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Thursday, April 30, 2009

お墓まいり


優子

昨日は、みんなが来て楽しかっただろう!
リョーコおばちゃんや、JASCの仲間も来てくれたし。
まず、近くの農園でイチゴ狩りを楽しみ、お花を摘んでから公園墓地へ。
明るい陽射しは強いけど、優子風があったからあずま屋の日蔭だと寒いくらい。陽の光の中で保育園友だちみんなとごはん食べたよ。
だいたい喪服の墓参客がちらほらいる墓地の中で、ピクニックやバレーボールするか!?
子どもたちはすっかりはしゃいで元気そのもの!
こういうのを見ていると、優子も気持ちが和むだろ!

帰りは、お義母さんのところに寄ってきたよ。
前もって電話した時はうつうつとした声で、「じゃあみんなで外食でも」と言っていたけど、孫たちが来るということで、朝から張り切ってね。子どもたちが大好きなタケノコごはんや、夕食の準備や、さらには翌日のちゅけのお弁当のおかずまで作ってくれちゃってね。ふだんはほとんど食べないお母さんも、めいっぱい4合炊いたご飯が空っぽになりびっくりしていたよ。孫パワーはすごいね。みんなの前ではよく笑い、元気そうにしていたよ。

Sunday, April 26, 2009

ロンドン時代(6)旅行三昧

子どもたち

パパとママのお話ね、今まで子どもたちが生まれる前のことを話してきたけど、もうそろそろ、君たちに登場してもらおうと思うんだ。その前に、もうひとことだけ言わせてね。ママとパパがどんなに楽しい生活を送っていたかということを。

ロンドンは、とても便利なところで、世界中へ飛行機が飛んでいるんだ。特に、ヨーロッパの主な都市へ、乗り換えなしで、2時間くらいで行けちゃうんだ。当時はまだバブル経済のさ中で、ママちゃんが働いていたから、まあまあお金はあってね。ふたりでたくさん旅行したよ。とても楽しかったんだ。

★ちょうど、ママのお兄さんがパリでお仕事をしていてね。よく行ったよ。ロンドン⇒パリは、ちょうど、東京から大阪に行くくらいの気軽さで行けちゃうから、ロンドンの日常生活に息詰まってきたら、気分転換においしいものを食べに行っていたよ。なぜか、イギリスより全然食事がおいしいんだ。イギリスには新鮮なお魚が全くなく、パリにはたくさん!生牡蠣をたくさん食べて、おなかこわしちゃった。ママは全然平気だったけど。
★フランスのブルターニュ地方へは、ロンドンの南、ポーツマスの港からフェリーが出ているんだ。そこには、有名なモン・サン・ミッシェルがあって、今は世界遺産に指定されているね。そこにも週末に行ってきたよ。
★スペインには2回行ったかな。コスタ・デル・ソルという地中海沿岸のリゾート地に泊まり、グラナダにあるアルハンブラ宮殿も見てきたよ。二回目は、首都のマドリッドで、プラド美術館においてあるピカソのゲルニカを見たよ。フラメンコを見ようと思って夜の10時ころ行っても、だれもいないんだ。夜中の1時過ぎくらいから始まったよ!
★2週間くらいかけてヨーロッパ大陸を横断ドライブしたんだ。ロンドン⇒ドーバー⇒フェリーでカレーにわたり、パリ⇒ジュネーブ⇒フランスのシャモニ(富士山より標高が高いエギーユ・デュ・ミディにロープウェイを乗り継いで登り、さらに氷河を渡ってイタリアまで行ったよ)⇒スイスのアルプス街道⇒ルツェルン⇒ドイツのノイシュバーンシュタイン城⇒ミュンヘン⇒ボン⇒ベルギーのブラッセル。よくポンコツの日産車で回ったもんだ。行き当たりばったりの気ままな旅で、行きつくところまで行った町で安宿を探すんだ。
★イタリアはフィレンツェとピサ。ウフィツィ美術館とか、ピサの斜塔とか。食べ物はイタリアがヨーロッパの中で一番口に合っていたよ。
★エジプトへも2週間のツアーに入り、小さな船でナイル川を下りながらアベシンブル宮殿やピラミッドなどを観光したんだ。帰りには紅海まで足を延ばして、シュノーケルで見事なサンゴ礁を見たよ。
★スキーにもフランスまで2回行った。ヴァルディゼールは壮大だったよ。
★Club Med(地中海クラブ)はヨーロッパが本場。ギリシャとフランスのClub Medに参加して味をしめ、帰国してからもプーケットやサホロに行ったけど、どこでも同じだね。

3年間の間に、とてもたくさんの旅行を楽しんだよ。
ママとパパのふたりだけの貴重な思い出だ。

Saturday, April 25, 2009

Family Life Cycle

優子と僕は、赤い糸で自然に結ばれていたわけじゃない。一生懸命、結んだんだよ。
確かに、僕の身体の一部になってしまった今から振り返れば、優子と出会ったのは、どう考えても赤い糸の運命だったのかもしれない。でも、出会って、愛し合うようになってからは、結び目をキープするのに一生懸命だったよ。いったん結んだら、もう大丈夫、解けない、なんてものじゃなかった。いつも、結び目がどうなってるか、解けかかっていないか、確かめていたよ。

僕の人間性の中に優子が存在しているとしたら、やっぱり一番は3人の子どもたちを産み、育てた体験だろう。ふたりを束ねておくのさえたいへんなのに、それに3人を加え、5人を束にするってのは、並大抵の事じゃなかった。その作業を通じて、優子と僕がお互いに深く入り込んだよね。遠慮なんかしてられない。その体験が父親として、夫としての僕を成長させたのだと思う。

優子もよく言われていたよね。子ども3人つくって、仕事もちゃんとこなせてすごいわー。それに実は心臓の病気も持っていて...ダンナさんがよく理解してくれるからね...とか。
でも、僕らとしては、なにもすごいことを狙って、がんばろうとしていたわけじゃないよね。僕らが一番やりたいのはどんなことだろうって、ふたりでよく考え、話し合って進めていったことなんだ。結果がどうなるかなんて、あまり考えなかったよ。

優子と僕の家族ライフサイクルを整理してみよう。
1st Stage) Twosome Courtship
ふたりが付き合い始め、結婚して1年後に留学。3年間のロンドン生活を終え、帰国して、ふたりが就職するまで。ふたりの生活の基礎を作った時期。
お互いに愛し合っていたとはいえ、それが本当かどうか確かめるまでは時間がかかった。この人で本当に良いの?ということを確認して、この人が一番になるよう、いろんな人間関係を整理し、一緒の生活をスタート。ロンドンではホントふたりっきりだったからね。
原因はとっくに忘れちゃったけど、もう離婚するしか手はないかなんて思わせるケンカもあったような気がする。でも、別れる決心などできず、お互いに向き合うしかなかった。
優子は、Samaritans(いのちの電話)で僕と一緒に相談員をやりながら、優子自身もリーダーのPaddyに自分の事を相談していたよね。僕もPaddyはよく知っていたけど、優子がどんなことを相談していたかはconfidentialityとかいって教えてくれなかった。僕も、英語では苦労するし、勉強もはかどらないし、自信なんかなかったよ。
でも、帰国直前に今の就職先が見つかり、優子も帰国してから日経新聞の求職欄を半年くらい睨んで、良い就職先を見つけたよね。家も立て直そうというプランも出て、やっとどうにか落ち着き始めた。

2nd Stage) Bringing up small children
managing work and family balance
そんなこんなで、子どもを持つ決心と準備がやっとできて、ちゅけを産んだのは結婚7年目だった。
優子は仕事を一時休止して子育て中心にという選択肢もあったはずだけど、なぜかそうしようという発想はふたりともなかったよね。
ちゅけを産んで、新米子育ての始まり。祐馬とじんも続けて出てきて、苦労の連続だったよ。ふたりのケンカの中心テーマも僕ら(僕だけ?)のwork/life balanceの矛盾が中心だったと思う。口では偉そうなこと言うけど、実際ちがっていた(ように見えた)から。
でも、今から思えば、何とかなるよという根拠のない楽天主義みたいなのに満ちていたように思う。
優子の健康だって不安だったよな。でも、なぜか心配してなかった。優子は自分で心配してたの?
不安を抱えつつ、やればできちゃった面もあるから、やるしかなかったよね。
10年も過ぎれば、ケンカのパターンもネタも見えちゃっているんだけど、なぜか懲りずにケンカしてたよね。ケンカすることで、ふたりの役割を再確認・再調整していたのだと思う。
子どもたちは、たしかに二人の鎹(かすがい)だったよね。優子も僕も、自分のやりたい仕事や趣味は、それなりにやれてきたと思う。でもそれは個人プレーなわけで、ふたりが協力せざるを得なかったのは子どもたちのことだよ。子どもたちのことで、ふたりはより深く結びついたんだ。そうするしか選択肢はなかったし、そうすることが二人の幸せでもあったのだと思う。
こうやって、振り返えればね。

