学生時代からの友人の娘さんが、急性の心臓病で亡くなった。一ヶ月足らずの闘病生活。その前には全然元気なふつうの高校生だったのに。
友人とは長年の家族ぐるみの付き合い。娘さんが幼い頃、一緒に泊り、BBQをしたこともあった。優子の葬儀にもいち早く駆けつけ、このブログも熱心にフォローしてくれた。そして今、彼自身のブログに悲しみを綴っている。
あの時と、立場が逆じゃないか!
二年半前を昨日のことのように思い出す。
優子を亡くした3日後からブログを書き始めた。そうせざるを得なかった。
まだ、悲しみが大きすぎて、自分の悲しみを、悲しみとして実感することができなかった。
自分の人生・存在にとって、とてつもない出来事が起きたらしいということは理解できた。
弔問客が来れば泣き、葬儀屋と打ち合わせをすれば泣き、それが終われば普通の顔をして子どもたちや応援に来てくれた友人たちと対応し、歯が痛くなったので歯医者に行ったり。
悲しいことは悲しいのだが、その時点で感じることができた悲しみは、大きな感情のかたまりから漏れ出してくるごく一部であり、じっさい、悲しみの全体がどれくらいの大きさなのかすらわからなかった。それがわかりはじめたのは1-2ヶ月くらい経ってからだったと思う。
気持ちが落ち込むのが怖くて、ぐいぐい、半ば強制的に気持ちを前に進めていた。
経済的に貧窮するわけではない。生活は前と同じように進んでいく。ちゅけの受験ももうすぐだ。祐馬の中学の制服も注文しなくてはいけない。たくさんの人たちに応援を頼み、支えてもらい、ブログを書きまくり、、、そういう姿を痛々しく見ていた人もいた。その人は10年前に奥さんを亡くした同僚だ。
今、友人を見ていて、同じように感じる。
津波のように押し寄せてくるであろう悲しみの塊に対抗するために、何が何だかわからないけど、今できることを必死にやるしかない。普段の活動性が先鋭化し、hyper-activeになっていた。
Tikiさん、大丈夫?ちょっと休んだら?
そんなまわりの声に耳を傾ける余裕もなく前に進んでいた。
そうするしかないんだよね。そうしないと、自転車が失速して倒れてしまうのが不安だった。
----
追伸⇒あの頃の気持ちを蘇らせてみた。
とにかく、未分化な、圧倒されるような感情の塊が胸の上に重くのしかかって苦しかった。
気持ちが重く詰まっていて、寝ようとしてもザワザワ心の中で何かがなびいて眠れない。
それをどうにかしたかった。絞れ出せばよいというのがセオリー。
少しでも楽になりたかったから、必死に絞り出していた。今から思えば、そんな危なっかしく焦らなくても良かったのに。でも焦るしかなかった。
気持ちを絞り出してみれば、それは誰にでも共感できる、純粋で、深く、大きな悲しみだった。泣きじゃくりながら、ブログや仲間や西魔女に受け取ってもらった。出してみれば、恐くも苦しくもない。単純に悲しいだけ。私にとっては、気持ちを感じるという出口を通過させる方が、溜め込んで抑え込むより楽だった。感情の便秘症。出してしまえば、なんのことはない。
でも、溜め込んでいたら、心がパンクしてしまう。それが怖かった。
Yuko. November 12th, 1963 to January 3rd, 2009. Died at the age of 45.
Send your message to lettertoyuko@gmail.com
Wednesday, June 29, 2011
Saturday, June 18, 2011
広尾のゴハン
おかしいなあ。
もう少し、危機感を持って時間の余裕を作れると想像していたのに。
クリニック開始後4日目。保健所に診療所開設の申請、ウェブ制作とインテリアの相談、そしてクライエントがふたり!
なんか十分に忙しかったぞ。
開設当初のbegginer's luckで、もう少し落ち着いてきたら凹むのか、このまま突っ走ってしまうのか。
子どもたち、よく来たね。パパのところ、居心地いいでしょ。電車の乗り継ぎがちょっと面倒だけど、慣れれば案外ちかいよ。サブのお部屋は空いてることがおおいから、勉強道具持って来ればいいじゃん。周りがそういうい雰囲気だから、けっこう集中できるでしょ。
まわりにはオシャレなお店がたくさんあるし。昨日は祐馬と広尾プラザ、今日はちゅけと六本木ヒルズのちょっと高級っぽい回転ずしへ。これからも、美味しいゴハンに連れて行ってやるよ。
パパは頑張るから、子どもたちも頑張れ!
