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Tuesday, January 26, 2016

父の終焉日記:1月26日

いつも見てる朝の連ドラ、消しちゃったよ。
人の物語を見てるより、自分の物語を消化するのが精一杯だから。

今は、正直ホッとしている。
良いお葬式だったよね。
子と孫だけで、ゆっくり悼む時間を取れたよ。
お葬式の前の「湯灌」ってああやるんだね。私も初めて見たよ。ひげを剃って、背広を着せて、じいちゃん、最後も男前にかっこ良くなっちゃって!

式は坊さんの読経の替わりに、喪主の私がたくさんしゃべったでしょ。
じいちゃんの病気の経緯を紹介して。
58歳で人間ドックで左腎臓ガンが発見されて以来、29年間がんばったんだよね。69歳ですい臓・十二指腸・胆のうを切除して、81歳の時に日赤にて肺転移が見つかったけど、もう手術はしないって。だいたい、膵臓がんの術後5年生存率は5%以下だからたいしたもんだよね。

去年の6月に頸椎への転移が見つかって、首のコルセットと在宅医療も始めたけど、まだそれなりに元気だったよね。10月、兄貴の新太郎おじさんの四十九日に四万温泉まで連れて行った時、「疲れた〜」とか言ってたくせに妹たちの前だと偉そうな兄貴風を吹かせてすごく元気になったんだ。じゃあそういう機会を作ろうと思ったのが12月6日の「じいちゃんの話を聞く会」ね。mp3で流したんだけど、ここにも張り付けられるかな?(ダメだ、音声ファイルは張り付けられない)
今年の元旦に集まったときも、まあ元気だったよね。でも、7日に転倒したのが命取りだった。右手が麻痺して、寝たきりになって。本格的に在宅医療を開始して、じいちゃん的には良かったけど、ばあちゃんにとってはえらいことになっちゃって。でもその期間も10日間ほどで、あっけなく天国に逝っちゃったよ。
最後の日も朝に、「じいちゃん、行ってくるからね!」と私が仕事に行ったときは、意識はちゃんとしていて、でも言葉がもう出なくなってたから、はぐはぐ口を動かすだけで、何を言ってるか分からなかった。まあ、この調子だとあと1-2週間かなとLINEで孫たちにメッセージを送ったよね。その直後、9時すぎにヘルパーさんから電話が入り、「世話していると、どうも様子がおかしいんです。息をしてないんです。」ということで、もう来ちゃった患者さんひとりだけ診て、その後の予約を全部電話でキャンセルして、急いで家に戻った時はすでに急遽往診してくれたお医者さんも帰っていて、じいちゃんの遺体と死亡診断書だけが残っていたよ。どうも看護師さんたちも含めて4-5人やってきて、身体もきれいにしてくれたらしい。さすが、慣れているよね。

ってなことを長々と私がしゃべって、あとはみんながお焼香して式はおしまい。
その後の会食が盛り上がったよね。
きょうだい会みたいになっちゃった。新太郎おじさんのお葬式の時もそうだったけど。
じいちゃんのきょうだいって仲が良いんだよ。私が子どもの頃はきょうだいたちが子どもたちを連れて四万温泉や交代でいろんなところに集まったんだ。そうすると、歳の似た20人くらいのいとこたちも集まるもんだからみんなで遊んで、幼い頃の楽しかった記憶なんだ。そういう親族の同窓会みたいな。おばさんたちだけを呼んだんだけど、いとこも4人くらいくっついてきてね。私とおばちゃんも含めて6人の「いとこ会」にもなっちゃった。ホントはもっとたくさんいるんだよ。
じんがいとこのねーちゃんたちと親しそうにしゃべってるのは見ていて感心したよ。ふだん家では見せない顔だからね。ちょっと離れたいとこたちとは良い感じになれるんだよな。子どもたちきょうだいもこれから離れていけば、もっと気楽に仲良くなれるようになるんだと思う。今は、まだライバルで競い合っているというか、まだ子どもの部分をぶら下げているんだ。と言いつつも、3人とも大人になって来てはいるけどね。

次の日(昨日)は妻・子・孫の6人だけで斎場へお見送りして、じいちゃんはお釜に入って50分くらいで焼き上がっちゃった。最近のオーブンはずいぶん進化しているんだねえ。昔はもっと時間がかかっていたのに。お昼には遺骨と一緒に家に戻ってきて、
はぁ〜、終わったねえ、、、。
あっという間の出来事だったよ。

