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Thursday, December 31, 2009

大晦日。

今年がもうすぐ終わってしまう。
優子のこととは別に、「終わり」には感傷的になってしまう。
息子たちはお笑いバカ番組を、娘は紅白を観ている。

僕も小学生のころは家族と一緒に紅白を観ていた。
中学か高校くらいになり、その構図に収まるのが何となくイヤになり、自室でひとり過ごすか、友だちと年越し山手線一周歩きなんかやったこともあったよな。
この一年は何だったんだろう?
若い頃は、よくそんな事も考えた。
ここ何年かは、大晦日の夕食としてなぜか手巻きずしが定着していた。
優子とスパークリング・ワインを傾け、「今年もお疲れさまでした!!」
紅白を見ながらワインをちびちび飲んでいるうちに、番組が終わる前にダウンして、優子が用意した年越しソバを食べそこなったり。

今年の夕食は、年越しソバだけで軽く済ませたので、まだワインは飲んでいない。
この一年は何だったんだろう?
それを考えようかな?
それとも、酒飲んで寝ちゃおうかな?

Tikiさん、もう十分考えたでしょう。もう、今日は寝たら?
あまり無理しないでよ。

そうだよな。この一年、そのことしか考えていなかったもの。
でも、どれほどこのブログに救われたことか!
今まで読み返す気がしなかった初期の記事を拾い読みしてみた。
優子の死後3日後から、よくこんなに書けたよな。
迫りくる圧倒的な感情を、ブログにぶつけ、言語化・外在化した。
気持ちを書き出し、掻き出していた。
それだけなら日記と同じだが、読んでくれる人が共感し、言葉を返してくれる。ブログへ直接コメントしてくれたり、手紙やメール、あるいは会ったときに「Tikiさん、読んだよ!」と何げない一言をくれる。
その言葉をタイプして、大事に持ち歩いているんですよ。電車の中とか、スタバとか、気持ちが詰まってきたら、その紙を見て、返事をメモするんです。帰って来てから、それを清書してブログにアップします。11月に喪中の挨拶を送ってから、さらに沢山の方々に支えられています。
深い感情を表現し、それを信頼できる他者が受け止めてくれる。これはまさにtherapyの基本なんだ。Blog Therapy。新たな分野を開拓できたかもしれない!
みなさんのおかげで、何とかこの一年、生きながらえることができました。
みなさんがいなかったら、多分ツブれていたでしょう!

さあ、これで今年はお仕舞いにしよう。あとは風呂に入って、酒飲んで寝よう。
明日の元日は、子どもたちとお墓参りに行くからな。待ってろよ、優子!

Wednesday, December 30, 2009

Genuine SADNESS

Dear Tiki,

I'm not sure whether you have Xmas holiday in Japan but the holiday seasons let me think constantly about you and the children. How you all are doing? Do you still write about your loss in your blog? What did you write recently? Which kind of emotions do you carry now as a result of the loss?

Dear Khawla,

Thank you for remembering me and my children. We are all fine. We do have Christmas holiday, but it is rather commercial than religious. New Year’s Day is the main holiday of the year here. Our works/schools are all off for a week, so it is a holiday season anyway.

Yes, I am still actively writing my blog. A few of the article in English, but most of them in Japanese. In fact, I will put this one on the blog as well. I am recently writing more in winter than the previous summer time. We had our wedding anniversary in October, Yuko’s birthday in November, national holidays in December/January and the deceased anniversary very soon. I have more emotions to write in the last couple of months.

I feel my sadness stays basically the same over the year, but its quality has changed a lot. It was like fresh blood bleeding, and I was afraid of being depressed or out of control last time I saw you in February. But now the scar seems to be covered with new skin on the surface. It looks superficially OK, but is still covertly bleeding inside.

I suppose I have done a pretty good job managing my emotions and our daily lives. My parents who live downstairs gave us an instrumental support of laundry and cooking. I gave enough sense of security to my three children, who are doing fine at home and their schools. My professional life is functioning as well. I reduced the amount of workload to concentrate the most important ones, but still some new projects came, which are very rewarding and satisfying. I got a new book published in November too. So my EMOTION is the only aspect of life that I still need to work through. I do not self blame like regretting I should have done this and that for Yuko. I do not have anger to Yuko or anybody.

It is a genuine SADNESS that I am still struggling. In a way it should be easier to handle only one kind of emotion than the complex of many emotions like sadness, regret, self-blaming, and anger. I still keep Yuko alive in mind. I am not ready to release her to at all. Yesterday I was waiting at a foyer with my children for the movie to start. I felt like I was waiting for Yuko to come back from the restroom. They are this kind of tiny daily moments that I realize the loss and feel the pain of sadness.

I will have an anniversary ceremony on this coming Sunday, Jan 3rd. Hundreds of people came for her funeral in last January. But this time I have only invited less than 20 people who were really close to Yuko in schools, workplaces and neighborhood. We will have a solid and calm moment together by each of us talk about Yuko in our minds. I hope this event gives us a chance to move forward and soon be ready to release her into the sky.

Do I answer your questions? It gives me a good chance to reflect my emotions. Look forward to seeing you in Buenos Aires in March.

Dear Tiki,

Thanks for sharing your emotions and things going in your life.

I believe that you used your tacit knowledge from the profession in a good way from the first moment to face Yuko's death. Yes morning is a painful process, never ending regardless time and therapy. Years show that it is possible to live the life without the deceased but everything after that trauma will be different. We enter into the morning process with the notion of reliving the memory of the died not to forget and omit the presence from the daily life.

Sadness is the most "normal" feeling coming after lose. Don't try to fight it! I guess that when you feel sad you feel connected to Yuko where ever she is now. I wish that the anniversary celebration will give comfort to you as well as to her soul.

らいほうさんの場所

優子
去年も今年も、ぜんぜん変わってないよ。
28日に仕事を終え、29日は子どもたちの分担も決め、家族みんなで大掃除。
今年は優子がサボった分、居間のワックスがけはできなかったけど。
今日は、午前中に僕だけ大掃除の続き。午後はさすがに疲れたね。ちょっと気分転換しよう。
「楽しくやれそうな気がするサイクリングで多摩川土手をかっこよく走りたい!」
「じゃあ、都内をちょっと走るか!?」
2人で品川駅港南口のアトレまでやってきた。旧東海道の街並みを30分ほどポタリング。僕のいつものペースよりはちょっと落としたけど、優子もちゃんと付いてこれたじゃん!

