Send your message to lettertoyuko@gmail.com


Saturday, January 3, 2026

正月スキー

 もう何年目だ?

指折り数えるのも、もうどうでも良くなってきてるけど、エラいでしょ、こうやってまだ命日を覚えていてるんだから。だんだん優子との結婚年数に近づいてるぞ。それでも気持ちは変化しないもんだねぇ。その一方で由美との年数はだんだん増えていくよ。

まだ懲りずに正月家族スキーはやってるよ。ゆまとゆうじんと、それにプスカルも加わってほうだいぎに行ってきた⛷️全もこっちには来てたんだけど疲れたからとか言ってスキーはせずに大森に帰って行った。17年前と似たようなメンツだね。子ども達が成長して伴侶を得ても、こうやってパパのスキーに付き合ってくれるのは嬉しいことだよ、

サキちゃんもカイトも来たし、こうやって集まってくれるのは嬉しいことだ。おせち料理を作ってもみなすごい食欲だし。だいちゃんとこは子ども返りしちゃって、奥さんも子ども達もあまり寄りつかないみたい。。。

優子を失い、由美を得たことで得られた大きな成果は愛着という全く主観的な感情体験を相対化、客観視できるようになったということだな。その間の何人かの女性たちにも感謝してるよ。結果的には成就しなかったけど、その途中経過で貴重な体験ができたからね。辛い時もあったけど、今となってはね。

子ども達ともそうだよ。子が親からの愛着を受けてすくすく成長できるように、親だって子どもからの承認を得て気持ちの安定を保てるんだ。パートナー間だけじゃない。それはとても大きいけど、親だって子だって勝るとも劣らないほど重要なんだ。子ども達からの眼差しを受けて親だって安心するし、その眼差しをパートナーや自分の親やクライエントにも分け与えることができる。年齢はいくつになっても、それは変わらないんだ。子ども達が高山に来て、一緒にご飯を食べてスキーに行けるってのは、パパにとってそういう意味があるんだよ。だからリフト代おごってあげたんだよ!


Saturday, November 22, 2025

空白の10年間

5回目の結婚記念日、おめでとう!
何年目か由美覚えてる?
由美が初めて広尾に来たのがちょうど10年前(2015年10月)
下のカフェで告白しちゃったのが9年前(2016年9月)
高尾山ハイクで由美が受け入れてくれたのが7年前(2018年10月)
中之条町役場に結婚を届けたのが5年前(2020年11月22日)だよ。
長いようにも感じるし、あっという間にも感じるし。

俺にしてみれば、
30歳で優子と結婚し、子ども達3人を産み育て、
52歳で優子を失い、
59歳で由美と初めて出会い

63歳で由美と再婚したんだ。
優子を失い、由美を得るまでの約10年が俺にとっての空白期間だったな。
空白ってのが適当な言葉かどうかわからないけど。
その前の50年間は普通に幸せだった。ってか、幸せだってことを感じることもなかった。空気みたいに。
空白の10年間も別に何か病気になったり生活に困ったりしたわけじゃないよ。シングルファーザーとして普通に子ども達を育て、仕事もちゃんとやっていた。
でも決定的な何かが欠けていた。それが今となっては愛着という言葉を振り当てることにしたけど。
子ども達や老親に対する愛着は普通にあったし、それがあったから、そんなにひどく狂うことはなかった。でも何かが欠けていた。それでやっぱ何か狂っていたし、理性がちゃんと働いていなかった。学歴を詐称したり、部下と不倫したり、元カノにストーカーして殺しちゃったり、理屈じゃちゃんとわかってるはずなのに行動を制御できないバカな奴らの気持ちがよくわかるよ。感性を理性でコントロールできなくなちゃうのね。俺もそうだったから。
由美との愛着を取り戻してからは、またフツーに幸せな生活を取り戻せたから、空白期間を客観的に振り返ることができるんだ。いやぁ、あの頃は辛かったっスよ。一見外からはそう見えなかったと思うけど、内心は狂ってたからね。
愛着を失うってことは、こんなにも人を狂わせるんだって、俺の経験をそうまとめて、それを元に今、英語の論文を書いてるからね。査読の最終段階に来て、これを学会誌に載せてくれるんだろうかね。その次は、本を執筆しなくちゃ。まあ、そう考えると俺も頑張ってるな、辛かった空白体験を有効利用してるから。
なんせ、あと2年で古稀だからね。