Saturday, January 23, 2016

父の終焉日記:1月23日(命日)

孫たち、集まってくれてありがとう。
今日の予約をキャンセルした患者さん方、済みません。
今日は、家族をまとめ、手続きを進めるのが精一杯で、気持ちはまだ出てきません。
少なくとも、優子の時みたいに感情が否応なしに溢れてくるようなことはないけどね。

Friday, January 22, 2016

父の終焉日記:1月22日

人生って登山みたいなもんだね。
登山口から、しばらくは樹林帯の中を登っていく。見通しは利かず、どっちに行くのかよくわからないまま、急登をあえぎ進むしかない。子どもたちはまだここなんだよ。
5合目くらいまで登ると樹林帯を抜け、見通しが開けてくる。姪たちはこのあたりだよ。まわりの眺めは見えてくるけど、頂上と思って見上げる頂は実は前山で、前山に着いて、隠されていたホントの頂上がやっと見えてくる。
私はおじちゃん・おばちゃんたちは3000m級のピークが連なる稜線を歩いている。もう最高峰は過ぎ、そろそろ高度を下げる時期に来ている。
ママはピークの稜線から足を滑らして、突然下まで急降下しちゃったよ。
じいちゃんはゆっくり山を降りている。すい臓を取り、退職してから20年。のんびり下降してきて、いよいよ最終段階に来ている。

もうあまり食べなくなってきたんだ。栄養剤ジュースをひと缶飲むくらいだよ。だんだんと、干涸びてくる。水分は取れているけど。
認知もゆっくり落ちてきている。現実世界と夢の世界と、行ったり来たりしながら、だんだん夢の世界に多く入ってきている。

上手に降りるって難しいんだよ。
ママは乱暴に無理矢理急降下しちゃった。
その点、じいちゃんはゆっくり良い降り方をしているよ。
20年前に社会的役割をリタイアして高度を徐々に下げてきて、2週間前から最終着陸体制だ。シートベルトを締めて。
身体の自由も、食欲も、認知も、同時並行でゆっくり降ろして来ている。着陸に際して苦痛も、恐怖も、不安もない。ソフト・ランディングだな。

飛行機も、離陸と着陸が一番むずかしいんだよね。
すごいエネルギーを使って滑走路を走って、地面から離れて飛び立つって怖いし、難しいし。
巡航高度まで上がり、気流に乗れば比較的楽なんだよね。時々乱気流でガタガタいうけど、まあ多分大丈夫。
着陸する空港は決まってないんだよね。ハワイか、サンフランシスコか、ニューヨークまで行っちゃうのか。でも、やがて高度を下げていってゆっくり地上に降りるんだよね。急にタッチダウンすると機体や乗客が傷つくし、ソフトに降りるんだよ。

父の終焉日記:1月21日

じいちゃんが退院してきて今日で9日目。
状況は見えてきたんだ。

じいちゃんの状態は、
1) 呼吸や心臓は問題なく、
2) 意識は夜間は夢の中みたいになって、昼間は正気に戻る。
3) 右手は動かず、左手はまあ使える。
4) 足は動くけど立つことは出来ず、介助して上体を起こすのがやっと。
5) 食事はばあちゃんが介助して流動食をある程度は摂取できる。
6) 水も口から飲むことが出来ている。
7) 排泄はベッド上でオムツ。
8) 痛みは薬でコントロールされている。
9) 歩くことも、できないこともたくさんあるけど、不快感は強くない。
10) 気分的には「ありがとう、、、」みたいにまあ落ち着いている。
この状態は9日間ほぼ変わっていない。

