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Tuesday, May 15, 2018

山とスキー

今日、西魔女と話していて、俺にとってのスキーの意味がしみじみよく分かったよ。

小学校1-2年の頃、初めて父親と行った四万温泉スキー場。
リフトも何もない、斜面があるだけ。長靴をスキーに突っ掛けて滑った。
その後、毎冬に父と行くスキーが楽しみでしょうがなかった。
父親が僕をソトの世界に連れ出してくれた。
猪苗代スキー場で亮子を残して、父とふたりだけで上段の急斜面を降りてきたら、一人ぼっちにされた亮子が怒っていた。民宿のメシのたくあんがすごい味だった(まずかった)。
夜行で行った越後中里スキー場。母親も初めていったけど、さんざんで、二度とスキーには来なかった。
中学のブラバン部活をさぼり、顧問から非難されても、父の職場の仲間にくっ付いて八甲田スキー場に行った。ロープウェイで山頂まで登り、ガイドを付けて酸ヶ湯温泉まで滑り込んだ。初めての山スキーの雄大さ!ガイドの青森弁は理解できなかった。
中3卒業時に、確か戸隠に友だち同士で初めて行ったんだ。酒を飲んでゲロ吐いた。
高校山岳部では、よくスキーにも行ったよ。ゲレンデにテントを張って、飯を作って、かぐらと栂池だったかな。
大学に入って、平良と栂池を登り、白馬乗鞍から蓮華温泉に降りるはずが遭難して、一晩、ツエルトで過ごした。今なら捜索ものだよ。翌日が天気が良く、里に下りて来れたから良かったものの。この話は父親にはしたけど、母親にはしなかった。理解できないもの。
大学時代、父親と万座温泉スキー場に行き、久しぶりに父の滑りを見て、ああ、俺は父親を超えたなと思った。子ども時代は父親がお手本だったから、それが逆転したショックと誇りかな。

優子と付き合い始めて、結婚前にニセコ東山スキー場へ行き、まだ下手くそな優子は一番下のファミリーゲレンデしか滑れない。亡くなる前には、一番上から滑れたのに。

優子と行く前に付き合った女性たちともスキーによく行ったよ。「私をスキーに連れてって」の時代だったからね。

別荘を草津に決めたのも、温泉とスキー場があったから。
子どもたちを背負子に背負ったり、紐をつけてボーゲンをさせたり。
保育園スキーの石打国際も楽しかった。
優子を失ったのもスキー場だった(万座温泉)。
そのシーズンはさすがにスキーには行けなかった。
翌シーズン、山岳部の連中と志賀熊の湯に行ったときには、怖かったよ。オレ、スキーに戻れるかなぁって。でも、ちゃんと戻ったし、以来、毎年山岳部OBで行っている。

父親との愛着のスタートがスキーだったんだ。
高校時代もその延長で山岳部に入り、
優子との付き合いも、子どもたちとの草津も、家族スキーだった。
そして、優子をスキーで失った。

両親も失い、empty nestを埋め合わせるのもスキーだった。
今シーズンは30日以上back countryに行ったもんね。
山にいると、スキーやってると、落ち着くんだ。本当の自分に戻れる気がする。
柔道でも、アメフトでも、テニスでもなかったんだ。
僕の人生は、山とスキーを軸に回っているんだよ。

これから、残りの人生どうなるんだろう?
また、新たなスキー人生が始まるんだろうか?
三浦雄一郎みたいに、じいさんいなってもスキーをやり続けるんだろうか?

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