3rd Stage) Growing up and leaving children
expanding our own roles in the community
ちゅけが、高校に行き始め、思った以上に学校生活が忙しく、家での存在は薄くなっちゃったんだ。
子どもたちがだんだんと離れていく。そういう矢先だったよね、優子が消えたのは。
この3-4年、子どもたちの手間が少なくなりつつありながら、優子はずいぶん成長したと思う。自分のやりたいことも見えてきて、通訳としてのキャリアを進み始めていた。僕自身の道も、あれこれ考えてはいるんだけど、優子に先を越されたね。
そんなことができる背後には、目に見えない基盤の安定感が前提にあったのだよ。それが突然崩れちゃったので、今、そのことにやっと気づいている。
予定としては、その基盤をもとに、子どもたちが巣立ち、僕らは僕らの道をそれぞれ実現していくはずだったんだよ。

4th Stage) Climing down the hill
優子との基盤が崩れていなければ、予定では、ゆっくり人生の山を下り、麓に近づきながら、優子と僕の終末を確認し、受け入れていくはずだったんだよ。
まだ、人生のPrime of our Lives.子育ての後半戦と、社会的役割の充実期。まだ、山の稜線付近を歩いていたのに、優子だけ急に足を踏み外して下に落っこちゃったんだから、困るんだよなあ。登山というのは、ちゃんとパーティーを組まないと危険なんだよ。これから僕と子どもたちはどうすればいいんだ?
優子なしで、残りの道を歩んでいくか。
別の人を持ってくるか。

まあ、どうにかするしかないんだけど、どうするのがベストなのか、まだわからないんですけど...

幸せを感じる余裕

ひとみさん、ご結婚おめでとう!!

でも、ちょっと考えちゃってるわけ?
幸せを得たら、必ずそれを失う不安が付きまとうよね。
幸せが大きいほど、その不安も大きくなる。
自分から手放す場合を除いても、1/2の確率で、いつかパートナーを失う悲しみに耐えなくちゃいけないんだ。けっこう、厳しいよね。

でも、尻込みする必要ないんじゃないかな。
僕も、失う時がこんなに早く来るとは全く想像していなかった。
お葬式では、優子さん、短かったけど、とても幸せな人生だったわよ、なんて多くの人が慰めてくれたけど、当時は、全くピンとこなかったよ。たとえそうだったとしても、僕の悲しみは全然緩和されないってね。
でも、ようやく最近、優子と僕は幸せだったんだと、少し思えるようになってきたんだ。
優子が生きているときは、そんなこと感じる余裕はなかったよ。
幸せだってことは、十分わかっていたのだと思う。
でも、現在進行形の関係では、そんな風には振り返らないでしょ。
幸せを実感する前に、やらなきゃいけないことも、解決しなくちゃいけない問題も山積みだから、ケンカしたり、すれ違いながら、それをこなしていくのに精いっぱいだったよ。

失った後、今までは、幸せなんて感じる余裕はなかった。
それが、最近、何となく、優子がいなくても人生は無事に続けられそうな気がしてきたんだ。
生活の上でも、気持ちの上でも。

この3ヶ月間あまり、一生懸命、優子の思い出を集めているんだ。
良い思い出も、嫌な思い出も出てくるよ。
でも、幸い、前者の方が圧倒的に多いんだよね。
そうでない人もきっとたくさんいると思うけど、そういう意味じゃ、ラッキーだった。
そしたら、幸せに浸ることができる。優子が生きていたら、こんなことできなかったでしょ。

だからひとみさん、幸せになっても大丈夫だよ。

Friday, April 24, 2009

Those were the days

...

---なぜ、これが悲しき天使(邦題)なんだ!?
優子
昨夜はヘンリーたちと新宿で飲んだよ。楽しかった。
優子が死んだ直後も、みんな家に来て優子に会ってくれたし、ずっと気にしてくれていてね。

あの頃は、みんな若かったよなあ。
医者になりたてで、研究室に入り、右も左もわからないまま、仲間と群れていたよな。
ヘンリーとアキラが3日の間隔を開けて続けて結婚し、そのちょうど翌年の同じ日(体育の日)に僕らが結婚したんだ。あの頃は、結婚ラッシュだったね。結婚をほぼ決めたころからみんなと付き合い始めたんだよな。カップル同士でマーコ御殿に集まったり、ハワイ、サイパン、軽井沢、箱根、、、よくみんなで旅行したもんだ。僕らがロンドンに来たら、追っかけてきたもんね。
飲みながら、夫婦のグチを披露し合えば、つっこみやフォローが入り、結局みんな同じなんだと妙に安心したり。
奥さんたちは、若くて美しかったよな。
僕らは医者としても、夫としても自信なんかなかった。迷いながら一生懸命だったよ。
優子と僕にとって、お互い等距離にある共通の友人たちだったよな。
でも、やがて子どもたちが生まれ、大学院も修了して、それぞれの道を歩み出し、群れて遊ぶことも少なくなってきた。
その連中が、20年後の今は、大学教授に病院長、そしてチョー売れっ子サブカル評論家。
このメンツで、文句なく文芸春秋の同級生交歓に出れるんじゃないか!
子育ても仕事もそれなりに落ち着いてきて、これからまた楽しもうぜとか言ってたところだったんだ。優子を突然失った悲しみは、みんな共有しているよ。

Thursday, April 23, 2009

患者さんから学んだこと

優子さあ、

なんかなー、今日も一日クリニックでいろんな家族と会っていたんだけど。

家族療法ってのは、うつだったり、子どもの不登校やひきこもりとか、いろいろな精神的な問題に対して、家族の力で乗り越えていこうという考え方なんだ。家族ってすごいというか、両刃の剣だと思うんだ。すごい潜在力を持っているよ。家族の問題に直面しても、それを乗り越えるだけの集団の力というのかな、そういうのをどこの家族でも潜在的に持ち備えているはずなんだ。でも、その逆に家族関係が裏目に出てしまうと、家族の健康を損ねてしまうというか、家族の誰かがスケープゴート(生贄の子羊)としていろんな問題が生じてしまう。

クリニックではいろんな家族に出会うよ。夫婦のことが話題に出ると、話を聞きながら優子のことを思っちゃうんだ。本当は診療中に優子が出てきてあまり邪魔してほしくないのだけど、それは仕方がないよね。臨床家としては、まったく自分の体験から切り離して考えることは出来ないわけで、自分の家族体験が肥やしになっていると思うんだ。

本当は、どの家族も、夫婦がうまくいって、協力したいと思っているはずなんだ。でも、実際はなかなかそううまくいかないんだよね。子どもの問題で、今まで疎遠だった夫婦が団結できたり、両親を呼んできてふたりで協力させようと思ってもうまくいかなくて、実は夫婦間に隙間風が吹いていたり、もっとひどければ離婚寸前だったり。離婚できればいいけど、離婚するパワーと勇気さえ持ち合わせていなかったり。
どうしてそうなっちゃうんだろうと考えると、別に特別な事情があるわけではない、なにか深刻な病気とか異常がもともとあるわけじゃない。
仕事が忙しかったり、姑との関係がうまくいかなかったり、子離れできない親が影でじゃましていたり、子ども時代の不幸な体験を引きずっていたり、子ども時代に両親が不仲で、夫婦協力する適切なモデルを示せなかったり、
こういうのって、どこでもあるよな。それが、ちょっと悪循環のスパイラルにはまっちゃうと、はじめは些細なことが10年、20年と家族をやっているうちに、元に戻れないほどおかしくなっちゃったりするんだ。

優子と僕のことも、考えたりしているよ。ずいぶん、患者さんたちから僕は学ばせてもらったかな。たいてい反面教師としてだけど。もともとは、素敵な仲だったはずなんだけど、ああ、こういうことが重なっていると、だんだんと悪循環にいとも簡単にはまっちゃうんだろうなって。具体的にはどういうことかというと、

・懸案事項は我慢せずに、ちゃんと消化すること
・コミュニケーションは大切
・男と女はどう考えても渡れぬ川、というか、考え方、感じ方にはギャップがあるんだな
・家族のために仕事をしてるんだけど、やはり家庭で接する時間が十分でないと、いくら内心はがんばっていてもダメなんだ
・自分の親との関係はよく整理しておかないと、ごちゃごちゃになっちゃったりする

でも、一番大切なのは、向き合う勇気を持つってことかな。その相手はパートナーだったり、自分の子ども、自分の親、職場・学校、いろいろあるし、最終的には自分自身に向き合うことだよね。向き合うのはやばい、不快感が伴う、いろいろ目をそむける理由はあるのだけど、ごまかしちゃダメね。多少の痛みや不快感を伴ったとしても、ちゃんと向き合うべき時は向き合い、問題がまだ小さいうちにちゃんと処理しておかなくちゃ。心の問題や、夫婦関係って、虫歯と同じで、ほうっておけば自然にどうにか治るわけじゃないんだ。

