〇 〇 様
ご厚意のお品が届きました。
いつも、どうもありがとうございます。
早いもので、もう6年が経ちます。
私も、ブログを書く必要性がだんだん薄れてきています。
私と子どもたちを含め、優子の記憶が人々の中から薄れていく中で、とても嬉しく思います。
お正月には優子の墓参りに行きますので、お供えさせていただきます。
Yuko. November 12th, 1963 to January 3rd, 2009. Died at the age of 45.
Send your message to lettertoyuko@gmail.com
Friday, December 26, 2014
Saturday, December 6, 2014
優子のビデオ
参加者から頂いた感想を紹介いたします。
- 痛みは閉じ込めるのではなく、安全な環境下でメスを入れ、安全に取り出していくことによって乗り越えられるもの。
- 戦争体験や震災の大きな傷は人と共有することによって乗り越えられる。人と人とのコミュニケーション、言葉かけの中から生じるものであることを改めて気づかされた。
- 人によって傷つけられた痛みは、人によって癒される。人に愛を分け与えることにより、自分も愛をもらう。「あなたのことをちゃんと認めているよ。聴いているよ。」という立場でいのちの電話の相談員として活動していこうと思った。
これは私がまさに皆さんにお伝えしたかったことです。
人は無傷では生きていけません。失敗したり、他人から否定され自尊心が傷つけられたり、大切な人や物を失うなど、さまざまな痛みを大なり小なり体験します。人は誰でも痛みを自分で乗り越える力を持っています。辛さをこらえ、なんとか痛みを自分の力で乗り越えた時、それが成功体験となり自信を獲得して、心が成長します。つまり、傷つき体験が成長の糧となります。
- 最愛の方を失った時の葬儀のビデオは心を打ちました。ご家族を亡くされた痛みを私たちに出していただき、そこからどのように傷ついている人を救うのか示唆していただきました。
5年前に妻を亡くしてから、全国各地のいのちの電話で講演するときはいつもその話をしてきました。心の痛みを放出しても構わないという具体例を、私自身の体験をもとにみなさんに伝えたかったのです。それは参加者のためでもあり、私自身のためでもあります。
5年前に突然襲ってきた大きな悲しみにどう対処して良いのかわかりませんでした。いや、理屈ではわかっています。そのような喪失で苦しむ人たちに数多く出合い、支援してきたから。
私は自分がうつになることが恐かった。「うつ」になることがどんなに辛いことなのか、仕事も人間関係も、毎日の生活が成り立たなくなってしまう。思春期に入ったばかりの子どもたち3人がいる。ひとり親がうつになることだけは避けたい。悲しみを閉ざしていたら「うつ」になることはわかっていました。できるだけ悲しみを開きたい。安全に放出したい。私は必死でした。
それまでカウンセラーとして、自分の隠れた気持ちを意識化して表現するトレーニングをたくさん受けてきました。一般の人よりも、自己表出には慣れています。あらゆる機会を利用しました。
子どもたちが過ごした保育園のパパママ仲間たち、子どもたちは卒園していても、親どうしの繋がりは続いていました。亡くなった翌日から、親たちが私のうちに集まり、ご飯を作ってくれたり、葬儀の知らせを手分けして連絡してくれたり、ほとんど機能停止状態に陥っている私と子どもたちを支えてくれました。
その保育園パパのひとりが気持ちを書き表してみたら良いよとブログを勧めてくれました。それまでブログを作ったことは何度かありましたが、長続きしませんでした。今回は、長続きしました。友だちや葬儀に来てくれた人たちに読んでもらいました。自分の気持ちを表現して、それを見守ってもらう。始めはたくさん書いていたけど、今はもうあまり書いていませんが、でも時々書き続けています。
悲嘆カウンセリングも受けました。普段は私がカウンセラー役ですが、今回は私がクライエントです。たくさん気持ちを表現してカウンセラーに受け止めてもらいました。
葬儀も、今から考えれば異常というか、やり過ぎです。ふつう、喪主はなにもせず、黙ってうつむき、悲しみを表現します。私はそんなやり方は耐えられなかった。葬式まで自己表現の場に使ってしまいました。必死だったのです。今でも、その気持ちは続いているかもしれません。
普通、簡単に済ませる遺族からのメッセージも、やたらたくさん書きました。
葬儀の様子を友人のカメラマンに頼んで、録画してもらいました。私は妻を失うことが耐えられませんでした。葬式という場さえ失うことがイヤだった。だから、葬式の様子を失いたくない。記録しておきたかったのです。通夜と告別式の様子を丁寧に編集して、1時間ほどのDVDに焼いてくれました。
しかし、それを観る気持ちにはこの5年間なれませんでした。葬式の時の悲しい気持ちに戻ってしまうことが恐かったのです。でもいつかはそこから抜け出したいと思っていました。
封印していたビデオを始めてみたのはつい最近でした。韓国に呼ばれ、心の支援者向けに東日本大震災の講演をしました。韓国では船が転覆し、多くの命が一度に奪われました。大災害の後の心のケアについて日本の経験を話して欲しいということです。私が話したかったことは「怒り」についてです。韓国のニュースを見聞きすると、船長や船主ばかりでなく、政府にまで多くの怒りが渦巻いています。怒りの根底には必ず不安・悲しみがあります。悲しみの表現型としての怒り。これは仕方がないことなんです。悲しみは自分自身の気持ちの表現ですが、怒りは、それが他者に向けられます。怒りを向けられた他者を傷つけてしまいます。できればそれは避けたい。でも、悲しみの気持ちを表現するためには、怒りも仕方がないんです。日本でも、震災後、東京電力や政府に対して多くの怒りが向けられました。
そのあたりのメカニズムをどのように紹介しようか考えていたら、そういえば優子の葬式でずいぶん怒っていたことを思い出しました。
それを見せたい。でも、自分で再び葬式のシーンを甦らせる勇気が出ませんでした。そこで、講演の1週間前に、しっかり受け止めてくれる人に傍にいてもらい、観ることができました。一回、観てしまえば、あとはひとりでも観ることができます。それで、今回の講演でも紹介することにしました。
私は、講演を聴いてくれるみなさんに「愛」を伝えたかったんです。我々はいろんな繋がりの中で生きています。優子を失って、そのことがよくわかりました。私の一番大切なつながりが切れてしまったので、今まで繋がっていたことがよくわかり、その後はこうやって必死に繋がりを求めていたんです。いのちの電話での電話線を介した繋がりも、そして、私が演題に立ち、こうやってみなさんに語りかけているのも、結局は「愛」を伝えているんです。普段の仕事もそうです。クライエントの話を伺い、私からもいろいろ伝えていることは「愛」なんだなと最近思うようになりました。
Monday, October 6, 2014
Narrative/Creative Writing Assignment
9/29/2014
Yuma
Ms.Walker 1st period
Narrative/Creative Writing Assignment
“Hello,
nice to meet you.” A woman came into our
room suddenly. Who are you? I thought,
very soon after I could tell she was one of the staffs at the hotel we were
staying at. My little brother and I were in our room. Where are my father and my mother?
