Send your message to lettertoyuko@gmail.com


Thursday, January 28, 2016

父の終焉日記:1月28日

泣き虫のパパは、例によってお葬式でたくさん泣いていたけど、ママの時とはぜんぜん違う涙なんだよ。ママの時は悲しみの涙、今回は「ありがとう」の涙なんだ。

  • パパを誕生させてくれてありがとう。
  • パパを育ててくれてありがとう。
  • パパを見守ってくれてありがとう。

ママん時は対象喪失の涙だった。自分にとって必要な人が剥がれるような痛い悲しみ。心にポッカリ穴が空いてしまって、、、みたいな。
じいちゃんは、パパにとって「必要」な人だった。過去形だね。今でももちろん大切だったよ。でもじいちゃんはパパにとってセミの抜け殻みたいに、幼虫の頃は大切な身体の一部だったけど、もうとっくに脱皮しちゃった。現役選手を引退して野球の殿堂入りしたというか、大英博物館のロゼッタ石みたいに、大切な過去の遺産、歴史上の人物なんだ。そりゃあ、失うのは人類遺産の喪失だけど、別に現代社会を生きていく上で全く支障はない。
ママは45歳でじいちゃんは86歳。およそ倍だからね。ママん時はルール違反でアウトだったけど、じいちゃんは全然セーフだから。

おじいちゃんはパパに何を残してくれたんだろう、、、って考えていてね。
1)DNAを残した、というか受け継いだ、ということをじいちゃんは言っていたけど。残す側にとっては大切で、残される側にとっては、だからそれで何なの?っていう感じかな。残す側の立場から言うと、パパも3人の子どもたちにDNAを残して。自分の存在が消滅した後も、DNAという情報形跡が子どもたちに残っている、自分が子どもたちの中に生きているという感覚は確かにホッとすると思うよ。
残される側にとってみれば、DNAの情報、つまりじいちゃんから遺伝形質として受け継がれたもの:身体の特徴とか、運動神経とか、性格とか、アタマの良し悪しとか、、、遺伝病もあるし、精神病は遺伝ですか?なんてよく患者さんは聞くけどね。まあそういうのがどこまで遺伝(先天的)で、どこまでが環境(後天的)かってのも微妙だからね。別に、私は親の遺伝子が身体の中に入っていて、なんて意識はしないよね。まあ、どうでも良いことだけど。
2)遺産は都内の小さな土地と、ちょっとの貯金と、大したことないけど、少なくともマイナスの遺産ではない。遺産ってお金とか財産とか残してくれるものとイメージするけど、その反対に親が借金してそれを引き継がないと行けないっていう負の遺産も結構あるんだよ。
3)を残してくれたんだよ。じいちゃんは、家族に愛を教えてくれた。人を愛することってどういうことかを具体的に示してくれた。これが一番大きいよ。
そのことは、じいちゃんが死ぬまで気づかなかったんだ。じいちゃんが子どもの近くにいてくれた、認めてくれていた、大切にしてくれていたってのは前々からわかっていたけど、それが「愛」なんだってとこまでは考えなかったね。

愛って何でしょう?
それは心理学的にも定義するのは困難なんだ。だってあまりにも主観的な感覚でしょ。哲学も、文学も、芸術も、みんな愛をテーマにしてるよね。文学や芸術は愛を主観的に象徴的に表現して、心理学は愛を客観的に説明しようとするけど、よくわかんないや。
あなたが好きだよ、大切だよ、他の誰より大切だよ(友だちだったらそういう独占欲はないよね)、あなたは良い人だよ、肯定的に承認するよ、あなたは生きている価値があるよ、私にとってあなたが居ることが必要だよ、、、そんなことを言ってくれる他者との関係性が愛なんじゃないかな。愛は人間関係の形態様式のひとつなのかもしれない。

生きるためには愛が必要なんだ。愛がないと生きていけない。愛があるから自分の価値(生きがい)が見出される。愛が失われると、自分の価値も失われる。自殺した人の話をだどってみると、こういうのが欠けているんだよね。

成長するためには、親の愛が必要なんだ。
家の中で安全に大きくなるには母の愛(守る愛)が必要で、成長して家族から社会に自立していくためには父の愛(放す愛)が必要なんだ。
自分の家族を作り子孫を残すためには夫婦の愛が必要になる。