というようなことを、僕は患者さんたちから学んだかな。それを優子との関係にも応用しようとしたと思うよ。やってることは、複雑なことではなくて、ごくごく単純なことのはず。でも、単純だからこそ、できないんだよね。だれでも。

Wednesday, April 22, 2009

O-bento

優子

お弁当づくり、なんとかやってるぞ。
おばあちゃんがhelpしてくれて、おかずを提供してくれるんだ。まあ、僕も掃除や洗濯は苦手だけど、料理は結構楽しむ方だからね。ちゅけのとついでに、スリムな弁当箱を買ってきて、自分用にも作ってるよ。職場で広げると、相談員のおばさんたちの厳しいチェックが入るんだ(笑)、プチトマトはその対策用ね。
考えてみれば、3人の子どもたちの保育園弁当は、優子が全部作っていたもんな。子どもにしてみれば、買い弁でもパンでも構わないのだろうけど、やっぱり手作り弁当は親の思い入れだね。

優子石

ピラミッド優子が届いたよ。3月31日に紹介したとおり、ちゅけと一緒に大阪まで行って作ってきたんだ。とてもきれいでツルツルした石になっちゃって!!どっちにせよ、優子はもういないんだ。でも、この石の中には優子が残っている。お墓の優子は地下にもぐっちゃったけど、こっちの優子は手にとって触れることができる。
完成品を眺めること以上に、これを作るプロセスに参加した意味は大きいと思う。すべて象徴なわけだから。優子の骨を乳棒で粉にする時、優子の存在を感じたよ。居間の仏壇に置いておくから、いつでも一緒だね。

Tuesday, April 21, 2009

お墓参り&ピクニック


優子を悼んでくださる方へ

納骨は4月12日に親族で済ませました。
また、優子のお墓に行こうと思います。
ご一緒に来ていただければ嬉しく思います。
4月29日(水・祝)
私は子どもたちと午前中、イチゴ狩りにでも行き、お昼前後から、お墓の近くの東屋で風の優子と子どもたちと一緒にピクニックしてます。
場所は、三浦半島の先端にある三浦霊園です。
うちからだと、湾岸~ベイブリッジを通って1時間20分ほどでした。景色のよい道が続きます。
来て下さる方、よかったらご一報ください。
雨天順延。
今回に限らず、また行くときにはブログでお伝えします。

Tiki.

Yuko never goes away

When somebody dies, a cloud turns into an angel, and flies up to tell God to put another flower on a pillow.
A bird gives the message back to the world, and sings a silent prayer that makes the rain cry. 
People disappear, but they never really go away.
The spirits up there put the sun to bed, wake up grass, and spin the earth in dizzy circles. 
Sometimes you can see them dancing in a cloud during the day-time, when they're supposed to be sleeping. 
They paint the rainbows and also the sunsets and make waves splash and tug at the tide.
They toss shooting stars and listen to wishes. 
And when they sing wind-songs, they whisper to us, don't miss me too much. 
The view is nice and I'm doing just fine.
                     - Ashley

Thank you Kiira for a wonderful poem which just fits my feeling now.
I feel so much supported by my friend far away from Estonia.
You are right that Yuko has not disappeared. 
She is there in the wind floating in the sky.
I do not have to miss her nor feel sad about the loss. 
She is always with me.

Tiki.

優子を整理する

Tiki

時々Tikiが苦しんでるような気がして。私を忘れたいけど、忘れたくないって。
Tikiが板ばさみで苦しんでいるのを感じるのが辛くって。
もしかしたら、忘れたいのは私を失った悲しみや心の空洞みたいなものであって、私自身を忘れたいのではないのではないかと思って。

Tikiが私を失った悲しみと本当にさよならしてくれるのを見るのは嬉しいわ。 時が来て、私が愛するTikiが、新しい愛を見つけたとしたら、心から祝福すると思う。でも同時に、その人との生活はその人とのもの、私との生活は私とだけのもの、としてTikiの心に残りたい・・・・な・・・
私は天国に引っ越したけど、20年以上の生活を通してTikiの人間性の一部になっているわけだから。


あっそうか。そうすればいいのか。
優子、頭いいなあ。
優子がいるときには、それが当たり前すぎて、優子の存在は空気みたいなもの、愛だの愛着だの考える必要もなかったけど。
突然いなくなっちゃったから、優子=失った悲しみ、みたいになっちゃったんだ。

僕はもう、優子のことを全部忘れるか、全部忘れないで覚えているか、そのあたりが混乱していて、よくわからなかった。
そうじゃなくて、優子を失った痛みだけ、忘れればいいんだ。優子が僕に存在していたということ自体は、ずっと覚えていてもいいんだね。ホッとしたよ。

でも、ちょっと待って。そんなことできるの?どうやればいいの、優子?

ちょっと違うかもしれないけど、親との愛着と対比してみようか。
僕は子ども時代、親に愛着していたよ。だれでもそうだけど。
成長し、自立する中で、自然とその愛着が薄れ、親から卒業していった。そして、優子と愛着関係を結んだんだよね。
ってことは、優子との愛着を卒業すればいいのか。優子を失い悲しんでいるってことは、存在が消えたのに、愛着だけが残っているということ。優子にひっついていた気持ちを徐々に薄めればいいのかもしれない。

新しいパートナーを見つければ、優子との愛着が自然に収まるというわけでもないよな。
だって、マザコン息子(娘もいるけど)とかみていると、親から卒業しないままに結婚するもんだから、嫁姑葛藤をコントロールできず、パートナーとの愛着関係をうまく結べなかったりするし。
だから、もし僕が次のパートナーを迎え入れるとしたら、その前に優子との愛着関係を整理して、ちゃんと片付けておきたいんだ。
まだ、優子の箪笥の衣類さえ整理できていないくらいだか、それにはもうちょっと時間と、切り捨てる勇気が必要だけど。

優子は、僕の心の中に残っていいよ。というか、残っていてほしい。ちゃんと整理した形でね。
そりゃそうだ、忘れられるわけないもの。
優子が、僕の人間性の一部になっているとしたら、それがどの部分なのか、どんな具合に僕の中に入っているのか、わかっていたいんだよね。わからないけど、何となく居る、、、ということじゃ困るんだ。新しいパートナーになってくれる人が困るでしょ。まるで、背後霊みたいだもの。その人も、当然僕の人間性の中に入ってきて、優子とはまた別の入り方をしてくると思うんだ。そのスペースを明けておかなくちゃ。未知のスペースの中に得体の知れない背後霊が潜んでいたら怖いでしょ。
僕の中の優子は背後霊じゃなく、ちゃんと見える形で僕の中に居てね。大英博物館のロゼッタストーンみたいに。現在の痛みではなく、過去の遺産。僕という人間の歴史を語る中で一番大切な遺産になってほしい。ちゃんと、立派なケースに入れてあげるから。

そのためには、優子の喪失を感情的に悲嘆するのではなく、もうちょっと僕の中の優子の存在を具体的に書き出す作業が残っているんだ。過去の資料は机に載っているのだけど、まだ日記帳はイギリス時代のページでストップしたまま、次に進められていない。
学芸員って辛いね、リカちゃん。

Sunday, April 19, 2009

Full Relationship

Yuko,

I saw my therapist today. I saw (let's call her here as) Judy two weeks after your death for the first time, right in the middle of my crisis, and keep seeing her once a month, so this is our fourth meeting. 

I said I am doing fine to Judy today.
I am not saying I got over with the mourning process. I am still working on my pain and saddness. But I am fine in a sense to keep my life going. I am doing fine as a father of three kids, as a professor for my students, as a therapist for my clients. I am also caking care of myself catching up my mourning work, I guess. I am not in a hurry as I used to be. I just take time as a long term commitment. As a matter of fact, I have made appointments with Judy until August. 

I am not in a crisis any more, nor am I depressed. But it is very nice to have someone who take two hours of time just for me to explore my feeling. I did not have to cry any more today. Instead, I explored my feeling and also foresee my future in my personal relationships and my personal career.

 Judy asked me a good question; which part of my relationship with you, Yuko, I liked most. By answering her question, I could deeply reflect on our 21 years of relationship. I made two points. One is our physical and sexual relationship. It used to be very active to each other and very fulfilling for the first seven years, I would say. But it was not very active any more in the last ten years or so especially after you became a mother. But in a sense we did not have to have that kind of physical intimacy, because our relationship was stable enough to challenge excitement.