Wednesday, June 15, 2011
クリニック初日
研究室開室おめでとうございます!
とても充実していて、すばらしいです。私もセラピーやワークショップ受けたいくらいです!
カウンセラーや学校の先生がたへの生涯教育みたいなワークショップがあるのもいいですね。
ありがとうございます。
昨日が初日。
先週は、内覧週間。みんなが来てくれてワイワイ騒いだけど、今日は予約もまだ入っていないので、事務員も呼ばず、私ひとりで仕事をしながら電話番。
2-3年前に開業した外科医の友人は、
そうそう、はじめは 負債がどんどん膨らみ、結構、辛いよ。みんな我慢が必要で、2~3年はダメなのが普通だときいています。窓辺を見ることばかりになるよ。
ともアドバイスしてくれたので、まあ気長に、焦らず、腹をくくるしかないかなと思っていたら、電話で2件の予約が入りました。さっそく、明日から患者さんが来ます。
でも、ふと弱気になるんだよね。
いつもは、その片鱗を隠し、強気でバンバン前に進むんだけど、本当にこれで良いの?
こんなに高額に設定して、患者さん来てくれるの?
もう始めちゃったから後には戻れないし、戻るつもりもないんだけど。
診察室の窓辺には立派な胡蝶蘭が5鉢も並んでいる。
「お祝いの物品は固くご辞退させていただきます。」って言ったのに、、、
みんな、どうもありがとう。。。
とても充実していて、すばらしいです。私もセラピーやワークショップ受けたいくらいです!
カウンセラーや学校の先生がたへの生涯教育みたいなワークショップがあるのもいいですね。
ありがとうございます。
昨日が初日。
先週は、内覧週間。みんなが来てくれてワイワイ騒いだけど、今日は予約もまだ入っていないので、事務員も呼ばず、私ひとりで仕事をしながら電話番。
2-3年前に開業した外科医の友人は、
そうそう、はじめは 負債がどんどん膨らみ、結構、辛いよ。みんな我慢が必要で、2~3年はダメなのが普通だときいています。窓辺を見ることばかりになるよ。
ともアドバイスしてくれたので、まあ気長に、焦らず、腹をくくるしかないかなと思っていたら、電話で2件の予約が入りました。さっそく、明日から患者さんが来ます。
でも、ふと弱気になるんだよね。
いつもは、その片鱗を隠し、強気でバンバン前に進むんだけど、本当にこれで良いの?
こんなに高額に設定して、患者さん来てくれるの?
もう始めちゃったから後には戻れないし、戻るつもりもないんだけど。
診察室の窓辺には立派な胡蝶蘭が5鉢も並んでいる。
「お祝いの物品は固くご辞退させていただきます。」って言ったのに、、、
みんな、どうもありがとう。。。
Sunday, June 12, 2011
ついに開業まで漕ぎつけた
開業、おめでとう。
だいぶ前から、ずっと言い続けてたよね。
そうなんだよな。
クラス会とか飲み会とか、昔の友人たちにはもう10年くらい前から言ってたかなあ。
私としては、 数限りある目の前の患者さんだけを相手にしているより、 大学にいて(新しい治療法を開発するなどで) その研究成果を社会に還元する方が、 より社会に貢献できるのでは?と考えて大学にいます。なので、 開業したがっていたオマエのことがちょっと不思議でした。
確かに、ふつうそう思うよな。
せっかく訊いてくれたから、少し整理して考えると、、、
★僕がやりたいことをできる大学じゃなかったから。
精神科の臨床、特にカウンセリング(心理療法) ってのが私のやりたいことなんだけど、 務めていた大学とはちょっとミスマッチというか。医学部とか◎◎ 学部の心理学科で、 臨床的な研究とか授業をやれれば結構マッチすると思うんだけど、教育学部でしょ。臨床とか治療とかはできないし、 教える授業も教員養成系だから、臨床系とはちょっと違うんです。 それに、会議とか委員会とか、いわゆる「雑務」 が年々多くなってきて、やりたいことができない! みたいな閉塞感を感じてたんでしょうね。
そりゃ、贅沢だ!と言われればそうなんで、研究内容・ 授業内容は任されているし、 自由に使える時間はたくさんあるから、 ミスマッチなんか気にせず、努力すれば、 自分のやりたいこともできるし、今まで、 ある程度はそうやってきたんだけどね。でも、やっぱり限界かな。
もっとやりたいことに集中したい!