あと、死ぬためにも愛が必要なんだってじいちゃんを見ながら思ったよ。愛って安心を提供するんだ。安心の中で成長して家族を作り、安心の中で人生を終わる。じいちゃんは病院じゃなくて家に居て家族と一緒に最後の時を過ごしたかったんだ。ばあちゃんに「お水ちょうだい!」って甘えて、子や孫が不自由になった身体の世話をして「ありがとう」って言えるのが安心だったんだよ。成長するのも、家族を作るのも勇気がいる。死ぬことだって勇気がいるよね。それを平穏の中でこなすためにも、愛が必須なんだ。
ママの時はそんなこと言っている間もなく瞬間移動だったから関係なかったけど。

じいちゃんは、とても分かりやすく、受け入れやすいカタチで愛を示してくれたよ。パパが小さい頃も、「パパのおっぱい」の逸話じゃないけど、物理的・心理的にそばにいてくれた。承認もたっぷり与えてくれた。パパが高校でアメリカ留学したいと思ったとき、ばあちゃんにとってはそんなの想像を絶することだっし、高校の担任教師はおまえ大学行けなくなるぞって反対したんだ。その時、じいちゃんが「行ってこい!」って承認してくれて、実現できたんだ。
ママが死んでからもじじばばがパパや子どもたちをたくさんサポートしてくれたのは子どもたちもわかるよね。今だから言うけど、ママが死んだ直後に保育園の園長にじいちゃんが「息子に良い人を探して下さい。」っていう手紙を出したんだよ。じいちゃんは、ひとりになったパパのことをずっと心配していたみたい、あまり態度には示さなかったけど。そんな風に、じいちゃんから見守られてるなっていう安心感はパパの心の中にずっとあったと思う。半年ほど前まではね。

パパは仕事柄たくさんの家族の心理をみてるけど、ほとんど例外なく親は子どもを愛しているんだよ。でも、その愛し方がとても分かりにくい場合が結構ある。親が普通に平常心でいれば子どもにも愛を素直に伝えられるんだけど、親の気持ちに変なものが挟まっていて、不安とか、過去の怖れとか、痛い失敗体験とかがあると、親から子へ(あるいはパートナー間で)愛がヘンに曲がったカタチで伝えられてしまう。怖くて子どもに心理的に近づけなかったり、怒りや暴力や過干渉で愛を示したり、心配で子どもにひっついてしまい離せなくなりお互いに苦しくなったり。ホントはもっと良い愛を子どもや家族に伝えたいと思いながら、それが出来ずに「あーダメだ」なんて自信をなくしている親がけっこういるんだ。
母親の愛ってイメージしやすいけど、父親の愛ってなかなか難しいし、仕事して忙しくて、男性の家庭内の役割ってのが見えにくいんだ。その辺りがパパの専門なんだけど、母親の愛は家の中で暖かく見守ってすくすく成長するって感じ。父親の愛は自立する勇気を与え、社会の中で独り立ちしてうまくやっていけるよという自信を与えるんだ。多くの家族ではそれが十分でなくて、外に出られずひきこもりになっちゃったりする。たとえば、母親の世界は小さい子に「道で知らない人に声かけられてもついていっちゃダメよ!」と外部の危険から守る愛だからね。子どもが大きくなっても、相変わらずそういうメッセージを与え続けている親ってけっこういるんだよ。びっくりぽんだけど。それに比べて、父親の世界は「知らない人にも思い切って声をかけてごらん!」の世界だから正反対なんだよ。

パパの心の中には、おじいちゃんやおばあちゃんからもらった愛のストック(備蓄)がたっぷり貯まっている。だから、子どもたちやママにも難儀せずに愛を与えらるんだと思う。まあ子どもたちがそのことを実感するのはパパが死ぬまで待たねばならないかもしれないがね。学生や患者さんたちに与えているのも愛なのかもしれないなって最近思うようになってきた。じいちゃんが目に見えて弱ってきたこの半年くらいは、その愛のフローが「父親➡息子」から「息子➡父親」に逆転した感じでね。老親の介護ってけっこう大変だけど、パパの場合はあまり苦労せずに死に行くじいちゃんに愛と安心を与えられたかな、なんて思ってるんだ。

おばあちゃんの場合は、既にかなり前から「息子➡母親」に逆転していたような気がする。ばあちゃんについては、これからの課題だから、またよく考えるわ。

No comments:

Post a Comment