4階のニューヨーク風にアレンジされた気分の良いopen cafe。
去年の今日、優子とふたりで来た同じ場所にいるよ。
以来、何度か大切な友だちとのmeeting pointに使っているんだ。交通の便も良いし、家からも近いし。
でも、今日はひとりで来たよ。
軽く運動した後の温かいカプチーノは美味しい。
こうして優子と向き合うと、気持ちが落ち着くんだ。
去年は、現物の優子と向き合えた。そんなに話すこともなかったけどね。でも、子どもたちを家に残し、2人でサイクリング・デートできたじゃん!
今年は、モンブランの万年筆を手に、心の中の優子に向き合っているよ。
僕にとって、ここは大切ならいほうさんの場所になっちゃった。

勇気の源

二十年くらい前、タクシーでご一緒した時、Tikiが私に
「僕には夢があるんだ。優子と子どもたちに囲まれて暮らす夢が。でもそれは無理な叶わない夢なんだ。」と。
その時に、優子さんに心臓の病があると初めてお聞きしました。
その後、毎年の年賀状に三人のお子さんに囲まれ幸せなTikiの暮らしに、よもやそんな出来事が起ころうとは夢にも思っていませんでした。

そんなこと言ったっけ?
よく覚えているね。僕はぜんぜん覚えてないけど。
言ったとすれば、心臓の手術の前後だったんじゃないかな。
心冠状動脈のバイパス術。心臓を一時止め、人工心肺を回す、そりゃあ大がかりな手術だったよ。その時は優子の健康をとりもどすことが精いっぱいで、とても出産を考える余裕なんてなかった。でも、不思議と危機感や不安はなかった。意味もなく、現代医学を信頼していた。僕がしっかりしないと、優子を不安がらせてはいけない。あえて、不安を除外視していたのかもしれない。
その後、優子は驚異的に回復した。といっても、それが驚異とは思わず、当然と思っていたのだけど。退院した翌月に僕が渡英し、2ヶ月遅れて優子もロンドンに来た。
病気のことを考えている余裕もないほど、僕らはexcitingな結婚生活をスタートさせたんだ。

東京での1回目の手術の翌年、渡英したロンドンで二度目の手術をした。今度は、胸を開かず、足の動脈からカテーテルを入れ、狭くなった動脈に補強壁を埋め込むステント手術だった。当時、この手術はまだ始まったばかりの最先端医療で、日本ではまだ受けられなかったんじゃないかな。英国の医療制度NHS(National Health Service)は、税金を払っていない外国人でも受けられる全額無料のシステム。通常、とても待たされるのだけど、なぜか優子は待たずに迅速に手術を受けられた。結果は良好。その後、健康を取り戻した。とてもラッキーだった、、、ことさえ気がつかなかった。
その後、亡くなるまで20年間、優子は薬を服用し、定期的に心臓内科の検診は受けていたが、2-3ヶ月に一度、主治医とお茶飲み話をする雰囲気で、私は全く優子の健康を心配していなかった。

3人もの子どもたちと優子に囲まれた暮らし。夢は叶ったんだよ!
毎年書いていた年賀状のとおりね。
でも、それが突然終わっちゃったんだ。まだ完結していない、乳幼児期という前半は終えたけど、思春期という後半に入ったばかりだった。
子どもという夢の他にも、優子は自分自身の夢もあっただろうに。

私は療育という現場で、1歳から6歳までの母と子と共に日々過ごしています。重度の障害を抱えながら生き、死にも出会います。日常の普通に笑顔でいられることや家族の存在が本当に宝であること。その宝を大切にし感謝して生きられること。それらが現世に姿はなくとも、それらを支え守っている人々の存在。そんなことを感じながら生きています。

私は5年前、乳がんの手術をしてから、死を身近に感じるようになりました。毎日生きている喜び、仕事ができる喜び、人と交流できる喜びを味わっています。生がいつ終わっても自然に受け入れられるような気がします。お若い時に心臓の手術をされたということで、奥様の心境もこれに近いものだったかと想像してしまいました。素晴らしい生を送られたと思います。

僕にとって、優子の死は遠かった。
でも優子はいつも自分の死と向き合っていたのかもしれない。手術の後も、何度か心臓の調子がおかしくなり、救急車で運ばれたり、検査で短い期間入院したことがあった。じんの妊娠中も、多分微小な梗塞が起きたと思うんだ。妊娠の継続は危ぶまれたけど、主治医のサポートで見事出産したんだよね。僕にとって、優子の病気は乗り越えられるものと勝手に思い込んでいた。でも優子はそうは思っていなかったんだろ!?
お母さんには、ふと弱気になる自分を見せたみたい。でも、僕や子どもたちには決してそんなそぶりを見せなかった。
「Tikiと一緒になって、本当に良かったと思ってるのよ」
亡くなる1か月前、何の脈絡もなく出てきた優子の言葉。僕にしてみれば、とっさに何も答えられず後悔する瞬間だ。優子にしてみれば、自分のいのちをいつも意識していたのかもしれない。ねえ、そうなんだろ、空の優子?
だから、優子はがんばれたのかな。ずいぶん、がんばっていたもんね。

僕だってそうなのかもしれない。祖母の死に向き合った原体験が、いつもどこかで自己の死に向き合わせている。
いのちの有限性という恐怖を乗り越えるには、生を思いっきり全うするしかないもんなあ。

子どもたちも、母親の死と強烈に向き合った。そのことは、彼らの生に、多大な影響を与えているはずだよね。当初は、トラウマ症状というnegativeな影響を心配したけど、それは大丈夫そうだ。とすれば、優子や僕がそうだったように、自己と向き合い、がんばる原動力になれるかな?
子どもたちに聞いても、まだ答えられないだろうな。大きくなったら聞いてみよう。

Tikiのブログからはすごいpowerを感じます。それはきっと優子さんという支えがあるからなのでしょうね。時々ブログをのぞいて私の勇気とパワーの源にさせてください。

けっこう、多くの人がそう言ってくれるんだよね。
なぜかなあ?
悲しみを乗り越えるには、避けずに、向き合うしかないんだと思う。
僕の悲しみが、みんなの勇気になり、そういうみんなの存在が、僕の勇気になる。
Negativeからスタートしたのに、positiveなスパイラルを協働できるのは素晴らしいことかもしれないね。

追伸
TIkiのブログに何となく気になる一言がありました。
「今までの2人分の愛情を、これから私一人ががんばって与えなくては・・・」
私は、仕事がら人の死に出会うのは多い方です。そこでいつも思うのは、実体は現世になくても、魂は永遠に愛する人のそばにあるということ。本当に感じます。そしてこの世の私たちを守ってくれていると。だから「Tikiひとりでがんばる」なんて言わず、肩の力を抜いて、今までどおりのTikiでいてくださいね。

そうだよねえ。もっとリラックスしていても構わないんだよね。
不安だと、つい肩に力が入っちゃうんだ。スピードを恐れるドライバーやスキーヤーみたいにね。
子どもたちへ、愛情の押し付け・関わり過ぎに注意するよ。

Tuesday, December 29, 2009

カールじいさん


昨日で年内の仕事を終え、今日から1週間のオフ。土日もお盆休みもないちゅけの班活も1月3日までお休み。今回は恒例の家族旅行もせず、家でたっぷり子どもたちと過ごそう!

午前中はみんなで大掃除。ちゅけがお風呂、祐馬が窓ガラス、じんが玄関、僕が台所を担当。見違えるようになったよ。カビキラーで、黒ずんでいたタイルの目地も真っ白。お風呂が気持ちいいぞ、ちゅけ!