やりたくないことはやりたくない!
本を読んだり、原稿を書く時間がほしい!
というあたりでしょうか。
★大学でなくてもできる。
じゃあ、 医学部や心理学科の大学なら辞めずにずっといたかというと、 どうかなあ??
僕の研究は、いろんな患者さんの話を聞いて、 いろいろ心理療法を試してみて、 経験的に成果をまとめるみたいな感じだから、 実験器具もいらないし、 若い頃やっていたアンケート調査みたいな基礎的研究もやめたし、 要するに患者さんと会う場所と、多少の文献と、 落ち着いて執筆する場所があればこと足りるんですよ。 科研費もずっともらってたけどPCとか出張旅費くらいで、 あまり使わないんですよ。
日本じゃ少ないけど、欧米では個人開業して、学会に出て、 臨床の本を書いている人もけっこういるからね。
5分診療で、たくさんの患者さんを診て、 たくさんのスタッフを雇って、病院を広げて、 ガッポガッポ儲けてみたいな消耗する拡大路線ではなく、 少数の患者さんをじっくり時間をかけて診て、 本を読んだり執筆する時間の余裕があって、 たくさん儲けなくても、 今の生活レベルが下がらなければ満足みたいなイメージなんですよ。 だから、保険は一切使わず、自由診療で1時間3万円なんですよ!強気でやってるけど、大丈夫かね?ホントに患者さん、来てくれるの?これから子どもたちが大学だよ。
まあ、 そういう危機感があれば一般向けの啓発書とか書けるかもしれない し。
★職人芸
私のやってることは、 新しい発見をするとか新薬を開発するみたいなことではなく、 心理療法だから職人芸なんですよ。外科の医者みたいに、 新しい治療手技に関する本や論文書いてみんなが救われるというよりは、「腕の良い先生」 を頼って患者さんがやってきて、 弟子たちに直接伝授してみたいな感じかな。そういう意味では開業したって弟子はとれるんですよ。だから、 HPにあるように、 いろいろ専門家向けセミナーとかスーパービジョンとかも考えてい るんです。だから屋号も「◎◎クリニック」ではなく、「 ◎◎研究室」にしたんですよね。
★社会に貢献する。
なんてことをだいぶ前から考えつつもダラダラ大学人をやっていて 、やっと転身する腰を上げたのは優子を亡くしたことですね、 やっぱし。
社会に貢献するって、 自分のやっていることが社会の人々の役に立つ、 つまり自分の存在意義を他者の存在を通して証明するみたいなこと じゃないですか。
私の分野は、精神的な危機を救うみたいなことですから、 私自身が精神的な危機から立ち直れた(役立った)のは、 薬を飲んだり、本を読んだりしたことではなく、 家族とか友人とか、カウンセラー(グリーフ・ カウンセリングを受けてるんです)の存在だったんですね。
うつ病とか統合失調症とか医学的病気としての精神的危機は薬で治 すけど、
喪失とかトラウマとか不登校・ひきこもりとか夫婦不仲とか、 私が関わる精神的危機は、身近な人との関係の中で生れ、 身近な人との関係の中で癒されるんだなと実感したんですよ。
私が本や論文を書いて、 数多くの人がフンフンと読んでくれて役立ててくれるのも良いなあ とは思うんだけど、
数限りある患者さんしか関われなくても、「苦しいのが治りました! ありがとう!」みたいな方が私にとっては「社会に役立ってる」 という実感を得ることができるんじゃないかなってね。
★定年後の見通し
65歳の定年後は、 体力の続く限り臨床に戻りたいなと思ってるんですよ。
65歳すぎてからよりは、 今のうちに基盤を作っておいた方が良いでしょ。
これで答えになってる?
