4日前の仲間の告別式だってそうだったよ。喪主である奥さんのご挨拶は素晴らしかった。でも参列者からのすすり泣きにはとても違和感を感じたよ。2年前、あの祭壇には優子の写真がはまり、あの席には僕が居たんだ。信じられないけど、そうだったんだ。
僕も一生懸命、式をアレンジしたよ。泣いている場合なんかじゃなかった。参列者への感謝の気持ちも込めつつ、今の自分の気持ちを必死に来てくれた人たちに伝えようとしていた。泣くなんて、そんな状況じゃないんだよ。
まさこさん、何度かゴルフコンペでご一緒したTikiです。3ヶ月たち、いかがですか?式のお姿は素晴らしかった。まさこさんの気持ちがとてもよく伝わってきましたよ。でも、私を含む参列したほとんどの人にとって、彼のことはすぐに過ぎ去った過去になってしまうんです。私だって、彼とは年1度のコンペと、たまにキャンパスですれ違ってニコニコあいさつを交わす程度の関係でしたから。そうやって、集まった人たちは自然に散っていきます。それはそれで良いんですよ。いつまでも捕らわれているのは自分だけでいい。子どもたちには前に向かってほしいから。
周りの人たちはとても助けてくれますよね。でも、心の一番奥の部分は空席のままなんです。それはしかたがないこと。そのことを認めて、受け入れることができたら、だいぶ楽になりますよ。私は、精神科のお医者もやってるから、何かお力になれることがあったら遠慮なく言ってください。(3ヶ月後に出す手紙の下書き)
ずっと優子のことを考えていたわけじゃない。
X-day以前は、そばにいることが当たり前だし、一緒に子どもたちを育て、押し寄せてくる課題を目まぐるしくこなしていた。家族を作り、維持するための道具としてのパートナー。愛情の対象としての優子は、日常生活の間隙を縫うように、あえてお膳立てする意図的な瞬間だった。居るのが当たり前という安心感で満たされているから、それで全然かまわなかったし、それ以上深める必要もなかった。いなくなったから、こんなにしつこくいつまでも優子のことを考えてるんだ。
一緒に居れば、そのことが当たり前になり、それ以上思わなくなっちゃう。過剰な安心感は廃退に繋がる。それがイヤなんだよ。
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