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Saturday, November 22, 2025

空白の10年間

5回目の結婚記念日、おめでとう!
何年目か由美覚えてる?
由美が初めて広尾に来たのがちょうど10年前(2015年10月)
下のカフェで告白しちゃったのが9年前(2016年9月)
高尾山ハイクで由美が受け入れてくれたのが7年前(2018年10月)
中之条町役場に結婚を届けたのが5年前(2020年11月22日)だよ。
長いようにも感じるし、あっという間にも感じるし。

俺にしてみれば、
30歳で優子と結婚し、子ども達3人を産み育て、
52歳で優子を失い、
59歳で由美と初めて出会い

63歳で由美と再婚したんだ。
優子を失い、由美を得るまでの約10年が俺にとっての空白期間だったな。
空白ってのが適当な言葉かどうかわからないけど。
その前の50年間は普通に幸せだった。ってか、幸せだってことを感じることもなかった。空気みたいに。
空白の10年間も別に何か病気になったり生活に困ったりしたわけじゃないよ。シングルファーザーとして普通に子ども達を育て、仕事もちゃんとやっていた。
でも決定的な何かが欠けていた。それが今となっては愛着という言葉を振り当てることにしたけど。
子ども達や老親に対する愛着は普通にあったし、それがあったから、そんなにひどく狂うことはなかった。でも何かが欠けていた。それでやっぱ何か狂っていたし、理性がちゃんと働いていなかった。学歴を詐称したり、部下と不倫したり、元カノにストーカーして殺しちゃったり、理屈じゃちゃんとわかってるはずなのに行動を制御できないバカな奴らの気持ちがよくわかるよ。感性を理性でコントロールできなくなちゃうのね。俺もそうだったから。
由美との愛着を取り戻してからは、またフツーに幸せな生活を取り戻せたから、空白期間を客観的に振り返ることができるんだ。いやぁ、あの頃は辛かったっスよ。一見外からはそう見えなかったと思うけど、内心は狂ってたからね。
愛着を失うってことは、こんなにも人を狂わせるんだって、俺の経験をそうまとめて、それを元に今、英語の論文を書いてるからね。査読の最終段階に来て、これを学会誌に載せてくれるんだろうかね。その次は、本を執筆しなくちゃ。まあ、そう考えると俺も頑張ってるな、辛かった空白体験を有効利用してるから。
なんせ、あと2年で古稀だからね。

なんだかんだ言いながら、このブログも毎年1−2回は書いてるのね。よく続いてるね。

Friday, January 3, 2025

大森の家

もう何回目の命日だっけ?
、、、って年数を思い出す作業をする必要はないし。
優子の記憶を手放すために書いていたこのブログも必要ないんだけど、とりあえず備忘録的に書いておくよ。

お正月は楽しかったよ。
年末には新婚のちゅけ夫妻を鍾寿館へ招待し、田村家先祖代々のお墓参りもしたよ。
年始には祐馬夫妻とじんと、由美の子ども達2人にルームメートも加え8人でワイワイ。
奥利根と宝台樹でもスキーしたし、家の薪と畑はだいぶ片付いた。

高山に来てもうすぐ5年。由美との生活もすっかり定着した。
両親を見送り、子どもたちもそれぞれ独立した。
大森を持ち続けている意味はなくなった。
二拠点生活はイイですよとか流行っているけど、維持するのは大変だよ。
高山に来てから、草津の家に泊まることはなくなった。
鍾寿館は温泉が湧き出る観光地で商売しているわけだから、手放すことはできない。
田村家の墓もいとこの徹はメンテをサボって荒れ放題。
鍾寿館も変わったよな。私が幼い頃、私の祖父が祖母を亡くした際に田村家のお墓をリニューアルした。その頃が一番栄えていたのかもしれない。時代の流れの中で伝統を維持するのは大変だ。徹も苦労しているのだろう。
大森の家は温泉が湧き出ない。家で商売してるわけじゃないから手放すことはできる。
ここは鍾寿館の次男坊だった父親が祖父に買ってもらった土地で結婚生活をスタートし、私が生まれ育った土地だ。筑波やロンドンで生活していた時期もあったが、結局は大森が私のベース、アイデンティティの一部だ。

昭和31年に私の両親は結婚し、大森で新居を構えた。
昭和32年に私が、34年に亮子が生まれ、4人の核家族が始まった。
父親は川崎市教育委員会、文部省、国立教育研究所と仕事を変えたが東京に住んでいた。
私が20代で筑波にいた頃、父親は上越教育大学へ転勤、10年ほどいただろうか、大森の家が空になった。私は筑波にもアパートがあったが東京での仕事もあり、筑波と大森の二拠点生活だった。
私が30歳で結婚し、翌年にロンドンに留学するまでの1年間ほど大森の古い家で新婚生活を送っていた。すでに結婚していた亮子と娘二人が大森の家に遊びに来た記憶もある。
私が3年間ロンドンにいた頃は両親が上越市と大森の二拠点生活だったように思う。この辺りの記憶も曖昧になってきた。
父親が定年で上越から大森に戻ってきたのと、私と優子がロンドンから帰国したのがほぼ同じ時だったか。両親が大森の家に住み、私と優子は隣ののんちゃんのビル(昔はローソンが、今は介護施設があるビル)の4階に住んでいた。その頃にちゅけが生まれた。
大森の家を二世帯で住む話になり、父親と私で折半して鉄筋コンクリート3階の家に改築した。当時のお金で8千万円だった。
子ども達が生まれ、優子が亡くなるまでの20年間、二世帯で7人が住んでいた。
子ども達が成長し、2階の子ども部屋にパーティションを作って3人のベッドと机を入れた。
優子が亡くなり、二世帯を隔てた鉄のドアは開いて「一世帯」になった。
ちゅけが北海道に、祐馬はオーストラリアに、じんが駐屯地に行っても、大森は帰る場所だった。
父親が大森の一階で亡くなり、後を追うように母親も亡くなり、1階のスペースは空になった。祐馬がオーストラリアから帰国し、2階の畳の部屋を使い、私が高山に移住して1階を診療所としてリニューアルした。
ちゅけと祐馬が結婚して大森に住み、じんが頻繁に「里帰り」し、私が月3日間1階で診療しているのが現状だ。

あの家を建てたのは私が36−7歳の時だったから、30年間ほど、私たちの「家」だった。
家族が増え、家族が減った。そしてまた家族が増えた!
私にとって、生まれ育ち、結婚に伴い立て直し、子ども達を育て、親を見送った家だ。
優子にとって、結婚して古い家に入ってきたけど、イチから新しくして生活を始めた家だ。
子ども達にとっては生まれ育った自分の家だ。
由美にとっては泊まったこともない、関係ない家だ。
子ども達のパートナーにとっては、結婚してとりあえず住み始めたばかりの家だ。
あの家は自分の人生そのものだったり、そんな大げさな思い入れなんかなかったり、温度差はある。

自分の身体の一部を手放すのは辛いんだ。
優子を手放すのに、ずいぶんと時間をかけて、ずいぶん苦労した。
でも手放すことで新しいものを得る。
優子を手放し、由美を得た。
大森を手放したから、高山村を得ることができたのかもしれない。でも、内心、まだ手放しきれていない気もする。

断捨離は大事だよ。
僕の机にある山積みの書類もどうにかしなくちゃいけない、、、