-------
優子さんと一緒にオフィス探しを始められ、 良い物件にめぐり合えてよかったですね。
そうなんだよね~。
記録を振り返ってみると、具体的に動き出したのは、優子が亡くなるほんのひと月ちょっと前だったんですよ。自分でも気が付かなかった。
・2008年11月23日に優子と一緒に開業フェアみたいなのに行ったんですよ。
東京国際フォーラムの会場に、医院開業関連企業みたいなのがたくさんブースを出し、
これから開業しようとしてる医者が集まり打合せするわけ。
家を持とうとする人の住宅展示場みたいなもんだね。
開業とか僕はぜんぜんわからないから優子にもついて来てもらって、ふたりで見て回ったんだけど、いまいちピンとこなかったんだよね。医療器具とか、他の医院と重ならなくて人が集まる立地調査とか、看護師さん募集要領とか、僕の場合にはあまり関係ないことばかり。
今日、来ても収穫はあまりなかったね。これからどうしようかねえ。
なんて優子と昼ご飯を有楽町で食べながら相談していたことを覚えている。
その時点では、いつ開業しようかなんていう具体的なプランはなかった。
その2か月後に優子が亡くなり、開業どころじゃなくなった。
でも、記憶があいまいだけど、優子を失って3ヶ月後くらいには、具体的な時期を決心していたと思う。たしかリカちゃんにも話してたよね。
2009年度の新学期が始まり、まず学部長に話したんだ。人事関連はとても大変なことはよくわかってるから、早めに伝えとかないと大学に迷惑をかける。今年度、そして来年度の末に辞めさせてもらいますと、2年間弱の余裕をもってお伝えしたんだ。でも、その時点では学部長、どうせ妻を亡くしたショックで変なこと言ってんだろうみたいに思ってたんじゃないかな。
その秋には、一番近くで仕事をしている同じ分野の准教授に意向を伝えたら、とてもびっくりして、そんな~、絶対やめないでくださいと懇願されました。確かに僕の抜けた穴によって一番影響を受けるのは彼女でしょう。どうも済みません。
で、2010年度の新学期になり、学科会議で「辞めま~す!」とオープンにしたんだ。
さあ、具体的に動き出そう、と思ったけど、何から始めていいかよくわからない。
オフィス引っ越しのコンサルタント会社3つくらいと相談し、学生時代の友人の税理士さんとも相談したけど、そんなに急ぐ必要もないことがわかった。
忙しくなったのは2010年の暮から。
物件探しを始めた。不動産屋が見つけてきた物件を見て回り、20件くらい見た段階で、今の物件に決めて。
それから、契約(これも結構面倒で時間がかかる)、内装のプランニング、設計、そして工事。
仕上がったのが5月末で、今週が内覧会。来週から開院!
なんか、長いようで短い道のりだったなあ。
ついにやっちゃったよ、優子。
優子がいなくたって、できたぞ。
でもまあ、よりによって優子の喪失で人生一番つらい時期に、人生一番大きな転換期をぶつけなくたって良かったのに。
開業プランはもう少し塩漬けにして、2-3年引き延ばしても良かったのに。
そう、そうしても全然かまわなかったんですよ。
でも、心情的には、優子を失ったからこそ、今、動かざるを得なかった。動きたかったんでしょうね、きっと。
だいぶ前から、ずっと言い続けてたよね。
そうなんだよな。
クラス会とか飲み会とか、昔の友人たちにはもう10年くらい前から言ってたかなあ。
私としては、
確かに、ふつうそう思うよな。
せっかく訊いてくれたから、少し整理して考えると、、、
★僕がやりたいことをできる大学じゃなかったから。
精神科の臨床、特にカウンセリング(心理療法)
そりゃ、贅沢だ!と言われればそうなんで、研究内容・
もっとやりたいことに集中したい!
やりたくないことはやりたくない!
本を読んだり、原稿を書く時間がほしい!