それに対して、ケアマネさん(care manager。介護保険を使って介護のプランをコーディネートしてくれる人)と相談して、
・ヘルパーさんが土日も含めて毎日2回、朝晩に30分ずつ来て排泄の介助と薬の服薬
・看護師さんの訪問が土日も含めて毎日
・お医者さんの訪問が週1回
・訪問入浴が週1回
・リハビリマッサージが週1回(手足をマッサージして固まらないようにしたり、できればもっと動かせるようにする)
というプランにしたんだ。
今のじいちゃんの状況では、これ以上でも、これ以下でもないかなというところで、介護する私としては落ち着いたし、じいちゃんも「ありがとう」って落ち着いている。
ばあちゃんもスローペースで落ち着きつつはある。退院した日にはじめてケアマネさんに会った時には、「もう、こんなにたくさん人が来て、イヤ!!」ってパニクってたけど、今日くらいになるとだいぶ慣れて冗談も言い合えるくらいになった。ばあちゃんのアウェー感が徐々に薄れ、ホーム感が出てきてるかな。

今後、どうなるかだね。
「いつ何が起きてもおかしくない状態」なんだけど、
どうなるかわからない???
ってのはどう対応していいか分からないから不安なんだ。
実は、どうなるかってのはわかっているんだ。
要するに上記(1)〜(7)が低下して行くということなんだ。どの順番かはわからない。改善する可能性はまずない。ゆっくり出来ることが出来なくなっていく。
いつ、って言ったって、はっきりはわからないけど、この数週間・数ヶ月のうちだと思う。
そう考えれば、今後どうなるかはわかっている。
わかれば、対応のしようもあるんだ。

看護師さんなんかから、「緊急の際に救急車を呼ぶか・否か?」ということを聞かれているんだ。答えはNo。(1)〜(7)の何が低下しても、もう病院に運ぶことはない。そうしないと、家を終の住処にすることはできないからね。医院が24時間いつでも電話を受け付けていて、救急車みたいに数分じゃないけど、数十分以内には来てくれることになっている。
だから、何が起きても、やることはわかっているんだ。別にあわてたりドキドキする必要はない。そういう中で、できるだけ(8)〜(10)をキープできるかということが介護の目標となる。
と、まあこう書き出して、私自身の気持ちを整理しているんだけどね。そうしないと混乱しちゃうから。

孫たちも、来たかったらおいで。まだ、そこそこに会話もできるよ。
じいちゃんにすれば孫の顔を見ることで、生きるエネルギーは確実に上昇するからね。
でも用事があって来れなかったら、それで構わないよ。ぜんぜん問題ない。
「おばあちゃん。お水ちょうだい!」って、一番甘えてる人がいつも居るから大丈夫だよ。

Thursday, January 21, 2016

父の終焉日記:1月19日

高齢者の自立ってことかな。
じいちゃんは、もう退行して甘えきっている。まあ、そういう選択肢しかない状況だから。
ばあちゃんにとっては、自分の力でなんとかしたい、人のお世話になったり、ご迷惑になりたくない。そういう気持ちも尊重したいし、その一方で自分たちの力ではどうしようもなくなり援助が必要となる。ばあちゃんには力があるし、力がない。
今まで、じいちゃん・ばあちゃんはペアで自分たちの尊厳(プライド)と責任を持って生きてきた。
自分で出来ることは自分でやりたい。人に指図されて勝手にあーだこーだやってほしくない。そういうばあちゃんの自己決定権は尊重してあげたい。自分でできることは自分でやりたい。支援が過保護になってはいけない。
ただ、その判断が妥当か否かは客観的にみててあげないと。支援が必要なのに支援を求めようとせず、悲惨なことになってはいけない。

支援し過ぎると、依存を生む。
支援しなさ過ぎると、孤立を生む。

どの辺りで手を打つかって、微妙だな。

Monday, January 18, 2016

父の終焉日記:1月17日

じいちゃんは、ゆっくり理性がはがれ落ちてきているって感じかな。
身体機能はまあまあ落ち着いてはいる。血圧が90代でちょっと低めだが、もともと血圧は低めの人だからまあ許容範囲かな。
むしろ、精神機能が下りてきている。
病院に入院していた方が合理的な看護・医療を受けられるけど、患者本人にとってはアウェーの感覚、緊張しなければならない。家庭にいればホームだからリラックスできるし、サポーターもたくさんいる。ホームにいれるじいちゃんにとっては良い環境なんだよ。
リラックスできるって、のんびり、本来の自分が出せる、いつわらない素の自分でいれる、緊張感を下げられるってことは、理性をあまり使わなくて良い状態なわけ。
特に夜間が緊張レベルが下がるんでしょうね、夜から朝にかけてがわけがわかんなくなっちゃう。
「おばあちゃん、お水ちょうだい。」
「もうオレ、外に出たいよ。中にいるのやだよ。」
「子どもの頃の自分が一番良かったから、、、」
昼間に、ヘルパーさんや外部の人が入ると、多少は理性を戻して普通に振る舞ったりするんだよ。特に看護師さんが若い女性ですごく元気がいい。訪問看護でこういう老人との関わりに慣れているんだろうね。わざとやってんのか、テンションを上げて接してくれるわけ。するとじいちゃんもばあちゃんもつられてテンションを上げられるというか、笑いも出たりして良いんですよ。
いずれにせよ、ホームに居られるじいちゃんには良い環境で、安心して降りて行けるんだ。

