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Friday, May 1, 2009

母親を失うこと


優子

子どもたちにとって、母を失うってどんな意味を持つのだろう? 一見、3人とも元気にやっているよ。父親が気にしているだけで、生活面でも、心理面でもごく普通だ。 僕は子どものころ(どころか、今でさえ)親を亡くしていないから、彼らの気持ちは体験的にわからない。大人が妻という愛着対象を死別により失う体験はわかるんだけどね。...(ママのお墓から海を望む祐馬)...

僕自身が子どもたちの年齢のころ、親が死んじゃうなんて考えただけで想像を絶する、絶対考えたくもない、ありえない現実だった。それを、3人の子どもたちは経験しているんだからね! 

よく、みんなから言われるんだ。子どもは生命力があるから大丈夫。むしろ、妻を亡くしたTikiさんが心配よ、なんてね。もしそうだったら気が楽なんだけど。。。

確かに、子どもにとって大切なのは、安心して育つことができる環境だ。つまり、日常生活での安心・安全。そして、彼らを愛し、守り、大切に思ってくれる愛着対象。なんといっても彼らを産んだ優子は、愛着対象のNo.1だからね。それを失った痛手は大きいと思うんだ。でも、愛着対象の代替可能性について、この3-40年考え方は変わってきている。以前であれば、母親の絶対性が強調された。3歳児神話のように、子どもの愛着対象は母親がベストで、他の人はいくらがんばっても母親にはかなわないという考え方。優子と僕は、その考え方は乗り越えたはずだよね。だから、子どもたちを1歳のお誕生前から保育園に預けていたし。おかげで、園長やつんちゃんなど、子どもたちにとって大切な愛着対象を家庭外に見つけることができた。今でもそれは祐馬の心の中に根付いているみたい。 そう考えれば、ママがいなくても、パパやじじばばや、まわりの人たちが彼らを暖かく守り、愛情を注いであげれば、大丈夫だ、心配することはない、という仮説は十分に成り立つはずなんだけど。

僕は7歳のときに祖母を亡くし、自分という存在も死とともに消滅するんだという強烈な現実に向き合わされた。それは、恐怖でありトラウマ体験であったと同時に、僕の現実(人生?)は、そこからスタートしたように思う。 ちゅけ祐馬はそれぞれ高校・中学に進学し、すごくがんばっているんだ。こんなにがんばっちゃって大丈夫なのと心配するくらい。僕がブログを書かずにはいられないように、彼らも母を失った耐え難い不安・寂しさを、がんばることによって補おうとしているのだろうか。辛いと思うんだけど、それが創造性という形に昇華されれば、受験世代の彼らにとっては好ましいことだ。僕の7歳がそうだったとしたら、一見まだ何も考えていなくてマイペースのように見える10歳のじんも、内心はいろいろ感じているのかもしれない。 

人は誰でも、人生のどこかで現実にぶち当たる日が来る。子どもたちにとっては、僕が同居していない祖母を失ったのとは比べ物にならないくらい、大きな、厳しい現実のはずだ。彼らはそれに耐えられるのだろうか?それを糧にして、乗り越え、大きくなってくれるのだろうか?

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