というあたりでしょうか。
★大学でなくてもできる。
じゃあ、
僕の研究は、いろんな患者さんの話を聞いて、
日本じゃ少ないけど、欧米では個人開業して、学会に出て、
5分診療で、たくさんの患者さんを診て、
まあ、
★職人芸
私のやってることは、
★社会に貢献する。
なんてことをだいぶ前から考えつつもダラダラ大学人をやっていて
社会に貢献するって、
私の分野は、精神的な危機を救うみたいなことですから、
うつ病とか統合失調症とか医学的病気としての精神的危機は薬で治
喪失とかトラウマとか不登校・ひきこもりとか夫婦不仲とか、
私が本や論文を書いて、
数限りある患者さんしか関われなくても、「苦しいのが治りました!
★定年後の見通し
65歳の定年後は、
65歳すぎてからよりは、
これで答えになってる?
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優子さんと一緒にオフィス探しを始められ、
そうなんだよね~。
記録を振り返ってみると、具体的に動き出したのは、優子が亡くなるほんのひと月ちょっと前だったんですよ。自分でも気が付かなかった。
・2008年11月23日に優子と一緒に開業フェアみたいなのに行ったんですよ。
東京国際フォーラムの会場に、医院開業関連企業みたいなのがたくさんブースを出し、
これから開業しようとしてる医者が集まり打合せするわけ。
家を持とうとする人の住宅展示場みたいなもんだね。
開業とか僕はぜんぜんわからないから優子にもついて来てもらって、ふたりで見て回ったんだけど、いまいちピンとこなかったんだよね。医療器具とか、他の医院と重ならなくて人が集まる立地調査とか、看護師さん募集要領とか、僕の場合にはあまり関係ないことばかり。
今日、来ても収穫はあまりなかったね。これからどうしようかねえ。
なんて優子と昼ご飯を有楽町で食べながら相談していたことを覚えている。
その時点では、いつ開業しようかなんていう具体的なプランはなかった。
その2か月後に優子が亡くなり、開業どころじゃなくなった。
でも、記憶があいまいだけど、優子を失って3ヶ月後くらいには、具体的な時期を決心していたと思う。たしかリカちゃんにも話してたよね。
2009年度の新学期が始まり、まず学部長に話したんだ。人事関連はとても大変なことはよくわかってるから、早めに伝えとかないと大学に迷惑をかける。今年度、そして来年度の末に辞めさせてもらいますと、2年間弱の余裕をもってお伝えしたんだ。でも、その時点では学部長、どうせ妻を亡くしたショックで変なこと言ってんだろうみたいに思ってたんじゃないかな。
その秋には、一番近くで仕事をしている同じ分野の准教授に意向を伝えたら、とてもびっくりして、そんな~、絶対やめないでくださいと懇願されました。確かに僕の抜けた穴によって一番影響を受けるのは彼女でしょう。どうも済みません。
で、2010年度の新学期になり、学科会議で「辞めま~す!」とオープンにしたんだ。
さあ、具体的に動き出そう、と思ったけど、何から始めていいかよくわからない。
オフィス引っ越しのコンサルタント会社3つくらいと相談し、学生時代の友人の税理士さんとも相談したけど、そんなに急ぐ必要もないことがわかった。
忙しくなったのは2010年の暮から。
物件探しを始めた。不動産屋が見つけてきた物件を見て回り、20件くらい見た段階で、今の物件に決めて。
それから、契約(これも結構面倒で時間がかかる)、内装のプランニング、設計、そして工事。
仕上がったのが5月末で、今週が内覧会。来週から開院!