It
was January 3rd of 2009 in the evening. My family and I were on the winter vacation
in Gunma for skiing. We quit skiing
earlier than my parents and got warmed in the room. -“ I got a call from your father, I’m afraid
I do not know in detail, but according to him your mother has fallen down and
he doesn't know what time they can come back here. So why don’t you go for dinner at the
restaurant with me?” Fall down? Did she
trip? Is she not conscious? Does she get injured? So many questions about her crossed my
mind. I asked her several of them though
she wouldn't give me a proper answer. My
heart started beating fast.
She
led us to the restaurant where all the guests were supposed to eat dinner
at. I felt other people’s glances at us,
a pretty young woman gazing at us wondering, I suppose, why such a little boy
and his sister are having dinner without their parents. I caught a glimpse of a waiter, who seems the
chief of all, whispering to one to give us soft drinks for free. There were no groups of table not having
cheerful conversation, but us. I was
very uncomfortable and a little bit angry with my parents to leave us two, believing
she had just tripped during skiing. It
was the loneliest dinner I ever had and would have. On the other hand, my innocent little brother
seemed to have no idea, and was absorbed in eating. Then I remembered my mother was a cardiac.
I
knew we had to take a bath at the hotel's large public bath so after the dinner
I took my brother there. In front of
men's and women’s entrances I said to my brother “Can you take a bath without
Papa, can't you? We'll be meeting here
in 15 minutes or so. Don't go back to the
room alone.” As I walked into the bath
room, I thought by one of millions chance, I might have to take baths without
Mama in the future. I suddenly came to
hate the tradition of Japanese hot spring having to share a bath room with
other families and strangers. He was
already there waiting for me when I came out from the entrance. I could see he didn't wash his hair.
I
called my parents' phones for a number of times, but would never answer. I couldn't help crying. I couldn't help remembering every single of
thing Mama had said and did for the recent few days. In the morning of that day, I was being
fretful claiming I couldn't find the other one of my gloves. She had said “Don't lose your temper with
such a tiny thing again, Yuma. You'll
have to make yourself steady without my help.”
She picked up mushrooms with a smile on her face from my brother's curry
rice because he claimed he didn't want to eat at that day's lunch. I thought that was the great kindness of her
because I don't like mushrooms either. My
brother asked me worried “Why are you crying Yuma? What happened to them?” I felt myself weird because I didn't even
know what I was crying for.
Once
my father called me from taxi late that night.
“Papa please explain what happened.
Let me talk to Mama next to you, will you? Please!”
He only said “I can't. She's in
the hospital now. I will explain it to
you and Eugine when I'm back there.” His
voice sounded as usual to me.
My
father explained what had been happening and how it had eventually ended up as
if telling a story to little children. It
was a heart attack for the first and last time for her. He later told me that it was harder for him
to inform my brother than me because he looked innocent, having no idea. My brother burst into crying and
screaming. I felt the moment that had certainly
changed my life and my family. After
being hugged tightly by my father, my heart stopped beating fast.
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エッセイ、とてもよく書けてるよ!!
パパのブログに載せていい?
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あのさ読んだならフィードバックくれないの?
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とてもよく書けてるよって言ったじゃん!
もっと、 ここはこう書いた方が良いとかのフィードバックがほしいの?
もっと、
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それは感想じゃないよ。
ブログ載っけてもいいけど感想が聞きたいね。
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ブログ載っけてもいいけど感想が聞きたいね。
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今、じいちゃんと四万温泉に来てるんだ。
普段は今現在のことに夢中で過去のことを振り返る余裕はないんだけど、こうやってゆっくり温泉に浸かってのんびりすると、祐馬の感想を書けるんだ。
祐馬とじんが、寒いからもう帰るって、ホテルの部屋に戻ったのは3時頃だっけ?