Another thing I liked most with you, Yuko, was our conversation when we have the arguments. We verbally fought a lot, didn’t we? We did not particularly yell or shout, but used every means of words to persuade or reason to each other. We may hurt each other and were in bitter feelings most of the time. I remember most frequent theme of our arguments was our time management, or more precisely MY time management. I was trying to be a nice and present father/husband in the family, but in fact I spent less time than you would want me, or I would want myself to be at home. Another subject may be your worries on your new job or your relationship difficulties. Those were the times I recall that you and I are very honest and straight forward to each other and true to be with our deep feelings. We may argue our big gap and difference of our attitudes, values, etc. and we may fight for one or two hours. But at the end of time, I believe we could manage some kind of agreement each time. I felt very satisfying and emotionally close to you, Yuko, after we became straightforward to each other and said everything we want to say.

 I love to see you becoming more positive and assertive in the 21 years of our relationship. I think you were not very confident in the beginning. I was 30 and you were 23 when we first married. I could easily win our game most of the time during the first few years of our marriage. You were following your bright brother, but never could win. You were always second best that you fail the 東大 exam, and the best bank you wanted to get in for recruit. You had difficult relationship with your mom, and you could never become independent from her.

But as I spend more time with you, I could see you changing over time. You became a good mother of three children. You manage two demanding works beautifully; one at home and the other at work. You also manage to achieve to be an interpreter which you always wanted to be.

I never wanted you to be a housewife. I know many of my friends are chauvinistic husbands who want to be a boss of their servant wives. I may feel nice at the beginning, but I know it would be boring and may stat having affair. I want to be equal footing with you, Yuko, so that we can share freely and equally everything we have. I was wining most of the time in early days when we were young, but you became very much more assertive and confident enough to win the game, say, in the last 5 years or so. It is devastating for me to lose our fight, but at the same time I felt so much satisfying to see you become more matured.

 This is basically what I said to Judy today.

Do you know what she said about my description of our relationship?

She said among lots of people that she had seen, it was rare to have such FULL RELATIONSHIP to each other as a couple. I think she was right that our relationship was so satisfying at least to my part. In this sense, I do not have any left-overs with you, Yuko.

西の魔女に会ってきたよ。今は、もうだいぶ落ち着いたんだけど、ゆっくり自分の話を聴いてくれる専門家がいるって、とても安心するんだよね。優子と僕との関係をしゃべっているうちに、ああ、そうだったのかと、ふと目からうろこが落ちたりして...

Thursday, April 16, 2009

祐馬よりママへ


ママへ

三ヶ月前の出来事は忘れたいけど、忘れちゃいけないと思う。
ママのお通夜、告別式では、会場をあふれ返るようなたくさんの人が来て、みんな泣いてくれた。
あの時、初めてママがどれほど信らいされ愛されていたかを知った。
悲しいはずのお葬式に祐馬はたくさんの勇気と人の優しさをもらった。
「大切なものは目に見えないんだよ」
ママの立派さをおそう式で初めて知ったように
ふだん当たり前に接しすぎて、全然そういう事に目を向けていない人にも、今のうちから重点をおいて行動する。
それは、ママが最後に教えてくれた事だよ。
ママが逝ってから、祐馬は音楽にふれる時間が多くなった。
ピアノは続けられないと思うけど、ママが昔やっていたギターを始めようと思う。
だから勉強の事にも、音楽の事にも、祐馬自身にいぶきを送りこんで下さい。そしたらがんばれる。
ずーっと祐馬達の事、見守って、時々ダメ出しして下さい。
また、どこかで会えるといいな。
イノセントワールド(byミスチル)
バイバイ

祐馬



ねえ、祐馬の作文もパパのブログに載せていい?

ダメ

ちゅけとじんは、すぐ良いって言ってくれたよ。

そんなに載せたいの?

うん、パパは、子どもたちのメッセージ、とても良く書けていると思うんだ。ブログを読んでくれた人が、おじいちゃんの短歌や、ちゅけとじんの作文を読んで、とても感動したって言ってくれるんだよ。

だから、、、!そうやって褒めまかすのが嫌なの!!!!

でも、祐馬のを、みんなにも読んでもらいたいんだよね。

じゃあ、取り引きしよう。DVDは?

DVDはちょっとねえ、、、CDならいいよ。

ダメ DVD。これは取り引きしたんだからね。わがままじゃないよ。
祐馬、これでも恥ずかしいんだから!

わかった。祐馬ありがとう。

Wednesday, April 15, 2009

親の気持ち

優子

はあ、今日も、一日忙しかった。

まだ、前回書き込んで2日しかたっていないんだ。
もうそろそろ、自然に間隔が空くかなと思ったけど、書かないとだんだん詰まってくる感覚は相変わらずだな。別に、優子と向き合いたいと思うわけじゃない。もう、優子はいいよ。
むしろ、自分と向き合う時間なのだろう。昼間も、仕事を消化する中、ブログにどんな風に書こうかなと文章を考えていたりしてね。

納骨を終えて、ひと段落、ひと区切りと思ったのは、その直後だけで、やっぱ、そう簡単に段階を踏んで快復していけるわけでもないようだ。遠浅の海岸に打ち寄せる波のように、引いたり、押し寄せたり、その繰り返しだね。でも、それを繰り返していくうちに、月の引力によって、いつのまにか、気がついたら引いていたりするのだろう。それを、じっと見て確認するのは無理で、自然に待つしかないかもしれない。

だいたい、職場の机にデジタル・フォトフレームなんか置いてあるのがいけないんだよな。間隔を1分に設定して、ありったけの優子の写真が次々に切り替わっていく。そんなのやめればいいのだけど、まだ止めたくない。左手の薬指はだいぶ軽くなったのだけど、心のリングはまだそう簡単に外すことはできないようだ。

でも、こんな風に書いていると、これを読んでいるじいちゃん・ばあちゃんが心配してしまうよ。
そりゃあそうだよな。この3ヶ月、何度も大泣きしている姿を見せているし、ブログには何かすごく悲しく、辛そうなことばかり並んでいるし。
でも、それは想定なんだよ。自分の心のケアをコントロールするという意味で。

優子の死は、病気を持っていたとは言え、まったくの想定の出来事だった。
だから、おばあちゃんとしては、僕が、まさか早まったことだけは、、、という想定の出来事が起きたっておかしくないと考えるかもね。
心のケアというのは、想定の出来事を、想定に留めるための作業かもしれない。

優子が亡くなった直後、僕が混乱して、同業者で親友のヤマトに泣きついたんだ。その後、彼もブログを読んでいてくれて、時々メールをくれるんだけど、「オマエのことは、基本的には大丈夫だと思っているから」と言ってくれる。その方が気が楽かもしれない。

要するに、信念あるいは、信心ということなのかな。
宗教とかもひとつの信念体系なわけで、それに救われる人もいる。
僕の場合は、科学(心理学)という信念体系だろうか、要するに、今の危機を乗り越えることができるというか、こうすれば乗り越えられるはずだという、未来に対する希望のような。

突然、最愛の妻を失うということが、最大のrisk factorだとしたら、
それに対向するprotecting factorsもけっこう僕は持っているんだ。たとえば、
★解決方法を知っているはずだという信念
 それを持っていれば、それを実行することができる。
★つまり、自分の感情を閉じ込めず、吐き出すということ。このブログもそうだし、泣き叫ぶこともそう。まわりで見ている人の方がつらいかも。そうしている本人は、案外、気分を変えられるものだから。感情を閉じ込めたら、どうなるかということは、仕事上たくさん経験しているから。他の感情もすべて封じ込めるために、うつ状態になったり。反対に、封じ込めきれず、はみ出してくる感情が、想定の出来事として爆発したり。たとえば身体化(体の症状)とか、行動化(とんでもない逸脱行動として現れる。自殺なんか最悪のパターン)とか。
それをできる環境を持っているということ。聞いてくれる仲間、支えてくれる家族、書き出すブログという場所(そこでもみんな読んでくれているという期待)、西の魔女もそうだし。
帰る場所があること。優子がいなくなったから、家に帰っても空虚、、、ということでなく、家には3人の子どもたちとじいちゃん・ばあちゃんがいる。どんなに安らぐことか。
経済的資源は確保されている。この不況の世の中、それがない状況でどうなるか、よくメディアに出てくるが、母子家庭・父子家庭ってのは、家族の喪失に加え、経済の喪失という大きな痛手を背負ったりする。そういう面で安心できるというのも大きい。

riskとprotecting factorsのせめぎ合いの中で、だんだん、プラスの方向に移っていくしかないね。
、、、というシナリオは、一応持っているんだ。

そういう意味では、僕自身より、僕を見ているまわりの方が辛いのかもしれない。
自分のことはどうにでもできるけど、人のことはどうすることもできないから。
僕自身が親になる前は、親が子どもを心配する気持ちは理解できなかっただろう。
「そこまで心配しなくても、大丈夫だから」と、親の庇護から抜け出そうとしていた。
親にとって、子どもはいつまでも子ども、というのもよくわかる。
もし、子どもたちの誰かが、今の僕のように辛そうにしていたら、それを見ている僕は、親として、きっと耐えられないだろう。



Monday, April 13, 2009

納骨 Setttling Yuko's ashes in the ground

Dear MKP men, 

Thank you for supporting me in a nice group. It is a small group, but means a lot to me.

