優子さんは、中学1年生のときに転校生として途中からクラスに入ってきた。私も広島には2
年前に引っ越してきたばかり。お互い転勤の多い家の子どもだったのだ。なんとなく仲良くなって、交換日記をした。日記はいつの間にか小説の連載になった。私の最初の小説の最初の読者は、優子さんなのである。
優子さんが体調をくずして2週間ほど学校を休んだことがあった。復帰してすぐに行われたテストで、誰よりも成績がよくてびっくりした。優子さんは頭がよくて努力家で、だけど、いつもふんわりとおだやかだった。優子さんのお弁当のおかずに、なぜかよくバカ貝の佃煮(つくだに)が入っていて、また~、と言いながら一緒に爆笑した。
優子さんも私もほどなく広島を去ったけれど、文通などで交流は続き、大学生のときは、東京の優子さんの家に遊びにいった。大学でイスパニア語を学んでいた優子さんは、神保町のロシア料理店で壺(つぼ)焼きを食べながら、勉強がたいへんで、と穏やかに笑った。
24歳のとき、私も東京で暮らすようになってからは、ときどき、ご飯を食べた。やがて私は2児の母になり、優子さんは3児の母になった。優子さんの心臓が弱いということは聞いていたので、出産の度に心配だったけれど、優子さんは語学を生かした仕事をしながら子育てをして、たくましく生きていた。
優子さんの葬儀で、旦那様とお子様たちに初めてお会いした。旦那様は精神科のお医者様で、優子は今もここにいるんです、としずかに話された。
優子さんが亡くなって数カ月経(た)ったころ、その旦那様から荷物が届いた。優子さんの遺品を送ってくれたのだ。尾崎翠(みどり)全集と金子みすゞの詩集と、このフェラガモのバッグである。バッグは旦那様から優子さんへのプレゼントだったそうだ。革がやわらかくて、とても使いやすい。いつも優子さんと心で話をしながら一緒にあちこち出かけているのである。
ひがし・なおこ 1963年広島県生まれ。歌人、作家。歌集に「春原さんのリコーダー」「十階」など、小説に「いとの森の家」(坪田譲治文学賞)など、書評・エッセー集に「レモン石鹸泡立てる」など。自著の装画も手掛ける。
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東さん、14年経った今でもバッグを使ってくれてありがとうございます。私は日経新聞をとっていないのですが、友だち二人が電子版と写メを転送してくれました。
一つだけ訂正させていただければ、あの時はしずかには話してませんでした。そう聞こえたかもしれないけど、心の中では叫んでいましたから(笑)。
私はもう優子とは心で話していませんよ。由美とは話しているけど。先日、由美の90歳ちかい父親の話になってね。14歳年下の由美は「あなたが年取ってボケたら私のことを『優子』とか言い出すでしょ、きっと!」と言うんですよ。そんなことないからと否定したんですけど。でも、時々、年に1ー2回くらいかな、由美のことを優子って言い間違えることがあって、これはヤバいなと思います。ふたりとも「ゆ」で始まるから混同しやすいでしょ!
家族LINEでもシェアしました。
息子からは「良い文。母には歌人のお友達もいたのね」
娘からは「素敵な文章。とても有難い。おじさんとおばあちゃんにも共有しちゃった🤩」(優子の家族(母・兄)と私はすっかりご無沙汰しているのですが、子どもたちはよく連絡取り合っているんです)
由美からは「立派なお母さんで、子ども達も誇らしいでしょう。ずいぶん良いバッグ買ってあげたのね!」(由美にはまだ買ってあげてないもので、、、💦)
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