なんだかんだ言いながら、このブログも毎年1−2回は書いてるのね。よく続いてるね。

Friday, January 3, 2025

大森の家

もう何回目の命日だっけ?
、、、って年数を思い出す作業をする必要はないし。
優子の記憶を手放すために書いていたこのブログも必要ないんだけど、とりあえず備忘録的に書いておくよ。

お正月は楽しかったよ。
年末には新婚のちゅけ夫妻を鍾寿館へ招待し、田村家先祖代々のお墓参りもしたよ。
年始には祐馬夫妻とじんと、由美の子ども達2人にルームメートも加え8人でワイワイ。
奥利根と宝台樹でもスキーしたし、家の薪と畑はだいぶ片付いた。

高山に来てもうすぐ5年。由美との生活もすっかり定着した。
両親を見送り、子どもたちもそれぞれ独立した。
大森を持ち続けている意味はなくなった。
二拠点生活はイイですよとか流行っているけど、維持するのは大変だよ。
高山に来てから、草津の家に泊まることはなくなった。
鍾寿館は温泉が湧き出る観光地で商売しているわけだから、手放すことはできない。
田村家の墓もいとこの徹はメンテをサボって荒れ放題。
鍾寿館も変わったよな。私が幼い頃、私の祖父が祖母を亡くした際に田村家のお墓をリニューアルした。その頃が一番栄えていたのかもしれない。時代の流れの中で伝統を維持するのは大変だ。徹も苦労しているのだろう。
大森の家は温泉が湧き出ない。家で商売してるわけじゃないから手放すことはできる。
ここは鍾寿館の次男坊だった父親が祖父に買ってもらった土地で結婚生活をスタートし、私が生まれ育った土地だ。筑波やロンドンで生活していた時期もあったが、結局は大森が私のベース、アイデンティティの一部だ。

昭和31年に私の両親は結婚し、大森で新居を構えた。
昭和32年に私が、34年に亮子が生まれ、4人の核家族が始まった。
父親は川崎市教育委員会、文部省、国立教育研究所と仕事を変えたが東京に住んでいた。
私が20代で筑波にいた頃、父親は上越教育大学へ転勤、10年ほどいただろうか、大森の家が空になった。私は筑波にもアパートがあったが東京での仕事もあり、筑波と大森の二拠点生活だった。
私が30歳で結婚し、翌年にロンドンに留学するまでの1年間ほど大森の古い家で新婚生活を送っていた。すでに結婚していた亮子と娘二人が大森の家に遊びに来た記憶もある。
私が3年間ロンドンにいた頃は両親が上越市と大森の二拠点生活だったように思う。この辺りの記憶も曖昧になってきた。
父親が定年で上越から大森に戻ってきたのと、私と優子がロンドンから帰国したのがほぼ同じ時だったか。両親が大森の家に住み、私と優子は隣ののんちゃんのビル(昔はローソンが、今は介護施設があるビル)の4階に住んでいた。その頃にちゅけが生まれた。
大森の家を二世帯で住む話になり、父親と私で折半して鉄筋コンクリート3階の家に改築した。当時のお金で8千万円だった。
子ども達が生まれ、優子が亡くなるまでの20年間、二世帯で7人が住んでいた。
子ども達が成長し、2階の子ども部屋にパーティションを作って3人のベッドと机を入れた。
優子が亡くなり、二世帯を隔てた鉄のドアは開いて「一世帯」になった。
ちゅけが北海道に、祐馬はオーストラリアに、じんが駐屯地に行っても、大森は帰る場所だった。
父親が大森の一階で亡くなり、後を追うように母親も亡くなり、1階のスペースは空になった。祐馬がオーストラリアから帰国し、2階の畳の部屋を使い、私が高山に移住して1階を診療所としてリニューアルした。
ちゅけと祐馬が結婚して大森に住み、じんが頻繁に「里帰り」し、私が月3日間1階で診療しているのが現状だ。