問題は、ばあちゃんなんだ。看護師、医師、ケアマネ、ヘルパー、リハビリマッサージ、訪問入浴、、、ホームにたくさんの外部の人がやってきて、ばあちゃんにとってはホームがアウェーになっちゃった。
通常の体力・聴力・理性・精神力があればその緊張にも対応できて、じいちゃんをひとりで看なくて良いから楽になる筈なんだけど、むしろばあちゃんにとっては、そういうたくさんの人たちに対応しなくちゃいけないということが過大なストレスになっている。ばあちゃんにもプライドがあるんだ。家に来る人はばあちゃんが主婦(ゲートキーパー)としてしっかり把握したいけど、一度にどっと押し寄せたもので、ばあちゃんのキャパを越えてしまったんだ。
でも、ばあちゃんはまだ適応力が残っているから、多少時間をかけて慣れてくれれば良いなと思っている。

Saturday, January 16, 2016

父の終焉日記:1月15日

子どもと姪たち(つまりおじいちゃんの5人の孫たち)へ

おじいちゃんの最後は、おばあちゃんと子ども二人(私とおばちゃん)で看取るから、孫たちはそこまで参加しなくても良いよ。もちろんしたければしても良いけど、自分自身の生活もあるでしょう。でも、おじいちゃんのことをは気になるよな。私からLINEで逐一報告しても良いのだけど、そうすると必然的に関わらせてしまうことになるでしょう。だから、こっちの場で報告しておくね。そうすれば、見たいときに読みに来れるし、忙しくて読みたくない時は読まなくて済むから、自分のペースでじいちゃんのことに関わって下さい。

1月12日は私が一日休みを取って、午前中に日赤を退院して介護タクシーで家に連れて帰り、訪問看護師とケアマネさんとヘルパーさんと、みんな呼んで、家で作戦会議を開いたんだ。看護師さんには入院前の週3日から毎日に増やしてもらい、ヘルパーさんも新たに毎日朝と晩に2回ずつ入ってもらう。医者の往診は以前と同じで週1回。

うちの場合は、病院にまかせちゃったが、そりゃ自分ちで死ねたらお父さんも幸せだろうな。

じいちゃん本人にしてはそれが一番良いし、耳が遠くて外出や人との会話が大きな負担になるばあちゃんにとっても病院まで見舞いに行かなくて済むという点では都合は良いのだが、病院で専門のスタッフが看護してくれる分を家でやるってかなり大変なんだよね。それをカバーするのが介護保険で、在宅介護・在宅医療も最近はかなり体制が整えられてきた。でも、問題はそのやり方にじいちゃん・ばあちゃんが慣れるかってこと。
じいちゃんはそれほど抵抗ないというか、受け身でケアされるのは病院でも自宅でも変わらないから楽チンなのだが、問題は耳の遠いばあちゃん。いろんなスタッフが入れ替わり立ち替わり家に入るのはかなり負担なようだ。スタッフとの作戦会議の場で感情的にキレて、「みんなでよってたかって、そんなのイヤだ!」と言っていたが、ばあちゃんには合理的に考える力は衰え、不安感情に支配されている。子どもを諭すように言い聞かせて、慣れてもらうしかない。