その後、ママと2-3本滑って、これで最後ねという時にママはパッタリ倒れたんだ。だから4時頃だったんじゃないかな。そりゃあ夢中で人工呼吸と心臓マッサージをしてたから、子ども達のことを考える余裕なんかなかったな。30分くらい一人で心肺蘇生をしていたらスキー場のお医者さんが来て、二人で心マッサージと人工呼吸を分担してもママは一切反応せず、瞳孔が開いてきてスキー場のお医者さんはこりゃヤバいななんで言ってたけど、パパは何の感情もわかず必死だったよ。1時間くらいして、やっと麓から救急車がやってきて、救急隊が心肺蘇生をやってくれて、パパの手が空いて、ホテルに電話したんだ。妻が倒れてこれから病院に同行するから遅くなる、子ども達をよろしくってね。パパの気持ちは動転してわけが分からなかったけど、必死にこらえて平静を保とうとしていたと思う。ホテルの人は事の重大さを理解してくれて、しっかり任せられたから、じんと祐馬がどんなに不安な思いをしていたかなんてわからなかったよ。祐馬は夕ご飯とかお風呂とか、じんのことを良く見ていてくれたんだね。
祐馬からもケイタイに何度も電話がかかっていたのは分かってたけど、とる余裕はなかったし、祐馬と話せることもなかったと思う。じいちゃんには電話して、優子が倒れてこれから病院に行く、祐馬が心配して電話かかってくるかもしれないからよろしくって言っといた。
救急車の中で心電図をとっても波形は一切反応せず。でも病院に着いたらきっとなんとかなるはずだって思っていた。ママが病院の集中治療室で治療を受けていた小一時間の間に祐馬まに電話しようと思えばできたんだ。でもできなかったよ。がらんとした待合室で座るベンチはたくさんあるのに、座ることも出来ず、ウロウロ歩き回って何も出来なかったよ。集中治療室のお医者さんに、「手を尽くしましたがダメでした。残念ながら、、、」と言われ、そうなることは予期していたけど信じることが出来ず、一瞬ワッと泣いたけど、泣いてなんかいられない、ママの身体は?、子ども達は?、、、これからどうすればいいのかさっぱり分からなくなって、まきたおじさんに電話して、すぐに来てくれませんかってお願いしたんだ。病院からホテルに戻るタクシーの中で生田のばあちゃんやおじいちゃんとかに電話して、ワンワン泣いて、運転手さんに、「僕はどうしたらいいんですかぁ?」なんて言って、運転手さんも何て言っていいか困ってたみたい。祐馬が電話で、どうしたの?ママは?説明して!なんて言われても、電話じゃとても言えなかった。
ホテルの部屋にやっと戻って、祐馬はワンワン泣いて予期していた風だったからまだ言いやすかったけど、あっけらかんとしていたじんにママの死を伝えるのが一番辛かったよ。泣きじゃくる子ども達をギュッと抱きしめたのは覚えているけど、その時、祐馬の心臓のドキドキが落ち着いたことは知らなかったな。祐馬とじんにとってこの瞬間に、パパにとっては病院で臨終を告げられた時に、みんなの人生が完全に変わっちゃったよね。
ママの心臓発作はこれが初めてではなく、小さいのを2-3回起こしていたんだ。じんの妊娠中にも小さいのを起こして、2-3日入院する程度で済んだのだけど、出産は危険だから堕した方が良いなんて当直医は言ったんだ。その後、主治医は大丈夫だろうということで、がんばってじんを産んだんだ。もう一回、亡くなる2-3ヶ月前にも小さな発作があって、虎ノ門病院に駆け込んだけど、入院せずに済んだ程度だったんだ。こうやって振り返ってみれば、ママも結構ヤバかったんだよ。でも普段は元気だったから、パパもママもヤバいなんて深刻には受け止めていなかった。でもママはあまり言わなかったけど自分の身体のことは分かっていたのかもしれないね。
ホテルの人は本当に良くしてくれたんだ。夜中に帰りますって言ったら、料金はいりませんって言ってくれてたし、夜の山路は凍って危ないからって、麓のママの病院までホテルの車で送ってくれたよね。祐馬が車の中で喉渇いたって言って、パパのコーヒーしかなくて飲ませたら「苦〜い」って言ってあまり飲まなかったよね。
ホテルの人はお葬式にも来て暮れたみたい。万座プリンスはスキー場の中にあるし、とても眺めがいい露天風呂があって、ママとも何度も来たことがあったんだ。その後は行ってないけど、いつか子ども達とも行ってスキーできたら良いね。
思えば、あの晩はホテルで休んで、翌朝東京に戻っても良かったんだよ。でも、そんなこと思いつかなかった。ホテルにいてものんびりもできるわけないし、眠れないだろうし、クタクタだったはずだけど疲れを感じる余裕もなかったし。寝台車を病院から手配して、夜中に帰ることにしたんだ。車の中で子ども達は寝てたよね。運転しながら、ホントはいけないんだけど、あちこち電話してた。えっちゃんとか、高木ママとか。
明け方に東京に戻って、少し寝たのかな。よく覚えていないけど、4日の午後には保育園ママ達とか子ども達とか、夜には保育園パパたちも来てくれたよね。最初の晩にはゆきのとさえも一緒に泊まったんだったっけ?怖くて夜眠れなかったよね。オバケが怖いとかじゃなくて、悲しみが怖いと言うか圧倒されるというか。
その後は一週間後のお葬式まで必死だったし、お葬式の後も必死だったし、ある意味、今だってその必死状態は続いているのかもしれないよ。
そういえば、お葬式のビデオ、最近見たんだ。ビデオ撮ったことは知ってるでしょ?大切な記憶を失いたくなかっらからえっちゃんか誰かの知り合いのプロの人に撮ってDVDにしてもらったんだ。でも、いままでずっと見る気は起こらなかったんだけど、最近見たんだ。その話はまた別の時にするね。
ママが死んで、家族みんなに人生がガラリと変わったよね。
祐馬の人生はどう変わった?
パパの人生がどう変わったかというと、、、、
死んでからの方がママのことがよく分かるようになったかな。
ママとパパの夫婦関係とか「愛情」って何なのとか。
今までパパのまわりには当たり前に普通の愛情があったんだよ。子どもの頃は親の愛情があったし、ママとの愛情も全然普通だった。ママと知り合った頃、ママは普通に可愛かったし、普通に好きになって、普通に結婚して、普通に子ども達が生まれてきて。(ママは心臓に病気があったから、そんなに普通でもなかったけどね)
愛に満たされていることに何の違和感もなく、いくら夫婦ケンカしたって、結局パパとママの愛は盤石だったんだ。だから愛なんて意識しなかったし、そこにあることさえ気づかなかった。空気が普通にある時には空気の存在なんてわかんないけど、空気がなくなって窒息した時にはじめて空気の大切さがわかるでしょ!
ママを失って、満たされいたものを失った時に、何で満たされていたのが分かるんだ。悲しくて、寂しくて。子ども達や、じじばばや、友だちや、パパのことを分かっていてくれる人は一杯いるから、普段の生活は全然問題ないけれど、でもやっぱし寂しいんだ。その逆が愛なんだよ。そういう人生の孤独や不安を満たしてくれるのが愛なんだなって分かったんだ。
もうひとつ変わったのが、パパがひとり親になっちゃったことだ。
子ども達ともパパとの距離が近づいたよね。子供達にとってのランキングはママが1位、パパが2位だったけと、ママがいなくなってパパが自動的に1位に繰り上がったんだ。
ママが死ぬちょっと前に、全の受験の教育方針で寿司屋でケンカしたってことは話したよね。そんな感じでいつも二人であーだこーだと子ども達のことをケンカしながら話し合っていたんだ。パパが一人になれば、あーだこーだと相談する人がいなくなった。そりゃあなんとなく相談できる人はいるけど、自分のこととして考える人はパパ一人になっちゃった。だからママからの妨害が入らずにパパの思い通りにやらせてもらってます。それが良いのか悪いのかはまだ判断できないよね。子ども達が一人前の大人になった時にどうだったか振り返って判断できると思うんだけど。でも、今のところ三人ともどうにかうまく育ってるよね。
ちゅけとじんについてはここでは言わないけど、
祐馬はママが死んだすぐ後に生理が始まったじゃん!? それも全く偶然ではなく、祐馬がグンと成熟したんだよ。というか、成熟せざるを得なかったのかもしれない。
小学校の卒業式でも、みんなと同じように中学の制服を着ないで自分の個性をしっかり主張してたじゃん!
中2になる春のオーストラリアも一人でちゃんと行けたし。パパもRyokoさん達がいたから安心して祐馬を旅立たせることができたよ。
中学でも頑張ってたよな。中3夏休みの塾は泣いてたけど、それも頑張りのひとつだ。
そして今もアメリカで頑張ってるよな。この調子で行けばオーストラリアでも祐馬は頑張ると思う。
と言っても祐馬は今その最中だからパパが「頑張ってるよな!」とか言うと拍子抜けするよな。そりゃあママが死なずに生きていても子ども達は普通に頑張ったと思う。けどママがいないんだという悲しみというか大変だという危機感が、なんとなく意図せずとも普通以上に頑張るはめになっちゃったんじゃないかな。
そういう意味では祐馬はすっごく大人だと思うよ。これだけ5年前の出来事や自分の気持ちをちゃんと言い表せる人ってそうはいないんだ。みんなそこまでできないもん。
外面は背が低くて童顔でとてもseniorには見えなくても、内面はすっごくしっかりしているよ。英語でもこんな風に普通に喋れるようになれば、友だちやまわりの人もそのことに気づくんじゃないかな。Momはそのこと既に分かっている?
祐馬がこうやってママが死んだ晩の気持ちを克明に表現したから、パパもあの時のことを振り返って表現することができたんだ。これってとても大切なことだよね。大切なママの記憶だから絶対忘れちゃいけないんだ。でもあまりに悲しい出来事だから普段は出せないもんね。祐馬がこうやって振り返る機会を与えてくれた。それはパパ自身にとっても大切なことなんだ。
ちゅけやじんはそんなことしないよ。
祐馬は十分に強いよ!