あの家を建てたのは私が36−7歳の時だったから、30年間ほど、私たちの「家」だった。
家族が増え、家族が減った。そしてまた家族が増えた!
私にとって、生まれ育ち、結婚に伴い立て直し、子ども達を育て、親を見送った家だ。
優子にとって、結婚して古い家に入ってきたけど、イチから新しくして生活を始めた家だ。
子ども達にとっては生まれ育った自分の家だ。
由美にとっては泊まったこともない、関係ない家だ。
子ども達のパートナーにとっては、結婚してとりあえず住み始めたばかりの家だ。
あの家は自分の人生そのものだったり、そんな大げさな思い入れなんかなかったり、温度差はある。

自分の身体の一部を手放すのは辛いんだ。
優子を手放すのに、ずいぶんと時間をかけて、ずいぶん苦労した。
でも手放すことで新しいものを得る。
優子を手放し、由美を得た。
大森を手放したから、高山村を得ることができたのかもしれない。でも、内心、まだ手放しきれていない気もする。

断捨離は大事だよ。
僕の机にある山積みの書類もどうにかしなくちゃいけない、、、

Saturday, April 20, 2024

子ども達の結婚

 優子、久しぶりだな。

普段は優子のことすっかり忘れちゃっているけど、今回は報告しなくちゃ。

ちゅけと祐馬が結婚したよ。
優子が我々から去った時、ちゅけは15歳、祐馬は12歳だった。
それから15年経った今、それぞれ30歳と27歳だ。
小・中学生だった姿しか知らない優子からすれば信じられないだろ!
俺だって信じられないよ。

二人が巣立ってくれた。
別に、結婚する前から巣立ってはいた(=親としての責任は果たした)し、これからだって親子関係(=親子の愛着)は続くのだけど、やっぱホッとするよな。優子は子ども達だけじゃなくて俺も褒めないとダメだぞ。
祐馬はよくわかっているんだよ。

パパが子ども達が結婚して親の代わりかそれ以上に私のことを大切に想ってくれる人ができて良かったと言っていた時に何となく意味が分かりました。

そんなこと言ったか??
正にそうなんだよ。パパは大切なママを失ったけど、今は、子ども達以上にパパのことを大切に想ってくれる人ができた。由美のことね。
パパは子ども達のことを今までみたいに第一に大切に思わなくても大丈夫になったんだ。そりゃあ気が楽になったよ。

二人の結婚式は対照的だよな。
ちゅけはどちらかといえば伝統的な結婚スタイル。何とおばあちゃんと同じ四国から上京してきた可南子さんと婚活アプリで出会い、友達・親族80人(くらいか?)を呼んで、都内のレストランで大きな結婚式。最近の結婚式は進化したよな。昔はあんなにたくさんの係員がコーディネートすることはなかったよ。おかげでパパも父親の挨拶をして、定番の涙を流して想いを伝えることができたよ。ちゅけが生まれ初めて父親になった体験や、ママを失った後、ちゅけの高校合格発表の話もできた。

そもそも、結婚や結婚式は、親は主役じゃないんだ、どうでも良いんだ。35年前にパパが結婚した時も、親の思いなんか想像もしなかったしどうでも良かった。でも、親の立場になってみて、子どもの結婚がどれほど大きな意味を持つのか実感したよ。子ども達はそのことをまだ分からなくて良いからな。自分とパートナーのことを必死に考えていれば良いんだよ。