なんか、長いようで短い道のりだったなあ。
ついにやっちゃったよ、優子。
優子がいなくたって、できたぞ。
でもまあ、よりによって優子の喪失で人生一番つらい時期に、人生一番大きな転換期をぶつけなくたって良かったのに。
開業プランはもう少し塩漬けにして、2-3年引き延ばしても良かったのに。
そう、そうしても全然かまわなかったんですよ。
でも、心情的には、優子を失ったからこそ、今、動かざるを得なかった。動きたかったんでしょうね、きっと。
Saturday, June 11, 2011
弱い部分を見せる
Tiki, 復学おめでとうございます。
> じゃあ、陰の部分、弱い部分はこっちの優子ブログ。
> じゃあ、陰の部分、弱い部分はこっちの優子ブログ。
> 偉そうな、強そうな、生意気な部分は表のブログ。
> という風に使い分けます。
> 表のブログにも、こっちにリンクを貼ろうと思ってるから、 私のことをディープに
> 知りたいクライエントさんも、 やがては知ると思うんですけどね。
この部分読んで思ったんだけど、
でも、
それにそんなに弱いこと書いているって言う印象は、
だから、Tikiのブログって私にとって無料セラピーなのよ♪。
アンジョリーナ デラックス
いやあ、このあたり種を明かせば良い意味での職業病でもあるんですよ。
精神科医になってから、自分の内面を見つめ、自分が思い込んでいる「弱さ」の部分を表出するトレーニングをスーパーバイザーとの一対一、あるいは数名のグループの中でさんざんやってきたんですよ。まず安全な場で自分を見せて楽になる体験をしたら、心理的便秘症で悩んでいるクライエントさんへの治療に応用しているわけ。
誰だって、ダメな部分&マトモな部分の両方を持ち合わせているんだけど、ダメな部分は辛いから隠して、自分はマトモなふりをします。でも、本当は違うんだウソなんだってわかっているから、かりそめのマトモさに何となく自信を持てず、不安を抱えつつ生きています。
アンジョリーナさんのおっしゃるように、自分でそう思っているだけで、人から見れば対して弱くもない普通のことなんですよ。あくまで自分の中での主観的な弱さ。しかしそのパラドックスは、それを思い切って表出できたら、弱さを見つめることができる強さに変換されちゃうんですね。
でも、こうやって言葉で説明してもぼんやりとしかわからないでしょ。このあたりが、私のセラピーにおける基本的な考え方なんです。実際に体験してみたら、ああ、Tikiはこのことを言っていたのね、と目からウロコになりますよ(笑)。
私も一番初めに体験した時は、「愚痴ばかりこぼして、ビービー泣いて、バカじゃねえの!?」なんて思いましたもんね。
でも、こう言うのもナンですが、日本の精神科医やカウンセラーで、ここまで掘り下げる人は少ないのかもしれません。いえ、日本人がダメというのではなく、日本の臨床トレーニングでは、こういうことをできる機会がとても限られているんですよ。私の受けてきたトレーニングの大部分は欧米なんです。Judeo-Christian系文化では、「神に対峙する個」という背景があって、教会で懺悔したり、教育分析で自己分析したり、自分を見つめ突き詰める習慣があるんですね。それがうまくいけば、「アメリカ人って個人主義が徹底していて、芯が強いわよね」ということになります。そういう習慣のない我々の間では、なんか感心されちゃうけど、欧米風の文化でマトモに生きていくために必要なことなんだと思います。
日本の集団性は崩壊し、集団の中で自分を守るイワシ的社会から、ひとりひとりがバラで生きていくサメ的社会に転換しつつあるように見えるけど、実はイワシがバラバラになっただけに過ぎないのかもしれません。傷ついたイワシを救うには、
集団に戻してやる⇒家族関係の復活、サポートネットワークの強化、保護された環境(病院とか)の整備
というのが、日本的な解決策だけど、私としては、
イワシ⇒サメに成長させる
というあたりも大切だと思うんです。それは、硬い鎧を着せ、外側から守るのではなく、身体の内部から骨や筋肉を強化する。そのためには多少きつい筋トレが必要になります。それが男のメンタル・トレーニングなんですよ。いや、女性でも良いけど(笑)。
なんか、比較文化にまで話が発展しちゃって、JASCやってるみたいですねえ(笑)。
つまり、僕にとって優子に向き合い、自分に向き合う作業は、悲しみが色あせても決して終わることのできない、自分にとって必要なことで、それを見てくれているアンジョリーナさんなんかに支えられているってことなんですよ。
Wednesday, June 8, 2011
当たり前の人生と内覧会スタート
28年前の創設以来、イギリス留学中の3年間を除いてほぼ毎年欠かさず参加しているこの学会には、長年の知り合いが多い。昨晩は懇親会と、その後の二次会で旧交を温めた。
「大学辞めて、開業するんですよ!来週から!」
新しい名刺と挨拶状を手渡すと、みな一様に驚く。
「えっ、それはすごい決心だったでしょう!!」
そう言われれば、そうなんだけど、私自身としては、そう大層な「決心」のつもりではないのですが。
Q) じゃあ、なぜ転職したの?アブラの乗りきっている50代でしょ。まだまだ若いのに?