午後は、祐馬と友だち、3人でカールじいさんを観た。
息子たちは、既にアバターを2人で観に行ったんだ。
上映までロビーで待っていると、ふと優子がトイレから戻って来そうな気がする。
「パパったら、あんなシーンでも泣くんだから!」
祐馬に叱られた。
「だって、パパもカールじいさんと同じだもん!」
優子と暮らした家に子どもたちを載せて、やっと多くの風船の力で冒険に旅立とうとしているんだ。
優子と約束した冒険とは、、、?
退職後の世界一周客船旅行?
そんなことより、3人の子どもたちだよ。彼らが無事に成長し、大人になること。それが、僕らの共同作業だったんだ。伝説の滝にたどり着くまでは、優子の面影は捨てられそうにない。

夜は、一日遅れの、じんの誕生日。チョコレート・ケーキに11本のキャンドルを立て、6人でにぎやかに祝った。

Thursday, December 24, 2009

大家さん、語り過ぎ!


大家さん、やりすぎ。語り過ぎ。
初めの頃なんか辛すぎて、ブログ読めなかったわよ!!

癒しMLの仲間2人と会ってきた。
1997年に、インターネット上に癒しのメーリングリストを立ち上げた。
「癒されたい」人が自由に参加して、ネット上で何でも話し合い、交流します。最盛期には300人ほどが参加し、活発な交流がありました。その一部を本にもしました。
でも、共感し合う自助グループ的なプラス効果の一方で、傷つけあうマイナス面もあり、活動自体は挫折し、本もとっくに絶版になりました。
しかし、ネット上での心理支援という考え方はその後、ひきこもりサポートネットや、若ナビという形で私の中で発展しつづけています。
ネットで集った仲間たちの何人かは、解散した後も交流を続けています。
彼らの共通点は、
  1. 癒したい、癒されたいという動機を持ち、
  2. インターネットを闊達に利用しているということ。
mixiなどで交流が続いているみたい。
優子を亡くした時もいち早く連絡が回り、お葬式にも来てくれた。

大家さん、何かできる事があったら言って!

MLを主催した時、私が大家(=癒す側)で、「癒されたい」店子のために場所を提供していたつもり。
今回それが逆転し、僕が癒される側。みんな強力にサポートしてくれる。

それじゃあ、お願いしちゃおうかな。
二日間の会葬者名簿をエクセルに落としてもらった。600名以上の名簿を、すごい作業効率で打ち込んでくれた。まだ、そのお礼がちゃんと済んでなかったんだよね。ブルターニュ地方の美味しいクレープで、やっと少しお礼できた。
ネット上の癒し活動が得意な彼らは、僕のブログもきっちりフォローしてくれている。

大家さん、やりすぎ。語り過ぎ。
初めの頃なんか辛すぎて、ブログ読めなかったわよ!!

そうだよねえ。
この一年間、それしかできなかったもん。
授業や講演・研修、診療、原稿書きなど仕事面でも、子どもたちと関わる家庭生活も、僕の根底に生き続ける優子への面影の上に乗っかっていることをちゃんと意識していないと、ずれ落ちちゃうんだよな。

しぶといぞ、優子!いいかげんに僕を放してくれよ!!
テニスするのも、悲哀のため。
仲間と酒を飲むのも悲哀のため。
だからといって、パフォーマンスが落ちているわけでもなかったよ。ちゃんと仕事も、父親役割もこなしてきたつもりだけど。

そういえば、1月に職場の同僚(私と同様、10年前に妻を亡くした心理学者)がこんなメールをくれたよ。

ブログから受けた第一の印象は、Tikiさんの強さです。
私からすると強すぎます。「精神科医として」立派に今回の事態に対処しようとしすぎているのではないかと、心配です。どうぞ、無理をなさらないでください。

そう。
やりすぎ、痛々しい、無理してるように見えるよね。
僕も始めは自分自身そう思いました。うつに突入するのが怖いから、強迫的に喪の作業を進めようとしてセーブできなくなっているって。
でも、1年間過ごしてみて、結局これが僕のスタイルだったとわかったよ。
今だってやり過ぎているもの。
涙がたまりそうになると、すぐに遠心分離器にかけて、絞り出してまわりにまき散らしているみたい。悲しみのツイッターでも始めてみようかな。

yumiさん、ワッカさん、ありがとう!
ブログネタがなくなるまで、見守っていてね。

Monday, December 21, 2009

小学1年生

想起すれば40年近くなりますでしょうか。
優子さんとは、小学校へ入学した1年生の時、学級担任として1年間過ごさせて頂きました。優子さんのお兄さんの学級担任もして、家庭訪問時にお目にかかったように記憶しております。お二人とも1年間という短い期間でしたが、学力優秀で大変活発で、クラスのリーダーとして、大いに活躍してくれました。
立派なご主人、そして個性豊かで、これから活躍されるでしょう3人のお子様に恵まれた優子さんは、ほんとうに幸せでしたでしょう。
毎年の賀状に、いつもご家族のことをとても楽しく語られておられました。足速にこの世を去ったことが、残念でたまりません。これから実践したいことなど多くあったでしょうに・・・・
かし

40年前に1年間担任をして頂いた優子の事を、これほど鮮明に記憶に残していらっしゃることに感銘しました。教師と子どもとの絆はとても強いのですね。大学では、そこまでの絆を学生と結ぶことはありません。私自身も小・中・高校を振り返ると、卒業と同時に忘れ去る教師がいる一方で、いまだに何人かの先生と交流を続けています。そのような方々は、遠くから見守っていてくれる人生の宝です。ふだんはその存在を意識せずとも、賀状であったり、今回のような悲しみ・喜びなどの人生の節目に大切な役割を果たします。
 ご丁寧なお手紙を拝見しながら、私の心の中に居続ける優子を安らかによみがえらせることができます。優子は先生にお世話になった後、小学2年生から3年半、家族とともにSan Fransiscoに滞在しました。当初は学校で全くしゃべりませんでしたが、数ヵ月後に突然しゃべり始めた時は、完璧なnatural Englishだったそうです。子どもの言語能力の発達は面白いですね。年齢が早すぎれば、すぐに覚えて、すぐに忘れる。遅いと、もう完全には獲得できません。私は1年間の高校留学を通して、それなりに習得できたものの、とても優子の卓越した英語力にはかないません。優子はちょうど良い時期に英語環境で過ごしました。
 優子は兄ととても仲良く、いつも後をくっついていたそうです。それは子ども時代のみならず、青年期も続いていたようです。お兄さんの才能は素晴らしく、高校も大学も仕事も常にNo. 1の道を選ぶ能力をお持ちでした。優子は兄を追っても同じ道は叶わず、高校・大学・就職と、No.2に甘んじてきました。私からみれば十分すぎるほどの能力を持ちながらも、自分を受け入れられず、悩んでいたように思います。
でも、結婚6年目に母親になってから、ずいぶんと変わり、家庭でも社会でも、胸を張って生きるようになりました。

幸せな人生?