Monday, September 1, 2014
I need to be in love.
The hardest thing I've ever done is keep believing
There's someone in this crazy world for me
The way that people come and go through temporary lives
My chance could come and I might never know
So here I am with pockets full of good intentions
But none of them will comfort me tonight
I'm wide awake at 4am without a friend is sight
Hanging on a hope but I'm alright.......
I know I need to be in love
I know I've wasted too much time
I know I ask perfection of a quite imperfect world
And fool enough to think that's what I'll find
カーペンターズの名曲(懐メロ)。これが邦題「青春の輝き」って全く意味ないでしょ。
------
I need to be in love.
この世で、愛がなければ生きていけないんだ。
このことに、やっとこの歳で気づいた。もうすぐ57歳だよ、おやじさん!!
それでも良いじゃないか。何歳になっても、新しいことに気づくことができるなんて素晴らしい。
自分のために、誰かがいる、、、ってことを。
私の場合、それは親から自明に与えられたことだった。
なにも気づく必要もない。そこに当たり前に居てくれるから。だから自分が生まれたんだもの。自分の存在の根拠だった。
親からの盤石な愛着は、十代の頃、友人や恩師へのネットワークに広がった。
部活をやっている時は、仲間が自分のためにいてくれた。
中学の吉澤先生だって、私のことを見ていてくれた。
20代は必死に愛を求めていた。でも、今から考えれば全然わかっていなかった。
本能の赴くまま、当然のこととして、学歴や職業と同じように、当然得るものとして、一生懸命求めていただけなんだ。そこに含まれている意味なんて気づかなった。
多少、試行錯誤した後に優子を得た。それがどんなにラッキーだったかなんてわからなかった。良い大学を得て、良い職業を得て、その延長線上で良い妻を得たくらいにしか思っていなかったのかもしれない。
子どもたちを得た20年間、特に意識せずに愛を分け与えてきた。なにもそれは特別なことではない。自分が経験してきたこと普通に繰り返しただけだ。
そして、優子を失い、年月をかけてパニックを鎮めて、失った現実を受け入れた時、
それまであまりに自明過ぎて見えなかった愛という存在が可視化された。
孤独を回避するために愛があるのではない。もっと積極的な意味がある。
愛こそが、生きている意味なんだよ。
ひとりではない、、、ということ。
もちろん、ひとりではない。私のまわりにはたくさんの人がいる。親だって、子ども達だって。
社会からもたっぷりの承認を得て、私のことをあてにしてくれる人だってたくさんいる。
生きがいに満ちているんじゃないの!?
そう。それは否定できない。
それでも、ひとりなんだ。
ひとりだって生きていける。自分が生きている意味はある。生きていないよりは、生きている方が良いのだろう、とりあえず。
愛は死の対局にあるのかもしれない。
根源的な安心感なのだ。それは幻想に過ぎないことはわかっている。
この世なんで仮の世界、crazy worldだ。
やがて人は死に、自己という存在がなくなる。
なくなるまでの、つかの間の短い人生に意味を持たせるものが愛。根源的な喜びなんだ。
うつろな世の中に、確実な人がいるという驚異。
肌が触れ合い、心が触れ合い、自分のために相手がいる。自分のことをずっと見ていてくれる。
理屈では説明できないが、心の底から安心できる。
もう寂しくなんかない。ひとりでいても、孤独ではない。前に進む勇気を得るんだ。
今までずっと気づかずに体験してきたことが、やっと言葉で説明できるようになった。
そう、愛なんだよ。
愛が人生の基本なんだ。
クライエントに向き合っている時も同様だ。
診察室での1時間は、完全にその人のためにいる。相手が自分のために居てくれるという安心感が、セラピーの基本なんだ。心理学や精神医学の理論では説明できない大切なことにやっと気づいた。
人に愛を分け与えるということの意味が。
There's someone in this crazy world for me
The way that people come and go through temporary lives
My chance could come and I might never know
I used to say "No promises Let's keep it simple"
But freedom only helps you say Goodbye
It took a while for me to learn that nothing comes for free
The price I've paid is high enough for me
I know I need to be in love
I know I've wasted too much time
I know I ask perfection of a quite imperfect world
And fool enough to think that's what I'll find
So here I am with pockets full of good intentions
But none of them will comfort me tonight
I'm wide awake at 4am without a friend is sight
Hanging on a hope but I'm alright.......
I know I need to be in love
I know I've wasted too much time
I know I ask perfection of a quite imperfect world
And fool enough to think that's what I'll find
カーペンターズの名曲(懐メロ)。これが邦題「青春の輝き」って全く意味ないでしょ。
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I need to be in love.
この世で、愛がなければ生きていけないんだ。
このことに、やっとこの歳で気づいた。もうすぐ57歳だよ、おやじさん!!
それでも良いじゃないか。何歳になっても、新しいことに気づくことができるなんて素晴らしい。
自分のために、誰かがいる、、、ってことを。
私の場合、それは親から自明に与えられたことだった。
なにも気づく必要もない。そこに当たり前に居てくれるから。だから自分が生まれたんだもの。自分の存在の根拠だった。
親からの盤石な愛着は、十代の頃、友人や恩師へのネットワークに広がった。
部活をやっている時は、仲間が自分のためにいてくれた。
中学の吉澤先生だって、私のことを見ていてくれた。
20代は必死に愛を求めていた。でも、今から考えれば全然わかっていなかった。
本能の赴くまま、当然のこととして、学歴や職業と同じように、当然得るものとして、一生懸命求めていただけなんだ。そこに含まれている意味なんて気づかなった。
多少、試行錯誤した後に優子を得た。それがどんなにラッキーだったかなんてわからなかった。良い大学を得て、良い職業を得て、その延長線上で良い妻を得たくらいにしか思っていなかったのかもしれない。
子どもたちを得た20年間、特に意識せずに愛を分け与えてきた。なにもそれは特別なことではない。自分が経験してきたこと普通に繰り返しただけだ。
そして、優子を失い、年月をかけてパニックを鎮めて、失った現実を受け入れた時、
それまであまりに自明過ぎて見えなかった愛という存在が可視化された。
孤独を回避するために愛があるのではない。もっと積極的な意味がある。
愛こそが、生きている意味なんだよ。
ひとりではない、、、ということ。
もちろん、ひとりではない。私のまわりにはたくさんの人がいる。親だって、子ども達だって。
社会からもたっぷりの承認を得て、私のことをあてにしてくれる人だってたくさんいる。
生きがいに満ちているんじゃないの!?