ちゅけに比べれば祐馬の結婚は革新的かな。結婚式をやらず、ウェディングドレスの写真だけ撮るってのは、今は結構流行って新宿のスタジオにはたくさん若いカップルがいたけど、昔はそんなのはなかったよ。プスカルはネパール人。普通の親世代からすればびっくりするだろうけど、パパは経済格差やmarrying up/marrying downってなことはまあ問題にはしない。
昨日の写真撮影にはきょうだいも友達も呼ばず、パパと由美はわかるけど、涼子さんとだいちゃんを呼んだのも革新的だよな。祐馬にとって涼子さんとだいちゃんがどれほど大切な人かということもよくわかる。これもママが去った功名というか、ママ代わりを果たしてくれたからな。
盛大な結婚式は1−2年してネパールでやるんだろ。パパと由美は初ネパールでトレッキングだな。だから結婚式に父親が泣くパフォーマンスができなかったぞ。でも、まあその分、祐馬の手紙は良かったよ。祐馬の承諾なしでメッセージを優子に届けよう。

ママがいなくなって、それ自体はすごく悲しかったけれど、今までの生活の中でうちの家は片親家庭なんだと実感させられる瞬間は無い程、不自由なく自由に育ててもらいました。

経済的な不自由さがなかったというのはパパの職業柄まあ想定できることだが、情緒的・心理的な不自由を与えなかったというのは、パパも努力したんだぞ。それはわかってほしいな。

大人になって理解できたけど、最愛のママが亡くなってしまって、その中でも子ども3人を育てあげてくれたパパは立派で尊敬します。

別に、子どもからそんなに尊敬されなくても良いんだけど、まあ祐馬の気持ちは嬉しいよ。むしろそれは次の世代に繋げてくれ。祐馬も尊敬される母親になるんだ!

だから今は由美さんとパパが幸せに暮らしていてくれれば、それが私たちが一番欲しいものです。

それは言われなくても大丈夫だよ。由美とパパの幸せは自分たちで確保できるから。とは言え、子ども達が幸せでいることがパパの幸せにも直結するから、おまえらも関係するんだぞ。

パパが昔から自分の気持ちを話して共有するようにトレーニングしてくれたおかげで気持ちが落ち込む時も周りに助けを求めて心の健康を保つことができています。

それは一番大切なことだな。パパ自身がそれを実践してきたし、それを子ども達にも伝えることができたのであれば、それはパパの大成功さ。

ということなんだよ、優子。
優子は勝手に途中で天国に逝きやがったけど、子ども達はここまで成長したよ。それはぜひ優子に伝えたいことだよ。

あとはじんだな。末っ子のじんは兄ちゃん姉ちゃんのことをよくみているだろう。彼もよくわかっている、というかもしかしたら彼が一番わかっているかもしれない。
そのうちじんについても報告するから楽しみにしてな!!

Tuesday, January 23, 2024

何年目だっけ?

わりい、わりい。
すっかり忘れてたよ。何年目だっけ?
2日経ってから思い出したよ。
今年の正月は大変だよ
元日に能登で大きな地震があって
2日には羽田で飛行機が衝突して💥
300人近くが全員避難できたってすごいよね
高山村には息子たち3人が来て、薪割りして、温泉はいって♨️
なぜか娘たち(義娘も含め)3人は来なかった。忙しいみたい。

4日からは家族療法を教えに上海に来ているんだよ
3日間のワークショップ。
気持ちは1月3日の優子をすっ飛ばしてとっくに次に進んじゃうんだ。まあそれで良いわけなんだけど
由美は母ちゃんのお墓参り行ったんだって
オレ優子んとこにしばらく行ってなくてごめんね
今度、由美と一緒に行くからね 

これを書いたのが1月10日で
ブログにアップしたのが1月23日でした⇘

Tuesday, December 26, 2023

愛する人を失い、得るプロセス

 久しぶりに書いてみるかな!