告別式でピンクを基調としたお花に囲まれた優子さんを、信じられない混乱した気持ちでお見送りをしてから、春、夏、秋。季節が巡り11ヶ月経った今でも心のどこかで事実を受け入れられない自分がいます。
大学での4年間、優子さんはいつも穏やかな微笑みを浮かべ、ソフトなお顔でいながら、芯の通った頼もしい存在でした。流暢なアメリカ英語を話し、参加なさっていた日米学生会議のお話も聞かせていただきました。豪華な結婚式にもご招待いただき、感動的な美しい花嫁姿の優子さんの笑顔はとびっきり輝いて見えました。
3人のお子さんに恵まれ、そのたびに産休後お仕事に復帰なさってすごいなーと思っていました。ランチにお誘いしたところ、お手製のおいしいフルーツケーキを焼いて持ってきて下さいました。いろいろおしゃべりして楽しいお昼を過ごしました。
その時、勤務がフル5日ではないので、通訳の勉強を始めたと聞いて、主婦業、3人のお子さんの育児、お仕事それに加えて勉強とはなんというsuper lady!!と常に前を向いて進むパワーに圧倒されました。
その後、お宅にお招きいただき、ご主人手作りのベーコンとpizzaをごちそうになった際(すごくおいしかったです!!)、優しいご主人とかわいいお子さんたちに囲まれ、にぎやかで楽しいご家庭で、優子さんはほんとうに幸せな結婚をなさっていたことがよくわかりました。甘えてぺたっと抱きついたじんちゃんを優しく抱っこしていた優子さんはそれは穏やかな表情でした。
優子さんのそのふんわりした穏やかな笑顔とソフトな声を見たり聞けないのは本当に悲しいですが、優子さんは他の人より何倍も密度の濃い充実した幸せな人生を送って来られて、美しい雪山で最愛のご主人の腕の中で苦しむことなく旅立って風になられたのですね。

確かに優子はふんわり、ポッチャリしてましたね(笑)。
それでいて考えていることは結構鋭かったり。私もその雰囲気に惹かれたのだと思います。
日米学生会議は兄に続いて優子が大学2年生の時に参加しました。夏の4週間の会議に向けて、春ころから準備をします。その後、参加した数名が実行委員として残り、翌年の会議を企画・運営します。私が参加したのは優子が実行委員をしていた2年目の会議でした。日本側4名、アメリカ側4名、計8名の学生でグループとなり、4週間、ひとつのテーマを追います。我々のテーマはComparative Culture(比較文化)。学部3年の優子にとって、私のような6歳年上の院生メンバーは、さぞかしやりにくかったでしょう。

私から見ると、結婚当初の優子は、ぜんぜんsuper ladyではありませんでした。まだ実家の母親や兄から十分自立していない部分を抱え、自分のことや人との関係に悩んでいました。
20代の優子、30代前半の私は、まだまだ発達途上で、いろいろ試して、あちこちにぶつかりながら成長を続けていたと思います。優子も私も、3人の子どもたちの親になり、だいぶ変わったと思います。優子は母親として、自信を持って子どもたちに愛情を注いでいました。成熟した大人としての本当の自分に目覚めたように見えました。
それとともに、仕事もずいぶんがんばっていたと思います。子育てに専念する間は、仕事を辞めるという選択肢もあったのですが、勤務時間を短縮できる職場だったので、あえて続ける道を選びました。私も賛成でした。
優子がお世話になった3つの職場は、色々な意味で恵まれていました。しかし、組織の中のひとりに過ぎず、本当にやりたい仕事なのか、優子もいろいろ考えていたようです。結局、優子の原点は幼い頃のアメリカ生活だったようです(それは私自身にとっても同様です)。好きで、得意な英語を使うことが一番やりがいを感じ、自分の能力を発揮できたのだと思います。子どもたちが小学校に入り、子育てに余裕ができ始めた頃から、通訳の勉強を始めました。プロの通訳になるためには、いくつものハードルがあるようです。優子はずいぶん勉強熱心でした。受験生じゃないんだからそんなに几帳面にやらなくてもよいのにと、いい加減な私は傍で見ていましたが、単語ノートを作り、自分の訳を録音テープ吹き込み、を何度も繰り返し聞いていました。その成果が形となって現れ、ハードルを越えてゆくのが楽しかったのでしょう。エージェントの専属通訳者となり、さまざまな会議やミーティングに出かけていました。多忙な生活、家の中は散らかり放題でしたが、優子はやり甲斐を得ていたようでした。
通訳者の世界は能力主義、とても厳しいようです。優子はBクラス。そこまで達成しただけでも、私から見ればきっとものすごいことなのでしょう。でも、よく仕事の愚痴をこぼしていました。
私、また失敗しちゃった。ペアになった相方のAクラスの通訳者はすごい!どうやったらあんな風になれるんだろう?
そりゃあ、5年、10年選手と比較しては大変だよ。経験がものを言うんじゃない?
もう何年かしたら、私もAクラスになりたい。
そんな目指す夢を優子は抱いていたし、そこまで登る自信を密かに抱いていたのでしょう。
心臓が悪い優子は、家族と仲間で行く山登りではいつもへたっていました。
でも、へたららずにグイグイ登ってゆける得意な山を、ここ3-4年で、ようやく見つけたようでした。

人生登山

私は登山が好きなんですよ。高校時代、山岳部だったから。

何のために、山に登るんでしょう?そんなこと分からないまま、気がついたら山登りを始めています。歩き始めから稜線までのアプローチが一番辛いんですよ。樹林で見通しがきかず、黙々と少しずつ高度を上げてゆきます。樹林帯を抜け稜線に乗れば、急に見通しが開けます。目指す頂を先に眺めれば、やっと登山の楽しみが見えてきます。風も強くなるけど。
登山の醍醐味は頂に到達した後なんですよね。ひとつの山頂を極めると、それまで見えなかった向こうにさらに高い峰が見えてきます。一旦下ってまた登る。それを何度も繰り返し、高い峰々を制覇していきます。
でも、ずっとは続きません。やがて下山する時がやってきます。せっかく苦労して登った山々から高度を下げるのは、もったいないんですよね。
その点、八ヶ岳はいいんですよ。南から入っていくと前半の南八ヶ岳が高く険しくアルペン気分が味わえ、北八ヶ岳まで足を延ばすと高度は下がり、森と湖が点在するなだらかな山歩きになります。ゆっくりと来し方を振り返ることができます。

