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Tuesday, August 25, 2009

静かな草津

今日から、また草津に来ている。
2週間前、家族と仲間で過ごした草津がだとすれば、
今回の草津は、
二泊三日の研究室ゼミ合宿。学生たちは群馬大の草津セミナーハウスに泊まり、僕はひとり、家から通ってくる。昼の活動を終えれば、夕食以降は学生たちと離れ、完全にひとりになる。そんな時間、普段の生活の中でめったにないもんなあ。

それはおそらく純粋な孤独と静謐だ。(村上春樹『1Q84』第18章)

村上の作品には、よく孤独が出てくる。
「海辺のカフカ」でも、田村カフカ君は、3日間、山の家で完全な孤独を味わう。

これから、僕が直面するのはこれかもしれない。
優子を失ったことで、悲しみは十分味わった。
優子がいた状況から、いなくなった状況への変化が悲しみとなる。
気持ちの中ではまだ生存している優子が、現実には消失してしまったという落差。
この次のステップ、つまり、優子の存在の消失を僕の気持ちが請け負う事が出来たら、次にでてくるのは、実存的な孤独だ。
生存的な孤独でない。優子がいなくたって、十分に生きていくことはできる。
衣食住は満たされ、愛する子どもたちも、老親も二人ともいる。支えてくれる仲間たちもいる。
やりがいのある仕事も、社会に認められるポジションも持っている。
まっとうに生きて行くことに、なんら支障はない。

でも、実存的にはどうしようもなく孤独だ。
ジャガイモか、ゴルフコースのグリーンをイメージする。
じゃがいもの芽を取り除くために、あるいは、旗ざおを立てるために、道具でグリグリと穴(ホール)を開ける。すると、それまで何もない平らな面に、とつぜん、ぽっかり穴が開く。
穴が開いて初めて気がつく。それまで、自分の一部だと思っていたものが、実は、優子とか、子どもとか、家族とか、他の人が境い目なく詰まっていたのだって。

生きがいって、結局のところ、人との関わりの中から生まれる。
家族でも、友人でも、神でもいい。有意なる他者に照射されることで、自己の存在が意味を持つ。有意なる他者を失うと、自己の存在、生きる根拠も失う。

「だから、孤独は、精神健康に有害ですよ。うつや自殺につながります。
孤独は避けましょう。共感し、寄り添いましょう。」

僕自身、孤独になることを恐れてきた。
というか、今まで、僕のグリーンに穴があくことはなかった。
いつも、有意な人で満たされ、安心感に満ちていた。
優子を失ったのは、生まれて初めての大きな喪失体験。
それを、この半年間経験してきて、喪失しても、生きていけることを初めて体験した。
辛い。でも、その辛さと共に生きながらえることも可能なようだ。

僕は、完全な孤独ではない。
優子というどでかい穴が空いたことで、表面がスムーズなグリーンの他の部分の下には、自己の存在を照射できるたくさんの人が隠れていることに気づいた。子どもも、親も、仲間もいる。その存在を自分のグリーンの中に埋め込んで、自分というグリーン(存在)がなりたっているんだ。優子が抜けた穴はでかい。でも、それがすべてではない。穴が開いたら危険だ。わらでも泥でもなんでもいいから、すぐに埋めないと、グリーン全体が崩壊してしまう、と思っていたけど、そうでもなさそうだ。穴は穴としてぽっかり開いたままのグリーンがあってもいいのかもしれない。攻めるのに相当難しいグリーンにはなるけど。でも、まっ平らのグリーンというのもつまらないでしょう。アンギュレートしているグリーンのほうが妙味があって面白いじゃない。ちょっと危ういけど。

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