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Monday, February 23, 2009

子どもたちの愛着対象

優子

今日は、子どもたちのことを考えてみよう。
3人とも、とりあえず元気にはやっているんだ。
ちゅけは今日が最後の高校入試。電車の事故で2時間遅れの開始だったけど、元気に受けてきたよ。
祐馬は水泳も行っているし、学校でも元気そうだ。ピアノの方はあまりやる気がしないとか言ってたけど。
じんは、半分以上じじばばのところが生活の場になって、それなりに安定しているとは思う。最近、体操を始めたいというので、池上スポーツクラブに体験入学させたら、やりたいとか言っている。まあ、新しいことを始めるだけの元気があると考えていいだろう。
このように、祖父母やまわりの友だちに支えられ、日常生活的にはなんとかなってはいるけど、ホントに大丈夫なのかな?

もし僕が、子どもたちの年齢で親を失ったら、、、と想像したら、恐ろしくなるよ。まだまだ、子どもたちにとって、親は絶対的な存在で、親がいるから、この世で生活できるんだ。もし、親を失ったら、自分が生きていけなくなるくらい、不安で恐ろしくなると思う。
そんな状況に、突然突き落された子どもたちの心中は、ホントのところ大混乱しているのだと思う。息子ふたりは、そぶりに見せないけど、娘は時々、サインを出してくる。それを見逃さずに、キャッチしてやることが大切だな。

子どもにとって、一番身近で大切な存在である母親。
失う時期が、もう5年早かったら、もっと大変だっただろう。今なら大丈夫というわけでは決してないけど。

Pecking order、あるいは歌のベストテンでもいいんだけど、第一位がいなくなったら、第二位が自動的に第一位になるんだよね。子どもたちが小さい頃そうだった。寝付かせる時など、子どもがママにひっついている時に、僕がやってくると、子どもに蹴飛ばされ、母子一体のexclusiveな関係が維持され、第二の親である父親はカヤの外に置かれていたわけだ。しかし、優子が仕事で遅くなったりして、いない晩は、僕が一時的に愛着対象第一位に繰り上がり、僕にひっついて寝たりしていたよ。

子どもにとって、無条件の愛情と安全が得られる心の基地としての愛着対象が必要であることは確かだよね。その役を担うのは母親でなければいけないのか、あるいは、他の人でもどうにかなるのか。
一昔前は、それは絶対的に母親であるべきで、代役じゃあいま一つ落ちるという考え方でした。昔の保育園とかひどかったし、夫婦の性役割分業が固定されていたから、外部の保育者や父親はあまり考えられなかったのでしょう。でも、今は、愛着対象の代替性が平気で言われてきているように思います。
うちの子どもたちはお誕生前から保育園に預けているからね。祐馬は園長とかつんちゃんにベタベタ甘えていたし。ふたりの息子たちはドライというか、それほどベタベタしなかったけど、保育園の先生たちが十分愛着対象として機能していたのだと思う。

それでも、子どもが小さいほど、母親の柔らかい肌のスキンシップの必要度は高いのだと思う。ゴツゴツの父親ではどうしてもかなわない面もあったと思う。
幼児期から思春期へと、直接の肌のふれあいを介した身体的な愛着から、段々と、言葉やコミュニケーションを介した心理的・精神的な愛着に変わっていくんだろうね。後者なら何とか父親でも何とか代役が務まりそうだ。それに、思春期以降親から離れ、精神的な絆を外部の友だちとか恋人に求めるようになってゆく。そういう意味で、愛着対象としての母親のニーズは、徐々に後退しつつある時期ではあったんだろう。

じんは、もう半年くらい前から、母親へのスキンシップを脱しようとしていたよね。代替として、父親には来ないで、なぜかじじのところにゆき、おじいちゃんに体の一部をひっつけて寝ている。じじの体調が悪ければ、ばばのところに行くし、夜遅くまでテレビを見たいときには、しかたなく、パパにひっついているから、彼の身体的愛着のニーズはかなり低下し、また代替的なのだと思う。あと、兄貴におんぶしたり、とびかかったり、じゃれあう触れ合いの中で愛着欲求を満たしているところもあるみたい。そういう意味では、家族の中に何人も対象となりうる人が揃っているので、どうにかなるのかもしれない。

それより、これから大切になってくるのが、精神的な愛着対象としての役割だね。幸か不幸か、祐馬は、いつもの調子で結構demandingにそれを父親にも求めてくるよ。そういうサインを出してくれるから、それにうまく答えていくことができればいいのだけど。
息子たちはそういうそぶりをあまり見せないからね。かといってそのニーズがないはずはないので、どこまでやってあげたらよいのか、いま一つわからないよ。

優子と祐馬はケンカしつつも、母親に愛着対象の役割を求めていたよね。というか、母親を差し置いて、父親を子どもたちが選んでくれるかというとそうでもなかったから、父親の僕は手を出せなかった、出しても受け入れてもらえなかったという面もあったんだ。
でも、子どもたちが愛着対象第一位を失った今は、僕のやり方によっては、うまくその役割を引き受けられるかもしれない。というか、引き受けなくちゃいけないんだ。
そのためには、子どもたちが物理的にも、心情的にも、アクセス可能な近い距離に居てあげないといけないんだ。愛着を押し付けるわけにはいかない。こちらからベタベタ寄ってきても、蹴飛ばされるか、逃げられるだけだ。

ただでさえ、不安定で、自立と依存の葛藤に悩む思春期に、チュケと祐馬はすでに入ってるし、じんも2-3年後にはそうなるだろう。感情がとても豊かというか煽情的な祐馬は結構手ごわそうだな。手こづるかもしれない。チュケとじんは、同性の強みで何となく気持ちがわかる部分もあるし、あまり入り込まず、しかししっかりと外側から見ていてやろう。

僕が、しっかり安全基地を果たせれば、そこから巣立つのもそう遠くはないだろう。僕自身の場合、親から精神的に巣立ったのは二十歳前後だったと思う。それを過ぎれば、あとは経済的な支援と、結婚式のエスコート役くらいなものだろう。
(祐馬のエスコート、オレぜったいできないよ~。きっとグショグショに泣いちゃうよ~)

1 comment:

  1. 再び豊穣な内容の書簡、読ませていただきました。

    全般的に実に考えさせられることの多い書簡でした。
    専門家としてお気づきだと思いますが、今回書いていらっしゃることは、
    「母親を、あるいは父親を亡くす」ということがなくても、つまり
    私と妻が健在のような家庭でも成り立つ、あるいは進行しつつあることなのですよね。

    その意味で、とても参考になり、また考えさせられ、勇気づけられました♪

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