Send your message to lettertoyuko@gmail.com


Tuesday, August 3, 2010

最終講義

前回のまとめ
まとめ役をふるのを忘れました。まず、みんなからのリクエストを受けフルーツバスケット。私の授業は、フルーツバスケットに始まり、フルーツバスケットで終わりました。次に、前回のしんぶんのコメント「授業が進んでいくうちに、自分の生き方についていろいろ考えさせられ、私って一体何なんだろうと、よく考えるようになりました。」ということで、みんなで「いまのわたし」を語り合いました。まず教員からみんなに、そしてみんながグループになって。

二十歳のTikiです。
①大学に入学し、高校時代の目標を達成し、親も多分ひと安心、将来の人生設計も何となく見えてきたけど、内面の自分は、まだよくわかっていないです。高校時代の彼女と別れ、女なんてもういい!アメフトで男同士群れてます。勉強はかなり難しくなり、高校までは一応できる方だったのが、一気に劣等生になり、こんな成績で医者になれるんだろうか。自信なんかぜんぜんないです。漠然とした不安でいっぱい、というか不安であることさえわかってないかも。自分がいったい何者なのか?、なぜ生きてるのか?、人生の目標は?、、、いわゆる自分探しにはまってます。
なぜ医学部を選んだのですか?)本当は理学部の分子生物学に興味を持っていたんですよ。分子レベルで生物を理解したら、自分のことがわかるかもしれない。自分探しの延長ですね。でも、偏差値的に医学部に行けそうなら、そっちの方がオールマイティーだし良いかな、くらいの動機でした。
もちろん、表面的にはうまくやって、つじつまを合わせてますよ。大学はギリギリで留年をまぬがれたし、バリバリ体育会系にはまり、皿洗いや家庭教師などバイトも随分やりました。親元から離れ、気ままな学生寮生活。授業さぼって徹マンしたり、酒盛りしたり、親が見たら卒倒するような日常生活です。
将来の道は、勉強に自信ないので、学究的な内科系は無理。頭はなくとも体力で勝負する外科、産婦人科くらいかなと思います。

52歳のTikiです。
①二十歳のころの自分探しは、恋愛によってとりあえず解決しました。一時お休みしていた恋愛活動も大学の後半から復活し、何人かの女性を経由して、妻と出会いました。自分が必要とし、必要とされている絶対的な他者が存在することで、不完全だったボクがカップリングしてフルの自分となり、自分が生きている意味とか考える必要がなくなりました。
なぜ精神科医になったんですか?)体育会系からは一番遠いところにあるネクラな文系と決めつけていた精神科を自分が選ぶとは思ってませんでした。身近に高齢者がいなかったので、病気を治すんだったら、この先長くない老人よりも、先がたくさんある子どもを救いたい。小児科か産婦人科もいいかなと思っていた頃、「子どもの精神科」というのがあることを知りました。まだ新しく未開発の分野ということを先生から聞き、それなら自信のない僕でも入り込む余地があるかもしれない。もともと、子どもと関わることが好きでした。学校の先生にもなりたかったかも。
なぜ、大学の先生になったんですか?)30歳の頃の留学中に、大学の恩師から学芸大に先生の口があるから来ないかと誘われたのが直接のきっかけです。でも、その背後には元大学教員であった父親の影響があったと思います。小さいころから刷り込まれた、暗黙に決められた進む道だ、みたいな。大学の先生の特権は、自分で仕事を選べるんです。教育ばかりでなく、研究や臨床も。だから、授業ばかりでなく、週1回のお医者や、専門分野である家族療法の研究もやってました。正直なところ、はじめの頃は授業や教育にはあまり興味がありませんでした。でも、タム研の学生たちに卒論・修論を指導しているうちに、私の存在が、彼女たちが社会人として成長するプロセスにすごく影響していることがわかり、教育の素晴らしさ・やりがいが見えてきました。でも、最後まで大人数の講義にやりがいを感じることができませんでした。それは僕自身の学生体験から来ています。30年前の学生時代を振り返ると、感銘を受けた授業もあったんだろうけど、授業内容は全く覚えていません。どんなに良い話でも、人の話を受け身で聞くことが嫌いだったので、自分が話す側になっても熱が入りません。逆に座学ではない体験系はよく覚えています。みんなは教育実習、私は病院実習だったけど、病院の風景や患者さんの様子など、細部はもちろん覚えていないけど、イメージや感動したことは覚えています。だから、みんなへの授業も私の話は極力抑えて、みんなの体験を重視したでしょ。少人数の研究室ゼミなんかもやりがいがありますねえ。
なぜ、先生を辞めて、お医者に戻るんですか?)今から振り返れば20歳以降、私はずっと安定化路線を走ってきたんですよ。医師免許を取得して、就職し、結婚して、3人の子どもを産み・育て、家を建ててローンを払い終え、大学教授になって、本を書いて、みのもんたの朝ズバに出演し(笑)、、、
でも、1年半前に妻を喪い、30年間の安定性が一気に崩れてしまったんです。もちろん、経済的・社会的な自分は崩れず、すごく安定したままで、たくさんの人たちから必要とされています。しかし、肝心の一番近くにいる大切な人を失っちゃったわけ。自分の身体の半分を再び失ったようなもので、また学生時代の自分探しに戻っちゃったわけです。ここはどこ?私は誰?
前々から、大学の先生よりお医者の方が肌に合ってるなとは感じていたのだけど、大学教授もかなりオイシイ仕事だし、あえて辞めて転職するほどのインセンティブはありませんでした。でも、この1年半考えてわかったことは、妻を失った分、他者に必要とされる自分が必要になりました。第一に、子どもたち。小中高の3人の子どもたちにとって、ひとりになった親は絶対的に必要です。私にとって父親役割は最優先する生きがいです。第二に、仕事面ではどうだろうと考えると、大学の先生より精神科医の方が、相手にとって必要度が高いんですよ。大学の先生がひとり欠けたら寂しいけど、多くの先生たちがいるから、自分の学生生活の大勢に影響はないでしょ?でも、かかりつけのお医者って、私の命あずけましたみたいにすごく大切じゃない!多くの学生たちを相手にするより、そういう少数の人たちとの密な関係性に生きがいを求めるようになりました。(ちなみに、小学校の担任の先生もそれに近いよね。)
人生の第四コーナーを順風満帆、安定して走っていたら、突然の出来事で転んじゃってね。みんなからはそう見えないだろうけど、これは中年期の危機なんですよ。再び立ち上がり、残りの人生を走り抜けるためには、自分の点検・立て直しがどうしても必要なんです。私のようなパートナーを喪失なった場合に限らず、子育てや仕事の失敗、夫婦関係の破たんとか、中年期の危機に直面する人たちはたくさんいます。みんなのような青年期の危機ばかりでなく、そういう人たちの力になりたいと思ったのも精神科医に戻る理由のひとつです。もっとも、この歳で仕事の方向転換をできるのも、資格を持っている強みですね。みんなも資格はしっかりとっておくと良いよ(数撃てばよいというわけではないけど)。
ふつう、定年退職する大学の先生は、退職前に「最終講義」をして自分の教育者としての人生を総まとめするんだけど、私はまだ途中だからやりません。これが、最終講義の代わり、学生たちへの最後のメッセージです。まだまだ、人生は続くからね。今まで授業とメールで交流してきたように、これからはツイッターとかブログも使って交流しましょう。さよならなんて言いません。

No comments:

Post a Comment