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Friday, September 28, 2012

涙の記憶


さあ、ひとりになれる至福の時間だ。
普通に新幹線で行けば訳ないのに、わざわざチャリを担いで普通列車で高崎乗り換え横川駅まで。時間が2倍かかるけど、その方がかえっていいんだ。ゆっくり自分の時間を持てるslow life。
まだ診療は予約をパンパンに詰め込むほど混んでない。昨日ちょっと頑張れば、今日はオフにできる。もう、自分のやりたいことしかやらないからね。このライフスタイル、これからもキープできるんだろうか?それともまた変わっていくのかなあ。

いや、私も相当泣きましたよ。
悲しみを思い出して泣いて、泣いたことを思い出して、また泣きはしないけど。
3年半前、山麓の病院のERで死亡が確定された瞬間、どばっと泣いたけど、すぐ次のことをしなくちゃいけないから、泣いてなんかいられなかった。子どもたちの待つホテルへ向かうタクシーの中で、あちこちに電話しながら泣きじゃくり、運転手さんに慰めてもらった。
弔問客が来て、事情を説明する旅に涙の堰が切れ。
泣きながら葬儀屋と打ち合わせしていた。そりゃあ、家族も心配するよな。
葬式の最中は感情が高ぶりちょろっと泣いたりもしたけど、喪主は落ち着いて泣いなんかいられない。
涙を誰かに受け止めてもらった方が良いのだけど、ひとりでもたくさん泣きましたよ。
電車の中で、道を歩いていて、多摩サイで自転車に乗っていて、ベッドで夢を見た後、ブログを書きながら。
授業で泣きじゃくったのも、今から考えればひどいもんだよね。まあ、学生にとっては教授が泣き出すなんて稀有な体験、害はないだろうけど、シラバスにはそんなことひとつも書いていないだろ。全く教師の自己都合だね。
2ヶ月間くらいは、別に泣こうと思って泣いたわけではなく、勝手に不用意に涙が溢れていました。蛇口が壊れていたね。

それが過ぎると、意図的にシチュエーションを選んで、「そう、今は泣くべき、泣いても良い場面だな」というときに、涙腺の蛇口を意図的に緩め溜まった涙を流してたという感じ。
・International Consultation groupの仲間がウチに訪ねて来てくれ、遺骨の前で泣き。
・ちゅけと一緒に「優子石」を作りに大阪に行き、優子の骨をすり鉢で砕きながら泣き。
・福岡のリカちゃんと会ったとたんに泣き。
・西魔女の前では1年間くらい毎月泣きまくっていたよな。

でも、そんなに長く泣いてるわけじゃないですよ。ワ―っと感情が盛り上がって泣きわめくのがせいぜい15分くらい。そしたら、とりあえず悲しみのタンクが空になるみたいな。

泣くことは辛いというか、けっこうエネルギーを使いますよね。悲しみを封印していた方が、とりあえずその場は楽なんだけど、長期的には苦しくなる。
心の中に津波が押し寄せて、圧倒されて、心の大地が水浸しになり、普通の感情生活が止まってしまいます。
復興できるんだろうかという心配。いったん心の堤防が切れたらもう防御する手立てがなく、第二波、第三波と繰り返し襲ってきて、地盤沈下してずっと水浸しになっちゃうんじゃないかと不安になります。

泣くのは恥ずかしいですよね。少なくとも男性にとって。
「男の子は泣いてはいけません。泣く子は弱虫です。」
という風に、涙はダメな行為というレッテルが貼られてきた。
確かに、子どもの涙と大人の涙は違うんですよ。
子どもの涙は弱虫の涙。自分が無力であり、自分の力をgive upして、他者の庇護を求めるアピールの涙です。
大人の涙は弱虫じゃあないと思います。強がっている防御の鎧を脱ぎ、自分の弱さに由来するわけではない、逆境から生じる否定的感情(苦しみ・悲しみ・不安・怒り)をリリースします。封印して隠しておいても、自然になくなるわけじゃないんですよ。小さな出来事なら自然忘却という手段もありうるけど、大きな出来事は決して忘れません。忘れようとすればボケて自分を失います。
悲しい現実を受け入れるしかないんです。鎧の下に隠しているということは、それをどこか自分自身でも認めない、受け入れていないということ。もうダメだ〜とgive upするわけではない、他者に救いを求め頼るる訳でもない、自分自身で苦しみの現実に向き合い、受け入れるしかないんです。それは弱虫なんかではない、すごい前向きの力ですよね。

泣きたくないもう一つの理由は、悲しみを手放したくない、ずっと持っていたい時です。
「水に流す」というけど、泣いたりして感情をリリースするということは、その感情を手放すことなんですよ。悲しみはそうでもないけど、怒りや憎しみなんかそうかな。まだ語りたくない、許したくない。表現することを拒否します。拉致被害者は絶対加害者を許しませんよね。怒り・悲しみと共に残りの人生を送る。その人のアイデンティティになっちゃった。

涙は、悲しみの感情とは限らないです。
喜び、怒り、決意などその種類は問わず、大きな気持ちを動かす時に出て来たりします。
大学4年、アメフトの最終試合に勝った時も大泣きしたな。勝っても負けても泣いてました(毎回じゃないけど)。コーチが呆れていたよ。
卒論指導の学生に「何やりたいの?」と尋ねても答えが出てこない。「何かあるでしょ、何でも良いから言ってごらん!」と重ねると、沈黙の後に泣きながらしゃべり出す。別に泣くようなことじゃないでしょ!それまで、情報を取り入れることしかやってこなかった学生たちにとって、自分の考えを表現しようとすると、感情まで一緒に出て来てしまうんだよね。そんな子が時々いたかな。

役者は芝居の中で自由に涙を流せるんでしょ?
セラピスト・精神科医は芝居じゃうそ泣きはできないけど、自分の感情を割と自由に表現できるんですよ。
もっとも、そこまでしっかりトレーニングした専門家は希有ですけど。
20代に初めて受けたときは全然わかっていなかった。一緒に受けた友人の精神科医と「すげー、女はみんなビービー泣いてるぜ。」なんて物見遊山の気分。自分が泣くはずないじゃんと思っていた。
それが変わったのは子どもが出来てからかな。
30代半ばに父親になり、保育器の息子に向き合い感動で泣いた。
40代のトレーニング中に突然男性のメンターが泣き崩れた。「エッ、壊れちゃったの?」そうじゃなかったんだ、泣いても良いんだ、崩れちゃう涙ではなく、意図して崩した涙だったんだ。目からウロコが落ちました。
男性に特化したトレーニングもあるんですよ。アメリカ男性の週末リトリート。思いっきり感情を出しまくって健全な意味でのオトコの強さを体験しました。ああいうの日本でも出来たら多くのオトコのたちが救われるだろうけど、無理だろうなぁ。

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