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Wednesday, April 15, 2009

親の気持ち

優子

はあ、今日も、一日忙しかった。

まだ、前回書き込んで2日しかたっていないんだ。
もうそろそろ、自然に間隔が空くかなと思ったけど、書かないとだんだん詰まってくる感覚は相変わらずだな。別に、優子と向き合いたいと思うわけじゃない。もう、優子はいいよ。
むしろ、自分と向き合う時間なのだろう。昼間も、仕事を消化する中、ブログにどんな風に書こうかなと文章を考えていたりしてね。

納骨を終えて、ひと段落、ひと区切りと思ったのは、その直後だけで、やっぱ、そう簡単に段階を踏んで快復していけるわけでもないようだ。遠浅の海岸に打ち寄せる波のように、引いたり、押し寄せたり、その繰り返しだね。でも、それを繰り返していくうちに、月の引力によって、いつのまにか、気がついたら引いていたりするのだろう。それを、じっと見て確認するのは無理で、自然に待つしかないかもしれない。

だいたい、職場の机にデジタル・フォトフレームなんか置いてあるのがいけないんだよな。間隔を1分に設定して、ありったけの優子の写真が次々に切り替わっていく。そんなのやめればいいのだけど、まだ止めたくない。左手の薬指はだいぶ軽くなったのだけど、心のリングはまだそう簡単に外すことはできないようだ。

でも、こんな風に書いていると、これを読んでいるじいちゃん・ばあちゃんが心配してしまうよ。
そりゃあそうだよな。この3ヶ月、何度も大泣きしている姿を見せているし、ブログには何かすごく悲しく、辛そうなことばかり並んでいるし。
でも、それは想定なんだよ。自分の心のケアをコントロールするという意味で。

優子の死は、病気を持っていたとは言え、まったくの想定の出来事だった。
だから、おばあちゃんとしては、僕が、まさか早まったことだけは、、、という想定の出来事が起きたっておかしくないと考えるかもね。
心のケアというのは、想定の出来事を、想定に留めるための作業かもしれない。

優子が亡くなった直後、僕が混乱して、同業者で親友のヤマトに泣きついたんだ。その後、彼もブログを読んでいてくれて、時々メールをくれるんだけど、「オマエのことは、基本的には大丈夫だと思っているから」と言ってくれる。その方が気が楽かもしれない。

要するに、信念あるいは、信心ということなのかな。
宗教とかもひとつの信念体系なわけで、それに救われる人もいる。
僕の場合は、科学(心理学)という信念体系だろうか、要するに、今の危機を乗り越えることができるというか、こうすれば乗り越えられるはずだという、未来に対する希望のような。

突然、最愛の妻を失うということが、最大のrisk factorだとしたら、
それに対向するprotecting factorsもけっこう僕は持っているんだ。たとえば、
★解決方法を知っているはずだという信念
 それを持っていれば、それを実行することができる。
★つまり、自分の感情を閉じ込めず、吐き出すということ。このブログもそうだし、泣き叫ぶこともそう。まわりで見ている人の方がつらいかも。そうしている本人は、案外、気分を変えられるものだから。感情を閉じ込めたら、どうなるかということは、仕事上たくさん経験しているから。他の感情もすべて封じ込めるために、うつ状態になったり。反対に、封じ込めきれず、はみ出してくる感情が、想定の出来事として爆発したり。たとえば身体化(体の症状)とか、行動化(とんでもない逸脱行動として現れる。自殺なんか最悪のパターン)とか。
それをできる環境を持っているということ。聞いてくれる仲間、支えてくれる家族、書き出すブログという場所(そこでもみんな読んでくれているという期待)、西の魔女もそうだし。
帰る場所があること。優子がいなくなったから、家に帰っても空虚、、、ということでなく、家には3人の子どもたちとじいちゃん・ばあちゃんがいる。どんなに安らぐことか。
経済的資源は確保されている。この不況の世の中、それがない状況でどうなるか、よくメディアに出てくるが、母子家庭・父子家庭ってのは、家族の喪失に加え、経済の喪失という大きな痛手を背負ったりする。そういう面で安心できるというのも大きい。

riskとprotecting factorsのせめぎ合いの中で、だんだん、プラスの方向に移っていくしかないね。
、、、というシナリオは、一応持っているんだ。

そういう意味では、僕自身より、僕を見ているまわりの方が辛いのかもしれない。
自分のことはどうにでもできるけど、人のことはどうすることもできないから。
僕自身が親になる前は、親が子どもを心配する気持ちは理解できなかっただろう。
「そこまで心配しなくても、大丈夫だから」と、親の庇護から抜け出そうとしていた。
親にとって、子どもはいつまでも子ども、というのもよくわかる。
もし、子どもたちの誰かが、今の僕のように辛そうにしていたら、それを見ている僕は、親として、きっと耐えられないだろう。



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