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Sunday, June 24, 2012

札幌

僕が大学に受かった春休みにひとりで四国の田舎へ行った時、おじさんが近所の居酒屋へ連れて行ってくれた。寡黙なおじさんは話題なんかない。お酒を飲みながら「たけしくん、よーきたね〜や!」を繰り返すだけだけど、懐かしい30数年前の記憶だ。

子どもたちは保育園に通う道すがら、Kさんのおうちを通るのが楽しみだった。家の周囲に植木を山のように置き、お花に水をやっているおしゃべりなおばちゃんと自然に親しくなった。始めはベビーカーで、少し大きくなると親と手をつないで歩く三人の子どもたちが順々に成長していく姿をおばさんはずっと見ていた。子どもたちを見ると「ちょっと待ってて!」」と家の中から駄菓子をくれる。子どもたちが大好きなおばさんだった。
先日、カイ君を散歩に連れ出し、久しぶりにKさんのおばさんに出合った。
あら、お久しぶり!お子さんたちは大きくなったでしょう!
はい、上のちゅけは大学生、お姉ちゃんが高校生、下のぼうずも中2なんですよ。
あらまあ、早いわねえ。
そうだよね、親とおばちゃんの時間は停滞し、子どもたちの時間はびゅんびゅん飛んでいく。
あら、ワンちゃんもいるのね。
はい、3年前からなんですよ。
そうね、お子さんがほしがったんでしょ。寂しいですもんねえ。
おばちゃんは優子のことも知っている。
でも、お父さんが元気だから良いわね!
そんなこと、犬の散歩してる姿だけでわかるの?

子どもたちを保育園送り迎えしていた頃、いったいこの子たちと赤ちょうちんで酒を酌み交わすときが来るのだろうか。遠い先をぼんやり想像していた。
それが現実になるかな。
別に今回が初めてではない。3月には函館で、4月には札幌のホテルで父子ふたりメシを食ったよな。また今回、おまえと二人で酒を飲める。おまえはどの程度思っているかは知らんが、パパにとってこれがどれほど待ち望んだ至福のときか想像つかないだろ!? だって、ただ飯を食うだけだもんな。
ちゅけ、いつも夕メシは何時頃食うんだ?今晩、千歳に7時過ぎに着くから、待てるなら駅前かどこかに食いにいくか!?
uさんのお見舞いを口実に、ちゅけの様子を偵察に行く。
だって4月に行って、連休は帰省したし、また会いにいくわけ?
マイレージと別宅があるからお金かからないしね。週末ふらっと行ってくるよ。今回は寝袋持参で。
四国のおじさんに連れて行ったときパパは確か18歳で酒をふつうに飲んでたけどなあ。ちゅけも18歳。飲まないんだろ?最近の連中はマジメだねえ!パパもママも飲めたから、おまえたちも飲めるぞ、きっと。

愛着ってなんだろう?
空気みたいに当たり前にあるから、その存在に気づかない。
ボウルビィとかウィニコットとかが愛着の欠如した施設の子どもたちを観察して「発見」した。
もともとは子どもが親に向ける感情を指していた。
愛着関係を成就して、子どもはこの世に生きていても良いんだよという基本的・絶対的信頼関係を獲得する。
その後、愛着研究も発展した。
子➡親への感情だけじゃないでしょ。夫婦間だって、親➡子どもだってある。
愛着がうまくいかなければ、
子どもは人との関係を築けなくなり、
夫婦は関係を維持できなくなり、
は思春期の子どもを離せなくなる。
始めの頃の愛着は子どもの頃に獲得すればそれで済むものだった。でも、そうじゃないでしょ。獲得して手放すものではなく、一生を通じて必要なもの、キープするものでしょ。
愛着関係は、人として生きるための根拠を与えます。
子どもは親に愛着を向け、この世に居ても良いんだ、他人は敵ではなく、自分の味方なんだという大前提を得る。
パートナー間の愛着は今を生きる目的・根拠を与える。お金を儲けたって、美味しいものを食べたって、対象と共にその喜びを分かち合ってはじめて幸せと認知できる。だれもいなかったら、お金もご馳走も確認できないでしょ。壁や鏡に向かってもダメなんだ。
別にパートナーがいなくたって生きてゆけるよ。友だちとか家族とか、だれかがいるでしょ。
パートナー間の愛着をふつうに形成できる人にとっては何てことはない自然のことだけど、できない人は苦労するんですよね。自分では誠心誠意、一生懸命やっているのになぜうまくいかないの? そんなカップルがよく相談に来ます。
ゴルフみたいなもんですよ。出来る人はふつうにクラブを振ればできちゃうし、出来ない人はいくらレッスンに通っても出来ない。何かが根本的に違うんだよね。プロから見れば、どうしてできないの?力を抜くだけなのに!? 当事者としてはいくら同じことを言われても、理屈ではわかっていても、どうしても力が入っちゃう。というか力を入れていることに気づかない。逆に焦りまくって、力いっぱい固くなっちゃうんですよ。
親が子どもに向ける愛着は、未来の意味を与えてくれるのかな。自分のいのちの延長線上に子どもがいる。

パートナーや子どもなんて、始めからいなければ別に困らないんですよ。でも一旦愛着を作っちゃうと手放すのが大変だよ。喪失の痛みはものすごい。
その中では子どもが親を離していくのが一番楽なのかな。ただし、愛着がsecureな場合ね。十二分に引っ付いてニーズが満願されたらポロリと自然に離れていける。Insecureな場合はそううまくもいかないみたいだけど。事例がたくさん教えてくれる。
自然にポロリという意味では老親を見送るとか、老いてからパートナーを見送るとか、成長した子どもが巣立つとかも自然の摂理・life courseでしょ!
それなのに、なぜオレは成長した息子をreleaseするのにこんなに苦労してるわけ?
夏休みにも下の子たちを連れて行くとか、毎月会おうとしているじゃん!
苦労するのがふつうなのかな?
Launching kidsって、実は高等テクニックなのかな? AAMFT journalでも特集が組まれるくらいだし、アメリカ人にしてみればHikikomoriも「巣立ち障害」と位置づけられるわけね。
それともオレは分離不安なのかな?優子の喪失を未だに乗り越えられず、まだ宙ぶらりんで満たされていない愛着ニーズを子どもたちに向けているわけ?
そうでもないと思うんだけどなあ、、、
普段は問題ないんですよ。北海道のことなんか忘れてしまっているよ。でも、会いに行こうとするとダメになるんだ。
まあそういうものなのかね。
子どもの頃、四国に帰省すると、帰り際におばあちゃんが儀式のようにメソメソ泣くのがお決まりのコースだった。
それで良いのかもしれない。
というより、子ども時代のシーンに条件づけられてしまっているのかな。
だとすると、子どもたちは妻を失い悲しみまくっている父親の姿を見てどれほど影響を受けているのだろうか?
少なくとも私がおばあちゃんから受けた条件づけはnegativeではない。どのようにして別れを悲しみ、どう表現するのか、感性の使い方を教えてもらったように思う。

こんなこと、獲得している時はぜんぜん気づかないというか考えもしないんだよね。
失った時に初めて気づくことができるんだ。
要するに、寂しがりやなだけなんだよ。

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