It was a big turning point for me yesterday. We brought Yuko's ashesお骨 to the family cemetery. It is such a nice place. It takes 90 minutes from our house by car, out in the suburban area in 三浦半島with lots of nature. It is in a big public cemetery park sitting on a hill, overlooking sea water which Yuko liked. It is a ritual  ceremony followed by the funeral a week after Yuko’s death. I chose not to invite people, but just among close member of the family. It was very simple ceremony. I did not ask Buddhist monk to give prayer, but each of us read out a message to Yuko. I cried from the bottom of my heart. I did not have to cry for the last few weeks, but I cried this time. Three children read very good messages to their mother.

After the ceremony, we normally go to a nice restaurant for treat. But we had a nice picnic lunch close to Yuko’s place. I wanted to stay as close to Yuko as possible.

I have been wearing our wedding ring結婚指輪 up until yesterday because I want to keep Yuko close to me. Yesterday, I took it off and let in a Yuko’s urn骨壷. I ask Yuko to keep it for a moment until I come to you, so that we can get married again in a heaven or our next lives. But don’t expect me to come soon. It would take some years before I die.

 I was so tired yesterday, but it was a fatigue in a good way. I think I could release Yuko and also my tension/energy to keep her alive in my mind. I did not want to release her, but I did so yesterday. Ashes are ashes, and not Yuko. But I have opened the lid to feel the born a couple of times. They used to be Yuko, but they are not so now.

Yuko is gradually slipping away from my mind too. It may come back again, but it is the way I feel now.

I noticed I feel my sadness slightly in a different way. I use to feel pain of sadness that I lost Yuko and I cannot see her again for life, so I tried to hold her memory. But now I realize she is gone, and my sadness is more to do with my situation, that I am alone and empty.

納骨を終え、気持ちがちょっと変わったみたい。

確かに、昨日は、とても疲れた。というか、それまで、心の中で優子を生かそうと必死だったのだと思う。優子を墓地にあずけた今、優子を生かさなくてもいいんだと思うようになったよ。気持ちの糸がふっと切れ、すごく疲れを感じたんじゃないかな。

今までは優子が突然いなくなったことが悲しかった。でも、今、優子の面影は僕の心から去りつつある。残ったのは、優子のような親しい人がいなくなったという寂しさ、孤独感だと思う。

Sunday, April 12, 2009

ママ。じんより


ママ

自分は、4月に入ってもう5年生です。
だから、4年生よりつよくなっています。
ママがしんだ時はびっくりしてしまいました。
けどいまはもうなきません。心の中で悲しんでいます。
自分はいまもせいちょうしています

ママへ。ちゅけより


ママが天国へ行ってから、もう3ヶ月以上がたちました。
僕はその後、無事にK高校に入ることができました。第一志望校に入学できたのは自分の努力ということもあっただろうけれども、ママが時にうるさくしっかりと見守ってくれたことが、僕への大きな後押しとなっていたと思う。
勉強方法や学習時間についてうるさく言ってきたのも、僕のことを考えた上での行動なのだとやっと理解できた。高校の説明会に一緒に行ってくれたりして、ママの方が真剣なのではないのかとも思った。今ではその厳しくて温かい支援も受けられないけど、今までのようにしっかりと学業に励むつもりだよ。

高校がはじまって一週間くらいたつけど、すでに疲れています。友達も作って、毎日、戸惑いながらも忙しい学校生活に慣れようと努力しているよ。ママは僕よりもっとたくさん経験を積んでいるから、色々と話を聞きたいと思っていたけど、それは叶わない願いかな。でも、僕のまわりには、パパ、おじいちゃん、おばあちゃん、Mおじさん、Rおばさん、他にもたくさん立派な人生の先輩がいる。皆は僕達のことを心配して、色々と助けてくれている。僕も皆に感謝して、僕なりに家族のためにできることをしている。そして自分の道を開いていく。将来はパパをも越えるくらい立派な人になるつもりだから楽しみにしていてね。

だからママは何も心配することなく天国で僕達のことを見守っていてほしい。これが僕からママへの最後のお願い。

Hi Chuck, Ed, Steve

Hi Chuck, Ed, Steve and the MKP brothers worldwide,  

Thank you Chuck-san for connecting me to the brothers. It is a great relief for me to have someone close to me so that I can safely explore my internal sadness. It is like never ending process, but I guess that's the only way I keep myself alive.  

Chuck came to my home last month with his wife on their home coming journey to Japan, and had wonderful time sharing my deep feeling. Yuko was with us in the room with her ashes and picture.  

We have 5 MKP brothers living in Tokyo. They supported me great deal at the funeral a week after Yuko's death in January. They helped me bring her spirit into the room so that I and my three children could say good by in front of more than 100 people who came to the ceremony. We normally keep the ashes for several weeks before bring it into the cemetery. This is the way we can stay with her for a while before releasing our feeling. Tomorrow is our second ritual after the funeral that we bring her ashes into the cemetery. Lots of people came to support us at the funeral in January, but this time we chose not to bring people in, and just be with our close families; i e. Yuko's mother, siblings, in-laws, our children (15, 12 and 10), and myself.  

I have mixed feelings, I am not ready to release her yet, and at the same time, want to release her so that I can move to my own life without her. I have my three children, my parents, lots of my friends, my students, patients, neighbors and the brothers. I am not alone and have lots of relationships that I can live in. But I don't think I can help feeling empty and isolated deep in my heart.  

I cannot keep it shut. I feel I have to think about, and talk about my feeling on Yuko, trying to remember her in my brain, and share them with somebody who would be kind enough to listen to. I am afraid that I would be deeply depressed if I keep it inside and closed.  

You know, I thought I would go to anywhere even to overseas to have safe container where I can be free with my feeling. But I realize what I am doing right now is what I want/need to do. Thanks for the internet technology that I can be connected with you by just writing e-mails and posting to my blog. People would visit my site to share my feelings. I am sure Yuko in the wind also have the internet connection, and I can reach out to her.  

Thanks for listening. This is almost like an on-line i-group for me. I do not think I need any advice or suggestions. It is enough for me to know that you are here with me to share.

Saturday, April 11, 2009

明日は納骨

りかちゃん、メールありがとう。

昨晩は、大学時代のアメフトの連中と、後輩が経営している新橋の焼き鳥屋で飲んだんだ。楽しかったよ。
8人くらい集まったかな。沖縄や仙台、長野からも来て、これだけ集まったのは10年ぶり、あるいはそれ以上かもしれない。みんなは、僕が元気そうで安心したとか言ってたけど。そりゃあ、元気さ。いくらでも、冗談言い合ったり、明るく振舞えることはできるよ。あいつらとは、まったく遠慮せず、何でも言い合えるのがいいよ。ちょうど優子とりかちゃんみたいな関係なんだろうと思う。

僕自身、どう気持ちを持っていったらよいのか、よくわからないんですよ。
明日は、いよいよ納骨なんだ。
はじめは、お葬式みたいにたくさんの人に来てもらって、、、と考えたけど、やっぱりやめたよ。家族だけで静かにやろうと思う。いろいろ、準備してね。料理は、いつも行っている華鳳(かほう)のおばちゃんに頼んだんだ。家族でよく行って、優子のこともよく知っているから、特別においしいおかずを作ってくれるよ。おにぎりは、家族みんなで握ろう。これから、ホームセンターでキャンプ用の椅子とテーブルを買ってくるよ。そしたら、家族みんなで優子のお墓のそばのあずま屋で会食できるし。そのほうが、気取った懐石料理屋よりずっといいよ。
納骨は、四十九日とは関係なく、暖かい季節になるまで待ったんだ。思えば、お葬式以来のセレモニーだよね。お葬式のときは、もう何がなんだかわからない状態で、たくさんの人に支えてもらって、優子と別れたんだ。早すぎて、悲しみの何割も感じられるほど僕自身の体制が整っていなかったように思う。
その点、今回は、もうだいぶ落ち着いたし、自分の気持ちに向き合う余裕も出てきたみたい。
お骨なんて、優子の残骸だよな。本当の優子なんかじゃない。でも、たった3ヶ月前までは優子の本体だったんだ。今は無機物になっちゃった優子ともお別れだ。そんな象徴みたいな、形骸の優子にこだわることないじゃんか!!お骨を手元に抱えていようが、お墓に安置しようが、何も関係ないよ。
でも、子どもたちは結構、そんな優子に会話してるよ。ちゅけもゆまも、朝、急ぎながらも優子のチンを鳴らして、「いってきま~す!」という感じで学校に飛び出すんだ。
優子と別れたくない、まだ身近に居てほしい。居間は優子の写真だらけにして、どっちを向いても優子が見えるようにしてるよ。職場でもね。デジタルフォトフレームには、優子が映っているすべての写真データをメモリカードに入れて、スライドショーにするんだ。たくさんの優子に出会える。優子を忘れたくない。

