけたよね。家も立て直そうというプランも出て、やっとどうにか落ち着き始めた。

2nd Stage) Bringing up small children
managing work and family balance
そんなこんなで、子どもを持つ決心と準備がやっとできて、ちゅけを産んだのは結婚7年目だった。
優子は仕事を一時休止して子育て中心にという選択肢もあったはずだけど、なぜかそうしようという発想はふたりともなかったよね。
ちゅけを産んで、新米子育ての始まり。祐馬とじんも続けて出てきて、苦労の連続だったよ。ふたりのケンカの中心テーマも僕ら(僕だけ?)のwork/life balanceの矛盾が中心だったと思う。口では偉そうなこと言うけど、実際ちがっていた(ように見えた)から。
でも、今から思えば、何とかなるよという根拠のない楽天主義みたいなのに満ちていたように思う。
優子の健康だって不安だったよな。でも、なぜか心配してなかった。優子は自分で心配してたの?
不安を抱えつつ、やればできちゃった面もあるから、やるしかなかったよね。
10年も過ぎれば、ケンカのパターンもネタも見えちゃっているんだけど、なぜか懲りずにケンカしてたよね。ケンカすることで、ふたりの役割を再確認・再調整していたのだと思う。
子どもたちは、たしかに二人の鎹(かすがい)だったよね。優子も僕も、自分のやりたい仕事や趣味は、それなりにやれてきたと思う。でもそれは個人プレーなわけで、ふたりが協力せざるを得なかったのは子どもたちのことだよ。子どもたちのことで、ふたりはより深く結びついたんだ。そうするしか選択肢はなかったし、そうすることが二人の幸せでもあったのだと思う。
こうやって、振り返えればね。

3rd Stage) Growing up and leaving children
expanding our own roles in the community
ちゅけが、高校に行き始め、思った以上に学校生活が忙しく、家での存在は薄くなっちゃったんだ。
子どもたちがだんだんと離れていく。そういう矢先だったよね、優子が消えたのは。
この3-4年、子どもたちの手間が少なくなりつつありながら、優子はずいぶん成長したと思う。自分のやりたいことも見えてきて、通訳としてのキャリアを進み始めていた。僕自身の道も、あれこれ考えてはいるんだけど、優子に先を越されたね。
そんなことができる背後には、目に見えない基盤の安定感が前提にあったのだよ。それが突然崩れちゃったので、今、そのことにやっと気づいている。
予定としては、その基盤をもとに、子どもたちが巣立ち、僕らは僕らの道をそれぞれ実現していくはずだったんだよ。

4th Stage) Climing down the hill
優子との基盤が崩れていなければ、予定では、ゆっくり人生の山を下り、麓に近づきながら、優子と僕の終末を確認し、受け入れていくはずだったんだよ。
まだ、人生のPrime of our Lives.子育ての後半戦と、社会的役割の充実期。まだ、山の稜線付近を歩いていたのに、優子だけ急に足を踏み外して下に落っこちゃったんだから、困るんだよなあ。登山というのは、ちゃんとパーティーを組まないと危険なんだよ。これから僕と子どもたちはどうすればいいんだ?
優子なしで、残りの道を歩んでいくか。
別の人を持ってくるか。

まあ、どうにかするしかないんだけど、どうするのがベストなのか、まだわからないんですけど...

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