ニュースでやっていた。「ハチ公」がインバウンドに人気なんだって!

愛する人に会いたい気持ちは世界共通。。。

このブログは、愛する人を失うプロセスを綴ってきた。

それと重なり、愛する人を得るプロセスも進行していた。そっちはあまり書く必要がなかった。その対象が目の前にいるのだから、心的エネルギーはそちらに向かう。失ったときは対象がいないわけだから、悲しみの向かう先を求めたわけだ。

今となっては、失うプロセスも、得るプロセスも落ち着いちゃった。だから書く必要もないのだけど。主観的な感情体験を表出するというよりは、客観的な立場になっちゃった。あまり面白くないよね。今となってこの二つのプロセスを振り返ると、いやぁドラマでしたねぇ。。。

その経験から得られたものは「愛着」がどういうものなのか、どれほどメンタルの維持に大きな役割を果たしているのか気づけたということか。

愛着って、空気みたいなものだからふつうは気づかない。親との愛着も、それが肯定的・否定的どちらにせよ、気づいたら当然のようにそこにあったわけで気づくものでもない。優子という愛着を得たのは20代の後半。それまで何人かの彼女を作ったり別れたりしていたが、それが「愛着」だなんて気づく余裕はなかった。一生懸命、気持ちの赴くままに頑張っていただけだ。それが20-30代までの話。

優子という愛着を失う:失ったのは一瞬だったが、優子への愛着を手放すのは相当苦労した。気づくもなにも、こうやって必死に言語化してきたし、心理学的理論も得たので、感情を整理しつつ、理性的にも自分の愛着について考えることができた。

由美という愛着を得るのも相当苦労した。今だからそれも振り返ることができるが、その最中には必死だったし、何度も失敗も痛みも経験してきた。そこまでして愛着が必要なの?他の人はよくわからないけど、少なくとも私にとって、それはもうとても大切だった。

今は、もう落ち着いてしまったので自分の愛着うんぬんについて言語化したり考えたりする必要もない。ただ静かに由美との愛着をメンテナンスしていくだけだ。そこに大きな苦労は伴わない。

むしろ、その体験を心の臨床に活かしている。Wounded Healer(傷ついた治療者)というわけですな。Attachment Focused Familiy Therapy。あるいはEmotionally Focused Family Therapy。自分の愛着が落ち着いてしまった今、このブログで表出するニーズは消え、別の場所で、こっちの記述を進めていきたい。とはいえ、今までのように書かねばどうしようもない必然性が低いので、うまく書き進めることができるか、自信はない。

Tuesday, April 18, 2023

優子は今もここにいるのだろうか??

 1月3日のことだった。突然優子さんの旦那様から電話をいただいた。優子さんは、広島の中学校のクラスメートである。旦那様は、年賀状に記載していた電話番号に電話をしてくれたのだった。この電話で、優子さんがスキー場で突然倒れ、帰らぬ人になったことを知った。45歳。信じられなかった。悲しかった。

優子さんは、中学1年生のときに転校生として途中からクラスに入ってきた。私も広島には2
年前に引っ越してきたばかり。お互い転勤の多い家の子どもだったのだ。なんとなく仲良くなって、交換日記をした。日記はいつの間にか小説の連載になった。私の最初の小説の最初の読者は、優子さんなのである。

優子さんが体調をくずして2週間ほど学校を休んだことがあった。復帰してすぐに行われたテストで、誰よりも成績がよくてびっくりした。優子さんは頭がよくて努力家で、だけど、いつもふんわりとおだやかだった。優子さんのお弁当のおかずに、なぜかよくバカ貝の佃煮(つくだに)が入っていて、また~、と言いながら一緒に爆笑した。

優子さんも私もほどなく広島を去ったけれど、文通などで交流は続き、大学生のときは、東京の優子さんの家に遊びにいった。大学でイスパニア語を学んでいた優子さんは、神保町のロシア料理店で壺(つぼ)焼きを食べながら、勉強がたいへんで、と穏やかに笑った。