でも、りかちゃん、わかんないんだよ。こうやって、いつまでも優子のことを思い続けるのが良いのかどうか。ブログでも、「優子!」とか言って語りかけたり。先月、りかちゃんのところに行ったのも、優子に会いたかったからなんだ。優子の親友だったりかちゃんと僕が何度か会ったときは、いつも優子と3人だったよね。りかちゃんと歩いていると、優子との世界にふっと入れた気がした。とても嬉しかった。いつまでも、優子の面影の中に留まっていたい。

でも、その一方で、いいかげん、優子を後に置いて、前に進みたいんだ。
まわりはどんどん前に進んでいる。
子どもたちも、高校と中学、新しい学校で、新しい友だちに出会っている。
そうそう、ちゅけは、高校でさっそくテストがあったんだって。けっこう出来たよって、今朝話していた。子どもたちはがんばっているよ。
僕も新学期。来週から新しい授業が始まるし、新しい仕事も入ってくる。もう、入れたくないのに、引き受けちゃったよ。新しい人との出会いもたくさんありそうだ。秋には台湾での講演の話も進んでいるし。
そういう波に乗っていくことはできるよ。というか、そうしなくちゃいけないんだ。身体と生活は、どんどん前に進んでいく。
じゃあ、僕の心は、どこに置いたら良いんだろう?
もう、優子のことなんか忘れたいよ。
でも、忘れたくない。

ねえ、りかちゃん、僕はどうしたらいいのですか?

やばい。祐馬がそろそろ起きてくる。
じんがきて、ヒマだから人生ゲームやろうって言ってきたよ。
感傷にひたっている場合じゃない。

Tuesday, April 7, 2009

入学式

優子

今日は、遊馬とちゅけの入学式。
重なったので、遊馬の中学は近所だからおばあちゃんが、ちゅけが電車で通う高校は僕が行ってきた。
卒業式も、入学式も、はじめの入場行進のとき、なぜか泣けちゃうんだよね。座っている親たちの脇を、さっそうと(恥ずかしそうに?)歩いて来る姿。ああ、こんなに成長したんだ!と親として実感する瞬間。優子がいたとしても泣くんじゃないかな。50歳すぎて涙もろくなってきたから。それと、もう一つの要因は音楽ね。どうも私は音に感じるみたい。

25年前、青年の船で太平洋沖を通った時、戦没者慰霊祭を船上でやったんだ。超低音の汽笛が長く流されたとき、なぜか涙が止まらなかったよ。

この高校は行事や部活(班活と呼んでいる)にすごく力を入れていて、そのひとつ、ブラスバンドの音が素晴らしいんだ。コンクールでも活躍しているらしい。日比谷公会堂でやる学校の音楽祭にはぜひ行ってみよう。
卒業式の後、保護者に全体及び各HRで説明があったのだけど、宿題がどっさり出て、土曜日にも授業やるんだって。かなり進学に力を入れているみたい。中学では塾などに通わせたけど、高校では、生徒たちのレベルも輪切りにされているので、学校だけで進学指導も含めかなり忙しくなるそうだ。
僕らが35年前経験した都立高とは雰囲気が正反対だ。当時は、学園紛争後の退廃的ムードの中で、学校は何もやってくれなかったからな。
自由がいいのか、詰め込みがいいのか、生徒自身にとっては一長一短だが、親としてはとりあえず安心というところかな。しかし、大学受験に伴う青年期の学業達成志向の日本的伝統は、弱まるどころか、却って強くなっていくのね。
とにかく、良い学校に行けて、優子、とてもよかったよ。

でも、帰宅したら、ちゅけ、遊馬、じんから保護者へのお手紙が山のよう。新学期が始まり、保護者の負担というものがあるんだったよな。忘れていたよ。今までは優子が8割がた担って、僕はやらなかったからあまり実感していなかった。しかも、3人が小・中・高と分かれているから、負担もすべて3倍。
この後のことを考えると、高校・大学の受験もある。やっと、1個終わったところで、これから2×3-1=5回、受験生の親をやるんだ。大学に進学したら経済的な負担も考えないといけないし。思春期の子育てって、こういうことなのね。

とりあえず、今週末は、子どもたちと文房具、その他もろもろの買い物へ。
ちゅけの毎朝のお弁当はどうするか?⇒今は、便利なお弁当用食品がたくさんあるみたいね。今、なぜかお弁当ブームらしいから、僕の分もついでに作っちゃおう。
それに、おばあちゃんが協力してくれると言うし、ちゅけ自身にも週1回くらいやらせてもいいだろう。学校にはパンも売っているというから、飽きたらそっちを利用すればいいし。
明朝は遊馬が「ちゅけのお弁当つくってやるよ!」となぜか張り切っているんだ。起きれるかどうかわからないけど。あいつは、面白いねえ。
学校行事や保護者会はどうするか?⇒子どものためという口実で、サボれる(サボりたい)仕事はサボるとしても、限界がある。保護者会は全部出席する必要はないだろうが、週日昼間のやつはじじばばが協力してくれるって。助かるよ。

P/S 高校入学式の退場曲を遊馬に聞かせたら、ウォーターボーイズ(これ、海賊版みたいね)だよって教えてくれた。

やー、パパまたはまっちゃったの?

そうみたい。僕自身の中高のブラバン時代が懐かしい。

Monday, April 6, 2009

義父からの短歌

優子の突然の逝去を悼み墓前に捧ぐ

鍾次郎

 

子らが集い元旦祝いし翌々日旅先からの思わぬ悲報

「ママが大変」孫娘からの携帯に不安いやまし時のながきよ

夫と共に滑り下りしゲレンデで倒れし君は再び立たずと

病持つ身にしあれども活発に挑戦し続けし義娘(むすめ)痛まし

小・中の子三人を残し汝(なれ)なぜかくも疾く逝きたまいしぞ

夢なるか現(うつつ)なるかの八日経てそもじの骨片末孫と拾う

その刹那みるみる四囲の薄暗く変わり果てたり娘の逝きし報に

念入りに化粧を受けて美わしき汝は声なく家を去りゆく

黒き服の人影次々花を捧ぐ夢幻(ゆめまぼろし)か娘の通夜に坐し

逝きし娘の三十余年の旧き友「うそでしょう」と短歌誌に寄す

「ブース内必死に同時通訳を」友は弔辞で思い出語る

子のブログ妻への思い綿々と反省こめて日々続きゆく

犬を飼う孫の願いで家族会議キーパーソンの今はなきまま

夕食を世話せんとする祖母なれど遠慮がちなる父とのギャップ

早朝に訪いくる息と一日の打合せする日課となりぬ

年老いて購いおきし墓所なるに若き君なぜ先に入りしや

結婚指輪



優子
いやあ、今日の優子多摩サイは快適だったよ。転機は上々、穏やかな南風。多摩川堤の桜は満開で、とてもきれいだった。
午後は小平で仕事だったので、大田区~小金井~小平を往復してしまった!さすがに筋肉はだるいな。ストレッチしたら気持ちよかったよ。今晩は早く寝るんだ!

チャリで飛ばしながら、昨日、義弟が教えてくれたことを考えていたんだ。

納骨のとき、骨壷に何か入れられますよ。だれも文句は言わないから。

なるほど、そうだよね。
何か入れるもの、あるかな・・・?

そうだ、結婚指輪
まだ、はずせず、ずっとつけているんだよね。
21年間つけてきたリング。ほとんど、外すことなかったんじゃないかな。

でも、いつかはきっとはずすはず。
まだ優子を外すにはちょと勇気がいるけど、いい機会だからお墓の中で優子に預かっていてもらおう。
僕がそっちに行ったら、またつけてくれよ。
あるいは、次の人生でも一緒になろう。
その時は、先に早く死ぬなよ。

-------

このことを遊馬に言ったら、

そうやって、ほかの女の人と結婚するんでしょ。
別の指輪をつけてなさい。

だって。

Sunday, April 5, 2009

海の見える丘


優子が入るお墓を見てきたよ。
来週12日に納骨だから、その下見だ。
三浦半島の先端にある公園墓地。
優子の親父さんが亡くなった11年前に、僕の両親がそろそろ用意しておこうということで、作っておいたんだ。その後、幸い両親は健在でずっと空き家だったのだけど、まさか優子が一番先に引っ越すとは思ってもみなかったよ。
とてもいい場所だよ。すぐ近くに東屋があり(写真)、そこから優子の好きな海が見えるんだ。

お坊さんも呼ばないし、納骨自体、15分もあれば終わっちゃうんだって。それだけじゃもったいないから、一人ずつ、短いメッセージを読もうか。子どもたちのためにね。彼らにもメッセージを書かせるから。

