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Tuesday, May 22, 2012

帰国の機内にて(1)


時計も日本時間に戻し、頭も日本頭に戻さないとな。
日本では得られない体験を通して、何を得たのかということがホントにわかる(会得)するためには、もう少し時間をかけないとダメかな。といいつつ、何となくは見えつつある。

Ashlandのcommunity groupでも、AFTAのMen's InstituteやPaulineのworkshopでも、やったことは同じ。お互いの信頼関係、それはcommitmentの力だと思うけど、そして十分に安全な感覚の中で、自分の体験とそれに伴う感情を十分に表出する。そしてそれを批判されることもなく、突っつかれることもなく十分に受け止められる。それによって、どんな逆境にあっても、潜在力が導き出されるんだ。

Men's Instituteでは、私の喪失体験をDとSが語ってくれた。
優子を亡くし、東京に戻って来た日だったと思う。保育園のママさんたちがたくさん家に来てくれて、手分けしてたくさんの人たちに電話してくれた。私も何人もの人に電話した。誰に電話したかはもう覚えていない。でもSにも電話してたんだった。
僕が落ち込み、悲しそうに語っていたらまだわかったけど、そうではなく、いかにも人ごとのように、淡々と感情を交えず、高いテンションで語っていたことが、かえって彼を心配させていたんだ。そのことは、今回話を聞くまで分からなかった。それは私に聞かせるためのストーリーではなく、彼自身の感情体験として語る必要があるストーリーなんだ。
葬儀が終わった頃だったか、また彼に電話したことは覚えている。
やっぱり、誰かプロに話を聞いてもらわないとどうもダメみたいです。
やはりそれは信頼できる人でなければならなかった。だけど、Sにとって私は近すぎる。もちろん私にとっても同じこと。Sの奥さんくらいなら大丈夫かなと思って電話したのだけど、代わりに狭い日本のmental health業界の外にいる西魔女を紹介してくれたんだ。そのことは覚えている。
Sが私のことをどれほど心配していてくれたか、3年後の今、語られる機会を得たことで、私のナラティヴに加わった。

2月の上旬に沖縄でDらとInternational Consultation Groupを計画していた。Dは訃報を聞いて、
"My automatic reaction was I would lose you."
研究上というよりも、この連中とのintimacyは逆境に陥ったからこそ必要だった。しかし子どもたちを残して沖縄に数日間行くのは僕の心情的に不可能だった。急遽場所を都内に変更して、彼らにうちに来てもらった。優子の遺影と遺灰の前で私の感情を語り、居間でmeetingを行った。夕食も子どもたちと離れるわけにはいかない。3人を連れて食事に出かけた。新宿の雑踏を、Juがじんの手を、Khawlaが祐馬の手を握り、Pingがちゅけと話しながら歩いている姿は、私と子どもたちをとても安心させてくれた。
タクシーが変な方へ行ってしまったので、Dと祐馬をふたりレストランに残さないとならない状況になった。まだ小6で英語を使えない祐馬がDの片言の日本語で2時間ほど過ごした時の様子をDが語ってくれた。初めて行くレストランで言葉もろくに通じない人と一緒のStrange situationであるにもかかわらず、Dを完全に信頼し、普通に佇んでいた祐馬の姿を印象深く語ってくれた。

このようにして、何度も何度も繰り返し語られる体験。僕自身の喪失と再生の物語がバージョン・アップされてゆく。

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