じいちゃんは認知症は入ってなく、ちゃんと考えられるはずなんだけど、生きる意欲の低下とともに、せん妄状態に入ってきた感じ。「せん妄」とは認知症とは違うんだけど、意識レベルが低下して、幻覚や妄想が出てきてしまうんだ。特に夜にそうなるのが「夜間せん妄」といって高齢者や重い病気の人にみられることがある。一時的にわかんなくなっちゃうけど、昼間になればもとにもどる。病院でも何度かベッドから落ちちゃったらしい。家でも夜中の2時くらいに下のばあちゃんから私にインターフォンが入って「たけし、すぐ来て!」というんだ。今度は何が起きたのだろうかとドキドキで一階に降りると、じいちゃんがベッドの隣の床に寝てるんだ。2階に寝ているばあちゃんは夜中も心配で時々じいちゃんを見に来るんだ。じいちゃんは意識はあって、ヘラヘラしながらこっちをじっと見ている。「じいちゃん、どうしたの?なぜ床で寝ているの?」と尋ねても、「うん?何だよ?俺は死んじゃったんだよ。ここは死んでるのか?」と的外れな応答だ。仕方がないので抱きかかえてベッドに戻したら、「ありがとう」。ばあちゃんを2階に戻して、しばらくそばにいて様子をみていると、「たけし君、もう大丈夫だから行って良いよ。」だいぶせん妄が回復して正気に戻ってきたようだ。この間、小一時間ほどでボクもじいちゃんのところを離れた。

上に戻ってもしばらく寝られずメール書いたりしながら考えていたんだ。じいちゃんもばあちゃんも、すっかり子どもに戻っちゃったってね。「ベンジャミン・バトン」っていう映画ちょっと前にあったの知ってる?主演のブラッド・ピットが老人で生まれて、年取るごとにだんだん若返ってきて、赤ちゃんになって一生を終わるっていうストーリー。
じいちゃんもそんな感じだなって思ったね。親子が逆転しちゃった。私が小さい頃は父親が大人だったけど、今は私が大人でおじいちゃんが子どもになっちゃった。そんなおじいちゃんを抱きかかえていると、昔の記憶が何となくよみがえるんだよね。
私が2歳の時、生まれてきたりょうこおばちゃんにママを取られて、パパと寝るようになったんだ。2歳まではママのおっぱいを触って寝ていたんだろうね、その記憶はないんだけど、おじいちゃんのおっぱいを触っていた記憶はあるんだ。4歳、5歳くらいになってもずっとそうすると安心して、子どもながらに恥ずかしかったけどやめられない。もし小学生になってもパパのおっぱいを触るのやめられなかったらどうしよう、、、と焦っていたことは憶えている。今だから言えるけど、子ども時代は恥ずかしくてこのことは誰にも言えなかったんだ。
ふつうだと、幼児は母親に主な愛着を向けるのだけど、私の場合、専業主婦で接する時間が長かったママもだけど、パパともこうやって幼児期の基本的な身体的愛着が形成されていた。その後もスキーに行ったり、いろいろ触れ合った思い出がある。私が小さい頃は、父親が優しく身近に居てくれたんだ。今は立場が逆転して、小さくなった父親のそばに居るだけなのかなって、そんなことを考えていたよ。

子どもが生まれ眠りから覚め、成長してだんだんわけがわかってくる頃、まわりに家族がいて安心して成長した。
それと同じように、人生の終わりにだんだんわけがわかんなくなってきて、まわりに家族がいて安心して眠りについていくんだろうね。

今、おじいちゃんはベッドに寝たきりだ。トイレさえ行けずにおむつだし、食事もほとんどとらなくなった。今おじいちゃんが唯一できることは、
「おばあちゃん、喉がかわいた。お水ちょうだい。」
幼児の様に妻に甘える。
するとおばあちゃんは「はいはい」と文句も言わず、じいちゃんの面倒を見てやる。
じいちゃんは、「ありがとう」と満足そう。
そんなやり取りだけが残っちゃったんだよね、今のじいちゃんは。

Friday, January 15, 2016

父の終焉日記2

2016年1月8日
いよいよ、最後の時になった。
7日の早朝にトイレに行こうとして倒れ、起き上がれなくなった。
昼に往診に来た医師の判断で日赤に緊急入院となった。
おいおい、自宅を「終の住処」するはずじゃなかったのかよ!?
病院に運べば、そこで終わってしまう。
年末12月にも外来で貧血が見つかり、入院したけど、輸血しただけであえて検査もせずに退院した。もうそれで日赤の通院は卒業したはずだったんだけど、今回は在宅医の判断で病院に運ばれてしまった。
あえて追求はしないけど、脳内出血による片麻痺を疑ったではないだろうか?
それを確認するための検査が目的だったんだろうか?
よくわからないけど、まあ良いや。