僕のは、こんな具合かな。

優子が急にいなくなり、この3ヶ月間、僕も、子どもたちも、お母さんもとても辛かったよ。
でも、まわりの人に助けられて、みんな元気でやっているよ。
お兄さんには、亡くなった日、わざわざ遠くの病院まで駆けつけてくれたんだ。
お母さんは、保険のことでとても助けてくれている。
僕の両親は、ふだん洗濯やごはん、子どもたちの面倒をみてくれている。
だから、優子は心配しないで、安らかに眠ってください。
じゃなくて、お空を吹き渡っているんだったよね。
ここからきれいな海が見渡せるからいいね。
僕も、もうしばらくしたら来るけど、まだだいぶ先になるからね。

子どもたちもちゃんとやるかなあ。
優子を納めたあとは、あずま屋でピクニックしよう。
あの近辺にはお魚がおいしい懐石料理屋もあるのだけど、優子の傍に少しでも居たいからね。

納骨は、身内だけで質素にやろう。その次に来るときは、みんなを誘って来ようかな。
陽気が良い時にね。まわりには城ケ島、海水浴場、イチゴ狩り、マグロがおいしいレストランとかたくさんあるんだ。それに、最近ソレイユの里というのができたんだって。
子どもたちと、遊びがてらに優子のところにも行くからね。

Dear Maurizio

Thank you so much for your sincere letter. I was wondering why so many friends of our group know the death of Yuko and send me very warm e-mails. I thought was going to let you all know the saddest news in due course, but thank you Maurizio to let them know.

 I am not depressed. I can sleep, eat, look after the kids and go to work. I think I am hyper-active using all my energy to ease my deepest pain in my life. I showed you in Erice a Japanese tradition of meditation, the importance of silence to be in touch with our deep emotions. But I cannot keep my silence right now. I would be deeply depressed if I stop running.

Since we helped Pieter burry his father in Rome in 1997, I become very interested in my relationship with my father and, me as a father of three children. I started conversation with my father after I came back from Rome in 1997. We corresponded in the letter comparing our perspectives on our relationship of my childhood and adolescent, and found out how different our subjective experiences were on the same events of our life cycle. We had about ten long letters, and finally published it in a book in 2007. I am happy to present you if you can manage Japanese. The conversation in the book focuses father-son issue and mentioned very little about Yuko. I wrote in the post script; I could write about our relationship with my father because it was about my journey to adulthood, so in a sense it is already finished. My next task would be the same kind of conversation with my wife, but I could not do so yet because it is still on-going struggling process.

Now it is finished, so I started writing to Yuko in the form of blog in the internet. I role play Yuko in the blog to keep her alive. It is one of my hyper-active mourning works to get my sadness out. I made some parts in English so please visit if you can.

My father will be 80 in this summer. I live with my parents in the same three story house. When Yuko was alive, we manage to set the generational boundary. It is like two units of household, we have separate facilities like kitchens, living rooms, bathrooms. But since Yuko’s death, the door is kept open and became one extended family. My mother does the laundry and kitchen, and my father looks after the children. My smallest child Eugene is 10 years old. Our culture allows parents and child to stay close in bedroom. Eugene used to come to our bedroom, but realized want to separate from us. But he does not want to sleep alone in his own bed, so he decided to sleep with his ground parents about a year ago. I feel relieved to realize Eugene had not completely lost his primary attachment even Yuko died.

 Since our group in Maurizio in 1997, I like to be in a nice supportive group. I like to attend Men’s Institute at the AFTA (American Family Therapy Academy). It is men’s only group of family therapists to meet one evening during the conference. Although I missed the Oaxaca meeting, I am still active in the international conferences. I became the board member of IFTA (International Family Therapy Association), although I had to miss this year’s conference in Slovenia in March.

I wish we could meet again as a group. It is only three months since Yuko’s death, but I know it is a looong standing mourning journey, and I want your presence to go through this difficult process. 

はい、また英語です。前の「父との往復書簡」本にも書いたんだけど、アンドルフィ・マウリッチオローマの家族療法家。彼のところで2週間、経験した集中グループワークはその後の僕の人生にも大きな影響を与えたんですよ。そのうち、Maurizioと、一緒にグループをやって仲良くなった10人くらいの仲間にも優子のことは知らせようと思ってはいたのだけどまだでした。そしたら、突然仲間たちからメールと、彼から手紙がきて、優子のことを悼んでくれました。IFTAの会議で、僕の仲間たちから優子の話題が出たみたい。なんか、世界中で優子風が吹き渡っているよ。こりゃすごいな!!

Saturday, April 4, 2009

入学式と花見

Tikiさん
執筆意欲、まったく持って脱帽です。そんなに書いて大丈夫?
いや、大丈夫じゃないんです。だから書いているんです(笑)。
自分でも、よく書けると思うよ。
このペースで仕事の文章もかければ、仕事たくさんできちゃうのに、そっちの方は原稿ためっぱなし。
一難さってまた一難で、別の原稿締め切りが今月の20日。まだ、ぜんぜん書いていない!
なんで、ブログは書けるのに、そっちは書けないんだろう。
かといって、書くことが辛いだけかというとそうでもない。楽しくもあるんだよね。書いている内容は辛いことなんだけど、書いたものをみんなが読んでくれているってのは、安心感を持てるから。優子が死ななきゃ、僕のブログなんて面白くないし、あまり読んでくれないよね。
だいたい著名な作家とかエッセイストなんかもそうじゃない。逆境創造性を高めるんだよね。

子どもたちは柔軟ですからきっとTikiさんだけが辛い気持ちを抱え続けるのではとちょっと心配。

えっそうなの?子どもたちは、本当に柔軟?
もしそうだったら安心できるんだけど。
確かに、今のところ、3人ともあっけらかんとして元気だけど、内心は違うはず。深い悲しみを表現できないだけかなと疑っているのだけど、そうでなく、本当に柔軟だったらホッとするよ。自分の面倒は自分でみることはできる(と思う)けど、子どもの心の奥深くの面倒までは見れないから。

オマエ、児童精神科医じゃないのか?

人さまの子どもは治せるけど、自分の子どもは残念ながら治せないんだ。

昨日は大学の入学式。ピッカピカの浮かれた新入生たちが入学式を終え、学科単位で歓迎コンパの会場であろう駅周辺まで大挙して歩いているんだ。新しい友だちどうしの会話に夢中になって、まわりなんか見えないものね。道路いっぱいに広がってノロノロ進んで、歩きにくいといったらありゃしない。再来週からは、こいつらに授業やるんだよな。個々の学生はカワイイのだけど、こうピラニアみたいに大勢で押し寄せてきたら迷惑だよ。
僕にとって、微妙な年代だよな。3年後には、ちゅけがこの年代になる。(大学生になっているかはわからないけど。)こいつらの3年後は、僕が優子に出会った年代になる。

今日の並木道は桜も満開、人も満開。昼間っからみんな浮かれているよ。春なんだよなあ。世の中みんな、浮かれている。落ち込んでいる人にとって、一番辛い季節だ。まわりと自分との落差に触れ、自分だけ取り残されていくようで、ますます落ち込んでしまうんだ。

僕もそんな気分だが、正確に言うとちょっと違うかもしれない。
前に進まず、引きずっている部分もあるけど、そうでない部分もあるんだ。
昨夜は優子とも親しかった昔からの友だちとツーショットでゆっくり飲んだんだ。たくさん優子のこと話したよ。気持ちがとても軽くなった。
今日は保育園テニスママが猛チャージでとってくれた区営コートを譲ってくれたんだ。2時間、ゆっくりテニスを楽しんだよ。
浮かれた世の中とのギャップに戸惑いながらも、それに乗れている部分があることも確かだね。
でも、それは波のよう。押寄せたり、引いたりの繰り返しだね。

今晩は、子どもたちと一緒にもんじゃ焼きにしよう。

<Tiki式もんじゃのレシピ:4-5人分>
・2リットルのペットボトルに、小麦粉200gをどうにか工夫して突っ込む。そこに、粉末だしとウスターソースを適当に入れ、水で満たす。キャップをして、激しく振る。そうすると小麦粉がダマにならない。
・具はなんでもよい。細かく刻んだキャベツ、べビスタ、干しえび、薄切りもち、ひき肉、チーズ、ウインナ、キムチ、てんかす、あおのり、カレー粉、、、、
・以前は、キャベツで土手を作ってから水分を中に流し込んだりしていたが、最近では面倒なのでまず、温めたホットプレートに具を一面に投げ込む。適当に焼けたら、ペットボトルのお汁をホットプレート全体に流し込み、洪水状態にする。
・待つこと5分。僕はビールを飲む。待ちきれない子どもたちは半ナマ状態から、はがしを使って争うように食べまくる。

これから桜並木を通ってスーパーに買い物だ。

Friday, April 3, 2009

やっと3ヶ月

優子

昨日の多摩サイは強烈だったね。
優子、かなり荒れてなかった?ま正面から、ずいぶん吹いてくれたね。
逆方向だったらだいぶ楽だったのだけど。おかげでずいぶん時間がかかったし、足がつりそうになったよ。

