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Friday, July 27, 2012

しまなみ海道

せっかくモレスキンの良いノートを奮発したのに、バッグの中でお弁当のお汁がついて端っこがビラビラになっちゃった。まあこうやって下書きくらいにしか使わないからいいんだけどね。

今回の出張は仕事のついでに遊ぶというよりは、遊びのついでに仕事すると言った方が近いかな。全国いろんな場所に行くけど、愛媛は特別な思い出があるんです。東予市が母親の実家なんですよ。私のルーツ。母の実家は先祖代々続く結構大きな家で、昔はなんとか水軍とか瀬戸内海の海賊だったとか。でも戦後の農地改革で大方の土地を手放しふつうの平民に没落していったとか。子どもの頃訪ねた結構大きかった母の生家も道路の拡張で別の場所に移転してなくなってしまいました。数年前に跡地を訪れた時、こんなもんだったんだ。子どもの視点からはすごく大きなうちと思っていたのに。

お見合いで23歳で東京に嫁いで来た母は毎年お盆前後に幼い子ふたりを連れて帰省していました。父は来たり来なかったり、来ても短期間で母と僕らはできるだけ長く居たかった。母は7人きょうだいで、同世代のいとこたちが大勢集まり一緒に遊ぶのが大好きでした。どちらかというと年上のいとこの方が多かったかな。小さな庭に面した縁側にみんな裸になってすわってスイカを食べたり、おじさんの運転するトラックの荷台にみんなで載って、おまわりさんが来たらムシロをかぶって隠れるんだよとはしゃぎながら桜井海岸への海水浴。じいちゃんばあちゃんの金婚式を国民休暇村で親戚一同集まって和気あいあいと始めたのは良いのだけど、いつものごとく途中から何の話かわからないけどおじいちゃんが怒り出し、せっかくの宴会が台無しになってしまったこと。海水浴で沖に泳ぐ中学生のお兄ちゃんへ向かって泳ぎ覚え始めた平泳ぎでのんびりプカプカ浮いて楽しんでいたら突然小舟がやって来て二人とも乗りなさいと「救助」された。岸に戻ると母が涙目を浮かべている。岸から見ると潮の加減で流されているように見える。「タケシくんが流されている!」と叔母さんが騒ぎ出して親戚中でパニックになっていたそうだ。
近くの運河での花火大会。いとこたちと一緒に蚊帳を張って寝る。おにいちゃん・おねえちゃんたちの怪談が怖くて眠れなくなったこと。肥だめ式の下が明るくて見えちゃうトイレに行くのが怖かったこと。ちょっと体調を崩すとおばあちゃんにお灸をすえられたり浣腸されるのが怖かったこと。
当時は東海道新幹線ができたかできなかったかの頃。寝台特急瀬戸号と宇高連絡船と四国のディーゼル車の急行を乗り継ぐ長旅が楽しかった。
お盆も過ぎ、おばさんたちが東京や関西にそれぞれ帰って行くさよならのたびにおばあちゃんが「元気でまた来てね!」と儀式のように涙を流すのが面白く、いつ泣き始めるかじっとおばあちゃんの顔を見ていた。
怪談の夏か救助された夏か覚えていないけど、東京駅に迎えに来てくれた父親に1−2週間ぶりに再会したとたん泣き出してしまったのがとても恥ずかしかった。

なぜこんなノスタルジーの世界に浸るのだろう?再訪してしまえば40年前の記憶の世界は現実のしまなみ街道と道後温泉に塗り替えられてしまう。そうなる前に記憶を呼び戻しておきたい。
人は記憶の中に生きている。都合のよい部分だけ引っ張すんだよね。そうやって自分の歴史をつくる。子ども時代の記憶は原点だよな。

毎年親と一緒に帰省していたのは小学生くらいまで。その後は親と行く機会はなくなった。久しぶりに訪ねたのは大学1年の夏。1ヶ月ほど伯方島のおばさん宅に滞在してフェリーで今治まで毎日教習所に通った。路上が田んぼ道だったからか、おばさんが教官にビールを1ダース付け届けしたからかわからないけど、普通何度も落ちる路上検定を一発で通してくれた。夜は叔母さんの家で高校生のいとこの家庭教師。今回は松山に住むそのいとこと飲む予定だ。叔母さんの家にもフェリーではなく自転車で訪ねる。そういえばもっと昔、車を載せるフェリーの前は小さな渡し船だったよな。椅子席ではなく畳の客室から船縁に手を伸ばせば鏡のように穏やかな水面に届くほど近く、舟から眺める瀬戸内海の島々は素朴でホントに美しかった。

自転車で橋の上から眺める島々の風景はきっと違うんだろうな。昔の記憶が今の印象に上塗りされる前に原風景をしっかり思い出しておきたい。いや、上塗りされたってちゃんと記憶には残っているから心配する必要はないのだけど。。。

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