家族の死に向き合うのはとても辛い。
優子の時よりははるかに楽とはいえ、一応、気持ちを、書き出すニーズがあるレベルには達している。

入院した父は、生きるエネルギーが一晩で落ちた。
初日は妻を気遣う余裕もあり、おばあちゃんに迷惑かけるから、入院でも良いかなと言っていたのに、二日目になると駄々っ子みたいな自己中になり、「家に帰りたい」の一辺倒だ。右上腕が麻痺してしまった。そのことが父自身ショックで、がんばる意欲を失わせたようだ。

父の終焉日記(2015年分)

2015年6月17日
先週はシンガポールに出張だった。出張先からも毎朝定期便で両親に電話する。すると、手足がしびれるという。ボクがいなくなるといろんな症状が出て来るんだ。心気症か!?
日曜日に帰国して、念のため近所の日赤病院の休日診療に連れて行った。たいしたことないと思ったんだけど、当直医が首のレントゲンとCTとを撮ったら、頸椎のひとつが潰れていて、ガンの転移による圧迫骨折だろうということになった。 脊髄を圧迫したら四肢の痛みだけでなく麻痺がくるから絶対安静が必要だ。検査目的ということで入院したんだ。入院してからは自覚症状的には痛みはおさまり、今のところ個室の部屋で元気にしてる。

これから緩和ケアが始まる。

今までの肺の転移はほっておいても悪さをしなかったけど、今回のは悪さをするからね。脊髄が圧迫されないように放射線か薬を使うことになる。手術は父親自身もうしたくないと言うし、骨転移まできているから、医学的にも年齢的にも手術の適応外でしょう。いずれにせよ安静にしなくてはいけない。今後、進行が食い止められれば多少は動けるかもしれないけど、今までのような自由な日常生活ではなくなって、徐々に病人らしくなっていくのだろう。
カウントダウンが始まった。

6月23日
人は、だんだんとその機能を、それと共に人間らしさを失って行く。
父は30年前に片方の腎臓を、10年ほど(?)前に膵臓を失ったけど、人としてそれほど失ったものは少なかった、というか目立たなかった。
でも、今回の転移で、一気に失われた。
絶対安静。家に帰れるかもしれないけど、自由に動いて犬の散歩や外出できなくなる。
すぐに、あるいはしばらく先か、いずれにせよ手足の麻痺がくるだろう。そうすると寝たきりになる。日常生活の活動が大幅に失われる。
でも、思考能力とか意思の力とか現実検討能力とかは正常に保たれている。生きる気力も。
でも、これで寝たきりになれば、病人っぽくなるだろう。
あとは、痛みのコントロール、いわゆる緩和ケアだ。身体的な苦痛がなければまだいいのだが、痛みが出てくると生きながらえる気力もかなり減退する。そうやって最後は存在そのものが失われる。
少しずつ、部分的に失われていくんだよな。
優子は、その点ラッキーだよな。いきなり全部失ったから。自分が少しずつ失われて小さくなっていくななんて感じるヒマさえなかったもの。
でも、そのために、我々は大切な家族を失った。それも重大な喪失だった。
母親は思考能力・現実検討能力や生活能力(衣食住)は正常に保たれている。
しかし、聴力と運動能力(どこがどうということないけど、全体的にもうかなりよぼよぼしてる)、それに精神力が失われつつある。肯定的に見通すことができず、不安が先行して、心配ばかりしている。

6月26日
父親は頸椎の放射線治療を受けて退院になった。
今のところ痛みも治まり、特にイヤな症状もなくて家で普通に暮らしてる。
放射線治療は痛みを止める効果はあっても、腫瘍を縮める効果は少ない。やがて腫瘍が大きくなれば脊髄を圧迫して痛みや四肢麻痺がくる。早く来るか、遅く来るかは分からないけど、いずれは来るでしょう。もう麻薬系鎮痛剤も使っている。緩和医療もこれから本格化する。一旦、良くなった時期がしばらく続いて、次に悪くなった時はかなり悪くて、、、みたいな感じで進行するんじゃないかな。