Prime of Life
優子はちょうど高い峰々を制覇中でした。結婚、出産そして子育ての前半まで進み、次は子どもの巣立ち、そして通訳という天職を見つけ、社会での役割という峰を登りつつありました。
でも、いずれは下山するんですよね。済んでみれば、登山なんてあっという間でしょう。でも、まだ終えるには早すぎました。ひと通り縦走した後、高度の変化にゆっくり順応しながら下山路を下ります。優子は我々同行者を残し、ひとり勝手に滑り台で一気に麓に滑り降りてしまいました。同行者を失った私は、いまだに稜線の上で立ち尽くしています。幸い、子どもたちは予想に反し、親がひとり欠けても自分たちの足でしっかり歩いています。むしろ私の戸惑いの方が大きいのかもしれません。
ふつう、まだ振り返る段階じゃないんですよ。南八ヶ岳の主要部を過ぎ、北に入ればまだしも、まだ南の急峻な稜線の上で、前を進む事が精いっぱい。来し方を振り返って総括するには早すぎます。
でも、突然のアクシデントに立ち止まらなくてはなりません。
優子は、密度の濃い充実した幸せな人生を送ったのでしょうか?
たとえそうだったとしても、優子自身がそれに気づいたのは、ごく最近だったように思います。
結婚。出産。その部分だけを切り出せば、十分幸せな峰のはずでした。でも、自分がそこを通過しているときは、それが頂上であるということはあまり実感しないものです。急峻な登りを進むことに精いっぱいでした。
でも、あえて振り返れば、みんなが声援してくれるように、優子の軌跡は輝いていたのでしょう。優子はそんなこに気づきもせず、次の山に取り掛かることに必至でした。

誰でも同じですよ。上手に登ってもバテてへたっても、快晴の中を景色を楽しみながら進んでも霧の中で道を間違えても、結局、山を下りてしまえば皆同じ。今の足元を一歩ずつ踏みしめるだけですね。

私は優子の軌跡を振り返る事が出来ても、自分自身の軌跡はまだ振り返ることができません。振り返れば、終わってしまいそうな気がします。
まだ私は山を降りることはできません。母親がいない子どもたちの成長を見守り、仕事もまだ途中です。精神科医として、道に迷った登山者たちをガイドしなければ。最近は、迷う人がたくさんいるから、ガイドも大忙しです。でも、私がすべての迷う人を救えるはずがないし、私がいなくても大勢に大差はないはず。それでも、ガイドし続けるのは、そのことが、私自身の生きがいでもあるからだと思います。

Monday, December 14, 2009

Releasing Yuko at 古着ショップ

亮子さんたちが仕分けてくれた衣類を今日、古着ショップに持っていったよ。お店でも、さらに仕分けしていく。お店で売れるものは150円/kg、それ以外は1円/kgで買い取られ、海外に輸出したり加工リサイクルされる。ほとんどは後者の箱に投げ入れられる。そりゃそうだよな。母・妹・娘が3人がかりで丁寧にひとつずつ仕分けしてくれたんだから。大きなビニール袋4つに詰まった衣類が600円也。値段なんかどうでもいいんだ、タダでもいい。世界のどこかで誰かが使ってくれれば、優子はまだ生きている。

僕の家と心の中から、これから優子を少しずつ放していかないといけない。
靴も、文房具も、お宝の日記帳や手紙類、古い写真も整理できずに山積みのままだ。
優子の希望で作った僕らの寝室のウォークイン・クローゼット。ふたりで使って狭くなっていたよね。衣類が入りきらずあふれていた。優子の衣類を出して、僕がひとり占めしているよ。余裕ができた。
心の中も同じだよ。いつまでも優子が僕の心を占領していたら、僕はこの先、生きてゆけないんだ。早くどいてくれよ!

帰り道、カーステレオから流れる徳永英明がよくなかったみたい。
祐馬は歌詞派なんだよね、パパはメロディー派だから。
流れる涙が止まらなかったよ。

古着やさんへ持っていったのですね。
良かった、、、忙しいのにがんばったね。
ゴミにするより気持ちはずっと楽ですね。

でも放したって心配しないで下さい。包んで整理したものの中には形見分け用の、あまり使っていない新しいもの以外にも思い出のありそうな服を残してあります。
例えば写真で笑っている優子さんが着ているいる服ひとそろい。
そばで見ていたじんが、あ、それママが1月1日に着てたと言った服。
何度も着た風なお気に入りだったと思われるポロシャツなどです。

何十年か先に余裕が出来た時、子どもたちと、またはひとりでそんな時があったなと他の思い出と一緒に整理できたらいいなと思っています。

亮子

Looking back the year 2009

I looked back for this year with my therapist today.

It was by far the SADDEST year of my whole life. I felt like every action and conversation I took during this year related to my long and difficult mourning process.

But I would not say it was the WORST year.

I managed to survive.

But I had been worrying two things; my own depression and my three kids. I was rather hyper-active to compensate my pain at the beginning. So every time I felt a bit down I suspected I finally got into the depressive phase. But then I realized I was either tired of doing something too much, hang over or getting not enough sleep. I have been full of energy all through the year in both sadness and joy.

My children are doing fine in spite of the big loss. I saw Yuma’s school teacher last week who gave us very positive comments on her performance at school. I knew she was functioning at home, so I felt relieved to know that she was fine at school as well. All of us engaged well in sports; volleyball for Zen, swimming for Yuma, gymnastics for Eugene, and tennis/golf/cycling for me. We also have a new pappy dog Kai in our family.

I recovered well enough to think of positive aspects of the big loss.

I feel like I finally became a full professional therapist who really understands people’s pain. I thrived through the biggest any men can think of, so that means I do not afraid of any kind of pain for the rest of my life (except for the death of my children).

I also found out the good quality of my support system. I managed to use every kind of people around. I do not particularly meet new people, but I found so many people that I knew are very supportive and empathize my pain.

一番心配したのはふたつ;僕自身のうつと、子どもたちのこと。始めから異様にハイだったので、ちょっと気分が落ちると、ヤバい、ついにうつが来たかも、、、と恐れていた。でも、翌日には元に戻り、振り返ってみれば、動きすぎか寝不足、あるいは二日酔いだったみたい。どうにか気持ち的にもここまでやってこれたので、逆の意味で、今後、どんなことが起きても大丈夫、みたいな自信がついたかもしれない。

Sunday, December 13, 2009

自分の生き方を見直す時

卒業生の○○エリです。
突然の訃報から、もうすぐ一年になるのですね。
奥様が旅立たれた告別式は、私にとって衝撃であり自分の生き方を見直す時となりました。
「いつか迎えるこの時に、私はこの様に見送ってもらえる様な人生を歩んでいるだろうか?」
「本当に精一杯毎日を生きていただろうか?」
そんな自問自答を繰り返したこの一年、いつもより少しだけ頑張っている自分がいました。今は見つけた夢に向かって、毎日予備校の自習室に通う日々です。相変わらずモンモンと悩む時もありますが、奥様が背中を押してくれている気がします。

近況追伸:AとBは7月に結婚しました。Cも入籍済。Dは子育てに追われているらしいです。Eと私は相変わらず同志で飲み友だちです。

お便りありがとう。
エリさんも告別式に来てくれていたんだよね。僕は心が爆発していたからよく覚えていないけど。
そうか、優子はエリのところにも来ているんだ!
私も子どもの頃、祖母を亡くして同じような経験をしたよ。

