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Sunday, April 25, 2010

寂しさの効用

最近のブログを拝見していて、新しい道を進まれるのだなとは思っていましたが、ついに!と今朝のブログを拝見しました。
 「最近、眠れなくて・・」という言葉に「いい薬があるみたい、お医者さんに行ってみたら」という会話が増えているとか。。
以前なら「眠れないの?どうしたの?」「実はね・・」が普通の会話だったような気がします。支援の形は様々ありますが、「十分な時間をかけての心から納得できるような支援」は多くの方たちが望んでいます。お金がかかるのは残念ですが(T T)、私も主治医ができた気になっています(^ ^)v
奥さまを亡くされた心の痛みは他人には測れないことと拝察いたします。「悲しみは薄れるんだけど、寂しさは・・・。」とどうしようもない寂しさを語る方もいました。悲しみと寂しさの話をうかがった時、胸が詰まる思いをしたのを覚えています。これからの一年、ますますお忙しいことと思いますが、お体にお気をつけてお過ごしください。

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Qさん、メッセージありがとう!

他人には測れない...


こんな気持ちは、経験した人じゃないとわからない!
という前提があるんでしょうね。それほど痛いんだということの比喩なんでしょうか。
じゃあ、パートナーを亡くした人ならわかるのか、と聞かれても、きっとnoですよ。
僕が優子を失った悲しみは、優子と僕という固有な二人の関係性の延長線上にあるものだから、ひとみんなそれぞれ違うはず。
じゃあ、誰もわかるはずないじゃない!?

そういう問題でもないんですよね。
心の中身までわかってもらえなくていいんです。それは、ボク固有の問題だから。
共感するって、心の暗闇の深淵を一緒に覗きこんでくれることかな。暗すぎて、どれくらい深いのか、中がどうなってるのか、怖くて見たくない。でも、見てちゃんと確かめておかなければ、もっと怖い。結局、分け入るのは自分自身しかできないってことはわかっている。でも、ひとりっきりでは怖くてできないし、だれかそばにいてくれると、とても助かるんです。

そばにいるって、どういうこと?
深淵について、関心を持ってくれる。言及してくれる。尋ねてくれるってことかな。
○たとえば、葬儀に来てくれた方々。近い親戚とか、来るのが当然みたいな人ではなく、えっ、あなたまで来てくれたの?という遠い関係の人。時間と手間をかける価値がある出来事と捉えてくれたんだという支え。
○たとえば、そのひとりがゴルフのレッスンプロ。そんなに親しかったわけではないと思ってたけど。
えっ、来て下さったんだ!
「Tikiさん、こういうときは辛いけど、家になんかいないでゴルフに来て、たくさん打ち込むんだよ。何かやっていれば忘れられるから!」
忘れるわけじゃない、それは僕のセオリーではないんだけど、各論はどうでもいい。ふだんゴルフのことしか口にしない体育会系の彼が、僕のことを彼なりに精いっぱい考えてくれたんだよね。その行為自体が支えであり、その中身はどうでもいいんです。
○あるいは、Qさんみたいに1年たってもブログに来てくれて、ときどきメッセージをくれること。始めの頃はたくさんの人たちが見に来てくれて、たくさんメッセージをくれました。それは、僕へのメッセージでるとともに、彼ら自身の喪の作業でもあったのかもしれません。それが終わっても支えてくれているって、遠い人でも、すごく身近に感じます。

逆に、一番イヤなのが、避けて通り過ぎられてしまうことかな。過剰に寄り添ったり、無理に分け入ってくれなくていいんですよ。本人は、深い穴を遠くから眺めたり、もう少し近づいて覗きこんだり、懐中電灯を持ってロープを伝いながら下へ降りようとしたり、いろいろ人によって違うと思うんです。僕の場合、強力ヘッドライトで隅々まで照らそうとしてるけど、ふつうそこまではやらないでしょう。いずれにせよ、誰でも心にぽっかり穴があいているということ自体はどこかでわかっているんです。そこを通り過ぎずに、立ち止まり、いてくれることかな。

大きな闇取り囲まれても
君がいてくれることが光となり
一歩踏み出す勇気となる



僕の場合、「君」をたくさんかき集めて強力ヘッドライトに組み込んだけど、これって、すべての人間関係に当てはまる基本ですよね。

  • 愛するパートナーがいてくれること
  • 親がいてくれること
  • 子どもがいてくれること
  • 先生がいてくれること
  • 部活の先輩と仲間がいてくれること
  • 心の支援者がいてくれること

それがあるから、人間、一歩前に進めるんですよ。

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悲しみは薄れるんだけど、寂しさは・・・。

まさにそうなんですよ。
この寂しさはどうしようもないです。
寂しくはない。子どもたちや、たくさんの人たちに囲まれている。
でも、一番根っこの部分の寂しさは、誰も補えない。

でも、それでいいのかなと、最近は思ってます。むしろ、それがあった方が好都合なのでは。
始めの頃の悲しさ・寂しさは、手をつけられないくらい心の中で暴れまわっていたから、落ち着かせるのにずいぶん苦労した。でも、今はだいぶ大人しくなってきた。コントロールが効くようになり、ティシュにくるんで小さくたたみ、心のポケットに入れておくことができる。必要な時に取り出して、どうなってるか確認すればいいくらいになった。
○寂しさがあったほうが、創造性を持てる。
満ち足りていれば、たとえばブログなんか書く必要ないからね。できれば、ブログよりももう何冊か本を書ければもっと都合が良いのだけどね。
○寂しさがあれば、人の寂しさに興味を持てる。自分自身が心を覗きこむニーズがあれば、他者のニーズにも敏感になれる。心の支援者としての基本的な動機づけが確保されたようだ。

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