ボクはこれから台北、イタリア、オーストラリア、トルコ、台湾、ハワイ、ベルリンと、海外出張は目白押しなんだ。
在宅看護・在宅医療をオヤジに勧めている。いわゆる在宅ホスピス、最後まで家で看取るってやつ。7−80年前まではもともと家で産まれて、家で死んでいた。その後、病院や施設でのケアが一般的になり、最近は、また家でやりましょう、その方が安らぐからって感じで、在宅医療(昔で言えば往診)してくれる医療機関もけっこう出てきた。週3回くらい看護師さんが往診してくれて、週1回くらい医者も来てくれる。いよいよになれば24時間耐性でやってくれるんだ。
そうしないと、ボクが出られないからね。ボクが不在だと、母親はあたふた、何も対応できない。前回だって、シンガポール中にオヤジの四肢の痛みが来て、帰国した日に救急外来に連れて行ったんだ。だからといって、ボクがやりたいことをやらずに親のそばに居るってわけにいかない。母親は家族のそばに居ることが生きがいだった。そのために生きてきた。自分のことなんかなくて、夫を看て、看取ることが唯一の使命だ。

Filial Piety(親孝行)
「孝」の考え方はアジアの家族に特徴的で、欧米には希薄だ。そのことはシンガポールや今回の台北でも講演するテーマのひとつだ。「親孝行」なんて古くさいイメージだけど、文化の根底に根づいているからしかたがな。アジアの国々もそのあたりは似ている。欧米では二十歳前後で親から自立して離れていく。アジアの親子は良い意味でも悪い意味で一生ものだ。家族の病理もみんな親子を基軸にしている。ひきこもりは、親がずっと子どもを面倒見続けている病理だ。
オレだってそうだ。二世帯家族で、優子が亡くなり、一世帯の大家族になり、孫のメシを作ってもらって、老親のケアをする。そういった親子の結びつきというプロセスはみな相似形で、そこに葛藤があるかないかだけの違いなんだ。

元気で健康な時はみんなソロでいられる。家族はバラバラでも構わない。誰かが弱くなった時に家族の凝集性は高まる。もともと弱者(子ども・高齢者)のケアは家族の役割だった。ボクの祖父母はそうやって大家族の中で看取られていった。祖父母も子ども・孫家族がみんな一緒にいた。家族はそうするものだったんだ。
もし優子がいたら、父親のケアについてもっと家族でガタガタしていたと思う。なにしろ、家族ケアは女性の役割だったから。母親も「優子さん」に期待していたと思う。息子のボクはオトコだから本来免除されているんだけど、ケアすれば「親孝行息子」としてedxtra creditがつくだけだ。お嫁さんがいるのに在宅看護なんて外注したら「そんなのいいわよ、お嫁さんに看てもらうから。」みたいな選択肢が出来てしまう。お嫁さんとしてはそんなことやりたくないけど、やらねばならないし、あなたがどうにかしてよ、、、という葛藤が生じる。

親子の伝統って、別にアジアだけでもない。欧米だって病院よりは、家にいて家族に看取られたいでしょ。そういう願いは世界共通なのだろう。

8月31日
朝、日赤へ父の付き添いで行く。
父親ひとりで行けるのだが、付いて来てほしいという希望だ。
父親は自分で判断する精神力を失いつつある。重要な判断はすべて息子に頼っている。まあ僕が医者だということもあるけど。
大森日赤は地域の中核病院だ。待合室には当然老人が多い。正面にも父・息子が坐っている。私と同年代らしき息子が車椅子の父親を連れている。何も会話するわけじゃない、ただ黙って父親のとなりにちょこんと座っているだけだ。僕と同じ姿だね。