そう。それは否定できない。
それでも、ひとりなんだ。
ひとりだって生きていける。自分が生きている意味はある。生きていないよりは、生きている方が良いのだろう、とりあえず。
愛は死の対局にあるのかもしれない。
根源的な安心感なのだ。それは幻想に過ぎないことはわかっている。
この世なんで仮の世界、crazy worldだ。
やがて人は死に、自己という存在がなくなる。
なくなるまでの、つかの間の短い人生に意味を持たせるものが愛。根源的な喜びなんだ。
うつろな世の中に、確実な人がいるという驚異。
肌が触れ合い、心が触れ合い、自分のために相手がいる。自分のことをずっと見ていてくれる。
理屈では説明できないが、心の底から安心できる。
もう寂しくなんかない。ひとりでいても、孤独ではない。前に進む勇気を得るんだ。
今までずっと気づかずに体験してきたことが、やっと言葉で説明できるようになった。
そう、愛なんだよ。
愛が人生の基本なんだ。
クライエントに向き合っている時も同様だ。
診察室での1時間は、完全にその人のためにいる。相手が自分のために居てくれるという安心感が、セラピーの基本なんだ。心理学や精神医学の理論では説明できない大切なことにやっと気づいた。
人に愛を分け与えるということの意味が。
Monday, June 9, 2014
優子と子どもたちの往復書簡
喪の作業を終了しでも、ブログに書く仕事は続けたい。営業用ブログとは別に、自分自身の物語は続いていく。
というわけで、ブログのタイトルを変更します。(確か、初期の頃も一度、変更したような覚えが、、、)
これまでは「優子とみんなの往復書簡」でしたが、
今日からは、「優子と子どもたちの往復書簡」です。
といっても、子どもたちはこれを読んでいない前提で書きます。
初期の頃は祐馬が読んでいたけど、最近はもう見てないよな!?
さすがに、もうここに来て読んでいる人って少ないよ、きっと。自分の閉じた日記帳に書いても良いのだけど、どうせなら少数の読者が居てくれた方が書きやすいからね。
優子の悲しみの井戸が空に近くなった今、私の不安の源泉は子どもたちに移行しているんだ。
ひとり親だからではない。思春期の子をも持つ親としての普通の不安だね。
それは、家族臨床で出会う親たちの不安とシンクロしている。
そんで、こうやって書いて、ママに報告するからね。
というわけで、ブログのタイトルを変更します。(確か、初期の頃も一度、変更したような覚えが、、、)
これまでは「優子とみんなの往復書簡」でしたが、
今日からは、「優子と子どもたちの往復書簡」です。
といっても、子どもたちはこれを読んでいない前提で書きます。
初期の頃は祐馬が読んでいたけど、最近はもう見てないよな!?
べつに読んでいても良いけど。
君たちのことを現在進行形で書くけど、君たちのプライバシーを侵しているわけじゃないよ。
あくまで、君たちを題材にしているだけで、パパの気持ちを書いているんだからね。客観的事実とは違うかもしれない。いずれにせよ、君たちのプライバシーは保護者である私が責任を持つから大丈夫だよ。
さすがに、もうここに来て読んでいる人って少ないよ、きっと。自分の閉じた日記帳に書いても良いのだけど、どうせなら少数の読者が居てくれた方が書きやすいからね。
優子の悲しみの井戸が空に近くなった今、私の不安の源泉は子どもたちに移行しているんだ。
ひとり親だからではない。思春期の子をも持つ親としての普通の不安だね。
それは、家族臨床で出会う親たちの不安とシンクロしている。
そんで、こうやって書いて、ママに報告するからね。
ーーーーーーーーーーーー「ひきこもり脱出支援マニュアル(PHP出版)」のあとがきより引用。
第三子の次男は中学3年生で、もうすぐ高校受験です。彼の両親も兄も姉も、都立の進学高に進学しています。彼もそれを希望していますが、成績が不十分で平均3のレベルです。2学期には頑張って平均4に近いレベルまで成績が伸びました。私はそれをほめるのですが、息子は喜びません。まだ、自信を得るための成功体験とカウントしていないようです。彼は家族の期待を成就できず、彼が望むきょうだいのような学校に進学できなくても、自信を獲得できるのだろうか、自立して幸せになるのだろうか、父親として心配します。
学校の先生や友人に相談しても、何の問題もない言います。私も人から相談を受ければ、全く心配ないと言うでしょう。しかし、自分の子どものこととなると判断が停止してしまいます。
幸せになれないかもしれないと心配するのは、子どもを信じていないということです。親のエゴに過ぎません。親が子どもに期待して、勝手に悩みを作っているに過ぎません。
こうやって自分の価値観を点検してみると、自分が如何に学力(頭の良さ)という一つの指標に縛られてきたかということがよくわかります。世の中にはさまざまな価値があります。サッカーがうまかったり(運動能力)、背が高かったり(身体能力)、イケメンで女の子にもてたり(美しさ)、ピアノや絵画が上手だったり(芸術的才能)、いくらでも自己を承認する指標はあるのに、それらを使わず学力のみに頼ってきました。偏差値が高いという価値は決して間違っているわけではありません。とても大切な価値です。ただ、それが唯一の価値ではなく、多様な価値の一つに過ぎません。しかし、それを際立たせるために他の価値を見過ごしてきました。
私は、自分の親のようになりたいと思ってきました。いえ、当時はそんなことを意識しませんが、いまから振り返れば親が目標でした。親の価値観に叶う人間になり、親からの承認を得たかったのです。自分の命の由来である親から認められることで、自分という価値が肯定されます。
より豊かな社会を作り、幸せな人生を送るために質の高い教育は大切です。しかし、学歴がすべてではないはずです。偏差値が高くなくても、家族の期待に応えられなくても、人は十分に幸せになるチャンスはあります。それはあまりにも自明のことなのに、自分自身の子どものことになると思考が停止してしまいます。どうやって次男を承認したらよいのだろう。どうやったら次男は、親からの承認を得ることができるのだろう。
私の両親も、私自身も妻も、上の子ども二人も、みな学力という資質を頼りに自尊心を作ってきました。父親は東大卒です。母親はその年代には珍しく四年制の有名女子大学を卒業しています。私は国立大医学部卒で、兄と姉も名の通る高校に通いました。次男はこれから高校受験という初めての関門をチャレンジします。もし彼が家族の期待に見合う資質を持ち合わせていないとしたら、彼はどうやって生きる自信を獲得していくのでしょう。自分自身も家族を見渡しても、学力以外の価値を糧に自信を得た人を知りません。社会の中には学力以外で幸せを掴んだ人がたくさんいるのに、そういう人々には目が向かないのです。いままで、私はいかに狭い価値観のなかで生きてきたかということを、次男は気づかせてくれました。
いま、次男に向き合い、私は父親として何を与えられるのか自信がありません。このように考えること自体、親の心配し過ぎであると、理屈ではわかります。親の思惑とは別に、子どもは自分で試行錯誤して価値を作っていくことを信頼しなくてはいけません。そう思いつつも、何とか子どもが価値を見出すための環境を整えてあげたいと考えています。
次男には、無条件の承認を与えたいと願っています。勉強ができなくても、暴れん坊でも、性格が悪くても、根底のところでは彼は「良いやつ」なんだ、生きる価値がある人間なんだと彼を信頼したいのです。親にとって、子どもがいかにかけがえのない存在であるか。それは彼を甘やかしたり、彼の言いなりになることではありません。彼の内面の強さを信じて、彼が獲得したものや、彼の努力を評価したいのです。
偏差値の高い大学に行かないかもしれない。高卒かもしれない。正社員になれないかもしれない。フリーターかもしれない。彼の人生がどんな状況であっても、私にとって彼の価値は変わりません。幸せになってほしい。この世に生を受けたことを喜んでほしい。でも、私は親としてそれを保証してあげられるのか、自信がありません。
これが私の本音です。まわりから見ればごく単純なことのはずなのに、当事者の席に座ると、客観性を失い、不安の渦の中に巻き込まれます。
--------- 引用終わり。 ---------
これを書いたのが3月の入試前だった。その後のことを、ここに書き加えていきます。ということは、時系列的にちょっと前後するけど、3月以降の日付の記事を後から書いてます。
ブログタイトルを変更します。
Tikiさん、もうあんまりブログは書かないんですか?