ああ、ついに3ヶ月になっちゃった。
というか、やっと3ヶ月だよ。
なんか、まだ時間は動いていないなあ。
生活面では大丈夫だよ。生活の時間はちゃんと進んでいる。
おじいちゃんが子どもの世話を、おばあちゃんが洗濯と食事と。だいぶ、助かっているよ。
仕事も順調だし。
年度が変わり、僕も子どもたちも新しいスタートだ。
これからは、今まで引き受けていたいろんな仕事を全部やめようとして、だいぶ整理できたのだけど、新たな大がかりな仕事が入っちゃった。
まあ、僕のやりたいこと、やりがいのある仕事だから引き受けちゃったんだけど。

子どもたちも元気だよ。
今、春休み中。家族で群馬の温泉に行こうと提案したけど、祐馬は行きたくないって。だから、家でのんびりしているよ。
ちゅけは、すでに高校からもらった宿題に取り組んでいるよ。一昨日、吉澤先生とちゅけとテニスやってきたよ。彼も久しぶりだったけど、ずいぶんと上達したよ。僕も、すこしテニス始めるかなあ。良い感じだったから。
祐馬はお泊まり合宿から帰って来て、あいかわらず友だちと遊びまくっている。今日は、保育園に行くんだって。家ではミスチルばかり聴いているよ。DVD買ってくれとうるさいんだ。ホント、demandingだね、彼女は。
じんはマイペースだ。新しい自転車を買ってあげたので、楽しみにしているよ。昨夜は遅くまでテレビを見ていたので、いつものじーじではなく、僕と一緒に寝たんだ。普段は僕が近づくと嫌がるくせに、寝ると身体を僕にくっつけてくるんだ。まだ、可愛いね。優子がいなくても、とりあえずじんがひっつける人はいるから、大丈夫だよ。

気持ちの面では、まだダメだ。ぜんぜん時間がとまっている。
普段の生活の中でも、気持ちの行き着く先は、結局、スキー場での優子の最後の瞬間に戻ってしまう。そこからまだ離れられない、というか離れてはいけないんだ、と思ってしまう。
時期を見て、またあの場所に行ってみようかな?花でも手向けたら少し気持ちが落ち着くか、あるいは、そんなことしたらかえって辛くなっちゃうんだろうか。
ぜんぜん、進歩がありませんな、この3ヶ月間。

○妻を亡くしたとき読む本。出版文化編集部編、2002年★★★★
アマゾンでショッピングしていて、あまりにもぴったりの題名だったので、ダメもとで取り寄せてみたら、案外良かったよ。前半が妻を亡くした10人の手記。素朴で、そのまんまだから良かった。後半の「著名人・専門家からのメッセージ」は全然ダメだね。余計なおせっかいという感じ。
なぜ前半が良かったかというと、僕の体験と比較できるから。
末期の闘病の大変さ。医者や医療への怒り
これはなかったな。持って行き場のない怒りが医療スタッフに向いちゃうんだろうけど、優子の場合、ERで過ごした2-3時間だけだったし、とても良く対応してくれた。

なにもやる気がなくなり、仕事が手につかず、家にひきこもる
これはぜんぜんなかった。でもそうなっちゃうんじゃないかという不安があったよ。だから、反動的にhyper-activeになっちゃっているんだ。だって、このブログの書き方だってそうでしょ。落ち着けないんだ。落ち着くと、きっと落ち込んで立ち直れなくなってしまうから。

元気になれない、元気になってはいけない、元気になんかなりたくない
それはあるね。表面的にはぜんぜん元気だけど、心の中は、元気になっては優子に申し訳ないと未だに思っているよ。

「元気を出せ、がんばれ」と言われると腹が立つ
これはないね。落ち込んでいる人にそう言ってはいけないというのは常識だし、ついみんなそう言ってしまうというのもよくわかっているから。どうぜ、誰がそんなこと言っても、その言葉に従おうとはぜんぜん思っていないから。むしろ、そういう根底には、僕のことを思ってくれていると解釈すれば、そういう言葉も受け入れられるよ。

現実を受け止められない
そうだね。受け入れたくない。一生懸命、優子のことを思い出そうとしているよ。優子の写真をぜんぶ集めてデジタル・フォトフレームに入れて、優子の書いたものを全部読んで、なんていう具合に、必死に過去にすがりついている自分がいる。

妻の喪失に真正面から向き合おうとする。悲しみと闘っている
そうなんだ。向き合わなければいけないんだと頭ではよくわかっているから。そうすると、触れたくない、悲しむのは辛いという自分との闘いになってしまう。本に自分の手記を書いた人たちも同じような気持ちだね。

前へ歩こうという気持ちは強くなっている。人が恋しいと思うようになる
そうなんです。前に進まず立ち止まっていたい自分と、前に進もうとする自分の間で引き裂かれる感じ。父親として子どもたちのために、仕事人として僕に期待してくれる人達のために、そして僕自身の残りの人生のために、前に進め!と必死に号令をかけている自分がいるよ。その一方で、優子のお墓の前にずっと佇みたい自分がいる。愛着障害だ、これは。

悲しみは、2-3年つづく
えっ、そうなの?いやあ、これはたいへんな仕事だよ。まだ、3ヶ月でしょ。もういい加減に解放してほしいよ。

追悼集をつくる。妻を亡くした体験を、何かに生かしたい。自助グループに入ったり、ホスピスで働いたり
それはあるね。特に僕の商売的には、今、体験していることはとても大切なんだ。ブログ書いているのもその作業のひとつだからね。他に、できることあるかなあ。
そうだ!良いことを思いついた


Thursday, April 2, 2009

Dear Monica

It was so nice to hear from you.

Thank you so much for remembering Yuko in such a positive way. She and I enjoyed so much working with you and Froma two years ago (I believe) in Tokyo. She became a professional interpreter about three years ago. As our children are growing up, Yuko wanted to fulfill the occupation she always wanted to become since childhood. It was very demanding, but she seemed to enjoy her work as an interpreter.

I organized the 15th JAFT Annual conference last June. I wanted the conference to be international for the first time, and invited many guests from Asian countries. I asked Yuko again for the translation, and she did a marvelous work again.

I do not know how much our group had told you about the sudden death of Yuko. It was on January 3rd when our family was enjoying snow skiing as our annual recreation. Yuko and I had our last run around 3pm, when she suddenly fell down and lost consciousness without having no time to feel pain. I think we were lucky that we stayed closely together at the very last moment, kissing for hours for emergency respiration.

It was a sudden heart attack. Yuko had a aneurysm in her coronary arteries since childhood due to Kawasaki Disease. She had by-pass operation at the age of 25, one year after our marriage. Since then, she recovered very well, had a very happy family with three lovely children who are now 15 year old boy, 12 year old girl and 10 year old boy.

I am now in the middle of long and painful mourning process. I feel like moving on every day with having heavy burden on my shoulder in the last three months. I use every means of help that I can think of. I started to see a psychotherapist for the first time in my life. She is an American living here for a long time. It is nice and different to have therapy in the second language. I also keep writing my blog.

I started in Japanese, then, my therapist recommended to write in English so that more people can read. She said it would be nice to have the real time bereavement story written by a Japanese male, because people do not know much about them only to have stereotypical images of hardworking, Toyota, Honda, etc. So I will try to make it bilingual.

I realize there are so many books on the bereavement issue. She was right that most of them are written by females. I also skimmed through your edited book LIVNG BEYOND LOSS, but realized it is too early to read it. I would rather stay now on receiving side as a client than offering side as a therapist.

I wanted to come to Slovenia for IFTA with my international consultation group in March, but I had to cancel. I think I was insecurely attached to my children and could not leave them. I do not believe I can come to New Orleans for AFTA this year, but I hope to recover enough to come to IFTA and AFTA next year.

I really enjoyed being in the Men’s Institute in AFTA conference. I need that kind of group work where I can safely express my deep feeling. I like group work, and enjoyed Maurizio Andorfi’s work several years ago with Tazuko.

I am looking for a good group work for people who lost their partners. Men’s group and professional group would be preferable. I do not mind coming to overseas for an intensive work. Please let me know if you come across any kind of information.

Tikiさん、英語で書いてもいいのだけど、読んでいる方々にちゃんと説明しないと失礼よ。

わかった。じゃあ、優子訳してよ。

いやよ。こっちに来てまで仕事したくないわ。Tikiが書いたんだから、自分でやりなさいよ。

わかったよ。モニカさんは、世界的に有名な家族療法家で、2年前、日本に呼んで講演してもらったんですよ。そのとき、優子に通訳してもらって、とても良かったって。その後も、アメリカでの学会で何度か会って、知り合いになったのだけど、今回、3月の学会はパスして、同僚から優子の死のことを聞いて、メールくれたんです。それに対する返事がこれなんです。