父親はすっかり気が弱くなっている。身体の痛みにおびえている。
「ちょっと肩や手がしびれるんですけど。」
痛みに敏感になっている。

Sunday, January 3, 2016

7年目

優子、草津に来ているよ。
7年前と全く同じなんだよ。
元日に親戚みんなで集まって。
二日から二泊三日で草津に来た。7年前は優子と祐馬とじんで来て、ちゅけは受験で留守番だった。
今回はちゅけと祐馬で来て、じんは家に居残った、あとカイも来てるよ。
二日の晩は草津の家に泊まり、三日に万座で滑って万座プリンスに泊まる予定だったんだ。
今回はスキーはしないよ。暖冬であまりできないみたいだし、出来たとしても今回はスキーはせずにのんびりするつもりだよ。
いつもの定番の草津生活。元気があれば朝風呂に出かけ、家の回りを散歩して、「そば処風」で十割そばを食べて、大滝の湯の熱い「合わせ湯」に入って。
7年前とやることは殆ど変わっていない。
変わったのは3人の子どもたちの成長ぶりだよ。あの時は中学生と小学生×2だった。今は大学生×2と高校生だぜ。ちゅけなんか久しぶりの草津だとか言ってるから、もしかしたらこの7年間来ていなかったんじゃないか?
ボクは毎年2−3回は来続けている。
ボクは変わったのか?
こうやって優子と向き合うボクの時間は7年間止まっている。
しかし、優子を抜かしたボクの人生はどんどん前に進んでいるよ。
優子がいなくなったおかげで、出合った人もいる。
べつに悲しんでいるヒマも必要性もなくなってきてはいる。
「7年前の今日にママが昇天した万座の場所に行ってみるか?」
子どもたちに提案しても良いけど、なんと答えるかな。「べつに良いよ」「パパ、まだそんなことにこだわっているの?」くらいの反応だろうか。

多分、今年中には父親を失うだろう。自宅での緩和ケアの段階だ。
「パパ、なんでそのことばかり言うの?しつこくて祐馬いやなんだけど、、、」
祐馬ね、こうやって前々から話していた方が楽なんだよ。ママの時は突然だったから大変だったじゃん!
父親は私の人生にとって過去に大切な人だったけど、今、生きていく上で必要な人ではない。むしろ、父親にとって自宅でケアする息子が必要な人だ。親子のケア関係が逆転した。
優子は私の人生にとって現在進行形で大切で、必要な人だった。

今日は草津でのんびりしよう。スキーはせずに、ゆっくりお風呂に浸かって。
今、ボクにとって一番大切な人は三人の子どもたちだ。
祐馬が帰って来ている。今は子ども時代と変わりなく、当たり前に普通に一緒にいるけど、5日後にはメルボルンに戻ってしまう。次に会えるのは来年になるかなぁ。もっともSkypeやLINEではしょっちゅう話しているけれど。彼女の居場所はもうここじゃないんだよ。世界なんだ。信じられないけど。

子どもたちに尋ねてみた。今日はママの命日だよ。
ちゅけ「7年かぁ。」
祐馬「ラッキー・セブン」
べつにラッキーでもないんですけど。
万座に行ってみるか?
祐馬「やだ!」
ちゅけ「そうさなあ。ボクはいなかったからなぁ。」
バパは別に行かなくてもいいかな。けっこう1時間くらいかかるし。
ちゅけ「なら、なぜ聞くんだよ!」

幸せって何?
どうやったら幸せになれるの?
人ひとりでは、幸せ感は成り立たない。そりゃ、美味しいものを食べたり、チャリやスキーそれ自体も楽しくはあるが、それを共に楽しむ人がいて、幸せは成り立つ。大切な人が幸せだと、自分も幸せになれる。幸せ感を具現化してくれる対象が必要なんだ。
そういう意味じゃ、私が幸せに出来る人はたくさんいる。幸せを見失ったクライエントとか。
大切な人と一緒にいること自体が幸せではない。
祐馬と離れていたって、遠くで祐馬が幸せであればパパも幸せだよ。それで良いんだ。
でも、大切な人を大切に感じるためには一緒にいないといけない。
子どもたちが小さい頃は、一緒にいないとどうしようもなかったからね。それが家族なんだよ。
でも、成長しつつある今は、一緒にいる必要もない。少なくとも上ふたりは。高校生のじんだって、一緒に生活しているからこそ、しゃべらなくても一体感が成り立つんだよ。

そうか、七回忌って仏教ではあったなぁ。実際は6年目らしいけど。
もうそんなに経っちゃったんだ。優子との時間は止まっているからわからない。
そんじゃ、やっぱ万座に今日行こうか?露天風呂にも入れるし。
でも、いいよね。草津の露天風呂と温泉まんじゅうでいいじゃん。万座まで行くの面倒だよ。
こうやって優子のことを想っていれば、それでいいし。
祐馬はすやすや昼寝している。ちゅけは外で焚き火している。