ああ、ずっとチェックしてくれているんですね!?ありがとう!
残念ながら、優子のことはもう絞り出してもあんまり出てこないんですよ。
先日の相談で、ある喪の作業が終わらないクライエントの涙腺をちょっとつついたら、涙がどっと溢れて来た。
心のポリタンクには4リットルくらいの涙が溜まるんですよ。ちょっと突いたら涙があふれてきます。でも、それは無限じゃない。4リットルを出し切ったら、涙の伴わない悲しみになるんです。そうしたら楽だね。自由に悲しむことができるようになる。いちいち、心を突き動かされて辛くならずに済みますから。
ブログを書くという私の喪の作業も、もう終了が近づいてきたかな。
本に思いっきり書いたのが良かったかもしれない。
ーーーーーーーーーーーー「ひきこもり脱出支援マニュアル(PHP出版)」のあとがきより引用。
そして、私は30代半ばで父親になりました。それは私にとって仕事上のどんな成功よりも、幸せな体験でした。祖父から父へ、父から私へ伝えられた愛情を、私から子ども伝えることができます。
妻の立ち会い出産は、男性にとって絶好の「父親」になるチャンスです。女性が10ヶ月もの長い間、身体に子どもを宿し、身体の中から「母親」になってゆきますが、男性はその体験を持てません。せめて陣痛の時に妻の背中をさすり、分娩台の横に立って妻の手を握り、「ヒッ、ヒッ、ハー」と妻と呼吸を合わせて、親になる瞬間を共有したいと思いました。無事に出産して、妻が後産(胎盤の処理)をしている数分の間だけ父親は新生児と対面できます。当時の産院では、母子が退院するまで父親は赤ちゃんに触れることはできませんでした。誕生したばかりの我が子に何度も語りかけました。「赤ちゃん!(まだ名前を付けていないので、そうしか呼べません)わが子よ。僕が君のお父さんだよ。よろしくね。これから君のことをしっかり守り、しっかり育てることを誓うよ!」と何度も心の中で唱えました。私自身が父親であることを自分自身に焼き付けておきたかったのです。
おかげで、20年前の刻印は今でも強く残っています。その後の出産も同じ病院で同じように立ち会ったのですが、2回目、3回目の記憶は不思議と残っていません。初めて父親になった時が私にとっての記念日でした。
妻も私もフルタイムの仕事を持っていたので、育児休暇が明けると、子どもたちを保育園に預けました。子どもたちは、妻と私の生きがいです。ふたりとも、子どもを育てることに必死でした。父親としてがんばったつもりでも、結局は私が仕事や週末のゴルフで抜けて、妻の過重負担は避けられません。「あなたは外では偉そうに子育て論を唱えているかもしれないけど、自分の家族はどうなっているの!」と妻からそしられ、夫婦でたくさん喧嘩しました。結婚当初の若い頃は6歳下の妻を言い負かすことができました。しかし、子どもが生まれてからは口論すると、どうしても妻の方が負担が大きいことが明らかになり、私の部が悪くなり言い負かされていました。
その妻を5年前に突然の出来事で亡くしました。妻は子どもの頃の伝染病の後遺症で心臓の冠動脈が狭窄していました。若い頃何度か手術をして健康を取戻し3人の子どもとフルタイムの仕事を持つことができました。しかし、5年前のお正月に家族でスキー滑降中に心筋梗塞で倒れ、そのまま帰らぬ人となりました。
私は、人生最大の悲しみに直面しました。それから半年くらい、何度も妻が生き返った夢を見ました。夢の中で再会の喜びに泣き、夢から目覚め現実に戻ってまた泣きました。3人の子どもたちと私が「うつ」になることが恐ろしく不安でした。心と身体の調子を崩し、日常生活が立ち行かなくなる「うつ」がどれほど苦しいかよくわかっているから、もしその兆しがみえたら、仲間の精神科医に薬を処方してもらおうと考えていました。眠ることが怖かったので睡眠導入剤は服用しましたが、結局、抗うつ薬や精神安定剤は使わずに済みました。
大切な人を失った心の傷は、大切な人と繋がることが最も効果のある薬だと実感しました。
妻を亡くした直後からお葬式までの一週間は、近所に住む保育園時代のパパママ仲間が交代で家に来てくれて、思考停止に陥っている私たちを心身両面から支えてくれました。その後も、保育園仲間の土肥悦子さんや、私の学生時代からの友人である小松崎涼子さんが子どもたち、特に多感な娘の母親役として支えてくれています。
保育園パパ仲間の高島亮さんの勧めで、妻の死後3日目からブログを始め、私の悲しみの軌跡を書き出しり、親しい人たちに受け止めてもらいました。書くことと同時に、語ることも必要でした。カウンセラーである私がクライエントとなり、グリーフ(悲嘆)・カウンセリングを受けました。信頼できる人に私の気持ちを十分に表出することで、かろうじて心のバランスを保ってきました。
そしてなにより一番の力になったのは私の両親です。我々は二世帯住宅を構えていますが、妻のいた頃は、ふたつ世帯はドアで区切られていました。妻の死後、そのドアは開放され、ひとつの三世代家族になりました。父親は私と子どもたちの気持ちを支え、母親は炊事・洗濯など生活を抱えてくれています。20年以上前に嫁いだ妹も、私の家族と仕事を側面から支えてくれています。
私の世界観は妻を亡くした5年間で大きく変わりました。
まず、私の住む世界が小さくなりました。以前は生きがいを社会という大きな枠組みの中に位置づけていました。大学教授や医師という社会的役割を担い、授業や診療やメディアを通してより多くの人々に自分の存在を知らしめたいと思いました。それがこの5年は家族や友人、臨床で出会う少数の患者さんなど、より近い関係性の中に生きがい求めるようになりました。大学教授を辞めて精神科診療所を開業したのもそういう理由からです。
そして、人の苦しみや痛みを深く実感できるようになりました。やっとユングのいう「傷ついた支援者 (wounded healer)」になれました。自分で痛みを体験していないと、他者の痛みを想像や理屈で理解するしかありません。順調に人生を歩んでいた頃は、人の痛みの表面しかとらえていなかったことに気づきました。
Thursday, March 20, 2014
Monday, March 10, 2014
ホテルピアノ
そう、あの席だったよ!
