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Saturday, February 27, 2016

哀しみを自己肯定につなげる。

〇ヶ月前に母が急逝して、ずっとどこか虚しさを感じてきました。生まれた時から愛されてないと感じたことが一度もなかったというのはなんと幸せなことでしょう。決して良いお母さんイメージではなかったけど、人として大好きでした。

愛されていないと感じなかった、というのと、愛されているのを感じてた、ってのはまた別の話なんでしょうね。

そうですね、愛されてることは当たり前すぎてたのかな。

 くっついていた(愛されていた)時はそれが当たり前で空気みたいだから何も感じないけど、離れて(失って)からようやくくっついていた(愛されていた)時のことを感じるんでしょうね。だから悲しいんですけど。

Tikiさんの姿を見ていたおかげで、母のお葬式を母らしく送ることができました。あと、喪の作業も。

そうですか。参考になりますか?そりゃあ良かった。
僕としても、〇〇さんやみんなが居てくれたおかげで喪の作業を進めることが出来たんですけど。

喪の作業って、大切な人を失い、空虚ながらんどうになってしまったスペースに再び感情を満たしていく作業なのかなって思いました。
でも、水道の蛇口を開ければいろいろな感情が出てきて水浸しになってやっかいなんですよね。だから、蛇口は閉めておきます。そうすると悲嘆は閉じ込められていつまでも処理できません。
安全に蛇口を開けるのって結構やっかいかも。誰かに受け止めてもらわないと無理です。

失って、見えてくるものが愛しさだと、涙(悲しみ)が溢れ出してきます。

でも、悲しみはまだ良い方なんですよ。
時には後悔や怒りや安堵(正直死んでくれてホッとしたみたいな)が流れ出してきます。実はそっちの方がずっと厄介なんですよ。それは罪悪感を生み、自己否定に繋がっちゃいますから。そんなのイヤだから蛇口を開けず、固く閉めたままです。閉めたままいつまでも消化されないのを複雑性悲嘆(Complicated Grief)といって、そういう人が私のところに相談に来たりします。
でも、その罪悪感の背後には、実は愛が隠されているんですけどね。そこまで到達できれば自己否定から解放されるんだけど、そこに至るのは専門家の力を借りたとしてもなかなか難しいですよ。

「悲しみ」は、それを表出すると心が混乱して疲れるから、ふつうは避けようとしますけど、実は自己肯定に繋がる健康的な感情なんですよ、きっと。
7年間、悲しみに向き合って来て、なんとなくそう思うようになりました。

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