三人称の死が、一人称の死(自分が死ぬこと)に対するリアリティとして迫ってくる。
他人ではない、自分と身近な人の死を経験して、自分のいのちの有限性に気づくんだよね。毎日の生活に追われているとそんなことに思いを馳せる時間はないけど。
死を見つめれば、必然的に自分が生きているいのちの意味を問うことになる。そうすれば、自然と頑張れるよね。
そういう意味じゃ、心の隅にいつも死(=いのちの終末)を留めていると、良い生き方を見つけることができるのかもしれないね。ちょっと辛いけど。

僕の場合は、二人称の死だから、対岸の死として自分を見つめられるほど余裕はないよ。
子どもの頃、いのちの有限性に気づき、一所懸命模索してきた僕の生き方のかなり大きな部分が優子だったんだ。だから、今までと同じようには生きていくことができなくなっちゃった。改めて、僕のいのちの意味を見つけ直し、再構築しなくちゃならない。それが出来ずに、伴侶の喪失とともに自分が生きている意味を失い、死んじゃう人も結構いるからね。
二人称の死は、一人称の生(自分が生きていること)に対するリアリティとして直に迫ってくるよ。

Thursday, December 10, 2009

記憶の財産

拝復
貴方様からのお便りを拝見して、優子様がまだお若いのに何故、どうしてと思わず声に出てしまう程に驚きました。
何よりも三番目のじん君が四年生であったことも知り、又、又、驚きました。というのは、私が母を亡くしました時も同じ四年生でしたので七十一年前のことが昨日、今日のように甦り他人事とは思えずお便りさせて頂きました。私の母も心臓麻痺であっという間に彼岸の人となってしまいました。
優子様も心筋梗塞で四十六歳のお若さでになられてしまわれたとか。優子様ご自身も彼岸でどんなにか驚かれ、戸惑いし、此岸に心を残されておいでではないかと思いました。何とも胸の痛む思いで一杯でございます。お便りによりますと、ご長男と大阪でお骨を麗石にされたとか、又、霊園は優子様が好きな海の見える三浦霊園とか。そして八月の休みは草津の別荘に優子様を偲んでお子様方の家族の方とにぎやかに過ごされ、草津白根のあの白い山肌に立ってお骨の一部を散骨なさった由、優子様もお子様方も心に残る仏事の数々に私迄心を打たれました。
貴方様には二世帯住宅ですぐ傍に御両親様がおいでになりどんなにか心強かったことでしょう。二つの核家族拡大家族となってとありましたが、こんなに有難いことはございませんね。今は失いかけていますが、日本古来の拡大家族のよさを十分に噛みしめて下さいませ。

私は今、八十一歳になりましたが、今の私の財産は、幼い時の記憶は勿論、父・母の元で育った家庭でのあらゆる想い出と思うようになりました。その沢山の想い出があるということはお金には替え難い財産である事がこの年齢になって分かり始めたのです
貴方様も優子様と共にお子様方と歩まれ遺された数々の想い出がやがて三人のお子様にとって素晴らしい心の財産になることと思います。長々と綴りご免なさいね。
貴方様には余計な事と思いつつも書かずにはいられなかったことをお許しくださいませ。
ご健康をお祈りつつペンを置かせて頂きます。 
かしこ


大変ご無沙汰しております。
先生が、子ども時代にお母さまを亡くされたとは存じ上げませんでした。もしかしたら小学生の頃お話しいただいたのかもしれませんが、そうであったとしてもとうに忘れていました。当時から40年後、五十代になった私に、また先生から教えをいただけるとは思いもよりませんでした。先生ご自身の体験から、改めて親はなくとも子は立派に育つことを知り、少し安心しました。
私も、子ども時代の想い出がたくさんあります。これから3人の子どもたちが成長し、今の事をどう振り返るのか。それを、どう財産として残せるのか、父親として責任を感じています。今までは、優子と私の2人で彼らにそれなりの想い出を作ってこれたと思います。これから私一人で、子どもたちが貴重と思える財産を積み重ねることができるか自信はありません。
今回、母親を失ったことがとても大きな悲しみの財産になることは確かでしょう。でも、その後、良い思い出を作れるか。守られていること、大切にされていること、愛されていること。これらを伝えてやりたいと思います。物質的に豊かでなくとも、たっぷりの愛情を与えたい。しかし、今までの2人分の愛情を、これから私一人ががんばって与えなくては…と焦ってしまうとよくないのかもしれません。私以外にも、祖父母をはじめ、学校や塾の先生、友人など多くの人たちから愛情を受けています。そのチャンスをうまく作ってあげなくては。遠慮のあまり、我々が孤立してはいけないと思います。
幸い、幼く手のかかる時期は過ぎました。幼い子どもへの愛情が安全に保護し、思い切り抱きしめてあげることだとすれば、自立してゆく思春期の子どもたちには、幼いころとはまた別な愛情が必要な気がします。干渉したり、保護しすぎてもいけません。帰ってこれる居場所としての安心感とともに、社会の試練を乗り越えるための力や、彼らの行動基準になる価値や社会の規範も伝えなければなりません。
私も以前から多少は台所に立っていたものの、今年はその頻度が増えました。理屈ではなく、私の素の生きざまを見せるしかありません。母親を失った3人の子どもたちの父親としての役割を全うすることが、私自身の悲しみを乗り越えるすべにもなるような気がします。
長くなりましたが、先生もどうぞ寒さの折り、お体に御自愛ください。

Wednesday, December 9, 2009

札幌ミスチル旅行1

祐馬。この1年でずいぶん成長したよね。身長も、内面も。
優子の黒のショートコートを着て、指には優子に贈った小さなルビーのリングをはめている。こうやって並んで歩いたら、優子といるような錯覚を味わわせてくれる。

仕事が全く絡んでいない旅行は、この1年で3回目だ。
3月には優子の親友リカちゃんに会いに、ひとりで福岡へ日帰り。
4月には優子石を作りに、ちゅけと2人で大阪へ日帰り。
今回は祐馬と一緒に札幌へ。父と娘、2人だけの旅行は後にも先にも今回だけかもしれない。

夏ごろの会話。
娘)ねえ、12月にミスチルのコンサートがあるの。東京じゃ絶対チケットとれないよ。地方だったらまだとれるかもしれない。
父)札幌のuさんが前からぜひ子どもたちと遊びにおいでと言ってくれているから、いつか行こうとは思っていたんだ!

息子たちに持ちかけても興味を示さない。Uさんがツテにチケットを頼んでくれたが、ミスチルの人気はすごい。ゲットできなかった。

でも、祐馬はあきらめないんだ~。飛行機に乗って、北海道とか行ってみたいし。
一応、最後の望み、当日券をネットで申し込んでいた。
抽選に当たるはずないよ!
ところが、前日に、当選のメールが来た!

やったー! 信じられない!
きっと、ママが空から手をまわしてくれたんだよ。
はいはい、わかった、わかった!