あそこで、Uご夫妻と、優子と、やっと1歳のお誕生日を迎えた全と一緒に夕食をとったんだ。その写真が残っている。あそこの席で写真を撮ったんだよ。ソファの席だったからよく覚えている。
20年前の記憶がフラッシュバックのように甦ってきた。なぜか涙も吹き出してきた。
キロロリゾートのホテルピアノは20年前はデラックスホテルだったけど、今となっては設備も古さが目立つ。
いや、まだ立派ですよ。良いですよ。でも部屋でネットは使えないし、温泉設備やレストランは吹きっさらしの寒いソトに出て行かなければならないし、20年のギャップはいたしかたない。
でも、私は20年前も、今も、あるいは40年前からずっとスキーを続けている。それは変わらないんだ。20年前は優子とちゅけと、Uさんご夫妻とNちゃんと。Uさんの奥さんがホテルでちゅけの子守りを手伝ってくれて、優子とボクが交代でスキーをしたんだ。
今回は、私とUさんとふたりだけ。Uさんの奥さんは、冬の外出は避けたいと不参加。Nちゃんも不参加。ちゅけを誘ったら、はじめは「うん、行こう!」とか言ってたけど、友だちとフィリピンにダイビングに行くというので不参加。優子も天国にいるから不参加。残ったのは男ふたりだけ。でもいいよね。それでもやりましょう!
そのちゅけは、北海道で自立してしまった。家を出て行くとき、今に並んでいるたくさんの家族写真の中から、どれか持って行っても良い? おお、どれでも好きなのを持って行きな! 選んだのは、優子と私の間に挟まれ、満面の笑顔の赤ちゃんの全。北海道の下宿に訪ねると、それが飾ってあった。そうだよ。君は無条件に愛されたんだよ。父親と母親から。そのことは、自信を持っていい。親から離れても、親が遠くにいても、天国にいても、君が生まれた時から限りなく愛されているということは、疑いのない事実だ。そのことは自信を持っていい。
パパは、そのレストランにひとりで朝食をとっている。たまたまノートPCを朝食会場に持ってきたんだ。だから、食後のコーヒーを飲みながら、20年前の思い出のテーブルの横で、涙を流しながらこれを書いている。今も、小さな子ども連れの家族がそのテーブルで食事をとっている。
20年前、優子と私は自信なんか何もなかった。そしてちゅけが生まれた。それはかけがえのない喜びであったことだけは自信があった。でも、どうやって子どもに向き合ったら良いのか、どうやって子どもを育てたら良いのかなんてよくわからない。ただ、できることを何とかやっていただけだった。家族と一緒にいたい。子どもを育てなければ。でもスキーもしたい。優子はべつにしたくもなかっただろうけど、息抜きの旅行だってしたいよな。北海道に行こう。Uさんたちとスキーに行こう。まだ1歳になったばかりの子どもをどうやって連れて行くの?スキーなんて無理でしょ。いや、Uさんたちと行けばなんとかなるよ。わざわざ飛行機に乗って、札幌まで来て、さらにその奥のスキー場まで行って。
この記憶は、パパにとってもとても大切なんだ。子どもを無条件に愛したという記憶は、親にとっての自信にも繋がる。
優子も無条件に愛したんだろうか?無条件じゃあなかったよな。条件付きだった。子どもへの愛と、パートナーへの愛は、ぜんぜん違うでしょ。
あそこで、Uご夫妻と、優子と、やっと1歳のお誕生日を迎えた全と一緒に夕食をとったんだ。その写真が残っている。あそこの席で写真を撮ったんだよ。ソファの席だったからよく覚えている。
20年前の記憶がフラッシュバックのように甦ってきた。なぜか涙も吹き出してきた。
キロロリゾートのホテルピアノは20年前はデラックスホテルだったけど、今となっては設備も古さが目立つ。
いや、まだ立派ですよ。良いですよ。でも部屋でネットは使えないし、温泉設備やレストランは吹きっさらしの寒いソトに出て行かなければならないし、20年のギャップはいたしかたない。
でも、私は20年前も、今も、あるいは40年前からずっとスキーを続けている。それは変わらないんだ。20年前は優子とちゅけと、Uさんご夫妻とNちゃんと。Uさんの奥さんがホテルでちゅけの子守りを手伝ってくれて、優子とボクが交代でスキーをしたんだ。
今回は、私とUさんとふたりだけ。Uさんの奥さんは、冬の外出は避けたいと不参加。Nちゃんも不参加。ちゅけを誘ったら、はじめは「うん、行こう!」とか言ってたけど、友だちとフィリピンにダイビングに行くというので不参加。優子も天国にいるから不参加。残ったのは男ふたりだけ。でもいいよね。それでもやりましょう!