24歳のとき、私も東京で暮らすようになってからは、ときどき、ご飯を食べた。やがて私は2児の母になり、優子さんは3児の母になった。優子さんの心臓が弱いということは聞いていたので、出産の度に心配だったけれど、優子さんは語学を生かした仕事をしながら子育てをして、たくましく生きていた。

優子さんの葬儀で、旦那様とお子様たちに初めてお会いした。旦那様は精神科のお医者様で、優子は今もここにいるんです、としずかに話された

優子さんが亡くなって数カ月経(た)ったころ、その旦那様から荷物が届いた。優子さんの遺品を送ってくれたのだ。尾崎翠(みどり)全集と金子みすゞの詩集と、このフェラガモのバッグである。バッグは旦那様から優子さんへのプレゼントだったそうだ。革がやわらかくて、とても使いやすい。いつも優子さんと心で話をしながら一緒にあちこち出かけているのである。

ひがし・なおこ 1963年広島県生まれ。歌人、作家。歌集に「春原さんのリコーダー」「十階」など、小説に「いとの森の家」(坪田譲治文学賞)など、書評・エッセー集に「レモン石鹸泡立てる」など。自著の装画も手掛ける。

=============

東さん、14年経った今でもバッグを使ってくれてありがとうございます。私は日経新聞をとっていないのですが、友だち二人が電子版と写メを転送してくれました。

一つだけ訂正させていただければ、あの時はしずかには話してませんでした。そう聞こえたかもしれないけど、心の中では叫んでいましたから(笑)。

私はもう優子とは心で話していませんよ。由美とは話しているけど。先日、由美の90歳ちかい父親の話になってね。14歳年下の由美は「あなたが年取ってボケたら私のことを『優子』とか言い出すでしょ、きっと!」と言うんですよ。そんなことないからと否定したんですけど。でも、時々、年に1ー2回くらいかな、由美のことを優子って言い間違えることがあって、これはヤバいなと思います。ふたりとも「ゆ」で始まるから混同しやすいでしょ!

家族LINEでもシェアしました。

息子からは「良い文。母には歌人のお友達もいたのね」

娘からは「素敵な文章。とても有難い。おじさんとおばあちゃんにも共有しちゃった🤩」(優子の家族(母・兄)と私はすっかりご無沙汰しているのですが、子どもたちはよく連絡取り合っているんです)

由美からは「立派なお母さんで、子ども達も誇らしいでしょう。ずいぶん良いバッグ買ってあげたのね!」(由美にはまだ買ってあげてないもので、、、💦)

Tuesday, January 3, 2023

優子を失い由美を得た歴史年表

1年ぶりの投稿だな。

14年目、、、と指折り数えるのもしんどくなった。
でも、時々どれくらいたったんだっけって考えたりするもんな

新しいブログに年表を作っているので、その拡張版を作ってみよう。

2009年1月3日)優子昇天

2015年10月3日)由美がひきこもり講座に申し込み、広尾で初めて出会う

2016年1月23日)父が亡くなる

2016年9月11日)由美の診察の後、下のカフェで告白する

2016年10月9日)横浜シェラトンに泊まったが、お付き合いを断念する

2017年10月7日)母が亡くなる 2018年6月)有楽町の『ふるさと回帰支援センター』へ群馬への移住を相談に行った

2018年9月6日)移住のことを伝えた後、由美と2年ぶりに再会する

2018年10月8日)高尾山ハイキング。由美が受け入れてくれて付き合い始める

2019年1月)生活の拠点を移すために、榛名病院に非常勤で勤め始めた

2019年10月)古民家「お片づけ隊」の協力で改修を開始する 2020年5月)古民家の改修が竣工し、高山村に住み始める

2020年11月22日)中之条町役場に婚姻を届ける

2021年6月15日)亮子がBostonで亡くなる

2023年1月3日)14回目の優子の命日ブログを榛名当直で書いている


つまり、優子を失ってから、紆余曲折の後、

9年半後に由美と安定した愛着を形成し、

11年後に由美との生活を始めたわけだ。


書き始めはこんな風に歴史を振り返るつもりはなかったんだけど、

結局、僕にとって優子のことはもう歴史になっちゃったんだ。

おめでとう!