Uさんはロンドンで知り合った。
優子より一足先に向ったロンドンで右も左もわからない時、毎週末、自宅に招いてくれて、テニスをやって、奥さんの温かい手料理をごちそうになった。留学生活のアドバイスもたくさんくれた。2ヶ月遅れて優子が到着し、半年もしないうちにuさんは留学生活を終え帰国した。以来、家族ぐるみの付き合いが20年近く続いている。2年に1度くらいに北海道へスキーに行き、一緒に滑ったり。奥さんが上京して優子とふたりで観劇したり。
優子の告別式には、ご夫妻で札幌から駆け付けてくれた。

僕にとって、こういう付き合いの人、もう一人いるんだ。
共通点がたくさんある。
2人とも、僕より4-5歳年上。
精神科or小児科の医者で、専門分野が近い。留学生活か、学会活動で知り合った。しかし出身大学や職場は違う。直接の上司・先輩ではない。
若い頃、病院や学会で活躍した後、現在ではユニークな開業で成功している。公職を退いた後も学会活動や後進の指導には熱心だ。
キャラが僕と共通している。外向的で人付き合いがよい。身体を動かすことが好きで、ゴルフ、テニス、スキーなどを一緒に楽しむ。体型も何となく似ているかなあ。
奥さんたちも活発で優子とも親しくしてくれた。何となく奥さんの尻に敷かれているポーズをとりつつ、夫婦とても仲がいい。
男同士、口数は少ないが、優子を失った僕をのことをそれとなく気にかけてくれる。

札幌ミスチル旅行2


Uご夫妻さま
今回はスキーや仕事抜きで伺い、祐馬とふたり、ゆったりと心安らぐことができました。
思えば、私がご夫妻と知り合ったのは30代の前半、結婚1年目で、これからの家族生活や専門知識の習得に夢を描いていました。
以来20年弱、そう頻繁にお会いせずとも、ずっと優子と私、それに子どもたちの成長を見守っていただいたように感じます。
優子を失い、今まで得てきたものを少しずつ手放していく年代になったことを実感しました。失う痛みに耐えつつ、残りの人生をどう深めてゆけるだろうか。uさんとお話ししながら、そんなことを考えていました。

最近、上梓した本を謹呈いたします。
虐待という厳しい環境に置かれた家族をどう支援するか、7年間の経験をまとめました。私は父親グループを担当し、妻や子どもにどう接したらよいかわからない男性たちの心をほぐしてきました。虐待に限らずとも、親子支援、男性支援の例として医院のスタッフの方がにもご紹介いただければと思います。

これからも私たちを見守って頂けるようお願いします。

Saturday, December 5, 2009

濃い夫婦

学生からの質問:
子供ができてから夫婦関係は変わっていくものなのか聞きたいです。
結婚して、子どもができると、それまで全て自分に向いていた愛情が、自分と子どもに二分されちゃうのでしょうか?それとも、2分の1ずつに分散されるのではなく、2倍愛せるようになるのかな?

そうねえ。授業では「愛の質が変わるよ」とか答えたけど。もう少し突っ込めば、
恋夫婦濃い夫婦に変わるんですよ(オヤジギャグ)。

恋愛中とか結婚当初は、根拠ない情熱というか、そりゃあ、優しさとか、ルックスとか、お金とか、それなりの根拠はあるんだけど、今から振り返ればそんなもの大したことなく、とにかくラブラブ・ドキドキ的に向き合えちゃえるんですよ。お互い相手だけを見ているexclusiveな関係として。
そういう時期が過ぎて、子どもが生まれたりすると、日常の生活でたくさん2人が向き合うことになります。良い時はラブラブでいられるけど、たいへんなときはお互いすごくムカつくわけですよ。ムカつく理由なんていくらでもあるからね。

ストレス(危機)は両刃の剣。関係を破壊するか、強めるかのどちらか。

夫婦が海外赴任すると、離婚しちゃうか、より親密になるか、どっちかなんですよ。
でも、海外に行かなくたって、ストレスなんて日常たくさんあるからね。生活、仕事、子育て、いろんな人間関係とか。

質問)お互いに意見が合わず、ムカつくネタができたらどうするか?
  1. 避ける。壁を作る
  2. どちらか片一方が折れる。相補的(complementary)な関係。上下関係というか。下の人が折れて、上の意見が通るみたいな。
  3. それでも向き合って、ふたりが対等に(symmetrical)感情をぶつけ合う。

選択肢(3)葛藤を回避せず、ぶつけ合うとどうなるか?
  • お互いに言いたいことを伝える。相手はそれを受け取って、伝え返す。お互いに主張し合い、ますますムカつく。
  • でも、キレてはいけない。逃げもしない。
  • 言い合っているうちに、譲歩し、妥協する。でも、どちらか片一方がそうするわけじゃないんですよね。双方がお互いに譲歩し合うんです。折り合うというか。そうやって、お互いが納得できるmeeting pointを見つけるんです。
ことばで説明すれば簡単だけど、実際は難しいよ。なかなかうまくいかない時の方が多いでしょう。

それをうまく達成するためには柔軟性が必要です。
相手が折れれば、自分も折れることができる。ちょっとずつ折れ合うわけ。
どちらが先に折れるのはとても勇気がいるんです。冷戦時代の米ソ核軍縮会議みたいなもんで、譲歩したら相手に攻め込まれるリスクを伴います。それをするためには、相手に対する深い信頼が必要なんです。
あと、自分をちゃんと主張する勇気も必要ですね。
自分がバンと前に出て攻めちゃうと、相手が壊れる、もしくは関係が壊れるリスクを伴います。相手に配慮して、やさしく(相手のためなんだよという隠喩も含めつつ)、しかししっかりと伝えるわけ。
こういうのを濃い関係と言います。

こんなことするより、選択肢(1)適当に離れていた方が楽だと思いますよ。
取り繕うことができますから。
生活(経済)や子どものために必要な協力はするけど、あまりお互いに突っ込みすぎず、離れすぎず、適度な距離を保つわけ。近づきすぎるとお互いにストレスが高くなって疲れるし、イヤになるからね。
こういうのを薄い関係と言います。

濃いのと薄いの、どっちが良いとか悪いという問題でもないんですよ。
それぞれ夫婦の好みの問題かな。
優子と僕は濃い関係だったと思います。
ふたりとも子育てのこと、自分のやりたいこと、譲れなかった。でも譲るしかなかった。
選択肢(2)一方だけが割を食う上下関係もイヤだった。だから、戦うしかなかったんですね。

始めの頃は、僕の方が濃くて、優子は比較的薄かったよな。
(空の優子は反論するかもしれないけど、ほっておけ!)
いろんな夫婦見ると、こういうのは珍しいみたい。
女性が濃くて、男が薄いパターンをよく見かけます。
うちは、逆だったから良かったのかも。
結局、優子もだんだん濃くなってきて、濃い目の濃度で調整できた感じだった。
去年の年末は、ちゅけの受験をめぐり、寿司屋でバトルしたからね。お互いに譲れなかった。