そのちゅけは、北海道で自立してしまった。家を出て行くとき、今に並んでいるたくさんの家族写真の中から、どれか持って行っても良い? おお、どれでも好きなのを持って行きな! 選んだのは、優子と私の間に挟まれ、満面の笑顔の赤ちゃんの全。北海道の下宿に訪ねると、それが飾ってあった。そうだよ。君は無条件に愛されたんだよ。父親と母親から。そのことは、自信を持っていい。親から離れても、親が遠くにいても、天国にいても、君が生まれた時から限りなく愛されているということは、疑いのない事実だ。そのことは自信を持っていい。
パパは、そのレストランにひとりで朝食をとっている。たまたまノートPCを朝食会場に持ってきたんだ。だから、食後のコーヒーを飲みながら、20年前の思い出のテーブルの横で、涙を流しながらこれを書いている。今も、小さな子ども連れの家族がそのテーブルで食事をとっている。
20年前、優子と私は自信なんか何もなかった。そしてちゅけが生まれた。それはかけがえのない喜びであったことだけは自信があった。でも、どうやって子どもに向き合ったら良いのか、どうやって子どもを育てたら良いのかなんてよくわからない。ただ、できることを何とかやっていただけだった。家族と一緒にいたい。子どもを育てなければ。でもスキーもしたい。優子はべつにしたくもなかっただろうけど、息抜きの旅行だってしたいよな。北海道に行こう。Uさんたちとスキーに行こう。まだ1歳になったばかりの子どもをどうやって連れて行くの?スキーなんて無理でしょ。いや、Uさんたちと行けばなんとかなるよ。わざわざ飛行機に乗って、札幌まで来て、さらにその奥のスキー場まで行って。
この記憶は、パパにとってもとても大切なんだ。子どもを無条件に愛したという記憶は、親にとっての自信にも繋がる。
優子も無条件に愛したんだろうか?無条件じゃあなかったよな。条件付きだった。子どもへの愛と、パートナーへの愛は、ぜんぜん違うでしょ。
Monday, January 13, 2014
仙台への新幹線
仙台へ向かっていた。
3年前に開催されるはずだった大会が震災のために中止になった。街の機能が停止した。その後、復興して今年再度やることになった。
3年前に開催されるはずだった大会が震災のために中止になった。街の機能が停止した。その後、復興して今年再度やることになった。
小山を通過した。
5年前、ここで講演を頼まれていた。しかし、その1−2週間前(だったか?)に優子を亡くした。電話で主催者に詫び中止にしてもらった。
その頃、私の心の機能が停止していた。
葬儀が終わり、授業はやった。でも、まともな授業はできない。「家族関係学」の授業で優子を亡くした体験を話して学生の前で思いっきり泣いた。授業でそんなことするかよ!思いっきり壊れていた。学生は一生懸命聴いてくれたけど。
亡くして2週間後にセンター試験の監督の仕事があった。とてもまともに判断できる自信がなかったので、頼み込んで監督から外してもらった。
優子を亡くしてから1ヶ月くらいかな。一見、ふつうに生活はしていたけど、心はマトモには動いていなかった。深い意味では機能を停止していたと思う。
Saturday, January 4, 2014
優子の夢
こんなこと書いてたからか、久々に優子の夢を見た。
子どもを連れて優子の職場へ行った。横断歩道を渡り、通りの向こう側にあるビルの中の小さなオフィス。狭い部屋に机が付いたパイプ椅子を並べてに座り、前で誰かがパワポでプレゼンテーションをしようとしている。なかなか出てこないので後ろに座っている優子に目配せして先に部屋を出る。
子ども「ねぇ、どうして先に帰っちゃうの?」
私「なかなか出てこないからだよ。」
ここは小さな翻訳出版社。優子は自分のやりたいことが出来るから面白いらしい。
Tiki from iPhone
子どもを連れて優子の職場へ行った。横断歩道を渡り、通りの向こう側にあるビルの中の小さなオフィス。狭い部屋に机が付いたパイプ椅子を並べてに座り、前で誰かがパワポでプレゼンテーションをしようとしている。なかなか出てこないので後ろに座っている優子に目配せして先に部屋を出る。
子ども「ねぇ、どうして先に帰っちゃうの?」
私「なかなか出てこないからだよ。」
ここは小さな翻訳出版社。優子は自分のやりたいことが出来るから面白いらしい。
Tiki from iPhone
Dear Tiki,
We wanted you to know that you and your children are in our prayers.
Celebrating Yuko's life and appreciating how much she's continued to give us all and to touch our lives, will we spend a quiet reflection time today for her and your family.
Thank you for keeping Yuko on your hearts. Yes, it has been five years. It has been the most challenging time for me and my kids, but we somehow managed to survive. The pain of loosing the beloved one can only be healed by beloved ones. Thank you for all your support. It means a lot to us.
Tiki from iPhone
Celebrating Yuko's life and appreciating how much she's continued to give us all and to touch our lives, will we spend a quiet reflection time today for her and your family.
Thank you for keeping Yuko on your hearts. Yes, it has been five years. It has been the most challenging time for me and my kids, but we somehow managed to survive. The pain of loosing the beloved one can only be healed by beloved ones. Thank you for all your support. It means a lot to us.
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Friday, January 3, 2014
5年目
長野駅から野沢に向かう急行バスの中で書いている。あまり書く気分じゃないのだけど、今しか書くヒマないんだもの。仕方がない。
あと1時間して野沢温泉に着いたら友だち家族と合流して、まる一日滑って、夜はワイワイみんなで飲んで食って、6日までその繰り返し。
はっきり言って、もう優子のことなんかどうでもいいんだ、、、と思いたい。
ちょうど五年前も家族スキーだった。今回はじんは受験生で家に残し、祐馬と二人でやって来た。あれ以来、優子を亡くした万座温泉には行ってない。行っても構わないけど敢えて行こうとはしない。でもスキーはガンガン行ってるよ。今シーズンも3回は行く予定だ。パウダー用のファットロッカーの板も新調した。そうだよ、前向きだよ!前傾姿勢をとらないとスキーはコントロールを失うんだ。子どもたちも仕事もどんどん前に進んでいってしまう。心も前に持っていかないと生活から取り残されてしまう。
ホントは5年前の心のままで留まっていたいのかもしれない。その方が楽でしょ!前になんか進めたくない。
いや、俺の場合はそうではない。前に行かなきゃ気が済まないんだ。優子がいた時だってそうだったよな。ひとつの所に留まることができないタチなんだ。
その一方で、留まりたい、進めたくない自分もいる。敢えてそんなこと確認しなくたって、ずっとそこにいるでしょ!
もうすぐバスは着いてしまう。忙しくしたい、身体と心を取り敢えず何かで満たしておきたい自分と、空っぽにして残っていたい自分がいる。
でも、今のところはそんなこと言ってられない。体力と社会的役割が落ちてくれれば少しはのんびりするだろうけど、今はそんなヒマはない。焦燥しているわけでもない。
この気持ちは1年経っても、5年経っても、10年も経っても多分変わらないだろう。このままでいたい。
ダメだなぁ、ぜんぜん書く気分じゃない。無理やり書いてる感じだ。
Tiki from iPhone
あと1時間して野沢温泉に着いたら友だち家族と合流して、まる一日滑って、夜はワイワイみんなで飲んで食って、6日までその繰り返し。
はっきり言って、もう優子のことなんかどうでもいいんだ、、、と思いたい。
ちょうど五年前も家族スキーだった。今回はじんは受験生で家に残し、祐馬と二人でやって来た。あれ以来、優子を亡くした万座温泉には行ってない。行っても構わないけど敢えて行こうとはしない。でもスキーはガンガン行ってるよ。今シーズンも3回は行く予定だ。パウダー用のファットロッカーの板も新調した。そうだよ、前向きだよ!前傾姿勢をとらないとスキーはコントロールを失うんだ。子どもたちも仕事もどんどん前に進んでいってしまう。心も前に持っていかないと生活から取り残されてしまう。
ホントは5年前の心のままで留まっていたいのかもしれない。その方が楽でしょ!前になんか進めたくない。
いや、俺の場合はそうではない。前に行かなきゃ気が済まないんだ。優子がいた時だってそうだったよな。ひとつの所に留まることができないタチなんだ。
その一方で、留まりたい、進めたくない自分もいる。敢えてそんなこと確認しなくたって、ずっとそこにいるでしょ!
もうすぐバスは着いてしまう。忙しくしたい、身体と心を取り敢えず何かで満たしておきたい自分と、空っぽにして残っていたい自分がいる。
でも、今のところはそんなこと言ってられない。体力と社会的役割が落ちてくれれば少しはのんびりするだろうけど、今はそんなヒマはない。焦燥しているわけでもない。
この気持ちは1年経っても、5年経っても、10年も経っても多分変わらないだろう。このままでいたい。
ダメだなぁ、ぜんぜん書く気分じゃない。無理やり書いてる感じだ。
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