優子の仏壇は高山村の古民家にも持ってきて、お正月に由美が花をあげていたよ。

俺はほとんど見てもいない、、、

いや別に忘れているわけじゃなくて、そういう儀式的なものがピンとこないんだ

そんなの神棚を作らなくたって、ちゃんと心の中にいるから

優子を失ってから、由美を得るまでの歴史だもんな

あと、両親と亮子の喪失も入れておかねば。。。


大切なものを失い、、、

大切なものを得る。

失ったから得られるんだよな、由美は。

別に両親や妹のreplacementはいらないけど、妻はそういうわけにはいかなかった

いやぁ、喪失というのは痛いものですなぁ。

52歳になるまでは、そういうのほとんどなかったんだけど、それ以降たくさん喪失して。

それでも生きてこれたのは、3人の子どもたちと由美がいたからだよ。

いや、それまでの途中経過でお付き合いいただいた女性の方々にもお世話になりましたよ。

どうもありがとうございました。


これからは獲得のニュースを得られるかなぁ

子どもたちのパートナーや

孫たちや、、、

Tuesday, January 4, 2022

再婚

 11月22日に入籍しました!!

いつだって良かったんだけど、たけは忘れるでしょ!?
別に忘れはしないけど、この日にしておけば覚えやすいからね。
高山村は休日の宿直がいないから、中之条町で届けを出してきましたよ。
そしたら「新婚夫婦向け各種サービス案内」という封筒をもらいました。
「妊娠を考えるなら、麻しん風しんワクチンを。」
、、、いやあ、考えても良いけどちょっと無理でしょ!
「新婚さんの新生活を支援します:住居費・引っ越し費用の援助」
というパンフを町役場でもらったけど、我々は関係ないし。

俺が62歳で由美が49歳。
還暦過ぎのじいさんが40代の嫁さんをもらえるわけだからね。ギリギリだけど。
俺、ラッキーだよ。
優子、亡くなってくれてありがとう!

13年目

13回目の命日も、スキーに行ったよ。
元旦と二日は双方の子どもたち4人が集まりガヤガヤにぎやかに。
三日はちゅけだけ残り、奥利根スノーパークへ行ってきた。
ちゅけはスノボ。私はスキー。
由美も一緒についてきた。
レストハウスがリフトで一段上ったところにあるんだよね。
そこまでキャーキャー言いながらリフトに乗って。
僕らが滑っている間は、レストハウスでケイタイいじって待っている。
いじらしいよね、そこまでして僕にくっついてきてくれるんだよ。

いつまでこうやって祈念日の記事を書いているんだろう?
第一、ブログだってほぼ書いていないし。
父親と母親の場合、命日の日取りさえ覚えていないし(Googleカレンダー見ればわかるけど)。
仏教式なら十三回忌。
でもこれは12年目にやるわけだ。
このブログって僕が死んだ後も残っているんだろうか?
亮子のFacebookも誰も何もしないから残っているもんな。
それは、それですごいね。
紙の本は当分は残るけど、そのうち紙が焼けて無くなっちゃうし
電子媒体なら、残そうと思えばいくらでも残るか?
ま、そこまで残す意味もないんだけど何となく安心だったりして。
このブログも、そんな感じで過去の遺産になってもいいのかね、もう。
他に書いているブログがいろいろあるし。
子どもたちは成長してるし、ここに留まる人は誰もいないんだよ。
そうやって前に進んじゃうのね。
それで良いのでしょう。。。