なぜ、僕が濃いのが好きかって?
生まれながらのキャラもあるだろうし、両親の影響もあるかも。
子どもの頃、よく食卓でケンカしていた。山育ちの父親は海産物が嫌い。海育ちの母親は大好き。それを出しては、バトルしていた。子どもながらにどうでもいいことだったんだけど。
一見、母親が引きさがるようだったけど、懲りずにまた出してたから、母親なりにずいぶん主張していたんだと思う。そりゃ両親がバトルすれば子どもはびっくり、ドキドキしますよ。でも、大切なのは、その後、譲歩・和解するプロセスも子どもに見せていたことね。自己主張しても平気なんだ、それくらいやっても壊れないほど夫婦の絆はしっかりしているんだとわかれば、子どもは安心できる。

仕事にcommitして、家庭不在の父親が多いけど、僕はそれは避けたかった。
それも、僕のふたりの父親がモデルになったな。(後でもう少し説明する)
でも、優子から言わせれば、僕は十分不在だったんだよな>なあ、優子!?
それも、定番のバトルネタ。今となっては懐かしいよ。

もっと薄い夫婦だったら、優子がいなくなっても、多少は楽だったろうか?
濃い分、喪失の痛みも大きい。

そういう意味じゃあ、子どもたちとも濃い関係を僕は好む。
男の子たちはそれほどでもないけど、娘とは濃い。特に母親がいなくなり、唯一の親になり、濃縮してきた。

パパはそういうのが良いんだよ、祐馬ちゃん。濃い親子でいようね。
明日から、ふたりで札幌だ!

Friday, December 4, 2009

11ヶ月

優子

やっと11ヶ月の道標までたどり着いたよ。
11ヶ月目というよりは、一周忌まであとひと月という感じかな。
マラソンでいえば、折り返し中間点まであと2kmの地点みたいな。
ロンドンに先に行った時は、優子が来るまでというゴールがあった。
今の持久走にはゴールがない。
でも、中間点までくれば、折り返した後は多少気持ちが楽になるといいんだけど!?
喪中はがきを出して、幸い沿道からの声援も大きくなってきているんだ。
声に励まされ、淡々と走るしかないな。
ランナーズ・ハイ。苦しい走りに慣れ、それが目的(楽しみ)になってきているかも。

Tuesday, December 1, 2009

父娘の絆

祐馬との会話。

中学の○○さんって知ってる?学年は違うと思うけど。
知らない。
つい先日、お母さんが亡くなったらしいよ。

普段ならこれで話は終わるのだが、この話題は違った。

え、パパどうして知ってるの?
ゴルフ仲間の娘さんだから。
じゃあ、パパもその場にいたの?
ううん、話に聞いただけ。

かわいそうだね...。
うん、そうだね。でも、そういうなら祐馬だって同じだよ。
それはわかってるけど。

どうして亡くなったの?
ガンだったらしいよ。
じゃあ、死ぬ前からわかってたのかな?
そうだと思うよ。
祐馬、そういうの耐えられない。じわじわそういうのがわかっていくのって。
そうだね。でも死ぬ前にそういうのがあれば時間をかけて気持ちを準備できるけど、うちのママは突然だったから、その分、すごい大変だったじゃん。
でも、同じ死んじゃうのだったら、そっちの方がまだいいの。すごく辛すぎて、何が何だか分からなくて。
そうね、しばらくしてからじゃないと辛いのってわからないんだよ。結構、尾を引くかも。
でも、訳が分かんないまま、過ぎて終わっちゃうよ、きっと。
いやー、わからないけどね、それは。

そんな会話ができるのも祐馬だけ。
じんとはできる年齢ではない。
ちゅけと交わそうと思えばできるけど、本人にその気がない。
その点、女の子は共感できる。
共有してる悲しみを率直に語りあえれば、父娘の絆はとても深まると思うんだけど。

先生の結婚・子育て話

家族関係学しんぶん 12月1日号(抜粋)

【先週の授業のまとめ】
オーケストラ形式に椅子を配置して私たちが注目している中、先生は学生時代の恋愛遍歴、結婚した時の状況や気持ち、子どもが生まれた時の気持ち、そして今現在のことも赤裸々に語り、結婚、子育ての経験者として私たちにアドバイスをしてくださいました。先生の、包み隠しのないリアルなお話に、聞いている私たちは笑ったり感心したり、時には羨ましがったりしました。また、先生は恋愛に対する男女の価値観の違いにも言及し、男性の恋愛観をなかなか聞く機会のない女性陣が「なるほど」と頷く姿も見受けられました。結婚や子育てを経験したことのない私たちにとって、今回のお話は知らなかったことばかりだったと思います。先生のお話は、私たちに将来訪れるであろう結婚や子育てについてのイメージをより明確にしてくれるものであったと思います。

【授業の感想】
  • ちょっと照れながらも、すごく幸せそうに笑う先生を見て、結婚とか家族って自分が思っている以上にいいものだなぁと思えました。
  • 私は、あまり結婚願望も理想もあまり持っていなかったのですが、先生の話を聞いて「あ、結婚でいいかもしれない!」と思いました。
  • 子どもが生まれたときの先生の、「父親になった、俺が父親だぞ!」という喜びの言葉が印象的でした。
  • 「出産後、愛は自分と子どもに2分されるのか、それとも2倍愛せるようになるのか?」という質問に対して「愛の質が変わる」と答えて下さり、目からウロコでした。
  • 結婚生活においては、喧嘩を避けてお互いに我慢をするよりも、相手に真正面から向き合うことが大切だと思いました。
  • 先生の奥さんは、赤ちゃんのために母乳をわざわざとって届けていたということで、なかなか出来ることではないと思ったし、先生の出産に立ちあっていたという話などを聞いて、子育てにとても一生懸命な夫婦だなあと思いました。
  • 生まれ変わっても絶対奥さんと結婚したいと言っていたのが印象的でした。いいなーって思いました!!!

【教員からのフィードバック】
そうか、みんなそんな風に受け取ったわけね!?話したほうの私にとっても「目からウロコ」でしたよ。バラの花束、そんなに素敵と受け取ったんだ!妻にとってもそうだったのかな?今となっては確認できませんけど。
私としては、結婚や夫婦、子育ての素晴らしさを意図してみんなに伝えたつもりではなく、自分としてはごく普通のこととして話しました。でも、みんなが「すごーく魅力的」、「結婚っていいかもしれない!」と感じてくれたのは嬉しかった。私自身の気持ちが伝わったんですね。
たしかに、「全力で好きになり」、「お互いの関係や子育てに一生懸命」な夫婦だったと思います。でも、これは突然終わってしまったから総決算として振り返ることができるんですよ。まだ現在進行(闘争)中の関係だったら、ここまできれいごととしてまとめることはできないでしょう。
この話は、これほど深く愛した妻との死別の話(年明けの授業)に続きます。