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Saturday, January 16, 2016

父の終焉日記:1月15日

子どもと姪たち(つまりおじいちゃんの5人の孫たち)へ

おじいちゃんの最後は、おばあちゃんと子ども二人(私とおばちゃん)で看取るから、孫たちはそこまで参加しなくても良いよ。もちろんしたければしても良いけど、自分自身の生活もあるでしょう。でも、おじいちゃんのことをは気になるよな。私からLINEで逐一報告しても良いのだけど、そうすると必然的に関わらせてしまうことになるでしょう。だから、こっちの場で報告しておくね。そうすれば、見たいときに読みに来れるし、忙しくて読みたくない時は読まなくて済むから、自分のペースでじいちゃんのことに関わって下さい。

1月12日は私が一日休みを取って、午前中に日赤を退院して介護タクシーで家に連れて帰り、訪問看護師とケアマネさんとヘルパーさんと、みんな呼んで、家で作戦会議を開いたんだ。看護師さんには入院前の週3日から毎日に増やしてもらい、ヘルパーさんも新たに毎日朝と晩に2回ずつ入ってもらう。医者の往診は以前と同じで週1回。

うちの場合は、病院にまかせちゃったが、そりゃ自分ちで死ねたらお父さんも幸せだろうな。

じいちゃん本人にしてはそれが一番良いし、耳が遠くて外出や人との会話が大きな負担になるばあちゃんにとっても病院まで見舞いに行かなくて済むという点では都合は良いのだが、病院で専門のスタッフが看護してくれる分を家でやるってかなり大変なんだよね。それをカバーするのが介護保険で、在宅介護・在宅医療も最近はかなり体制が整えられてきた。でも、問題はそのやり方にじいちゃん・ばあちゃんが慣れるかってこと。
じいちゃんはそれほど抵抗ないというか、受け身でケアされるのは病院でも自宅でも変わらないから楽チンなのだが、問題は耳の遠いばあちゃん。いろんなスタッフが入れ替わり立ち替わり家に入るのはかなり負担なようだ。スタッフとの作戦会議の場で感情的にキレて、「みんなでよってたかって、そんなのイヤだ!」と言っていたが、ばあちゃんには合理的に考える力は衰え、不安感情に支配されている。子どもを諭すように言い聞かせて、慣れてもらうしかない。

じいちゃんは認知症は入ってなく、ちゃんと考えられるはずなんだけど、生きる意欲の低下とともに、せん妄状態に入ってきた感じ。「せん妄」とは認知症とは違うんだけど、意識レベルが低下して、幻覚や妄想が出てきてしまうんだ。特に夜にそうなるのが「夜間せん妄」といって高齢者や重い病気の人にみられることがある。一時的にわかんなくなっちゃうけど、昼間になればもとにもどる。病院でも何度かベッドから落ちちゃったらしい。家でも夜中の2時くらいに下のばあちゃんから私にインターフォンが入って「たけし、すぐ来て!」というんだ。今度は何が起きたのだろうかとドキドキで一階に降りると、じいちゃんがベッドの隣の床に寝てるんだ。2階に寝ているばあちゃんは夜中も心配で時々じいちゃんを見に来るんだ。じいちゃんは意識はあって、ヘラヘラしながらこっちをじっと見ている。「じいちゃん、どうしたの?なぜ床で寝ているの?」と尋ねても、「うん?何だよ?俺は死んじゃったんだよ。ここは死んでるのか?」と的外れな応答だ。仕方がないので抱きかかえてベッドに戻したら、「ありがとう」。ばあちゃんを2階に戻して、しばらくそばにいて様子をみていると、「たけし君、もう大丈夫だから行って良いよ。」だいぶせん妄が回復して正気に戻ってきたようだ。この間、小一時間ほどでボクもじいちゃんのところを離れた。

上に戻ってもしばらく寝られずメール書いたりしながら考えていたんだ。じいちゃんもばあちゃんも、すっかり子どもに戻っちゃったってね。「ベンジャミン・バトン」っていう映画ちょっと前にあったの知ってる?主演のブラッド・ピットが老人で生まれて、年取るごとにだんだん若返ってきて、赤ちゃんになって一生を終わるっていうストーリー。
じいちゃんもそんな感じだなって思ったね。親子が逆転しちゃった。私が小さい頃は父親が大人だったけど、今は私が大人でおじいちゃんが子どもになっちゃった。そんなおじいちゃんを抱きかかえていると、昔の記憶が何となくよみがえるんだよね。
私が2歳の時、生まれてきたりょうこおばちゃんにママを取られて、パパと寝るようになったんだ。2歳まではママのおっぱいを触って寝ていたんだろうね、その記憶はないんだけど、おじいちゃんのおっぱいを触っていた記憶はあるんだ。4歳、5歳くらいになってもずっとそうすると安心して、子どもながらに恥ずかしかったけどやめられない。もし小学生になってもパパのおっぱいを触るのやめられなかったらどうしよう、、、と焦っていたことは憶えている。今だから言えるけど、子ども時代は恥ずかしくてこのことは誰にも言えなかったんだ。
ふつうだと、幼児は母親に主な愛着を向けるのだけど、私の場合、専業主婦で接する時間が長かったママもだけど、パパともこうやって幼児期の基本的な身体的愛着が形成されていた。その後もスキーに行ったり、いろいろ触れ合った思い出がある。私が小さい頃は、父親が優しく身近に居てくれたんだ。今は立場が逆転して、小さくなった父親のそばに居るだけなのかなって、そんなことを考えていたよ。

子どもが生まれ眠りから覚め、成長してだんだんわけがわかってくる頃、まわりに家族がいて安心して成長した。
それと同じように、人生の終わりにだんだんわけがわかんなくなってきて、まわりに家族がいて安心して眠りについていくんだろうね。

今、おじいちゃんはベッドに寝たきりだ。トイレさえ行けずにおむつだし、食事もほとんどとらなくなった。今おじいちゃんが唯一できることは、
「おばあちゃん、喉がかわいた。お水ちょうだい。」
幼児の様に妻に甘える。
するとおばあちゃんは「はいはい」と文句も言わず、じいちゃんの面倒を見てやる。
じいちゃんは、「ありがとう」と満足そう。
そんなやり取りだけが残っちゃったんだよね、今のじいちゃんは。

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