別に、若いつもりでもないし、かと言って、年とったつもりでもないし。
・職場で不祥事を起こしたとか、上司とケンカしたとか、うつ病になって仕事に出て来れなくなったとか、今の職場に居られない事情があるの?
⇒というわけでもないし。
・最近、一部で流行っているdown shifter?
⇒人生=up gradingという高度成長時代に対するアンチテーゼというほど大げさではないが、確かに、大学教授⇒開業医は一般的に見ればダウンシフトなのかもしれない。働き過ぎ・もうけ過ぎを回避し、余裕ある本来の生活を取り戻す。そういう面もあるかもしれないけど、ちょっと違うんですよね。
もう、10年くらい前から、なんとなく精神科の臨床に戻りたいとは漠然と思っていた。研究や若い学生に教えるのは楽しいし、決してストレスが大きな仕事ではない。このまま65歳の定年まで勤め上げても、全然構わないが、本当に満足できる仕事かとは言えない。今まで、週1回、クリニックで診療していた。私の専門性を本当に生かせるのは大学での教育・研究ではなく、精神科の臨床なんだ。それは、前々からわかっていた。65歳で転身するよりは、50代で新しい道のルートは切り開いていた方がいいだろう。そんな風にも思いつつ、あえて転職するincentiveは持ち得なかった。
やはり、直接の誘因は妻を亡くしたことでしょうね。
この2年半、悲しみに直面し、乗り越えてきた作業の一部、、、という意味ではない。
妻を失うまでは、自分の人生は「当たり前」に過去・現在・未来と繋がっていた。
やがては仕事も人生も終末を迎えることはわかっていても、そのことは先延ばしにして、今は考えなくても良いことだった。
妻を失った体験は、被災地の体験と似ている。
当たり前に存在し、その存在に疑問の余地を挟む必要もない自分の一部が、突然、いとも簡単に失われてしまう。それを実感してから、自分の人生が当たり前ではなくなってしまった。
----
これ、二日前に下書きして、表のタム研ブログの方に投稿しようと思ってたんだけど。。。
昨日から内覧会が始まった。
いよいよだ~~!
火曜日から土曜日までの5日間。
初日は19人が来てくれた。
ずっと前の知り合い、ちょっと前の知り合い、そして現在の知り合い。
僕は、人との交流によってエネルギーがもらえるんだよね。
夜は学生時代の悪友としこたま飲んで、二日酔い状態。
肝臓には悪いが、気持ち的にはエネルギーをたくさんもらった。
あのさぁ。先生のブログだけどね。
読む人の立場からすれば、先生は尊敬する人でいてほしいと思うよ。
自分のことを相談するんだから、ちゃんとわかって聞いていてくれてい、しっかりした人じゃないと。
失敗とか、弱い部分とかは、会った時、話の中で語ればいいんだし。
表向きには偉そうにしていた方が良いかも。
う~ん、なるほど。そうかもね。
人間、強い部分と弱い部分があって、弱い部分を隠しているから心がおかしくなっちゃう。弱い部分も語って良いんですよ。ほら、私だって弱い部分はあるんだから。
ということを伝えたくて、自分の弱い部分もさらけだしてるんだけど、ちょっとやりすぎかね。
初めて私に会う人が、弱い部分から先に知っちゃったら良くないか。そんな人に、自分の話なんかしたくないよね。
じゃあ、陰の部分、弱い部分はこっちの優子ブログ。
偉そうな、強そうな、生意気な部分は表のブログ。
という風に使い分けます。
表のブログにも、こっちにリンクを貼ろうと思ってるから、私のことをディープに知りたいクライエントさんも、やがては知ると思うんですけどね。
それとも、あまりリンクしない方が良いかなぁ??
偉そうな部分だけで澄ましてる?
どうでしょうかねぇ?
いちいち、悩んでます。
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