Send your message to lettertoyuko@gmail.com


Monday, June 9, 2014

ブログタイトルを変更します。

Tikiさん、もうあんまりブログは書かないんですか?

ああ、ずっとチェックしてくれているんですね!?ありがとう!
残念ながら、優子のことはもう絞り出してもあんまり出てこないんですよ。

先日の相談で、ある喪の作業が終わらないクライエントの涙腺をちょっとつついたら、涙がどっと溢れて来た。
 心のポリタンクには4リットルくらいの涙が溜まるんですよ。ちょっと突いたら涙があふれてきます。でも、それは無限じゃない。4リットルを出し切ったら、涙の伴わない悲しみになるんです。そうしたら楽だね。自由に悲しむことができるようになる。いちいち、心を突き動かされて辛くならずに済みますから。

ブログを書くという私の喪の作業も、もう終了が近づいてきたかな。
本に思いっきり書いたのが良かったかもしれない。


ーーーーーーーーーーーー「ひきこもり脱出支援マニュアル(PHP出版)」のあとがきより引用。

そして、私は30代半ばで父親になりました。それは私にとって仕事上のどんな成功よりも、幸せな体験でした。祖父から父へ、父から私へ伝えられた愛情を、私から子ども伝えることができます。

 妻の立ち会い出産は、男性にとって絶好の「父親」になるチャンスです。女性が10ヶ月もの長い間、身体に子どもを宿し、身体の中から「母親」になってゆきますが、男性はその体験を持てません。せめて陣痛の時に妻の背中をさすり、分娩台の横に立って妻の手を握り、「ヒッ、ヒッ、ハー」と妻と呼吸を合わせて、親になる瞬間を共有したいと思いました。無事に出産して、妻が後産(胎盤の処理)をしている数分の間だけ父親は新生児と対面できます。当時の産院では、母子が退院するまで父親は赤ちゃんに触れることはできませんでした。誕生したばかりの我が子に何度も語りかけました。「赤ちゃん!(まだ名前を付けていないので、そうしか呼べません)わが子よ。僕が君のお父さんだよ。よろしくね。これから君のことをしっかり守り、しっかり育てることを誓うよ!」と何度も心の中で唱えました。私自身が父親であることを自分自身に焼き付けておきたかったのです。
 おかげで、20年前の刻印は今でも強く残っています。その後の出産も同じ病院で同じように立ち会ったのですが、2回目、3回目の記憶は不思議と残っていません。初めて父親になった時が私にとっての記念日でした。

妻も私もフルタイムの仕事を持っていたので、育児休暇が明けると、子どもたちを保育園に預けました。子どもたちは、妻と私の生きがいです。ふたりとも、子どもを育てることに必死でした。父親としてがんばったつもりでも、結局は私が仕事や週末のゴルフで抜けて、妻の過重負担は避けられません。「あなたは外では偉そうに子育て論を唱えているかもしれないけど、自分の家族はどうなっているの!」と妻からそしられ、夫婦でたくさん喧嘩しました。結婚当初の若い頃は6歳下の妻を言い負かすことができました。しかし、子どもが生まれてからは口論すると、どうしても妻の方が負担が大きいことが明らかになり、私の部が悪くなり言い負かされていました。

その妻を5年前に突然の出来事で亡くしました。妻は子どもの頃の伝染病の後遺症で心臓の冠動脈が狭窄していました。若い頃何度か手術をして健康を取戻し3人の子どもとフルタイムの仕事を持つことができました。しかし、5年前のお正月に家族でスキー滑降中に心筋梗塞で倒れ、そのまま帰らぬ人となりました。

私は、人生最大の悲しみに直面しました。それから半年くらい、何度も妻が生き返った夢を見ました。夢の中で再会の喜びに泣き、夢から目覚め現実に戻ってまた泣きました。3人の子どもたちと私が「うつ」になることが恐ろしく不安でした。心と身体の調子を崩し、日常生活が立ち行かなくなる「うつ」がどれほど苦しいかよくわかっているから、もしその兆しがみえたら、仲間の精神科医に薬を処方してもらおうと考えていました。眠ることが怖かったので睡眠導入剤は服用しましたが、結局、抗うつ薬や精神安定剤は使わずに済みました。

 大切な人を失った心の傷は、大切な人と繋がることが最も効果のある薬だと実感しました。
 妻を亡くした直後からお葬式までの一週間は、近所に住む保育園時代のパパママ仲間が交代で家に来てくれて、思考停止に陥っている私たちを心身両面から支えてくれました。その後も、保育園仲間の土肥悦子さんや、私の学生時代からの友人である小松崎涼子さんが子どもたち、特に多感な娘の母親役として支えてくれています。

  保育園パパ仲間の高島亮さんの勧めで、妻の死後3日目からブログを始め、私の悲しみの軌跡を書き出しり、親しい人たちに受け止めてもらいました。書くことと同時に、語ることも必要でした。カウンセラーである私がクライエントとなり、グリーフ(悲嘆)・カウンセリングを受けました。信頼できる人に私の気持ちを十分に表出することで、かろうじて心のバランスを保ってきました。
そしてなにより一番の力になったのは私の両親です。我々は二世帯住宅を構えていますが、妻のいた頃は、ふたつ世帯はドアで区切られていました。妻の死後、そのドアは開放され、ひとつの三世代家族になりました。父親は私と子どもたちの気持ちを支え、母親は炊事・洗濯など生活を抱えてくれています。20年以上前に嫁いだ妹も、私の家族と仕事を側面から支えてくれています。

 私の世界観は妻を亡くした5年間で大きく変わりました。
 まず、私の住む世界が小さくなりました。以前は生きがいを社会という大きな枠組みの中に位置づけていました。大学教授や医師という社会的役割を担い、授業や診療やメディアを通してより多くの人々に自分の存在を知らしめたいと思いました。それがこの5年は家族や友人、臨床で出会う少数の患者さんなど、より近い関係性の中に生きがい求めるようになりました。大学教授を辞めて精神科診療所を開業したのもそういう理由からです。


 そして、人の苦しみや痛みを深く実感できるようになりました。やっとユングのいう「傷ついた支援者 (wounded healer)」になれました。自分で痛みを体験していないと、他者の痛みを想像や理屈で理解するしかありません。順調に人生を歩んでいた頃は、人の痛みの表面しかとらえていなかったことに気づきました。

No comments:

Post a Comment